安政 - みる会図書館


検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

( 年間 ) が三両から四両の時代だ。いかにも安い。給金からはとても側女とは思え こちょ、つ ないのだが、やはり側女のようである。そのうちの一人は小蝶という艶つばい名の 女で、安政六年の暮れに「金一両小蝶手当金」としてその名が見え、翌年小栗が 渡米した ( 一月 ) あとの三月にも「金一両小蝶給金」と見える。 小栗はその年九月にアメリカから帰ってきた。年をこして文久元年 ( 一八六 四月の記述。 いとま 「金一分小蝶不快と聞き暇遣し候に付遣ス」 小蝶はなにかふてくされるようにやめている。これは安政七年 ( 万延元年 ) 一月、 渡米する寸前に旗本の駒井家から夫婦養子を迎えていることと無関係ではないだろ かいのかみ 小栗とほばおなじコースを四、五年早く歩いていたのに駒井鍗之助 ( 甲斐守 ) と からてんじく いう、小栗とおなしように骨つばい男がいた。唐天竺より遠い国へいくのだ。なに 家 順かおこるか分からない。死ぬかもしれない。それで小栗はまだ三十四歳と若いのに、 まつご 末期養子が認められている時代に、かねて敬愛していた駒井鍗之助の部屋住みの伜 いいなずけ と多分その許嫁 ( お鉞 ) を夫婦養子にした。それなりに覚悟をきめて小栗はアメ にいった。ここらあたりも家計簿から推測される話である。 えっ つや

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

日哥こ 0 安政五年 ( 一八五八 ) に勘定奉行が書き出した記録によると、文政元年から安政 四年までの四〇年の間に、慕府は一七九六万九〇五〇両、平均すると年に四四万九 二二〇両もの、巨額の益金を得ていた。 寛政三年 ( 一七九一 ) から安政三年 ( 一八五六 ) までの幕府の平均歳入額は、米 は別にして一一八万七三六〇両である。益金 ( 出目 ) は米は別にしての歳入の実に 八ハーセントを占めていた。 つまり幕府は貨幣改鋳を行うことにより、とりわけ天保一分銀などの代用貨幣、 わるくいえばまやかし通貨を発行することにより、膨大な財政収入を得ていた。 ただくに 天保十一一年から十四年 ( 一八四一ー四 lll) にかけての、水野忠邦の天保改革は失 敗したといわれている。失敗しようがしまいが、膨大な財政収入を得ている。慕府 つうよう はなんの痛痒も感しすにすんだ。むろん家斉は望み通り贅沢な暮らしができ、世に けんらん 〃大御所時代〃といわれている、絢爛豪華な時代を現出させた。 そんな時代である。この時期にも、知恵を絞る官僚は必要なく、生まれていない。

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

184 もみ すいじんろく 勝海舟の編纂した『吹塵録』によると、村高の高は籾高のことで、脱穀して米に すると半分に減るのだという。さらにそれを五公五民なり四公五民で分けるから、 四公五民として公 ( この場合は旗本 ) のとり分は村高の二割ということになる。 栗の村高一一五〇〇石は、玄米にして五〇〇石ということになる。一〇〇俵は三五石 / 栗の御切米三〇〇俵は平均一三五両だ。そ だから、俵づめにすると一四二八俵。ト れで換算すると六四三両ということになる。 家計簿ではどうなっているかというと、安政五年のは大体そのくらいである。収 入は前年未収の分六〇両もくわえて七〇三両となっている。村によって豊凶の違い もあり、また痩せ地もあり、とばらばらだが、ならすとほほ知行分の収入は得てい る。 しかし凶作不作の年も少なくない。しかも安政 収入がはば一定していればいい。 五年という年の支出は一両余の赤字と、収入にゆとりはなかった。安政六年は当初 からひやひやしながらの船出だったようである。 一月の収入は七一一両、二月の収入は一一〇両、計九一一両。この二カ月の支出は五一 両だ。ここまでは遣り繰りがついた。しかし三月はもうお手上げだった。 でがわ 三月はいわゆる〃出代り〃の月で、一季半季の奉公人はもとより奧表につとめる へんさん

