352 らしく、将校以下はやがて立去った。しかしこの宿屋のまりた。ということは、乗務員も気がついたろうし、目撃し わりに兵を配置して、三人の動きを監視させた。ロシア側た客もあったろうから、ロシア側の追跡が巻き起されるの は、証拠をおさえてはいないが、三人を怪しいと確定的には必定だが、それは列車が次の駅にとまってからのことた 見ているらしかった。 ろうから、三人にとっては一時的ながら、落ちのびる機会 朝になると三人のうちの一人で上席のものらしいのが、 があった。しかし、ここら一帯はロシアの勢力圏内で、寛 歯を磨きながら歩きまわる形をとって、南松花江のほとり城子の先まで長駆して、長春へのがれ入ることは容易なこ に出た。鉄橋をそれとなく眺め、両岸を見まわして引返しとでない。 た。これをロシア側のもので見届けたものがなかった。だ前こも、つ , ミ、 冫しオカ二十四時間たったが三人はロシア側の が、ロシア側は三人の日本人をとらえることに、決定して手に落ちなかった。三十六時間たったが、ロシア側の追跡 いたらしく、そうした動きが、何とはなく三人に感じられ隊は、彼の三人を発見できなかった。追跡はいよいよ急と よっこ 0 三人は列車の発車時間を見はからって、駅へゆき、発車そこでこの三人の日本人の正体はというと、そのころ満 間際に、寛城子行きの列車に飛び乗った。午後のことであ州の遼陽に駐在している日本陸軍の師団付のものが二名 る。 と、一名の通訳とであった。任務は南松花江の施設配置を 探る軍事探偵であったのである。これは日本の北方警備の 必要上そのころとしては欠き難いものであった。 列車に飛びのりはしたが、それは一時のがれにしか過ぎ 三人の危地脱出はなかなかできない。昼は草の中に隠れ ないので、次の停車駅に着くまでに、何とかしないと三人伏し、夜に入るとばつばっ歩いた。三日目の夜がきたと の日本人は、ロシア側にとらえられること間違いなしであき、三人は、空腹に苦しみ抜いた。ときに暗夜のかなたに る。もしとらえられれば、牢獄にプチ込まれて取調べなく燈火を見つけ、それに引き寄せられるように曠野を横切っ 放っておかれ、病気になって死ぬか、餓死させられるか、 た。近づくにつれて燈火は数を増した。民家が二、三十一尸 どちらかであることは、疑う余地がない。 ぐらい、あちらこちらに散在している。 そこで三人は運転中の列車から、飛びおりる外にテがな 三人がたどりついたのは、部落からすこし離れた民家 いので、ここならという地形を見定めて三人ともに飛びおの、土で築いた塀の外である。その塀に三人とも耳をおし っ ) 0
の女に会うよりも先に教わりたいものです。医師はどこま 十四 で行けばいるでしようか、私はその三人を医者にかけた 豪州人は「妻とおなじ日本に生れた女のことを、語るべ い」というと豪州人は「それは大変に困難なことだ」とい きか否か、妻がいたら相談するのですが」と、前置きしてって説明した。三人の女の夫である中国人が、このごろこ 次のことを語った。 こへ来ているから、その男どもカ ; 、はたして妻を医者の診 ここには豪州人の妻の外に三人の日本人の女がいる。そ察をうけにやるかどうかと、危ぶむのであった。 のうち一人は右の手が利かなくなっている。もう一人は右医者のいる市街地は、四十マイルばかり距離のあるビー の足が短くなって起居に相当の不自由をしている。いずれナムの外にはないという。そのビーナムなら、ここに来る も病疾のためにそうなったのだという。残るもう一人はことき乗った車が通って来たので、日本人は「あすこか」と れも病疾のためだろう、盲目になっている。三人のこの女 いう程度で知っていた。 たちの夫は中国人の労働者である。一人の中国人の生活力豪州人は喜んで、「私の妻がいった。