田沼意次 - みる会図書館


検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

105 田沼・松平にみる進歩と抑圧 参考史料・文献 横山則孝『家斉の将軍就任と一橋治済』『松平定信政見所見』 / 竹内誠『寛 政改革』『寛政改革の前提』 / 北原章男『御三卿の成立事情』 / 山田忠雄 『田沼意次の失脚と天明末年の政治状況』『田沼意次の政権独占をめぐっ て』 / 辻善之助『田沼時代』 / 土肥鑑高・宮沢嘉夫『田沼時代の経済政策』 / 中井信彦『転換期幕藩制の研究』 / 北島正元『日本歴史講座・田沼時代』 / 古島敏雄『幕府財政収入の動向と農民収奪の画期』 / 菊地謙二郎『松平定 信入閣事情』

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

けられる。 田沼時代 ( 宝暦十年ー天明六年 ) は側近が政治をとりしきった時代だ。このこと に御三家をはじめ、門閥や譜代大名は不満を抱いていた。 〃時こそいたれり〃 八月一一十七日、田沼は老中を辞した。これはたんなる辞任で、懲罰的な意味合い 将軍の死が公式に発表されてからおよそ五〇日後の十月一一十 = 一日、御 = 一家は登城 して、幕閣に意見書を提出した。意見書に御一一一家は田沼の処罰を盛り込んだ。 一橋治済は家治の死により、十一代将軍家斉の実父となった。将軍の実父として、 圧 抑将軍にかわらぬ実権を握れる日も近くな「た。しかし老中を辞めたとはいえ、田沼 進 意次が健在でいるかぎり、実権を握れるかどうか危ない。 み将軍の周りを固めているのは、田沼意次の息のかかった側近ばかりだ。田召ま則 近を背後から操るだろう。老中の座に返り咲く可能性だ「てある。側近政治はつづ かいらい く。将軍家斉は、家治とおなしように田沼の傀儡となる恐れがある ( 一般に家治は 田 田沼の傀儡と思われていた ) 。 将軍の実父とはいえ、治済の身分は一橋家の当主、倅 ( 将軍 ) の臣下である。

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

えぞ 風の頽廃、経済政策や貨幣政策、それに開国についての姿勢、貿易政策、蝦夷地 ( 北海道 ) の開発計画などを書きならべたものだ。「意次の専権」「田沼の没落」と いった、田沼自身に関する章も並列的におさめられている。 わいろ 「意次の専権」の章では、田沼が賄賂をかき集めたといったたぐいの話が書きなら べてある。多分にこのことが影響して、田沼時代は賄賂の横行した時代で、田沼は 賄賂をとることに血道をあげていた、薄汚い政治家というように以後語りつがれる ことになった。 田沼時代にかぎらない。賄賂は、江戸時代のいつの時代にも横行した。 幕府は「川々普請」といった治水工事や日光東照宮の修復工事などをのべっ諸藩 に割り当てた。あるいは費用を諸藩に負担させた。 それでなくとも諸藩は、江戸での滞在費や参勤交代の旅費など、巨額の出費に悩 まされていた。幕府からよけいな工事等をおしつけられるのは、できるだけ避けな ければならない それで、一万両かかるはすのところが一〇〇〇両の賄賂ですんだとするなら、九 も、つ 〇〇〇両も儲かることになる。外交官ともいうべき留守居にとっては、腕の見せど えらがた ころだ。手をまわす相手は幕閣のお偉方である老中や、官房秘書官団とでもいうべ たいはい

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

大名が困窮した際の将軍からのお救い ( 援助 ) は大幅に縮小されてしまった。お救 しよしきだか いっき いの問題と「米価安諸色高」、都市の打ち壊しゃ百姓一揆の問題は解決されないま ま、田沼時代に持ち越されていった。 おきつぐ 「田沼・松平にみる進歩と抑圧」は、松平定信の根拠のない執念深い田沼意次への 、つら である。永年 怨みが、昇進の絶項期にあった田沼を追い落としたというストーリー の夢である老中に定信が就任することにより、前政権の政策を徹底的に否定してい かったっ く過程が闊達な筆さばきで描かれている。一九六〇年代、研究史上「宝暦ー天明 いくつかの名論文が発表された。佐藤氏はそれらをほとん 期」が活発に討議され、 とのも ど読みこなしたうえで、この作品のみか、さらに続いて『主殿の税ーーー田沼意次の 経済改革』を世に送った。それを読むと、宝暦ー天明期の立役者たちがあたかも歌 舞伎を演じているがごとく臨場感にあふれ、その科白はまさに彼らの人間性を彷彿 とさせる。 説 ぐじようはちまん ありげ 宝暦八年 ( 一七五八 ) の郡上八幡一揆で有毛検見法による年貢収奪は農民側の強 解 い抵抗により否定され、年貢増徴派の官僚たちが軒並み罷免された。宝暦八年とい う年は既に年貢収入のピークは過ぎていた。紀州出身で吉宗の家来であった田沼意 せりふ ほうふつ

