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検索対象: 長谷川伸全集〈第12巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第12巻〉

どうしてくれるという智恵はまだその頃出なかった。異人 さんは金持ちに見え、往来は右左勝手に歩いてよかった頃 、、つ」 0 警察へ行くとそんな人は留置場にいないという。そんな ことがあるものか、現在見たという人がいるのだ、と、こ ちらは一本槍、何がどうして引致したと怒っていると、そ こへ知合いの探偵が通りかかった。この探偵は新聞にも名 探偵なんて書かれた男だが、当人は名探偵をひどく悲観し てよく愚痴を聞かしたことがある。話は余談にはいるが、 この名探偵は浅野という人と安宿に二人合宿していた。ち ようど、巡査の採用試験があったので、後の名探偵なの字 と浅野の二人は脳天を並べて試験をうけた、なの字は首尾 錯覚探偵 よく及第したが、浅野は落第、そのとき浅野は淋しく笑っ 悪友のの字が、午後三時には帰ってくる約東なのだが夜て、俺は運が悪い駄目だなあと太息をついた。名探偵はそ に入っても帰ってこない。どうせ彼奴のことだから往来のの時の浅野の顔を忘れられないぜといつもいっていた。と 真中で気が変って、どっかへ行ってしまったのだろう、 ころがどうだ、なの字は新聞に書かれただけの名探偵であ と、多寡は括っていたが気がかりだ。 ったが、巡査落第の浅野は後に大物になった、芝の田町に 「のの字を知らねえかい」と、行き合う知人に皆きいた、紅毛人が考えっきそうな御殿をもっている、あの浅野総一 その中の一人が変な顔をして「じゃあやはりそうか。し冫 郎というのがそれなのだ。 ねえよ、彼奴はあげられているよ」といった。あげられて で、探偵なの字が、 混いるといえば警察の留置場が眼の前に直ぐ浮ぶ。それにし 「何をいってるのだい、君のいうのの字は刑事部屋に遊 石てもあげられる意味をもったお互い悪友仲間ではない。そんでるぜ」 くら んなべら棒な奴があるものか、泡を食やがって途方もねえ と教えてくれた。行ってみるとのの字は、ご馳走を我が 警察め、さあ承知はならねえと怒ってみたが、人権蹂躙だ物顔にパクついていて、この人特有の出放題を太平楽につ 身辺語録 ひょんな話

2. 長谷川伸全集〈第12巻〉

船の米国支店長キムラであった。二人の少女はそれから間 中村はその前日の午後、自動車を乗りつぎ乗りつぎ、芝 、二カ所の花柳界へゆき、馴染み もなく、日本郵船の客船で神戸に向った。キムラがそのと神明。烏森そのほか、一 きいったそうである。「英国が英国人を引きうけない、米の家を訪ねて、未払いになっている遊びの金をはらい、遊 国が米国に現住四年余のものを引受けない、となると、神び馴染みの芸者には、よろしくとだけ言伝てをし、笑って 戸で生れ、日本語を解する孤児の二少女を、引きうけずに去った、ということがあったからだろう。葬式の日に花柳 いらまれすか」と。 の巷からのお供えが多かった。どれもいい合せたように生 このことは一九二九年 ( 昭和四年 ) 北米ロスアンゼルスの花ばかりで、しかもまた一ッとして名札がついていない。 一切が無印であった。 岡村喜之という人の「三階の窓から』にもーーー多分この本つまり花柳界の地名も芸名もなく、 はロスアンゼルスで刊行ーーー出ているそうである。神戸着 お節介をいうようだが、芸者の名は芸名という、それ 後の二少女について、その後のことどもを聞かせる人が今でなければお座敷名である。遊女の方は源氏名という、 までになかった。健在ならば姉妹ともに今は、妻であり母『源氏物語』に似せた名のつけ方をしているということだ であることだろう。 そうで、誰が袖・有人・高窓・紫君など、その例である。 酌婦は通常世間の女の名をつかい、お竹のお松のといった が、遊女も酌婦も近いうちになくなるから、今後は名前の 芝山内のとある処に、中村という独り身のプローカ 区別も、昔物語にだけ残るだろう。ちなみに明治年間のチ ジェリーと が、老若三人の女中をつかい、江戸前とでもいうような暮ャプ屋と異人屋の日本女の名は、メレーとい し方をしていた。ある日の早朝、警視庁のもの数名が捕縛名乗ったものである。もう一つお節介をいうと、芸者が稼 のため、寝込みと思って襲ったところ、中村はとっくに起ぎの土地をかえるのは住み代えで、遊女の方は鞍換えであ る。また、関東では明治以来今でも、芸妓屋であって、上 床していて、顔も洗い、頭髪の手入れもすませ待ってい た。が朝飯はもとより、朝の牛乳もさすがにまだ口にして方風に置屋とはいわないから、組合も芸妓屋組合といって いなかった。食事をしなかったのは、自殺後に今しがたロ に入れたものが、ロから吐き出されはしないかと、気づか新橋でちょっと人に知られた中年増の芸者があった。ど ったからであったらしい。この男の犯罪は相当に知的な巨ういうわけか、中国の民謡がうまく、原語でうたって飜訳 してうたうのが、座興に十分なるが、それを聴いた客がど 額の詐欺であった。

