沓掛時次郎 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第11巻〉
57件見つかりました。

1. 長谷川伸全集〈第11巻〉

318 同所には時次郎饅頭というのが出来ていて、名物になっ ている。私の手から故沢田正二郎と故十五世市村羽左衛 門の時次郎の全紙の写真を贈った、沢田正二郎のは新国 劇がそのために拵えてくれたもの、羽左衛門のは歌舞伎 座上演 ( 昭和九年八月 ) 記念に、金泥でサインして私にく れたのを贈った。又、新国劇の島田正吾の時次郎の同様 の写真も贈った、いずれも沓掛の長倉神社にあることと 思う。その外に長谷川一夫と大河内伝次郎と市川寿海 と、その外に贈らねばならぬ幾人もの「沓掛時次郎」の 写真があるのだが、まだ果していない。 ( 昭和三十年二月 ) 今でも私はときどき放送各局から、「沓掛小唄」が放 送されたからとて、二百三十八円又は百七十円 ( 税引き ) 版権料を年に二度ぐらい貰う。その「沓掛小唄」とは日 活が昔大河内伝次郎、酒井米子主演で撮った映画『沓掛 時次郎』のとき、頼まれて作った歌詞で、当時ひどく流 行したものである、が今これを放送されるのを二度ばか り聞いたところでは、情感が以前の円盤にあるのとは違 っている。作曲奥山貞吉、歌手川島仟、曾我直子、伴奏 帝国ホテルオーケストラ、と、こう書くと時の流れが説 明ヌキで、古い人にだけ判るだろうと思う。 意地の筋がね、度胸のよさも人情搦めば涙癖、 渡り鳥かよ、旅人ぐらし、あれは沓掛時次郎。 来るか時節が、時節はこずに、けさも抜け毛が数を ます、 今度の浮世は男でお出で、女とかくに苦労がち。 月よものいへ、姿を写せ、ただ照るばかりぢや、罪 つくり、 泣いた別れは忘れも出来よ、なまじ泣かぬが命取・ 釞千両万両に、まげない意地が、人情からめば弱くな る、 浅間三筋の煙りの下で、男、沓掛時次郎。 この外に二章あったのだが、円盤に入れるとき除いた ( 昭和三十年二月 ) ので、それなりけりである。

2. 長谷川伸全集〈第11巻〉

さんしゆく いう名にするのだ、浅間の三宿といって軽井沢・沓掛・追分郎が舞台では、俺あ沓掛の時次郎さとちゃンと改名してい とあるのだが、沓掛に似せるなら軽井沢か追分が沓掛の両たそうである。このとき徳次郎ならぬ時次郎をやったのが 隣りだがというと、軽井沢は語呂がわるいから追分がいし 大谷友三郎といった頃の伊井友三郎で、このためか長谷川 しくじ と思いますと、追分七五郎となったのである。もう一ツの先生を僕は縮尻っているといったことがあるそうだ、そん 正面から名乗った方のは、だれがどこで作ってやらせたのなことはない、あのテの芝居興行では責任は興行者だけに か知らない。その外に「浅間三筋の煙の下・男旅人時次郎」ある。 げだい というのがあるそうである、外題に現れた好みからいうと これも私は見ないで受売りの話だが、丹下左膳と沓掛時 浪花節芝居用のものらしい。それとおなじ物かどうか見な次郎が決闘をする、そこへ丸橋忠弥が仲裁にはいるという いので知らないが「旅人徳次郎」という偽作本を浅草で上のがあるという、それから又、田舎レビューで沓掛時次郎・ というのがあるそうである。 演したいから黙認してくれと、昔は吉原の楼主で有名な小 林弁洲がやって来た、沢田正二郎が初演してから中一年た 蛯原八郎という明治文学の研究家が、或る夏、軽井沢で った初夏だった。弁洲が使者に来たのでは私も手ごころし持って行った仕事が終ったので、ふと思いついて、勿論そ なくてはならない、私の旧友が二、三人、全盛なころの彼れは面白ずくからだろうが、沓掛へ行って時次郎の事実探 の世話になったことがあるので、「旅人徳次郎」というか 究をやったところ、何もない、八十歳以上の老人を片ッ端 らは違うということなのだから、僕は黙っていてあげるとから訪ねて聞いたがだれも知らない、そのうちに一人のお いった、ところがその興行部の宣伝係が、これは『沓掛時やじさんが、知っている知っているその男なら昔ここを通 って行ったねと、大真面目で答えたという。サゲがついて 次郎』を改作した「浅間三筋の煙の下・男旅人時次郎」 ( 昭和二十七年四月 ) ( 浪花節芝居好みらしい方は徳次郎、こん度は時次郎 ) と、ネタ を割って通信したのが新聞に出た、ここで私がむかッ腹 ろを立て、弁洲を対手にしては気の毒なので、その興行部の 「沓掛時次郎の碑」が長野県北佐久郡軽井沢町沓掛の曇 ぶ大将に上演不同意と捻じ込んだ。結局このことは先方が私 材なそよりは場慣れているので、外題を「渡り鳥旅人姿」と倉神社境内に、地許の人々の発企で建てられ、昭和二十 九年五月十六日除幕式が行われた。私は病疾のため参列 し、主人公を徳次郎と改名して、弁洲が詫びに来てお終い ひと になってしまった。他人の話では、番組にある役名の徳次しなかった。碑には私の「沓掛小唄」が刻まれてある。

