師団長検閲をや 0 たときのこと、弘前の野砲兵第八連隊・大坂で働いていた。慶応四年正月の鳥羽と伏見の東西両 で、立見師団長が士官候補生室へはいってゆき、一応の検軍の衝突戦で、立見たちの属している東軍が敗北し、十五 すすきだ 閲がおわると、ズバ抜けて大男の薄田精一という候補生の代将軍徳川慶喜が会津と桑名の両藩主と、大坂から海路を 前で、「立派な体だ、何寸ぐらいあるか」と聞き、「五尺とって江戸へ引きあげたので、立見鑑三郎は同藩の多くの 八寸あります」と答えると、「どうしてそんなに大きいのものとおなじく江戸へ下った。そのうちに桑名藩主の松平 か」と再び問うた。と薄田候補生が「ハイ両親に聞いてみ越中守 ( 定敬 ) は、ロシアの汽船コレア号で、従士百余人と ても分らないのであります」 江戸を後にし、越後栢崎の寺にはいって謹慎した。藩士は 立見尚文中将は「わしの質問がわるかった、許せ。して越後にゆくもの、桑名へ帰るものがある。時に立見鑑三郎 郷里は ? 」と聞いた。「ハイ、福島県田村郡三春町字清水は江戸にとどまり、同志とともに本所弥勒寺橋の旗本大久 であります」と答えるのを聞いて、将軍は沈思していた保主膳の屋敷で、幕士と会同して「第七連隊士官隊・江戸 が、「秋田さまのご城下だな」といった。三春は明治二年市中取締」という記号をかかげた、といってもそれは名目 まで二百二十余年間、五万石の秋田家の舞鶴城のあったとだけで、薩長そのほかの西軍を、存分にやつつけようと機 ころである。 会を待っためである。 立見将軍が「汝の郷里には、薄田を名乗る士族が他にも立見たちは、ほどなく八十余人で、神田小川町の幕府の あるか」と、重ねての降 いに、「わたくしの家のみであり歩兵第四連隊へ、新士官隊という名ではいった。その中に ます」と候補生が答えると「御維新のとき働いたのは、汝は立見の兄の町田老之丞・武須計・馬場三九郎。河合徳三 やばせ の父か祖父か」 「ハイ、祖父の薄田矢馳であります。藩の郎・松浦秀八らがいた。これが四月六日のこと。それから 外事係をしたと聞いております」「お達者か」「ハイ、明治一週間もたたぬうち立見ら八十余人は下総の市川へ去り、 六年三十六歳で病死いたしました」「すでにご他界か」とそこで幕兵と、土方歳三たちの幕府の士と、会津の秋月登 和しばらく感慨にひたっていたが「候補生があの薄田矢馳ど之助たちその他と合流し、江戸を脱走してきた大鳥圭介を てのの孫か」とひとり言のようにいって、候補生室を去っ迎えて、下野の日光山へ向った。総人数は約二千。 生た。 立見が士官候補生の祖父と、敵と味方の立場にわかれて これにはわけがある。 出会ったのは、それから二十日ばかりの後である。 伊勢桑名藩十一万石松平家の立見鑑三郎は、幕末に京都 はたもと
って、相当に売れていた文筆家に話したもので、その女は 安政六年に十六で吉原の半玉に出て、今いった「細見』が 出版された慶応元年には、二十二歳の吉原芸者であったの だから、まず信憑性のあるものだと思ってもいいのだろ その話の中に吉原の遊女の最高揚代は金三分で、昼三と いうとある。慶応元年にも事実そうだったかどうかは別な こととして、江戸の最高が三分で、横浜の港崎町が三両、 港崎町の遊廓が豚屋火事で全滅したその前年 ( 慶応元年 ) となれば、話としても面白いのだから、『美世佐幾細見』で の初秋に『美世佐幾細見』という草双紙判十九葉、表紙は最高値段の井桁に三ッ白星の合印のある遊女を探したとこ 木版二色摺りが刊行されている。美世佐幾が港崎のことでろが見当らない。申すまでもなく江戸時代の一両と一分四 あるのは申すまでもないが地許ではミョザキといし コウッとは同価値だから、吉原の最高は一両の四分の三なるに サキとは云わなかったという、証拠に立てる気なら立てら対し、港崎町は三両だから一分九ツだけ高値であったこと れるこの細見の編者は、南草庵といい且っ版元で、製本所になる。