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検索対象: 長谷川伸全集〈第12巻〉
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1. 長谷川伸全集〈第12巻〉

で、子供なしの夫婦カケ向いのくらしであった。 ある日、病人らしい五十男と、四十余りの血色のよくな い女とが、おずおずとして声をかけ、「買っていただきたい 物があります」といった。「そこにお持ちなら拝見します」 と、新米の古道具屋がいうと、病人らしい男は下を向いて 黙っている。女の方が眼を光らせて、「私どもの家に伝わ るものを買ってください、物は宅へ来て見ていただきとう ございます」というので、亭主がその男女について行っ 浜松市の郊外にちかく古道具屋の店を出した夫婦があっ た。戦後のことなので、疎開流れが始めた店だろうと、土やがて帰って来た亭主は、薄汚ない白布に包んだもの 地のものは好意も見せなかったが排斥もしないから、夫婦を、一つは背負い、二つは左右の脇の下に抱えていた。 はイヤな思いはしないのだが、困ったことに商売がさつば「病人みたいな男が、凄い形相をしやがって、こいつを押 りダメで、この分ではもう二タ月か三月で、乞食に落ちるしつけ、おれの金を残らず持って、女と二人でドロンした ( 消えた ) 、ああ気味のわるいやつらだ」と、おびえていた。 かも知れないと、沈む気もちを夫婦互いに励ましあって、 どうやら脅迫されたらしい 何とかまあ日を送っていた。 三つの包みの中は、出どころもわけもわからないが、白 この夫婦とも以前は役者であった。といったところで、 . さ木の葬い飾り一式が、組立てを解いてはいっていた。亭主 もつばら地方ばかり巡業の一座に働いているうちに、、 い一座を組み、亭主は座長と太夫元とを兼帯でやり、女房は当惑の余り、それをボンヤリ眺めているだけだが、女房 説はソッポ ( 顔 ) も少しはよく、タッパ ( 背丈 ) もあり、語呂がの方は手放しで、「これであたし達は乞食だ」と泣きむせ 和ちょっといいので、一座の呼びもの女優にして、一時は商んだ。 その晩、夫婦相談の上で、ええもうャケだ、という気 て売が順調であったが、そのうちに映画興行に食われてポシ 月しったようで、店へ葬い道具を飾り、「この品々一式を、どなた様に 生ャリ、一座を解散してから一年ぐらい後に、蔔、 に浜松市の片隅で、自分たちの持ちものを店へ並べたようも無料お貸し致します」と紙に書いてさげた。 な、古道具屋をやったと、こういう身の上の若くない二人ところがその翌日、夕方前までに合計七人の買い物客が 行余のいろいろ

