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検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

財政を遣り繰りしようとした。宝暦五年、七年、九年、十四年、と幕府はあいつい で倹約令を達した。 宝暦十四年 ( 一七六四 ) は、明和元年と改元された年で、明和の初期から、田沼 が失脚する天明六年 ( 一七八六 ) までのおよそ一一〇年を、田沼時代といっている。 田沼は家禄六〇〇石。九代将軍家重の小姓からスタートし、宝暦八年 ( 一七五 八 ) に一万石の大名となり、明和四年 ( 一七六七 ) 、十代将軍家治の時代に側用人 となっている。 側用人は側近のトップで大名が任命される。大名でなけれは就任できない。牧野、 柳沢、間部、大岡 ( 忠光 ) 、田沼など歴代将軍のお気に入りは全員、大名にあげら れてのち側用人に任しられている。 団 田沼はその後、明和六年に老中格、九年 ( 一七七二Ⅱこの年安永と改元 ) に老中 集 官となったが、老中となる前年の明和八年にも、またまた倹約令がだされている。 霈『江戸実情誠斎雑記』によると、一連の倹約令がだされる前、 ~ 見延三年 ( 一七五 おまかないかた の〇 ) の御賄方の予算は一万九一〇〇両だった。それが宝暦五年 ( 一七五五 ) の倹 幕約令で一万三八〇〇両に減らされ、明和八年 ( 一七七一 ) の倹約令で一万両に減ら された。一一〇年前に比べるとおよそ五割の削減である。

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

大名が困窮した際の将軍からのお救い ( 援助 ) は大幅に縮小されてしまった。お救 しよしきだか いっき いの問題と「米価安諸色高」、都市の打ち壊しゃ百姓一揆の問題は解決されないま ま、田沼時代に持ち越されていった。 おきつぐ 「田沼・松平にみる進歩と抑圧」は、松平定信の根拠のない執念深い田沼意次への 、つら である。永年 怨みが、昇進の絶項期にあった田沼を追い落としたというストーリー の夢である老中に定信が就任することにより、前政権の政策を徹底的に否定してい かったっ く過程が闊達な筆さばきで描かれている。一九六〇年代、研究史上「宝暦ー天明 いくつかの名論文が発表された。佐藤氏はそれらをほとん 期」が活発に討議され、 とのも ど読みこなしたうえで、この作品のみか、さらに続いて『主殿の税ーーー田沼意次の 経済改革』を世に送った。それを読むと、宝暦ー天明期の立役者たちがあたかも歌 舞伎を演じているがごとく臨場感にあふれ、その科白はまさに彼らの人間性を彷彿 とさせる。 説 ぐじようはちまん ありげ 宝暦八年 ( 一七五八 ) の郡上八幡一揆で有毛検見法による年貢収奪は農民側の強 解 い抵抗により否定され、年貢増徴派の官僚たちが軒並み罷免された。宝暦八年とい う年は既に年貢収入のピークは過ぎていた。紀州出身で吉宗の家来であった田沼意 せりふ ほうふつ

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

214 商人的な長州藩の殖産興業 そこへいくと長州の毛利家の場合、金を私するということでは島津家などよりは るかに巧妙だった。長州の江戸中期の改革は土佐や肥前佐賀などより早く行われ、 そのことにはのちに触れると冒頭で述べておいた。 しげなり 時期は宝暦期で、藩主は毛利重就の時。重就は宝暦元年 ( 一七五一 ) に支藩から 入って宗家を継いだ。その時の僴金は三万貫目 ( 五〇万両 ) で、 「倹約に励んだり、古借の利率を引き下げたり、一部償還の期限を延期したり、や むをえないものは借り替えの処置で、どうにか年々の経費を賄った。しかし結果は 八年間に新借一万貫目を増し、この年 ( 宝暦八年 ) 九月の計算では、ついに負債の 総額は四万貫目の大台を突破してしまった」 ( 三坂圭治『物語藩史六』長州藩。以下 かぎかっこ内はおなし ) そこでどう立て直しを行ったかというと、貞享四年 ( 一六八七 ) 以来七〇余年ぶ りに検地を行った。結果は、 「増高六万三千三百七十余石に対し、減少は一一万千七百六十余石となり、差引四万 千六百石はかりの増加となった」 この時重就は帰国中で、

