ま一国の経済成長を促進する土壌となることができた。そして、各国の主だった企業も、明確 ( しオ , 刀オ「フォード な国籍をもち、まだナショナルな性格を失ってま、よゝっこ。 のために良いことは、 アメリカのために良いことだ」「ホンダのために良いことは、日本のために良いことだ」と、 多くの人びとが素朴に信ずることができたのである。 だが、一一十世紀末の今日、こうしたことのすべてが崩壊し、われわれはまったく新しい時代 に連れてゆかれようとしている。新しい時代を「情報社会」「ポスト工業社会」「ボーダレス化 時代」のいずれをもって呼ぶかは、さして重要ではない。 重要なのは、コンピューター化か進 み、情報技術が発達したために、生産活動にとって言語と文化が同質であることの意義が急速 に減じたことである。 オートメ化が進んだ今日、現場の労働者同士の人間関係は、生産の能率を上げるために以前 一昔前のように職工長が部下にこまごまとした指示をあた 危ほど大きな意味をもたなくなった。 家える必要もなく、したがって、一一 = ロ語や文化の違いもさして生産活動の妨げとならなくなった。 民ということは、企業が、自国の内であろうが外であろうが、一 = ロ語や文化の違いをあまり意に 国 介することなく、労働者を雇うことができるようになったことを意味する。この結果、政府が 章 一一少し警戒を怠れば、大量の外国人労働者が流入する恐れが、いずれの先進諸国でも生じている。 他方、企業は、安価な労働力や有望な市場が見つかれば、簡単に自国を離れて国外に移動して
イタリアにおけるミラノ人やドイツにおけるバイエルン人などの場合と違って、日本人の多 くは、日本人という大ネイションよりも下位のレベルに、自分の帰属意識の対象となる集団あ このことは、グロ るいは地域を容易に見出すことができない。 ーヾル化によって国民国家の役 割が問いなおされるなかで、さまざまな重要な意味をもっている。 ことは、 国民国家よりも下位のレベルのエスニーや地域にたいする人びとの帰属意識が弱い 一面では大きな利点である。なぜなら、それは、旧ユーゴスラヴィアに見られたような、エス ニー間あるいは地域間の激突の心配がないことを意味するからである。だが、他面では、それ いったん人びとの国民国家にたいする帰属意識が衰えた場合には、それにとって代わるべ き別の帰属集団が見つかりにくいことを意味する。つまりは、国民国家への帰属意識を失った 日本人は、自分たちを迎え入れてくれる別の受け皿を見出しえないために、アイデンティティ の危機におちいる恐れがある。 イギリスやフランスや日本といった従来の国民国家は、グロ ーヾル化時代の単位としては、 ある意味では小さすぎ、ある意味では大きすぎる。 そこで、近代の数世紀間を支配してきた国民国家という支配の形態は、なんらかの仕方で変 容を迫られている。しかし、国民国家は長らく人びとの永遠性 ( 不死 ) への願望を満たすほど の存在だっただけに、それをグロー ヾル化の奔流のなかで衰退にまかせることは、たいへん危
た稀有な時代も終わったのであるから、この事件はやはり世界史のターニング・ポイントであ ったことに間いは、よい。 ところで、一一十世紀の初めと終わりに起こったこれら一一つの事件は、一方がソ連邦の誕生を 導き、他方がソ連邦を消滅させたという意味では、まったく正反対の対照的な事件であった。 けれども、一見するとまったく対極的な両事件も、その背景に横たわる要因を少し注意深く観 察すれば、相互に似通ったバターンにしたがって起こっていることが分かる。表面的には意義 を異にするかにみえる二つの世界史的事件が、実は、その基底に共通する。ハターンを秘めてい 合 のた。このことを認識することは、ユーラシア大陸北辺の広大な地域にどんな歴史の慣性が働い シているかを知る上でたいへん重要である。結論を少し先取りしていえば、一一十世紀におけるこ ロ れら一一つの世界史的事件の共通性から、われわれは、この地域の歴史に繰り返し現れる「多民 向族帝国」への志向がいかに強烈で執拗なものかを知ることができるのである。 志 の 国ゴルバチョフの失敗 帝 では、具体的には、どんな点でロシア革命とソ連邦の崩壊とは共通する性格をもっていたの 章 五か。それを説明するために、とりあえず、一九九一年のソ連邦の崩壊がどのようにして起こっ 9 たかをあらためて想起してみよう。