3. 長谷川伸全集〈第12巻〉

、っても事変の名の下に戦争が行われていたころのこと、 ず自ら進みて死地に入れり。しばらくは先頭に立ちて剣をし 2 ひらめかす彼の姿を明かに認めしが、たちまち敵弾に打倒私は、次のことを、現地慰問芸能団の二名と、名古屋地方 されたり。勇敢なる旗手も隊長と数ャードをへだてて、軍に召集解除で帰って来ていた老兵と、永らく法務中佐つき でいたという憲兵科の特務曹長と、この四人から聞いた。 旗にまとわれて倒れいるなり」 大内隊長はこのとき、一身に二十八の弾丸をうけて戦死華中地域でその日も戦闘がくり返されていなーー地名を したのである。 私は聞いたのだが忘失した。このあとに出てくる人物の姓 「軍旗は再び捧持せられたり。しかして鉄条網にむかいて名も聞いたが、これもまた忘れ失ったーーある歩兵科の旅 前進す。この鉄条網はあらかじめ、勇敢なるエ兵によりて団長が双眼鏡で、その戦況を見ていると、わが軍の最尖端 処々破壊せられたるものにして、網にかかれるエ兵等の死の一隊の前方約四百メートルのところに、一人の兵が日の 体は、その作業の困難を証して余りあり。今なおうち漏ら丸の国旗をもって、敵の狙撃をうけているのに平気の平三 されたる少数の勇士は屈せず登りゆくなり。しかしながらでいるのが、レンズの中にはいった。 旅団長はその兵を、双眼鏡の中で睨みつけつつ、周囲の 軍旗はしたがい来ず、倒れたる捧持者の冷き手に握られ、 ものにいった。「いかん、いかん、あんな処に兵が一名出 再び地にまかせあるなり」 このとき地にある軍旗にはい寄って、これを押し立てたている。引っこめろ、引っこめろ」これがたちまち命令と なって、その兵の属する中隊の隊長は、電話で怒鳴りつけ ものは手塚魁三大尉で、軍旗は敵弾を幾つも受けていた。 られた。 このとき生存者は百余名でしかなかったが、翌二十二日、 中隊長は旅団長命令がくるまでもない、その兵を引っこ 第三回の突撃をやり盤童山占領に成功したとき、無事なり しは六十三名であった。この野戦は三人に一人が生残っためたいのだが、方法がない、呼んだところで聞えるわけが さんざんたるものである。 ない。迎えの兵を出せばいたずらに敵弾の餌食になるだけ この史談をここに掲げたのは、それから四十二年ばかりのことである。しかし命令が下ったのだ、何とかせざるを 得ないが方法がない。そこで、是非に及ばす中隊長は中隊 後にあった、ちがう事実のための前置きである。 を彼の兵のいる地点まで前進させた、ところが彼の兵もま 十二 た同時に日の丸の旗をもって四百メートルばかり前進し、 太平洋戦争なるものに、日本がまだハマリ込まず、とは中隊が停止するとその兵も停止した。旅団長はこれを双眼

