鳴った。 ッ切っに・こ十・ . ・こっこ 0 「亀吉の阿魔逃がしちゃならねえ、たれか押えてるだろう 「阿魔、ふざけるな」 よ 「親分、女に手出しをなさるのですか」 「親分は押えちゃいなかったのですかい」 「何を」 こうなると貫禄のカケラすらなくなり、平手で亀吉の白金右衛門が闇のうちで苦笑いをした。騒ぎの最中に憎い い頬を一つ殴った。そのときまで石刻みの像のようにじっ男ばかりに気をとられて、女の方へむける注意が忘れられ ていたのだ。 としていた大吉が、女を庇う気でついと起ちかかった。 「やい鶴田屋の奴等、生きてるのか死んでるのか、早くあ と、見て金右衛門が歯を剥いた。 かりを持ってうせろ」 「間男め、手向いさらすか」 、には答えす、憤怒を鶴田屋に振り 金右衛門も立ち向った。そのときに親分のあとを追って金右衛門は子分のし 向けて叫んだ。 きた子分が、殆ど乱入のかたちで座敷へはいり込んだ。 「野郎、親分に刃向うか」 大吉を三人の子分が袋叩にするとて、襖も障子もへし折惚れぬいていた女を寝とられた怨みに、搗てて加えて、 もが って暴れ出すと、その渦の中から金右衛門は俄鳴り立 . て金に詰って鋺いていたその苛だたしさの鋒先も、どさくさ 紛れに逃げて行った亀吉の行方が知れぬ無念腹も、皆一つ おす になって、大吉の上にそそがれた。 「牡はふん縛っちめえ」 人を痛めつけて ( あ奴に音をあげさせた ) と、のちのち 殴られる度にヒイという悲鳴をあげる外に、気力のなく さそくなわ なった大吉は、布六尺を撚った早速繩でうしろ手に縛らまで誇りにする、その頃のやくざ者の慣いで、金右衛門は れ、乱暴な子分のために一枚の雨戸の内側からカ任せに庭大吉を責めさいなんだ。 話へ突き出された。屋鳴りをさせて雨戸がヘし折れると、大鶴田屋では後難を恐れて、なすがままにさせておいた。 素 外にも泊りの芸者と客がいたが、後難を怖れて廊下へ出る 吉が庭へ不気味な音をさせてころげ落ちた。 めす ものもなく、庭で少しずつ斬られるたびに大吉が絞る呻き 素「牝をひッ捉めえろ、逃がしちゃならねえ」 今の騒ぎで有明は蹴返されて、座敷はすでに闇であっ声を、耳をふさいで聞くまいとするのが漸くであった。 た。暗いなかから金右衛門は、息詰った声を絞ってまた俄子分は台所へはいり込んで、酒も肴もさらって行き、責 まおと - 一
い男だけれど、あの時分のうちの人よりは落ちる」と、こ った金の才覚ができず、いらいらとしているときであった れは四代目芳村伊十郎から五代目芳村伊三郎になった養子ので、嫉妬と金との二つに、胸の焔がきびしく燃えた。 分の伊千三郎に、そっと話したことである。大吉がどんな「何だと、亀吉の阿魔が鶴田屋にいるーーー万屋の厄介野郎 男前であったかはこの挿話でも知り得られる。およしはそもだな。ようし」 の大吉を想った。 一本刀を腰に金右衛門は、北片町の家をでて気色を変え 第一うや 大吉は上総の国、東金郡名古屋村の紺屋の倅で、江戸本て鶴田屋へはいったのは、夏祭がすんでから、年が変った 石町の紺屋へ養子にきて、稼業をならっているうちに、声三月節句の晩であった。 かいいところから杵屋和吉の客弟子となった。声ばかりか 子分にさぐらせておいたから、二人が密会のはなれ座敷 男前がいいので、自然ちやほやされるままに、長唄道楽かは知っていた。鶴田屋のものがはっと思ううちに踏みこん ら踏みこんで、とうとう女出入りで面倒が起り、江戸を一だ金右衛門は、およしと大吉の寝みだれ姿に、芯をかきた ありあけ 時はなれた方がいいというので、木更津の叔父のところへてた有明をつきつけた。濡れ場の現物をみつけられて大吉 ホトボリ抜きに行っているうちに、祭礼の催しものがあるは、ロをきく力もない、恐いよりは途方に暮れた。 