きょ′、、つ あとお おこしたり、国内でもアメリカが後押しする極右組織「自由コスタリカ」がうごめくな ど、コスタリカをゆるがす事件があいついでいました。 経済的に安定しているといっても、外国からの借金は多く、アメリカの経済援助がな ければどうにもならないのも事実です。アメリカの意思にしたがってコントラを支援す どくじ るのか、それとも独自の中立政策を守っていくのか。コスタリカの動きを各国が注目し ました。 ひぶそう 一九八六年、アリアス大統領は、攻撃用の武器をすて、非武装中立を徹底的に押しす せんげん すめることを宣言しました。アメリカの要求にさからって、コントラ援助反対を表明し、 しょこく ほかの中米諸国にもコントラ支援をやめようとメッセージをだしました。 ぎやくしんらいかん アリアス大統領の動きにアメリカは反発しましたが、周辺の国々は逆に信頼感を深め ち ていあん ました。一九八七年、アリアス大統領の中米和平の提案に、周辺五か国が同意。中米地 きそ 域の平和の基礎ができました。アリアス大統領のこの平和への努力に、ノーベル平和賞 おく が贈られました。 けれども、アメリカは反発を深め、経済援助などの面でコスタリカを追いつめました。 ついにアリアス大統領は次の選挙で落選してしまいました。コスタリカのような小国が てっていてき えんじよ め [ 2 ] 自転車て中米を縦断
かんりけん れ、一九九九年末までに運河の所有・管理権がアメリカからパナマに返還されること、 ぼうえい ぶんたん 正当公平な利益の配分、運河防衛の分担などがうたわれました。運河に対するパナマ政 府の権利がみとめられたのです。 に、一、つりよ、つ やがて登場したノリエガ大統領は、トリホス大統領がうちだした政策は維持したもの 。こうもん ゅ、つかい みつゆ まやくそしきせっしよく の、麻薬組織と接触、武器の密輸にも手を貸し、反対派を誘拐し、拷問し暗殺していき ました。 ぐんじしんこ、つ 一九八九年、アメリカのブッシュ大統領はパナマへの軍事侵攻を開始。侵攻の名目は、 すいこう 、かいふ′、 ハナマでのアメリカ市民保護、パナマにおける民主主義の回復、新条約の遂行、麻薬追 たいほ 放でした。ノリエガ大統領逮捕のために、二万四千人のアメリカ軍がパナマに上陸しま ちいき こ、つ・け・きま - す - した。攻撃は貧しい人たちのくらす地域に集中し、一般市民が二百人以上も犠牲となり ました。アメリカ大橋の手前、エルチョーリョ地区では約一万人が家を失いました。 けんせつ 約九〇年も前のパナマ運河の建設がきっかけとなった、アメリカ、パナマ、コロンビ まも色濃く残っています。 アの三国のぎくしやくとした関係は、い 南米各地で、自転車で旅をするアメリカ人にであいました。けれども、コロンビアで はひとりも見かけることがありません。アメリカ人サイクリストは、パナマでさえもさ 、つんカ ほご カ いろこ いつばん せいさく へんかん ぎせい じ じようりく 8 2
ゴしアメリカ 【バナマ運河】 北来南来。境に近い ちきう ペナマ地峡様新レ、 太平洋と西洋なむす . ローマ遺河地 バナマ・シティ バナマ〉 大西洋 南アヌリカ コロン カリプ、海 ノぐナマ ガ、トウン湖 太平洋 Ok あまりに不利な内容にコロンビア政府はこ きょひ の条約を拒否しました。するとアメリカはパ どくりつ せいりよく ナマの反コロンビア勢力と手を組んで、独立 国家パナマをつくりあげてしまいました。も ちろんアメリカに協力的な政府です。 ハナマ政府との間で条約をむすび、一九〇 四年に工事をはじめ、一九一四年には完成さ せました。パナマ運河が生みだす多くの富は、 こうしてアメリカへと流れることになりまし どくじ その後一九七七年、パナマ独自の政策をう だいとうりよう ちだしたオマール・トリホス大統領とアメリ 力のカーター大統領との間で新しい運河条約 がむすばれました。新条約では、運河および 。か′、にん 運河地帯の主権がパナマにあることが確認さ せいさく とみ 27 [ 2 ] 自転車で中米を縦断
