鹿島 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第11巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第11巻〉

が、京都から移って来ているので、東下り江戸下りの下り・ は意味を失って廃語になり、取って代って上り酒とはいわ ず、清酒とのみいうように明治の初めに改められた。鹿島・ 屋はそのあたりに多い酒問屋とおなじように、いや、それ しきた よりもッと固く江戸時代の昔そのままの旧家の仕来りを守・ しんかわ っている新川屈指の大商賈で、先ごろ亡くなった清兵衛が ランプ 明治の新風を取り入れはしたものの、わずかに洋燈を幾つ か使ったぐらいのものでしかなかった、しかし先代清兵衛・ は、幕府瓦壊前後の、混乱に次ぐに又混乱の時世を、切り ぬけた人だけに、時勢を解してはいるが、〃旧家の富〃を・ 先代の鹿島清兵衛が明治十三年に病気で亡くなり、二年手固く守るため家憲を改めなかった、だがフランス製の写 ばかりたったころ、正月の行事も殆どもうすんだという頃真機械を次々に買い入れて、自分で撮影し現像もした、後、 の真夜中に、先々代鹿島屋清兵衛の妻であった八十一になの世のカメラとは違い、湿板写真 ( ガラス取り ) であるの る隠居のおときが真綿入りの軽くて温かい掛け蒲団を刎ねで、ナマ板 ( 湿板 ) つくりも自分でやった。つまり鹿島本店 のけるようにして、敷き蒲団の上に起き直ったのが、瓦破は明治文化にお先ッ走りの同調をしなかったが、清兵衛個 ッという音をたてた。次の間の隅に宿直とおなじことで睡人は西欧文化の生んだ高級なものの一つを、遊びにしろ取・ かみ っていた上女中が、はツとして眼をさましたのは、隠居がりあげるくらいのことはした。後にこの湿板写真機械が、 立てた瓦破ッという音を耳にする前に、低い声ではあった土蔵づくりの倉庫のなかに抛り込んであったのが、次の代 が隠居の「ああツ」という、ただならぬ叫び、それを聞きの鹿島清兵衛が手にとったのが、仏教の因果説の片面でも 話つけ、次で飛び起きたのであった。 あるかの如く、三十年にちかい悲劇の序幕の柝がしらと同・ 鹿島屋は霊岸島四日市町に、広大な宅地を占めている富様になった。 材 素豪で、江戸時代には苗字帯刀御免の幕府の用達町人で、家隠居附きの上女中は何かは知らねど、一大事が起ったと くだ なだ 業は代々続く下り酒問屋であ 0 た。下り酒とは灘の酒とい胸とどろかせて、「御隠居さま」と声をかけて襖をひら うことで、江戸が東京と改められてからは、一国の首都き、枕許の有明の燈心を掻きたてた。隠居は蒲団の上に起 ぼん太夫人 明治の女

2. 長谷川伸全集〈第11巻〉

5 素材素話 族の評決によって、鹿島本店代々の当主が使用の実印を取 りあげられた。 清兵衛は四日市町の家を出た。心の舵を、棄てられる覚 悟をしているばん太に向けて。 縁切の使者がいずれは来る、そう思った清兵衛は、玄鹿 館の金庫のなかで睡っている、既に手をつけてしまった享鹿島清兵衛はばん太に児がやどったと知ると、ばん太の 保小判、あの埋蔵金を思い出すと、あれは御先代さまから姉の新橋玉の家おますに得心するだけの金をわたし、ばん 譲られた財産のうちではないンだと、居合わすもののない太を谷田えっという素人名の女に戻らせた。が、四日市町 を幸い、力を入れて口に出してみずにいられなかった。 の養家をも含めて深川島田丁の酒と材木問屋の鹿島清左衛 ひとで しろがね 儲けて買った地所は、十一カ所とも他人手にわたってい 門や、霊岸島銀丁の鹿島利右衛門、その他の一族に遠慮 して引き祝いをやらなかったので、玉、祝儀や出の衣裳と 縁を切らせた身にえつを事実してやっていても、ばん太と 清兵衛の妻は日毎にというほど、痩せてゆくのが目立っ いう名を新橋の妓籍に残させてあるので、玉の家を通じて て来たが、清兵衛の耳に入るのはそれではなかった。鹿島賦金 ( 芸者税 ) その外の諸かかりを棄て払いにし、見番の名 の実印を握って店へ出ている雄々しさ、ということだけで 札は裏に返させ用事 ( 休業 ) の附けッ放しにしておいた。こ あった。 れは養子が養家に立てる、義理とは称すれど、実は世間の かせ 破綻の使者が登場して来たのは、ばん太の出産がきよう枷に対してした、それもほンの心やりに過ぎない、処置で ( 昭和一一十八年七月 ) あすという時であった。 あった。 っ ) 0 十一月にはいって間もない或る日の夕方、築地の別荘 いつもと違って清兵衛ただ一人で、木挽町の玄鹿館か ら帰ってきた。後から気に入りの芸人衆か、遊び友達のだ れかが、それとも有名な人が来るのかしらと、微笑で尋ね 明治の男 けんばん

