軍といっている主力の一つ、仙台藩中心の史実書で、即ち峠は同じ山形県でも、羽前の置賜郡の金山でなく、それよ 梁川播摩の側の本である。『桂太郎伝』にある金山戦争はり北の方の羽後の最上郡金山町である。この方の金山は戸 のぞき 前に引いた『殉難小史』の文章にもある通り、梁川播摩の沢氏の旧藩地新庄の北にあたり、金山、及位を経て杉峠、 いんない 軍を攻撃して破った長州隊の隊長の伝であるから、申すまそれを越ゆれば秋田県雄勝郡の院内に出るのである。そこ でもなく西軍即ち攻撃軍の側の本である。『戊辰出羽戦記』で今度は現地の大体を知り舞台面を撰むために『最上郡 は秋田藩の側から出た本なので、反仙台側、又、『新庄藩史』 ( 明治四十一年刊、最上郡役所版 ) を一督しなくてはなら この本は製作に必要とするものに大体答えてくれる 戊辰戦史』は金山峠の戦いと、もっとも深い因縁にある新ない。 庄藩戸沢氏の軍を中心にした本なので、ことにこの時の戦だけのものが記載されている。 金山峠の方はこれで判ったが、梁川播摩の邸宅が判らな いに於て、仙台藩を反撃した新庄藩の側であるだけに、 「仙台戊辰史』と『新庄藩戊辰戦史』『桂太郎伝』『戊辰出くては困る。私は前段に播摩の母が僕幾之助に金山の陣に 羽戦記』とでは、原告と被告との相容れざる立場を約束さ赴くことを命するところを書き、後段に金山峠を書くつも れた著述である。それだけに、材料採取には好都合でありでいるからである。手懸りは再び『仙台藩殉難小史』に る。大西郷を戯曲又は小説に材料するに、大西郷の伝記を逆戻りして、それにある梁川播摩略伝に行かねばならな ことに明 譬え百冊読んでも得たる材料は片面にすぎない。 治期に至っては、大西郷の政敵たりし人々の伝を読むこド 言レ丿「播摩略伝」に梁川家は栗原郡鶯沢の邑主で御一家格、政 宗の時一千石を給う、故ありて禄を収め祀を絶っ、後三百 ざれば、材料の整備は難い。 以上の他に『維新日記』 ( 橋本博編 ) 『仙台戊辰戦史』 ( 仙石を以て家格を復せられるとあり、『仙台戊辰史』にも小 しもべ 台下飯沼秀治著 ) などをも参照し、劇作上の〃背後と右翼と伝あり、『仙台戊辰戦史』にもあるが共に僕の名を逸して いる。そこで『仙台人名辞典』にまず当ってみると播摩は 左翼〃とがまず整ったので、このうえは〃劇作上の現場〃 いみな を整えなくてはならない。前者は予備行為で後者は実現行梁川頼親の諱の方で出ているが「殉難小史』を引いた記事 混為である。勿論、ここまで来ていれば金山峠とは何処かとでそれ以上の記載がない。別に「梁川播摩の僕」という一 石いうことは既に判っている。しかし、手近く簡便に金山峠項があるが、これは『仙台戊辰史』を引いたもので、義僕 を知ろうとして、『大日本地名辞書』にこれを探ると、大の名がない。それではと今度は『栗原郡史』 ( 大正七年、宮 概羽前の金山を引き出すだろうが、ここでいっている金山城県栗原郡教育会版 ) にかかった。まず「封建時代の栗原郡」 へんめん
