フランス人 - みる会図書館


検索対象: 二十世紀をどう見るか
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1. 二十世紀をどう見るか

(Roger price ; concise History Of FRANCE より作成 ) ~ ロ世紀 15 世紀 うまとまった民族が存在し、それを基盤にごく自然に今日の フランスという国家が成立したと思いやすい。しかし、実際 には、ネイションとしてのフランス人も、長い歴史の過程か らいわば人為的に形成されたものなのである。 十三世紀に入るまでのフランスは、プルターニュやノルマ ンディーやプルゴーニュなど、多数の自立性の高い公領や伯 領に分かれ、モザイクのような状況を呈していた。十世紀に 登場したカペー王朝の権力は当初はきわめて弱体で、初期に おけるその実質的な支配は、。ハリ周辺のごく限られた王領地 にとどまっていた とくにロワール河以南のオクシタニアと呼ばれる地域では、 ラテン語の方言であるオック語が通用し、ヒ , コフランスとは・人 きく異なる宗教・文化・風習が展開されていた。封建制より も土地の自由保有の傾向が強いこと、女性の地位が比較的高 かったこと、非公式な自主的な裁判が大きな役割を演じたこ となどが、その例である。アルビジョワ派あるいはカタリ派

2. 二十世紀をどう見るか

端運動アルビジョワ派が鎮圧され、アルビジョワ派を支持するトウールー。 ス伯とカタロニアⅡ アラゴン連合の王が敗北を喫した。こうして、オクシタニアからカタロニアにまたがる地中海 海上国家の構想に終止符が打たれるとともに、南フランスの王領地化が促進されたのである。 それでもなお、十四世紀から十五世紀にかけての時期には、まだフランスの統一王政が崩壊 する危険性があった。フランドル、プルターニ = 、プルゴーニュなどで王権の支配を脱しよう とする動きか見られ、それにイギリスの介入もあったからである。現に、百年戦争の過程では、 プルゴーニュがイギリスと同盟を結んで、フランス国王を窮地に追い込むという局面も見られ た。ようやく十五世紀半ばすぎになって、ガスコーニュをふくむフランス西南部全体がイギリ スの手から解放され、プルゴーニ = やプロヴァンスなどもフランス国王の支配下に入った。そ して、十六世紀ともなれば、。ハ丿 ーを中心とした北フランスの言語がエリートの一一 = ロ語として定着 した ( 一五三九年、フランソワ一世の勅令によってフランス語を唯一の公用語とした ) 。同時 に、少なくともエリート の間には、フランス人というネイションとしてのアイデンティテイか 浸透することになる。 しかし、十六世紀後半のカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、フランスを内乱状態に おとしいれ、もう一度、王国を解体の淵に立たせた。注意したいのは、プロテスタント ( ュグ ノー ) がフランス南部により強く浸透を見せたことである。そこには、かって中世にアルビジ

3. 二十世紀をどう見るか

ョワ派を生み出したオクシタニアの独自の文化の伝統も、ある程度影響をあたえていた。とく にスペイン国境地帯のナヴァール王国は、この時期、オック語が語られるカルヴァン派の国家 としてたち現れた。 結局、この十六世紀後半の宗教内乱は、少し手のこんだ形で辛うじて収拾されることになる。 すなわち、カルヴァン派の国家であったナヴァールの国王アンリ四世がフランス王位を継ぎ、 みずからはカトリックに改宗してナントの勅令 ( 新教徒に信仰の自由を認めた勅令 ) を発する ことで、宗教和平を実現した。この結果、ようやくにして王国の統一が回復され、十六世紀末 には、南仏のマルセイユあたりでも「国王万歳、フランス万歳」の叫びが聞かれるようになっ こうして出来上がってきたフランス人のネイションとしての意識は、十七、十八世紀のプル 台ポン絶対主義のもとでいっそう強められた。そして、やがてフランス革命は、国王の手から国 一家主権を奪い取り、一般大衆の間に ( 人民主権の理念と結びつけながら ) ネイションの意識を ス煽り立てることになる。実際、フランス革命の到来とともに、「ネイション」「愛国者」「祖国」 工 などの一一 = ロ葉が犯濫した。そして、こうした現象を見るかぎりは、大革命をもってフランス人は 章 一つのネイションに融合をとげ、フランスという国家は文字どおりネイションⅡステイトとな 第 ったと思われただろう。

