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検索対象: 長谷川伸全集〈第12巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第12巻〉

て飛んで出たところ、外は三方とも燃えさかる火で、のが母の最後の顔を思い出したのであったかも知れない。土岐 れ出るべきようもない。気がつくと庫裡の軒下に、コンク はそのためであろうか、焔の中を駈け抜けていた。 リートづくりの用水桶があり、水が一杯張ってあった。土今までと火の熱さがちがうのに心付いた土岐は、どこの 岐はその中へはいり、頭に水をかけているうちに、屋根の火をくぐれば命助かる方へ出られるかと捜したが、三方と 瓦がくだけて落ちて来るのが焼けていて、用水桶の水に触もに到底くぐり抜けられそうもない。一方は建築物で、そ たるき れるとジュウという、椽が焼けて燃えつつ落ちてくるのがの前に燃えるものなき大地がある、といってもそれは、後 眉毛を焼き、頭髪を焼くので、これでは死ぬと、天水桶か にそうと知ったので、そのときは火気の及ぶことやや弱 ら這いだして地に伏したが、煙と熱気とが風で吹きつけ苦 、そして火のない方へ、フラフラと歩いて行っただけで しくて耐らず、またも用水桶の中へはいると、降りそそぐある、そしてブッ倒れた。そのうちにぐあンという大きな 火の粉が肩にかかって熱くてやりきれず、外へ出て地に伏音響を頭の上に聞き、飛びあがってふり向けば、トビラが したが、降る火の枌に背中を焼かれ、用水桶にまたしても大きく口を開いていた。土岐はそのトビラの内へよろけ込 這いこむ。これを繰返しているところへ、一人の男が急にみ、トビラを閉じると、内側がヒャリとしているのに気が あらわれ土岐が用水桶から出るのを見て「この場所くださ ついた。 い」といった。土岐はその男に取りあわず、火の中へ飛び そこは鉄筋コングリートづくりの宝物庫であった。が土 込んだ。 岐はそのとき全然そうとは知らなかったのである。鉄製の 土岐はこのときのことを「母が私の目の前でほかの八人防火屏がどうして急に開いたか、土岐にいわせると、「母 の年寄りと一しょに火に包まれたのですから、私も焼け死です母が開けてくれたのです」という。寺ではこの宝物庫 んでもいいと思いましたから火の柱が何十何百となく立つの鍵がこわれていたので、鍵の代りにワイヤーでぐるぐる ている中へ突入したのでした」と後にいった。 巻きにしてあったという。そのワイヤーを後で見ると、捻 土岐は火中へ飛びこんだ刹那、最後に見た母の澄み切っじ切ったようになっていた。 けんてき た顔を見た、火の中に見たのか眼の中に映るがごとく出て 土岐の手が硯箱にふれた。手は硯滴 ( 水入れ ) にのび、残 きたのであったか、当人にもそこのところの記憶が確かでっていた水を口へ入れた。そのすぐ後で、半死半生でころ ない、がしかし、母の澄み切った顔を見たことは確かだとがった。翌十四日の昼が来ても、半死半生のままであっ いう。或いは火の中で土岐は、キラリと一瞬のうちだけ、 こ 0