と聞いて、江戸の町家でそだった大吉は、きようを晴れと 「やい、金右衛門は、てめえたちのために台なしの男にさ 江戸ッ子らしい風俗を磯臭い女たちに見せてやろうとしたれてしまった」 のが、お富、いやおよしの亀吉の眼についたのである。 親分といわれるものの貫禄が、こんなときには崩れがち 一方は博徒の親分の持ち物ではあるが芸者の亀吉、大吉 になる、金右衛門は嫉妬に焦げつく胸を抑えて、どうして は女出入りのために養家を一時出ているまず若旦那に近い くれようかと迷っていた。 男、この二人が逢うのにそんなに手間はかからなかった。 「親分すみません」 あすこ、ここで、こっそり逢う瀬を楽しみ、互いに懐かし亀吉が詫びかけると金右衛門は、抑えていた細癪が、一 い江戸の話から、長唄地のおよしの三味線で、大吉は随分度に迸った。 と今までに金をつぎ込んだ長唄をうたう。それが知れずに 「これが勘弁なるけい」 いるほど木更津は広くはなかった。 押えていた左手が自ずととどいて、右手がのびると見る まに、亀吉の髪へ手をやった。亀吉は避ける気よりもさき 女に虫がついたと金右衛門が知ったときは、手詰めにな に、頸をひいたので金右衛門の指は、髪の毛を五、六本引
をフンだくって、持ってこい」 め場の縁端で交代して飲み食いした。金右衛門は丼でぐい ろれつ 「どうするのですね親分」 ぐいと酒を煽っているうちに、酔が廻って呂律が怪しくな 「ウフン。まあ黙ってろ、 いことなんだ」 った。しかし、眼を据えている顔に酔は出なかった。 てぬる 金右衛門は初めて笑った、しかし灯に照らされたのは、 「ええ手緩いぞ、やれ、もっとやってやれ」 鼻の先の燭台の灯が、夜更けの風にゆらめくのを睨みな残忍さと強慾さとを刻みつけた赤い顔だった。 一番船がもう江戸へ出たころ、鶴田屋の騒ぎを知らぬ町 がら金右衛門は、頻りに子分を励ました。 「親分、このくらいにしておいたらどうですね、もうくた町では、まだ大戸を閉じて寝入っていた。空は東から明け て、風が快く潮の香を含んで吹いていた。 ばったも同然ですぜ」 南町の質商万屋の大戸を、ドンドンと叩く者があった。 「今こそ野郎、思い知りやがったろう」 「このくらいにやッつけられちゃ、いくら何でも思い知っ出質にしては早過ぎる。 「どなたですえ」 たろうねえ」 がむしやら 金右衛門はあらぬ方を睨んでいたが、首を我無遮羅に振「すまねえ、開けてくれ、北片町の親分が急に用があっ て、今時分わざと来たのだ」 って怒鳴った。 「ああ、北片町の親分さんですか」 「やい、やかましい、黙れ、黙らねえか」 質の客ではなかったが、顔を知らぬでもないので見世に 大吉の呻り声が気になり始めたらしい 寝ていた中僧が、のそきを開けて顔を半分出した。そこに 「親分、一層のことに往生させましようかね」 ふところ手をした金右衛門が赤い顔をして佇んでいる。そ 「 , つむ」 、にの前に子分が一人っいていて、それが戸を叩いていたので と俯向いて金右衛門は気の抜けた返辞をしたが、俄カ ぐいと頭をあげて子分の方を振り向き、脇差をもち直したある。 「あのね、番頭さんじゃいけねえよ、親分がね、旦那に、 一人を睨みつけ、恐ろしい勢いで叱りつけた。 是非お目にかかってお願いがしてえのだ、いいか、旦那だ 「やい、余計なことをするない」 ツが悪 ぞ。それから戸を開けろ。外に立っていちゃ、パ 「へい。だが親分、往生させるのじゃねえのかね」 「やいやい手前はな、空俵をどこからでも一俵持ってこい」 み、から こんな人に抗って得はない。万屋では手代が起きてき 、それから白布を持ってこい、なかったら鶴田屋の単物
