家計簿 - みる会図書館


検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

爲ッポン男子には強第。 こあった。財布のひもをワイフにがっちり握られ、鼻息をうか がうようにワイフに小遣いをねだっている現代ニッポン男子とは雲泥の差があった。 彼ら当時のニッポン男子は当然財布のひもも握っていた。だから小栗も妻君ではな く当人が家計簿をつけていた。 もっともこの時代の旗本や御家人は貧乏が通り相場になっていた。毎日やりくり におわれていた旗本や御家人にとっては、とても家計簿をつけるどころではなかっ た。また生活にゆとりのある旗本や御家人でも面倒がる者も少なくなかった。小栗 のように几帳面に家計簿をつけるというのはやはり特異な例といえるだろう。 それはともあれ : 小栗の一一十代の家計簿からは、一一十代の小栗の生活やかなり 武張った人となりがくつきりと浮かびあがってくる。 ばんしゅう たけべ あや 小栗は妻を播州林田の建部家から迎えていた。名はお道。結婚当初はお綾と名 乗っていた。なかなかの美人だったというお綾と小栗との仲はいたってよかったら しい、というのがます家計簿からうかがえる。 小栗はお綾の小遣いを当初月に一一分 ( 〇・五両 ) とさだめた。これは本当のお小 遣いだ。実家とのつきあいの費用は別途小栗の懐からでた。 実家、建部家は神田明神下に屋敷をかまえていた。火事にあったか、あるいは建

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

れ、役人生活の第一歩をふみだした。 その頃小栗の父忠高は現役だった。役にもついていた。一一五〇〇石の知行は父が せがれ 受けとっていた。そういう者の伜が書院番士などにとりたてられる時は役料として きりまい 御切米 ( 御蔵米 ) 三〇〇俵が支給された。小栗は一家の収入とは別に、自分の収入 として毎年御切米三〇〇俵を得ることになった。 この御切米一一一〇〇俵を得ていた時代の家計簿が「量入制出簿」と題してますのこ されている。期間は番入りしてから一一年八カ月後の嘉永三年 ( 一八五〇 ) 一月から 安政一一年 ( 一八五五 ) の五月までだ。 小栗は嘉永一一年の秋から冬にかけて結婚しているようである。だから結婚を機に 新年を迎えて家計簿をつけはしめたとも思えるのだが、そこらあたりはさだかでな 徳川慕府の直参、旗本御家人は俸禄の支給のされ方によって知行取りと蔵米 ( 切 家 の 米 ) 取りとに分けられる。知行取りというのは小栗家のように知行所 ( 土地 ) を与 順 えられ、そこから生活の糧、金や米を得る者のことだ。おもに中級以上の旗本がそ うである。蔵米取りというのは土地ではなく何俵、何人扶持などといって直接米を 与えられる者のことをいう。下級の御家人は大体このロだ。小栗の御切米三〇〇俵

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

小栗はおもしろい男で家計簿をつけていた ( 『群馬県史料集第七巻』に収録されて いる。次章参照 ) 。 旗本御家人に家計簿をつける風習があったとは思えない。とかく金銭のこととな ると武士はとり扱うのを卑しむ風潮があった。だからとても珍しいことだったと思 われるのだが、水野はそのことを知っていたようである。あるいは小栗の父から せがれ 「うちの伜は変わったやつで家計簿をつけている」などと聞かされていたのかもし れない。 辣 小栗は嘉永三年 ( 一八五〇 ) から始まり安政一一年 ( 一八五五 ) でおわる家計簿の 帳をいみじくも『量入制出簿』と題している。家計簿をつけているとおのすと「入 りを量りて出だすを制す」ようになる。むしろそのために家計簿をつける。 馥「入りを量りて出だすを制す」は国家 ( この場合は幕府 ) の場合でもおなじだ。財 政の基本もそこにある。家計簿をきちんとつけられる男なら国家財政の遣り繰りも きちんとつけられるかもしれないと考えて水野が小栗を推薦した : ど、つもそ、つい、フことのよ、つだ。 もっとも小栗は、勝手方勘定奉行になるとすぐ財政面でめきめきと頭角を現した というのではない。頭角を現したことは現したが、それは財政面ではなく、他の方