私の国のものは古 は三人のマレー人に相当するといわれるくらいだが、三人い昔から今も、義侠を、人の務めとしているものが少くな の不仕合せな女たちの夫は、そろいもそろってとばくと酒いと。私は今その実証をここに見た。この話を妻が帰って とが好きで、妻のことを振り返ろうともしないので、眼も聞いたら、喜びの微笑をするでしよう」といった。 あてられぬひどい日々を送っていた。それを知った豪州人それから豪州人は、近くの小屋のマレー人を使いにや の妻が救いの手をのばし、一人は二十マイル先から、一人り、三人の中国人をゴム園から連れてこさせ、「この日本 は二十三マイル先から、もう一人は三十二マイル先から、 の紳士が、お前たちの女房を、ピーナムの医学博士のとこ ここへ連れて来たのである。もう三週間も救いの手がのばろまで車へ乗せてゆき、病気が治るかどうか診察してもら されずにいたら、三人とも餓死していたことだろう。あるってやるといっている」と伝えると、手の悪い女の夫と、 いは餓死する前に自殺していたかも知れなかった。ここへ足の悪い女の夫とは、そんなことをいって、じつは女房を 来てからの三人の女のうち肓目の女を除く二人は楽にやれ盗み出すのだろうと、猜疑しているのがありあり見えた。 る仕事を与えられて生活し、盲目の女は、豪州人の妻からそれでは夫も付添って行くがいいというと、一時間につき 贈りものの食べ物によって、生活が支えられている。 幾らの賃銭をはらうかといい出し、はては何の彼のと理竄 この話を聞いた日本人は、顔を紅潮させて、「その三人をこねまわし、結局は物別れとなるより仕方がなかった。
つけるようにして、塀の内の様子を知ろうとした。満州語 く這って捜した。草の中にもぐり込んでいた三人は、そっ と朝鮮語とが、塀のすぐ近くで聞える。どうやらその家と這い出した。女は三人のうちの一人を手さぐりして、そ は、飲み屋で売春宿であるらしいのが、漏れてくる男の高の手のうちに、数個の鵁卵と饅頭と豚のいぶし肉とをわた ッ調子のあくどい冗談から、三人ともすぐ合点した。とこし、「ロスケの兵隊が先程から、ここの人家を一軒残らず ろが二、三人の女の声にまじって、一人の女の声が、日本調べております。三人の悪漢がこの辺へ逃げこんだと申し 語を口にした。しかも一度ならず二度も三度もである。三ているそうですから、あなた方を捜しているのだと思いま 人の日本人はしばらくの間、はツとして黙り込んだ。追跡す」といって、暗い中を手さぐり足さぐりで、三人の先に されている身をちょっと忘れて、こんなところに日本の女立って、半分こわれている物置小屋へ案内した。「ここに ロスケ達がみんな引揚げていった 隠れていてください。 が来ているのかと、驚きとあわれみとからである。 ら、知らせにまいります」といって、引返していった。 三人のうちの一人が、土塀の穴を捜して口をおしつけ、 三人は拳銃を手にして、貰った食べ物を口にしながら、 機会をとらえて、「ねえさん、日本のねえさん」と、小声 ながら何度もいった。それを確かに、日本語の女は聞き付「あの女は本当に日本人かしら」と疑いを抱いた。三人の けたようである。しばらく時がたっと、酔いどれの客たちうちの一人が、物置小屋へ来るまでに聞いたところでは、 がねむったらしい。すると土塀に極くちかい内側のところここの家の主人夫婦は朝鮓の人で、雇われている女は四 で、女の日本語がした。「日本のお方ですか」と。塀の外人、そのうち三人は朝鮮のもの、日本の女は「あたし一人 からそれに答えた。「ねえさんは日本人か。それなら頼む。だけです」ということであった。それを信ずる材料はな 、疑いを解くべきものとてもない。 鶏卵でも何でもいい食い物が欲しい、われわれは三人だ」 そのうちにロシア兵がここの家へも来たらしく、ついで 「どうしたんですか」「露国兵に追われている」女はぎよっ 説としたらしく声が絶えた。少しすると、「そこを動かずに家搜しがはじまった。執拗にくり返される家捜しにともな 、酔い倒れた客が家の外へたたき出されたらしい騒がし 和いてください」と女がいった。 て さも聞えた。やがてロシア兵は乗馬して去って、静かにな 時がそれからかなりたった。物置小屋の三人は、発見さ 時が少したってから、暗い塀の外へ音もなく女が近づい て来て、日本語で、「今のお方はどこですか」と、地に突れずにすんだのは、あの女が秘密を固くまもってくれたれ