3. 長谷川伸全集〈第11巻〉

194 刀にしてやった、これはよきでこそよいので刀ではいけよ いた私と女房とは、放送半ばには泣いていた、私の知る限 くら 、こういう不許可を食ったときは作者はだれよりも当惑りでは放送で、あんな悲壮な、触れなば火が出そうな声々 する。 を聞いたことはなかった。今日、旺盛な新国劇をみるにつ 話が前後するが、寿三郎氏で思い出したことは、「股旅け、そのときのことがまざまざと思い出されてくる。 ( 昭和八年十二月 ) 草鞋』を浪花座で出したときの初日に、大詰屋根の上で、 大矢市次郎氏の飯富の勘八が大親分の慈悲心を滲み出さ せ、「馬鹿ツ」という台詞をいうと、寿三郎氏の富五郎が 本当に涙をハラハラと落して台詞がいえなくなった。それ を見た人からこれは聞いた話である。 昭和四年という年には、偽作の『沓掛時次郎』が出始 め、東京でやるときはさすがに名が変わり、地方へ行くと 「沓掛時次郎』と化ける、まことに妙なものであるのを発 見した。 この月に特記することがまだあった、それは十二月興行 に新橋演舞場で、悪戦苦闘して漸く帰京してきた新国劇 が、島田正吾氏に「関の弥太ッペ』を主演させたことだ、 これは新国劇の俵藤丈夫氏が、辰巳柳太郎氏の今日をつく りあげさせたと同じき同氏の果断のたまものだった。この 興行に於ける久松喜世子氏はじめ大幹部が、必死に島田君 に成功を持たせようとした努力と、島田君自身の死にもの 狂いの姿が、今でも私の記憶に鮮やかだった。 新国劇といえば、そのころ重々の悲運にうち挫がれ、壊 滅するものと世間からみられているとき、やっと獲た の放送白野弁十郎』を、レシー ーを耳にあてて聞いて