2. 長谷川伸全集〈第12巻〉

ろうか、三十両もらったのだが、三カ月弱の雇われ中に、 がなかったためか、下田のお吉のように有名なものになっ 二度にわけてした十五両の前借りを差引かれたから、手取ていないのでーー唐人お吉は下田の医者村松春水の永い努 りは十五両であった。 カから世に広まったもので、いろいろの人が小説に書した リスがお吉を解雇したのは、前にもいったが安政四年 が、「時の敗者』 ( 十一谷義三郎 ) がもっとも有効で、それを 八月。その翌年 ( 安政五年 ) の正月のこと、伊豆の下田からもう一つ有効にしたのは、東京湾汽船の菊池専務が、商策 は方角ちがいの函館の浄玄寺という寺に、函館の遊女屋丈として「時の敗者』を下田大島行きの客にタダで贈り、お 吉の抱え女お玉が、公然はいり込んだ。浄玄寺にはアメリ 吉の宣伝にいろいろ手をつくしたのが、今のように絶対な 力の貿易事務官ライスが、寺の中の一部に仕切りをして住伝説となったのである。お玉、ライスの後日について、今 んでいた。そこへお玉は支度金五両、一カ年の給料百三十はもう知るものがないのではなかろうか。 両で、話がきまってやって来たのだという。ヒュースケン 話は開港後の横浜居留地にもどる。そのころやって来た の妾の取り前を、一カ年に引直してみると八十四両または欧米その他のものは甚だしい玉石混淆で、西洋人の幡随院 九十両となる。函館のライスの妾は、それよりも四十両ま長兵衛といわれた英人シメーツのような人もいれば、取込 ) たは四十五両多い み詐欺によく似たテで、日本の商人を貧乏させて平気なャ ついでながら・・ライス事務官が捕鯨船アンテリョ ツもいた。それでなくても、赤ン坊の手をねじるよりも容 ー号に乗って函館へきたのが昨年、というのは安政四年の易に、日本人の手から金を取りあげる東洋植民地ゴロがい こと、その四月六日に、大統領の信書をもって上陸し、函くらもいた。その一面にはヘポン博士や・ハラー宣教師のよ 館役所と交渉をはじめたが、乗ってきた捕鯨船が出帆するうな人や、それから外交官の中にも、商人、技術者の中に ので、旅館の手配を函館役所に頼み同月七日から浄玄寺のも、立派な人がいくらもいた。と同時に、日本人の中にも・ ヒにーいャツかし / 中の一部に手を入れて異郷の男やもめぐらしがはじまっ た。それから半年余りの間、ライスは旅館の使用人は、日 本人の男ばかりであった。その男の使用人中から、アメリ カ風の洗濯をおばえて、函館最初の西洋洗濯業をはじめた 目しいったオイレンプルグ伯は、テンボののろい幕府の 人が出た。 外交官たちに、さんざんてこずったり、ジリジリさせられ さてその後、函館の唐人お玉物語というものを作った人たりした揚句の一八六一年一月二十四日 ( 万延元年十二月十・

3. 長谷川伸全集〈第12巻〉

は、「寒中の河川において水泳をやった前例がない」とい 快晴でばかばかと暖かいその日、そのころ四十ぐらいで うのである。阪本は引っこまない。「進歩の実験を拒否すあった阪本謹吾は、体温を出来るだけ保つ方法として体に るは間違いでしよう」と、さまざまの例を引いて、許可す鯨油を塗り、耐寒水泳最初の実験を浜町河岸ーー夏季にな る義務があると主張した。 ると水練場が設けられたところーーでやった。実験第一回 水上署もそこで不許可の理由を明らかにした「大寒のとを失敗しないために水泳の場所を、河岸に沿ったところと き川の中で泳ぐということは自殺である。水上警察署は多決めた。さて実験が無事におわったとき、医家の診断は、 く経験によって、寒中に裸になって相当の時間中、水泳す阪本に何の危険も起りかかっておらず、夏の水泳直後とあ るということには同意いたし難い。なぜならば、十中の八 まり差がないということを明らかにした。 九その水泳者は死ぬからである。死ぬと予想されるものに 第一回が成功したので、翌年の大寒中に第二回の寒中水 同意は出来ないではないか」 泳をやった。このときは水上署が陰に回ってまで援助し 阪本は押し返した。「それは民衆保護の任にある立場かた。阪本の耐寒水泳がモノになれば、水上勤務者にとって らそういうのだろうが、死なぬという責任を私がもち、山は、闇の中に一つの燈明をみたようなことになるから、カ 田医学博士にもってもらい、当日は同博士に立会ってもら ッこぶを入れたのであったろう。ところが第一回とちが 、また門人数名を川つぶちに待機させて、万一の場合に い、今度は大川の水の中が異変をおこしていた。 備える、これではどうですか」といったのがモトで許可に 第二回の当日の大川の水力サが、ぐっと増しているの なった。とはいっても水上署は当日の状況次第で中止を命は、前日に川上の地域で大雨が降り、その水が注いで来た ずるという条件付であった。 ので、いくらか水力サが増していてもそれは、恐れるにお よばないのだが、水の中が荒れ狂っていたのには恐れを感 説 じた。しかしそれも泳ぎ切れたが、この上にきびしい寒冷 東京ではじめての耐寒水泳の実験は、その年の大寒に入ともう一つ強い水勢とが一つにな 0 て人間に当 0 て来る てって数日目に、大川端でおこなわれた。山田医学博士 ( 鉄と、どういうことになるかわからない。 : 、 カこの日の実験 生蔵と聞きおばえている ) は、イザという場合のために救急準は困難はあったものの、まず無事におわった。ただし阪本 備をととのえて立会い、門人は大川端のトッパナに数人がは水中で、底の方のすさまじい流れに負けかかって、これ 配置され、水上署員は河中から船で立会った。 は殺されるかも知れぬと思ったことが、二度ばかりあった