4. 長谷川伸全集〈第12巻〉

名、上等兵一名、階級不明の兵一名のトラッグ一台に、」 前博士はその編著した『大戦余響』 ( 大正五年刊・博文館版 ) 島はじめ男女の芸能人一同が乗り、衣裳その他の梱を積みに、ヴィリアスの司旅順』から何度かの引用をやってい こまれた。トラッグはめちやめちゃに驀進した。 る。また、ヴィリアスのことを、乃木希典軍の旅順攻囲戦 広東では到着の予定時間から、一時間たっても二時間た に従軍した外国記者多き中で、第一の人は世界有数の軍事 っても、慰問演芸団のトラッグが着かないので、沿道の諸通で、画家で文筆家の彼である、という意味のことをいっ 隊に電話照会をやったが、そういうトラッグは見ないとい ている。次の一節は鳳博士が『旅順』から訳出したもの う。つまり消息不明である。戦地のことであるからそうなで、『大戦余響』にある。 「みよ、山の峡に連隊旗のひらめくを。そは今、塹壕より ると、〃死〃と考えざるを得なかった。 ところが予定に遅れること三時間余りで前島たちのトラおどり出でたるにて、そのそばに抜剣したる士官を見る。 ッグは広東に安着した。それまでの参謀長その他の心配は彼は空に高く彼の剣をうち振りしが部下の士卒は争いて壕 一方でなかった。 中よりおどり出で、そのそばに集れり。これ実に勇武なる ししいがトラッグを運転して来た伍長以下三名が、 大内大佐その人にして、彼の高名なる連隊の第三大隊をひ 参謀連中に地図を見せられ、お前たちは敵サンのいる中きいて、猛烈なる突撃に移れるなり」 を、これかくのごとく通って来たと教えられた途端、三名この時は明治三十七年 ( 一九〇四年 ) 八月二十一日の朝か とも目を回した。 らの旅順要塞の盤童山東砲台攻撃である。連隊は石川県金 沢の歩兵第七連隊で、連隊長は大内守静大佐である。今の 記述は第一回の突撃を、東鶏冠山砲台と二竜山砲台と、そ れから当面の盤童山砲台と、いずれも見おろす位置から、 日露戦争のときの従軍外国新聞記者のうちに、イラスト 説レーテッド・ロンドン・ニュースから特派されたフレデリ砲弾・小銃弾・機関銃弾で、さんざんにやられ、生き残っ ック・ヴィリアスという英国人があった。七つの国の政府た味方を率いてあらためて第二回の突撃を敢行するその光 てから叙勲され、十七の戦役に従軍して、画をかき、文をか景を書いたものである。 「これより先、彼 ( 大内守静大佐 ) は増援を乞いたれども許 生いたこの人は、後にロンドンで『旅順』という従軍記を刊 されず。ただちに砲台を攻撃することを命ぜられたり、こ 行した。いうまでもなく一九〇四年とその翌年にまたがっ て、新聞に載った物をまとめたものである。鳳秀太郎工学こにおいて彼は到底成功の見込みなきことを知りつつ、ま

