大名が領主として領内の自治権を有していた。自治権のなかでも、とりわけ侵すべ からざるものが租税 ( 年貢 ) 徴収権で、たとえ大名金融を目的としようと、「全国 御用金令」は、諸大名の自治権を根底からくつがえそうとする、うつかりすると封 建制度をひっくりかえしてしまうかもしれない内容のものだった。 しかもーー大名金融にあたっては、米切手と村高証文を担保にとり、返せなけれ ば米切手の場合は米と換えさせる、村高証文の場合は物成をあてるとしていた。 大名の多くは大坂の商人から金を借りていて、返せないことがしばしばあり、焦 げつかせることもあった。しかしそれでも大名と大坂商人の金銭貸借に公儀 ( 幕 府 ) が介入することはなかった。おなじ大坂商人からは一一度と借りられないが、返 圧 抑さないで踏み倒そうと思えは踏み倒せた。 歩 こんどは公儀が間に入り、米切手と村高証文を担保にとるというのである。返せ 進 みなければ、村高証文をとられている分については租税徴収権を失う。領地を召し上 げられるのと実質的にかわりなくなる。米切手の分の米も強制的に徴収される。両 方が継続して増えていくと、大名は大名でなくなってしまう。 田驚天動地の法令である。諸人は震撼した。 しんびよう 元慶応義塾大学志木高校教諭山田忠雄氏は、「相当に信憑性をもちうる」史料
まともに金利を払っていると参勤交代もできない。飲まず食わずですごさなけれ ばならない。そこで過去どうしていたかというと、融資元の大坂の銀主のなさけに すがった。そのつど金利を負けてもらったり、元利の支払いを後回しにしてもらっ たり、それやこれやと彼ら、銀主のなさけにすがって生き延びていた。 このことはなにも薩摩にかぎらない。長州もそうだ。土佐もそうだ。天明八年 ( 一七八八 ) に土佐が予算を半分にするという思い切った緊縮財政を行ったのは、 それはど始末しておりますという姿勢を大坂の銀主に見せるためでもあり、それな りに成功していた。 この大坂の銀主のなさけにすがって生き延びているということに、しかし重豪は 革ずっと腹立たしく思っていた。我慢に我慢を重ねていたのだがとうとう我慢できな 済くなり、堪忍袋の緒を切らした。 の 銀主に金利を払わなければ遣り繰りできる。いや遣り繰りしてみせると、重豪は 末一方的な金利の低減宣一巨肥後の細川藩などがかってそうしていたような、「ない ものは払えぬ」という借金不払い宣一一一一口、「御断り」にちかい宣一言をした。 「ないものは払えぬ」とひらきなおるのはい : あとあと借りないで遣り繰りがっ
168 十二日と発表された。ところがその前日、小笠原の脱走と小倉城陥落のニュースが 伝わってくると慶喜の腰はヘなへなと崩れた。慶喜は大討込みをとりやめてしまっ その慶喜の腰をしゃんともとにもどらせたのが、八月一一十日に成立した小栗とク ーレとの間で締結された借款契約だった。 小栗は九月に入ると、借款と「商業・航海大会社」の設立について説明するため クーレをつれて大坂まで出向く。そして慶喜に内容を詳しく説明するとともに、大 坂での「商業・航海大会社」設立のため、大坂のいわゆる豪商に接触する。 慶喜は大討込みを表明してすぐの八月一一日に武器、艦船、軍需品、軍事教官のす みやかな提供を乞う書簡をロッシュにおくった。問題は金である。その金の問題は 小栗が解決していた。勇気づけられて慶喜は、精力的に幕府建て直しのため幕政改 革と軍事改革にのりだしていく。 「最後の幕政改革」に挑む 練達の外交官だったフランスの公使レオン・ロッシュは、幕府寄りの姿勢を鮮明