世ノ孫ナル左膳勝頼ノ女ノ婿ナリ。梁川家ニ入婿セルら得たのである。ただし、ただ廂にのせただけでは印象が 主水ハ後ニ佐渡ト云エリ。ソノ子播摩頼親ハ三十七歳浅いので、百姓夫婦をつかって、落ちたる一頭を廂に戻す ニシテ羽後金山峠ニ戦死ス、謚号ハ誠忠院殿剣山冬忠のに四ツの〃手。をつかった。廂から落ちたのが一、夫婦 居士ナリ。歌アリ「慕うそよ過ぎし昔の数々を数ならで廂へ戻さんとして戻し得ぬのが二、不吉なれば人目に触 れさせじで後手に隠すのが三、人目なくなりし故、女房を ぬ身を是にくらべて」。 さてその次に一応知っておきたいことは仙台藩の一家と踏台にして廂へ戻し終るのが四である。劇作の〃手〃を語 いう格のことである。これは『仙台市史』第一巻では的確るのではないから、こういうことは以後においては除くと に知るを得なかったが『仙台戊辰史』によって知るを得して、村の若者が聚義隊という仙台藩の義勇兵団に加入す た。仙台藩では一門十一人、一家十七人、準一家八人、梁る目的で、宮参りをして告別に立寄る件りがあるが、その 宮はこれも『栗原郡史』を探り、陣屋八幡宮が由緒もあり 川は一家十七人の内にある。 土地の人の信仰も篤いらしいのでそれにした。が、登場す 「金山の戦い』一幕に着手したのが昭和十年四月十一日のる若者三人の加入を目ざす義勇兵団を何にするかを決しな タ四時頃で、翌十二日午前四時頃までの約十二時間で一応くてはならぬ。で、仙台関係のそういう兵団を調べるまで 出来あがったのを、約十二時間休息して改修に着手し、こもなく思いついたのが聚義隊である。仙台藩の戦闘に参加 れは約八時間かかったと記入が残っている。もっとかかっしたものでは細谷十太夫の俗称からす組の衝撃隊がもっと たはずだ。こういうと前に挙げただけの材料整備でよかつも有名だが、仙台大町の博徒親分今助が隊長であった聚義 たかの如く聞えるが、そうではない、製作の進行とともに隊も又よく闘いよく働いたのである。それを私は使った。 後半の「戦後」と題した場では「宮さん節」をうたわし 漁り拾い用いた材料の出どころは多い。その一々を今憶え くらか憶えている部分を試みに語ってみるている。思うところあって私は「みなさん節」にした。声 ていないが、い に掛ければ同じになるのであるから敢て改めたのである。 と次の如きことになる。 混まず「戦前」と小さい題をつけた前半の一場の風物的な歌の文句は前の一章は耳に熟したものを使い、後の一章は せこ 『仙台戊辰史』と『会津戊辰戦争』と『幕末側面史』とに 石ものに私は七夕祭をつかった。奥州栗原二ノ迫鶯沢という 地方的色彩を点するために、播摩の屋敷の廂に、藁の牛と求めて、そのどちらかだったかを採って使った。二十二歳 馬とで七頭をのせる行事は『栗原郡史』にある年中行事かの桂太郎が登場するが、製作中に眼瞼の裡に描いてペンを さぐ
516 んとは、今は使命を致すべき所なし天なり命なり、希 から改題した。 くば主人に殉じて冥府にその使命を伝えん、請う拙者 はね の首を刎られよと、決心面に現れしも、太郎甚だその これは明治戊辰戦役の一小角度に起った事実を、多少の 志を憐み、慰諭すれども動かず、太郎即ち兵士に命じ 劇的要意に包んで書いたもの、それによって " 戯曲と材料 て新庄に檻送せよ決して殺す勿れと命ず、幾之助切り 整備〃に関する私一箇の憶え書をつくってみよう。 に請うて已まず、部卒隊長の命を俟たずして之を斬 『仙台藩戊辰殉難小史』 ( 大正六年刊、仙台藩戊辰殉難者五十 る。 年弔祭会版 ) を読んでいると、「秋田口戦況」の記事のうち ゃながわはりま に、仙台藩の七番大隊長梁川播摩以下三十余名の明治元年さてこれを劇作の素材にとるとして、これだけでは、あ くだ 七月十一日、金山峠に戦死の件りがある。梁川七番大隊長まりに用に役立ちかねる。もっと材料を整備しなくては の戦死だけでは、劇作昻奮を受けなかった、又、梁川大隊 " 幅と厚み , とが戯曲に出てこない。