4. 二十世紀をどう見るか

いまさら断るまでもないが、ヨーロツ。ハ全体にとっても、フランス革命とそれに続くナポレ オン時代は、ナショナリズムの歴史の重要な画期をなしている。ドイツやイタリアで国民国家 の樹立をめざすナショナリズムが燃え上がるのも、フランス革命とナポレオン戦争の衝撃によ ってである。また、長らくハプスプルク帝国やオスマンⅡトルコ帝国の支配下にあった中東欧 の諸民族がナショナリズムに目覚めるのも、フランス革命の圧倒的な影響のためである。 こうしたことにもかかわらず、私たちが見逃してならないのは、近代フランス史の次のよう な側面であろう。 フランス革命は、たしかに新聞や軍隊等を通じてフランス語を人びとの間に広めることに貢 献し、革命中にはフランス語を国語と定める法律も出された。ところが、実際には、十九世紀 になってからも、あちこちでプルターニュ語、オック語、カタロニア語、ドイツ語などか使用 され、フランス語は容易に完全な普及を見なかったのである。一八六三年の時点でも、フラン ス人口の四分の一がフランス語を話さなかったという数字が残っている。こういう例に照らし ても、フランスの場合にも、複数のエスニーの区別を克服して近代の大ネイションを形成する ことが、それほど簡単なことではなかったことが想像できるだろう。 それだけに、とくに一八七〇年代にはじまる第三共和政時代のフランスは、義務教育や兵役 等を通じてフランス語を普及させ、フランス人全体に民族意識や愛国心を植え付けることに懸 8

5. 二十世紀をどう見るか

第三章ェスニーの台頭 フランス王領の拡大 12 ~ 13 世紀 14 世紀 として知られる中世の異端連動なども、オクシタニアの特異 な文化を土壌として生まれたものだった。 こうした事情を背景として、十一世紀から十三世紀半ばに かけて、地中海沿いの南フランスからカタロニアにかけての 地域には、自立性のつよい公領や伯領がたちあらわれること になる。北フランスのカペー王朝の国王たちは、この地域を 訪れることもなく、国王といっても、その支配は名目的なも のにとどまった。この傾向がこのまま続けば、オクシタニア Ⅱカタロニア連合という形で今日のフランスとは別個の地中 海海上国家が成立する可能性もあった、と見なす人もいるぐ らいである。 ーを中心とした北フラン だか、十三世紀ごろになると、。ハ丿 スの王権が強化され、南フランスもその支配に統合されてゆ く道が準備された。その一つの大きな転機となったのが、国 王を支持する北部の諸侯によって組織されたアルビジョワ十 字軍である。この十字軍によって、南フランスに出現した異

6. 二十世紀をどう見るか

見えはじめている ) 。 いずれにせよ、近代国民国家のモデルと見なされているイギリスでさえ、複数のエスニー形 成の長い歴史があった後に、それらエスニーの複合体として国民国家が誕生した。ただし、こ の際、次のことにとくに注意を促しておく必要があろう。イングランド、スコットランド、ウ エールズ、アイルランドといったエスニーは、なにも平等の条件で寄り集まって近代のイギリ 地政学的にも有利な位置をしめるイングランド スという国民国家を作り上げたわけではない。 かいちはやくネイションⅡステイトとしての体裁を整え、その上で、他の周辺のエスニーをし ばしば武力をもちいて統合しながら、最後に「グレートプリテンおよびアイルランド連合王 国」と称する国家にまとめあげたのである。つまり、イングリッシュという有力な核となるエ スニーがあってはじめて、近代のプリティッシュという大ネイションが成立しえたのだった。 1 日 . 台 の 「国王万歳、フランス万歳」 ス次に、フランスが近代の国民国家となってゆく歴史も、ごく大まかにふり返っておくことに 工 しょ , つ。 章 一つの優勢なエスニーが周辺のエスニーを併合する形で国民国家が誕生したという点では、 第 フランスなどというと、歴史の早い段階からフランス人とい フランスも根本的な違いはよい。

7. 二十世紀をどう見るか

命になる。フランス人をネイションとして一体化させるためには、三色旗、ラ・マルセイエー ズの歌、七月十四日の祝祭、ラルースの百科事典などが、恰好のシンボルとしてふんだんに利 用されたことは、すでに述べた。 しかし、それは、とりもなおさず、 リを中心とする支配的なフランス人グループが、周辺 のエスニーを従属化させ、彼らの「方一一 = ロ」を駆逐する試みにほかならなかった。言語・文化の 画一化を追求し、民族的・言語的少数者を駆逐しようとする政策は、なにもナチス・ドイツだ けの独占物だったわけではない。しかも、これほどの努力を払ってさえ、一一十世紀に人ってか らも、フランスにおけるエスニーの違いは、完全には消滅しなかった。著名な歴史家のフェル ナン・プローデルは、二十世紀後半になっても、映画のなかの。ハリの一般的な日常語が、ロワ ール河以南の人びとにとっては理解しにくいという事情を指摘している。 一豆 台 の いささか、イギリスやフランスの歴史に踏み込みすぎたかもしれない。しかし、これまで述 スべてきたことを通しても、ヨーロツ。ハの近代国民国家形成にかんして、従来ともすれば見逃さ 工 れてきた一連の重要な事実が明らかになったと思う。 章 三第一には、近代の大ネイションの形成に先だって、中世以来の小ネイション ( エスニー ) の 形成の歴史があったこと。第二に、近代のネイションⅡステイトは、複数のエスニーを統合す