険である。少なくとも、人びとが国民国家という繋留点を失「て、アイデンティティの危機に 陥らないための配慮がもとめられる。 イギリスなどは、連ムロ王国をイングランド、スコットランド、ウェーレ。 ノスというエスニーの 穏やかな連合体に再編成することで、この問題を解決しようとしている。プレア労働党政権が スコットランドとウェールズの自冶を拡大しようとしているのも、そうしたこころみの表れで ある。これからは、たとえばエディンバラに住む人は、自分を連合王国という意味でのイギリ スに属する一人であると同時に、スコットランド人に属する一人であるというふうに思うだろ う。そういう一一重の帰属意識をもっことで、人びとは、プリティッシ = という大ネイションが 弛緩しつつある時代のアイデンティティの危機を比較的うまく乗り切ることができるのではな 、ゝ 0 台そして、そのことは、かえってイギリスという近代国民国家の延命にも役立つものと思われ 一る。グロ ーノル化のなかで国民国家の枠組みが弛緩してゆくことは避けられないが、複数のエ ススニーの穏やかな連合体への再編成をはかることで、国民国家は生き延びることができる。人 びともまた、そうした大ネイションとエスニーという一一重の帰属意識の対象をもっことで、ア 章 三イデンティティの危機を免れることができるだろう。それは、ひょっとすると北アイルランド の問題にたいしても、意外な解決のいとぐちを提供することになるかもしれない。
件が、民族主義的な遠心連動による多民族帝国の解体という意味で、相互にいちじるしい共通 性をもっていることが分かるだろう。しかし、両者の共通性は、はたして、この点にとどまる のだろうか。実は、、 しったん解体をとげた多民族帝国としてのロシアが、分散した領土をかき 集めてふたたび多民族帝国として復活をはたすという点でも、一一十世紀の初めと終わりにユー ラシア大陸の北辺で起こった二つの出来事は、どうやら、互いに似通ってきているように見え るのである。 合 場 回収されたツアーの領土 の シ歴史地図を開けてみれば一目瞭然なのだが、十一月革命が起こった翌年の一九一八年の時点 ロ では、ソヴェトの支配地域はモスクワをとりまく口シア中央部にかぎられ、多民族帝国として 向のロシアは地上からほぼ完全に姿を消していた。ポーランドやバルト地方はもちろん、ウクラ 志 éイナ、カフカス、カザフなどの中央アジア、さらにシベリアの広大な地域などが、すべてボル 国シエヴィキの完全掌握の外にあった。カフカス、中央アジア、シベリアでは、民族主義的自治 運動とボルシエヴィキとロシア反革命勢力という三つの勢力が鼎立し、その帰趨はなお明らか 章 五ではなかったのである。 ところが、ポルシエヴィキによる「ツアー帝国の領土の回収」は、意外に速いテンボですす
される「中欧帝国」の構造は、中国がめざしている家産制的な「中華帝国」とはおのずから性 格を異にするだろう。だが、日本にとっての最大の問題は、アジア的規模でボーダレス化の流 れに棹さした家産制的な「中華帝国」の建設が進んでゆく事態に、いかに対応するかである。 それは、これまでドイツをふくむ西欧諸国をモデルとし、社会と緊密に一体化した近代国家を 作り上げ、その基盤の上に繁栄と安定を享受してきた日本人にとって、いかに難しい課題であ ることか。われわれは、いたずらにアジア回帰の心情におぼれることなく、なによりも日本の 命運がかかっているこの課題の困難さを自覚すべきであろう。 華夷秩序ふたたび ここで見逃してならないのは、こうして中国が多少とも伝統的な帝国のタイプの支配に戻る 日とともに、かって矢野が指摘した中国の「無国境」的な性格も、ふたたび頭をもたげているこ 国とである。周辺諸国との境界を一種の「邊疆」に見立て、あわよくばフロンティアの前進をは 華かろうとする中国の伝統的な傾向が、一一十世紀の末にきて意外に現実性をおびはじめているの 中 である。 章 七といって、通常の意味での国境にたいして、中国政府が無関心になったわけではない。尖閣 諸島やスプラトリー諸島の例をもち出すまでもなく、現在の中国は、国境線そのものの前進に 203
マニフェスト・デスティニー では、ウイルソンにこのような国際政冶への画期的な姿勢をとらせたものは、何だったのか。 第一には、彼がヴァージニアの長老派教会の牧師の子として生まれ、熱烈なキリスト教徒と して地上に神の国を実現するというつよい使命感に駆られていたことをあげねばならない。 彼 の観念では、アメリカこそはキリスト教国家として誕生し、聖書に由来する正義を世界に向か って拡げる任務を負わされているとみなされた。そこから、国際政治を善と悪との対立とみな し、アメリカの対外政策を地上における神の意志と一体化させるという、きわめて道徳臭の濃 い姿勢が導き出されることにもなった。 第一一に、十九世紀末から第一次世界大戦にかけての時期のアメリカを支配したプログレシヴ イズム ( 革新主義 ) と呼ばれる政治文化も、ウイルソンの自由主義インターナショナリズムの 背景として重視されねばならない。プリンストン大学教授のころから一九一二年の大統領当選 後の時期にわたって、ウイルソンは、広い意味でのプログレシヴィズムの担い手とみなされる 歴史学者、社会学者、経済学者、ジャーナリストたちと接触をもち、彼らの影響をつよく受け ながら、みずからの進歩の哲学とそれにもとづく政治姿勢を作り上げていった。 そのいちじるしい特徴は、たんに歴史を進歩の過程と見るだけでなく、その先頭に立ってい るのかアメリカだと自負するところにあった。この点では、アメリカの歴史の本質を西部フロ
