いうと、「それならこの国立公園のあそこのジャングルにいるよ」と教えてくれます。 フーリオさんの母親は、コスタリカ南部の先住民プリプリ族です。フ 1 リオさんもプ さい リプリ族の村で育ちました。二〇歳近くになってはじめてサンホセにでてきたとき、フ けいかんよ ーリオさんは靴をはいていませんでした。はだしで町を歩いていると、警官に呼びとめ けいかん られます。あやしい男だ、というわけでしようが、悪い警官にたかられてこまったこと ちょうきより もありました。中米各地を走る長距離トラックの運転手をしていましたが、一四年前か ら自然公園のガイドをしています。 でんとう プリプリ族には、争いを徹底した話し合いで解決しようという伝統があるそうです。 「コスタリカが外国と戦争になっても、戦いたくない。あくまでも話し合いで解決すべ 他人に武器をむけたり、殺したりするよりも、自分が死ぬほうがましだよ」とフ ーリオさんはい ) します。 しゅぎ フーリオさんのこの主義は、ジャングルの中でも徹底しています。小さなアリやカエ ルを踏み殺すことのないように、気をつけて歩きます。先住民の「話し合いによる平和」 ひぶそうちゅうりっせいさく の文化がコスタリカの非武装中立政策の基本にあるのかもしれないと思いました。 たにん くっ てってい 100
手術のための帰国がせまっているいま、トラブルに巻きこまれてはたまりません。用 心して、太陽が十分にあがってから出発しました。 こんちゅう ひしびしからだに当 プョみたいな小さな昆虫が路上を群れをなして飛んでいました。、 たります。髪の中に入りこみます。顔や腕が汗ばんでいるので、ぶつかった虫たちがべ たりとくつつきます。それをはらい落とそうとすると、皮膚の上でつぶれます。 強い横風にも悩まされました。自転車ごとからだ全体を傾けるようにして前に進みま 午後三時、フーチタン着。中央広場に安宿を見つけました。広い中央広場に露店がず ちいき いしよう らりとならび、活気があります。女性はこの地域の先住民独特の民族衣装を身につけ、 長い髪を三つ編みにしていました。彫りの深い美人がたくさんいました。 いど」い 五月八日、夕方までフ 1 チタンに滞在してから、テワンテペックまで移動。五月九日 はサンタクルスという港町をへてワトウルコへ。ここからアカプルコまでは海沿いのリ ゾート地です。五月一〇日、浜辺のきれいなプエルト・エスコンディード、ピノテペ・ ナショナル。五月一一日、クルス・グランデを経て、五月一二日、とうとうアカプルコ とうちゃく に到着しました。 かみ なや うであせ ひふ かたむ 63 [ 2 ] 自転車で中米を縦断
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ろてん きゅうけい こうなると露店での休憩時間が待ちどおし せいりよう くなります。清涼飲料水や冷たい水を思いき り飲み、木陰のハンモックにゆられます。 「がんばってね」と声をかけてくれる露店の あま おばさんや、甘いココヤシ水を飲んだのに、 「代金はいらないよ」と手をふって送りだして くれる露店のおじさんとのであいがありまし ◆軍隊のない国コスタリカ 四月一四日、コスタリカに入りました。交 一ど通量がぐっと減ります。自動車も大きくカー プをえがいて、自転車を追いぬいてくれます。 もうこわくありません。 ゆるやかなアップダウンの続く道を、気持 外 [ 2 ] 自転車て中米を縦断
テント、シュラフ 用していたが : 行老をねらう らとう 号カヾい ため、ホテルに 泊まった。 ます。 中米は治安が悪いため、ホテルや個人の家 ′」うとう に泊まりました。旅行者をねらう強盜がたく さんいるのです。この日は小さな町のモーテ ルに泊まり、傷の手当てをしました。 ャビサをでて三日目、チェボの町につきま した。ここで中国人経営のホテルに入りまし た。久々の客だと喜んでいます。 「観光スポットもないし、パナマ・シティま で車なら一時間だから、泊まろうとする旅人 はほとんどいないんだよ」 中米に中国人経営のホテルとは意外な印象 をうけるかもしれませんか、パナマには中国 人経営のスー ーマーケットやレストランが たくさんあります。露店商にも中国人がめだ ろてんしよう こじん ち [ 2 ] 自転車で中米を縦断
ほ、つこく しようかい 北米の旅は次回に報告をのばし、この巻では中米の旅を紹介しましよう。 ◆リゴベルタ・メンチュウさんに会う グアテマラに、ぜひ会いたい女性がいました。リゴベルタ・メンチュウさんです。メ ンチュウさんは一九九二年に新大陸の先住民としてはじめて、ノ 1 ベル平和賞を受賞し げんぎい ました。受賞したとき、メンチュウさんは三三歳でした。現在、世界最年少のノーベル 平和賞受賞者です。 ひんぶ グアテマラもほかの中米の国々と同じように、貧富の差が激しい国です。少数の支配 者が土地のほとんどを独占しています。人口の多数をしめる先住民はその土地で安い給 料で働かされています。メンチュウさん自身、子どものときは、一年のうち半分をコー ヒーや綿花の農園で働いていました。 けんり メンチュウさんの両親も、貧しい農民でした。父親は農民の権利を政府にみとめさせ しどうしゃ る運動の指導者として活躍するようになりました。メンチュウさんも家族とともに、 の戦いに参加しました。 政府は農民たちの運動を武力でおさえつけようとしました。出動した政府軍が村々を しゃ どくせん かつやく じよせい たいりく 71 [ 3 ] 全霊祭の村