5. 長谷川伸全集〈第12巻〉

で、その名は横浜関係の諸書に出ているが伝記はな い。私の寡聞の故か、要蔵は神奈川台地の経師屋の倅 で、はじめは船夫、それからハマに根を卸して華やか な一代だった、とその程度にしか知らない。私の義祖 父で土木業の秀造の自伝、といっても素朴なものであ ったが、篇中に要蔵との紛争など書いてあったが、先 横浜開港となりて間もなきころ、太田町の有名な人夫頭 年紛失して、今ここで、資料の一ツに残念ながら出来 虎蔵のところへ、旅姿の見すばらしい男が来て、人夫につ ない。要蔵と肩を並べたものに元町の政吉がある。清 かってもらいたいといった。お前はどこの者だと虎蔵が尋 水喜助・原木仙之助などがある一方に、遊侠の徒には ねると、田舎者ですと答えた。そんなら京音頭でも出来る 芝居小屋を最初に建てた佐野松、居留地の馬丁頭で通 かと虎蔵が尋ねると、その男は出来ますと答えた。ではと 称ワンカ ( 椀兼 ) の大松、その後に綱島の小太郎、半鐘 採用されて、その翌日、請負普請 ( 建築 ) の敷地地均しに差 兼、埋地の千太などがあったという。そのなかで曲り し向けられた。そのころの横浜は、一方では埋立をやり河 なりにも伝記的読み物があるのは、佐野松とワンカだ 川をつくり、その一方では家屋の建築が八方で急がれてい けだと思う。それも横浜人の間でも知られていないだ ろう。 た。漁村を市街に急造中であったから、開港実施の足掛け 三年目とはいえ、そのはずである。さて彼の男は地均しの現場から逃げ失せたその男は、周防熊毛郡光井村の百姓 現場へさし向けられ、人夫として仕事に就いてみると、役水木源右衛門の子で、親がつけた名は利吉であったが、二 は木遣りの音頭取りであった。ところがこの男は、地固め十三で製塩事業をやって失敗し、二十六で故郷を飛び出し の胴突きにつかう労働唄など、まるで知らないのだから、 た、そのときの名は重平。諸国をめぐり歩いて備中倉敷に きわ 忽ちのうちに進退谷まって、逃げ失せてしまった。この男 いたときの名は広吉。二十七で江戸へ邇りつき米倉丹後守 の足軽に雇われたときの姓名は井上甚八。それから佐々木 疉が後の光村弥兵衛である。 太田町の虎蔵は鈴村要蔵の部屋頭の虎蔵だと思う。要という医者の僕となったときの名は吉蔵。その後、築地本 蔵は江戸の新門辰五郎・ハマの鈴村要蔵と並び称さ願寺前の床店で餅菓子売りから、桜田の毛利家 ( 長州藩 ) の れ、開港当時から明治初期にかけて有名な土木業者棟梁部屋の賄い兼掃除夫となり、やがて邸内の一隅で日用 光村弥兵衛半生の変転 とこみせ はんしよう

6. 長谷川伸全集〈第12巻〉

の爪はじきされている女が、娘子軍といわれた女たちであ六月十日のこともある。この種のものを挙げれば「日本捕 3 る。 虜志』にはまだまだ少からずある。 私の『日本捕虜志』のなかに、明治二十七年四月四日、 こうした女たちの中に「オロシャこわいし」の唄の後身 日本の女十一人が三週間も前から、シベリアのチタにあるがあったに違いない。そしてそれから後々にも「マンザ臭 監獄に入れられていたという記事がある。そのころ東清鉄さが身にしみついて、日本恋しや、やるせなや」と、だれ がいっ作って、だれがいつうたいひろめたか知らないが、 道といった後の満鉄沿線の地で、中国人の妻になっていた この女たちは「泣き叫ぶ夫婦の仲をロシア兵が引っぱなし この唄のようになる女も少からずあると、大正から昭和に て ( チタ監獄へ ) 連れて来たものだった」のである。また、 かけて、私はたびたび聞いたものである。 同年四月十九日、トムスクの臨時抑留所から、二十八人の 日本人が、どことも知れずロシア兵に護送されて連れて行 かれるとき、「一名の女がいなかった。彼の女は ( 四月十四大正七年 ( 一九一八年 ) に日本がシベリア出兵をやり、 日の夕方から ) トムスグにいる間に、ロシア人が妻にするとろいろのことがあってついに撤退したあとで、白系ロシア いったのを信じ、居残るといい出したが、果してそれが幸軍はつぶされ、貴族や富豪地主は殺され、または国外に流 福であるだろうかと、人々が説いたがききいれず、遂に強亡し、赤系ロシアの力が血なまぐさく、シベリアへ延びて 引に居残ってしまった」というのと、「出発間際に姿をく来た大正十年の春、黒童江を渡船でわたって、シベリアへ らました十三名の女があった。この女達は中国人の家に隠はいった三人の中国人がある。いずれも中国官憲が発行し れたのだろう」というのとがある。 た正当な旅券をもっていた。 そのほか、「百四十九名の日本人を乗せたポチョーツヌ この三人とも山東省のもので、汪と李と陳といった。黒 イ号が、トム河の埠頭をはなれるとき、二十一名の日本の童江に臨んだ番所で、赤軍の兵に銃口を向けられた三人 女が加えられた。この人々は朝鮮・満州で、中国人の妻では、おどおどして調べを受けたが、やがて「よろし、 クリー あったもので、狩り立てられて夫の手からむしりはなさ行け」となった。出稼ぎの苦力に過ぎないからであるのだ れ、ここへ来るまでの間に、ロシア兵の残虐な生きた道具ろう。 につかわれ、物はかすめとられ、金は無効の預り証をつか その後、この三人が何とかいうところの金礦にロがあっ まされて巻きあげられたものばかりだった」という。同年たので、喜んでそこで働き、尻を落ちつけているうちに、