2. 長谷川伸全集〈第12巻〉

計を一一人で四個もって、間隔をおいて続き、それから担架がないらしい。交渉係はその二人にも腕時計を一つずつや が、これまた距離をおいて続いた。斥候は軍医のいるとこ ろを搜し出すか、薬のある隊を捜し出す役で、交渉係の一一山へ引返す途中で、戦友たちは薬の匂いを嗅いで、これ 人は腕時計を見せて、診療してもらうに非ざれば薬をもらがいいだろうと、怪我人の痛むところへ塗りつけた。運を うか、どちらかに交渉を成立させる役である。 天に任せたようなものである。 だが、この戦友たちが捜し出したのは、軍医でなく衛生その翌日、戦友たちはあらためて相談の結果、今度は斥 下士官兵でなく、シベリアの奥地の農夫らしい兵二人であ候と交渉係だけが山を下って、きのうのソ連兵を搜し、消 った。腕時計をシャツの裾へ隠している交渉係の二人は、 毒薬とホーサン軟膏の類を、またまた、腕時計と交換で手 手真似で軍医のいるところを尋ねたが、そのソ連兵はそんに入れにいった。きのうソ連兵に出会ったのは、彼らが巡 なことは知らなかった。ところへ別なソ連兵が駈けつけて視の途中であったので、この日もきのうと同様なところで 来たので、交渉係がこれにも手真似で、こうした怪我につ待ちあわしているうちに、きのうの腕時計が三つとも棄て ける薬をもっているかというと、彼は持っているという身てあるのを見つけ、拾ってみると三つとも、ネジを巻かな 振りをした。それではと腕時計を出して、薬をくれという いから停まっているのである。 と、彼は「ハラショ」といった。その途端前の二人のソ連そのうちにソ連兵が二人やって来たが、きのうの兵では 兵がばっと手を出した。 ネ / . し、刀 一人が薬を、一人が繃帯を高く捧げて、「ハラシ ョ」といって駈け寄って来た。交渉係は例の手真似で、消 毒薬が欲しいと、苦心惨憺してやって見せたのがとうとう 交渉係は薬と繃帯と引換えに、これをやると腕時計を、通じ、明日ここへ今ごろ来れば渡すと、これも手真似の答 一つだけ出して見せたところ、三人とも耳を時計にちかづ えがあった。明日ではダメ、今すぐに欲しいと手真似をす けて、カチカチという音に聞き惚れていたが、「ハラショ」ると、「ハラショ」とばかり二人とも駈け去った。やがて といった兵が第一に駈け去り、あとの二人もそれに続い消毒薬を小さなビンに入れて持って来た。交渉係は明日も た。やがて「ハラショ」といった兵が、繃帯一袋と薬二、消毒薬と時計とを交換するかというと、「ハラショ」と二 三種とをもって来たので、腕時計と交換した。そこへ二人人とも喜んで答えた。 のソ連兵も引返してきたが手プラである。薬の持ちあわせ交渉係はさっき拾ってネジを巻いた腕時計を、二人に一

3. 長谷川伸全集〈第12巻〉

小説、戯曲の " 筋 , を進呈することもある。といったととこれは出来ない芸なので、作品の助成に主力をそそぐ、 4 ころで、やぶから棒をツン出したように進呈するのではなというやり方を専らやってきた。 骨を折って書いたがうまく行かない、といったような 作品の助成とはどういうことかというと、この原稿をど とき進呈する。しかし、進呈された筋で書いたら、その人うすれば良くなるか、ここにあるみだれはどうすれば整う の作でなくなるのだから、進呈の筋は資料であり参考品でか、この書き方で実体を感じさせるか、感じさせないとし あり、木彫りでいえばのみ、茶壁でいえばこてでしかな たらどうすれば感じさせられるか、といったように、助成 するものは、その作品の作者になった気で考える、という テーマだって持っている限り、隠しはしない、あげてし ことである。 まう。小説にしろ戯曲にしろ、テーマに終りなどない。テ助一言を受けているその小説が、作家としてその人のうち ーマはいつも古くいつも新しいものである。早くいえば人建てんとしている作品の場合と、俗にいう〃売り原稿〃の 間とおなじで、新しく生れて古く死んで、また、新しく生場合とでは、少くとも私はそれとこれと違ったいい方をし れ、というように不滅である。だから時として、テーマもている。二つのつかい分けともいえる。 進呈する。テーマの使い方だとて、気がついた限りいって戯曲もまたそうである。 しま , つ。 テーマといえば、私はときどき傲語している。一つテー 股旅もの マをつかって三つの作品が出来なければウソだ。その三つ の作品がおなじテーマから成っていると見破られるようで 私のような、つまらない過去をもつものが、作家という はウソだ。ここでウソだといったのは、本当の意味でいう ことで、とにかく、やっていける有難さを感謝したいの 一人前の作家でない、ということである。 で、何かに託してそれを現わしたいと思ってやった一つ 私どもの勉強のやり方の一つに、批評はいらない、必要に、だれも手を付けないと思える、「相楽総三とその同志』 とするものは〃助成〃の案の持寄りである、というのがあだの『相馬大作と津軽頼母』だのがある。 る。 どちらも売れなかった原稿で、売れない本でもあった せつえん 一番いいことは立派な批評と、人それそれの助成案とが、雪寃の目的は、どうやら果し得た。ただし雪寃といっ が、抱きあわせになって出ることだが、かなり大人でない たうちに、相馬大作もはいっている。彼は伝承されている