4. 長谷川伸全集〈第11巻〉

両手を開く科を工夫した、こうやると万歳といわなくてもの異彩であったらしい、そこへもってきて『掏摸の家』が 好評だったので、どうでも『舶来巾着切』を書いてくれ、 効果が充分に出るのだった。 『沓掛時次郎』などは厭だということになったのである。 そのときの配投を抄録しておく。 八木原庄吉 ( 故伊井蓉峰 ) その女房 ( 村田式部 ) 弟 ( 瀬一尸これが私には幸いとなった、というのは木内氏が『沓掛』 日出夫 ) 声色屋 ( 大矢市次郎 ) 掏られる男 ( 菊波正之助 ) は望みでないと返辞してきたその日だったかその幾日後だ ったかに、名古屋興行中の沢田正二郎氏から電報で「沓 その妻 ( 川島柳峰 ) 掛』上演の予約申込みがあった。雑誌にはまだ序幕だけし か発表されていないときだった。 合作の失敗 その年十二月に沢田氏によって「沓掛時次郎』が上演さ れ、非常な評判を博したことが、前々から何度も奮起して 「舶来巾着切』二幕七十二枚は、第一次司大衆文芸』に書挫折しそうになりがちだった私に、劇作に運命を賭ける確 いた小説を自分で脚色したもので、『週刊朝日』に載せて固たる信念を結びつけた。 もらった。この戯曲が俳優に箝めて書卸してくれという依それは後の話として、『舶来巾着切』はその年の八月、 頼を受けた最初のものだった。そのころそういうことに自新橋演舞場で木内氏が興行したもので、演し物は耽綺社同 人合作の『無貪清風』三幕、広津和郎氏の『妻』、中村吉 信がまだ持てなかったので、一応も二応も辞退し、終いに は『騒人』で前半だけ発表した『沓掛時次郎』を上演した蔵、大関柊郎両氏の「原敬』三幕と私の『舶来巾着切』一一 方がいいのではなかろうかとまで云ったが、何でも彼でも幕という並べ方だった。 「巾着切物」がいいというので昭和三年七月、二日間で書司無貪清風』というは、日蓮宗の一派である仏立講の開祖 日扇上人の舞台化で、仏立講と木内氏とを結びつけ、その 何故そうまで「巾着切物」を望まれたかといえば、 台本製作を耽綺社に持込んだのは、土師清二氏提唱によっ っその頃、私は小説で幾つかの「巾着切物」を発表してい 掻た、『サンデー毎日』に書いた物の一ツなどは故芥川童之てその頃既に耽綺社同人となっていた平山芦江氏だった。 それより先に耽綺社同人は、故小酒井不木氏が喜多村緑 耳介氏の記憶に残ったらしい話を、斎藤童太郎氏の随筆で後 郎氏に拠って、名古屋の新守座に於ける木内氏の興行に に知った。 それやこれやで、その時分は、私の「巾着切物」が多少伊井蓉峰氏と喜多村氏とが主役の台本製作を引受け、寸楽 、 ) 0 しぐさ

5. 長谷川伸全集〈第11巻〉

491 素材素話 八月の某日 ( 昭和三十一年 ) 新国劇に書ける『七九六名収容』 ( 七十五枚 ) の本読みの ため、主演の島田正吾君が演出の村上元三君と迎えに来て くれる。歌舞伎座三階の楽屋にゆき本読みを自分でやる。 そのアトで別室で演出者、主演者と、大道具、照明の人々 と語り合い、すでに出来ていた舞台装置の案を、ほとんど 更新してもらうことにする。 京都の竹内長正さんという方から礼状。竹内翁は研屋辰旅興行を続けていた新派演劇の座長今枝恒吉が、越後新 おおとりざ 次が討たれしときの讃岐羽床の名主竹内伝左衛門長安五世潟市の確か大鶏座か何かで興行中のこと、「新潟市の人は の孫で、過日、研辰について問うてこられ、それにお答え新潟が生んだ勤王家竹内式部を忘れている」と義憤し、新 したからなり。長正翁はかっての琴平電鉄社長の由。 潟市役所に談判を持込んだが、あッさり蹴られてしまっ 思いがけず無声映画『沓掛時次郎』をテレビにて見た。時の市役所は竹内式部の新潟出生説を唱うる、同地の る、時次郎 ( 大河内伝次郎 ) お絹 ( 酒井米子 ) なれば、『沓掛』鈴木長蔵の言に耳傾くることをすらしなかったのだろう。 映画最初のものにて、「沓掛小唄」を作れるときにてもあ 今枝はそこで独カ建碑を発願し、各地で興行して得た金 れば、古きかなや昭和四年秋の封切なり。画面また夢の如で、同地入舟町にある入舟地蔵尊境内に「維新柱石贈正四 ( 二本榎の家にて ) 位竹内式部君碑」を建てた、明治三十五年四月二十九日の ことである。その碑は現存している。 「新潟恋しや白川様の松がみえますほのばのと」とうたわ れた伝説の、越の千本松原の名残をとどむる、老松のある てんがく 白山公園に、徳大寺実則公の篆額、星野恒博士の撰文で、 立派な碑が建てられ、百五十年祭典とともに、萩野由之博 芝居世事噺 今枝恒吉