4. 長谷川伸全集〈第12巻〉

坂東三八は腕達者の役者で、坂東家橘の門人である。 原節子もハマ出身だということだが、私は素顔を見たこ この家橘は十五世市村羽左衛門の父で、十五世羽左衛 とすらない。黒川弥太郎もハマ出身だが、この方は些かな 門は今も人々の記憶にのこっている。直侍・お嬢吉三 がら知っている。舞台の役者では新国劇の島田正吾がハマ ・お祭り佐七・盛綱・実盛その外、多くの当り役があ の出身、辰巳柳太郎とともに私は殊に親しい。大江美智子 り、戦時中に信州湯田中で死亡した。先ごろ歿した羽 ( 二代目 ) もハマ出身で、住居は今でもハマである。私は不 左衛門は倅で、十六世である。今ちょっといった坂東 二洋子とおなじように、大江をよく知っている。この人達 三八の倅の立花家藤枝は、ソッポ ( 顔 ) もわるくなし、 のことは今でも語るべきものがあるにはあるが、他日のこ 背丈も頃合いだし、芝居も心得ているのだが声の柄が ととして、ここにははとんど知られていない横浜に関する 悪く、こわれた鉦のようである、そのため東京の大芝 白話 ( ムダばなし ) を一ッ紹介しておく。 居にいられず、横浜へ来て賑座の座付きとなり、身分 中村伝五郎 ( 前名は中村鷺助 ) は、幕末から明治へかけて は座頭であった。であるから三河屋荒二郎や市川宗三 江戸・東京の役者で、後に先代中村鴈治郎一座に加わり、 郎や、おなじ家橘の門下の坂東橘蔵が加入しても位置 大阪芝居の人となって大正初期に世を去ったが、身分のそ きやくざ は客座であった。客座は今でいう特出 ( 特別出演の略語 う高くない歌舞伎役者の修行中の見聞を、書き残してあっ で芝居言葉 ) である。賑座の座付き制が解体してから、 たのを『役者修行艱難記』と題名をつけ、『松竹関西演劇 藤枝は父三八が羽左衛門の父の弟子である縁故によっ 誌』 ( 日比繁治郎編・昭和十六年刊・非売本 ) に収録されてある て羽左衛門一座の役者となり、坂東藤十郎と改めて、 ので、横浜関係のところだけ次に摘要してみる。 旅興行のときなどは大役を勤めた。一度か二度のこと 横浜の羽衣座へ坂東彦三郎といって、幕末から明治初期 早、がしら へかけての名優が座頭で興行した。その一座の中に片岡我 かも知れないが、私は羽左衛門の盛綱に、藤枝改め藤 当 ( 十一世仁左衛門 ) の弟子で片岡当燕というのがいた。身 十郎が和田の兵衛を勤めたのを観たおばえがある。 あいちゅう 蛞分は相中。伝五郎はこの相中のことを「これは立廻りも出話は元に戻る。片岡当燕とな 0 ても幕内のものは、前名 来ず、と申してセリフもいえぬ、下手な人を置くつまらぬの橘八と呼んだ。この男の女房はお元といって女髪結で、 川崎の大師に詣でたその足で、亭主の橘八が出勤中のハマ 身分にてござります」といっている。 片岡当燕は前名を坂東橘八といい、坂東三八という役者へやってきて、宿屋へ行くと橘八は不在で、伝五郎がい た。お元は伝五郎と世間話をして、亭主の帰りを待ってい の弟子であったことがある。 こ