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

186 メリカにでかけるよう命ぜられたのはそんな頃、九月の十二日と十三日の両日にわ たってのことだった。 当然手当てはでる。「亜米利加江相越月割御手当金十カ月分」が「金千両」、そ のほか一一度にわたっての、これは返済のきびしくない「拝借金」が計「金九百両」、 臨時収入は合計一九〇〇両となり、これで小栗は一息も一一息もついた。用人武笠に 借りさせた合計一〇〇両も、十一一月に利息三両をつけて返済している。 公私ともに遣り繰りに七転八倒 お道 ( お綾 ) は子をはらまなかった。はらんだのは幕末維新のどさくさの時で、 腹に子供をかかえながらお道は小栗の実母とともに上州権田村をのがれ、越後を経 て会津にたどりつき、そこで一女をあげている。 お道が子をなさなかったのが原因だったろうと思われる。子をつくるのが目的で 小栗は側女をもった。それが家計簿にも見える。 安政五年 ( 一八五八 ) のやはり給金支払い時期の三月十一日と十九日に、各一両 一分すつ「側女給金」として支払われている。側女は一一人いたようだが下女の給金

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

182 ここ、つしるしている。 小栗は家計簿。 のぞけおき 「十月より御留守中表に而相賄候ニ付自分御切米の方ハ除置候積リ、尤武具或 臨時物入等ハ差出候積リニ候」 したがって以降は、「武具或臨時物入等」の支出のみがごく簡単に記入されてい るにすぎす、それも安政一一年 ( 一八五五 ) の五月で終わっている。 安政一一年の七月十八日、父忠高は赴任先の新潟で客死した。小栗は跡目を相続し、 一一五〇〇石取りの知行取りとなった。当時小栗は進物番にすすんでいた。軽い役だ。 たしだか 足高も役金もっかない。用人腰元から下男下女までいれると使用人が十数人もいる 小栗家の家計は、すべて高一一五〇〇石の知行地からあがる収入でまかなわなければ ならない 小栗のことだ。当主になるとすぐまた家計簿をつけはしめたことだろう。しかし 当主になってからの一一年半の家計簿は紛失してしまったようで、次の「勝手方勘定 ま安政五年の一月から始まっており、以後二年ごとに「勘定 帳」と題する家計簿 ( 帳」「納」と改題してつけた家計簿は文久三年 ( 一八六一一 l) 末で終わっている。そ の後の慶応三年 ( 一八六七 ) までの四年分と慶応四年の数カ月分も紛失してしまっ たようだ。 てまかない もっとも

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

ている。それに法曹・法律がくわわった。知らなけれは嘘を書くのにもこわごわに なるが、恐いものなしに堂々と嘘も書ける。もちろん真実もだ。 おそらくこれからも、年中無休で書きつづけることになると思うのだが、そんな おり、さる編集者から、過去に書いたものを文庫にまとめてみないかとすすめられ た。歴史経済小説四冊を書くかたわら、三、四、五、六〇枚単位で書いていた歴史 物を中むにだ。 実をいうと、それらを文庫にとすすめられたとき何を書いたか忘れていた。いわ れて、ああそういえばと思いだし、どれもこれもいまに役に立っている、無駄なも のは一つもなかったとあらためて気づかされた。 ただまさ 例えば「小栗忠順の家計簿」 この家計簿からは小栗上野介の知られざる人物像などいろんなものが見えてきた のだが、いまに役立っているのは旗本の家の家計である。旗本は家計をどう遣り繰 りしていたのか、年貢をどう取り立てていたのか、知行所との関係はどうなってい たのかなどが手にとるように分かり、しばしは小説に使わせてもらっている。 むろん学習していただけではない。あらたな発見も多々あった。水野忠邦の天保 改革や長州の天保改革がいったいなんだったのかなどについてだ。ことに長州の天