4. 長谷川伸全集〈第12巻〉

話は小戻りになるがーーー甚語楼をスッポカして、名古屋も五銭ではねえ、おれが行って来いするまでツナギ切れね から終列車で大阪へ着いた芦洲の所持金は、五銭の白銅貨えし」といううちに、思いついたのが銭湯である「先生、 一つである。梅田駅の外へ出るは出たが、仕方がないのでお湯にへえっていてください、金の都合をして来ます」芦 出鱈目にぶらぶら歩いた。とスレちがった男が、「ウチの洲を銭湯へ置去りにして飛び出して行った。 ところが三十分たっても一時間たっても、麟慶が引返し 先生じゃありませんか」といった。芦洲がふり返ってみる と、行方不明になっていた弟子の西尾麟慶 ( 松村伝次郎 ) でてこない、芦洲は湯につかったり流し場へ出たり、何度と めぐりあい なくやっているうちに一時間半になり、やがて二時間にな ある。この二人の大の男は、思いがけない邂逅に、人通り ゅあた へちま ろうというとき、昔の言葉でいう湯中りで、ウムといって の多い街の中で、人目も糸瓜もない、抱きあって喜んだ。 麟慶の父は神田伯治 ( 松村伝吉 ) で、今の宝井馬琴の師匠引っくり返った。ときに麟慶が苦心の固まりの金五円をも の馬琴 ( 小金井三次郎 ) とは気の合ったズボラ仲間であった。 って、勢いよく引返して来た、という説と、もう一つの説 つまり父子二代の講釈師だ。その麟慶が一身上に何かがあでは、麟慶が二時間余りして引返すと、芦洲が湯からあが って、アガリを持ってドロンした。アガリとはこの場合でって脱衣場で、ぐっすり眠っていたので、傍へ寄ってみる は、講釈専門の寄席の楽屋入りの金のことである。真打以と、酒の匂いがぶうんとしたと、なっている。 下の収入はそれから出る。そいつを麟慶がもってどこかへ 十七 消えた。そのとき、師匠の芦洲が、「伝公め、やりあがっ たな」といったのが、怒ったらしいところさらになく、野芦洲は湯にはいったり出たりしていたが、麟慶がなかな 郎うまくやりあがったといった調子であったという。 か引返して来ないので、退屈まぎらしに、修羅場の一節を 「あの節はどうも済みません」と麟慶が詫びをいうと、芦ロのうちでやっていると、興がわいて来たので、声が次第 洲は「あんなことはお互いさまだ、それよりは一杯飲ませに大きくなると、眼中に銭湯も裸もあったものではない。 てくれ」というので「先生いくら持っています」と弟子が小桶の横ッ面かなんかをたたきながら、朗々とやる。それ 聞くと、先生の方は五銭の白銅貨を一つ出して見せ「これを聞いた風呂屋の者はじめ、近所隣りのものが、そっと来 でみんなだ、伝次郎お前はいくら持っているのだ」と聞くて、そっと聴いて、感心している。一席終って芦洲が湯槽 と、弟子が「何分にも出先のことだから蟇ロはもっていなのなかへはいっているうちに、風呂屋の亭主が酒を流し場 いし、ここらでは顔の利くところはなし、ミルク珈琲店でヘもち込んだ。その酒を喜んできゅっとやった芦洲が、ま