戯曲の幅や厚みは材 カ材料の整備された 長が監察の五十嵐岱助と敗戦の現場で刺違えて死んだこと料の整備だけで出るものではない、 : 、 しもべ 梁川の僕である丹野る場合は材料の整備を欠きたる場合よりも幅及び厚みがよ も、製作昻奮を起させなかった、が、 幾之助の事蹟を読むに至って、劇作昻奮をうけたのであり出る可能性を持つのであることは云うまでもない。 ます以て私は金山峠の戦いとは明治戊辰戦争に、如何な る。『殉難小史』にある事情は次の如きものである。 幾之助即ち長州隊の陣所に至り隊長に面会せんことをる役目をもちたるか、金山峠の戦いは如何なる結果をつく ったか、それを知るべく着手せねばならないのである。 乞う、隊長桂太郎出て隊士安村桜太郎をして脱刀すべ そこで私は『仙台戊辰史』 ( 明治四十四年刊、藤原相之助著、 きを命ず、幾之助即ち刀を脱して進み、隊長に謂て日 仙台荒井版 ) 『戊辰出羽戦記』 ( 明治二十三年刊、狩野徳蔵著、 く、不肖は仙台大隊長梁川播摩の臣なり、主人死せり と言う真か。太郎日く、然り。幾之助日く、首級あら吉川半七版 ) 『新庄藩戊辰戦史』 ( 大正十二年刊、常葉金太郎著、 ば示されよと、依て播摩の首級を示す。幾之助膝行し新庄葛麓社版 ) 「桂太郎伝』 ( 大正六年版、徳富蘇峰編、故桂公爵 記念事業会版 ) 、まずこれだけに拠り攻撃軍と防禦軍の双方 て進み、熟視幾や久うして落涙雨の如し、鳴呼是なり 是なり万事休す。桂日く、汝何の為に来るかと。幾之の、原因、経過、戦闘、勝敗を知ることが出来た。右に挙 助涙を払って日く、拙者主人の母の命により所用ありげたうちで『仙台戊辰史』は昔は賊軍といったが、今日に て急行し、今日到着せり、図らざりき戦歿首級に見えなれば賊軍でないことは明らかなので、東軍又は奥羽同盟 やひさし まみ なか
とになり、迎えに来てくれた人に背負われて、私どもと別敷まで届けて仕まうと、それから自分の内職に仙台地方ま れてゆくとき、おばんッあんは、タア公に礼をいい別れをで船をまわして、何か商いをしておったそうでございま 告げた。その晩も空襲があって爆弾が地をふるわせ、焼夷す。ある日の事でございますが仙台から帰りがけに仙台沖 弾が夜を赤く染め、私の知っているだけでも、多くの戦士で颶風に出遭いまして、船は粉微塵にくだけてしまい、自 ならざるものが命を失った。おばんッあん達はその中で、分は所持の金を胴巻に入れて身体に巻きつけて、板子一枚 を抱いて怒濤の上に浮んでおりました。さすがに船頭でご 幸いにも仙台へ行くことが出来た。 東京は多くの都市とおなじように、行き過ぎた戦法の下ざいますから水練には妙を得ておりますし、また潮流の向 にプチのめされ、日に日に滅亡へ向っているとき、私どもきも心得ておりますから、どこか都合の好いところを見定 のところでも、だれとも同様に、戦災の焼け出されさんにめて、自然の流れにまかせて流されておったものと見えま 来て貰うので、タア公のように私どもには忠実だが、知らす。そのうちに助け船が来まして、そらあすこに一人浮い ぬ人にはなかなか気を許さず、ことに爆弾、焼夷弾と、私ているそ、あれを助けてやれ、というので、兵右衛門の間 どもがうろうろするのとで、気が立っていて、人を噛むだ際まで船を漕ぎよせました。ところが兵右衛門が、平気な ろうおそれが強くなったので、私どもの手のうちに抱いて顔をして助けにきた人を眺めているものですから、助ける 方で、どうだ助けてやろうか、と申しましたら、兵右衛門 やって、別れの食べ物をやってから殺した。 