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検索対象: 二十世紀をどう見るか
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1. 二十世紀をどう見るか

おける「歴史の慣性ーを冷徹に認識してかかる必要がある。そして、その上で、他の地域にお ける帝国的存在であるアメリカ、ロシア、中欧などの影響力も引き入れながら、東アジアを舞 台に、そのなかで日本人も確たる位置を占めうるような広域秩序の樹立を目指す必要があろう。 そのためには、経済や安全保障にかんして広域的な発想がもとめられるのは、当然のことであ る。だが同時に、日本人の文化のなかに広域的に通用する普遍的な要素を発見してゆく努力も、 欠かせないであろう。それというのも、現在進行している世界秩序の帝国的な再編成は、その 基底に文明的な対立を秘めているからである。 しかし、帝国や文明といった広域的な発想をもちうるためには、日本人は、国民国家よりも この点でも、日 下のレベルでも、自分たちの拠るべき帰属集団を見出してゆかねばならない。 本人のおかれた条件がけっして恵まれたものではないことは、第三章や第七章で明らかにした つもりである。だが、いかに条件がきびしかろうとも、国民国家の枠組みの弛緩をエスニー 地域、宗教などの凝集力によって補ってゆくという課題は、日本人も避けて通ることはできな 、 0 このように見てくると、世紀の変わり目の日本人をとりまく状况は、さまざまの逆説に富ん わでいることが分かる。科学技術や経済の領域におけるもっとも先端的な事象が、世界的規模で 中世的な「帝国」や文明の復活を促している。また、国民国家の枠を超えた広域的な発想がも こ

2. 二十世紀をどう見るか

ンティアの前進のなかに見ようとする歴史学者フレデリック・ジャクソン・ターナーの理論が、 ウイルソンの田 5 想に濃い影を落としていた。ターナーに拠りながら、このアメリカ大統領は、 「フロンティアの存在が、旧世界 ( ヨーロノ 。ハ ) の生活要素を新世界 ( アメリカ ) の新しい生活 要素に転換させ、個人のための機会とモビリティに富んだ社会を生み出し、自由で民主的な制 度を促進してきた」と考えた。その上で、「十九世紀末をもって西部フロンティアが消滅した 以上、一一十世紀のアメリカは国際政治に積極的にかかわり、みずからの過去の歴史に根ざした 生活様式のモデルを世界に提供すべきだ」と説いたのである。 十九世紀末までのアメリカ人は、西部フロンティアを前進させることによって、アメリカ的 生活様式を米大陸に拡大することを「マニフェスト・デスティニー」 ( 神からあたえられた連 命 ) とみなしてきた。ウイルソンは、それをそのまま世界的規模へとおしひろげ、アメリカ的 騰生活様式を全世界に普及させることが二十世紀のアメリカ人の「マニフェスト・デスティニ の カ ー」であるとみなした。彼が一九一七年の対独宣戦にあたって「世界を民主主義のために安全 メにする」という戦争目標を掲げたときにも、その念頭にあったのは、このような意味でのアメ ア リカ的な歴史的使命感にほかならなかった。 章 たが、このようなアメリカ的な歴史的使命感は、その背後にいかに善意と篤いキリスト教的 第 な信仰心が秘められていようとも、端的にいってアメリカ的な帝国主義に転化せざるをえない。