5. 長谷川伸全集〈第12巻〉

510 説、戯曲に書こうとする人間の生活にヤマのないはずはあ 云うものがあるものだ。それは、たとえ平凡に観客の前に 演出されていても、三分たてばその並ならぬ立派さと云うるまい。そして、ヤマは自然と出来てくるのではないか、 ものは人々に思い出されて理解されるものである。小説のちょうど、崩れ落ちる砂の中から岩が浮き上がってくるよ うに、生活の波の中から、特に顕著なものが次第に大きな 書き出しもこれと同じである。 ウネリとなって現れる、それを待つべきで、作者がこれは 書き出しと結びの上手な作家は、名作家になれなくも玄ヤマにしよう、と作り上げるものではないと思う。 人にはなれる素質がある。役者でも、舞台の上の出入りの新聞小説の場合は、一日一日に小さなヤマが要る。これ は、新聞小説と云うものが、或る形式を必要とするからで 上手な者は有名にはなれるものである。 書き出しが大事なのと同じく、この結びも大切なものである。新聞に連載する、と云うことは、毎日続けて読む人・ ある。中には最初から結末を作って書いている作家もいるだけでなしに、或る日フト読んでみた、と云う読者も考慮「 ようだが、私は結びを考えた、と云うことはない。書いてして、或る一日分だけでも、ほかの人に話して聞かせられ 一つのポイントを持ったものを三枚半ほどの中 いる途中作品がどう変ってゆくか、私にも分らないのであるように、 る。主人公がどう云う心理過程を辿るか、最後までは作者に書かなければならぬのである。この毎日のポイントが集 って、小説全体のヤマとなるのである。ヤマと云うもの にも分らないことではないかと思、つ。 は、本来は一緒のものであるべきだろうが、内部的なもの と外部的なものの二つに解釈出来よう。新聞小説には、こ これは変則だろうが、私は常に数多くの主題をもってい る。材料が多いのだ。書こうとするとき、どれにしようの外部的ヤマの方が多いようである。 か、と迷うはどである。甲を主題として書こうとする。そ の心の中に熟するのを待つうち、それが乙の主題に変って大事なことは、ことに長篇などでは適度のダラシ、と云・ しまう、と云うことはままあることだ。これが決定するとうか、読者がホッと息をつくところを忘れてはならぬこと だ。たとえば誰にでも分る例をあげると、浪花節の名人が 名も決まってくる。 一人で四つを語るとする。この時、語り手が名人であれば 人間、生きているかぎり、誰の生活にもヤマはあるだろあるほど、四つの出し物は決して同じ調子のものを選ばな いのである。まず一番はいいものを大事に語る。然し、一一 う。我々とて考えてみればヤマがあるのだ、ましてやト

6. 長谷川伸全集〈第12巻〉

のを待ち、一人は小さな駅で下車した。それを見て密偵が駅長室へ駈けこみ、電話機に飛びついた。ほどなく、乗馬 あわてふためいている。そのスキにもう一人も鉄路におりのロシア兵が七、八騎あらわれ、姿をくらました日本人探 て姿を消した。この二人の日本人はどちらも何度か危険を索のため、駅を中にしてその前後左右に散開して、草むら おかしはしたが、無事に長春には、つこ。 の中、林の中に、銃丸をめったやたらに射ちこんだ。 列車に乗っていた二人の方は、客車がちがっていても同 僚のことである。どういうことになったか知っていた。と ころが夜が明けると、どこで乗ったものか、目つきのけわ その日本人はというもので、生れは仙台、昭和初期に しい、満人らしい二人があらわれていて、二人の日本人の私はこの人物と、ちょっとしたイザコザで、何度か出つく うち一人だけに注目している。馬賊ではなかろう、ロシアわしたことがある。一時は張作霖から月給をもらっていた 側の密偵にちがいなかった。 という。今は世に亡い 寛城子の一つ手前の駅に、列車がはいると、二人の満人それはさて、はロシア兵が射ちこむ弾丸とは、方角ち がこわい形相をして、注目をつづけていた方の日本人に近 がいの草むらの中にもぐり、彼等が飽きるのを気ながに待 づき、「下車しろ」といいかけたとき、その日本人がのつ った。その効あって時間はかなりたった後だが、彼等は去 そり起ちあがり「邪魔だ、おれは下車する、どけどけ」 った。とはいっても、遠くで、駅の近く一帯を監視するだ と、天津あたりの労働者用語でいって、下車しながら、銀けでなく、二、三騎ずつで巡視もしている、つまり彼等は 貨が少しまじっている銭十五、六枚を、昇降口に落した。網を張り、逃げた鳥を捕えようとしているのである。その すると密偵の一人が、その日本人に続いて下車しながら、 うちにロシア兵の数はふえた。あちらにもこちらにも、馬 仲間にいった。「お前その銭を拾え」車中にのこっているの蹄の音がするのみか、姿が絶えずどこかしらに見えてい もう一人の日本人はそのとき、どこを風が吹くかといったる。 は度胸よく、夜に入るのを待ち、草むらの中から出 顔でいた。列車はしばらくして発車した。そのころ密偵の て一人はデッキの銀貨と銭と、車外に落ちた銭とを拾いあった。旅行者とわかるおそれのある物はみんな棄て、ちょっ 生め、列車が出るのを待ちかね、落ちている銭を拾いに線路と見たのではこの地のものらしく、鼻唄などうたって夜道 を歩いた。一、二度、ロシア兵に出つくわしたが、鼻唄が におりた。 その一方ではもう一人の満人が、大声で叫ぶと、駅長が役に立って疑われなかった。村落から村落と、三つばかり

