田沼時代 - みる会図書館


検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

辻善之助氏の『田沼時代』は、アトランダムにいわゆる田沼時代の経済政策や貨 幣政策、貿易政策や蝦夷地の開発計画などを列挙している。そしてそれらに十分な 検討が加えられす、これも田沼のやったことではなかろうか、あれも田沼のやった ことではなかろうかと、『田沼時代』を読んだ人たちが強引に田沼に結びつけた結 うんぬん 果、「田沼は経済に明るく : ・ : 」云々の評価ができあがった。 慕府の行政組織は、一人に権力が集中しないよう、注意深くつくりあげられてい た。定員四、五人の老中は、月番といって、まわりもちで実務をとった。それが、 かってがかり 八代将軍吉宗の時代に勝手掛老中 ( おもに老中首座が兼任 ) という役が復活して、 ′」くよ、つ 財政 ( 「国用のこと」といった ) を専管するようになって、やがて勝手掛老中に権力 が集中するようになり、勝手掛老中はあたかも現代の総理大臣に匹敵するかのよう な権限をもつようになった。 いわゆる田沼時代の宝暦十一一年 ( 一七六一 l) から安永八年 ( 一七七九 ) までの一 たけちか 七年間は、松平武元がその勝手掛老中の座にあった。松平武元が在職中に逝ったあ てるたか と、後任には松平輝高が就いた。松平輝高も一一年弱でやはり在職中に逝くと、あと がまには田沼の後輩の、田沼とほばおなしコースを昇進していった水野忠友が、老 中格と一格下なのに、勝手掛をかねた。

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

えぞ 風の頽廃、経済政策や貨幣政策、それに開国についての姿勢、貿易政策、蝦夷地 ( 北海道 ) の開発計画などを書きならべたものだ。「意次の専権」「田沼の没落」と いった、田沼自身に関する章も並列的におさめられている。 わいろ 「意次の専権」の章では、田沼が賄賂をかき集めたといったたぐいの話が書きなら べてある。多分にこのことが影響して、田沼時代は賄賂の横行した時代で、田沼は 賄賂をとることに血道をあげていた、薄汚い政治家というように以後語りつがれる ことになった。 田沼時代にかぎらない。賄賂は、江戸時代のいつの時代にも横行した。 幕府は「川々普請」といった治水工事や日光東照宮の修復工事などをのべっ諸藩 に割り当てた。あるいは費用を諸藩に負担させた。 それでなくとも諸藩は、江戸での滞在費や参勤交代の旅費など、巨額の出費に悩 まされていた。幕府からよけいな工事等をおしつけられるのは、できるだけ避けな ければならない それで、一万両かかるはすのところが一〇〇〇両の賄賂ですんだとするなら、九 も、つ 〇〇〇両も儲かることになる。外交官ともいうべき留守居にとっては、腕の見せど えらがた ころだ。手をまわす相手は幕閣のお偉方である老中や、官房秘書官団とでもいうべ たいはい

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

105 田沼・松平にみる進歩と抑圧 参考史料・文献 横山則孝『家斉の将軍就任と一橋治済』『松平定信政見所見』 / 竹内誠『寛 政改革』『寛政改革の前提』 / 北原章男『御三卿の成立事情』 / 山田忠雄 『田沼意次の失脚と天明末年の政治状況』『田沼意次の政権独占をめぐっ て』 / 辻善之助『田沼時代』 / 土肥鑑高・宮沢嘉夫『田沼時代の経済政策』 / 中井信彦『転換期幕藩制の研究』 / 北島正元『日本歴史講座・田沼時代』 / 古島敏雄『幕府財政収入の動向と農民収奪の画期』 / 菊地謙二郎『松平定 信入閣事情』