5. 長谷川伸全集〈第12巻〉

梅田は怒り心頭に発して犯人を捜し、発見するが早いか 梅田は乗船切符と、わずかばかりの小銭とをもって、船 知る限りの各国語で罵詈を浴せつつ殴りつけた。 に乗り、香港へあがって、上海の知人に迎えに来てもらっ た。アメリカ時代に世話した中国の若者が、今は上海の有 十六 力者の一人になっているのを、地に落ちていた新聞で知っ たのである。 盗んだのは中国人で、殴られるたびに大声で泣くのが、 梅田友次郎の胸を妙にうち、肚にひびくので、罵詈をや上海の有力者の世話で服装を整え、一等船客となって日 め、殴るのもやめてしまい、「堪忍してやるから行け」と本へ帰った。梅田は東京で新聞人としての再出発をやり、 いうと、その中国人が三拝九拝して行きかけるのを、梅田やがて結婚した。夫人が金持ちの子なので、梅田は一躍し が呼びとめ、「この・ハナナをくれるから持ってゆけ」とい て富裕となった。 った。相手がびつくりして辞退すると、胸をそらして梅田懇請されて島根県にゆき、松江市 こ住むこと二ト年「松 がいった。「おれは盗みをしたやつは殴るが、おれよりも陽新報」の主筆で、盛んなる時が続いた。晩年、東京に住 困っているやつは慰めてやりたいのだ。なぜかというと、 むようになったときは、昔と違って十円の金にも困ること おれは日本人だからだ」それに付け加えた。「日本人がおがあった ( 大正末か昭和初めの十円である ) 。ところが、梅田 前に道を聞いたら、往東去 ( 東へおゆきなさい ) を、往西には門下生が多かった。その面々が醵金して、ちょっと立 去 ( 西へおゆきなさい ) などと決していうな、おれへの礼派な文化住宅を新築して贈ったし、時々はその面々が気を だと思ってな」 利かして物をもち込み、仕事をもち込み、小づかい銭を持 これと似たことを、アメリカから帰って来た昔の友達かちこんだ。 ら聞いた。いわく「シカゴの田舎で道に迷っていたら、爺政治上の啓蒙運動には、打ってつけの人物だというの さんがやって来て、おれがお前の必要な人間になってやるで、頼まれて地方のさまざまな都市で講演をやった。学問 と、道案内をしてくれた。その親切に感謝したら、その爺はあり、経験は深し、弁舌は立つ、そして文章がうまいの さんがいった。そんなにいうなら一つ約束してくれ。他でだから、いたるところで好評であった。ところが兵庫県下 もない、お前が他日お前の国へ帰ったとき、外国人が道にを講演して歩いているうちに風邪をひいた。小寺謙吉など 迷っているのを見たら、ただちに進み出て、道案内を必ずは殊に熱心に、東京へ帰って養生した方がいいとすすめた するという約東だ」 が、強情我慢の梅田である、相手にしない。新潟県へ飛ん

6. 長谷川伸全集〈第12巻〉

この一家は、女主人のその女を入れて十二人ぐらしとなれを先程から見ていた人々が、芋・大根その他を贈ったの り、だれもと同様に食料に窮した。この日は、あすの朝食で空同然のリュックサッグが見るみるふくらんだ。 べさせる物がないので太田在まで買出しに来て、歩き回っ その女は乗りかえて水一尸へ、とそのはかの人々は上野 たが、売ってもらえたのは、細く小さい大根一本と小さなへ、別れるとき、その女は夜のホームに立ってむせび泣い 芋が四つだけであった。「こんなことなら来るのではなかていた。このときは、水戸から上野へ汽車で行く方法を カそれはここに書くことを遠慮する。 った」と目を伏せ、「罹災証明書をもらうのには、東京へそっと教えた。 : 、 ゆかないとダメでしよう。でも上野までの切符をいくら頼 十二 んでも駅で売ってくれませんしねえ。それよりもあしたの 朝、どうしたらいいのかアテはなし」というその目の前 東京のある工場へ出ている女の子が、ある日の夕方、家 へ、はウデ玉子を一つ差し出した。「三つもらって来たへ帰ってみると、知らない老人の泊り客が来ていた。女の 一つです。アトの二つは妻と子にと指名されてますが、こ子は父から紹介されて、その老人が兄の戦友の父親である の一つは私にといったのですから、私の代りにどうぞ」とことを知った。この女工員の兄と、泊り客の老人の息子と は、現役のときも戦友で、召集されてからもまた戦友で、 いうと、喜んで受けとったが食べない。強いて食べるよう にといったら答えた。「小さい子が一人おりますから、そ憂き艱難を、東南方の戦場で共にしていたが の子に」 この話は昭和二十年三月のことだから、東京は敵襲がっ は「あなた昼飯は」と聞いた。その女は微笑だけしづき、焼野ガ原が諸所に出来ていた。泊り客はそうした中 た。食べていないのだ。「朝飯は」と聞くと「は」といつで、近県の知辺のところへ、泊りがけで用足しにいった。 た。食べているということらしい。は夕食の代りにと、 その晩、東京の泊り先が、戦火に罹って灰になった。夜を とって来た芋入りパンをその女に贈ったところ、押しいた徹して燃えひろがっていた火がようやく下火になったこ ろ、夜が明けた。 たくが早いか、息もっかずに食べてその後で礼をいってい るうちに、目から涙があふれ出しはじめた。が出来のい ゅうべ娘と両親とは、避難の混雑のなかで別れ別れとな い大根数本を贈ったところ、「あなたも苦労して持っておったが、朝の日が出かかったころ、焼跡へ真っ先に来たの 帰りなのですから」と、固辞するのでは、「重いから軽は父親であった。父親は我が物と客の物とを背負って出た くするのです」と作りごとをして、ついに受取らせた。こが、火に追われ人にもまれ、疲労も出る、気力も弱るで、