街道脇にそのころあった郷倉の前まで行き、そこで若い武 士が集り来り、耳を截ち、鼻を殺ぎ、とうとう虐殺してし まった。 こういう事を挙げることが出来るが、それとは反対に褒 賞された例もある。たとえば次の如きものがその一つだ。 丸山村甚七 大沢村嘉右衛門 其方共、三斗小屋討入之節、山路之案内骨折候段、奇 特に付金五十両及取遣、一一代苗字帯刀差許者也。 最後に戦場と化した土地の居住者に代って、筆で叫んだ 田代教師執筆の一節を抜いてみる。 「三斗小屋誌』 他藩の者、醜行の形跡なきに独り黒羽藩士のみ、斯る 蛮的行為ありて、後世に汚名を口碑として永く存す、 ああ、遺憾の極みならずや。 そして又いっている、農民は何れの軍にあれ、厳命に服 する他はない、拒絶する勢力を持たないからだ、然るに殺 すということがあろうか、たとえ殺すにして虐殺とは甚だ しいではないか、官軍の板垣退助、幕軍の大鳥圭介は毫も そこな 農民を害っていないではないかと、黒羽藩を極力難じてい る。 しかし、この批難は月井源右衛門事件があるので、黒羽 藩のみに向けるべき批難ではないとせねばならない。 ( 昭和七年十二月 )
質屋の主人の顔を、まともに見つめながら、金右衛門が て、仏頂面をしながらくぐり戸をあけた。 にツと砒入った。 金右衛門はうしろを振り返ってから、やはり懐中手のま 「百両貸せ。ビタ一文欠けても不承知だ。質物は生身で、 まで、くぐって内へはいると、質屋だからそこは土間だ、 上り框へ腰をかけ、片足膝にあげたその足許に、米俵で包ちッと疵がへえっているが、繕い次第で、あとあとっかえ んだ細長い物が二人の子分の手で担ぎこまれた、俵の形がねえこともあるめえ、そう思ったからトドメは刺さしてね えんだ」 ひどく悪く、繩が二、三本ゆるく巻きつけてある。 金右衛門は万屋の主人の顔を執念深くじッと見つめ、 万屋の主人が迷惑顔を隠して、見世へ出て来た。 「これは親分、お早うございます。何でございますね、早「いけねえかい、お断りなさいますかえ。質物はこちらの 大吉という小二才だ。俺の面へ泥を塗りやがったから、懲 朝から」 「万屋の旦那、すみませんがね、質物を一つとってくださらしめのために、ちッと痛い目を見せてやった。ねえ旦 那、質にとるの取らねえのといっていると、手遅れになる が合点だろうね、どうで此方は流すときまった質物だ、ど 「どういう品物ですか、一応拝見いたします」 うなろうとお構いはねえけれどね」 「ゆっくりとご覧なさい。おう、出して見せてやれ」 「よろしゅうございます、百両、承知いたしました、です 俵包みが土間から上へ担ぎあげられると、万屋の主人は 鼻をちょいと動かした、それを金右衛門が見てひらき直っが、息はまだあるのでしようね」 「あるよ、近くへ寄ってみねえ。息づかいだって知れそう なもんだ」 「へへへ、臭えかい旦那。そうだろうねえ」 「へえ、わかりましたーー・ああ、お前ちょっと」 「親分、これあ何でございます」 「質物さ、ゆうべ鶴田屋で拾ったのさ。ゃい、繩をといて万屋が手代を呼びかけると、金右衛門が血相変え、子分 はわッと一斉に起ちあがった。 話中を旦那に、とッくりとお見せ申せ」 「なんでえ、誰を呼ぶのだ。ふ、ふざけた真似をしやがる 俵包みを解くと、中から出たのは、白布で巻いた大吉の 材 素死体であった。血が白布の諸所に浸み出して、朝の光に黒と、こ、この屋台骨を灰にするぞ」 3 く見える。 「いえ、医者を呼びにやるのでございます」 「医者ーーそうか、医者ならいい、勝手に呼びねえ、だが
くり、家運いよいよ隆盛であったが、たった一人子の娘が 若くして死んだので、兄丑之助の次男安之助を養子に迎え 文化七年、初代吉右衛門が隠退して道西といった。家業 佐羽淡斎と江戸三座 を安之助が継承し、二代目佐羽吉右衛門となった、時に三 十九である。 安永元年三月十日、上州桐生の佐羽丑之丞に次男が生二代目吉右衛門は部屋住のころから詩文に長じていた。 れ、幼名を安之助といった。この安之助が佐羽吉右衛門に 佐羽家を嗣いで絹買次商として、縦横に商才を発揮しつ 養われ、二代目吉右衛門を嗣ぐに至って、それまでも佐羽つ、その一方で、好きな詩文をすてなかった。