る。小栗は鼻っ柱の強い男で、とかく誰彼に反感を買っている。小栗とその名を聞 くだけで眉をしかめる者も少なくなかった。しかし小栗以外に適当な者がいないと なると目をつぶるしかなし : 小栗は慶応元年 ( 一八六五 ) の五月四日に四度目の勝 手方勘定奉行に就任した。 ここで慕府の財政事情を眺めておこう。 水野忠徳とも小栗とも交流のあった幕府の外務畑の通訳出身の官僚で、明治にな ってからジャーナリストに転じた福地源一郎がこんなことを書きのこしている。 その 「幕府が末路多事の日に当りて如何にして其費用の財源を得たりしかは、啻に今日 おもい のみ また かえりみ より顧て不可思議の想を成す而已にあらす、当時に於ても亦幕吏自らが怪訝した る所なりき」 ( 『幕末政治家』 ) その通りで、どうやって遣り繰りしていたのか不思議でならないと、往時を回顧 する幕府の関係者は少なくなかった。 ば、つ 「而して其経営を勉め敢て乏を告ぐること無からしめたるは、実に小栗一人の力な りき」 ( 『幕末政治家し 福地はそういうのだが : 大野瑞男・村上直両氏の「幕末における幕府勘定所史料」 ( 『史学雑誌』八一巻四 まゆ ただ
222 財政は甚だ硬直していた 徳川幕府は安上がりの政府だった。他に類を見ないチーブガバメントだった。そ のことが如実にうかがえるのが司法と警察に関してである。 そういうシーンを私 例えば銭形平次や半七が大活躍して犯罪人を検挙する たちは日常テレピで眺めている。あれには予算がついていなかった。予算ゼロで彼 らは犯罪人を検挙していた。 むろん金がなければ人も組織も動かない。平次や半七だって活躍のしようがない そこで関係者は徐々に、金 ( 予算 ) がなくて犯罪人を検挙する仕組みを作り上げて 犯罪人検挙にかぎらない。予算がないがゆえ、警察や司法関係は、現代からは想 像もっかぬ奇妙でいびつな仕組みにできあがっていった。 それらを浮き彫りにして、徳川幕府はいかに安上がりな政府であったのかをこれ から例証していくつもりだが、その前に、話の順序として、堅苦しいが幕府の予算 ふかん はどうなっていたのかということを俯瞰しておきたい。
266 て、ひときわ新鮮な響きを持っことと思う。 佐藤氏の異なるテーマのいくつかの作品が文庫に収められたことは、元禄、享保、 宝暦、天明期の政治家と官僚、そして天明期の思想の延長線上にある開国支持派の こうずけのすけただまさ ただくに 小栗上野介忠順という一つの流れと、寛政から天保の幕政 ( 「水野忠邦と天保改 革」 ) と地方 ( 「幕末雄藩の経済改革」および「江戸人の知恵」 ) というもう一つの流 れが、有機的に一本化したことを意味する。そのことにこそ、文庫となった意義が 認められる。本書に収められた七篇の作品から一一篇を解説することにする。 「幕府の実務派官僚集団」は、元禄から幕末までの個性的な将軍と経済官僚の行っ たことについて、江戸時代史に関する古典的名著の何冊かを読み込んだうえで執筆 されたものであり、よくここまで問題の本質であるエキスのみを抽出してあると、 氏の透徹した史眼には、ただ感嘆するばかりである。 通貨政策を見てみると、元禄という、物も人も流動した時代に登場した荻原重秀 の科学的・合理的通貨理論に封し、佐藤氏は全面的に肯定的評価を与えている。ま た、宝暦ー天明期 ( 一七五一ー一七八八 ) のちょうど半ばに当たる明和期に登場し ひさたか なんりよう た勘定奉行の川井久敬の新しい概念の貨幣である明和南鐐二朱銀の発行への貢献