米国の移民局はこの三人の母子に、アメリカを去れと命 令を出した。英国領事館はこの母子を引きとることを拒絶 した。領事はいうのである「ゼームス夫人とその子二人は 英国人かも知れないが、英国人だという証拠がそろってい ない。英国領事館がその三人の世話をすることができない 理由は、そのためである」 夫人は神戸に永らく住んでいたという縁故だけで、日本、 領事館に泣き込んできた。日本領事と日本領事館員とは、 神戸に住んでいた英国人のゼームスは、どういうわけゼームス夫人に代って英国領事に交渉したが、その答え は、彼の女たちを英国人なりと断言する根拠を私たちは見 か、妻と二人の幼い女の子を残し、逃亡同様に米国へ行っ てしまった。・ セームス夫人はそのあとを追って、母子三人ていないという、お断りでしかなかった。米国の移民局へ で、米国へいった。そのとき乗っていったのが東洋汽船の相談をかけると、思いの外の結果が出た。移民局はいうの 客船であった。 である「彼の女たちを米国へつれてきたのは日本の汽船で この母子三人は神戸を出て三年目に、夫であり父であるあるから、連れて帰るものも日本の汽船でなくてはならな ゼームスをハリウッドでさがし当て、家庭をもっことがで 。その三人の行く先がどこであるかは、米国の知るとこ きた。ところがそれも一年だけで、・ セームスは再び妻と二ろでない」 ゼームス夫人は日本領事館が奔走の最中に急死した。心 人の女の子を置き去りにして逃亡した。神戸のときとちが って今度は、妻子の行動を東縛するためだろう、旅券をも労のためである。その死体の処置は日本領事館が勢いのお 説って逃亡した。母子は、旅券がないと夫を捜すため米国内もむくところ、やらざるを得なくなったからやった。役所 和を旅行することが許されないのみか、米国に滞在することとしての領事館の金と労力とは、日本人でない彼の女のた てすら許されない。それどころか、夫が仮りに南米にいるとめに使えないので、領事そのほかがそれそれ一私人として 生わかっても、そのために北米合衆国を出ることが許されなの金と労力とでやったのである。 このとき孤児になった二人の女の子ために、起ちあがっ 。母子はそのうえに、夫であり父である男に金も持ち去 られていた。 た在米の日本人がいくらもあった。その中の一人が日本郵 人の心ごころ
ばこそ。するとあの女は、「日本人に違いない。それにし ったその跡だけであった。 ても見上げた度胸の女だ」と、耳に口をおし当てて話し合 九 日本語のその女は、、 物置小屋の外に女がひそかにやって来て、手さぐりで三 しうまでもない、「マンザ臭さが身 人を捜し、その一人をさぐり当てると「もう大丈夫だと思 にしみついて、日本恋しや、やるせなや」という、唄の中 います。この土地のたれかが、私を日本人だとおしえたとの女の一人であるとは、察するにあまりある。 見えて、ロスケの士官がきびしく私を調べましたが、私は この日本人三人のうち一人は、二・二六事件に連坐し 知らないと長い間中いい張り、とうとうロスケは納得してて、陸軍少将の座を追われ、無位無官になった斎藤劉だと 帰ってゆきましたが、あの連中のいつものテで、帰ったと いう。斎藤は、佐佐木信綱博士の竹柏会系統の歌人として いっても、三人かそこらは必ず残っていて見張ります。今名声があった。