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

き奧祐筆などだ。賄賂が横行しないはうがおかしい。 それらとは別に、幕臣や譜代大名が、役にありつくため、あるいはよりいい伐に 昇進するため、上役などにおくる賄賂というのもあった。額はともかくケースとし ては、こちらのはうが格段に多かった。官位昇進をねだっての賄賂などというのも けっこ、つあった。 老中をはしめとする高級官僚に誰もがなりたがったのは、一つはそのような賄賂 を期待してのことであった。 田沼意次が賄賂をとっていたことを否定はしない。しかし田沼だけが賄賂をむさ ばっていたのでもない。それなのに、賄賂というと、いつも田沼の名と結びつけら れ、田沼が代表して語りつがれている。繰り返すが、辻善之助氏の『田沼時代』の 進影響によるところが大きい。 み田沼にたいする毀誉は相半はしており、一方で田沼は経済に明るく、貿易に積極 的で開国志向をもつ、蝦夷地の開発にも積極的だった政治家という評価がなされて いる。だから田沼を見直すべきである、もっと評価し直すべきであるという、そん 田な声のはうが今では強くなっている。 これまた多分に、辻善之助氏の『田沼時代』の影響による。 おくゆうひっ

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

七月一一十四日、田沼は失意のうちに死亡した。 ふしん 定信はさらに追い討ちをかけた。九月、「川々普請御用途」 ( 治水工事費 ) という 名目で、孫の田沼意明から六万両を召し上げた。 田沼にとっては、えらい男に見込まれたということだが、定信は胸のすくような 結末をつけることができた。 真っニつにわかれる田沼への評価 田沼意次がどういう政治家だったか、ある ) ま ) 、 し ( し力なる政冶を一何ったかとい、つこ とどろ 抑とについては、名が轟きわたっているわりにははっきりしない。 歩 進 田沼と具体的な政治一つ一つが結びつかないのは、田沼自身が考えやものの見方 み ( 意見書のたぐいといったものでもいい ) をまったく残していないことによる。にも こ、つぼ、つ かかわらす、イメージだけは強第。 」三光芒を放っている。 大正時代の初期に、辻善之助氏によって書かれた、名著とされている『田沼時 田代』という本がある。昭和五十五年 ( 一九八〇 ) に岩波文庫に収録され、誰もが簡 単に目を通せるようになっている。タイトルどおり " 田沼時代。の役人の不正や士

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

ま、えがき・ 幕府の実務派官僚集団 大金持ちだった徳川家が貧乏になって / 幕府最初の官僚は通貨間題の " 権威〃 / 享保改革時代、官僚は活躍したが / 田沼時代の財政は倹約が 中心だった / 十一代将軍家斉が倹約生活にあきて / 幕末、外交畑に優 秀な人材が輩出したが 田沼・松平にみる進歩と抑圧 田沼は定信のあらぬ怨みをかっていた / 一橋治済、御三家が定信を支 援 / 真っ二つにわかれる田沼への評価 / 浅間山の大噴火、卯歳の飢饉 と重なって / 諸人を震撼させた田沼の″日本惣戸税み / 世直し大明神と もちあげられたが 目次

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

とにかくはっきりしているのは、「日本惣戸税法案」が世論の総反発をひきおこ し、反田沼感情に油をそそぎ、田沼追い落としに力を貸したとい、つことである。 世直し大明神ともちあげられたが 松平定信は田沼追い落としに全精力を傾け、追い落としに成功した。政治でも、 〃田沼時代〃の政治を否定し、新しい、定信色の強い政治を行おうとした。寛政改 革といわれている政治である。 『宇下人言』によると、定信は加判の列上座に任せられるとすぐ、 いくつか政治ス あっぜっ 抑ローガンを書きつけ、同列 ( 同僚 ) に見せて同意を得た。その一つに「賄賂遏絶 歩 ( 根絶 ) の事」というのがあった。 み田沼時代は確かに、賄賂に無神経な時代だった。構造的に賄賂が横行するように なっていたにせよ、賄賂は賄賂である。あたりをはばからす公然とやりとりされれ まゆ ば、たいていの人は ( 縁のない人は特に ) 眉をひそめる。 田松平定信は賄賂の根絶を強く打ち出した。世論は定信を支持した。定信を世直し 大明神ともちあげた。