3. 長谷川伸全集〈第11巻〉

清兵衛の刻苦が左手の拇指なしで、笛が吹けるようにな いた。そのため新川一帯のうち最も早く・ハラッグを建て、 5 った。しかも以前にます音色が出た。 商売を素早く再開して、大きく利を挙げることが出来た。 清兵衛が喜んだのはそれであった。 清兵衛が五十六、えつが四十二の大正十年の春、鹿島本「嬉しいなあ、鹿島の店もおときがそんななら、この先々・ へだた 店の女主人が病死した。二十年続いた隔りは、一つ東京のも安心だ、出来ることなら褒めに行ってやりたいが」 へだた 地上でのことであったが、今度はどうしようもない隔りの 七ツで別れたときは、三十を今は越えていた。清兵衛は 永遠が来た。女主人の跡は七つのとき生みの父に生別れし幼い女の児の顔に三十余年を掛けてみたが、出てくるもの た総領娘の夫婦がやって、繁昌むかしにおなじであった。 は我が顔と亡いのぶの顔と、どっち付かずの顔であった。 えつもその話には聞き入って、嬉し気に微笑した。 その前の年、長谷川時雨は「日本美人伝』の中に「鹿島 が、富豪の旧家というものは、壁の厚い城であった。と 恵津子いを書き、新川の鹿島の女主人に批評の筆を向け こ 0 きに清兵衛を再会させようとした人があったが、そのこと は、父なれど父ならぬ清兵衛を糠喜びさせただけ、ときの 本郷森川町の路地のなかの清兵衛夫婦の家は、大正十一一耳にだれも入れず終いで、再び開かない幕となって閉じら 年九月一日の関東大震災のとき、その附近一帯とともに災れた。 厄をまぬがれた。その家は辷りのわるい格子戸の中が、一 尺に一間ばかりの土間、取ッつきは、三畳、次が六畳の平清兵衛はその翌年の夏、梅若能で、梅若万三郎の「関寺 家で、壁の破れがひどく、建具も畳もひどく、家具とても小町』に出た。小町の窶れを笛の音に出したいと苦心した 用が足りるだけの物しかく、踊りの小道具が三つ四つあその成果が出て、その日の笛の音は絶妙の限度にいった。 るのが、却って侘しさを深める、そんなありさまであった。発病はその演能が終った後に起った、ま カ約東なればと病体 清兵衛が人の話を聞いて、相好をくずして喜んだことがを押して京都にゆき演能に出た、そのときの笛の音は、生 一つあった。 きている人のワザとは思えぬ、凄愴な気息が感じられる 震火災の日、新川の鹿島本店もやられたが、そのとき鹿と、気がついたのは ( 一人の演能家のみであったという、 島跡取り娘のときは、逃げるものは逃がせてただ一人、火その人がだれであるかを知ることが出来ずにいる。 が燃え移った家にのこり、有らん限りの現金を集めて立退帰京して間もなく清兵衛は病床につき、破れ壁の際の薄

