水野忠邦 - みる会図書館


検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

ただくに 進者老中水野忠邦の失脚までおよそ一一年半と、は「きりしていてきわめて短期であ 天保改革は、享保および寛政の両改革にたいし、そのように際立って違っており、 かっ完璧に失敗している。 かってがかり 天保改革の推進者は老中首座で勝手掛老中、現代でいうなら総理大臣に匹敵する 役職の水野忠邦である。失敗の原因や理由はすべて水野忠邦に帰するのだが、では 水野はなぜそんな改革をやろうとしたのか それを探る前に、水野はどういう経歴の政治家だ「たのか。また水野が老中首座 兼勝手掛老中までのし上が「ていった時代、いい直すと寛政改革から天保改革に至 るまでの時代はどういう時代だったのか。そこらあたりからアフローチしていくこ 革とにー ) こ ) 。 目指すは老中首座兼勝手掛老中 おだい もり 水野忠邦の水野家は、家康の生母於大の実家という名家である。於大の同母兄忠 守の三男忠元を開祖としていて、忠邦は十一代目にあたる。歴代の藩主の中では一一

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

110 ただゆき 代目の忠元と六代目の忠之が老中 ( 二代忠元は江戸年寄、のちの老中 ) に就任して おり、ことに六代の忠之は老中首座兼勝手掛老中として吉宗の享保改革を助けてい る。 水野忠邦が藩主となったのは文化九年 ( 一八一一 l) 、十九歳の時である。領地は からっ 肥前唐津にあり、水野家は六万石を領有していた。 三年後、文化十一一年 ( 一八一五 ) 十一月、水野は奏者番を拝命する。 奏者番というのは、政治的にはなんの力もない式典官のような役職だ。ただし、 大名の登龍門のような役職で、〃末は老中をみと目指すのなら、何はともあれ任官 しなければならないという役職である。 老中になれる家 ( 大名 ) は限られている。数万石から一〇万石くらいまでの譜代 大名だ。六万石の水野家は、一一代の忠元と六代の忠之が老中になっていることでも あり、家格に問題はなかった。ただし、八代忠任からの領地である肥前唐津は長崎 警護の任を負っていて、藩主は幕府の重要な役に就くことができなかった。肥前唐 津の殿様であるかぎり、奏者番より上の役には進めない。老中などむろん論外だっ こぶ かわじとしあきら 水野を的確に評しているのは幕末の名官僚川路聖謨だ。川路はこの時期、小普

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

水野忠邦と天保改革 目指すは老中首座兼勝手掛老中 / 家斉の死がきっかけに / 町奉行の抵 抗と水野の反撃 / 矢部の罷免と奇怪なその理由 / 中国沿岸がきな臭く なって / 上知令が命取りに 小栗忠順ー「徳川復権」に賂けた辣腕 実力未知数の勘定奉行 / 名を挙げた「将軍奪還作戦」 / 栗本瀬兵衛とレ オン・ロッシュ / 製鉄所建設で見せた凄腕 / 「土地付売家」の真意 / 財 源の捻出に知恵をしばる / 嵩んだ臨時出費 / 窮余の一策「六〇〇万ド ル借款」 / 「最後の幕政改革」に挑む / 幕府復権の夢空しく 小栗忠順の家計簿 換算すると現在では二〇〇〇万円の年収 / 夫婦仲がよかった小栗上野 介 / 公私ともに遣り繰りに七転八倒 149 107 173

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

9784087470857 1 9 2 0 1 9 5 0 0 4 9 5 1 定価ー 解説・菅野徳子 ISBN4 ー 08 ー 747085 ー 7 C 0 1 9 5 \ 4 9 5 E バブルあり、赤字財政ありで、 現代によく似ている江戸時代 に、「執念」をもって赤字財政 の改革に取り組んだ男たちが いた。財政を専管する勘定奉 行として幕府経済を主導する 小栗上野介ら官僚集団、老中 として辣腕をふるう田沼意次、 松平定信、水野忠邦ら改革政 治の指導者たち。経済通の直 木賞作家が描く江戸の官民に よる行財政改革の理想と現実。 リサイク ) レ資料 ( 再活用図書 ) 除籍済

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

水野忠邦と天保改革

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

の付く男だった。 はるさだ 例えば、家斉の実父一橋治済はかって、松平定信や松平信明の反対で大御所にな りそこねた。家斉はそれが気に掛かっていた。忠成は家斉の意を汲み、治済に准大 臣の位が授けられるようにと京に働きかけ、実現した。家斉自身には、太政大臣の 位が授けられるようにと同しく京に働きかけ、これまた実現させた。忠成は家斉の いっそうの信頼を得て、やがてその地位を不動のものにした。 水野忠邦は、そんな忠成にせっせと賄賂や贈答品を贈り、また忠成を自邸に招待 こび しと、なりふり構わず媚を売って老中を目指した。 文政は十三年 ( 一八三〇 ) の十一一月に、天保と年号が変わり、天保五年 ( 一八三 ちょうしん 四 ) の二月に、家斉の寵臣忠成は死去した。 にしのまる 忠成のひきで大坂城代、京都所司代と累進していた忠邦はその頃、西丸老中に 任ぜられていた。 西丸老中は、老中とは名ばかりの、なんの権限もない老中だった。忠成が死んだ。 権限のある老中、本丸老中に空席ができた。水野は忠成の後任の本丸老中に任ぜら れた。ときに四十一歳。忠邦はようやく念願の老中に就任した。だが、そこはまだ 終着点ではなかった。