7. 長谷川伸全集〈第12巻〉

に中国の船をみて日本の船なりとするには非ざるなり」 一行は島の有力者たちとの交渉が成立したので上陸し 小島は島の名を忘れたが、太平洋群島の詳細な地図をみた。第一の夜をおくるところとして案内されたのは、床が れば思い出すことが出来ると、そのときいった。さて船長はなはだ高い小屋の中で、食事は船から持ってきた物です の話はつづく。「予は給水のために島にあがり給水に関すませたが、さて寝るとなると、この島のものが、夜半に乱 る諸事をおわり、いささか閑散となりしをもって島のもの入して来て殺すのではないか、忍び寄ってきて殺すのでは 数人に、あの船は何の故にあのごとく放置してあるやと問 ないかと、疑わすにいられないので、交代で不寝番を立て いしところ、島のものは一斉に答えて、彼の船には、、 しずて警戒した。ところが夜半になると異様な音が床下から聞 くの国のものかは知らず数名の乗組のものありたれど掟にえて来たので、一行のものすべて眼をさまし、静かに対敵 反するものなれば、皆、殺されたるなりと答えたり」と、用意をやった。明治初年なので短銃をもったものもいた 報告をした。実際にはもっと具体的で、もっと詳密であっ が、日本刀は一人残らずもっていた。 たとい , っ 小島は、「私の年齢で明治初年のそうしたことを見聞す るわけはもちろんない。私はこのことを明治二十六年に聞怪しい音はだれの耳にも聞え、しかも寝ている下であ カ何ご き、その大要を手帳につけておいたのであるが、今にしてる。命は到底ないものと、調査員一行は覚悟した。 ; 遺憾に田 5 うことは、大要を記すにとどまったことである。 とも起らないで夜が明けた。朝とともに小屋の床下は一面 これを語りたるものは、その島に派遣された政府の調査員の沼沢で、そこには亀が何千となくいるのを見た。亀は小 一行を乗せていった船の船員である」と注釈をつけて、なさいのでも一尺五寸ぐらいあり、大きいのになると三尺に お話しつづけた。 およぶものも珍しくなかった。 説調査員の一行は、現地に船がはいるとすぐ、海辺に放置一行が辛うじて知ったことは、この島のものが死刑にし をされてある日本船が眼についた。 一行は上陸について島のた中に、日本人数名がはいっていたことである。その人た てものと交渉をやり、その一方で日本船を検分したが、船主ちは海難にあってこの島に漂着し、介抱はされず殺害され 生もわからず、所属地も知れず、船名すらわからなくなってたものと推測して誤りなく、断片的ながら証拠となるべき 1 いるのは、島のものが手を下してそうしたのか、放置してモノを手に入れまた証言ともいうべきものも聞き出した。 おくうちに自からそうなったのか、不明である。 ここでやる死刑は、死を命ぜられたものは自然木を十字 おのず