6. 長谷川伸全集〈第11巻〉

『沓掛時次郎』という私の作品は、四百字詰の紙にかいて 六十二枚、幕数が小幕といって僅々十五分ばかりの一幕も 入れて三幕物。早いもので、あれを書いてから早くも十年 を数える。 私の劇曲には、旅という文字が多くつかわれるそうで、 かぶ 主人の時次郎の名に冠らせた沓掛は、信州の沓掛であ そう云われるとそうに違いない。 「股旅草鞋』『旅の風来坊』『旅の者心中』『岩太郎旅日記』る。ただ信州沓掛といったのでは、ど 0 ちの沓掛だか判ら 二人旅一一人旅』『討たれの旅』『直八子供旅』みんな旅とない。現行のいい方でいえば、一つは、長野県北佐久郡東 いう文字をつか 0 ている。旅とあからさまに謡わないで長倉村大字沓掛、もう一つは長野県小県郡青木村大字沓掛 も、旅を意味した題名はというと、こいつが又やはり少くである。私のつかったのは前者、後者は温泉のある沓掛で ない。『筋交い道中』『雪の渡り鳥』「白鷺往来』『大政小ある。もっとも前者の沓掛にも温泉がある。星野温泉とい 政道中日記』「星の夜渡り鳥』なぞというのがあり、『駕籠う、後者は地名をそのまま沓掛温泉。但し、時さんは温泉 人力車』『夜の二等車』も、旅を意味していないことはなの方の沓掛に用がない。 沓掛という地名で、多少でも馴染みのあるものといえ 題名は旅の意味をもたないが、内容の中に、旅が扱われば、義太夫で今もやる「沓掛村の段」の沓掛だ。この沓 ているものはというと、こいつも多い。カンだけで多いと掛は伊勢道中の沓掛で、現行のいい方をこれにも用ゆれ いっていないで、試みに座右の目録をひらいて、出たとこば、三重県鈴鹿郡坂下村大字沓掛である。「坂は照る照る 跡ろ勝負で、昭和九年中に作った十二篇の劇曲でみると、十鈴鹿は曇る町の土山雨が降る」という、有名な郷土唄は、 の この辺で作られ唄われた。ところで、何が「沓掛村の段」 二篇が旅に関聯している、全く、我ながらどういうモノか 旅 だ、、沓掛の時さんとおなじ地名の誼みもあり、ちょっと と田 5 、つ。 そういうことから思いついて、自分の作品「沓掛時次添書きをすると、近松門左衛門に「待夜の小室節』という あわ 郎』に関し、かねてからある雑抄と急仕込みの材料とを併佳い作品がある。改題して『丹波与作』という。これを後 『沓掛時次郎』雑考 せ、少しばかり随筆してみる。 くつがけ