私はある会合でこの人に会ったことがあ もその通りでしたが、残っていたロスケ三人も帰りましたる。今は世に亡い から、今から二時間ぐらいは、安心して歩いていて大丈夫「日本恋しや、やるせなや」と人知れず涙にむせぶことも でしょ , つ。でよ、・ こ機嫌よろしゅう、さようなら」といつあろう女に救われた三人組とは違う四人組が、その前かそ て、立去りかけたので三人のうちの一人が代表で、「ねえの後かに、おなじ方面に、おなじ目的で派遣された。四人 さん、名は何というのですか。日本のだれかに伝言があれのうち二人は将校、二人は民間人で、将校一人に民間人一 ば必ず伝えます。われわれは今夜の大恩を決して忘れな人という組合せで、二つの組がそれそれ任務についた。 。時が来たらわれわれは第一に、誓ってねえさんの体を やがて目的を達したので、それとなく四人が落ち合い 自由にするために、再びここへ来ます」というのを、暗いイザ去ろうとなり、二人ずつ二組が互いに知らぬ振りで一 中で女は聞いていたらしいが、いっかいなくなっていた。 つの列車に乗りこんだ。列車はハルビン発の寛城子行きで このことがあった翌々年の大正八年 ( 一九一九年 ) 一人のある。前にもいったが寛城子はこの列車の終着駅で、そこ 佐官と二人の尉官と数名の下士官兵が、老哨溝の北と南とを無事に通りすぎれば、日本色がかなり濃い長春にはいれ の駅と駅との間で、かの日本語の女を捜し求めたが、それる。 二組のうち一方の二人がロシア側の密偵らしい満人に目 かと思う一つの噂すら聞くことが出来なかった。飲み屋で 売笑宿のそれはあったが、イヤ、あったのは焼けて灰となをつけられた、と知ったので、その組の二人は、夜に入る
れた敬称である。粂三郎はそのときまたいった、「七年は このことがあってからは、粂三郎に女房の世話をしよう どうしたって女房をもたない、そうさせたくなかったら死というものなく、相変らずの独り身ぐらしでいるうちに、 なずにおくれ」といったが、おていはその言葉を喜んで彼ついに七年が過ぎた。そのころ、これは芦江の話にはなか の世へいった。 ったことだが、粂三郎の舞台に色気はあるがツヤがない、 おていが亡くなって年月がたち、水一尸の芸者で、才知も ハデな芝居をみせはするが潤いに欠けてきた、ということ あり美しくもあり、粂三郎によく尽す女の心に、そのころに気がついた第一の人は粂三郎の母親であった。 赤坂の名妓で小光というのが感心して、この二人を夫婦に ということは粂三郎も知っていたらしく、女房をもつが しようと骨を折ったが粂三郎は「おていに約東があるから 、と、ほのめかされても、前のようにはねつけないの ねえ」とのみで、結婚をとうとう承知しないので、水戸ので、母親は人をつかって、水戸の女が今どうなっているか 女は泣く泣くひき下がった。 を急いで捜させた。ところがその女は、粂三郎が亡女房に それから年月がまたもたってからのこと、粂三郎が北海捧ぐる七カ年独身の誓いに反撥して、早急に人妻になって 道へ巡業にいって、東京へ帰ってくると、そのあとから女しまっていた。 が一人追いかけてきた。これが美人で、世事によく通じて そこで母親は北海道の女は、その後どうしていることか いて役者の女房には打ってつけであった。しかし、粂三郎と、知辺の人に手紙で頼んで捜してもらったが、さつばり はその女を十日余り滞在さぜただけで、北海道へ帰らせ知れない。それではと人をやって捜させたがやはりわから ない。それからも北海道からきた人や行く人に頼んで捜し 亡きおていに、女房をもたないと約束した七カ年はまだてもらったが、一向にわからない。たしか平山芦江も、そ まだなのである。 のころ深く交際していた通人粋人といった手合いに、その 説 女捜しを頼んだ。しかし、捜し当てたものがない。母親は る 良縁があったらと四方に口を掛けたが、縁談をもってくる 0 粂三郎の母親は水戸の女が気に入っていたが、前いった ものなく、女房になる気の女も現れなかった。 生ごとくダメ。その次の北海道の女が来た、母親の大気に入そのころと思う、平山芦江がどういう手続きでそうなっ りで、今度こそと思っていたが帰らせてしまったので、母たか知らないが、芝公園の屋敷に尾上菊五郎を訪問して、 親のがっかりは一方でなかった。 粂三郎のことを頼んだ。その帰り道でわたくしと出会い こ 0