3. 二十世紀をどう見るか

もちろん、ロべラ自身も断っているように、 こういう言い方は、歴史的事実に照らして必ず しも正確なものではなく、多分に比喩的なものと受け取るべきだろう。しかし、かってローマ 帝国の地域概念であったものが、千年ほどの間隔をおいて、多少なりとも近代の大ネイション の形成に役立っていることは、大いに注意しておいてよい。このように、歴史にいったん登場 した事柄は、千年あるいはそれ以上の時間をへだてて、ふたたび別の脈絡のなかで意味をもち 出すことがあるのである。 ともあれ、近代の国民国家は、プリタニアやガリアといったローマ時代の地域概念を前提と しながら、一つの優越した有力なエスニーが他の複数のエスニーを抑え込む形で誕生した。し かし、そのために、近代のネイションⅡステイトは、あたかも時限爆弾のような危険な要因を 内部に抱え込むことになったのである。 台というのも、国家を牛耳るようになった支配的なエスニーは、とりわけ官僚制を通じて、他 一の周辺的なエスニーをみずからの言語・文化に同化させようと懸命になる。けれども、すでに ス英仏にかんして見たように、民族的少数派を言語的・文化的に完全に同化して、その存在その 工 ものを消滅させることは難しい。むしろ、国民国家の枠内で支配的なエスニーによる同化政策 章 三がすすめば、抑圧された周辺的なエスニーは、自治や独立への要求を高め、そのために、国民 国家そのものの求心力が脅かされることになるのである。

4. 二十世紀をどう見るか

一九一八年初頭に「十四ケ条」を発表し、民族自決の原則や国際連盟の樹立をふくむ新たな世 界秩序の構想を高らかに謳い上げていた。こうして、一九一八年は、シュペングラーの悲観主 義的な文明論が現れた年であると同時に、アメリカの楽観主義的な世界秩序の構想が登場した 年でもあったのである。 すでに第一章で見たとおり、このウイルソンの楽観主義的な世界秩序構想は、一一十世紀の大 半を通じて歴代の米大統領の多くによって引き継がれ、その実現が目指された。そして、冷戦 が終わったときには、ついにウイルソン以来のアメリカ的な理念が世界的規模で実現する機会 が到来したという、一種のユーフォーリア状態がアメリカを覆ったのである。こうして見ると、 第一次世界大戦から冷戦の終結にいたる一一十世紀の大半を通じて、アメリカはみずからの世界 活史的使命の実現に向けて、全体として楽観的な気分に支配されてきたといえよう。 がその間、シ = ペングラーによって著された西欧文明にかんする悲観的な書物が、アメリカの しかし、たとえば人類学者の・・クロー 帝人びとの関心を惹かなかったわけではない。 明が一九六〇年代初めに公にした『文明の歴史像』 ( 松園万亀雄訳、社会思想社 ) を読めば、シ = 文 ペングラーの悲観的な文明論がアメリカに輸入されると、見事に楽観論に生まれ変わっていた 四ことがよく一分かる。 クロ があると考えるが、これなどは、個々 ーバーはそれぞれの文明にはライフ・ヒストリー

5. 二十世紀をどう見るか

な統合を急ぐあまり強硬な姿勢をとって、その大陸への政治的経済的接近を妨げることがあっ ュよ、よ , ら、よ、 0 総じて、制度と経済水準を異にする地域を抱えながら、全体として経済成長を持続させるた めには、北京政府は、今後ますます政治的な統制を弱め、社会的な自由を拡大させることを余 儀なくされるだろう。北京政府がその不安に耐えかねて、香港の自由を過度に抑圧したり、台 湾への武力行使に訴えたりすれば、それはレジームそのものの自殺行為に等しいだろう。しか し、長期的に見れば、その間における共産党レジームの断絶の有無にかかわりなく、中国の政 治支配は、大まかな帝国的な広域支配という性格をますます強めてゆくに違いない。そして、 国家と社会が相互にますます没交渉になってゆく点では、中国は、矢野の前掲の書物が扱った 第一次世界大戦直後の状態に戻ってゆくだろう。 日日本人が忘れてならないのは、中国がこうした方向に進むのと並行して、日本自身の主権国 国家としての凝集力もますます低下してゆくことである。目下その緊急性がしきりに叫ばれてい ヾル化のもとで日本 バン」にしても、グロー 華る「規制緩和」や「行政改革」や「金融ビッグ・ 中 がアジアの経済成長に積極的に関与してゆくためには、たしかに避けて通れない。けれども、 章 七それらが実質的に意味していることは、要するに国家の役割の縮小であり、広義の主権の削減 である。 20 ア