そのころ桐 家は財産家だったが 「一佐羽二加部三鈴木」と、うたわれ生に三ツの大商店があった、東海道方面を専らとした新居 る、上州三富限者の首位に、のしあげさせた。二代目吉右甚兵衛、奥羽方面を専らとした吉田源兵衛、それから江戸 衛門は、手腕のある商人というにとどまらず、詩人としてを中心に大きな販路をひらいたものが二代目佐羽吉右衛門 も相当なものであり、又、江戸の中村座、猿若座、市村である。 座、三座に資本を出して巨利を博したということである。 それは文化七年から文政八年までの間で、およそ何年間 つづいたか、その点私にはわからない。 一一代目吉右衛門は諱を芳といし 、字を蘭郷、号を淡斎と いった。文政八年七月四日、五十四歳で病歿するまで、十 六カ年間の一般は、江戸の朝川善庵が撰んだ碑文が尽して 桐生の佐羽家は佐羽清右衛門にはじまる、清右衛門に丑 いる。碑は桐生市新町六丁目浄蓮寺境内にある。 話之助、佐吉郎と二人の男子があり、長じて後、長男丑之助淡斎は義侠心が強く、桐生方面でその救いをうけたもの は桐生新町三丁目の父の家を嗣ぎ、次男佐吉郎は桐生三丁が尠くない、江戸では知名の詩人画家と親交を結んだ、そ 材 素目に分家して吉右衛門と改め、兄も弟とともに絹買次商をの様子が善庵の碑文にみえる。 やった。 共ノ江一尸ニアルヤ、春ハ梅ヲ杉辺ニ探リテ枯算ヲ曳キ、 うか 佐吉郎の初代佐羽吉右衛門は、商才があったので財をつ 短簑ヲ被テ雨雪ヲ数程ニ冒シ、秋ハ舟ヲ墨江ニ泛べテ、 尾上梅幸のことである。 ( 昭和十四年九月『中央演劇し ) 0 いみな あざな - 一きよう
くだり と叫ぶところがある。二階正面にいたばくは、たまりか らず、結局、市之丞の件を後廻しにして、六代目一座だけ で出すことになったのだが、それまでにも、彼と逢う毎にねて声を立てて泣いた。同行の家内はその刹那はばくが発 、、、ばくは大狂したのかと思ったそうである。 この芝居の話が出て、彼は序幕を面白いとし 詰の湯屋だろうと主張していたのが、上演されたら、真ン「舞台で、夫婦なりいろなりが、真に惚れられ得ないほ 中の、板橋の女郎屋が、一番印象的に効果があった。二人ど、やりにくいことはありません」 とは、俳優の誰もこばすところだが、「暗闇の丑松』の とも予想外れ、わからないものである。 あれの出たのは、九年六月の東劇だが、舞台稽古のと序幕で、菊五郎の丑松は、人殺しをしてからアト、男女蔵 のお米に頬ずりをして泣いていたからな。 き、女郎屋の場が済むと、彼は道具の後ろに立っていて、 丑松の大詰、風呂場の殺しでは、初日に彼から、 「長谷川さん、こんなものを書いちやア、仕様がねえな 「どうも岡ッ引の奴が釜前へきやアがるので、出にくくて いけねえ」 といった。何をい , フのかと、ばくはいささかムッとした と非常に不満だったが私の方はそれと又違った不満があ ところ、 ったんだ。それは脚本の書き方がここへ来て息を入れた書 「泣けて芝居が出来ねえや」 き方だもんだから、テンポが狂ってしまったことである、 と涙ぐんでいるのである。事実、彼は開演してからも、 初日以来毎日毎日、本当に泣いたそうだ。助演者の巧さ次双方のいうところは結局のところ右から云い左からいって いることなのだが、その晩は徹夜で翌朝、八時半までに書 第で泣く箇所は違っていても、必ず涙が出て困ったとい き直した。それが今行われているのである。その丑松の引 また、男女蔵のお米が、素晴らしくよかったせいもあろ込みは、大評判になったものであるが、あの引込みにも、 うが、菊五郎でなく、丑松になり切った彼として、ここま五種ぐらい、変ったやり方を、十何間もある、長い花道の 場合、又短かいときの場合、運びの違うときの場合と、そ 跡で来れば泣けたに違いない。 の 作家でありながら、ばくは自分の作品で泣かされることれぞれ用意してあるのだ。 はなし 旅 この引込みに就いては面白い咄がある。今は故人になっ 股が屡々ある。新国劇の『荒木又右衛門』を、名古屋で初演 たが、彼の知人で、劇界にも、実業界にも、名を知られた某 を見たとき、正木の孫右衛門が、 氏が、弄花事件か何かで、手入れがあり、第二号邸へも立 「先生、私の顔が臆病にみえますか」