4. 長谷川伸全集〈第11巻〉

終いで、大阪の長男のところへ引取られて行ったと他人のなったが、いっかは戻る夫と思っていたのが、決裂の最後 噂を、その後に清兵衛は聞いただけであった。 をみせられたと知った。 清兵衛が与えられたものは二つに打ち割った実印と、現 これより後ののぶは女丈夫型に次第に変っていった。そ 金五千円だけであった。そのころ郵便の手紙は二匁まで二 ういう素質があったからではあろうが、鹿島本店の財産を 銭、ハガキは一銭、新聞雑誌なら十六匁まで五厘、東京市のばした女主人になった。 : カ人知れずする永歎の悩みを、 内の乗り物は鉄道馬車で、新橋・上野山下間を浅草廻りと生涯もち続け第にいがその一面に、綿々とつづく怨 日本橋廻りとだけあり、一区は二銭、半区は一銭、新橋かみもあったことはあろうが。 ら日本橋が一区で二銭であった。そういう物の価いのとき の五千円ではあったが、豪奢なくらしにならされて来た清築地の別荘を他人手にわたした清兵衛は、乳呑み児を背 兵衛には、百円にも当らぬものであった。 負った十九歳のえっと二人、東京の春の花が散り果てた或 玄鹿館は、清兵衛の弟の鹿島清三郎が名義人だが三年前る日の宵、上野山下の雑俳の宗匠がやっている宿屋に泊 に渡欧して、そのときは巴里から倫敦にわたっていたのり、夜に入ってから、葉桜の上野の山をつれ立ってそぞろ で、いっ帰るかわからないが、帰った上で同意させて、鹿歩きした。この夜のそれを名残りに東京を去る夫婦であっ 島一族の手で処分し清兵衛の債務の方へ廻すことになり、 閉鎖した。つまり清兵衛は玄鹿館の動産不動産に手がつけ翌日、二人は上野山下から鉄道馬車に乗った、新橋まで られないことを、鹿島側の弁護士からいい渡された。築地は三区で六銭ずつ。清兵衛夫婦の落ちゅく先は京都であっ の別荘は清兵衛の名義であったので、当分はそこに、今は た。えつは石づくりの新橋停車場 ( 今の汐留駅 ) で、並等で 日吉町の玉の家にあったばん太という妓籍を削り、名実とゆきましようと勧めたが、清兵衛が頭を横にかすかに振っ もに素人になった谷田えっとともに住んだ。えつに女の児たので、中等の切符を買った。並等ならば京都までは三円 話が生れたので、清兵衛は名を鶴と撰んだが、私生児にして二十九銭ずつ、青い筋がはいっている中等車では、そのこ 届けるに忍びず、えつの籍を入れたので、結婚式もその披ろも倍額であった。 材 素露の宴もしなかったが、えつの姓は谷田から鹿島に変っ えつは児を清兵衛に預けて、切符売場で切符とツリ銭の 銀銅貨をうけとった。大小六つの銀貨と二枚の二銭銅貨が このことは、のぶを打ちのめすものとなった、離縁とは掌にいつもより冷たく触れた。中等車のなかは客がまば じま っ ) 0 ひと てのむら ) 0

