とにかくはっきりしているのは、「日本惣戸税法案」が世論の総反発をひきおこ し、反田沼感情に油をそそぎ、田沼追い落としに力を貸したとい、つことである。 世直し大明神ともちあげられたが 松平定信は田沼追い落としに全精力を傾け、追い落としに成功した。政治でも、 〃田沼時代〃の政治を否定し、新しい、定信色の強い政治を行おうとした。寛政改 革といわれている政治である。 『宇下人言』によると、定信は加判の列上座に任せられるとすぐ、 いくつか政治ス あっぜっ 抑ローガンを書きつけ、同列 ( 同僚 ) に見せて同意を得た。その一つに「賄賂遏絶 歩 ( 根絶 ) の事」というのがあった。 み田沼時代は確かに、賄賂に無神経な時代だった。構造的に賄賂が横行するように なっていたにせよ、賄賂は賄賂である。あたりをはばからす公然とやりとりされれ まゆ ば、たいていの人は ( 縁のない人は特に ) 眉をひそめる。 田松平定信は賄賂の根絶を強く打ち出した。世論は定信を支持した。定信を世直し 大明神ともちあげた。
がら水野忠成を高く評価した。 おきつぐ 水野忠成は一時代前の政治家、田沼意次に比せられる悪評ふんふんの政治家であ る。田沼の場合はそれでも昨今見直しがあるが、忠成の場合はそれもない。たたた だ家斉にごまをすっていた、賄賂を取り込むのに熱中していた、薄汚い政治家とい われて蔑まれ、今日に至っている。 確かに水野忠成は賄賂を取り込むのに熱心だった。野放図でいい加減なところも あった。だが忠成について家臣が記した『公徳弁』などを見ると、経済にはかなり 明るい政治家だったようである。貨幣の改鋳についてもそのことはいえる。 貨幣の改鋳は当時から、インフレを引き起こし、かっ民の利を奪うと、何かにつ けて非難された。貨幣の改鋳にはしかし、経済のポリュームアップに合わせて通貨 革を増量する ( したがってデフレも回避される ) というメリットと、慕府に益金をも 保たらすというメリットがある。幕府の側に立つなら、マイナス効果よりプラス効果 とほうがはるかに大きく、この頃年貢の増徴が限界に達して慢性的な歳入難に陥って いた幕府は、貨幣の改鋳、というより新鋳で以後幕末まで財政難をしのぎ切る。あ くまでも慕府の側に立つならだが、水野忠成の功績はすこぶる大きい 水野忠成はそんな、経済に明るい政治家で、また、ことに家斉にとって何かと気
むつ もし田沼がいれば、家治は田沼に、 「あとのことは頼んだぞ」 家斉には、父 ( 家重 ) とおなしように、 「主殿はまたうとのものなり。行々こころを添えて召仕るべき」 といったかもしれない。いすれにしろ、後事は田沼に託したはずだ。 はるさだ むね あいにく臨終の場に田沼はいなかった。いたのは御三家紀伊の治貞と、尾張の宗 はるもり 睦、水戸の治保に、一橋治済だ。家斉もいたろう。 家治はやむをえす、御三家と一橋治済に、「あとのことはおことらに頼みまいら せる」とでもいったようだ。 一橋治済が水戸治保あてに送っている書簡にこういうくだりがある。 ごいめいこうむりそうろうぎ 「 ( 家治の ) 重き御遺命蒙候儀は ( 御三家と ) 御同様の儀に候間」 重き御遺命が御三家と同様、一橋治済にもあったと治済はいっている。 重き御遺命は「あとを頼む」といった程度のことにすぎなかったろう。しかし、 これを御三家も、一橋治済も田沼追い落としの口実にしようとした。 江戸時代の政治形態は、おおまかにいって将軍が政治を親裁する形態と、老中が 将軍から政治を委任される形態と、将軍の側近が政治をとりしきる形態の三つにわ