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

銀貨の金貨化ーーという手品のような〃錬金〃は成功した。 通貨に関していうなら、川井久敬は荻原重秀に次ぐ、異能の官僚だった。 田沼意次の経済政策ーーというと、必す、五匁銀、真鍮四文銭、明和南鐐一一朱銀 の発行と関連して、貨幣政策が取り上げられる。実際のところ、田沼はどの程度通 貨問題にかかわりあっていたのだろうか。 明和南鐐一一朱銀の実質銀含有量 ( 同価値の丁銀・豆板銀にたいする ) は二十数パ セント不足していた。その二十数パーセントの益金 ( 出目 ) をとるところに狙いが あった。筆者は最初、単純にそう考えていた。田沼意次が一般にもたれているイメ ージどおりの男とするなら、いかにも田沼のやりそうなことだからである。 事実はそうでなかった。明和南鐐一一朱銀を鋳造するにもコストはかかる。少なく とも幕府は、明和南鐐一一朱銀を鋳造することにより益金は得ていなかったようだ。 狙いはあくまでも、使いやすい小額貨幣の普及と、そのための銀貨の金貨化 あった、ようである。 もし益金を得ることに狙いがあったとするなら、味をしめた中毒患者のように、 次々と貨幣の品位を落していくはすだ。 ききん 天明三年 ( 一七八一一 l) 、浅間山の大噴火、卯年 ( 天明三年 ) の飢饉と天災があい

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

き奧祐筆などだ。賄賂が横行しないはうがおかしい。 それらとは別に、幕臣や譜代大名が、役にありつくため、あるいはよりいい伐に 昇進するため、上役などにおくる賄賂というのもあった。額はともかくケースとし ては、こちらのはうが格段に多かった。官位昇進をねだっての賄賂などというのも けっこ、つあった。 老中をはしめとする高級官僚に誰もがなりたがったのは、一つはそのような賄賂 を期待してのことであった。 田沼意次が賄賂をとっていたことを否定はしない。しかし田沼だけが賄賂をむさ ばっていたのでもない。それなのに、賄賂というと、いつも田沼の名と結びつけら れ、田沼が代表して語りつがれている。繰り返すが、辻善之助氏の『田沼時代』の 進影響によるところが大きい。 み田沼にたいする毀誉は相半はしており、一方で田沼は経済に明るく、貿易に積極 的で開国志向をもつ、蝦夷地の開発にも積極的だった政治家という評価がなされて いる。だから田沼を見直すべきである、もっと評価し直すべきであるという、そん 田な声のはうが今では強くなっている。 これまた多分に、辻善之助氏の『田沼時代』の影響による。 おくゆうひっ

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

七月一一十四日、田沼は失意のうちに死亡した。 ふしん 定信はさらに追い討ちをかけた。九月、「川々普請御用途」 ( 治水工事費 ) という 名目で、孫の田沼意明から六万両を召し上げた。 田沼にとっては、えらい男に見込まれたということだが、定信は胸のすくような 結末をつけることができた。 真っニつにわかれる田沼への評価 田沼意次がどういう政治家だったか、ある ) ま ) 、 し ( し力なる政冶を一何ったかとい、つこ とどろ 抑とについては、名が轟きわたっているわりにははっきりしない。 歩 進 田沼と具体的な政治一つ一つが結びつかないのは、田沼自身が考えやものの見方 み ( 意見書のたぐいといったものでもいい ) をまったく残していないことによる。にも こ、つぼ、つ かかわらす、イメージだけは強第。 」三光芒を放っている。 大正時代の初期に、辻善之助氏によって書かれた、名著とされている『田沼時 田代』という本がある。昭和五十五年 ( 一九八〇 ) に岩波文庫に収録され、誰もが簡 単に目を通せるようになっている。タイトルどおり " 田沼時代。の役人の不正や士