5. 長谷川伸全集〈第11巻〉

512 つけない、慶長小判ですら少々ばかりとはいえ金の量からについて一切の噂を口にしなかった。鹿島の家の中でも小 たなうち いえば下位であった、それだから先々代は享保小判ばかり判掘り出しのことはよく秘密が保たれた。そのため店内と なかだな ひがしだな いわれる、深川木場の東店 ( 鹿島清左衛門 ) 新川の中店 ( 鹿 で埋蔵したと、こう隠居は重ねていうのであった。 にしだなかどだな それでは埋蔵したのはいつの頃かとなると、隠居には埋島利右衛門 ) をはじめ、西店、角店そのほか、一族数軒の間・ 蔵したときの光景だけが、眼の底に甦ってくるだけであつでも一時このことを知らなかった。 その年の初午祭は女隠居の八十一歳を祝うというのを名 「それはね、東倉が出来かかったときのことですよ、旦那目にして、例年よりも盛んなものにした。隠居からいえ ば、これというキッカケもなく永年にわたって忘れていた ( 先々代の ) とあたしとたツた二人だけでだれの眼にもっか ないように、糠雨が降りつづいているときだったねえ、おことを、思い出した喜びのため、清兵衛からいえば、先々 倉の中へはいって埋めたのですよ、あれはいつだったかし代への感謝のためであった。 その日は、鹿島本店の奥のもの店のもの出入りのもの、 年代の記憶は喪失されていたが、どうやらこれは天保の一人残らずに祝儀をやり御馳走もして、金のかかった賞品 の福引もやった。庭の隅には稲荷の立派な社殿があるの 凶年続きのときのことらしかった。 で、庭木戸を開けて来る人はだれでも迎え、赤飯煮〆に酒 も汁粉も振舞い、店の前に掛け小屋をつくって昼は七十五 翌日、若い当主の清兵衛が立会って、大番頭の喜平が、 出入りの鳶の者を指図して、隠居のいった東倉の床下の何座の神楽、夜は幻燈をやった、とこれだけでは、この日の 枚目だかの敷石を取り外し、地を掘りさげると家紋のつい稲荷祭のすばらしさが、ちょッと盛んな稲荷祭ぐらいにし かとれないが、次の一事で、その派手さがわかるのではな た瓶が出て来た、中には布と紙とで何重にも包んだ小判が じぐち いかしら。というのは稲荷祭に附きものの地ロ行燈は、略 真ッ黒になって夥しくはいっていた。二十万円以上の値打 画に言葉の洒落を書くのが例であったが、このときは町 であった。 それはさて、瓶を掘り出した鳶の者はそのとき、多分あ絵師で名高く、大酒呑みであったところから、世間も自分 しよ、つド ) 、う もともども猩々といった河鍋暁斎が、能の鶴亀、船弁 れは古金銀がはいっていたのだろうと推測はしたらしい 、大番頭から固く口留めをしたからでもあるが、千組と慶、羽衣その外と、日本祭礼尽しとを密画でかいた、勿論 いう町火消の手合いが守る、市井人の道義から、このことどれも極彩色であった。多分このときの画の何枚かは、転 とび

6. 長谷川伸全集〈第11巻〉

435 材料ぶくろ と云いしかば忽ち喧伝され、英国のゼノアがねと云えば武女の写真が、先ごろ大きく扱われあるを一目して、鹿島清 藤金吉がねと云いたるも同様になり、今でもごのことは議兵衛・恵津子夫婦なるを知りたり。小生は面識なき二人な 員の無識をいうとき、往々にして引合いに出すものあり。 れど、昭和二十八年に「明治の女』と「明治の男』という されど武藤金吉は上州の人にて、イを工と発音し、エをイ二編百二十枚を書きたる、その主人公がこの夫婦なれば、 と発音する国訛りあり、長岡隆一郎の随筆はこのことを云記憶に深く刻みつけありたるなるらし。 とうじ いて、彼は伊国のゼノアと云いしつもりなれど、聞くもの鹿島清兵衛は明治の紀文大冬と云われ蕩児の評判のみ高 には伊国にあらでエ国と聞えたれば、英国のゼノアと受取 、九世市川団十郎の「娘道成寺』に北村 季晴の洋楽を加 られたるなりと書いてありたり。当人は初め是正したれどえしめ、本邦最初の歌劇を歌舞伎座に試みさせ、等々のこ しばら 是正の効あらざれば、棄ておきしと云うことも又書いてあとあれど、それは姑く措くも、日本写真史には当然のこと りたり。 記録さるべき業蹟あれど、忘れ去られいる人なるなり。妻 さはさりながら武藤にして伊国と云わず、伊太利のゼノの恵津子は日本女性の良き典型の一つとして、当然繰返さ たま アと云いたらんには、エタリーと聞ゆるならんなれど、英れて伝承せらるべき人にて新橋玉の家ばん太がその前歴な 国とはよもや聞かざりしならむ。とは云うものの昔、都新り。 よしみ 聞の艶ダネ記者にて無比の妙文を書きし吉見蒲洲は、給仕 小生はこの二人を曾て記録小説する人のあらざれば ( 長 を呼びてキリン軒に電話してリッチモンドを註文せよと命谷川時雨の「美人伝』にあれど小生のいう記録小説には浅く遠し ) 、 じ、給仕よりも並居る同僚を驚かせりと云う、リッチモン材料を久しきに亙りて聚積し、事実を枉ぐることなく上記 ひと ドは輸入煙草の名なり。他人ごとならず小生も近ごろわがの二編をものしたり、多分これ以前にこれを上廻れる清兵 家にて、アラモードを買ってくれと云いて、家のもの達を衛夫婦の伝なく、その以後も今のところ未だなし。前記の びつくりさせたり、ママレードのことなりしなり。 「名古屋タイムズ」の写真は、清兵衛の弟の子なる鹿島大 治さんという洋画家が秘蔵のものにて「わが家の文化財」 という囲み物の第二回なる、その記事によれば、その写真 清兵衛ばん太 は本邦最初の着色写真なりと秘蔵者が云いしとあり。 『明治の女』「明治の男』が雑誌に出でしとき、多くの手 名古屋市の日刊紙「名古屋タイムズ」に、若き美男と美紙を未知の人々より受取りたる、その中には、私の少女の