6. 二十世紀をどう見るか

一一十世紀末のこうした現実を前にして、アメリカ的な理念の世界全体への普及を阻む文化、 文明、宗教の相違があるという認識が、アメリカ人の間でもようやく芽生えてきたとしても、 不思議ではない。その代表的な例が、あらためて第四章で紹介するハンティントンの「文明の 衝突」論である。そして、少なくとも一九九三年にクリントンが大統領に就任して以後は、ウ イルソンからブッシュにいたるまでの歴代米大統領の多くを捉えてきた楽観主義 ( つまり、ア メリカ的な自由主義インターナショナリズムを世界に普及させうるという楽天的な信仰 ) は、 明らかに後退を余儀なくされている。 一九九八年に中国を訪問したクリントン大統領は、人権問題やチベット問題で手を汚してい ートナーシップ」を謳いあげた。この関 る現中国政権との間で、米中間の「建設的・戦略的。ハ 連で想起されるのは、九四年にドイツを訪問した同大統領が「ドイツにたいしてヨーロノ 世おけるアメリカの指導的。ハートナーとして特権的な地位を与えようとしているように見えた」 カ ( 『ワシントン・ポスト』 ) ことである。さらに、アメリカかロシア政府によるチェチェンの独立 連動の弾圧を黙過し、その後もエリツイン政権を支持しつづけたことも、忘れてならないだろ ア 章 これら一連の最近におけるアメリカの姿勢をつなげてみれば、この超大国は、いまやヨーロ 第 、東アジア、ユーラシア大陸北部などの各地域に、その地域の秩序の核となりうるような

7. 二十世紀をどう見るか

できない。とりわけ、第一一次世界大戦後に敗戦国のドイツ ( 西ドイツ ) と日本をそれまでの全 体主義国家 ( あるいは権威主義的国家 ) から西欧流の民主主義国家に転換させたことは、今世 紀におけるアメリカ的な自由主義インターナショナリズムの大きな成果と見なせるだろう。こ の関連では、あるアメリカの研究者が日本の占領統治を指揮したマッカーサー元帥を「現実主 義的ウイルソン主義者」と呼んでいるのは、興味深いことである。たしかに、民族国家として の枠組みを認めながら、新憲法の導人をはじめとして日本の西欧型民主主義への転換をおしす すめたマッカーサーの占領政策は、第一次世界大戦中にウイルソン大統領によって提示された 自由主義インターナショナリズムの理念の実現をめざしたものだったと見ることができる。 しかし、ウイルソン的な理念がもっとも成功を収めた第一一次世界大戦後の日本でさえ、その 後の経済成長によって経済的大国に成長をとげると、アメリカ国内でいわゆる「日本異質論」 の台頭を招き、はげしい非難を浴びるようになった。いいかえれば、自由主義の名のもとにア メリカ的な生活様式の普及をめざしてきたウイルソン以来のアメリカ人の努力は、日本の場合 にも一つの大きな壁に突き当たり、挫折感を味わざるをえなかったのである。こうした日本の 場合に加えて、最近は東アジアにおける中国の軍事的・経済的な大国としての興隆が著しい そして、人権問題ひとつをとってみても明らかなように、 この地域でのアメリカ的な理念の貫 徹はますます困難さを増している。