タア公を埋めたところは、私どもがいつも目の前にしてが、何ばで助けチグルルかといったので驚いた助け船の者 いる処である。私どもは気のせいだろうか、タア公が夜更がツイロに出して、一両出せとか二両出せとか申したとこ 、礼にだろうか遊びにだろうか、来たことがあつろが、兵右衛門が承知しない。それじや高いから半分値に けに庭へ たと信じている。 負けろ、といって値切った。助け船の者一同があきれてし 説 まったが、よんどころなしに我を折って助けあげたそうで る す。随分大胆な強情な人もあったものです」 これは「一瓢雑話』 ( 今泉一瓢・明治三十四年刊 ) にある。 「今から五、六十年前のお話でございますが、豊前中津の 生藩主奥平大膳大夫のお上屋敷が江戸鉄砲洲にございました著者は奥平家の旧藩士の子である。 私の作品には、「恩は着るもので着せるものではない」 時分に、お国元から毎年お年貢米を回送して来る兵右衛門 という船頭がありました。この者が何百石かのお米をお屋という台詞がちょいちょい出てくるが、船頭兵右衛門が思
の、っち一画人ともに 岩井利兵衛が助太刀という名で参加したのはそのためであ慎みおれとなった。宮城郡福沢は古内造酒ノ祐の屋敷のあ うしろみ る。後見といっても助太刀とおなじ意味であるーー・敵の第るところである。つまり仙台藩は両人に罰をくらわせた形 一人とする野田宗伴の屋敷が鎌倉にあると聞き出し、ひそをとって、じつは相手方に油断させようとしたのである。 かに二人で、江戸から出掛けたのを知ったかっての宗順の鎌倉の野田宗伴はそうしたワナが仕掛けられているとは 養父の松枝半兵衛と半兵衛の実子の嘉兵衛、それに宗順の心付かず、私設の探偵を江戸に出し、松枝久左衛門・岩井 弟の岩井小三郎・五郎助兄弟が、久左衛門と利兵衛の後を利兵衛のことを探らせたところ、国もとへ追い返されたと 追って、鎌倉へはいったところが、野田宗伴に味方する土わかった。なおも確めると、仙台へ戻され、古内家の采邑 地のものが、前の二人と後の四人のヨソ者を、たちまちのに謹慎させられていること確実なりとなったので、愁眉を うちに見付けた。 ひらいた。 ところが、井村宗順殺しに手を下した甚兵衛と新六郎と 九 は、鎌倉住居に飽きたからでもあろうが、久左衛門等の様子 数日の間、松枝久左衛門を中心とする松枝家の両人と、 を探索すると称し、ひそかに江一尸へはいった。多分、金貸し 岩井利兵衛を中心とする岩井家の両人と、あわせて六人が業の上級社員のようなことをしていた二人だけに、江戸の 協力して、泉谷の野田宗伴と、小谷甚兵衛・山崎新六郎と、女と酒とに、辛抱ができないぐらい用があったのだろう。 三人の敵を付けねらったが、宗伴らの用心きびしく、外出江戸ももちろんそうであるが、どこの藩地でも、追放処 もしないし、忍び込むことも出来ず、討入るスキすらない分をうけたものが、立入り禁止をいい渡された地区へ足を ので、どうにも手の下しようもなく、ひとまず江戸へ引揚入れると、〃立返り者〃といって死刑に処される。ことに げる外なかった。 江戸は法規を実施する基準の地であるから、立返り者の処 る 藩では久左衛門等のやり方を、知って知らぬ振りでいた分が励行された。小谷甚兵衛・山崎新六郎の二人は発見さ てのだが、鎌倉から江戸の藩邸へ久左衛門・利兵衛等がもどれて捕縛され、立返り者として、伝馬町の牢屋敷の中にあ 生って来ると、藩老の古内造酒ノ祐 ( 重直 ) が、久左衛門と利るドタン場で、首を切られてしまった。 兵衛とを呼び、その方たちはすぐに仙台表へ立ち戻れと申野田宗伴は甚兵衛・新六郎が、宗順殺しとは関係なく、 しわたして、旅立たせた。二人が仙台へ帰り着くと、藩の立返り者として死刑に処されたのであるから、あれとこれ