7. 長谷川伸全集〈第11巻〉

転として人の手にわたりはしたが、どこかに表装された物ってから、先代のときにくらべて資産がふえているので ' が今でも珍蔵されていることだろう。 実父母への孝行をしてもいい甲斐性があると自負もあった し、妻にしても叔父夫婦と姪という間柄でもあるので、無 理はどこにも起らないと、親類の主なるものの同意をとっ 清兵衛が成年に達したので、のぶと結婚の式をあげた。 て、大阪から実父母の弥平夫婦を東京へ呼び迎え、深川和 新川屈指の富豪で派手な酒問屋なのですばらしく金のかか倉町 ( 後の富岡町 ) の別荘に住まわせ、月々定額の生活費を った祝い事であった。そこでそれまでは中店の伯父が後見送り、臨時の物入りはその時どきに清兵衛のふところから 出していた。これに向っての非難がまず起ったのは、新日 人で、鹿島本店代々の当主が用いた実印を預っていたが、 それを若い清兵衛にわたして後見人の役目を解いた、そうの本店の女中達のうち、御新造様方の一派からであった。 「和倉の厄介者が又候や旦那さまにお金の無心だとさ、い なったのは清兵衛が若いのに似ず、店のことを取り仕切っ うちと いゴ身分さ、あの手合いはねえ」 てやって危な気がなく、夥しい数の店の内外のものの使い 方もうまいので、親類一同、異議なく一人立ちの本店の当「そういっちゃ悪いけど、旦那も旦那だよ、御新造さまに 主として、自由に腕を揮わせて然るべしとなったからであ隠して和倉へ貢ぐのだもの、水臭いねえ。奥さまのばアや った、といっても、人の数が多いと好んで横議をやるものさんがよく黙っているねえ、あたしなら黙ってやしねえ」 が必ずいる、多くの一族のなかには異議が多少あったが大蔭でいう悪口が、いつの間にかロ慣れてくると、云わで 勢に随ってその方は結局のところ口を噤んだ。そんなこともいいとき口から辷って出たがる、それをちらりと耳にし があったのは、本店の奥の女中達が旦那さま方と御新造様た清兵衛は眼を鋭くしたが、思い直して聞き流しにした。 方と二派にわかれていた、その飛沫が、いい年配の店内の その後も、「和倉の厄介者が」と女中達のする蔭口を、 主人のたれ彼にひツかかっていたからのことである。 図らずも耳にすることがあったが、その女中に暇を出すわ 話清兵衛の実父母は大阪天満の鹿島屋総本店で、家督を長けに行かなかった、それらの女中達は妻のぶの気に入り 男に譲って遊んでいたが、名は総本店でも実力は東京の本で、事実のぶには献身も厭わないものばかりであるのみ 材 素店にあるので、何かあればその後援でやってゆくという有か、この派の中心人物はのぶの乳母で、今は女中頭、この 様であったので、清兵衛としては実父母を東京に迎えた方女のこの世で大切なものの第一は御新造様、第二は鹿島屋 が、その晩年を楽しく過させられるし、又、自分の代になの富、第三が家附き娘の聟の清兵衛と、こう決めてかかっ しぶき つぐ みつ