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

174 、つる、つ こうずけのすけただまさ 小栗上野介忠順は慶応四年 ( 一八六八 ) 閏四月の六日、土着しようとしていた は 知行地上州権田村の近く、島川の河原で官軍により問答無用とばかりに首を刎ね られた。 権田村に土着するにあたり、小栗は家財道具等一切合財を江戸からはこんできて いた。その中に日記や家計簿もあった。日記や家計簿の一部は小栗の遺品の跡片付 けをしたろうと思われる人によってこっそりしまい込まれ、やがて忘れられた。そ れが昭和一一十九年 ( 一九五四 ) になって発見され、四十七年に『群馬県史料集第七 巻』に収録された。 じきさん そんな事情で徳川幕府の御直参の家計簿という、珍しくかっ貴重な記録が今にの こされることになった。 換算すると現在ではニ〇〇〇万円の年収 するがだい 神田駿河台の、いま主婦の友社ビルがあるところに屋敷をもっていた小栗家は、 二五〇〇石取りの筋目正しい旗本で ( のち二〇〇石加増される ) 、小栗は弘化四年 ( 一八四七 ) の五月、まだ一一十一歳の部屋住み時代、西丸御書院番士にとりたてら からす

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

みかど 唐突に話は変わるが、八遠くちらちら、明りが見える : : : の出だしで始まる三門 あづま じんべえ ひろし ふうび 博の一世を風靡した浪曲『唄入り観音経』は、奧州白石越河村の百姓甚兵衛が吾妻 橋の上から身を投げようとするシーンからストーリーは始まる。甚兵衛が身投げし なければならなくなったのは年貢の五〇両をすられたからだ。村の代表として五〇 わりげすい 両を本所割下水に住む殿さま ( 旗本 ) に届けようと出府してきたところを、見事に すられた。 なにわぶし 筋はまあどうでもいし このはるか昔に聞いた浪花節が耳の底にこびりついてい ねんぐ て、のちに、旗本への年貢は米で納めるのではなく換金して江戸の屋敷に届けるよ うになっていたのかと、はたと気ついた。しかし出典はというと浪花節である。 ま一つ信用をおけない。 その後この小栗の家計簿を見た。各村からの年貢は米は若干ではとんど金でおさ められていた。おそらく甚兵衛のように毎年村の代表が年貢金を小栗の屋敷に届け 家 てきたのだろう。とあらためて浪花節も捨てたものではないと思ったものであるが さて、では収入はどのくらいになっていたか。 かずさ しもつけ 小栗家の知行所は下野に二カ村、上野に三カ村 ( 加増されて五カ村 ) 、上総に五 カ村あった。村高は合計一一五〇〇石である。 こす′」、つ

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

234 納し、不足があれは受け取り、ク闕所代過料、地代みなどは、残らす御金蔵に納 めるようになった」 収入の部と支出の部にけしめをつけるようになったということだ。 そのほか、「用部屋取扱御役所入用」という、機密費のようなものが年間に一一〇 〇両あった。 したがって、合計一九〇九両以上、おそらく一一〇〇〇から二三〇〇両くらいが南 北両町奉行所の、予算と支出の概要ということになる。 岡っ引きの人件費や、犯人捜査に当たる費用、ましてや地方に逃げた犯人を追う 費用などといった項目はやはりどこにも見当たらない。 こうずけのすけただまさ 小栗上野介忠順という幕府の官僚がいた。慕末の幕府のリーダーの一人で、維 新のどさくさに首を刎ねられてしまった男でもある。 その男、小栗の家計簿という、珍しい資料が残されているが ( 本書第五章参照 ) 、 、つる、つ 文久一一年 ( 一八六一 l) 閏八月一一十九日の元方 ( 収入 ) の欄にこうある。 「金一一十九両ト銀四匁八分参厘一一一毛八、役所付町屋敷地代半月分」 ( 傍点筆者 ) みそか 九月晦日の欄はこうだ。 「金五十両弐朱ト銀七分八厘七毛五、九月分町屋敷代」

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小栗忠順の家計簿