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

182 ここ、つしるしている。 小栗は家計簿。 のぞけおき 「十月より御留守中表に而相賄候ニ付自分御切米の方ハ除置候積リ、尤武具或 臨時物入等ハ差出候積リニ候」 したがって以降は、「武具或臨時物入等」の支出のみがごく簡単に記入されてい るにすぎす、それも安政一一年 ( 一八五五 ) の五月で終わっている。 安政一一年の七月十八日、父忠高は赴任先の新潟で客死した。小栗は跡目を相続し、 一一五〇〇石取りの知行取りとなった。当時小栗は進物番にすすんでいた。軽い役だ。 たしだか 足高も役金もっかない。用人腰元から下男下女までいれると使用人が十数人もいる 小栗家の家計は、すべて高一一五〇〇石の知行地からあがる収入でまかなわなければ ならない 小栗のことだ。当主になるとすぐまた家計簿をつけはしめたことだろう。しかし 当主になってからの一一年半の家計簿は紛失してしまったようで、次の「勝手方勘定 ま安政五年の一月から始まっており、以後二年ごとに「勘定 帳」と題する家計簿 ( 帳」「納」と改題してつけた家計簿は文久三年 ( 一八六一一 l) 末で終わっている。そ の後の慶応三年 ( 一八六七 ) までの四年分と慶応四年の数カ月分も紛失してしまっ たようだ。 てまかない もっとも

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

150 実力未知数の勘定奉行 ただまさ 小栗忠順が幕府の政務に携わることのできる役職、目付になったのは安政六年 ( 一八五九 ) の九月、三十三歳のことだった。 翌安政七年 ( 万延元年、一八六〇 ) の一月、小栗は使節団の一人として通商条約 の批准書の交換にアメリカにでかける。約八カ月の旅を終えて帰ってくると十一月 に外国奉行への転出を命ぜられ、その外国奉行を八カ月と一一十日近く務めて辞職す る。この間およそ一一年弱 そのⅢ月 、、栗はこれといった仕事をしていない。官僚として仕事ができるのかで きないのか、能力があるのかないのか、もう一つ分からない。一一年弱の間の小栗は そんなばんやりした存在だった。 小栗が官僚として頭角を現すようになるのは、文久一一年 ( 一八六一 l) 六月五日に かってがた 勝手方勘定奉行に登用されてからである。 くじがた 勘定奉行には勝手方と公事方がある。定員はそれぞれ一一人すつで、公事方は司法 を、勝手方は財政を担当した。いわば主計局長兼主税局長というのが勝手方勘定奉

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

大金持ちだった徳川家が貧乏になって 徳川幕府の組織機構の項点に立つのは、絶対権力者である将軍である。司法、行 政、立法の三権は分立しておらす、すべての権力が将軍に集中していた。将軍を項 点に幕府の組織機構はできあがっていた。 といって将軍は、アジア型専制君主ではなかった。絶対権力をもって独裁政治を しく、アジア型専制君主は日本の政治風土になじまない。将軍の絶対権力にはおの すと、自律、他律のたががはめられていた。 そして将軍に直属して政治を行う最高の機関として、大老・老中・若年寄がおか れていた。 大老は常置の職ではない。臨時におかれる名誉職的な機関だった。大老として権 うたのかみただきょ 力を振るったのは、四代将軍家綱の時の、下馬将軍といわれた酒井雅楽頭忠清と、 かもんのかみなおすけ 幕末、安政の大獄をひきおこした井伊掃部頭直弼くらいにすぎない。彼らにしても、 り 4 でつ・か 将軍に肩を並べるとか、将軍を凌駕する権力はもたなかった。もとうという気もお こさなかった。

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

号 ) と大口勇次郎氏の「文久期の慕府財政」 ( 『特集幕末・維新の日本しとにより、 文久三年 ( 一八六一一 l) の幕府財政の全貌が明らかにされている。 それらを参考に計算してみると、文久三年の歳入は米と関税収入は別にして四八 九万両、歳出は四九九万両である。そしてその最大の財源となっていたのが貨幣新 鋳益金で、これは三二〇万両だった。貨幣新鋳益金が歳入の六五パーセントを占め ていた。 開国する前の文政元年 ( 一八一八 ) から安政四年 ( 一八五七 ) までの四〇年の間 でも、貨幣新鋳益金は毎年歳入の三七パーセント強をしめていた。さして驚くこと ではないかもしれないが、からくりを簡単に説明するとこうだ。 その頃横浜の市中両替相場は一ドルⅡ〇・五両だった。その一ドルを万延一一分金 も、つ ( 〇・五両 ) に鋳直すと、ほば一一個 ( 一両 ) つくることができた。幕府は約倍額儲け ることができた。そのような通貨を発行して幕府は財政をまかなっていた。 かさ 嵩んだ臨時出費 栗 右の方式だと無限大に儲けることができるようだが、実はそうでもない。そのこ