ている。 戦国時代の分捕の名残りが約三百年飛び越して現れてい るのが甚だ妙である。 それにしても忠兵衛の死は余りにも惨虐過ぎた、これで は反感が起らずにいなかったろう。 次は住民殺戮のことだ。 これに就いては、事実をもっとも知っていて、義憤を口 しかし、こういう話は一方だけではなかった。三斗小屋 に絶たなかった高根沢亀蔵老人が、昭和五年十一月八十一から南にあたる板室から一里の百村は、三斗小屋から望み 歳で死去したので、多くの目撃談が地下に行ってしまつ見られる処にある、その百村の名主月井源右衛門が、会津 側に虐殺されたことがある。 た、しかし、まだ、次の如き幾つかの話は残っている。 三斗小屋に大黒屋文五郎という者があった。初め会津兵慶応四年四月のこと、会津兵か江戸脱走兵か、一隊のも と幕兵とが来たとき、人夫に使われた、その後、黒羽、館のが百村に来って源右衛門方に宿営し、人夫の世話その他 林の兵が討入ってから黒羽藩の兵のために捕縛され、一斉をさせ、間もなく板室へ去った、その後へ討伐に来ったの が美濃大垣藩の隊で、村に入ると直ぐ源右衛門方を包囲 射撃の生き的にされて殺された。 会津領長野の農忠兵衛 ( その家は姓を今では大竹という由 ) し、源右衛門に板室への案内を命令した。 が私用あり三斗小屋に来ていた。黒羽藩士は忠兵衛が会津大垣藩の隊が板室を不意に襲ったのは四月二十二日のこ の者だというだけで、裸体にして縛りあげ、三斗小屋往来とで、会津側の兵はそのとき敗れて三斗小屋に逃げ込んだ の上を引摺り歩いた、そこは石の多い処なので忠兵衛は忽あとだった。 と、五月の上旬に、源右衛門は会津側のものに捉えら ち血塗れとなった、その次には後手に縛したまま高い樹に れ、三斗小屋に連れて行かれた。 繩で釣り下げ棄ておいたので、忠兵衛は苦痛に耐えかね、 三斗小屋では会津の幕兵指図役の一人、秋月昇之助の部 「早く首を斬れ」と泣き叫んだが棄ておいた。すると、二 人の兵が来て忠兵衛の左右の足をカまかせに引いたので、下、近藤民之助が三斗小屋名産の馬具用の繩で源右衛門を うしろ手に縛し、同所の大金善右衛門宅の柱に繋ぎ、身体 っ肩の骨が破れた、忠兵衛はもうそのとき、泣く声さえ出な 掻くなっていた。最後に両手足の指を斬り取って放っておい諸所の皮膚を剥ぎ、股の肉を剥ぎとり串に刺し、炉の火に 焙って焼き、源右衛門のロを無理にひらかせ押込んで食べ 耳たので、夜一ばい、呻き苦しみて死んだ。 こうしたことだけしか今は伝わっていないが、死刑に処させた。 した理由が別にあったものかどうか、黒羽藩の記録は黙っ次には、源右衛門を外へ曳き出し、地上を引摺って会津
終って、いよいよ初日、馬の準備も出来て、堂々辰巳先生の 荒木又右衛門が馬上の人となりました。しかしどうも稽古の 時の重みと様子が違うそ、と内心不安を感じながら舞台にか かりました。 後で教えられたことですが、馬の足は胴の中で立ったまま 黒川弥太郎 の姿勢でよいものを、首を前にまげて入りましたものですか 私が新国劇在籍中の昭和九年一一月、この月は名古屋公演でら、そのまげた首の上に辰巳先生の又右衛門がどっかり乗ら したが、いつもの御園座が改築中のため劇場は新守座でしれ、後足の私が辰巳先生の重みを一手に引受けてしまうこと になったのです。さらに悪いことにこの場面がまた二十分に た、長谷川先生の荒木又右衛門が初めて上演されたのです。 又右衛門が乗馬で桜井甚左衛門と対立する、その馬の後足近い長いものだったものですからたまりません、始めのうち に私の配役が決定発表されました。