それはど定信の〃倹約みは世にとどろいていた 越中褌のいわれはどうでもいし ということで、定信は田沼時代の政治を一新し、寛政改革といわれる政治を行った。 田沼時代の政治と定信の寛政改革は対極におかれている。 しかし田沼時代も寛政改革時代も、幕府財政のよって立っ経済のバックグラウン ドにかわりはない。寛政改革も、基本的には宝暦時代、田沼時代と踏襲してきた 〃倹約財政みを継承しているにすぎない。だからこの時代も、やはり知恵を絞る官 僚は生まれていない 定信はおよそ六年で慕閣をしりぞいた。定信の退任後一一十数年は、寛政の遺老と いわれた定信の政治上の仲間がとりしきり、財政的にはひきつづき緊縮財政、倹約 団 をつづけた。したがってひきつづきこの時期も、知恵を絞る官僚は生まれていない 集 官文化十四年 ( 一八一七 ) を最後に、寛政の遺老は全員しりぞいた。 ごさんきよう 霈十一代将軍家斉は、御三卿の一橋家から入った養子だという遠慮があり、また のお坊ちゃん育ちのおっとりした性格だったこともあり、寛政の遺老が全員しりぞく 幕まで、定信や寛政の遺老になにかと遠慮した。 家斉は子どもの頃、金魚が好きで、「金魚鉢の大きいのを」と望んだ。耳にした る。
大金持ちだった徳川家が貧乏になって 徳川幕府の組織機構の項点に立つのは、絶対権力者である将軍である。司法、行 政、立法の三権は分立しておらす、すべての権力が将軍に集中していた。将軍を項 点に幕府の組織機構はできあがっていた。 といって将軍は、アジア型専制君主ではなかった。絶対権力をもって独裁政治を しく、アジア型専制君主は日本の政治風土になじまない。将軍の絶対権力にはおの すと、自律、他律のたががはめられていた。 そして将軍に直属して政治を行う最高の機関として、大老・老中・若年寄がおか れていた。 大老は常置の職ではない。臨時におかれる名誉職的な機関だった。大老として権 うたのかみただきょ 力を振るったのは、四代将軍家綱の時の、下馬将軍といわれた酒井雅楽頭忠清と、 かもんのかみなおすけ 幕末、安政の大獄をひきおこした井伊掃部頭直弼くらいにすぎない。彼らにしても、 り 4 でつ・か 将軍に肩を並べるとか、将軍を凌駕する権力はもたなかった。もとうという気もお こさなかった。
将軍となった。 家宣と、家宣の死後の、七代将軍家継 ( 家宣の嫡子 ) 時代の「正徳の治」といわ れる政治は、新井白石がー 白石は官僚ではない。家宣の側近だ。 家宣がまだ六代将軍になる前、儒者として家宣に仕え、家宣が将軍になったので、 よりあい 寄合、一〇〇〇石以上の無職の旗本という直参に横すべりし、家宣、家継の、いわ あいまい ば政治顧間となった。徳川一一六〇年、寄合、無職の旗本という曖昧な身分で政治を リードしたのは、白石以外にいない。 白石は博識だった。判断能力にもひいでていた。 たが、こと経済のこととなると荻原の足もとにもおよばなかった。経済のポリュ ームアップにあわせて通貨の供給を増やす必要がある。でなければデフレになる。 集 官不況になるという、現代の経済学では単純すぎるはど単純な初歩の経済学が、白石 には理解できなかった。 の荻原の行った貨幣改鋳には、通貨の供給量を増やすという功の部分と、民の利を 幕奪い取るという罪の部分とがある。 荻原はまだ勘定奉行に在職していた。白石は荻原の功の部分が理解できす、罪の iä
120 払って水野は勇んだ。 旧弊を一掃する新しい政治ーー。人はそうそう目新しいものを思い付くものでは ない。水野が思い付いたのは、およそ五〇年前の、寛政改革を踏襲する政治だ。 寛政改革は、大きな柱に〃綱紀の粛正〃がある。水野は、綱紀の粛正などとまる ついしよう で縁のない、家斉と一心同体だった水野忠成にすっと追随してきた。追従もいっ てきた。そのことはどうなんだということになるが、水野にいわせれば、それはそ れ、これはこれ、老中への階段を昇り詰めるためにはやむをえなかった手段、とい うことになるのだろう。水野は〃新政み ( こ取り掛かった。それが天保改革である。 天保改革について書かれているものの本の多くは、天保という時代は七年 ( 一、 ききん ばんしゃ 三六 ) に飢饉があり、八年に大塩の乱とモリソン号事件があり、十年に蛮社の獄が あり、といわゆる〃内憂〃と〃外患みの説明をして本題に入っていく。 ふかん 時代を俯瞰すると、それらの内憂と外患は確かに大きな問題である。だがそれら の内憂と外患は、水野がはじめようとした〃新政み、つまり〃改革みの直接のきっ かけになっていない。天保改革が理解しにくいのは一つはそのせいで、家斉という おもしが取れてただただ反動的に、旧弊を一掃する、寛政改革を踏襲する政治をと 目指し、周囲の反対と抵抗を押し切って、水野が強行したのが天保改革である。し