ところが今いったように、そんな合印のついた遊 は久住善右衛門、取次所は衣紋坂の紙店豊崎屋久次郎と奥女は、見当らないところでみると、沢山いる中のどの女か 付にある。 が井桁に三ッ白星なのか、それともそういう最高値段を決 ねだんあいじるし もんび 表紙裏をみると、「遊女揚代直段合印」と「紋日・四季めておいて、じつは空位にしておいたものか、当時そこで の花」が記されてある。まず遊女揚代をみると、最高値段遊んだ者は一人も生きてはいまいから、実態を聞くことが は井桁に三ッ白星で昼夜金三両とある。江一尸吉原では最高今はもう出来ない。当時二十歳だったものなら今は百八歳 ちゅうさん 白の遊女が入り山形に三ッ星 ( 黒星 ) で、昼三といい、昼の揚ぐらいになるからである。 代が三分、夜の揚代も三分、こういうのを仲の町張りの花さて『細見』の示す第二高値は、井桁一ッ白星で昼夜一一 らん かむろ 魁といい、番新 ( 番頭新造 ) 一人・振新 ( 振袖新造 ) 二人・禿両とある。第三高値は井桁に星なしで昼夜金一両二分とあ 二人を随え、豪華なものであったという。このことは昔のる。このいずれも司細見』を見ただけでは、合印のある遊 占原で芸者をしていた女が、明治三十二年に本多嘯月とい女がないので、見当すら付かない。それ以下のは入り山形 異人揚屋岩亀楼その他 ばんしん
月十三日の夜、この春次郎が永代橋で自殺して果てた、年 十九であった。春次郎の弟は時に六歳であったが、それか ら五十余年が過ぎ去った大正十年 ( 一九二一年 ) その弟が横 浜の百貨店野沢屋の経営者として、名古屋市から神奈川青 木町上台に移り住み、横浜人となった。その名をいえば知 っている人がまだあるだろう。生れは江戸だが、名古屋で 実業人になった殿木三郎である。 私が殿木三郎に会ったのは昭和十年の春だったと思う。 前に薩摩屋敷焼討ちのことがあったので思いついたのだ当時私は高輪南町に住んでいた。或る日、横浜の野沢屋百 が、慶応三年 ( 一八六七年 ) 十二月二十五日の芝三田の焼討貨店社長とある名刺を出し、紹介者なしで面会を求めたの ちは、未明に芝赤羽橋に、直接行動をとる出羽の庄内藩・が殿木三郎である。会ってみると小柄なやせた老翁であっ 武州の岩槻藩・出羽上の山藩・越前の鯖江藩が勢揃いした。その話は大体のところ次のごときものであった。 て、午前六時に行動を起し、薩摩屋敷を包囲して、午前七私には一一人の異母兄があり、長兄政次郎は出でて前田氏 を嗣ぎ、次兄は殿木春次郎といって、幕末のとき三田薩州 時に攻撃をはじめ、午前十一時半に焼討ちを終了した 幕命によってこのとき戦闘したものは焼討ちといわず、討藩邸にあり、幕府親藩の攻撃するところとなり、春次郎も やすちか ち払いといった。相馬大作が津軽越中守寧親に裏を掻かれ拒ぎ闘かったが負傷し、その後、幕吏の検索極めて苛烈な て目的を達せず、引揚げ途中の山の中で不用になった竹鉄るため、五尺の一身置くところなしとしたるならん、慶応 四年正月十三日の夜、永代橋の上から入水して自殺した。 砲を射ち棄てにした。この射ち棄ても射ち払いといった。 討ち払いも射ち払いも音ではおなじになるーーこのとき薩それより後の年毎に父殿木童伯は、正月十三日の夜を迎う 邸から三田通りへ出て、札の辻から田町へ出た幾ツもの群るや、年少の私を抱いて、汝の兄殿木春次郎の自殺したる とのき れになっていた浪士の中に殿木春次郎という年少にして江は終生の恨事なり、入水したる正月十三日の夜より暫く後 戸ッ子の浪士がいた。殿木春次郎は咽喉に軽くはあったがの、四月十一日には江戸城明渡しがありたるなり、隠忍す 槍疵をうけていたから、死出の仕度の晴れ着の胸許に滴つること三カ月なりしならんには明治新生の世にあい、天寿 た血痕が、生々しくあったことだろう。翌年の慶応四年正を保ち得たるなりしに、自ら殺して江底にむくろさえ隠し 高輪泉岳寺無名志士の碑