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

ただざね 忠成の死後の幕閣の有力どころは、先任の大久保忠真、大久保忠真より後任だが やすとう 大久保忠真を飛び越して、忠成の後任の勝手掛老中に任ぜられていた松平康任とい ったあたりだった。 大久保忠真は有能な政治家だった。松平康任はその大久保を飛び越して勝手掛老 中に任ぜられたのだから、もっと有能だったのだろう。少なくとも康任を勝手掛老 中に任した家斉は、そう思っていたに違いない。 政治の実権を握るにはしかし、とかく運が左右する。当時も今もそれは変わりな やがて松平康任は、康任自身にはまるでかかわりのない、実弟 ( 旗本 ) が親戚 たじまいずし ということで不用意にかかわった、但馬出石仙石家の、仙石騒動といわれている御 家騒動のとばっちりを受け、将軍家斉に忌避されて失脚する。一年半後の天保六年 革 ( 一八三五 ) 九月のことだ。 保一一年後、天保八年 ( 一八三七 ) 三月、康任の後任の勝手掛老中となっていた大久 耻保忠真が病死する。後任の勝手掛老中には水野忠邦が任ぜられた。 のりひろ さらに天保十年 ( 一八三九 ) 十一一月、先任の松平乗寛が病死して忠邦は老中首座 となる。水野は老中首座兼勝手掛老中となる。水野は老中就任五年と九カ月にして ようやく念願の、総理大臣とでもいうべき老中首座兼勝手掛老中の座に登り着く。

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

ている。それに法曹・法律がくわわった。知らなけれは嘘を書くのにもこわごわに なるが、恐いものなしに堂々と嘘も書ける。もちろん真実もだ。 おそらくこれからも、年中無休で書きつづけることになると思うのだが、そんな おり、さる編集者から、過去に書いたものを文庫にまとめてみないかとすすめられ た。歴史経済小説四冊を書くかたわら、三、四、五、六〇枚単位で書いていた歴史 物を中むにだ。 実をいうと、それらを文庫にとすすめられたとき何を書いたか忘れていた。いわ れて、ああそういえばと思いだし、どれもこれもいまに役に立っている、無駄なも のは一つもなかったとあらためて気づかされた。 ただまさ 例えば「小栗忠順の家計簿」 この家計簿からは小栗上野介の知られざる人物像などいろんなものが見えてきた のだが、いまに役立っているのは旗本の家の家計である。旗本は家計をどう遣り繰 りしていたのか、年貢をどう取り立てていたのか、知行所との関係はどうなってい たのかなどが手にとるように分かり、しばしは小説に使わせてもらっている。 むろん学習していただけではない。あらたな発見も多々あった。水野忠邦の天保 改革や長州の天保改革がいったいなんだったのかなどについてだ。ことに長州の天

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

していただろう松平信明の死を予期して、将軍家斉が直接指揮した人事だった。 そして松平信明の死亡直後の九月に、水野忠邦は寺社奉行に任せられ、同時に、 唐津から浜松へ転封を申し渡される。 忠邦はかねて、同姓で同族の忠成に熱むに転封と昇役を働きかけていた。これら の人事や転封は、老中格になった忠成のひきで実現したものである。 ともあれこのように水野悪邦は、文化十四年に寺社奉行となり、かっ浜松に転封 されて老中への一歩を踏み出すことになった。 文化 ( 一八〇四ー一八 ) と文政 ( 一、、 ー三〇 ) の時代を引っくくって、 けんらん 政みといっている。将軍家斉治世の化政の時代は、江戸の、文字通り文化が絢爛豪 華に花開いた時代といわれている。事実はそうでない。文化と文政では、およそ色 革合いが異なる。ことに政治経済的には、寛政の遺老が政治を取り仕切っていた文化 保と、彼らが去ったあとの文政とでは、水と油のように違っている。財政的にも文化 レ」 の時代は、超緊縮均衡財政がとられていた。家斉も超耐乏政治を強いられていた。 邦 松平信明の死を最後に寛政の遺老はすべて慕閣から去った。家斉はやっと、隹、 せいちゅう らの、なんの掣肘も受けない身となった。 ぜいたくざんまい 家斉の理想は気随気ままに、贅沢三昧に暮らすことにあった。家斉は四十五歳に

10. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

112 いえなり ときの、十一代将軍家斉は、御三卿の一橋家から将軍家に養子に入り、天明七 年 ( 一七八七 ) 、十五歳の時任についた将軍で、松平定信をはじめとする老中に何 かと遠慮した。定信ら老中に、ロうるさい校長先生にたいするように接した。定信 が退隠したあとの寛政の遺老にたいしても同様で、政治的にはまったくといってい いはど口を挟まなかった。というより、挟めなかった。 ただきょ のぶあきら 水野が転封運動を始めた文化の末年は寛政の遺老のうち、松平信明、牧野忠精 といったところがまだ健在だった。彼らが健在であるかぎり、運動が成功するかど うか、成否はおばっかない。 しかしいすれ、人は死を迎える。文化十三年 ( 一八一六 ) に牧野忠精が、続いて 文化十四年 ( 一八一七 ) に松平信明が死去し、寛政の遺老は全員幕閣から姿を消し ただあきら そば 家斉の側近でお気に入りに水野忠成という側用人 ( 大名が任に就く奧の役人 ) が いた。大名だけで五家ある水野家のうちの、沼津水野家 ( としておく ) の当主で、 もちろんさかのばれば忠邦の水野家と先祖を同しくする。 この水野忠成が、松平信明が死去する六日前 その頃の人事の動きを見ると の八月一一十三日に、老中格に任ぜられている。忠成の老中格への登用は、病床に伏 ごさんきよう