8. 二十世紀をどう見るか

仏枢軸によってドイツの統一を遅らせることを目指した。八九年末にミッテランと会談した 際には、彼女は、ドイツの地理的な姿が過去にどのように移り変わってきたかをしめす地図を 、ノヾツ、 グから取り出し、統一ドイツの危険性をフランス大統領に向かって説いた しかし、こうしたサッチャーの努力にもかかわらず、西ドイツのコール政権は、「ベルリン の壁」の崩壊から一年を経ずして、「無条件の主権の回復」という形で東西両ドイツを統一す ることに成功する。その過程では、西ドイツ政府は、フランスをはじめとする周辺諸国の不安 を和らげるために、「統一ドイツは、欧州共同体にしつかりと錨を下ろすがゆえに、ヨーロ、 パにとって危険な存在となることはない」と説いた。また、コール首相は、公式の場で「ドイ ツはけっして中欧、東欧、東南欧の状況から一方的な利益を引き出すことはない」と約束する ことも忘れなかった。 結果的には、こうした西ドイツ政府の説得が功を奏し、フランスのミッテラン大統領も、少 なくとも表向きはドイツ統一推進に賛成の立場をとり、「英仏枢軸」によってドイツ統一を遅 延させるというイギリス首相の誘いに乗らなかった。ただし、サッチャーによれは、フランス 大統領は、彼女との二人だけの会談の場では、ドイツ人が中欧にかんしてもっている「使命 感」に憂慮の念を表明した。それゆえ、 ミッテランの公的立場と内面の思いとの間には「分裂 症的傾向ーかあったのだ、とサッチャーは手きびしく批判している。

9. 二十世紀をどう見るか

さらにフランスと並んで近代国民国家の模範のようにみなされてきたイギリスでも、とくに 近年になって、スコットランドやウェールズなどの周辺ケルト系地域の自立化をもとめる動き が目立っている。一九九七年には、新たに誕生した労働党のプレア政権のもとで、スコットラ ンドとウェールズの住民投票がおこなわれ、これら両地域にそれぞれ議会を開設することが決 められた。これなども、近代のイギリスという国家を構成してきたプリティッシュ・ネイショ ンよりも下位のエスニーが、自意識を高めていることの表れと見ることができる。 フランスでも、プルターニュといった地域には、エスニーの意識がくすぶっている。そして、 最近では、トウールーズを中心としたフランスの南西部が、スペインのカタロニアの勢力圏に 組み込まれつつあると指摘する人もある。この辺りになると、エスニック・ナショナリズムと しだか、フランス人の間でも、民族よりも 地域主義とを明確に区別することは、かなり難し、 下位の集団や地域がにわかに意味をもち出していることは間違いないだろう。 一地域主義といえば、冷戦終結後の一九九〇年代に入って、ミラノなどをふくむ北イタリア地 ス方が、北部同盟という政党を先頭に分離独立主義への傾斜を深めている。北部同盟の指導者ウ 工 ンベルト・ポッシは、イタリア共和国の建国五十周年にあたる一九九六年六月、北イタリア諸 章 三州を分離させて「バダニア共和国」という国家を建設する決意を宣一言した。このポッシの動き は、さすがに急進的にすぎて多くの支持を見出さなかったが、ともかくも、イタリアでも国家

10. 二十世紀をどう見るか

「イギリス」の形成 では、近代の国民国家の模範のように見なされてきたイギリスとフランスの場合は、どうな のか。この両国もまた、中世に遡る小ネイション ( エスニー ) 形成の歴史を経た上で、その延 長上にイギリス人あるいはフランス人という近代の大ネイションの誕生を見ている。 たとえば、今日われわれがイギリスと呼んでいる国民国家は、イングランド、スコットラン ルズ、北アイルランドの諸地域から成っている。この現在のイギリスの姿にいたる ズ人、アイルランド人が、それぞれ、 までには、イングランド・人、スコットランド人、ウェール 中世の長い期間を通じてエスニーとしてのまとまりを獲得していったという歴史があった。 そのなかでも、地理的にも小規模でまとまりの良かったイングランドでは、すでに十世紀以 ッシュ」や「イングランド」 台前のアングロⅡサクソンの時代に統一王国が形成され、「イングリ 一〇六六年にノルマンディ公ウィリアムによっ 一という表現がもちいられるようになっていた。 スて征服されて以後のイングランドは、これを継承して統一王国としてのまとまりをつよめ、十 工 四世紀ごろまでには、当時の西欧でも無比の強力な中央集権国家に成長した。 章 一一一十三世紀までのイングランドでは、君主や貴族はフランス語を使用し ( 当時のプランタジネ 、こ。し力し ト王朝はフランスの出身 ) 、一般民衆はアングロⅡサクソンの方一一 = 口をもちいてしオ