19 よこはま白話 となった。川岸に沿って住めるものは、水中にのがれて却 って溺死した。男女の焼死するもの九十名、弥兵衛の太田 町の家も灰となったが、やがて末広町に新居を建てて住ん 慶応二年十月二十日の大火を後々これを呼ぶに豚屋火 事といった。徳川時代には振袖火事とか、油屋火事と か、薩摩火事とか、火元をとらえて名をつけた。豚屋 火事は末吉町豚鉄方で火を失したもので、死者は伝え 聞くところでは四百余人だという。故野村元基の筆記光村弥兵衛が神戸に去り、横浜人でなくなった動機が、 した先代宝井馬琴の談のうちに、この大火の火元は三慶応二年 ( 一八六六年 ) 十月一一十日朝の豚屋火事であること 代目焚出し喜三郎の子分金五郎が、講釈師になって三は、前にいった。豚屋火事の火元が講談師の石川一夢がや 代目石川一夢といった、この人がハマで豚屋をはじっていた豚屋の豚小屋であったこと、それもすでにちょっ め、儲かっている最中に、豚小屋から火が出て大火にとだが、いった。 なった、とい、フことがある。 石川一夢といっても、その名を知っているものが今では 弥兵衛は雄飛の場所を神戸に選み、同年十二月横浜人でもうない。初代一夢は江戸末期の講釈の名人で、松林亭伯 なくなった。神戸史に特筆される光村弥兵衛の辞世の句円 ( 初代 ) ・伊藤燕凌と並び称されたものだという。 きえ 初代一夢は「夢一つ破れて蝶の行方かな」「持ってきた は、「六十五ッつんで消けり春の雪」というのだったとい 勘定だけの年たちてウワ・ハで遊ぶ夢の世の中」と辞世をも のし、安政元年五月二十一日、五十一で歿した。そこで門 人の石川一口が二代目一夢となり、その弟子の石川一口 、麦こ三代目一夢を襲名した。豚屋火事の火元は、この 三代目一夢で、前身は焚出し喜三郎の子分金五郎といった ものである。 初代一夢のことで、もう少し詳しいのは『本朝話人 06 ) 0 かえ 『国定忠次』の作者宝井馬琴
さて本文に戻るが、栄助の伝記だと、アーレンスをドイ に使用されていたのだが、それでも今いったごとき有様で ツ人だとしてある。 あったのである。西洋紙がはいったときは、紙であるとは 知らず、白い薄い物が、外国商館の卓の上に山のごとく積 みあげてあるのに興味をもち、これは何に使うものかとそ 西洋雑貨を仕入れる商人は、東京からも大阪からも横浜この外国人に尋ねたが、そのころ日本には活版術がまだ開ー にくる。横浜へ来たその人達は、旅宿に泊っていたのでけていないので、その外国人が印刷用紙であると説明した は、いっ何時珍しい物を引取り屋が外国商館から買ってくのだろうが、引取り屋の栄助にわからない。だが栄助はこ るか、又は珍しい物の入荷を嗅ぎつけて教えてくれるかわれを買い、東京へもって行くと忽ち売れた。東京で買った からないので、早く知って早く見て早く仕入れる、この競人が何にそれを使ったかはわからない。そこで再び栄助が 争のため、引取り屋を旅宿とおなじようにして、いつも何おなじ物を引取ろうとすると、泊り客の大阪の紙屋小島屋 人かが泊り込んでいた。といってもそのころは呉服反物をが、半ロノセてくれという。よろしいと承知して外国商館 買いにゆくと、茶菓や昼飯を出したのだから、取引客を泊から又も仕入れて東京で売り、大きく利益を挙げた。その らせることは、時の慣行であって、特に珍しいというほど翌年かに東京で、西洋紙に刷った新聞が発行された。それ でもないのであった。 を見てあの時のあれは西洋の紙であったかと、始めて気が しかし、外国商館から出る珍しい物を、用途は後に考えついたのが栄助だけでなく、大阪の紙屋の小島屋までがそ るとして、逸早く買うのであったから、引取り屋の泊り客うであった。 