不可侵条約でも、ロシア帝国の領土回復という目的を追求したのである。 エリツインの新ロシア帝国 右に見たような一九一一〇年代、三〇年代にソヴェト政権によってとられた硬軟両様の民族政 策のなかに、はるか , ハ、七十年後にソ連邦の崩壊を招来する潜在的要因もすでに隠されていた。 しかし、今のわれわれにとって重要なのは、そのことよりも、ロシア革命後のソヴェト政権が ともかくも「ツアー帝国の領土の回収」に成功し、ソ連邦という名称のもとに多民族帝国の再 建に成功したことである。そして、それと並んで重要なのは、このソ連邦という名の多民族帝 国が一九九一年にいったん解体をとげた後にも、またもや別の名称の多民族帝国が復活する兆 しが見られることである。 九一年十一一月にソ連邦が崩壊し、 o—co ( 独立国家共同体 ) の創設が決められた段階では、 まだまだ民族主義がもてはやされ、は文字どおり独立した国家のゆるやかな結合体にと どまるはずだった。エリツインの率いるロシア連邦が飛び抜けて大国であるという事実に変わ りはなかったが、西方の三国 ( べラルーシ、ウクライナ、モルドヴァ ) 、カフカスの三国 ( アル メニア、グルジア、アゼルバイジャン ) 、中央アジアのイスラム五ヶ国 ( カザフスタン、トルクメ ニスタンなど ) は、それぞれ独立国家として自主的な道を歩みはじめているように思われた。
ン、アルメニアは集団安全保障条約を締結し、さらに各国はロシアとの二国協定も結んで、国 防をロシアにゆだねる動きをしめしている ) 。 こういった一連の動向をつなげてみると、ソ連邦崩壊後のロシアもまた、ちょうどロシア革 命後のソヴェト政権と同様、いったん解体した多民族帝国の再建をめざしていることが知られ てくるであろう。レーニンやスターリ ンといったソヴェト政府の指導者が「ツアー帝国の領土 の回収ーを実行したように、エリツイン以下のロシア連邦の指導者は、目下、「ソ連帝国の領 土の回収」に乗り出していると見てよいであろう。 くり返される歴史 こうして、ロシア革命とソ連邦の崩壊という今世紀の初めと終わりに起こった出来事は、い ったん既成の多民族帝国が解体せしめられた後、ただちに旧帝国の領土の回収がおこなわれ、 多民族帝国の再建がはかられるという意味でも、まったく同じバターンをしめしている。それ にしても、どうして、ロシアを中心とするユーラシア大陸北辺の歴史は、これほどまでに同じ 。ハターンにしたがって展開するのだろうか。そこには、十世紀以上におよぶこの北辺の広大な 地域の歴史のすべての重みが働いているのだ、と答えるほかはない。 ロシアの歴史をざっとふり返ってみると、九世紀に「キーエフのルス」と呼ばれる東スラヴ ー 42
人が建てたとされるキーエフ国家が、すでに多民族によって構成される帝国という性格をもっ ていた。その住民は、フィン語系、バルト語系の諸部族やトルコ語系の戦士等も含んでいたの である。また、十一世紀から十四世紀にかけてノヴゴロドを中心に形成された国家も、やはり、 東スラヴ人のほかにフィン語系やウゴル語系などの多数の民族を包摂していた。そして、それ ら非スラヴ系の諸民族を統治するにあたってノヴゴロド国家がもちいた方法 ( たとえば直接支 配と間接支配とに分けるなど ) は、後の多民族ロシア帝国がとった統治方法をすでに先取りし ていた 合 場 ところで、十三世紀には取るに足りなかったモスクワ公国は、十四、十五世紀のうちにモン の シゴル人の国家 ( 金帳カン国 ) の支配を脱して、ロシア北東部の覇権国・モスクワ大公国に成長 ロ をとげる。これが、一一十世紀初頭までつづいたロシア帝国の始まりにほかならない。注意した 向いのは、このモスクワ大公国の興隆過程が、それ以前に存在した多民族帝国の領土の回収とい 志 éう性格をもっていたことである。つまり、モスクワ大公国は、それに先だって存在した多民族 国帝国であるキーエフ国家やノヴゴロド国家の分散した領土をふたたび寄せ集めるという形で、 帝 強大化したのである。この興隆過程が一般に「ルスの領土の回収」と形容されるのも、そのた 章 五めにほかならない。 こうして、ロシア帝国の原型であるモスクワ大公国は、それ自体が複数民族を内部にふくむ