7. 長谷川伸全集〈第12巻〉

もんもんとしている。それをみた六人の学生が、また牛鍋のは、そんなことがあるものか、であったからだ」ともい っ・ ) 0 屋へつれ込んで大いに食わせ慰めた。そのとき一学生がこ ういうことをいった。「彼女は結婚はしても数日か十数日 一学生の姿がその翌日からどこにも見えなくなった。そ のうちに、必ず逃げかえるといったのだが」と、憂いに閉れから三十余年になるが、六人の中のだれも、彼の消息を ざされた顔をした。 知っているものがない。ただ、こういう余談だけがある。 その数日後、六人の学生は一学生に呼ばれて集ったとこ六人の中の一人が西南地方のある県の部長でいるとき、こ ろ、一学生は「彼女は前にいった通り、結婚して三夜おくのことをそのときの地方長官にしたところ、その長官は舌 っただけで逃げ帰っている」と青ざめた顔になっていつを鳴らさぬばかりにして、「そういうときは、処女なりと た。六人の中の一人が「それで君は彼女と会ったのか」と判定するものだ。それが信頼だ。ヘンに知的に走り、医者 聞くと、一学生は頭を横にふった。そこでまた、「いずれに処女膜をみてもらって証明させるなどバカな真似をすれ 君は会うだろうけれど、会えばどういう話が彼女から出るば、彼女の男性観が狂うなあ」といって惜しんだ。 のかしら」というと、一学生はいよいよ青ざめて、「結婚 このことは故甲賀三郎に聞いた。有名な探偵作家であっ してくれというさ、もしそうだったら君達ならどう返事すた甲賀は、六人中の一人で高級な官吏になっていた人から るかい」とただした。六人は黙っていた。すると一学生が聞いたのである。 声をふるわして「彼女は花婿と、三夜、同衾したけれども 四 処女であるというのだ、君達はこの言葉をどう思うかい」 といった。六人の学生は当惑した。 戦後の食糧不足のときのこと、京都にそのころ住んでい その翌々日だかに、六人の学生と一学生とが集った。六た志智双六君が懇意にしていた刑事巡査が、石油罐二つを 説人の学生はそれぞれ年長の他人に意見を徴した。がしか 天秤棒でかついでゆく老爺をつかまえた。夜のことであ をし、一人か二人の意見を聞いただけで、経験と環境とがめる。罐の中は配給以外は禁制となっている白米であった。 ていめい違う何人かに問うことをしなかった。だから六人が是非に及ばず警察にショッ引いたこの老爺に、年を問えば 生一学生にあたえたこの際の〃人生答案〃は、処女であると七十二歳といった。今の七十二ではない。戦後のあのだれ いうことは信じがたしというのであった。「何となれば、 もが飢餓におちいっていた時代の七十二である。 我々が質疑して歩いた既婚の男性たちの経験のおしえるも警察署の裏口から刑事部屋へつれ込まれた老爺は、禁を