伝記は栄助の引取り屋を慶応二年ごろといい、又慶応三 は、汽船がいっ何日にはいるとなると、正月の三カ日でも しし、そのあとでたしか明治元年ごろかと思うといっ 泊り込んで動かなかったという。「ある時、始めてラシャ年と、 が参りましたが、栄助と仕入客の一人は、それを見ましてている。調査の資料が乏しかったのかどうも粗笨なところ 缶驚いたのであります。大きな幅の広い物が大きな反物に巻がある。さてその後の栄助は石油ランプを仕入れて、東京・ 八丁堀の広亀 ( 広岡亀三郎 ) に販売させ、売行きはよかった いてあるが、何に使ふのであらう、実に珍しい物だ、何だ よか暖かさうだと、こんな評定をして、売れても売れなくてが火を失して家は全焼、広亀は焼死したという事件もあ も買って置かうと、引取ったのでありました」と伝記にあり、明治十八年に引取り屋をやめて、境町で西洋雑貨問屋 る。ラシャはそれより早く九州にはいって、いろいろの物になった。それから近江屋洋物店となり、帽子製造その他
壜を手に入れたものが、黄色木綿に包みて秘蔵し、節句飾は Yankee の訛り、ハマの居留地時代チャプ屋女の唄 肥りのとき並べたという時であるから、港内碇泊の外国船の に、「ジャマン仏頂面・ヤンケは小粋・粋な日本人は銭が 廻りを小舟でうろうろしていると、商売になったという ない」とある。そのヤンケで、マケマケは労働の掛け声ョ それは外国船員が空き壜を海にすてるのを待って拾い、そイトマケョイトマケの約である。それはさてとしてガンガ れを売るからであった。このやり方はついに外国船員に阿ラ引きの初期のもののうちに、海底から探し当てて拾いあ 諛して物を投棄して拾わせて貰う、乞食に類するところまげた布の袋の中がぎっしり金貨で一杯であったので、その で行った。栄助はこれをやらなかった。彼は外国人の奴隷拾い主は喜び極まって発狂し、折角のその " 首ダラ ( 弗 になるまいとして、独立独行を志し行ったものであるからと称した金貨は、他人にみんなっかわれてしまったという だろう。 のがあった。この話は大正元年 ( 一九一二年 ) 子安の老人達 そのころの話に、子安辺のものが小舟を沖に出し、外国から採拾した中の一つである。 船長その他が海に投げ棄てて沈んだもの、或いは誤って海 堀越安平に天誅召喚をやった浪士の一人は、慶応元年 八月二十一日、戸部の刑場で外国人殺害の罪で、死刑 に落して沈んだもの、又は事故によって海中に没したも の、それらを竹竿の先にカギを取りつけて組合わせた簡素 に行われた戸林貞雄で、この戸林等の首領株が山田一 な道具で、気永に探して拾いあげることをやり出したもの 郎 ( 或いは市郎 ) で、この連中は国家のための軍用金と 、それと があった。後にこのやり方をガンガラ引きといい 称し、諸所を遍歴し、搾りとった金は三千両以上であ は別に、海底に沈んだものを拾うャンケのマケというもの ったとい , フ もあった。ャンケのマケとは横浜付近で、海難又は火災で 沈没か半沈没した汽船の、放棄と決した貨物その他を、競 売落札によって権利を得たものが引揚げをやることで、何飯島栄助が舶来雑貨に手をつけはじめたのは、慶応二年 度かあった。その中でアメリカ人某が得た権利は、現金だごろだという。居留地に出入りする渡世には、売込み屋と けでも十万弗以上を引揚げ大利を得た。これはゴールドラ引取り屋とがあって、売込み屋は字義のごとく、見本など ッシュ時代に、金坑発見の幸運に関係した中国人の多く 見せて外国商館へ売込むもので、引取り屋は外国商館の入 が、現金をもってカナダから帰国の途中、乗船のアメリカり荷を見て買いとり、これを江一尸・大坂その他の商人に売 号が神奈川沖で火を失して沈没したときのことで、ヤンケり、ロ銭をその間でとるものであった。栄助はそれまで おこな