8. 長谷川伸全集〈第12巻〉

45 よこはま白話 のいいのを揃えたらしく、遊女三十三人のうち、大まがき十六人の連名が出ている。これらの見番の元締は幸福屋庄 という第一級の印のついたのが、花紫・亀菊・栄山・花衣七と名が出ている。吉原の男芸者と女芸者の元締は大黒屋 はこや ・代々菊と五人もいる。外には大まがきの合印のついた遊庄六の世襲で、配下の箱丁を箱廻しといい、打出の槌に大 女は神風楼綱吉方の重浦・泉州と、全廓中でただこの七人の字の印のついた小田原提灯をさげて歩き、芸者に怖れら だけである。もう一ツの岩亀楼は新岩亀楼といし 、ここのれたものであったというのは、女芸者と客との情事が禁じ 遊女は四十六人で、港崎町第一の多さである。その次の遊られている吉原だけに、客と女芸者が寝ているところへ踏 女の数の多いのは神風楼で四十三人。以下、遊女の数でい ン込み、女芸者の着物をとりあげて来たものには、大黒屋 うと次のごとくである。 庄六から金三両の賞与、女芸者の帯をあげてきたものには 金浦清吉 ( 三十八人 ) ・泉橋楼惣右衛門 ( 三十六人 ) ・金金一両二分の賞与、こういうことがあるからである。そう 石楼銕五郎 ( 三十六人 ) ・玉川楼とく ( 三十二人 ) ・藤本いうところへ踏ン込めるのは箱廻しだけで、その外のもの 楼新助 ( 二十六人 ) ・二見楼浅吉 ( 二十五人 ) ・富士見楼には出来ないことになっていた。女芸者はそうした場合は 吉次郎 ( 二十一人 ) ・静松楼徳次郎 ( 二十一人 ) ・岩里楼犯罪人並で、着物や帯は晒し物にされた上に、除名され、 かんばんど 由蔵 ( 二十人 ) ・出世楼栄次郎 ( 十三人 ) ・三国楼定吉茶屋は提灯止めといって、当分の間は営業禁止になった。 ( 十人 ) ・甲子楼政吉 ( 十人 ) ・伊勢楼粂蔵 ( 空白になっ港崎町でもそれとおなじことをやった。 ている ) 。 そういえば吉原は大黒屋庄六、港崎町は幸福屋庄七、似 たようなところがある。 豚屋火事のところでいったように、港崎町の遊女も多く 前にあげた外に局見世・長屋というのがあって、寿長屋焼け死んだり、溺死したりしたから、最高値段の遊女とし が十四軒、千歳長屋が二十四軒、万長屋が十八軒、末広長て名を記したものや、踊り子やその他で名を書いた中に 屋が十六軒、宝来長屋十四軒、合計八十六軒あって、遊女も、無残な死を遂げたものもあっただろうし、馴染の遊女 の多い家で二十七人、少い家で四人。 の死を深く悼んだ白人も中国人もあったろうが、今のとこ 男芸者は七人で、清元黒八とか、清元米作とか、常磐津ろでは、それらの人々による哀傷の文章も詩も見付からな 才蔵とか、その外も豊後路・宮園・宇治と、邦楽の流名を いようである。或いはそういう文才や詩情のある外国人が 名乗っている。桜川善八の名もその中にある。女芸者は四 いなかったのかも知れない。 つばね

9. 長谷川伸全集〈第12巻〉

の印の下に昼夜金三分と、夜ばかり金一分二朱、それから方は南京人向けだそうである。 昼夜金二分と、同じく金一分と三階級四種類の値段が出て それではその細見に、岩亀楼の異人向け遊女の名が出て いる、この方は合印つきの遊女の名が出ている。「紋日」 いるかというと無い。岩亀楼は三軒あって異人向け遊女の というものは正月の松の内のはかに、一年間に十五日あ いるのは、大門をはいって、仲之町通り、右側の四軒茶屋 る。 ( 太田屋・村田屋・新美濃屋・上総屋 ) の二軒先が、異人揚屋と 「四季の花」というのは三月に桜、五月に菖蒲、七月に燈 いう銘打ったる岩亀楼庄吉の見世で、遊女の名が出ていな 籠、八月は仁和賀、九月は菊で、十月は祭礼、十二月は酉いのは、日本人客には縁なきものだからだろう。その代り の町と、ここらは吉原と大同小異である。吉原になく港崎異人扱い人新吉と名が出ている。新どんは通訳にして妓夫 町にあるのは二ツで、一ツは岩龜楼異人遊女、もう一ツは にしてポーイであったのだろう。その外に手踊り舞子十人 揚屋舞子踊である。 の、揃って小の字がついている名が出ている。 小浦小房小蝶小常小つる小兼小亀小花 小糸小松 岩亀楼異人遊女とは、居留地にいるか又は入港船舶の欧振付は坂東小美江で、チョポは兼太夫、常磐津は民次、 米人と、中国人 ( そのころは長崎と同じく南京人 ) とを客とす長唄は常次・信次、囃子は長五郎・百平・定吉・次郎兵 かつら る遊女のことで、異人の遊女ではなく、異人向きの遊女と衛、床山は鶴吉、衣裳方は倉吉・嶋次と、こう出ている。 いうことである。値段付けをみると二種類で、一ツの方は この連中がやってみせたのは、云い伝えや錦絵などで判断 一カ月仕切り ( 約東 ) が五十弗、半月仕切りが二十五弗、一すると、明治の初期に東海道の関、下総の銚子、信州の松 夜行きが五弗とある。一夜行きというのは会所発行の切手本などにあった、女の子芝居とおなじものであるらしい をもって、居留地の俗にいう異人屋敷で一夜を明かす、そこれは日本人にも見せたもので、見物料は金一両二分、外 のことである。だから一カ月に二十日一夜行きをやれば百に座敷代が楼上は二分、楼下は一分、並というのが二朱。 弗という割高になるのだろう。もう一ツは一カ月仕切りが二朱とは一分の半額である。これが岩亀楼の座敷見物とい 二十五弗と金二分、半月仕切りが十三弗と金一分、一夜行うやつで、土産に極彩色の錦画などくれたそうである。 きは二弗で、前のに比べて半額近く安い。これはどういう異人揚屋の岩亀楼の向って左隣りが、本岩亀楼さいの見 わけかと思ったら、前の高い方は白人向けで、後の割安の世で、ここは異人を客にとらない。どうもここが遊女の格 ほん