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

りをすぎている。そんな時にも、田沼は経済政策の中心にすわっていなかった。 田沼が経済政策の中心にすわるのは、天明元年に勝手掛老中の松平輝高が死んで からだ。いわゆる田沼時代といわれている、宝暦、明和、安永、天明の、およそ一一 十数年間の経済政策などを検討してみると、田沼が中心になって企画、立案にかか わり、実行したと思われるもののほとんどは、天明元年 ( 一七八一 ) から失脚する およそ六年の間に集中している。 例えば明和年間の貨幣政策ーー。田沼はこれに手を下していない。第一章の「幕 府の実務派官僚集団」で眺めたとおりだ。 みようがきん 田沼時代には同業者の組織である〃株仲間〃が数多くつくられ、冥加金という名 目の、ものによっては独占権確保を目的とする雑税をおさめた。 これなども、冥加金を一種の間接税とみなし、直接税 ( 貢租 ) の徴収に限界を感 した田沼政権は、新たに財源を確保するため、間接税収入を大幅に増やそうとした といってみたいところだ。 残念ながら子細に検討してみると、田沼が両替屋にかけたわすか一例をのぞき、 額はそれほどのものでもないし、課税率や許認可に一定の原則がなく、いきあたり ねんぐ ばったりで、年貢のような、確実な財源にしようと努力したふしはみられない

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

けられる。 田沼時代 ( 宝暦十年ー天明六年 ) は側近が政治をとりしきった時代だ。このこと に御三家をはじめ、門閥や譜代大名は不満を抱いていた。 〃時こそいたれり〃 八月一一十七日、田沼は老中を辞した。これはたんなる辞任で、懲罰的な意味合い 将軍の死が公式に発表されてからおよそ五〇日後の十月一一十 = 一日、御 = 一家は登城 して、幕閣に意見書を提出した。意見書に御一一一家は田沼の処罰を盛り込んだ。 一橋治済は家治の死により、十一代将軍家斉の実父となった。将軍の実父として、 圧 抑将軍にかわらぬ実権を握れる日も近くな「た。しかし老中を辞めたとはいえ、田沼 進 意次が健在でいるかぎり、実権を握れるかどうか危ない。 み将軍の周りを固めているのは、田沼意次の息のかかった側近ばかりだ。田召ま則 近を背後から操るだろう。老中の座に返り咲く可能性だ「てある。側近政治はつづ かいらい く。将軍家斉は、家治とおなしように田沼の傀儡となる恐れがある ( 一般に家治は 田 田沼の傀儡と思われていた ) 。 将軍の実父とはいえ、治済の身分は一橋家の当主、倅 ( 将軍 ) の臣下である。

10. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

それはど定信の〃倹約みは世にとどろいていた 越中褌のいわれはどうでもいし ということで、定信は田沼時代の政治を一新し、寛政改革といわれる政治を行った。 田沼時代の政治と定信の寛政改革は対極におかれている。 しかし田沼時代も寛政改革時代も、幕府財政のよって立っ経済のバックグラウン ドにかわりはない。寛政改革も、基本的には宝暦時代、田沼時代と踏襲してきた 〃倹約財政みを継承しているにすぎない。だからこの時代も、やはり知恵を絞る官 僚は生まれていない 定信はおよそ六年で慕閣をしりぞいた。定信の退任後一一十数年は、寛政の遺老と いわれた定信の政治上の仲間がとりしきり、財政的にはひきつづき緊縮財政、倹約 団 をつづけた。したがってひきつづきこの時期も、知恵を絞る官僚は生まれていない 集 官文化十四年 ( 一八一七 ) を最後に、寛政の遺老は全員しりぞいた。 ごさんきよう 霈十一代将軍家斉は、御三卿の一橋家から入った養子だという遠慮があり、また のお坊ちゃん育ちのおっとりした性格だったこともあり、寛政の遺老が全員しりぞく 幕まで、定信や寛政の遺老になにかと遠慮した。 家斉は子どもの頃、金魚が好きで、「金魚鉢の大きいのを」と望んだ。耳にした る。