く済み、弥兵衛が内心にもっている一事は看破されずに終そのためであったが、その間をうまく切りぬけた弥兵衛が 新たに着眼したのは水の販売であった。横浜入港のロシア 弥兵衛は周防の出身であるから長州系である。したがっ軍艦が給水を運上所に求め、運上所はその求めのごとくや て長州の伊藤等に好意をもつものであるから、池田信濃守ろうとしたが出来なかった。それまでに水の販売者はあっ 一行がイギリス船に乗客となったのを幸い、その方へ運上たが、採算があわないで廃業してしまったからである。弥 所の注意を向け、幾分でも伊藤等の利益をはかりたいとし兵衛はこれを引受けて、一夜のうちに破損船を改造して水 たのであった。 船に改め、翌朝からロシア軍艦に水を運んで売った。その すくな 伊藤俊輔 ( 後の伊藤博文 ) ・志道聞太 ( 後の井上馨 ) ・山尾関係で同艦の用達商人となり、少からず利を得た。 庸三・遠藤謹助・野村弥吉 ( 後の井上勝 ) の五人は、横 水道の出来る前のハマは、飲料水を掘り井戸にもとめ 浜のイギリス領事ガワーの援助で、ジャーディン・マ ても、台地以外の土地は飲むに耐えないものが多かっ ジソン会社の汽船ケルスウィック号で密航を企て、出 た。そこで水屋というものが必要から生れて、特殊な 水桶一荷で銭いくらと価があった。したがってどこの 帆の五月十二日の前夜、伊豆倉という商店の横浜支店 をひそかに出て、英一番館の支配人ケスウィッグの屋 家にも飲料水を貯えて置く陶製の水瓶が世帯道具とし て、欠きがたきものであった。それとは別に艦船に売 敷に入り、小蒸汽船でケルスウィック号に乗込み、横 浜脱出渡欧に成功したのである。 る水屋があって、横浜港からはずッと奥にはいった太 弥兵衛が武蔵屋総吉と袂を分ったのは、い つのことかわ 田 ( 後の南太田 ) から、水を集めて水槽船に入れて港内 かりかねるが、少くとも伊藤俊輔等の海外渡航を陰ながら へ出て売ったものである。太田の水屋は浄水道ができ 援助したときは、すでに一本立ちとなっていたことであっ てから不用となったが、現在も黄金町に、そのころの たろう。 名残りの湧く水がある。 慶応元年 ( 一八六五年 ) にいたって、弥兵衛は又も大儲け弥兵衛は慶応二年 ( 一八六六年 ) のころは、沖商人の仕事 を見付けた。その前年にハマの大商店で倒産するものがあは手代にやらせ、水屋のごときもだれかに譲ったのだろ った。それは生麦事件の結果が薩摩対イギリスの戦いとな う、洋銀両替商となり、当時のハマの大商人との交際がひ り、連合国の下関攻撃もありて、国際関係の硬化は貿易業らけたのであったが、同年十月二十日の朝四ッ ( 午前十時 ) に大打撃を与えたのみか、国内の諸問題も紛糾混雑した。 ごろ、檜山から火が出て、全市街の十分の七がほとんど灰 あたい
ロ叩」亠冗 . り . 、、 しくらか安定して来たところで、安政の大地震月、神戸に眼をつけて移り住んだ。だから横浜人であった にあい、復興工事にあたって人夫頭をやったが、良かった期間は三十五から四十一までで、わりに短いが、鹿児島藩 のは二カ年で、江戸の復興が一応できてしまったので失業島津家の士が、イギリス人を斬った生麦事件の前年から、 し、伊豆の下田その他を経て三十五で横浜へゆき、最初の武田耕雲斎等が死刑に就き、武市半平太が自殺した次年ま 仕事が前にいったようなことで、現場から逃げ失せたときでの、時が時だけに、そのころの横浜を知るには弥兵衛の は吉蔵といっていたか、すでに弥吉といっていたか定かで伝記は、好個の物の一ツである。 私がこんな話をするタネは『従六位光村弥兵衛伝』 ( 中 徳川時代は名を改変することが、面倒でなかったとはい 西牛郎・非売本 ) である。