から丸子の渡しで川を越して池辺から二俣川・瀬谷へ出て敵討ちというものは旅費も探偵費も自分持ちである。伊 和田・俣野と、迂回して藤沢へはいったのだろう。 勢亀山の敵討ちで〃元禄の曾我兄弟〃といわれた石井源蔵 藤沢に一夜を送った久左衛門は、同行の三人を残して、 ・半蔵兄弟を例にとると、兄の源蔵は行商人・博徒・虚無 ただ一人 ( 鬚の権兵衛と二人ではないかと思う ) 鎌倉へはいっ僧・人夫・中間奉公をやり、弟の半蔵も年少であったが、 た。腰越を回ってはいったことであったろう。 これも労働で銭を得て、そのあとで中間になり若党になっ 鎌倉にはいった久左衛門は、扇ヶ谷の分陽山興禅寺に居た。百の敵討ちのうち九十八、九までがまずこれに似てい 山和尚を訪ねた。居山は仙台領松島の瑞巌寺の法燈である。昔の芝居や物語のうち、往々にして敵の討人を乞食に る。久左衛門は古内造酒ノ祐の添書をもっていたので、居してあるのは、今いったように、 一切自弁から生じて来る 山は快く迎えて客とし、援助もした。さだめし藤沢にいた惨苦を現わしたもので、敵の眼をくらますための表現のみ 利兵衛・虎毛等も、鎌倉へはいったことだろう。 ではない。天保ごろに土佐の武市兄弟は敵討ちに出たが、 久左衛門等は泉谷の野田宗伴を付けねらったが、備えが兄は伊予で、弟は讃岐で、俗にいう行倒れの死者となって 堅固で手の下しようがないので、已むを得ず、数日の後いる。病驅のため、自力で食うことが出来なくなった結果 と思える。 に、再び空しく江一尸へ引揚げた。 事件の発端から、足掛け三年の延宝五年 ( 一六七七年 ) の 仙台藩の鼓の名人で白極彦兵衛 ( 良次 ) は、久左衛門に敵 松の内が過ぎるのを待ちかねて久左衛門等は、第三回の鎌討ちの資金を贈った。白極はハグゴウと読むのだそうであ る。 倉入りをやった。 仙台伊達家の士で遠藤平太夫 ( 定富 ) は、安宅という僧を 十二 して、鎌倉の宗伴の動静を探らせた。多分、この僧は門付 松枝久左衛門と岩井利兵衛の一組と、斎虎毛と鬚の権兵坊主をやったのだろう。それならば毎日のように宗伴の屋 衛の一組とが、前後して江一尸を後にし、前とおなじく間道敷の付近をうろついても、怪しむものがないわけである。 をとって、藤沢に入り、それから鎌倉にはいり、扇ヶ谷のこの安宅は、仙台では寛文騒動といし 一般には伊達騒動 興禅寺で落ちあい、泉谷の野田宗伴の様子を探ったが、前といわれている一件の、伝説的でない方でも姦党の頭とさ 二回のとき同様に、用心堅固に構えていて、つけ入るスキれている渡辺金兵衛ーーー芝居の「伽羅先代萩』 ( めいばくせ が全然ない。 んだいはぎ ) では千松を刺し殺す八汐の夫ーー・を弾劾して、 かどづけ