8. 長谷川伸全集〈第12巻〉

312 型に組んだ刑器に手と足とをかたく縛りつけられ、多くのだと、思わないわけにゆかないからである。 一行は帰朝して報告した。時にわが国力は弱く、内政に 人にかつがれて山へはこばれ、人跡なきところの地上にそ 憂うべきこと多く、外患もすこぶる多く、問罪の方法を講 のまま棄てられるのである。 山の中に棄て置かれた死刑の者のその後がはなはだしくずることが出来す、世にいう泣き寝入りとおなじ結果とな って、歳月移り、世界の情勢かわり、このことを小島に語 酸鼻である。人々が去ってしまうとその後に群がり出てく るものは山アリで、小さな山アリでも二寸から三寸ある。 った船乗りは、約二十年の後、偶然の機会から乗っている 大きいとなると一尺に余る、これらが群襲して噛むので、汽船が再びかの島嶼に寄港したところ、そこはポルトガル 手足を刑器にしばられている被刑者は、苦しみに耐えられ領となり、島のものはその権力下に屈し、昔日の観まった この叫喚は風に送く失われていたのを見て、つくづく思ったそうである。国 ず叫喚する以外は、何ごとも出来ない。 られて遠く村落にとどくのだが、ここの人たちは意に介し力が弱いと、死んだものに線香一本すら満足に供えてやれ ないのだなあ、と。 ないそうである。叫喚の声は七日目にやむのが普通だとい う。死体は永久にそのままである。 一行はそれよりも惨なる事実にぶつかった。権力ある島 の人の家にまねかれ、炉をかこんで饗応をうけているうち東京の大学の法科の学生の中に、友情によって固く結ば 一室に数人の女が縛られているのを見て、刑罰中の女れている七人の一団があった。その中の一学生に恋人があ オカ悪い結果が迫っているときになっても、六人に黙 だろうと思っていたところ、その女たちは食用であるとわっこ、、 : かって、一行は血が凍るばかりに驚いた。それのみか先方っていた。 は、どの女を食おうと欲するかと、慇懃にたずね問うた世事に通じない六人の学生は、親友の一人に何か事がお こっているらしいのにやッと心づき、質問した。そこで一 が、専ら辞退して、一行の食用のために女が殺されること を避けたが、先方はなおも、どの女を食うかというらしい学生は、恋人が家庭の事情のためやむを得ず他に嫁入りす る、悲恋をうち明けた。そこで六人の学生は一学生を牛鍋 ので、言葉は通じないながらも百方固辞した。がしかし、 それからしばらく時たってから、串にさした肉を火にあぶ屋へつれてゆき、大いに食わせ、思い思いに慰め激励し ったものをはこび、これを食べろとすすめたが、一行中のた。 そのうちに一学生の恋人は結婚した。さすがに一学生は だれも手すら出さなかった。さっきの女のうちの一人の肉

9. 長谷川伸全集〈第12巻〉

はお前だけではないかと答えた。そこでおれは助ける決心出資金は満額を超えた。超えた方の金はその娘の新出発の をつけたが、方法がわからないのみならず、救出に必要の資金にさせた。この娘がこの島を去るとき、莫蓮とか阿婆 金も、おれが受取る戦時加算付きの今月分では足らぬらし摺れとか人もいい私もいった慰安所女が、わがことのごと こういう時はどうすればいいのか、相談 こ乗れ、とい く泣いて喜び、帰って後の身のもち方について助言するの うのである。矢野はよろしいと引受けた。 を見ていると、姉か従姉に違いない真実さがれていた。 昼食がすむと矢野が、食卓についたそのときの将校たちそしてその次の時間には、莫蓮女となり阿婆摺れ女とな に呼びかけ、今日午前中に、軍医によりて発見された娘る。 を、救出するか放置するかを問うたところ、救出せよと一 この島にも水兵中に悪徒がいて、夜中に原住民の家に押 人残らず答えた。無論、この答えを求める前に、軍医の臨入り、強盗した外に、女を汚して逃げたイヤな事件が起っ 床報告と所感とが述べられたのである。 ていた。この犯人は当夜の風紀衛兵の責任者であった兵曹 救出資金がみるみる矢野の軍帽の中へ集った。軍医はそが、夜が明けて二、三時間のうちに捕えた。犯人は佐世保 の月の受取り分をそっくり出した。集ったそのときの総額で後に重く罰せられた。 は、たしか八百何円かであったと憶えているが正確を欠い そこで救出された娘だが、ずうッと後、舞鶴鎮守府に転 ている気もする。矢野は時を移さす、慰安所関係の責任者じた矢野中佐のところへ悲嘆の手紙を送ってきた。娘は台 と、女の監督や金銭収支の担当者を、司令部の主計長室に湾の台南で生れて育ったのだそうである。 きむすめ 呼び、軍医の検診報告書をつきつけ、生娘をこんなところ 五 へ持ってくるからは話に聞く誘惑の嫌疑をかけると叱りつ 、娘に関する書類一切の即時提出をもとめその書類を検娘は三竈島から台湾の台南市へ帰ってから、世話する人 討して、前借金返済の金額をその場で決め、娘の身柄を酒あって、知事の次の次ぐらいの地位の役人のところに、女 保の責任者に預けた。悪い仲介人があって売り飛ばされた中さんに住込み、幸いな月日を送っていた。そのうちに米 この娘は喜びのあまり、顔をくちゃくちゃにして泣いたこ屋の店員と恋仲となり、話が正当にすすんで、婚約するま と、 いうまでもない。 でに行ったところ、人あって男の両親兄弟親類に、あの女 矢野は第十四空防備の中少尉以下の寄付金は断ったが、 は南シナ海の離れ島へ、兵隊相手に体を売りに行って来た 司令阿部弘毅少将はじめ、大尉以上の寄付金を受けて、救ものであると教えた。このため婚約は取消された。