この本が編まれて、弥兵衛の知己 え、三十五年間に四、五たび名を変え、一度は姓まで変えの間にのみに頒たれたのは、明治二十七年 ( 一八九四年 ) の たこの男は、後に神戸繁栄につくしつつ、巨万の富を築き冬であるから、私は数え年で十一であった。したがってこ 上げた長門屋弥兵衛である。長門屋は商号で、姓を後に新の本は頒たれてから五十余年の後に、古本屋さんから手に たに興して光村弥兵衛といった。 入れたものである。弥兵衛の詳伝が別に編まれているかど 弥兵衛の子が光村利藻で、明治三大蕩児のひとりとい うか知らない。私はただこの一冊だけに拠って、ところど うことにされ、ジャーナリズムが事あるごとに、面白ころに余談を加え、ムダ話の一ツに用いるのである。 おかしく書き立てたので、世間は蕩児にして無能なる光村弥兵衛が広吉と称していた二十七のときのこと。備 もの、という印象を与えられたが、後に写真と印刷と中倉敷でもこれという生業が得られず、広島へ足を向けた に大いなる貢献をし、事業にも或る成就を遂げた。色が、気が変って下関まで、行くことは行けたが、零凋孤 彩写真印刷による古仏画孔雀明王はじめ、おびただし苦、前途に望みを失って自殺を思いたち、鹿野の漢陽寺に き作品は、東海一島国が世界に対して虹のごとき気を死場所を定め、いざ死ぬとなると心機一転、生きて生きて 吐いたもので、じつにそれは光村利藻のやったことで生き抜く気になり、摂津尼ヶ崎まで漸く来たとき、聞き込 あった。 んだのが相州浦賀にアメリカ艦隊が進入し、幕府との間に 光村弥兵衛は木遣り音頭ができないので、普請場から逃いっ戦争となるやも知れずということである。弥兵衛は一 げた文久元年の春から横浜に居着き、慶応二年十月二十日ト旗挙げる機会はこのときと、無理に無理して品川までた の豚屋の火事で、横浜がほとんど焦土となったその翌年一一一どりついたのが、嘉永六年七月中旬で、アメリカ艦隊はす
116 かなきん 百文で、金巾を買って大風呂敷に代用した。そのころ白金 巾を大風呂敷に代用したのは、江戸では絶無、横浜のみに あるものであった。 、ギャマ ガラス壜はフラスコと呼び、ビードロ壜といし ン徳利といい、横浜以外の地では長崎地方を除き、極端に 珍重したものであった。栄助はここに眼をつけてラムネ工 場と十三番館、八十九番館の料理人時代に習得したところ の英単語をつかって、外国商館の廃品であるガラス壜を買 って廻り、これを日本人に売って利を得た。在留欧米人か らいえば、ビールにしろプランデーにしろ、飲んでしまえ ば空き壜は不用な物である。それが横浜以外の土地へゆく とこの上もなく珍奇な物となり、したがって値も高い。だ から栄助は空き壜の買いと売りとで、小資本ながら溜め込 んで元町に洋酒店をひらいた。伝記には栄助が慶応二年に ひらいた洋酒店を、「西洋風の飲酒店としては最も古いも のと思はれます」といっている。 四 飯島栄助が洋酒の一バイ飲み屋を元町にひらいた慶応 二年の五月二十七日、横浜にはいったイタリアの軍艦 マジェンタ号はイタリアの派遣した全権使節ヴィット リア・アルミニョン海軍中佐が艦長であった。その見 聞記が邦訳されて「伊国使節アルミニョン・幕末日本 記』 ( 原名「日本及び一八六六年海防艦マジ , ンタ号の航海し という。それに拠ると、横浜市の内外は欧洲の港街と 景観がおなじである。違うのは日本家屋があり日本人 がいることだけ。白人の家は一階建で周囲は木造か土 塗りか煉瓦積みで、屋内には欧洲か中国から持ち込ん だ家具が備えられ、イギリス人・アメリカ人・ドイツ 人などの商店は欧米人の生活必需品を売っているが、 欧洲に比べて二、三倍の高値で売られている。在留白 人は国別に集り住むのでなく、好きな場所を居留地内 に選定して住み、戸数は二百以上、月毎にその数が多 くなってゆく。