100 なんりよう 定信の寛政改革は、明和南鐐二朱銀の鋳造停止 ( 通用停止ではない ) 、幕府常設 きえんれい 町人金融グループ ( 勘定所御用達 ) の創設、棄捐令および物価引下令の発令、七分 よせば 積金法の制定、旧里帰農令の発令、石川島人足寄場の創設などと矢継ぎ早にすすめ られていった。 改革の一つ一つについて検討するゆとりはない。そこで定信のおよその政治家像 をつかむため、田沼意次がもたれていた、 「経済に明るく、貿易に積極的で開国志向をもつ、蝦夷地の開発にも積極的だった 政治家」 とい、つイメージを尺度に借りる。 田沼の場合、右の評価は必ずしも正しくないというのは、これまで見てきた。定 信の場合はどうか。ます経済に明るかったかどうかという問題について 定信は加判の列上座につくとすぐ「賄賂遏絶の事」のほかに、「金穀の柄上に帰 し候事」という政治スローガンも掲げた。 マネー 金穀の柄ーー。金は金銀、金とみていいだろう。穀は穀物、とりもなおさす米、 柄は権力の権のことである。 マネー 金や米の権、とはなんだろう。わかるようでわからない。『宇下人言』ではこん
もしそれらを税として徴収するという目的で、田沼がリードしてやっていたとす るなら、田沼は経済オンチの、おそろしく雑な政治家だったとい、つことになる。 田沼は〃成り上がり〃である。 りん 父意行は紀州から吉宗に従ってきて直参になおった。手当ては廩 ( 蔵 ) 米三〇〇 俵である。草高 ( 年貢を徴収する前の高 ) に直すと三〇〇石、三〇〇石取りにあた る。中級と下級の間に位置しよう。やがて意行は六〇〇石の知行 ( 土地 ) 取りとな り、田沼は六〇〇石を相続した。そして加増につぐ加増で、五万七〇〇〇石の大名 にまでなった。 〃成り上がり者みにたいする目はいつの世もきびし い。だからこそ田沼は対人関係 圧 抑を大事にした。むをくばった。上にも、下にも。昇進を重ねていけはいくはど : 進松平定信のことにしても、もし定信が自分に怨みを抱いていることが分かれば、 み田沼のことだから、いろいろな手を使ってむをほぐしたことだろう。 田沼はひたすら対人関係に心をくだいた。安永の末年頃から天明初期の頃には、 けいばっ 慕閣の重要人物や門閥と華麗な閨閥をつくりあげていた。これだけ縁をつないでお 田けば、どんなことがあっても失脚はないだろう、と思われるほどの閨閥をだ。 一方、政治の、ことに経済にかんする政治は、天明元年に勝手掛老中の松平輝高
していただろう松平信明の死を予期して、将軍家斉が直接指揮した人事だった。 そして松平信明の死亡直後の九月に、水野忠邦は寺社奉行に任せられ、同時に、 唐津から浜松へ転封を申し渡される。 忠邦はかねて、同姓で同族の忠成に熱むに転封と昇役を働きかけていた。これら の人事や転封は、老中格になった忠成のひきで実現したものである。 ともあれこのように水野悪邦は、文化十四年に寺社奉行となり、かっ浜松に転封 されて老中への一歩を踏み出すことになった。 文化 ( 一八〇四ー一八 ) と文政 ( 一、、 ー三〇 ) の時代を引っくくって、 けんらん 政みといっている。将軍家斉治世の化政の時代は、江戸の、文字通り文化が絢爛豪 華に花開いた時代といわれている。事実はそうでない。文化と文政では、およそ色 革合いが異なる。ことに政治経済的には、寛政の遺老が政治を取り仕切っていた文化 保と、彼らが去ったあとの文政とでは、水と油のように違っている。財政的にも文化 レ」 の時代は、超緊縮均衡財政がとられていた。家斉も超耐乏政治を強いられていた。 邦 松平信明の死を最後に寛政の遺老はすべて慕閣から去った。家斉はやっと、隹、 せいちゅう らの、なんの掣肘も受けない身となった。 ぜいたくざんまい 家斉の理想は気随気ままに、贅沢三昧に暮らすことにあった。家斉は四十五歳に