8. 長谷川伸全集〈第11巻〉

528 が二人、刺青を二の腕からのぞかせていた。木挽町の宿車 の若い衆なのである。 深川島田丁の鹿島清左衛門の庭園は千坪余りあったもの清兵衛は結城そっきに別織の博多帯、白足袋もびッたり だったが、 大正の震火災に焼亡して、跡形なしになり、田足に合い、明治の当世風で一分のスキもなく、巻煙草入、 せき パイプ、手鞄どれも西欧迥かなる地の物であった。頭髪は 舎造りの堰をみせた潮入りの池、林間に数知れず据えたさ まざまの古い石燈籠、それこれ引ッくるめて、江戸末期の惣髪風にうしろへ櫛目をみせ、モミ上げは耳の上まで剃り しま 茶人と庭師とが、心を配ってつくりあげた林泉の美は、在あげてある。モミ上げを長くのこし、頭髪は左右にわける りし日の夢と消え去り、岩崎家の清澄の庭園とちがって写としか知らないここに居る人々には、飛んでもない異国風 にそれが見えた。、 カ横浜居留地に行けば、外国商館の邦人 真も伝わらず、今ではロ碑がいくらか伝えるだけに過ぎな くなっている。そのころの当主の清左衛門は、清兵衛の実番頭のうち地位やや高きは、もッと異国風を和服のときに 父の兄という血のつながりはあったが、東京の鹿島の側にも取入れていたのだが、片道並等二十銭の新橋横浜間の汽 起っぺき筋合い古き人で、茶人という高踏的な趣味家であ車はあっても、商売の違いと、保守の感情とで、和洋調和 きざ る一方では、東京に市制が布かれたときーーーそれは清兵衛の清兵衛の新風俗が、奇ッ怪とも気障とも見えた。そのこ ぜんすけ ろの東京人の殆どが矢張りそれであったのではあるが。 が二十四のときーーー推されて一族の鹿島善寿計ともども、 東京十五区の一つ、深川の区会議員となり、善寿計が府会清左衛門は新風俗を嫌悪はするもののいそのため甥の清 議員になった後も区会にとどまり、前後十一一年間の区議兵衛を憎む気は持たず、写真道楽とそれに伴う底抜けの遊 で、清兵衛を深川和倉町の本店別荘に喚んだとき、区議と蕩とに苦り切っているだけのことであった。 して十年に近い経験をもっていた。その日は早くから和倉清兵衛が、このたびはご心配をかけ、相済みませんと採 の別荘にきて、清兵衛の母や大阪の兄、東京の姉ともど拶したのがはじまりで、兄や姉から叱言が出た、母から歎 も、清兵衛の到着を待った。その末座に大阪の兄の附き人きが聞かされ、清左衛門からは江戸時代風な歯切れのいし . の牛谷立之助がいて、だれの話にも相槌をうち、だれの話大叱言が出た。立之助からも清兵衛の行状が一族の間でど んなに不評判かという話が出たが、立之助に対してだけ清 にもパッを合わせていた。 約東の時間きツかりに清兵衛は、サシ輓きの人力車でや兵衛は、じろりと眼をくれた。それは、手前は黙っていろ いと叱ったとおなじ効果が出て、立之助はむかッとした顔 って来た。車夫は黒鴨仕立てといった拵えの威勢のいいの