横浜にはイギリス陸軍の一箇大隊 ( イ ギリス第九聯隊・ノックス大佐指揮 ) とフランス海軍の陸 戦隊三百名 ( トウアル大尉指揮 ) とが、市の南方の丘に 駐屯していた だから、ハマの外国軍隊駐屯は前後 一一回であるーー・郵便物は中国を経て月三回ずつ郵船に よって届けられ、三つの衛戍病院、一つのカソリック の教会、一つのプロテスタントの礼拝所、二つのホテ ル、二つの新聞、一つの漫画新聞、数カ所の料理店、 六乃至七の銀行があった。在留白人の多くは独身の青 年で、金が儲かったら欧洲へ去るか中国へ渡ろうとい う連中ばかりである。居留地の欧米人の商館には、買 弁という中国人の会計専門家がいた。彼等は頭がよく て誠実で、欧米人間での評判がよかった。その数は確 かに一千人を越え、西洋人の居留地に住んでいた 栄助が居留地の中国人コッグに雇われたのは、この買
101 よこはま白話 の一団は会津若松へ突入をはかったが、その日も会津方は 敗北して突入の機会がついになかった。拿洋の中野竹子姉 妹などが男装して西軍と闘い敗北したのと、おなじ日のこ とたとい、つ 会津に見切りをつけたこの一団は、板谷越えをして米沢 へはいったが、すでに米沢は帰順しているので、居るにい られず、一泊しただけで上の山を過ぎて山形へはいった が、ここにも居られず、笹谷峠を越えて仙台城下へゆき、 芭蕉ケ辻で分宿した。それから間もなく仙台郊外の寺院に 移され、反逆者の一味というので謹慎を命ぜられた。奥羽 戦争が西軍の勝利で終りを告げたからであった。滝七は晩 年になっても奥羽戦争の終結を、和睦という言葉でいし 降伏とか帰順とかいう言葉を避けた。 謹慎は慶応四年が明治元年と改められても続き、明治一一 年正月になって滝七は無罪となり釈放された。 長岡の人で渡辺廉吉 ( 法 ) 博士は、明治戊辰のとき十五 歳で、山本帯刀の隊に投じて戦闘した。岡村滝七より 二つ年上である。渡辺の父は山本帯刀の家来で渡辺櫓 左衛門といい、兄は渡辺豹吉である。渡辺は名を正吉 といっていた。慶応四年五月十九日、西軍が長岡城を 抜き、市街は火の海となり、慘事続出のとき、西軍は 長岡の老幼と男女とを問わず皆殺しにすると風聞が起 った。これを聞いて抵抗の決心を固め、山本帯刀の陣 営をさがし、兄の渡辺豹吉から帯刀に従軍の許可を得 て貰った。正吉の初陣は長岡奪還戦で、このときは無 傷であったが、ついで起った六月一一十九日の西軍強襲 に敗れたとき、城外の戦場で左の足に弾丸をうけた。 負傷をかばいつつ八十里越えの山路をゆき、只見村ま でくると、そこに山本帯刀が敵の追撃隊に備えて踏み とどまっていた。兄豹吉もいた。正吉はそれより会津 若松に入り込み、負傷の手当をうけたが、山本帯刀は 濃霧のため誤って敵に発見され、捕えられて斬られて 死んだ。豹吉は敵将におのれの命を賭けて帯刀の首級 をもらい受けて埋葬し、約東なればとて、我が命を敵 将に渡しにきた。敵将はロを極めてそれに及ばずとい ったが、 豹吉は死んだ。このことは語り伝えられ、書 き伝えられ、又、帯刀の家を嗣いだのが山本五十六で あることも知られている。正吉は兄の死を会津若松で 聞いた。やがて若松は帰順し、開城となるので、出で て檜原峠を越え、米沢城下にはいったが、十五歳の敗 残の兵はどこにも身の置きどころがなかった。幸いレ 城下の呉服店の老母があわれんで救ってくれた。それ より五十余年後の六月、今は正吉ならぬ渡辺廉吉博士 が報恩の墓参をしたという。渡辺が長岡へ帰ったのは 明治元年十一一月、滝七のごとく幽囚の身ではなく、潜 伏者であったからいくらかでも帰国が早かったのだろ う。焦土の長岡は先ごろも焦土にされたが、渡辺に詩 がある、大正の頃の作だろう、「家郷ニ墓ヲ顧ミテ悲