162 の多気太郎吉の子で、松枝久左衛門 ( 時元 ) といって今は優の裏には、幕府側の何かに対して、敵討ちの免許をして 秀な能役者となっていた。多気はタケと訓む。 は、具合のわるいことがあるらしい という推測をした久 松枝久左衛門は十六両十人扶持を給されている能役者だ左衛門は、それならば勝手に行動し、勝手に敵討ちをやる が、前鬼流という剣法の奥義を究めているのみならず、文と決心し、一先ず江戸へ出ることにハラをきめた。 学にも浅からぬもので、殊に俳人としては万水堂朱角とい 殺された宗順の兄を岩井利兵衛 ( 重成 ) といって仙台にい 、有名な大淀三千風の高弟である。 たが、久左衛門の相談相手となり、助力者となり、時には この久左衛門が、表には合法で、その内容は、幕府の下指揮者になった。この二人が敵と目したのは野田宗伴を第 した刑の裁定に対して抵抗する決心を固め、その実行にと一に、その次はト、 ′谷甚兵衛・山崎新六郎の二人であった。 りかかった。 江戸へ出た久左衛門は、岩井利兵衛の意見にしたがっ て、あらためてまた敵討ちの願書を藩に出した。ところが 江戸でも国許とおなじことで、願書が久左衛門に差しもど 殺された井村宗順の弟を、岩井小三郎・岩井五郎助とい された。そこで久左衛門は藩にも幕府にも無届けで、敵討 ちにかかった って、仙台藩の江戸屋敷にいた。兄の敵討ちをしたいと、 両人連署で藩へ願書を出したが、相成らぬと却下された。 そのころ野田宗伴は相州鎌倉の泉谷に、宏大な屋敷を構 その一方で仙台にいる松枝久左衛門が、敵討ちの願書をえ、金に飽かして腕利きの浪人を多く抱え、利益をエサに 藩に出した。小三郎兄弟なら兄の敵討ちだが、久左衛門で土地のものを味方に引入れ、内には防衛力を置き、外には は敵討ちに起っ縁故がないのだが、願書にはその点をはっ巡視同然の警戒線をもち、カタキ持ちらしい備えを立て きりさせている。「井村宗順こと前名岩井久次郎は、松枝た。 半兵衛の養子を不縁となったが、久左衛門が父母というが 松枝久左衛門と助太刀の岩井利兵衛とはーーー敵討ちとい ごとくに、松枝家の両親を父母として仕えたのみか、そのうものは、親のためには子が敵討ちし、兄・姉のためには 死するまで、子としての礼を執っていたのであるから、井弟・妹が敵討ちするもので、子のために親が出るのは失格 村宗順は義においてかく申す久左衛門の兄である」というである。昔の言葉に〃子供の喧嘩に親が出た、ワアイワア 見解であった。藩はこの願書も却下した。 イ〃というのがある。そのモトは今の敵討ち律から出てい 藩は被害者の弟両人にすら、敵討ちの免許をしない。そる。だから当然、弟とか妹とかのために、兄や姉が敵討ち
470 がなくなっていたので我が子がどこかへ去った気がして、 ころに預けられた、里子である。 茫然となったのであるという。このときこの老女に声をか その一方で和喜次の生みの母きんは、親もとの芝白金の けた最初のものは、前にいった案内嬢であった。 魚屋三次郎夫婦のところへ引取られ、川村庄右衛門とも、 千秋座の人たちそのほかの奔走で、この老女は、やがて生みの子とも縁が切れた。 映画俳優のわが子に東京で再会した、その俳優の名は、今 和喜次の養祖母きょはすぐれた人なので、高橋是清の全 も忘れずにいる人が少くないだろう、藤田東洋君である。生涯にわたって、大きな影響をあたえたそうである。和喜 たしか玉川の近くにこの藤田東洋は今、閑日月を楽しんで次が十一歳のとき、おまえの生母に逢わせるからとて、寺 いると聞いている。 の許しをうけて、芝高輪の妙源寺へつれていった。妙源寺 イバネスの短篇小説に、死んだ子を銀幕に見出して、母は魚屋三次郎の菩提寺なので、この寺で聞けば和喜次の生 はその映画を、上映される先々に、追っていって見ると いみの母の現住所がわかると思ったのである。ところが妙源 うのがある。 寺の僧はいった。