9. 長谷川伸全集〈第11巻〉

「兄さんは僕にあやまるのですよ、外国へ永らく行ってい もしませんが、女中まかせではないんです、子守の小女が て帰ったのに、何もしてやれない無力の兄になって済まな一人いるだけで女中などいませんもの」 いと、畳に手をつかないばかりにして、云ってね」 「ばん太は、、え、そうじゃなかった、おえつは洗い晒し 「そうかい、身から出た錆とはいえ、可哀そうだねえ。くの浴衣を着ていたといったねえ、それでは写真で知ってい らし向きはどんなだい、立之助さんなどがいうとおりかるあの別嬪さんとは、さぞ顔ちがいが今はしているだろう し」 「ええ。楽ではないようです。おツかさんにお願いがある「いいえ、今でも綺麗ですよ。あッそうか、おツかさんが のですが」 訊きたかったのは、洗い晒しの浴衣と僕がいったの 0 、ロ 「清兵衛に会えかい」 グに洗濯もしないのを自堕落に着ていやしなかったかと、 「兄さんは今夜ここへ来ます、その前に、暑いことは暑いそうなのでしよう。姉さんはきりッとしています、厠へ僕 のですけれど、丸山まで行っていただけますか」 ははいりましたが、拭き掃除が届いていますもの、外のこ 「ばん太とやらいう女に会えというの」 とはいわないでも見当がつくでしよう。おツかさん、日盛 「おツかさん怒らないでください。ばん太というのは前のりはもう過ぎました、といったところで暑いが、丸山へ行 こと、今はそうではありません、鹿島清兵衛の妻えつですってくださいませんか、そして姉さんに会ってあげてやっ よ。僕は兄さんと一別以来の話をしていて気がっかない振てくれませんか、訳はどうあろうともおツかさん、丸山に りをしていましたが、行ってご覧になるとわかりますが、 はおツかさんの孫がいるんですよ」 なり 苦しいくらしの中でしように、兄さんの服装をくずさせて「清三郎、実はさっきお前が出ていったあとで、あたしは はいません、三人の児にもみんなちゃンとした服装をさせ丸山の玄鹿館の近くまで行ったのだよ」 ています、姉さんはそれに引きかえ、洗い晒しの浴衣なの 「えツ。そうですか、知らなかったなあ」 話です」 「孫の顔をよそながら、遠くからでも一目みたいと思って 素 「何ですと清三郎、姉さんとはだれのことです」 ね、けれど、それかと思う児をとうとう見掛けませんでし 素「兄さんの女房、鹿島えっ子ですよ、僕には年下だが姉でたよ」 とししたあね 的す、年下姉だーー姉さんの指は節くれ立って来ています、 「三つと二つの子は、外で遊んでいたのですがね、乳呑み 台所のことは勿論、自分でやっていると、云いもせず見せ児も子守がつれて、外へ出ていたようでしたのに」

10. 長谷川伸全集〈第11巻〉

ンだい」 「腹立ち任せはいかン、短気出したらいかン」 しんしよう 5 「そらまあ、先方さまのご都合で」 「お使いご苦労、左様ならーーちえツ、俺あ譲られた身上 「天満の兄さんが上京中と違うかい、お前さん一緒の汽車 ( 財産 ) に疵はちッともつけていない、といっては、曳かれ だったンだろう」 者の小唄になるかな」 「はあ、さよで、和倉町にお泊りで」 終いの方の棄てセリフは、明らかに立之助の耳にはいっ 「それに姉さんか。責道具を揃える訳だ。お前さんも一枚 こ。世にいう〃聞かせ〃で、清兵衛がブッ放したロ鉄砲で はいる勘定だ、そうだろう。鹿島一門のうち東京の皆さんあった。 は来ないで、深川の鹿島清左衛門さまだけが来る、そのほ かは、あたしと血の続いた兄さんと姉さん、それから、お このことのあらましを聞かされたばん太は、先ほどから ツかさんと、これだけなンだろう、そうなンだね。よし来消えたままになっていた徴笑を再び見せたが、それは形を た、間違いなく時間通りにゆきますと申上げておくれ。遅微笑にとっただけで、その実は反対のものであった。 かれ早かれ来る筈のことが来たのだもの、清兵衛は悪びれ「あした別荘へいらッしやる前に、お別れのお杯をしてい ず出頭いたしましよう」 ただいては、いけませんかしら」 「荒い申され方だすな、それでは纒まる話がワヤになりま「何だって。又それを云い出すのかい」 すがな。明日のご相談は出来たもンは詮ない、 この上は、 「今まであたし、夢ではないかと思う日ばかり続けさせて いただきましたもの、お返し申さないと罰があたるわ」 四方八方ともに円く納まるようにと、島田丁さんがお骨折 、「どこへ何を」 りだすから、今のように疳癖を立てて物いうたら取り返し つかンことになりますよって」 「旦那を新川のお店へ、それでないとあたし、一生、自分 「立之助さん、その珈琲に手もつけないねえ、ここじやロを悪い女だったと思い出しますわ、きッと」 「あたしはねえおえつ、生涯どんなことがあっても、お前 も濡らさないという気かい」 「滅相もない、何を申されます。珈琲たらいうもン、飲みと別れなどしないよーー実は、いっかも今のようなことを 慣れませぬによって、ようロへもってゆかれまへンのや」お前がいい出したとき、年でいえばわずか十七のお前が、 「うンそうかい。それじゃ、あした深川の別荘で、首の座そう云ってくれるとは、驚きもしたし嬉しく思ったよ。だ へ ~ 旦りましよ、フ」 が、俺はお前を棄てなどするもンか。厭なことをいうよう