8. 二十世紀をどう見るか

国内の地方分権化が進行して関西や九州などがそれぞれ独自の経済圏を形成し、中国を相手に 直接取り引きをするようになれば、日中間の関係は、ますます近代の独立国家どうしの関係の 常識から遠ざかってゆくことになるであろう。 こうして従来の国境をまたいで形成される広域秩序を取り仕切るのは、地政学的条件や歴史 的経験からい「ても、日本ではなくて中国にならざるをえまい。日本には、確定した領土の上 で官僚制度を通じて緻密な統治をおこなうノウ・ハウはあっても、広漠たる多民族的な領域の 秩序を大まかに取り仕切ってゆくためのノウ・ハウはない。 これにたいして、北京の政府は、 すでに中華帝国の歴史的な経験を活かして、さまざまの異なる生活水準や文化をもっ諸地域を 大まかに統合する方向へ進んでいる。こうして、グロー 、レ化時代の東アジアでこれから浮か び上がってくるのは、日本を盟主とする大東亜共栄圏の改訂版ではなくて、北京を中心に広が る華夷秩序となる公算が高いのである。 浮き草のように もちろん、右のようなシナリオ通りに歴史が展開するためには、、 しくつかの条件が必要であ る。なによりも香港にかんしては、中国政府自身が、今後も、過度の強圧的な政策に訴えるこ となく、経済的活力を維持させるようにしなければならない。また台湾にかんしても、政治的 206

9. 二十世紀をどう見るか

一九九〇年代に っているといえば、その経済的あるいは軍事的な側面も見逃してはならない。 、ハンガリーなどの東欧諸国へ 入って、貿易や投資などの経済的分野で、ポーランド、チェコ のドイツの影響力が急速に増大し、これら諸国の経済の「ゲルマン化あるいは「ドイツの裏 庭化」などと呼ばれる現象が生じている。ドイツが東欧に著しい経済的浸透を見せた例は、一 一九九〇年代に 九三〇年代のナチス時代などのように、過去の歴史に欠けてはいよい。ご。ゝ、 おけるその特徴は、フォルクスワーゲンやマンネスマンなどのドイツの代表的企業が、ドイツ 国内の労働コストの高さを嫌って、安い労働力が豊富に存在する東の隣接諸国に工場やプラン トを移していることであろう。 そのことは、一方でドイツ国内の失業者を増大させるという効果も生んでいるが、他方では、 上東欧諸国のドイツへの経済的依存をますます決定的なものにしている。ドイツ資本が東欧で雇 浮 のっている労働力は、一九九七年の時点で、すでに数百万規模にたっし、ますます増加する傾向 国にあるといわれる。このような現実にかんして、東欧諸国の指導者のなかには、「ドイツ企業 欧が自国民に仕事と良き収入をもたらしてくれている」と歓迎する声が聞かれる。しかし、その 一方で、チェコ首相のクラウスのように、「かって武力によって自国を占領した隣の大国が、 章 六今度は経済力による優しい抱擁で自分たちの首をしめようとしているーと不安をしめす者もい るのである。

10. 二十世紀をどう見るか

たからである。 ーバル化という世界経済のまったく新たな潮流と、帝国という中国 鄧小平の非凡さは、グロ の伝統的な統治方法との親縁性を見逃さなかった点にある。江沢民以下の後継者たちが、現在 しか のレジームのままで鄧小平の路線をどこまで発展させうるかは、予測のかぎりではない。 ヾル化の潮流に棹さした新たな中華帝 し、たとえ現在の共産党政権が断絶しようとも、グロー 国の形成という歴史の趨勢は変わらないだろう。ということは、しかし、これまで近代主権国 家の原理に寄りかかってきた日本にとっては、困難な新しい時代の到来を意味する。 しばしば指摘されるように、中国史における統一帝国の支配は、その中央集権的な官僚体制 にもかかわらず、社会の底辺まで浸透することはなかった。中央から下降する中国官僚制の支 配は、つねに、地縁的あるいは血縁的なさまざまな勢力と妥協する形でしかおこなわれなかっ 日た。そこに中国官僚制の名だたる腐敗が生ずる所以があったし、中央から派遣される官僚が地 国方の勢力と結託するという現象も生じた。要するに、中国史における国家というのは、一定の 華領土内の社会を完全に掌握し尽くすことなく、底辺の社会を、ある程度まで不定形で流動的な 中 状態においたまま、その上に覆いかぶさる形で存在してきたにすぎない。 七このように中央から下降する権力が社会の底辺まで及ばず、さまざまの地縁的、血縁的、あ るいは宗教的な勢力と妥協するという統治の形態は、なにも中華帝国だけに見られたものでは 191