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

270 次が大名に列せられたのもこの年である。 たけちか てるたか 松平武元や松平輝高が存命中、田沼にはまだ大きな発言権はなく、宝暦・明和の 経済・金融政策は、当時の老中およびその経済官僚の発案によるものであった。年 貢収入の伸びが期侍できなくなった宝暦十一年、幕府は方針を重商主義に変更し、 大坂の富裕な町人層に御用金 ( 幕府の巨額な臨時の出費を賄うため、強制的に課した 借金 ) を命した。 松平輝高の死後、田沼が経済政策のトップに立つようになり、その後、幕府や藩 みようが から営業を公認された株仲間には冥加金 ( 営業税 ) が課せられ、公認を受けていな い商・鉱工・運送・漁業者から接客業者にいたるまで運上金 ( 営業税 ) が課せられる よ、つになった。 冥加金収入は微々たるもので、もともと冥加金徴収の目的で株仲間が成立したわ けではなく、物価統制、経済統制にそれを利用しようとしたのである。年貢収入の ピークを過ぎた時点で、米だけでは国家財政を支えきれないという判断があり、米 以外の諸商品の生産を拡大し、原料・加工・販売まで幕府が一元的に統制しようと いう斬新なリストラクチャーを試みていたのであった。 えぞ その際に田沼が目を付けたものは、蝦夷地の開発であり、新田開発であり、全国

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

266 て、ひときわ新鮮な響きを持っことと思う。 佐藤氏の異なるテーマのいくつかの作品が文庫に収められたことは、元禄、享保、 宝暦、天明期の政治家と官僚、そして天明期の思想の延長線上にある開国支持派の こうずけのすけただまさ ただくに 小栗上野介忠順という一つの流れと、寛政から天保の幕政 ( 「水野忠邦と天保改 革」 ) と地方 ( 「幕末雄藩の経済改革」および「江戸人の知恵」 ) というもう一つの流 れが、有機的に一本化したことを意味する。そのことにこそ、文庫となった意義が 認められる。本書に収められた七篇の作品から一一篇を解説することにする。 「幕府の実務派官僚集団」は、元禄から幕末までの個性的な将軍と経済官僚の行っ たことについて、江戸時代史に関する古典的名著の何冊かを読み込んだうえで執筆 されたものであり、よくここまで問題の本質であるエキスのみを抽出してあると、 氏の透徹した史眼には、ただ感嘆するばかりである。 通貨政策を見てみると、元禄という、物も人も流動した時代に登場した荻原重秀 の科学的・合理的通貨理論に封し、佐藤氏は全面的に肯定的評価を与えている。ま た、宝暦ー天明期 ( 一七五一ー一七八八 ) のちょうど半ばに当たる明和期に登場し ひさたか なんりよう た勘定奉行の川井久敬の新しい概念の貨幣である明和南鐐二朱銀の発行への貢献

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

享保・宝暦・天明期 。産業界、学界、行政が連携したテクノボリスの推進 殖産興業策 享保期は凶作に備えて甘。国鉄の民有化、 ZF-}—の分割など独占から自由競争の時代へ転換 藷などを奨励 。町おこし事業への補助金交付、介護関連事業への参入 宝暦ー天明期は稲作農政 。多角化経営 ( 製鉄会社などの電力供給〔ー o-æ事業〕・の食品、医薬への参入 ) を転換、商品作物を奨励 。資材部品を内製化して技術力、品質、利益アップを図る 。外国製品に対する規制の緩和、税制の改正 田沼の時代 。オーナー社長から実力社長へ転換 側用人政治の復活 側用人の幕政への発言力。苫小牧東部開発の若手経営陣に経営経験者を経営諮問委員 ( お目付役 ) に が再び強まった 。石原都知事、元政治秘書を登用↓役職をかえて採用 。現在ではこうしたカリスマ的な指導者がいない ( 役員の力量の低下 ) 。大学と産業界との連携強化や基礎技術の蓄積による開発力の向上 実学の奨励 実用漢訳洋書の輸入制限。日本版ビッグバンに対応して金融業界の他の部門への進出 の緩和 。特許活動において直接ビジネスに結びつく技術開発を奨励 オランダ語による新知識 。 O ( サプライチェーンマネジメント ) の導入 。トヨタ・カンバン方式を米国で体系化し、日本に逆輸入 。べンチャー企業に対する支援