たりに竜光山円融寺という日蓮宗の一宇ありて、宮迫百一一淵なそといった。三ッ股の名は今はハヤ忘れ去られてしま 十戸あげて檀家なり。伴内の墓のことを寺僧に問うに知らったが、新大橋の下で、川が三つに分れるところがあって ず。ただ過去帳に〃元禄十五壬午年十一一月十五日、実相宗名となった。リ 男れの淵というのは、ここが海からはいって 禅清水藤兵衛弟、江戸にて死去。吉良上野介家来。吉良家くる潮と、その反対の方から落ちてくる淡水と、別れ別れ 落居のみぎり主従同死〃とありといえり。ここの児玉藤右になるからだということになっていて、その名が出来た。 衛門はその人の出でしところというに尋ぬるに位牌と九尺それは別の話として、三ッ股あたりが、昼は船からの眺め 柄の槍一筋、相州住広正在銘の刀一口あり、伴内は清水藤がよく、夜景がまたいい、 ことに月の夜は絶佳の景とされ うちわ 作といえるなり。女房は名をモンという。定紋は三団扇なていたので、遊興の客も出れば詩歌をやる人も出た。され ばこそ俗説の作者は奥州仙台の殿さまに、高尾をツルシ斬 りにさせる場所に、ここを選んだりした。 現在この墓の有無を知らない。また、伴内から転じて別 な人物の墓とされているか、否か、それも知らない。 四人の男客がやとい船を三ッ股へ出して、持ちこみの酒 、つ - 勾 - っ を汲みかわしたのは、その年が閏で、月齢が平年とちがっ 五 ていたためかどうか判明しないが、四人のうち三人が共謀 能役者の敵討ち、または、俳人朱角の敵討ちというものして残りの一人を今夜ここで巧妙なテで殺そうとしてい を、潤色や付会から出来るだけ避けて語ることにする。敵る、そのための夜の船遊びであることは、それから間もな く明らかになった。 討ちの事実、といったものが、作り話や、作り話的なもの とは、ちがっていることが、これによって多少ともわかる やがて殺されるとは知るはずもなく、夜景を賞美してい のではないかと思うからである。 るのは、仙台藩伊達家の能役者岩井利兵衛の弟で、前に。 延宝三年 ( 一六七五年 ) 十月二日の宵、男ばかり四人で、岩井久次郎といったもので、仙台伊達家の能役者松枝半兵 を船をやとって、酒肴をもちこみ、大川へ出た客があった。衛 ( 時重 ) といって、岩井一族のところへ養子にゆき、修行を て船頭が一人その船についていた。そのうちに船が三ッ股にしたが、能役者としての天分に欠けていて、どう勉強しても 生ちかくなった。 ダメであったので、病弱だからということにして不縁にな 三ッ股には、漢詩をつくる人などは三叉江などという文って岩井姓に戻った。その後、久次郎は一家のものの意見 字をつかい、歌などっくる人は三派 ( みつまた ) とか別れのもあって、母の方の姓をついで井村久次郎となり、江戸へ
友だちがどんどんできたが、やがて礦山の仕事はイヤだと河の向うだが、そこは満州の黒河という町である。三人と いって、一人が先ず去り、次いで二人が去った。 もシベリアで働いたのでは貯金ができないので、満州のど その年の冬にはいってちょっとたっと、今いった三人のこかで働くつもりだった。ところが三人のうち、江だけは 中国人苦力が、プラゴェシチェンスグ市にはいって来た。事なく検問所を通れたが、アトの李と陳と二人は「ちょっ このプラゴ工というところは、明治三十七年 ( 一九〇四年 ) と待て」をくらった。