「そのお方なら二年前にお亡くなりで、 どこの国の人でも、いつの時にも、こうしたことはいっ当寺の墓地にお葬りいたしました」 も、繰返される悲劇か喜劇かどちらかで 祖母きょは妙源寺で、きんの亭主が芝浜松町の塩魚屋幸 次郎であることを聞き、和喜次に生みの母の墓参をさせ、 十三 その足で浜松町にいっこ。 五反田から白金の方へ坂をのばると、仙台藩菩提所の寿塩魚屋幸次郎は不在であったが、後妻のすずが二つぐら 昌寺がある。その寺に仙台藩の足軽の子で十一歳の高橋和いの女の子を抱いていた。女の子の名はかね、亡くなった 喜次が、藩士の世話で奉公にあがっていた。そのころ菩提きんが生んだのだから、和喜次にはこの子が妹なのであ 寺などに奉公していると、抜てきされる機会にめぐりあうる。高橋是清は後にこの妹を、エ部大学教授の化学者小出 かね・一 ことがある。この高橋和喜次が後の高橋是清である。 秀正に嫁がせた。そのときの名は香子。才色兼備の女性で 和喜次の実父は芝露月町の幕府御用の屏風絵師探昇、通あったという。 称は川村庄右衛門 ( 守房 ) で、四十六歳のとき、十六歳の侍 さて十一歳の和喜次は、二歳の妹をみることは見たが、 女きんに男の子を生ませた。その子は生れて二、 三日目格別の感慨とてなく、また、祖母もこれが妹にあたる子そ に、仙台藩の江戸屋敷にいる足軽高橋覚治 ( 是忠 ) 夫婦のとと、わかるように説いて聞かせもしなかった。 ほうむ
このことを平山芦江に話すと、彼は四谷塩町を通行中『太平記』にある越前敦賀の金ガ崎落城のところに、籠城 に、秋菊に行き会ったときのことを話した。「通りがかりひさしく、食べる物なく溲せ衰えた人々のうち、死せる敵 の若い奥さまに最敬礼をやり、平山さんこちら様はお岩さの肉をひとロ噛んで敵中に斬って入る、凄惨なところがあ まで、といいかけると、その若い奥さまが、いえいえわたる。徳川の中期にちかいころ、大名の跡継ぎの少年が虚弱 くしは大岩ではありません、田宮と申します」 なので、養育教導の武士がこれを憂い、江戸の市中見学に 四谷怪談のお岩にたたられる亭主の伊右衛門の姓は、田つれ出し、途中で休憩しているとき、自分のどことかの肉 宮である。 をひそかに切りとり若き主人をだまして食わせたという、 途方もない藩士の記述を、見たことがある。明治戊辰戦争 のとき、捕虜になっている仙台藩士に薩摩の兵が人肉をく 仙台藩に荒井九兵衛という武士があった。大層なムチャわせた。その怨み忘れがたく、明治十年の西南の役に仙台 グチャ者で、腕ずくが始末に悪いくらい得意で強い、気のの旧藩士で警視庁の抜刀隊に応募したものが、九州の戦地 強いこともズ・ハ抜けているのみか、少し異常なところすらで捕虜となった薩摩の兵に、人肉を食って往年のわれらの あって、人間放れのしたことを好んでやり、他人が迷惑し辛苦を知れと、仕返しをやったという話がある。たしか仙 たり、苦しむのを喜んでいる厄介ものであった。藩を代表台の史家藤原相之助も、これを著書に採って入れていたと する有力者たちはこれを放っておいた。戦争とか争闘とか思う。 が起ったとき、藩としてこの乱暴ものは有用な道具になる あるとき九兵衛は、死刑になった罪人の晒し首を刑場か からと、知って知らぬ振りであったから、何をやっても処ら盗んできて、他人の家へ客になってゆき、そこの小用大 罰されたことがない。そうなると度を越えたムチャグチャ用を足す場所へ引ツかけた。