10. 長谷川伸全集〈第12巻〉

気がっかないが本物になったらしく、本気になってあたしけたときにおこる奥さんはないでしよう。奥さんのはうは が聞くようになってきたときには、自分のポケットの中に外に出て働く旦那に風邪を引かないで下さい。なに云いや かぜ は感冒薬があったり傷薬があったり、繃帯があったり、水がんだという野郎はいるようですが、もしそういう野郎が 繃帯があったり、そういうふうになってました。ですからおりましたら、奥さんの誠意を感じて、なに云いやがんだ わたしは、、、 しことっていうか、悪いことっていうか、そという態度になっていただかないことです。これは簡単に こ自分の家 れは知らないが、真似から本物に入っている道を歩くとい できます。嘘だと思ったら人様にやるよりは、。 うことは、人にほめられることじゃなくって、自分が楽しの中で兄弟の間でも、夫婦の間でも、親子の間でも、従兄 いことなんで、自分がすがすがしい気持になれることなん弟ハトコの間でもおやりになってお試しになるのがご徳用 で、これはわたしがもっと偉い役付きになるよりもはるかであります。 こう云ってますと、お説教しているようですが、お説教 に大きな仕事だと思ってわたしはまあ楽しんでます」。こ う云ってました、この話に似たことは、たぶん趣きが違えではないんであります。言葉をかえていうと、これは一種 ばどちらさんにもあることだと思いますので、まあ嘘だとの遊戯だと考えて、遊びだと考えてやってごらんなさいま 思ったら、やってごらんなさるとよろしいんであります。 し、決して悪い気持のものを人に与えるのでもなく、自分 朝、出掛けに、旦那さんが出勤するのを奥さんが送ってに与えるのでもないということは確かであります。まずい しい云い方でないといけないのであ 出るときに、旦那さんなるものが振りかえって、「おい風云い方はだめですよ、 ります。 しい云い方というのは、電車の中その他乗物の中 邪引いてくれるなよ」と一ト言いって出て行ったらどうな りますか。友達が蒼い顔をしたときに、「なにかあるのか、で見てらっしやると見本がいくらもありますから、それか なにかあったら相談し このろうか」と云って声をかけたらどらお取りになると、けっこうなのではないかと思っており うなりましよう。親父さんがあって老衰していたらちょっます。 と立居のときに手を貸したらどうなりましよう。やってご ◇ 混らんになるとこの答えはすぐ出てくるのですが、もう一つ もとで 石の云い方をしますと、これやったところで、資本がかから食べる物で好ききらいがどなたにもあるわけですが、私 ないのであります。風邪を引いてくれるなよとやさしい言などもあるほうですが、あるとき、芝居で弁当殻を掃除し 葉、事実はそうですが、最初のうちは嘘つばち、それをかているのをふと見かけたら、食える物を残してるやつがな