7. 長谷川伸全集〈第11巻〉

316 蔵となっていた。 だものだが、その喜び方にはプラットホームをトラホ 本庄へはいった三代目正蔵が、聞きあわせてみると、往ム、ポストをベストと覚え違った人のことはどではない 年の乳呑み児が荒物屋の跡取り娘になっ、ているのが判った が、幾分かはそれに似た面白さをもって喜んだのである。 ので、訪ねてみると娘は聞いて知っていたのだろう、板の今は少し違って来ていて、若くみえても老いていた江戸ッ 間へ手をついてホロホロ落涙した。 子のチャキチャキを以て任じているあの人は、ロに出て米 以上が私が聞いて驚奇した『沓掛時次郎』の類話の全部言葉の当不当なそは頓着なく、い わんとすることをいう である。類話といえば、あの芝居は俺のことをタネに書い天衣無縫さだったのだと思うようになった。辞句に拘泥せ たのだという者があると、二、三度ならず伝え聞いたことずに意を伝えて明確だということは、あれはお前あれなん がある。本当にそう思うようなことをして来たので、そう だというのに対して、そうか判ったと判ってしまう江戸市 いうのだったとしたら、類話は三代目正蔵のことのみなら井風の会話の一ツの現れなのだろう。話は逸れたが、欠点 ずとなるのだが、本気か座興かで、嘘を吐くものがあるのはあっても最初の物の方がいいようであるので、再刊本を で、真偽のほどは判りかねる、しかし私には前にいった徳つくるようなことが後々にあっても、この増補本はとらな ときぬのことがあるので、こうした事実は私どもが生きて いでもらうつもりでいる。それともう一ッ喧嘩場 ( 九枚 ) を いると同時に、生きている人々の中で一ツや二ッというこ増補したものがある、昭和十一年に新国劇で島田正吾主演 とはあるまい、という考え方をしている。 用のものだったが、どこかで一、二度やっただけである。 これも矢張り増補の弊を免がれないものだろう。 地方専門の芝居に伝わっている『沓掛時次郎』が幾種類 市村羽左衛門がどうしても「沓掛時次郎』をやるといし もある、そのうち一ツは、『追分七五郎』 ( 土田新三郎 ) だ かいぎん 出し、それが実現したとき頼まれて増補した物が別に一本 : 、だれかが写して『沓掛時次郎』にしたのが改竄したり くちだて ある、昭和九年六月に書いて、七月興行の歌舞伎座でやっロ立になったりで、それぞれに多少の違いが出来たもの。 た、この興行は大当りで、羽左衛門日く、歌舞伎座の補助もう一ツは正面から『沓掛時次郎』と名乗った或る人の偽 椅子が足りなくて、明治座の補助椅子をトラングではこん作である。土田新三郎のは当人がやって来て、『沓掛』の だ、それでもまだ足りぬとさ、と。トラックとトランクと偽せ物を書くと金になるから黙許してください、その代り 誤まったのが市村さんらしくていいなと、その頃は喜ん主人公の名は違えますという、 いいよ儲けな、しかし何と