時代を追っていって、やっと見えてくるのが、十七世紀末、元禄時代の勘定奉行 荻原重秀である。 かたき かいちゅう しかも荻原は貨幣改鋳をやって悪名高く、新井白石に目の敵にされた、いわば 〃敵役みだ。敵役の荻原重秀しか見えてこない。 これはいったいどうしたことだろう。 何事も必要がなけれは生まれない。元禄期の荻原重秀あたりまで、幕府は官僚を 。結論を先にいってしま、つと、こ、つい、つことになる。ではな 必要としなかった ぜその時期まで、慕府は官僚を必要としなかったのだろうか ? 秀忠、家光のころ、徳川家は大金持ちだった。 団 お金の持ち主ということで区別するなら、江戸初期、徳川家と幕府はまだ未分化 官で、金は慕府というより徳川家に帰属した。比較する材料をもちあわせていないが、 やそ ひょっとしたらそのころ徳川家は、世界一の大金持ちだったかもしれない。い 実 のうだったにちがいない 幕徳川家が大金持ちだったのは、蓄財家だった家康が大量に金銀を残したことにも よる。大坂冬の陣、つづく夏の陣で大坂城を落とし、豊臣家の遺産を分捕り、焼け
皿「 ( 薩摩藩大坂蔵屋敷の ) 諸役人、みな小禄下賤よりなりあがる者多く、いすれも 在役中、各自に己が家を富さんことを謀り、重役も下役もみな大坂の町人に合体盤 ぞくげん 結し、町人どもの意にまかせて品物を売りさばかしむるをもって、俗諺にいう、一一 束三文に買い落とされ : : : 」 商品を販売するにあたってはできるだけ高く売る、のが商売の常道である。とこ わいろ ろが商人から賄賂、鼻薬をきかされている薩摩藩の蔵役人は、出入りの商人のため に逆に売値が安くなるよう〃努力工夫みして商品を販売した。藩の儲けなどどうで という小役人の不正腐敗が薩摩の歳入を細らせ、そ もいい、私腹さえ肥ればい ) 、 れでなくとも苦しい財政 ( 台所 ) をいっそう苦しめていた。 末端でこのような腐敗はよくあることである。幕府の末端でもしはしば見られた。 ねんぐ 年貢の徴収などでも手心をくわえてもらうため、賄賂、鼻薬がはばをきかせた。 諸藩ではどうだったろう。人のやることだ、あったろうと思われるが、薩摩藩の ははなはだしく、金の出入に関する部署はことごとくが腐敗していた。それを重豪 は知っていた。知ってはいたが、当人は隠居して江戸に常駐している。手も足もだ せなかった。のちに調所をこき使うようになって、やっとその不正腐敗を駆逐しえ ている。
砂糖が中元や歳暮の目玉商品だった。江戸時代はもちろんもっと重要な商品で、オ 一フンダ船や中国船がバラスト代わりに積んでくる砂糖は人気があり、儲けもとても 大きい輸入品だった。諸藩もこぞって国産化を手掛けるようになり、幕末の頃にな ると砂糖の栽培地は東海地方あたりにまでおよんでいたということである。 地域的にはしかし、薩摩藩が支配している奄美にすぐる場所はない。そこで薩摩 かこく ( 調所 ) は「道之島三島」といった奄美諸島の島民に、植民地的犠牲、苛酷な労働 を強いて栽培を強制し、かっ〃専買品みとし、でたらめだった品質の均質化をはか たる り、等量の樽に詰め、つまり販売しやすくし、問屋が密集している大坂に送って巨 額の利益を上げるようになった。 いまひとつは組織の改革である。 革薩摩藩の国元の徴税システムは腐敗していた。末端だけではない。公金の出入を 済監督する部署までが腐敗しており、役職もこっそり売買されていた。腐敗の度はそ の の極に達していた。 末一方、商品の販売先である大坂も腐敗していた。 のぶひろ 秋田生まれの経済学者佐藤信淵は、薩摩藩の江戸家老の依頼で著した『薩藩経緯 2 一三ロ』てこ、つヒ阜鬧している。
払令を撤回して薪水給与令を発令する。 そしてつづけて思い付いたのが上知令の発令であり、印旙沼開削工事や御料所改 革の着手で、それらはいずれも外交問題と密接にかかわり合っていた。少なくとも 水野にとってはそうだった。 外交問題とのかかわりだが、おおざっぱにいうとこうだ。 上知令による上知は、江戸や大坂周辺の錯綜している土地所有関係を整理するこ とによって、江戸・大坂の防衛力を高めようというもの。 印旙沼開削工事は、イギリス等諸外国に江戸湾が封鎖されたときに備えての、利 根川水系との水利輸送の便のための運河の開削。 御料所改革は、落ち込んでいる年貢を増徴しようというもの。 革で、それらをいっ始めるのがいいのか 水野は考えた。 保天保十四年の四月に、日光社参という一大デモンストレーションを行い、幕府の 威光を見せつけることになっている。そのあと力しし ゞ ) : 水野はそう考えて、日光社 邦 参が終わったあとの、順を追っていうなら、六月一日に上知令を発令し、六月十日 に印旙沼工事 ( 普請 ) を五大名に押し付け、六月一一十六日に御科所改革を発令した。 志というか、狙いというか、目指したところは、宣言して行おうとした、享保・