けいざ そう ちます。じつはパナマの総人口の八パ 1 セントは中国系です。アメリカと対立して経済 もとだいと , つりよう せいさい 制裁を受けたノリエガ元大統領時代に、中国人移民を大量に受けいれたためです。ノリ 工ガ元大統領自身も中国人との混血でした。 ◆鼠径ヘルニア かいてきほそ、つ 四月五日午前七時過ぎ、チェポ発。快適な舗装道路を、軽快に飛ばします。一時間で ろてんきゅうけい 二五キロほど進み、スイカを売っている露店で休憩を取りました。舗装道路に人っても のど 暑さは続き、喉がかわきます。 交通量は少ないのに、冷蔵庫をそなえた露店がたくさんあります。コカコーラとペプ シコ 1 ラはどこにでもあります。メロンやパパイヤなど天然のくだものが多いのに、な せいりよ、つ ぜかみんなコーラを飲みます。一時間に一度、露店に寄って清涼飲料水を飲むのが楽し あま みになりました。もっともこの朝は、水気の多い甘いスイカにさっと塩をかけてほおば よく りました。ペダルを踏む意欲がわいてきます。この日のうちにパナマ・シティにつきま した。 ちきよう ハナマ・シティでは、ダリエン地峡のゲリラが話題になっていました。コロンビア国 れいぞうこ こんけっ そけい みん
《、キつはかり % そして、声をひそめるように「ソモサの時代はよかったねえ」とつぶやきました。 ソモサとは一九三六年以来、親子二代にわたって、ニカラグアを自分の私有地のよう 。こゝと、つりよ、つ にあっかった一家のことです。大統領の地位を悪用してお金をかせぎ、ニカラグア一番 の金持ちにのしあがりました。 どくさい あまりにひどいソモサ一家の独裁に、反政府組織のサンディニスタ民族解放戦線を中 か′、めい ろうどうしやきぎようか 心に農民、労働者、企業家が力をあわせ、一九七九年、ついに革命が成功しました。ソ しさん おく モサ一家は二億ドルの資産をもってアメリカに逃げだしました。 か / ) めい ちいき まず みつど ここニカラグア南西部は人口密度が高く、貧しい農民が多い地域です。革命がおきた ときは、住民の新政府への期待も大きかったそうです。ところが新政府は土地を個人に せいさく くばるのではなく集団農場とする政策をとりました。 自分の農地がもてると期待していた農民たちはがっかりし、新政府への不満がつのり ました。 新政権に失望した農民の気持ちを、食堂の女性のぐちに感じました。 しんせいけん じよせい そしき みんぞくかいほうせんせん こじん
をつくりました。 ・こいと、つり・ト ( 、つ 一九八四年、大統領がかわり、内戦が落ち着きを見せはじめ、国外の難民たちは帰国 できるようになりました。けれども、グアテマラ国内の混乱は続いており、農園での仕 ていちんぎん 事もきびしいうえに低賃金です。みんなアメリカへ出かせぎにいきました。 アメリカ政府がグアテマラ人を、内戦による難民とみなして出かせぎをゆるすように きようせいそうかん なったのは一九九〇年代になってからで、このころは捕まって強制送還される人もかな りいました。 一九九六年一二月、政府と反政府勢力が和平合意をむすんだのはリゴベルタ・メンチ ュウさんのところでふれたとおりです。グアテマラに平和がもどるのは、これからです。 ひんこん また、平和になったからといってこの国のかかえる貧困が解決されるわけではありませ ん。アメリカへ出かせぎにいったことのあるトドスサントスの村人がこんなことを話し てくれました。 「もういちどアメリカに出かせぎにいきたいんた。グ よアテマラで働くよりもいいお金に なるからね。だけど、和平合意によって内戦が終わると、アメリカ政府がグアテマラ人 きよか を難民とみなさなくなる。難民だからということで特別に許可されていたグアテマラ人 せいりよく つか こんらん 91 [ 3 ] 全霊祭の村