8. 長谷川伸全集〈第11巻〉

前の不入りと正反対で連日満員を続け、見物は初日からう、かに『沓掛時次郎』をやると決め、極めて短時日の ぎやくて 『キリスト』の開幕に先立って出揃っているという歓迎ぶ稽古だけで初日を開けた、これが逆手の運用というような りだった。『キリスト』との取合わせに初演された私のもので、成果を挙げることになった。そのころの私は、井 「沓掛時次郎』は、本来は外の物が出る筈だったのが急に上正夫一座による『世に出ぬ豪傑』が昭和元年十二月に浅 上演ときまって、初日までに一週間しかない、そういう中草松竹座で、謂うところの処女上演の外に、数は七本演 で稽古をやったのだと聞いている。 されているが、目覚しいものは沢田と伊井蓉峰とがおなじ これより先、沢田正二郎は九州巡業中に、これも私の月に上演した『掏摸の家』と、伊井が『舶来巾着切』を上 『九郎の関』三幕 ( 八十三枚 ) を一カ月つづけて稽古した。演した、そんな物ぐらいだったので、芝居書きとしての見 帝劇の興行にはそれが出るものと劇団員は思っていたとこ物に於ける信用などはありはしなかったのである、しかし ろ、上演しないと沢田がいい出した。その理由は第一主人このときの興行の成果がよかったので、その後この芝居の 公と第二主人公と、二人とも沢田正二郎でなくては出来な本はいろいろの俳優によって繰返され、私の知らないドサ いというのにある。私程度のものの芝居の本の運命は面白廻りの芝居や、東京界隈の寄席芝居で今もやっているそう いもので、このとき沢田がやらなかった『九郎の関』はである。そうして翌四年二月沢田は、新橋演舞場で『沓掛 「沓掛時次郎』が脱稿すると、追っかけて三日間で書き、時次郎』の再演をやった、しかも殆ど例のない並べ方でこ 一日を改修につかったものだが、爾来年月を経ること二十れを一に据え、二に『勝者敗者』 ( 広津和郎 ) 、三に『赤浪 余年、作者自身ですら殆ど忘れた物になっている。それよ士」 ( 大佛次郎・金子洋文 ) だった。その後に至って世話物風 りも面白いのは『九郎の関』の稽古が一カ月続いたので、 のものを一に据えることが別に不思議でもなくなったが、 定めし磨きがかかっただろうと思いきや、結果はその逆そのころでは破格だったのである。更にもう一ツ大きなこ けい ~ ゅ・れ で、次第に崩れが生じて来たのを、沢田の烱眼が観破っ とは、この興行中に沢田が中耳炎を患って入院し、遂に世 ろて、第一主人公と第二主人公とに沢田正二郎が同時に出なを去るに至ったことである。 ぶくては成功しない、 といういい方をして取り止めにしたこ 前に『沓掛時次郎』のネタを割ったが、それからだいぶ 材とである。新国劇のことだから長期の稽古に倦怠するものたってから、落語家の故入船亭扇橋から、「都々逸坊扇歌 がある筈はない、だが、意識の底にその人も知らずにいるの代々」に就いて聞いたとき、話のついで同然に、三代目林 り 0 ししよう 弛縦が出ているのを沢田という非凡者は感得したのだろ家正蔵の略伝を聞き、世には似たことがあるものだと、ち

9. 長谷川伸全集〈第11巻〉

312 っては私が敵役とまでゆかずとも端敵ぐらいのところも組みの字詰と行数を調べて書きとめ、その字詰だけに原稿 あり、それに又、今ごろになって他人様の古疵あばきにな用紙を貼りあわせて、新規蒔直しに二十七行に るかも知ないので、幾人かは仮名をつかった、その余波れだけは妙に憶えている、いや三十七行だったかも知れな が別にそれほど必要でもないのに、「一本刀土俵入』を「取いという気もするーー・そっくり嵌め込んで書いたものが、 『騒人』の六月号だったろう、載った。この雑誌は十一月 り的五兵衛」とし、『掏摸の家』を「巾着切の家」とし、 「舶来巾着切』を「輸入巾着切」などと、擬似の題名をつ中に新年号を出したり、二月中に四月号を出す、そんなこ かったのと同様に、『沓掛時次郎』を「小諸徳次郎」とッとはやらず、その月にその月の号を出していたから、今も しったが六月号であったことだろう。ゲラ刷りのときコワ イしてしまった、と、ここまで書いてきて気がついたが、 シにした前のものがどんな物であったか記憶がない、知り 私は「沓掛時次郎』の方では女の名の本名のきぬをつか い、『ある市井の徒』の擬似題名の方では男の名の本名をたくもない、仮りに知る必要があっても、ゲラ刷りも原稿 もないから今となっては判りようがないが、大詰の最後の つかって、「小諸徳次郎」としていたのであった。 「沓掛時次郎』は昭和三年五月三十一日の夜明けに脱稿一場を書き直したのがあの作品の命を取りとめたのだと思 っている。前のままだったら私にプラスしてくれる物とは し、すぐに雑誌『騷人』 ( 村松梢風主宰 ) に送った、所要の 日数は三日間だったと憶えている。そのころ一日一幕ずつならなかっただろう。 そうした『沓掛時次郎』を、沢田正二郎が知って、翌年 是が非でも書く、といった強引をやっていたのであるか ら、一週間の十日のと日数を、一幕物や二幕物でつかったの春に演を予定していたのを、同年十二月下旬に帝劇で 新国劇が短期興行をするとき、急に上演となった、 ことはまずなかった、数え年四十五のときである。 村松梢風君はすぐ工場へ私の原稿を渡したのだろう、や『キリスト』 ( 佐藤紅緑 ) で二が『沓掛時次郎』であった。 がてゲラ刷りが届けられた、その校正をやってゆくうち『キリスト』はそれより前に新国劇が東京で上演し、芝居 しししのだが未曾有の不入りであった。沢田正二郎という 大詰の最後の一場がどうにも気に入らないが、どうすよ、、 るという智恵も出てこず、悶々として夜を更かし、夜明け人はこういうときに、次の飛躍を志す人で、このときも不 近くに一睡りして、遅い朝飯の味噌汁をすすっていると入り祝いというのをやって、自分と劇団員に勇気と希望を もたせ、機会を前いった帝劇の短期興行に捉え、不入りを き、ふッと思いつくところがあって、直ぐにゲラ刷りを出 して、最後の一場に棒を引いてコワスと書入れ、菊判二段世間に印象づけておいたのをここで利用した。この興行は はがたき