7. 長谷川伸全集〈第12巻〉

510 説、戯曲に書こうとする人間の生活にヤマのないはずはあ 云うものがあるものだ。それは、たとえ平凡に観客の前に 演出されていても、三分たてばその並ならぬ立派さと云うるまい。そして、ヤマは自然と出来てくるのではないか、 ものは人々に思い出されて理解されるものである。小説のちょうど、崩れ落ちる砂の中から岩が浮き上がってくるよ うに、生活の波の中から、特に顕著なものが次第に大きな 書き出しもこれと同じである。 ウネリとなって現れる、それを待つべきで、作者がこれは 書き出しと結びの上手な作家は、名作家になれなくも玄ヤマにしよう、と作り上げるものではないと思う。 人にはなれる素質がある。役者でも、舞台の上の出入りの新聞小説の場合は、一日一日に小さなヤマが要る。これ は、新聞小説と云うものが、或る形式を必要とするからで 上手な者は有名にはなれるものである。 書き出しが大事なのと同じく、この結びも大切なものである。新聞に連載する、と云うことは、毎日続けて読む人・ ある。中には最初から結末を作って書いている作家もいるだけでなしに、或る日フト読んでみた、と云う読者も考慮「 ようだが、私は結びを考えた、と云うことはない。書いてして、或る一日分だけでも、ほかの人に話して聞かせられ 一つのポイントを持ったものを三枚半ほどの中 いる途中作品がどう変ってゆくか、私にも分らないのであるように、 る。主人公がどう云う心理過程を辿るか、最後までは作者に書かなければならぬのである。この毎日のポイントが集 って、小説全体のヤマとなるのである。ヤマと云うもの にも分らないことではないかと思、つ。 は、本来は一緒のものであるべきだろうが、内部的なもの と外部的なものの二つに解釈出来よう。新聞小説には、こ これは変則だろうが、私は常に数多くの主題をもってい る。材料が多いのだ。書こうとするとき、どれにしようの外部的ヤマの方が多いようである。 か、と迷うはどである。甲を主題として書こうとする。そ の心の中に熟するのを待つうち、それが乙の主題に変って大事なことは、ことに長篇などでは適度のダラシ、と云・ しまう、と云うことはままあることだ。これが決定するとうか、読者がホッと息をつくところを忘れてはならぬこと だ。たとえば誰にでも分る例をあげると、浪花節の名人が 名も決まってくる。 一人で四つを語るとする。この時、語り手が名人であれば 人間、生きているかぎり、誰の生活にもヤマはあるだろあるほど、四つの出し物は決して同じ調子のものを選ばな いのである。まず一番はいいものを大事に語る。然し、一一 う。我々とて考えてみればヤマがあるのだ、ましてやト