み、多民族帝国が装いをあらためてふたたび姿を現すことになった。というのも、一九一九ー 一二年の短期間のうちにウクライナからカフカス、中央アジアをへてシベリアにいたる旧ロシ ア帝国の広汎な領土が早くもソヴェト政権の手に帰し、一三年末には「社会主義ソヴェト共和 国連邦」の成立が宣言されたからである。 もちろん、この段階では、ポーランド、フィンランド、ヾルト 地方、白ロシア西部、べッサ ラビアなどの旧帝国領土は、まだ失われたままだった。だが、約一一十年後に起こった第一一次世 界大戦の間には、ポーランドの半分、 ト地方、白ロシア、べッサラビア、フィンランドの 一部までもがソ連邦の領土に編入される。こうして、ソ連邦は、領土の上でかってのロシア帝 国の姿にいっそう近づくようになったのである。 では、ボルシエヴィキは、どのようにして比較的短期間のうちに多民族的な帝国の再建に成 功したのだろうか。反革命勢力である「白色」軍がロシア民族主義の色彩をつよくおびていた こと、「白色」勢力や外国の干渉勢力の間に相互の緊密な連携が欠けていたこと、そして、こ れら反ボルシエヴィキ勢力が民族問題や社会問題にかんして魅力あるプログラムを提示しえな かったこと。これら一連の相手側の事情が、誕生したばかりのソヴェト国家に幸いした。そし て、ソヴェト国家の側は、レーニンとスターリ ンのもとで諸民族にたいして「アメとムチ」の 方法を巧みに使いながら、 いったんロシア革命によって解体した多民族帝国をふたたび糾合す 138
帝国が消滅した 一一十世紀が幕を開けたとき、世界にはまだいくつかの有力な帝国が存在し、地球上の大きな 部分を支配していた。ごく常識的な理解にしたがえば、当時の主な帝国としては、イギリス、 ドイツ、オーストリアⅡハンガリー、 ロシア、トルコ、清などがあった。そして、ユーラシア 大陸を見渡すと、東と北の広大な地域が清帝国とロシア帝国によって、南のインドやビルマが イギリス帝国によって、西に向かえば小アジアからアラビア半島へかけての地域がトルコ帝国 ハンガリ によって、さらに西方のヨーロツ。ハの中部および東部がドイツ、オーストリアⅡ ロシアの三帝国によって、それぞれ支配されていた。ついでにいえば、当時の極東では、日本 もまた「大日本帝国ーを称していた。 厳密にいえば、ここに挙げた一連の帝国は、少なくとも二つのタイプに分ける必要があろう。 第一のタイプはイギリス、ドイツ、日本で、これら諸国は、近代に入っていちおう国民国家と しての体裁を整えた上で、海外に植民地を獲得した帝国であった。これにたいして、第一一のタ イプにぞくするオーストリアⅡ ハンガリ ロシア、トルコ、清の諸帝国は、近代に人っても 容易に国民国家への転換を遂げえず、広大な版図のなかに多民族を包摂する中世以来の体制を 維持したまま、一一十世紀を迎えた。 重要なのは、一一十世紀の開幕当時に存在していたこれらの帝国が、いずれのタイプかを問わ
利として受け取られた。それゆえ、この事件を境として、非ロシア諸民族の間で、ポルシエヴ イキの中央集権的支配を逃れて独立しようとする遠心的な動きがいっきょに高まり、ツアー帝 国以来の多民族国家としてのロシアが解体をとげることになるのである。一九一八年一二月まで の時期に、フィンランド、エストニア、リトアニア、ウクライナ、べッサラビア、白ロシア、 カフカス連邦が、相次いで独立を宣一一一一口し、また、トルキスタンやカザフスタンなどの中央アジ アの諸地域でも、地方自治の宣言がなされた。 もちろん、一九一八年春・夏におけるロシア帝国の解体には、ドイツのロシア進攻と過酷な 講和条約 C フレスト・リトフスク条約 ) の強制が深く絡んでいた。そのために、せつかく口シ ア帝国から独立をとげたばかりのポーランド、ウクライナ、バルト三国などは、今度はドイツ の支配下に組み入れられてしまう。 しかし、右に簡単に紹介した第一次ロシア革命以来の経過に照らしても明らかなように、た んにドイツをはじめとする外部からの圧力だけが、多民族帝国としてのロシアの解体を招いた わけでは、よい。 一九一八年の事態は、間違いなく、ツアー帝国の末期以来くすぶりつづけ、第 一次および第一一次のロシア革命で噴出した民族主義的な独立運動がもたらした帰結でもあった のである。 以上のように見てくれば、今世紀初めのロシア革命と今世紀末のソ連邦崩壊という二つの事 リ 6
/ シュペングラーとハンティントン / 中核国家の行動 / 皇帝なき帝国 第五章帝国への志向ーーーロシアの場合 あっけない幕切れ / ゴルバチョフの失敗 / ニつの民族主義運動 / 回収さ れたツアーの領土 / エリツインの新ロシア帝国 / くり返される歴史 第六章「中欧帝国」の浮上 「ミッテル・オイロー ー /r-@> の階層秩序 / ドイツ国外のドイツ人 / 不完全な民族国家 / ビスマルクの本心 / ナチスの「ゲルマン帝国」 / 追 放された千四百万人 / 遠大な戦略目標 / 鍵を握るアメリカ 第七章中華帝国と日本 「周辺」に置かれる日本 / 「中国は国家なのか」 / 日本人の優越意識 / 挫折した歴代の指導者 / 鄧小平独特の帝国支配 / ユダヤ人よりユダヤ的 / ニつの未来像 / 華夷秩序ふたたび / 浮き草のように / 東洋文化の中心 終わりに 参考文献 217 127 147 179 221