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

井郡若柳村の農民の子だった根岸の父は、御徒の株を買い、代官にまですすんだ。 根岸はそんな父、農民出身の直参の子である。 杉岡ら五人のなかに農民出身はいなかったとしても、根岸の父の例からも分かる ように、勘定所には農民出身が少なくなく、それが京にまできこえ、町奉行所与カ の神沢に「各軽士農民より出たり」と書かせた、ということだろう。そのくらい享 保改革時の人材抜擢はすさまじかった。 そして五人それぞれが経済畑の官僚として活躍した。 とりわけ出色だったのが神尾若狭守春央だ。神尾は享保改革の後期に活躍した勘 定奉行で、年貢収入の増大にすこぶる実績をあげた。神尾の死後、収納高が落ちる と幕府は、 もうすべく 「 : : : 御代官勤方等万事之儀、神尾若狭守相勤候節之通相心得可レ申候」 ( 宝暦五年 Ⅱ一七五五 ) きようこうもうしあわせ 「 : : : 向後申合、諸事若狭守勤候趣に立戻候様」 ( 宝歴六年 ) とたびたび神尾の名をあげて収納高を上げるよう令している。 神尾ら五人に限らない。享保改革時代は、小禄の、軽士農民出身の人材が数多く 抜擢され、人材はそれぞれ活躍した。この時代はある意味で、官僚の時代だったと

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

吉宗時代には、多くの官僚が輩出した。宝暦から田沼時代にかけては、慕府の財 政運営に関するかぎり、倹約時代である。それゆえに、といっていいだろう、通貨 問題で異能の働きをした川井久敬以外に、これといった官僚を見いだすことはでき いえなり 十一代将軍家斉が倹約生活にあきて 田沼時代のあとは、白河藩主松平定信が老中首座 ( のちに将軍補佐 ) となり、幕 政をとりしきった。 こんな話がある。 佐賀弘道館の学生が熊本時習館の学生にいきあった時、からかって聞いた。 えっちゅうふんどしかくん 「貴国では越中褌を寡君褌と云や」 ただおき 長さ三尺の越中褌は細川越中守忠興が工夫したものといわれている ( 寡君とは、 臣下が主君のことをへりくだっていう時に使う語 ) 。 いちもっ 松平定信の官名は越中守で、白河侯 ( 定信 ) が一物をつつむのに、布つきれ三尺 あれば足りるといわれたから越中褌というのだと、一方でそんな話も伝えられてい

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

佐では幕府の許可を得て天明八年 ( 一七八八 ) から一一四万石の藩の格式を一〇万石 もめん の格式に縮小し、予算も前年度の半額にけすり、藩主自ら木綿の衣類をまとい、土 木工事に参加するなどという思い切った緊縮財政をとった。しかし、それらはあり ふれたもので特記するはどの経済・財政改革ではなかった。 長州では肥前佐賀や土佐より早く、薩摩では肥前佐賀や土佐より遅く、経済・財 政改革に乗り出しているのだが、間題を理解しやすくするため長州のは後回しにし て、先に薩摩の経済・財政改革から眺めていくことにする。 借金踏み倒しの失敗が改革のきっかけ 革 薩摩の島津重豪 済薩摩は宝暦三年 ( 一七五一一 l) 、「木曾・長良・揖斐川川普請」という名の治水工事 の を幕府から押し付けられ、借金 ( 累積赤字 ) を約三〇万両膨らませて一〇〇万両の 末大台に乗せた。 それからおよそ五〇年後、享和元年 ( 一八〇一 ) の薩摩の借金は一一一一万両であ る。五〇年弱で一一〇万両増だから増え方はさほどでもない。

10. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

げてもらうよう、願いでた。 神尾の部下に堀江荒四郎という、勘定吟味役までっとめあげた男がいた。またあ る年、堀江が諸国を巡見した。その頃中国地方でこんな落首がうたわれた。 ( 雁・神 ) ( 四郎 ) 東からかんの若狭が飛んできて野をも山をも堀江荒しろ 松浦静山はこれにこうつけ加えている。 この おかちはいり 「此荒四郎は農民より出て御徒士に入、遂に御旗本に列せしという」 堀江の実父はやはり『寛政重修諸家譜』によると、水戸家の臣となっており、そ れから先は分からない。 何某は農民の出らしい、誰某は農民の出のようだ、と当時の人たちは、かまびす うわさ しく噂しあったのだろう。 それで、締めつけを強化すると農民は反発する。百姓一揆をおこす。百姓一揆が 頻発する。事実、神尾が締めつけを強化してから百姓一揆が頻発した。そうそう締 めつけを強化してばかりはいられなかった。 といって年貢の収納が減れば、それだけ財政収入が減る。 吉宗は宝暦元年 ( 一七五一 ) に死去した。その後、慕府は支出の節約、倹約で、 いっき