当時劇団の理事でいらしはそのめり込むような重みを首すじで何とか受け止めており た俵藤さんの「黒川君は軍隊の騎兵で二年間馬と生活をともましたが、そのうち油汗が流れて来て、今まできこえていた にして来たから馬の足になれるだろう」と云う、まことに以舞台のセリフもだんだん遠くなります。前足に苦しみを小声 てうなずける御意見から、そのようなことになったのです。で訴えてみましたが、彼も初めての馬の足で必死です。両肩 馬の足は、歌舞伎の方でも専門に訓練された人がそれにあでささえる重みをまげた首すじでささえている私の苦しみと たり、また、その人の体に合せた専用の馬を使うわけですいったら、だんだん目先が暗くなり、星がちかちか見えだ ー、私の入った馬といったら劇場の小道具部屋にほこりだらし、後足が少しすっ低くなって来ました。 しろもの けでつるしてあった代物で、無理矢理足のぬいぐるみを着せ驚いたのは馬上の荒木又右衛門です。尻餅寸前に、たまり られたうえ、要領も解らないまま胴体をかぶせられ、しかかねた狂言方が黒衣で舞台に飛び出して、馬の尻をささえる はめとなり、馬子唄でゆうゆうと花道を去るはずの又右衛門 し、それでも何とか馬の形だけは出来あがりました。 舞台稽古は曲りなりにも無事花道の引込みまでの長丁場をも、お客様の爆笑のなかを六本足の馬で、いそいで引上げで 長谷川伸先生と私
574 ね、万屋の旦那」 やって切れてしまった。といって紺屋職人を今更する気は 金右衛門は役人に訴えるなら、といいたいのを抑えて、 ない、まさか土ほぜりをして、この東金で、一生送る気に - ロ許をむずむずさせ、脇差を引きつけて主人をじっと見据もなれないしなあ」 えていた。 疵だらけの顔だけに身の末を考えると悲しかった。こラ して幾日も幾日も、考え抜いた末に、思いついたのは芸人・ 〃百両で流れ〃の約束でとった質物の大吉の疵は、みな急になることだった。 処を外れていた。人心地もなくなっていたが、医者は命に 「そうだ、江戸へもう一度出て、和吉師匠に頼んで、生れ 別状はまああるまいといった。その医者のいうとおり、大代った気で長唄を修業してみよう」 たちい 吉は命をとりとめたが、出血がひどかったので、起居が出 どう考え直してもその外に策は立たなかった。 来るまでには、永らくの日数がかかった。 大吉が江一尸へ出て杵屋和吉のロ添えで、三代目芳村伊三 木更津から故郷の東金へ送られて、そこで疵養生を長く郎がまだ二代目伊十郎といった時代にその弟子となった。 ねたば した大吉は、体はどうやら元どおりになったが、嫉刀でや時に文政十二年の春、大吉は三十歳であった。その二世伊 られた大怪我だ冫 、体より顔に多い疵の痕が、鏡でみる十郎の師匠は芳村派を発展させた二代目芳村伊三郎であ と我ながらぞッとなる凄まじさだった。 る。その門下に芳村金四郎という人があった、それが芝屑 「こんな体になったのも、元はといえばあの女からだ、し小屋などに出はいりしていた通称は金さん、後に長崎を介 かしあの女はあれからどうしたろう。木更津の家でも、 して外国事情を多少は知り、蝦夷方面には深入りして智識 ろいろ探してはくれたが、生き死にのほどもさつばりわかを得、江戸の町奉行もやった遠山左衛門尉 ( 景元 ) といった らないということだ、事によったらあの時、海へざんぶり人である。 飛び込んだのかも知れない、波に沖へ持っていかれ、その まま死骸が浜へ寄らなかったのかしら」 おきちさんの話では、木更津を無事に逃げられたの 金右衛門には憎い女だろうが、大吉にとっては情のあっ は、ふだんひいきになっている土地の網主の家へ、助け い忘れられない女だった。 てくれと泣き込んだのが幸いになったのだそうです。 「それにしてもこれからのわたしは、どう身を立てていし その網主は侠気の人で、相手は貸元だろうと何であろ のだろう、江戸の養家からは、此方の家から離縁をいって うと、俺は弱い者をいじめるのは嫌いだから助けてや