うら 田沼は定信のあらぬ怨みをかっていた 身におばえがないのに、あらぬ怨みをかっているということが、えてしてある。 おきつぐ 田沼意次が松平定信の怨みをかったケースもそうだ。 よしむね ごさんきよう むね 松平定信は八代将軍徳川吉宗の孫で、御三卿の一つ、田安家をおこした田安宗 たけ 武の七男である。そして十七歳の年、安永三年 ( 一七七四 ) の三月、白河藩主松平 さだくに 定邦の養子になることにきまった。すぐ上の兄 ( 六男 ) 定国は、六年前に伊予松山 さだきょ はるあき 藩主松平定静の養子となっていた。田安家は五男の治察が継いでいる。 定信が松平定邦の養子になることにきまった半年後の安永三年九月、田安治察 しゆっ ( 二十二歳 ) は後嗣をもうけないまま卒した。定信が養子となってでていくと、田 安家には跡取りがいなくなってしまう。 近衛家から嫁してきていた田安宗武の室、宝連院 ( 治察の実母、定信の義母 ) は 定信が残り、田安家を継ぐことを望んだ。宝連院の意をうけ、田安家の家老は幕閣 に働きかけた。 うげ・のひとこと 松平定信は『宇下人言』という、公表を目的としていない自叙伝を残しており
の登用をすすめた。 にわかに松平定信登用の話が復活し、定信は天明七年六月十九日、加判の列上座 ( 老中首座 ) に任命された。将軍家治が死んでおよそ一〇カ月後になる。 松平定信にとって一橋治済は敵 ( 田沼 ) の味方のはすだった。その男がなにゆえ 音頭をとって自分を老中にしようとしているのか、理解しかねるところがあった。 しかし、とにかく治済は自分を老中にしよ、つと運動している。 老中になればにつくき田沼の息の根を止めることができる。田沼の息のかかって いる連中も将軍の周りから追っ払うことができる。 定信が田安家をでて白河松平家に入ったのは、養子話がもちあがった翌年、安永 四年 ( 一七七五 ) のことである。以後幕府は田安宗武の室宝連院をあわれんで田安 家を空邸にしなかった。宝連院は天明七年一月まで生きた。田安家は主がいないま まという状態がつついていた。 いまや一橋治済と手を握る時期にきていると定信は判断した。定信は老中に任命 けいのじようなりまさ 田してもらう代償として、治済の五男慶之丞 ( 斉匡 ) を田安家に迎え入れることに 石同意した ( 以後幕末まで一橋、田安両家とも一橋治済の血を継承する ) 。このことが
( 公表されたのは昭和三年 ) 、同書でこういっている。 「もとこの事 ( 定信が養子となって田安家をでること ) は、田邸 ( 田安家 ) にても 望み給はすありけれども、そのときの執政ら、おしす、めてかくはなりぬ」 そのときの執政らとは、老中 ( 閣僚 ) の田沼意次らのことである。田安家が ( む ろん定信も ) 望んでいないのに、田沼意次らがおしすすめるから、自分はいやいや 養子にだされてしまった : : と。なぜ田沼らはそうしたか、定信はつづける。 「さりがたきわけありしこと、この事は書きしるしがたし」 奧歯にものがはさまったように、あとを濁している。 そこで、『宇下人言』が公表されて以来、いくらか興味を抱く人は、さりがたき 抑わけとはいったいどんなわけなのかを、あれこれ推測することになった。 歩 進 いえはる み五年後の安永八年 ( 一七七九 ) 一一月、十代将軍家治 ( 吉宗の孫、定信にはいとこ いえもと 驢にあたる ) の世子家基は、十八歳の若さで急死した。家治にははかに子がいなかっ いえなり た。やがて御三卿の一つ、一橋家の豊千代が家治の養子になり、その後家斉と名乗 田りをかえて十一代将軍となった。 むねただ 田安家は吉宗の一一男 ( 宗武 ) のおこした家である。一橋家は吉宗の四男宗尹のお