8. 長谷川伸全集〈第12巻〉

る。ということを知ったのは無論その当時ではなく、私が知らぬ人がと前にいったが、すぐその背後に大正の末か 作家になって年久しくたってからである。しかし、子供下ら昭和の初めにかけ、新子安の海水浴場 ( 今は理められてエ 男のそのころの私は、隣屋敷の児に記憶がないのだから、 場地帯 ) で、双方とも仕事は違うが働いている同士であっ 話したところでロに出すタネがなく、書くには事がまるでた馬さんが付いて来ていた。知らぬ人は、あなたが子供の よみが ない、それでいて懐かしさが甦えってくる、それは小泉さときのことを、鈴木貫太郎さんの奥さんがまだ娘さんのと んを媒体にして、在りしそのころの人と事のもろもろにむき知っているのですよ、一ペん訪ねたらどうです、と教え かっての懐旧の情であるのだろう。 てくれたのである。私が四つか五つかのときのことらし い。私は礼をいった。 作家になって二十年ぐらいたってからのある日、東京の が、訪ねてゆく気がない、 どこだかの講堂で講演をやったあとで、思いがけないこと 一言でおわる話しかないので を知らぬ人がきて聞かせてくれたーーー私は講演をやるたびは、何かのついでのときならば別、それ以外では先方には しい足りなかった に、そのあとに尾をひく後悔がある、 迷惑であり、こちらでも手持ちぶさただろうからである。 り、聞いてもらうに価しないことをいったり、と気がつく それから年月が久しくたって、あるとき私は横浜の野村 のである、恥かしさと愚かさに、心のうちはショポンとな洋三さんに会ったので、何かの話から、野村さん、私は太 ずる っている。私は狡いからそういうとき、一緒にいる人々に田 ( 太田町ではない ) で生れたのですが、鈴木貫太郎さんの そんな様子を気取られるようなへマはやらないが、されば奥さんも太田にながくいたそうですね、と聞くとすぐ答え といって、自分の、いは、他人さまの目をごまかすようには た、あのお方は生糸検査所といって、そのころ対外貿易に ごまかせない。 重要なものの一つであったところの技師長のお嬢さんでし そんなようなショポンを積み重ね、またも積み重ねしてた。 年月久しくたっと、今度は後悔するときと、後悔など寄せ 私は四つか五つのそのころ泣き虫であったようである、 つけない確信をもっときと、それからへタといわれ、あほそれをどこかのお嬢さんが振返ってみて通った、とこう空 混うと思われ無学としかられてもよろしいからギリギリ一杯想していると、私は私を木版三十七遍刷りの明治の小説本 石のことをいわぬといけないと思うときと、この三つのあれのロ絵の中の子供にしてしまう。 的に行きこれになりして、今に及んでいる。ただし私にはナ 私は作家になったことを仕合せに思う。 マの講演はもう不向きになっている。

9. 長谷川伸全集〈第12巻〉

たものであった。ただしそのころの私の相手はペンキ 工数人のみであった。 横浜の居留地に商館のあるアーレンス商社が、築地に 出来た外人街二十五番館に支店をもち、アメリカ向け の釣竿二千六百本を釣音に発註した、納入の期日を誤 まると百円について二十円の割りで罰金を出すという 契約であった。ところがその年は竹に花が咲いて伐れ ず、諸国に註文を出したがどこでも良い竹がない、辛 うじて竹を集めたが、東京へ入荷するまでに時間がか これでは かった。そのうち竹が着きは着いたが青い、 ならぬと枯らすだけともかく枯らし、振り出し竿にし て日限一杯に、出来るに随って納め、最後の納め日に 忠吉が職人と一緒に、築地のアーレンス商社へ残りの 竿を納めにいったところ、商社には綽名を弁慶という 白人の社員と、玄徳と異名をつけられている日本人の 番頭がいて、釣竿を一本ずつ調べている最中に、アー レンスがやって来て、その中の何本かを抜きとり振っ てみると、振り出しが抜けて飛んだり、振り出しが出 なかったりした。アーレンスが怒気満面で、ペケサラ ンパンあります、持ってお帰りなさい、違約金もって 来てくださいと、靴で竿を蹴った。このとき忠吉は十 一一一であったというから明治九年 ( 一八七六年 ) のことに なるが、出来の悪い釣竿は引取ってかえり、それにつ いての罰金は出しますが、引取ってかえる品を足蹴に するとは何ごとですか、持ってかえる品は私の方のも ので貴方の物ではない、足蹴にかけた品を貴方の物に するのならいいが、そうでないなら承知しないと啖呵 を切った。アーレンスがそれを聞いて、成程そうで す、私が蹴った釣竿は私が引取りますと、その分の代 金を支払った。しかしこの仕事は材料の竹がわるい上 に、納入までの時間切迫で仕事がわるく、検査を通過 しないものが多く、結局は多額の罰金を出すことにな り、その外にも原因があり、それとこれと一つにな り、前にいったハマの軍鵁亀が謝恩に買ってくれた家 も地所も手放し、今清盛といわれた盛大さが一転し て、釣音は北割下水に引越し、細い煙を立てるくらし に変った。面白いのはアーレンスだ。十三の少年が恐 れる色もなくいうことをいい切ったのに惚れ込み、 割下水の家へ訪ねて来て、あの子の教育を私に任せて くれればアメリカへやって勉強させる、あの子は非凡 なところがあるのだからと勧告した。だが、釣音は倅 を手放す気がないので、アーレンスのこの申出でを断 った。この少年がもし海外教育をうけたとしたら、ど ういう人物になっただろうかは、だれにも判定できな いことだが、海外教育どころか、日本の学校教育も口 クにうけなかった忠吉は、釣竿つくりの名人竿忠とな ったのである。錐は布に包んでもそのサキがいっかは 出ずにはいないものである。