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

『宇下人言』を書き上げた文化十三年 ( 一八一六 ) という年も、まだ怒りをふつふ っとたぎらせていたということで、さかのばればさかのばるはど怒りは激しかった ろう 定信は一橋家の兄弟や兄の定国とおなじように、養子にだされたにすぎなかった。 そこには田沼の悪意も、善意もない。もともと定信のことなど田沼の眼中にない。 身におばえのない、眼中にない定信の、あらぬ怨みを田沼はかっていた。 定信が養子にでた ( あるいはだされた ) ことをきっかけに、一一人はそういう不幸 な関係に入っていた。 一橋治済、御三家が定信を支援 田沼意次はとても対人関係を大切にした。心をくばった。目上にも、同僚にも、 い、つまで、もか ( ノ \ 将軍に、も : 下僚にも、 田沼は九代将軍家重と十代将軍家治に仕えた。家重は病が重くなった時、家治を 呼んでこういった。 ゆくゆく とのも 「主殿 ( 田沼 ) はまたうとのもの ( 全き人、完全な人 ) なり。行々こころを添えて 0 バックアップ 0

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

( 公表されたのは昭和三年 ) 、同書でこういっている。 「もとこの事 ( 定信が養子となって田安家をでること ) は、田邸 ( 田安家 ) にても 望み給はすありけれども、そのときの執政ら、おしす、めてかくはなりぬ」 そのときの執政らとは、老中 ( 閣僚 ) の田沼意次らのことである。田安家が ( む ろん定信も ) 望んでいないのに、田沼意次らがおしすすめるから、自分はいやいや 養子にだされてしまった : : と。なぜ田沼らはそうしたか、定信はつづける。 「さりがたきわけありしこと、この事は書きしるしがたし」 奧歯にものがはさまったように、あとを濁している。 そこで、『宇下人言』が公表されて以来、いくらか興味を抱く人は、さりがたき 抑わけとはいったいどんなわけなのかを、あれこれ推測することになった。 歩 進 いえはる み五年後の安永八年 ( 一七七九 ) 一一月、十代将軍家治 ( 吉宗の孫、定信にはいとこ いえもと 驢にあたる ) の世子家基は、十八歳の若さで急死した。家治にははかに子がいなかっ いえなり た。やがて御三卿の一つ、一橋家の豊千代が家治の養子になり、その後家斉と名乗 田りをかえて十一代将軍となった。 むねただ 田安家は吉宗の一一男 ( 宗武 ) のおこした家である。一橋家は吉宗の四男宗尹のお

10. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

家治は自分の意志で豊千代を世子にした これがどうやら真相である。にもかかわらす、どういうわけか見すごされ、あた かも田沼の策略により、豊千代は将軍世子に据えられた、とこれまで思われてきた。 ただあきら 天保の初期、田沼の同僚 ( 老中水野忠友 ) の養子 ( 老中水野忠成 ) を顕彰するた こ、つとくべん めに書かれた『公徳弁』にこんなことが書かれている。 「将軍家 ( 家斉Ⅱ豊千代 ) には主殿頭 ( 田沼 ) 骨折にて ( 家治の ) 御養君にならせ めでたきみよ られ、当時 ( 今 ) 目出度御代にてあらせられければ、田沼家への御恩なしといふま 田沼の同僚らも、主殿頭 ( 田沼 ) の骨折りで豊千代は家治の養子になった、とひ そひそ語り合っていた。 根拠にされたのは、田沼家と一橋家との親密な関係である。 おきのぶ 田沼の弟、田沼意誠は安永一一年 ( 一七七一一 l) 十二月に死亡するまで一橋家の家老 おきむね を務めていた。意誠の長子意致 ( 田沼の甥 ) は安永七年よりおなじく一橋家の家老 を務めていた。妻の父 ( 伊丹直賢 ) も一橋家の家老を務めていた。そんな関係から 一橋治済と田沼意次は親しく、一一人が画策して豊千代を将軍世子にした、と当時の 0