人たちは慮測した。 松平定信もそう憶測した一人だ。 田沼はます自分 ( 定信 ) を田安家から追い出した。次に一橋治済と画策して、豊 千代を将軍世子に据えた。もし自分が田安家に残っていれば、順序からいって自分 が将軍世子にならなければならない。 将軍家治は天明六年 ( 一七八六 ) に死んだ。かりに家治が世子をおかすに死んで、 弟の清水重好が将軍になったとしても、清水重好は寛政七年 ( 一七九五 ) に子をも うけすに死んでいるから、そのあと将軍になれたはす : ときに定信三十八歳。ややとうが立っている。しかし、綱吉が運よく五代将軍に 圧 なれたのは三十五歳の時。吉宗がやはり運よく八代将軍になれたのも三十一一一歳の時 進だ。さしてかわりはない。もし田安家に残っていれば将軍になれたはす : : : という み未練が、松平定信に、 「さりがたきわけありしこと、この事は書きしるしがたし」 と書きつけさせ、 田「そのときの執政ら、おしす、めてかくはなりぬ」 と、田沼ら、というより田沼に怒りをぶつけさせた。
はるさだ こした家だ。豊千代は一橋宗尹の三男 ( 治済 ) の長子、吉宗のひ孫にあたる。定信 にとってはいとこ ( 治済 ) の子ということになる。 もし定信が田安家に残っていたなら、定信は吉宗の一一男の子。一橋豊千代は四男 の孫。将軍継承順位からいうと、定信が上位に位置する。白羽の矢は定信に立たな ければならない。 それが、白河松平家に養子にだされたため、将軍になりそこねた。なりそこねる ように、田沼意次らというより、田沼意次が定信を養子にだし、将軍になる芽を摘 んだ。一橋豊千代を次期将軍に据え、その功によりひきつづき権力を保持するため さりがたきわけというのは、大体そんなところだろうと人々は推測した。定信も そう推測されることを期待していたようである。 しかし、どうやらこの推測は間違っていたようだ。 よしのぶ 家斉 ( 豊千代 ) は一橋家からでて十一代将軍となった。慶喜もおなじく一橋家か らでて最後の、十五代将軍となった。それゆえ、御三卿は将軍の予備、スペアをプ ールしておくところであるとみられがちだった。 当初はそうだった。しかしやがて、将軍の親族 ( 御三卿の子弟 ) が諸大名家に養
子の家基にも、清水重好 ( 子はいなかった ) にも、子ができる可能性はある。その 時点で定信が将軍になれる目は、まったくといっていいほどなかった。 九月に兄の田安治察が死んだ。治察が死んだ時点でも、定信が将軍になれる目は なかった。 定信は白河松平家へ養子にだされることを喜びこそすれ、怨む筋合いはさらさら なかった。 安永八年一一月、おもいがけなく将軍世子家基が急死した。将軍候補者は、清水重 好 ( 三十五歳 ) 、一橋治済 ( 二十九歳 ) の二人に減った。有力候補者は将軍の弟で、 御三卿の一つ、清水家をおこした清水重好である。 彼らをさしおいて二年後の天明元年 ( 一七八一 ) 閏五月十八日、治済の長子豊 千代 ( 九歳 ) が将軍世子として披露された。 このことで、疑問に田 5 われることが二つある。 家治は四十五歳。若くもないが、子ができる可能性は十分にある。子ができたら どうするつもりだったのかという疑問 ひでつぐ 晩年の豊臣秀吉に子 ( 秀頼 ) が生まれ、養子関白秀次との間がぎくしやくし、秀 次は自暴自棄におちいって、あげく自害に追い込まれた。現代でも一族経営の会社 うるう
子にでる控え所のようなところになった。 御三卿から養子にだされたのは定信や定信の兄 ( 定国 ) だけではない。おなじ世 代でいうと、一橋治済の長兄も次兄も、弟も養子にだされている。 定信が養子に入った白河松平家 ( 一一万石 ) は、兄が養子に入った松山松平家 ひさまっ ( 一五万石 ) とおなしく、家康の異母弟を祖とする久松松平家で、将軍家から一門 扱いをうけている名家である。家格に見劣りはしない。 定信は名門白河松平家に、ごく当然のように養子にだされたにすぎない。 定信が養子にだされることがきまった、安永三年三月の将軍候補者を継承順位順 に列挙してみよう。 徳川家基 ( 将軍家治の世子、当時十三歳、以下、年齢はおなじく当時 ) しげよし 歩 清水重好 ( 家治の弟、御三卿の一つ、清水家をおこす、三十歳 ) 進 み田安治察 ( 家治のいとこ、九月に死亡、二十二歳 ) 平松平定信 ( 十七歳 ) 一橋治済 ( 家治のいとこ、二十四歳 ) 田ちなみに豊千代はわすか一一歳だった。 将軍家治はまだ三十八歳という若さである。子ができる可能性は大いにある。世