持ち物を調べられたが、あやしい点 二月、日露開戦となってから、在留の商工業の日本人とそはないし、ソ連将校は部下らしい中国人を使って、ふいに話 の家族とはロシアの官憲から、二十四時間以内にこの地をしかけて二人の言葉のなまりを調べさせたが、これもあや 去れと追い出され、不動産と動産とをすてた男女二百三十しい点はない。今度は用をいいつけて二人の身のコナシを 九人が、雪凍る深夜、少しでも日本に近い所までと、徒歩見ていたが、これもまたあやしい点がない。そこで裸にな で旅立ったところである。この人々は、「もしロシア兵がれと命じて、体つきから中国人でない点を発見させようと たが、これまたあやしい点が見つからない。 しかし検問 女をはずかしめようとしたら全員一致でこれを防御する」 「馬賊の襲うところとなったら、男の全力をあげてこれを所のソ連将校と下士官兵と、それから中国人と、中国以外 防御する」という自衛のための「法一一章」をつくり、相互のものとが、コソコソ談合しているのが、殺気をはらんで 自粛のための三章の法もっくり、死線を越えて生きて日本きて、二人の苦力が脱ぎ捨てにしてあるボロポロ服を取り あげた、と見て李と陳と二人の苦力は、丸裸のままアテも へ帰ろうと出発し、翌三月三十一日、チチ、レこー / ノ到着した。 ところがこの人々はロシア軍官憲にとらえられて身分が一なく逃げ出した。 転、昨日は引揚げの日本人が今からは捕虜の日本人となっ 汪だけが乗った渡船がそのとき、シベリア側の岸から放 こ。難行苦行の果て、数カ月の後にウラル山中に収容され、れた。 靦そこでもまた囚人以下の扱いを受けたが、ついにアメリカ をに救助されて、その力と、ドイツ人の協力とで、その年の て十二月、日本へ帰ることが出来た。という約二十年前のこ検問所詰めのソ連兵が、続けざまに追い撃ちをかける銃 生とを、この三人が知っていたかどうか、さだかでない。 丸をのがれた丸裸の苦カ二人が、プラゴェシチェンスクの プラゴ工市にあらわれた三人が、その次の朝早く、黒童街へ駈けこんだ。その日は日曜日で寒冷のきびしい早朝で 江の渡船場へあらわれた。ここの対岸は、といっても広いあったので、街にははとんど人通りがなかった。二人の方
ロシア陸軍のために働き、ハルピン郊外で銃殺刑についた 横川省三たちの公判の通訳は、彼であったと信ずべきだ と、潮野が後にいっている。 十 潮野は予審判事をそっちのけに、前田清次に食ってかか 薬売りが三人、露領のウラジオ近辺で商売していると、 り、その果ては、なぐり倒そうとしたので、その日はそれ 乗馬のロシア将校が六人の乗馬兵をつれて現れ、有無をい で取調べ中止となった。その次の取調べは、その年の十一 わぜず捕縛して、スラウャカの陸軍系の監獄に拘禁した。 月に一度あったのみで、翌三十六年一月と三月とに取調べ 日露戦争がはじまる二年前の明治三十五年 ( 一九〇二年 ) 七があり、驚くばかりの西欧風の料理にプランデー・ブドウ 月十四日のことである。投獄された薬売りは壮年の潮野岬酒を添えた卓につかせ、そのあとで紅茶をのませ、煙草を 之助と、若い鈴木重治と塩谷孫七の三人であった。この人すわせ、私は日本軍人であるとだけいえ、とざっくばらん たちは東部シベリアの総督の信用状をもっていたが役に立の態度ですすめ、潮野がそれを相手にしないと態度を一変 たなかった。 させて、浮浪癖という条項に当てはめるがいしか、それだ 潮野たち三人は、たった一度だけの取調べで、放っておと三人とも四カ年間シベリア地方で強制労働に服し、その かれること六十二日間、九月十四日にウラジオの民間監獄あとはサガレン ( 樺太 ) に送られ、強制労働に服すること終 へつれ込まれた。ここでは予審判事に取調べられたが、予身である、と絶えずわめき立てた。