われた。ところか、この傾向もまた、世紀末のグロー ヾル化の奔流のなかで、あえなく姿を消 そうとしている。 こうなってくると、一一十世紀の歴史をふり返って大きなトレンドを確認した上で、その延長 線上に二十一世紀の未来への展望を描くことは難しい。むしろ、次のように考えるべきだろう。 今世紀最後の十年と来世紀最初の十年ぐらいを境として、歴史は大きな方向転換をとげつつあ る。したがって、新しい世紀の方向を探るためには、今世紀の主要な流れと思われたものをす べて根本から疑ってかかるところから出発しなければならない、と。 しかし、そのことは、一一十一世紀の未来を展望するために、過去の歴史をふり返ることがま ったく無駄であることを意味しない。、 しや、それどころか、こういう歴史の大転換期であるか らこそ、いっそう本当の意味での歴史的思考がもとめられるのである。この歴史的思考は、十 九世紀や一一十世紀といった近代史だけに視野を限ってはならない。 歴史をもっと遠くまで遡り、 中世以来の数世紀あるいは千年紀の歴史を視野におさめ、そこから現在の大転換の意味を考え ることか、今日の歴史的思考にはもとめられている。 私たちの目前で起こっている大変動の直接のきっかけは、コンピューターに象徴される科学 技術の恐るべき発達であり、それにともなう経済のグロ ! ヾル化である。注意を要するのは、 こうした人類が初めて経験する先端的な事象が、かえって、何世紀にもわたって眠り込んでい
ってふり返ってみると、あの時代の日本は、ヨーロツ。ハから吹いてきた近代国民国家の風に乗 るためには、この上なく好都合な条件に恵まれていた。なぜなら、諸藩に分かれていたとはい え、日本は、全体として幕藩体制という共通の政治システムに統合され、言語や文化の上でも 強い一体性をすでにもっていたからである。そのお蔭で、同時代のドイツやイタリアにくらべ てさえ、日本は、驚くべき短期間のうちに比較的容易に、近代の国民国家に転換をとげること かできたのである。 一九四五年の日本は、アメリカの占領下に人ったとはいえ、本質的には明治以来の国民国家 としての枠組みを維持したまま、戦後の復興に乗り出すことができた。国民国家の枠組みがそ のまま保持されたという意味では、一九四五年はさして大きな歴史の切れ目ではなかった。官 僚制をはじめとして戦前の多くのものが戦後に生き延びることができたのも、そのためである。 むしろ、戦前に養成された優秀な官僚たちの才能が、軍部などに妨げられることなく開花した のが、戦後の高度成長期だったということができる。 これにたいして、現在のわれわれが直面しているのは、日本という近代国民国家の枠組みそ のものが脅かされるような事態である。それは、明治維新以来百三十年間の日本の歴史全体を 覆すほどの大きな変化を意味するだろう。もしもこの見方があたっているとすれば、日本人に とってこの変化がもっ深刻さの度合いは、国民国家の枠組みがそのまま保持された一九四五年
冷戦終結の当初、米大統領ブッシュが「新世界秩序」を高らかに謳いあげ、また、米国務省 のスタッフであったフランシス・フクヤマが、「自由民主主義の勝利のうちにヘーゲル的な意 味で歴史は終わった」という趣旨のことを説いたのは、とりもなおさず、第一次世界大戦以来 のアメリカ的な自由主義インターナショナリズムの勝利宣言にほかならなかった。少なくとも、 一九八九年ないし九〇年ごろの時点では、こうした意味で一一十世紀が「アメリカの世紀」とし て終わることは疑いないようにみえたのである。 世紀末の逆流 たが、すでに多くの人びとが気づいているように、まだ冷戦の終結から十年にもならない今 日、一一十世紀が右のような意味で「アメリカの世紀」であることは、とみに疑わしくなってい 騰る。たしかに、一九九八年半ばの時点では、アメリカ経済は長期にわたる好景気を謳歌してい の カる。 いうまでもなく、アメリカは軍事面にかんしても世界のなかで依然として群を抜いている ハワーであること メから、この国が、経済、軍事のいずれの面から見ても世界で唯一のスー ア は間亠起いよ、。 しかし、だからといって、ウイルソン以来の歴代米大統領が追求してきた民主 章 一的な国民国家を単位とする世界秩序が完成に近づきつつあるかといえば、現実はそれから程遠 、 0