それが、イヤでも面と向うと ころへ引ツかけたので、用足しにきたものは鼻の先に、さ をこの九兵衛なる者がやるようになった。 和九兵衛は刑場の死体小屋から盗み出したものでもあろうンばら髪の人間の生首をみるわけなので、武士だろうが、 てか、人肉の切りミを料理して自分も食ったが、客にも食わ武士の妻や娘だろうが、これを見て気を失わざるはない。 生せ、そのあとから「さっき食ったものはウマかったろう。九兵衛はそれをこの上もなく面白しとして喜んだ。 ウマイわけだ。人間の肉だからな」といって、驚き騒ぐ客幕末の羽州庄内 ( 鶴岡 ) 藩の中村次郎兵衛は、私の『相楽 総三とその同志』にその行動の一部分が出ているがこの人 を見て甚だしく楽しんだ。
170 のか、明らかでないが、久左衛門が短刀を手さぐりで抜いもあり、引揚げの手伝いをしたものもあった。 た方が先であった。これで勝敗は決した。宗伴は水の中で この一行が引揚げの途中で、水が欲しくて通りかかった 三刀刺されて即死した。 家へはいり、「水を所望」と申入れるより先に、この家の 時に暗闇の中から飛び出した一人の男が、川の中へ駈けもの残らずが逃げてしまった。この家はさっき利兵衛に立 込みざま、敵を仕止めている最中の久左衛門の後から、っち向って斬られ、逃げ帰ったばかりの間田弥左衛門の家で づけて二度、背中を刺し、三度目を刺そうとするところあった。 を、虎毛が、片手にあかりを高くささげつつ、その男を、 興禅寺に着いた一行は、久左衛門に手当をしている一方 片手討ちで斬って棄てた。この斬り棄てられた男は、宗伴で、宗伴の屋敷にいる浪人その他が、押しかけて来るかも の召使いの者か、それとも姿をさっき消した護衛四人のう知れぬと利兵衛・虎毛・権兵衛等が、対敵準備をして待っ ちの一人か、その当時は土地の人々の間ではその名を語り た。しかし、一人としてやって来るものがなかった。 伝えたのだろうが、今では名を知るべくもなくなってい 翌日 ( 正月三十日 ) 江戸の仙台伊達家の藩邸へ、松枝久左 る。敵討ちの例でみると、百のうち九十九までは、討たれ衛門が宗伴を討ったりと知らせが届いた。古内造酒ノ祐の た敵の側についたものは、姓名を記されるとすれば悪名を手を経てであるはいうまでもない。 多少とも着せられる。無名のままならば、蛇足の如きもの 二月朔日、仙台藩は江一尸の藩邸から、今村隼人 ( 重成 ) に かちめつけ である。殊に物語作者やロ演者ではそうである。 徒目付伊藤覚内 ( 重定 ) を添え、高山惣兵衛を案内に、七十 久左衛門はうしろから背を刺された二度とも、着ていた人の足軽隊を率いて鎌倉に向わせた。 くさりかたびら 鎖帷巾が役に立って、微傷だに負わなかった。しかし、そ翌二日の白昼、鎌倉で、今村隼人等は久左衛門を引取っ れは今いった男が刺した二太刀だけのこと、そのほかにはて駕籠に乗せ、江戸へ向けて出立の途中、今村の指図で、 重軽傷九カ所を負っていて、歩くことすら出来ない。 久左衛門の乗っている駕籠の戸は左右ともに開け放しにし た。これは野田宗伴の屋敷の前をワサと通過するためであ 十六 る。「久左衛門を討取りたくば討ってかかれ」という意味 血で赤い久左衛門のズプ濡れの体を、権兵衛が肩にかとともに、「仙台藩はかくのごとく久左衛門を護衛してい け、前後を岩井利兵衛と斎虎毛とが護って、興禅寺へ引揚るのだから、妄動して世人を騒がすのは止めろ」の意もあ げた。そのほかの助力者のうち、興禅寺へ先に走ったものる。利兵衛・権兵衛は列中にはいっていた。