172 ている。 ト木は一」と それを思うと釈明の機会をあたえられることなく斬首されたことに、 うら さら怨みは感しることもなかったろう。「お静かに」という一言をのこして潔く首 を討たれている ( 上州に戻ったのは不用意であったが ) 。生き長らえて早くから幕府 に見切りをつけていた ( 裏切っていたといってもいい ) 、その点では小栗とは正反対 の生き方をした勝海舟の手柄話を、折にふれ風の便りに聞かされるより、すっとさ ばさばしてよかったと、あるいは草葉の陰で苦笑いしていたかもしれない。 なおつけ加えておくと、借款契約の実行をせまりに幕府は栗本をフランスに送っ た。しかし外相の交代を機にフランス本国政府の対日政策ががらりと変わってしま ったこともあり、結果的にこれは破約に追い込まれる。慶応三年の八月から九月に かけてのことで、それが幕府にあたえたショックは少なくなかった。もっともかな りの軍事援助は行われているのだが : 〈附記借款のくだりは石井孝氏の『増訂明治維新の国際的環境』を参考にした〉
168 十二日と発表された。ところがその前日、小笠原の脱走と小倉城陥落のニュースが 伝わってくると慶喜の腰はヘなへなと崩れた。慶喜は大討込みをとりやめてしまっ その慶喜の腰をしゃんともとにもどらせたのが、八月一一十日に成立した小栗とク ーレとの間で締結された借款契約だった。 小栗は九月に入ると、借款と「商業・航海大会社」の設立について説明するため クーレをつれて大坂まで出向く。そして慶喜に内容を詳しく説明するとともに、大 坂での「商業・航海大会社」設立のため、大坂のいわゆる豪商に接触する。 慶喜は大討込みを表明してすぐの八月一一日に武器、艦船、軍需品、軍事教官のす みやかな提供を乞う書簡をロッシュにおくった。問題は金である。その金の問題は 小栗が解決していた。勇気づけられて慶喜は、精力的に幕府建て直しのため幕政改 革と軍事改革にのりだしていく。 「最後の幕政改革」に挑む 練達の外交官だったフランスの公使レオン・ロッシュは、幕府寄りの姿勢を鮮明
ま、えがき・ 幕府の実務派官僚集団 大金持ちだった徳川家が貧乏になって / 幕府最初の官僚は通貨間題の " 権威〃 / 享保改革時代、官僚は活躍したが / 田沼時代の財政は倹約が 中心だった / 十一代将軍家斉が倹約生活にあきて / 幕末、外交畑に優 秀な人材が輩出したが 田沼・松平にみる進歩と抑圧 田沼は定信のあらぬ怨みをかっていた / 一橋治済、御三家が定信を支 援 / 真っ二つにわかれる田沼への評価 / 浅間山の大噴火、卯歳の飢饉 と重なって / 諸人を震撼させた田沼の″日本惣戸税み / 世直し大明神と もちあげられたが 目次
号 ) と大口勇次郎氏の「文久期の慕府財政」 ( 『特集幕末・維新の日本しとにより、 文久三年 ( 一八六一一 l) の幕府財政の全貌が明らかにされている。 それらを参考に計算してみると、文久三年の歳入は米と関税収入は別にして四八 九万両、歳出は四九九万両である。そしてその最大の財源となっていたのが貨幣新 鋳益金で、これは三二〇万両だった。貨幣新鋳益金が歳入の六五パーセントを占め ていた。 開国する前の文政元年 ( 一八一八 ) から安政四年 ( 一八五七 ) までの四〇年の間 でも、貨幣新鋳益金は毎年歳入の三七パーセント強をしめていた。さして驚くこと ではないかもしれないが、からくりを簡単に説明するとこうだ。 その頃横浜の市中両替相場は一ドルⅡ〇・五両だった。その一ドルを万延一一分金 も、つ ( 〇・五両 ) に鋳直すと、ほば一一個 ( 一両 ) つくることができた。幕府は約倍額儲け ることができた。そのような通貨を発行して幕府は財政をまかなっていた。 かさ 嵩んだ臨時出費 栗 右の方式だと無限大に儲けることができるようだが、実はそうでもない。そのこ