また、ツアー帝国とソ連帝国の後継者であるロシアは、みずからを中核とした東方正教 ートランドをもち、その周囲にカザフスタンその他のイスラム諸国家が緩衝地帯として広 かる文明プロックを形成しようとしている。 このようにして、ハンティントンは、これからの世界政治を文明を単位として捉えることを 主張しながら、実は、各文明を「帝国」のようなものとして思い描いているように見える。少 なくとも、彼は、それぞれの文明の中核を形成する「コアⅡステイト」の役割を決定的なもの とみなし、各文明内部の秩序も文明相互の関係も、この中核国家によって決まってくると考え る。少し誇張していえば、ハンティントンの世界政冶観は、文明を単位としたものというより も、各文明を基盤として形成される「帝国」を単位としたものと見なすことができる。そして、 その上で、西欧文明という帝国的秩序の頂点に立つアメリカが、これも帝国的秩序を背後にも つ中国と対峙し、場合によっては戦争に突入するというシナリオを描いて見せている。このよ 、ハンティントンの姿勢は、西欧文明にかんする危機意識と戦闘的な帝国思 うな点を考えると 想が不可分に結びついているという意味でも、シュペングラーのそれとひどく似通っているこ とが分かるのである。 もちろん、ハンティントンの見方が、そのまま二十世紀末のアメリカ政府の政策を規定して しるわけではよい。 クリントン大統領の時代に入ってからも、アメリカ政府は折にふれて中国 12 0
そのことをもっとも端的にしめしたのが、一九九八年七月にサンクトペテルプルクでおこな われたロシア帝国の「最後の皇帝」ニコライ二世一家の葬儀であった。この葬儀は、ロシア政 府によって国家式典とされ、エリツイン大統領もそれに参列した。いったんは葬儀への参列を ためらったエリツイン大統領であったが、「 ( 欠席は ) 自分と同じ元の国家一兀首にたいする裏切 りである」という批判が出るにおよんで、結局は参列に踏み切った。こういう事実に照らして も、ロシアの現大統領がロシア帝国のツアーの後継者をもって任じていることがよく分かるだ ろ , つ。 それにしても、一一十世紀の大半を通じてソ連邦が存在した時代、誰が、ロシアの国家元首が こういう仕方でツアー一家の葬儀に参列する光景を想像できただろうか。この光景ほど、私が 本書のなかでくり返し触れてきた「歴史の慣性ーを如実に物語る例も少ないだろう。 「歴史の慣性」といえば、最後の章で述べたように、それは東アジアでも間違いなく作用し、 中華帝国の復活を促している。私は、中華帝国の復活に関連して、これから一一十一世紀へかけ ての日本人の将来をいささか悲観的に描きすぎたかもしれない。 しかし、それも、日本人が自 分たちのおかれた状況のきびしさをじゅうぶん自覚した上で、なおかっ広域的な発想をもっ必 要があると考えたからである。 一一十一世紀の日本人が華夷秩序の周辺であてどのない漂流を続けないためにも、東アジアに 218
ニつの民族主義運動 一一十世紀初頭のロシア革命にかんしては、われわれは、長らくその階級的性格を教えられる ばかりで、そこで民族問題がはたした役割をあまり知らされてこなかった。だが、ロシア革命 によるツアー帝国の崩壊もまた、少なからず民族問題に起因していたのである。 一九一七年革命の先駆とされる一九〇五年の第一次ロシア革命は、知識人、労働者、農民、 兵士の革命であると同時に、すでに「民族の革命」でもあった。第一次ロシア革命に先立っ十 年ほどの間に、ポーラント 、、、バルト地方、ウクライナ等、主として帝国周辺部の非ロシア人地 域では、民族的不満を背景とした一連の街頭デモが発生していた。そして、一九〇五年の革命 そのものは首都ベテルプルクを舞台とする諸事件 ( 大衆ストライキや労働者デモの武力鎮圧等 ) からはじまったが、この首都の「血の日曜日」に他よりも早く、かっ、はげしく反応をしめし たのは、やはり、ポーランド、バルト地方、ウクライナ、カフカスなどの非ロシア人地域だっ こうして一九〇五年の革命は、「民族の牢獄」といわれたツアー帝国で民族主義運動が蘇り はじめたという意味で、「民族の春ーとも形容できる事件だった。同時に、それは、一九一七 年革命における民族主義運動の先駆をなす事件でもあった。注目にあたいするのは、この一九 〇五年の「民族の春」において指導権をとった民族が、一九八〇年代のゴルバチョフのもとで 」 0 132