10. 長谷川伸全集〈第11巻〉

15 股旅の跡 内藤豊後守は追分から木曾街道を、もっと進んだ処にあ 四 る岩村田、一万六千石の領主の正繩といって、安政七年、六 時次郎をここの出生ということに撰んだのは、追分宿よ十六歳で死去した人のときのことだろう。松本丹波といラ りも軽井沢宿よりも、脂粉の香がすくなかっただろうと思のは、南信の松本城主松平丹波守を悪口したもの、鍋島薩・ えることと、もう一ツは北信州人の気質に、上州人の気質摩は佐賀の鍋島、薩摩の島津のこと。暮六ツは午後六時、 を加減した時次郎にしようと思ったことと、更にもっと思七ッ発ちは午前四時だ、これでは人馬がたまらない筈だ。 しかし、妙なもので、時次郎を書いて後に知ったことだ一 いっかせたことは、源頼朝が浅間の狩猟をやったことが が、沓掛を大字にもっ東長倉村の村長になった人のうち 「曾我物語』にある。そこでは五郎時致と梶原源太が喧嘩 した、そういうことが記憶にあったところへ、北信州の出に、私と同姓の人が幾人かあったそうである。その後又聞 身で私と一緒に兵士であった者が、沓掛には御所という処くところによると、小諸の牧野家には越後以来の長谷川姓 があって、そこは頼朝が狩場をつくったとき、宿舎を設けの家臣があり、それから又わかれて、士分の長谷川、町人 た趾だといったのを、どういうものか思い出して、沓掛との長谷川ができ、目下はそのどちらかの、長谷川姓が残っ ているそうである。 きめたのである。別にたいして因縁のあることではなく、 いわば思いっきで軽々と撰定したに過ぎないが、あの作を 五 する以前、沓掛駅へ下りて、徘徊したときに受けた寂莫さ あすか が、どこか与って力あったもののようにも思える。 沓掛は大昔の宿駅の長倉の後だそうで、その後廃絶して・ この三宿でうたったという歌のうち、悪態をさにし いたのを、八百余年前の天永年間に開発、約五百年後の文 たものがある。 禄年間に、駅を新たに置かれ、徳川氏の慶長以後、街道の 銭が内藤豊後様、袖からばろが 制が定まるにつれ、軽井沢、追分とともに存在を固めてき 下り藤 たものである。しかし、文政年間の江一尸須原屋版の『木曾 松本丹波のグソ丹波、グソといわれても銭 道中宿附』でみると、軽井沢は「宿よし」とあるが、沓掛 出さぬ は「宿悪し」とかいているし、大田蜀山人の紀行文などで 人の悪いは鍋島薩摩、暮六ッ泊りの も沓掛のうら寂しさを述べている。 七ツだち だが、軽井沢駅が外国人によって、新たに開発され、今・