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

186 メリカにでかけるよう命ぜられたのはそんな頃、九月の十二日と十三日の両日にわ たってのことだった。 当然手当てはでる。「亜米利加江相越月割御手当金十カ月分」が「金千両」、そ のほか一一度にわたっての、これは返済のきびしくない「拝借金」が計「金九百両」、 臨時収入は合計一九〇〇両となり、これで小栗は一息も一一息もついた。用人武笠に 借りさせた合計一〇〇両も、十一一月に利息三両をつけて返済している。 公私ともに遣り繰りに七転八倒 お道 ( お綾 ) は子をはらまなかった。はらんだのは幕末維新のどさくさの時で、 腹に子供をかかえながらお道は小栗の実母とともに上州権田村をのがれ、越後を経 て会津にたどりつき、そこで一女をあげている。 お道が子をなさなかったのが原因だったろうと思われる。子をつくるのが目的で 小栗は側女をもった。それが家計簿にも見える。 安政五年 ( 一八五八 ) のやはり給金支払い時期の三月十一日と十九日に、各一両 一分すつ「側女給金」として支払われている。側女は一一人いたようだが下女の給金

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

小栗はおもしろい男で家計簿をつけていた ( 『群馬県史料集第七巻』に収録されて いる。次章参照 ) 。 旗本御家人に家計簿をつける風習があったとは思えない。とかく金銭のこととな ると武士はとり扱うのを卑しむ風潮があった。だからとても珍しいことだったと思 われるのだが、水野はそのことを知っていたようである。あるいは小栗の父から せがれ 「うちの伜は変わったやつで家計簿をつけている」などと聞かされていたのかもし れない。 辣 小栗は嘉永三年 ( 一八五〇 ) から始まり安政一一年 ( 一八五五 ) でおわる家計簿の 帳をいみじくも『量入制出簿』と題している。家計簿をつけているとおのすと「入 りを量りて出だすを制す」ようになる。むしろそのために家計簿をつける。 馥「入りを量りて出だすを制す」は国家 ( この場合は幕府 ) の場合でもおなじだ。財 政の基本もそこにある。家計簿をきちんとつけられる男なら国家財政の遣り繰りも きちんとつけられるかもしれないと考えて水野が小栗を推薦した : ど、つもそ、つい、フことのよ、つだ。 もっとも小栗は、勝手方勘定奉行になるとすぐ財政面でめきめきと頭角を現した というのではない。頭角を現したことは現したが、それは財政面ではなく、他の方

10. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

前者だとして、鎖国前の日本は、膨大に金銀を産出し、金銀を貿易の対価、交易 ( 輸出 ) 品としていたが、鎖国と歩調をあわせるように、日本の産金銀量は急激に 細った。無論鎖国後も日本は、長崎を窓口にしてオランダ人や中国人を相手に貿易 を行っていた。しかし産金銀量が急減したため、彼らとの貿易に金銀を交易品とす ることができなくなった。 さいわいにもその後、第三のメタル、銅が大量に産出するようになった。金銀の かわりに銅を交易品とすることができた。銅もしかし、元禄時代をピークに産出量 きゅうきゅう が激減した。中国人に渡す銅にも、オランダ人に渡す銅にも、汲々とするように よっこ。 たわらものしよしき 抑中国人相手には、中国料理の原料となる俵物・諸色 ( 海産物 ) という交易品があ った。海産物はオランダ人には交易品とならない。田沼時代は ( 田沼時代の前もあ みとも ) 、そんな状態にあった。 鎖国前の、ポルトガル人やスペイン人、イギリス人やオランダ人が金銀を求め、 目の色をかえてやってきた時代とは、およそ時代を異にしていた。 刀ロ 田後者の、安政の通商条約で開国した状態を思い描かれるとしてーーアメリカは田 沼時代にようやく独立した。フランスは、フランス革命前夜にあった。イギリスで