鈴木重治・塩谷孫七の 審判事よりも一人の日本人が潮野を「お前がいくら隠して二人もこの手を食った。しかし三人とも、ロシア側の注文 もダメ、ウラジオにいる日本人の多くが、お前は日本の職どおりにならなかった。 業軍人であるといっているから、今のうちに自白したがい かくてその年六月二日、潮野たち三人は、再び陸軍の方に 、自白以外に寛大な判決を下される途はない」と、大体差し戻され「いよいよシベリア労働が四カ年、サガレン労 この調子で責め問うた。この日本人は、ウラジオ東洋語学働が終身と決定だ」とおどかされ、「特別赦免を得るに一 校の教授前田清次であった。潮野たちのこのことがあってつの方法がある。それは軍人だと自供すればいいのだ」と から九年後の明治四十四年の夏、芝公園に〃露探殺し〃とカ : 「仮に五年の禁錮刑を宣告して置いて、程なく特赦と いう事件があった。殺したのは今村勝太郎で、刺し殺され いう特別なこともある」とか、いろいろ持ちかけられた。 たのはウラジオにいた前田清次である。彼は日露戦役には三人ともそのテに乗らなかったところが七月十日、宣告さ 話の最後は、「これはわが海軍部内で有名な話だからねえ」 であった。
452 円あたえられた。これをリュッグサックに入れ銀行家はじ め一つ建物のうちに籠城した人たちに別れを告げ、街へ出 ると間もなく、懇意にしていた雑貨商の満州人が追いかけ新京へ引返してからの料理人は、前のように、高層建築 て来て、別離の涙とともに三日分ぐらいの食料をくれた。 の地下室に寝起きした。間もなくソ連軍の先兵が市街へ進 新京を出たのは早朝であった。道中のどこでも、日本人入し、次いで本隊がはいり、特務隊がはいり、街の形相が であるがゆえに迫害されるということもなく、そのころ奉たちまち一変し、日として街頭に死体を見ざるなく、路上 天といった都市へ、あと日本里程で一里弱というところまに鮮血のタマリを見ざるなく、深夜に人の悲鳴をたびたび でくると、「もしもし、日本のお方ではありませんか」と、聞くようになった。 三人の乞食が草の中から出てきて、「あなたは新京から来彼の料理人に三十万円わたしてくれた銀行家は、ソ連軍 たのでしよう、それなら新京へお引返しなさい。わたくし がはいってきて間もなく、ロスケのマンドリンといって、 達三人とも新京から二十万円内外の紙幣をもって日本へ帰恐れられている自動小銃をもった六、七人の兵をつれたソ るつもりで出てきたのですが、奉天の入口で第一回の強盗連の士官がやって来て、どこかへ拉致した。その恐怖につ 団に襲われ、市街へはいってからは二回まで、強盗団に襲づいて今度は、この高層建築の一階以上に寝起きしていた われ、所持金はもとより何も彼もことごとく強奪され、わ日本人が、片ッ端からソ連兵に連れてゆかれ、前の銀行家 ずかに生命だけが盗みとられませんでした。今わたくし達とおなじく、そのまま消息を絶った。 が引っかけているこのポロ着物は、強盗団の中の三人がわ ある夜、地下室で料理人は、「おれはソ連の兵隊のため たくし達の着物を取りあげ、自分のポロ服を脱ぎ捨てにしには一皿だとて料理をつくってやらない」と、心のうちで た、それを拾ったのです」という意味のことを語った。 誓うともなく誓った。銀行家をはじめ、幾人もの在留市民 料理人は五分もたたないうちに、ポロ服の三人の男と共 の日本人を、拉致するときの彼らの態度は、鶏舎の中から に新京めざして歩きだしながらいった。「だれも見ていなっかみ出し、食料にするために持ってゆく鶏と変りのない いところで、金が三十万円ありますから、四人で平均に分扱い方、その非人情に対して、無力な者のやるせめてもの けましよう、それから食糧をもっていますから、それも四抵抗なのである。 人均等に分けましよう」 ある日、高層建築のどこにスキ間があったのか、一人の ソ連兵が自動小銃を右手に、地下室へ用心ぶかくやってき