10. 長谷川伸全集〈第12巻〉

あり、この店をはじめて以来最も好き日であった。好き日 は、岩井粂三郎を名乗るものがないわけではない。脇道へ 4 はその一日だけでなく、幾日も続いた。そのうちに葬い道はいった話になるが、役者の名どころか、「指導長谷川伸」 具の無料借り人がついた。続いてまた借り人がっきまたと「招き表看板」やポスターに書き出したのもあるくらい つき、また、またっき、やがて月のうちに十日も十五日もである。そういうのは旅先か何かでいつのころかに、問わ 無料貸出しをするようになった。古道具の方もますます好れるがままに答えたことが一度ぐらいあった。それをとっ 調であった。 つかまえて、指導とおいでなすったのである。 今この夫婦は浜松にいない、女房の故郷の四国の港街さて岩井粂三郎だが、明治・大正・昭和の三代にわたっ で、映画館を二つ経営している。一つは亭主のもの、一つて、岩井の名家でもあり実力もあったが、終戦になる四カ は女房のものである。 月前に世を去るまでの数年間は、不運つづきであった。が 例の葬い道具は町内へ置き土産にしたのだが、二タ月と菊五郎・吉右衛門の市村座時代に、女形として華やかであ たたないうちに、借り逃げされてなくなってしまった。薪ったこともあり、大芝居を脱けて中芝居の座頭となり、そ 代りに売ったのだということである。 れはまたそれで華やかであったことがある。ここでの話は その前後にわたってのことである。 粂三郎がこの女こそ、我が女房になるため生れてきたと 「このあたりいつも二人で通ったところ、思い出しては回思いこんだのが、新橋で花香といった芸者、本名を " おて り道」という二十六字の歌は、平山芦江の代表作の一つな 〃といった。この縁が正式に結ばれ、これで粂三郎も大 ので、目黒羅漢寺境内の彼の墓に刻みつけられている。墓きにノスだろうと、おていの内助の功を、ひいき客そのほ の建立は彼の門人たちで結成しているしぐれ吟社であっ かが楽しみにしていたところ、病気でおていが若いのに亡 た。また、芦江の三十一字の歌、「何かしら甘えてみたしくなった。 故郷の霊源院の観音の滝」の碑が、長崎市外東長崎の名所おていが臨終のとき、粂三郎はその手を握り、「おまえ に建てられるそうである。 が死ンだらあたしは女一房をもたないよ」といった。すると その芦江が永きにわたって、後見人格であった女形の役おていが、「それでは太夫いけませんよ」と、苦しい息の 者で五代目岩井粂三郎は、その次代を襲ぐものがないので下から諫めた。太夫というのは、立役で地位のある役者が 今は空位、といっても地方の怪しげな歌舞伎役者のなかに親方といわれたのと同様、女形で地位のあるものにつかわ