る上級幕臣 ) とは知行所 ( 領地 ) を与えられる者のこと。収入 ( 年貢 ) は知行所か ら得ている。蔵米取り ( おもに御家人といわれている下級幕臣 ) とは浅草の御蔵に おはりがみ ある米を支給される者のこと。ただし米は御張紙相場によって一部現金で支給され る。この年は四割強が米で、六割弱か金で支給された。 「三季御切米」とあるのは、蔵米取りが金で支給された額である。それと「御役 料」、そのものすばり役人の役料との合計が三九万九〇〇〇両で、歳出の二八パー セントを占めていた。 旗本、御家人は役に就いている者以外、毎日することがなかった。ぶらぶらして 幕府は彼らに無駄飯を食わせていた。本来なら人員整理や俸給カットを行い おおなた たいところである。ギョーカクの大鉈を振るいたいところだが、そうすると幕府の 制度そのものが根幹から崩れる。というわけで「三季御切米御役料渡」や、ほかに もあるそれら硬直した歳出を差し引くと、宝暦五年で予算として計上しうる額は一 三万八〇〇〇両強にすぎなかった。 項目は一一六。金額のもっとも多いのは「元方御納戸」。将軍の衣服や手回り品一 切の調達で一一万両。次が「払方御納戸」。賜与の時服や筆墨紙などの調達で一万五 まかない 〇〇〇両。その次が「御賄方」。城中で出す料理代で、一万三八〇〇両。一番少
大金持ちだった徳川家が貧乏になって 徳川幕府の組織機構の項点に立つのは、絶対権力者である将軍である。司法、行 政、立法の三権は分立しておらす、すべての権力が将軍に集中していた。将軍を項 点に幕府の組織機構はできあがっていた。 といって将軍は、アジア型専制君主ではなかった。絶対権力をもって独裁政治を しく、アジア型専制君主は日本の政治風土になじまない。将軍の絶対権力にはおの すと、自律、他律のたががはめられていた。 そして将軍に直属して政治を行う最高の機関として、大老・老中・若年寄がおか れていた。 大老は常置の職ではない。臨時におかれる名誉職的な機関だった。大老として権 うたのかみただきょ 力を振るったのは、四代将軍家綱の時の、下馬将軍といわれた酒井雅楽頭忠清と、 かもんのかみなおすけ 幕末、安政の大獄をひきおこした井伊掃部頭直弼くらいにすぎない。彼らにしても、 り 4 でつ・か 将軍に肩を並べるとか、将軍を凌駕する権力はもたなかった。もとうという気もお こさなかった。
八六四 ) の将軍の再度の上洛費は『開国起源』によると大判四一〇枚に四八万両だ。 下関戦争の、慕府が支払わされることになった賠償金は三〇〇万ドルで、慶応元年 から一一年にかけて幕府はこれを五〇万ドルすっ三度、計一五〇万ドル支払っている。 さすがに残りは支払いきれすに幕府は倒れた。 さらに御進発、第一一次長州征伐の費用が第一一次の御手当のみで四三七万両かかっ ている ( 大山敷太郎氏『幕政金融史論し。 先にものべた横須賀製鉄所の建設費用は慶応元年八月の起工から慶応四年三月ま での間に、合計四七四万ドルだ。 ざっとあげた数字だけ合計してみても邦貨で五八五万両、外貨で六六四万ドルで 賭 ある。財政のおよそ一一年分だ。そのはか艦船も買っている。大砲や鉄砲も買ってい る。諸々をあわせると臨時出費は三年分を優に越したろう。 ことに 貨幣改鋳だけで遣り繰りするのは難しい。なんとかしなければならない。 ←多額の出費を強いられる横須賀製鉄所の建設計画は自分が立てたプランだ。またま 見た勘定奉行に就任して小栗は当然財源の捻出に知恵をしばった。