10. 長谷川伸全集〈第12巻〉

格で出陣したことや、弟の常吉が長兄を殺した浪人を討蔔 目にいった土屋源次の子分が、高井の農家の若者のとこ 果したこと等々は、私の『荒神山喧嘩考』と『殴られた石ろへ、賭場で貸した金の催促にいった。ところが青年が返 松』にある。『殴られた石松』は小説だが、八、九分は事金をしない。これに手を焼いた子分が、親分の源次にその 実に拠ったものである。吉の肩書の雲風は力士のときのことを話した。そこで源次は、これは高之戸が陰で糸をひ 四股名で、尾張家の抱え力士であったと「司法資料』にあく、そのため若僧が借金を払わないのだと判断し、高之戸 ・る。 のところへ出向いた。明治二十五年 ( 一八九二年 ) 嵩山の浅 雲風の弟の原田常吉が勢力を張っているとき、三州八名間神社の祭の晩である。源次は子分の富五郎と東京亀とを 郡鳴沢のもので源次郎というものが、吉田藩士に柔術をなつれていた。 らい士分にとり立てられた。吉田は後の豊橋のことで、そ源次が高之戸に談判のロをきり、高之戸がこれに返答す この藩主は伊豆守を代々名乗る松平家である。 るその刹那に、源次が仕込み杖だろう、抜き放って高之一尸 源次郎は姓を土屋という。『司法資料』では明治も三十の右の腕を切り落した。源次の身替りに子分の某が立って 何年かに一家を立てたとなっているから、青年時代を過き刑罰をひっ被ったので、それはそれで片づいた。 てからのことだろう、博徒になろうとして、平井の常サン がしかし、高之戸こと近田荒吉の方は、右腕を失ったこ と愛称のあった原田常吉を訪い、頼んだところ断られた上とが、勢力を次第に失わせ、一人の子分も遂になくなった に、「早く草履をはいて出ていけ」といわれた。すると源ので、「パクチ打ちの果てはこんなザマが当り前た」と笑 次郎は草履をとって座敷へ戻り、畳の上ではいて「さよな っていたが、自分の石碑を建立し、ある日、その石碑にわ ら」といって出て行きかけた。そこで常吉が面白い奴だとが体を綱でむすびつけ、起った姿勢で、鉄砲のロを急所に 呼び戻して身内に加えた。『司法資料』では「原田常吉四あてがい、引きガネを足の指で押して、自殺を遂げた。 天王の一人土屋源次郎」となっている。これには異説があ 九 るし、名も源次郎といわず源治とした記載ものもある。 たかのと 明治になってから三段目までとった力士の高之戸が、土平井の常吉は兄を殺した立川啓之進を、明治初年に斬り 俵上の前途を見切って、三州八名郡高井村へ帰って農をや殺した、遠島から赦免になって帰って間もなくのことで、 るうちに博徒となり、子分もできた。生計も立つようにな復讐禁止令がまだ出ていない時のことである。 った。貯えの金もできて来た。 それから歳月がたって明治十四年 ( 一八八一年 ) の春、甲