しんかん 諸人を震撼させた田沼の〃日本惣戸税〃 天明六年 ( 一七八六 ) 六月一一十九日というから、将軍家治が死に、田沼が老中を 辞任するおよそ二カ月前のこと。幕府は「全国御用金令」 ( とかりにしておく ) と いう奇妙な法令を発令した。 もんめ けん 全国の百姓には持高一〇〇石につき銀一一五匁 ( 〇・四二両 ) 、町人には間口一間 につき銀三匁 ( 〇・〇五両 ) 、寺社 ( 宮門跡尼御所を除く ) ・山伏には格式に応じて最 高一五両を毎年、むこう五年間にわたって課す、という法令である。 集まった金は大坂表会所で大名に貸しだす ( 利息は年七分 ) 。担保は大名の米切 むらだか 手、ならびに相応の村高証文で、滞ったら、米切手は米に換えさせ、村高証文のほ ものなり うは物成 ( 産物 ) をもって返済させる。ざっとそんな内容の法令だ。 不思議な法令である。確かにこの法令がだされるまで、大名金融を目的として三 度御用金が課せられた。対象は三度とも大坂商人だった。こんどは全国津々浦々の 百姓町人、神主僧侶 ( 寺社 ) に山伏。日本人全員である。 江戸時代は参勤交代を強制されるなど各種の制限があったとはいえ、原則として そうこぜい
( 一七八四 ) の五月。そのおよそ一一カ月前、田沼は嫡子、若年寄の地位にあった、 おきとも 三十六歳と花も実もある山城守意知をなくしている。意知は殿中で斬りつけられ、 それがもとで死んだ。当時六十六歳の田沼に、この事件はこたえたろう。ショック は尾を引いていたろう。対応など何も考えずに動いたか それとも 「日本惣戸税法案」は六月一一十九日に発令され、江戸では七月五日、大坂では七月 十四日に町触れがだされて一般に公布された。 一一人の町医師をすすめたのがあだとなり、田沼が出仕を遠慮したのが八月一一十一一 日。家治が死に、田沼が老中を辞任したのが八月一一十七日。「日本惣戸税法案」は、 廃案〃とされている。 田沼が出仕を遠慮した一一日後の八月一一十四日に、〃 発令から廃案までわすか一一カ月の期間しかない。田沼には秘策や妙案があったの だが、それらは封じこめられてしまったのか。家治の死というアクシデントがなけ れば、さまざまのリアクションをのりきる対策やスケジュールができあがっていた のか。 松平定信は生涯で一八一一部もの著をものしたといわれている。田沼は皆無といっ ていいはど残さなかった。今となっては、知る手だてがない
の付く男だった。 はるさだ 例えば、家斉の実父一橋治済はかって、松平定信や松平信明の反対で大御所にな りそこねた。家斉はそれが気に掛かっていた。忠成は家斉の意を汲み、治済に准大 臣の位が授けられるようにと京に働きかけ、実現した。家斉自身には、太政大臣の 位が授けられるようにと同しく京に働きかけ、これまた実現させた。忠成は家斉の いっそうの信頼を得て、やがてその地位を不動のものにした。 水野忠邦は、そんな忠成にせっせと賄賂や贈答品を贈り、また忠成を自邸に招待 こび しと、なりふり構わず媚を売って老中を目指した。 文政は十三年 ( 一八三〇 ) の十一一月に、天保と年号が変わり、天保五年 ( 一八三 ちょうしん 四 ) の二月に、家斉の寵臣忠成は死去した。 にしのまる 忠成のひきで大坂城代、京都所司代と累進していた忠邦はその頃、西丸老中に 任ぜられていた。 西丸老中は、老中とは名ばかりの、なんの権限もない老中だった。忠成が死んだ。 権限のある老中、本丸老中に空席ができた。水野は忠成の後任の本丸老中に任ぜら れた。ときに四十一歳。忠邦はようやく念願の老中に就任した。だが、そこはまだ 終着点ではなかった。