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検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

小栗は閏八月一一十五日に町奉行になり、十二月一日に勘定奉行兼歩兵奉行に転じ る。したがって家計簿ー こ入金されているのは、閏八月の半月分から十一月末の一月 分まで。 おたしだか 町奉行の役高は三〇〇〇石で、御足高の制により、家禄が三〇〇〇石に満たない 者は、満たない分、足高が支給される。八代将軍吉宗が設けた制度だ。むろん小栗 が受け取っていた地代は御足高だ。小栗は御足高を蔵米ではなく〃地代みで受け取 っていた。 町奉行所に入る地代は寛政五年の改正により御金蔵に納められていたが、この時 代になると町奉行の御足高、つまり給与の一部に直接充当されていたということの ようで、司法警察関係のけじめのなさは、ここらあたりにもなんとなくうかがえる。 大家さんと腰掛茶屋 戸江戸時代は〃訴訟社会みといっていいはど訴訟の多い社会だった。凶悪犯なりが、 おしらす 御奉行のお裁きにひれ伏すなどというシーンはむしろ少なく、御白洲で行われてい かねくじ たのは、民事の、それも金公事といって、金銭賃借に関する裁判がほとんどだった。

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

いえもりづえ そこでまた奇妙な現象が生じた。家主の心得をまとめた「家守杖」 ( 『未刊随筆巻 にこ、つ↓める。 ごくひん まかりいで 「極貧の者 ( に付き添って町奉行所などに ) 罷出候節は、手弁当の心得にて諸事入 用をかけす候よう、心づけやるべく候」 逆に読むと、訴訟関係者や引合の者に同行したとき、彼らはなにかと入用をかけ たということである。 くじがた たつのくちひょうじようしょ 司法関係の役所は辰之ロの評定所、南北の両町奉行所、両公事方勘定奉行所、 四寺社奉行所で、門前に腰掛けがおかれていて、腰掛茶屋という茶屋がもうけられ ていた。 腰掛茶屋はもぐりの営業ではない。官許の株営業である。そして訴訟関係者に湯 茶、敷物、草履、筆、紙などを売ったり貸したりした。 おさしがみ よびだし かわりに腰掛廻りの掃除草取り、門前での関係者の呼出の協力、「御差紙」とい った関孫者への召喚通知の配布、さらには火災などの非常の節、駆けつけての御用 みようが 戸物持ち運びの手伝い等を冥加として行った。 江 召喚通知などは、本来、町奉行所等役所の者が行うべき仕事だが、役所は経費を 少しでも安くあげるため、腰掛茶屋の者にそのような雑用を任せていた。

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

呉服橋に北町奉行所が、数寄屋橋に南町奉行所がおかれていたが、犯罪捜査にか かわるほとんどすべては、八丁堀周辺の、警視庁ともいうべき大番屋と、その分署 ともいうべき八カ所の自身番屋で行われていたということだ。容疑者などを南北の 町奉行所に送るときは、あらかた調べもついていて、御奉行は判決を申し渡すだけ という段取りになっていたのである。 「風聞書」にはそのはか、調番屋の最寄りに、岡っ引きたちが集まる七カ所の〃引 合茶屋〃という茶屋がもうけられていたとある。さらに、やはり岡っ引きが集まる よりあい 〃寄合茶屋みという茶屋も五カ所にもうけられていたとある。 前節の「つると泥棒」で、岡っ引きはおもな稼ぎを、泥棒を捕まえ、誰彼に引合 をつけ、金をださせて抜かせることによって得ていたと述べた。引合茶屋の引合は まさにその引合の謂で、ー リ合茶屋は、引合をつけた岡っ引きたちと、引合をつけら れた者たちが、引合を抜く交渉をする取引所、いわばマーケットだった。寄合茶屋 知も似たりよったり。八丁堀はそんな、引合をつけたりつけられたりする者がうろっ 人 おどろおどろしい町でもあったのである。 江 ともあれ、慕府は犯罪捜査にまったくといっていいほど予算をさかなかった。そ 川こで自助努力を積み重ねるように犯罪捜査の仕組みはできあがっていったのだが、 ひき

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

いる。だから、どんなことがあっても、全員が、全精力を傾けて行わなければなら ないことであり、〃改革〃に反対する趣旨の発言や行動はもってのはかということ になる。町奉行の上申書に水野が烈火の如く怒ったのは、そういう根拠による。 このような場合、普通は本人を呼んで叱りつける。本人を叱りにくい時は、人を 介して叱りつける。水野はそうでなく、家慶に上申書を提出するという手段を取っ 家慶が異論を差し挟めはともかく、差し挟まなければ、水野は家慶の同意を取り 付けたことになる。つまり家慶の威光を背景に町奉行をどやしつけようとした。 その家慶への上申書でます水野はこういう。 「 ( 改革の目処がたたなければ ) 御趣意相立ち難く、命令行わざれは国家の御恥辱に 革て、容易ならざる義に御座候」 保ここでも水野は、〃命令は行われなけれはならないものなのだ〃と決め付ける。 そして、改革に積極的に打ち込んでいる役人は小普請奉行の川路だけで、他の役人 邦 とかくしきた いんじゅん は「兎角仕来りに因循仕り、十分に身を委す、改革の気色も更に御座なく云々」 と非難して、町奉行が担当の町政一般に筆を走らせ、「享保のことはしばらく置い て寛政の通りになれば」、と前置きしてこういう。

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

かかる。 はじかの 事件を担当したのは大目付の初鹿野美濃守信政、町奉行の遠山左衛門尉景元、御 さかきばらかずえのかみ 目付の楙原主計頭忠義だが、遠山がこんなことに積極的に関与するはすがない。 大目付は飾り物のような役職だ。処分を受けた矢部は榊原のことをひどく恨んでい たというから、目付の楙原と、天保改革となるとその人物を語らすに済ますことの よ、つぞ、つ できない、矢部の後任の町奉行、妖怪こと鳥居耀蔵と、それに水野の三人が、暴き にかかったことであろう。 ともあれ三人は仁杉五郎左衛門の〃不正〃を暴き、仁杉に「存命ならば死罪」と いう判決を下す ( 仁杉は吟味中に獄死していた ) 。 矢部はというと、この事件、〃不正〃とまったくかかわりがなしオオ : こご′不正 / 革が行われた当時勘定奉行で、若干の調査をしていた。その後西丸留守居という閑職 保に追われていた時もまた、若干の調査をした。 三田村鳶魚氏は、矢部はもともと人を追い落として役にありつこうとする、暗い 筑陰りのある男で、当時の町奉行を陥れ、自分が任に就くためにそれらのことをやっ たのだといっておられる。そういうことがあったかもしれないが、矢部のその、筋 違いの調査が問題にされる。そして、あとはそれに関連してどうでもいい名目がこ

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

132 げにそれなりに準備して取りかかった。水野は、問屋と仲間を解散させれば事足り るとはかりに、ろくろく調査らしい調査もせす、問屋、仲間に解散を命しる触書、 株仲間解散令を町奉行に手交した。暮れも押し詰まった十一一月十三日のことである。 遠山は、問屋や仲間を解散させるくらいで物価が下がれば世話はない、くらいに 思っている。触書の市中への触れ流しをサポタージュした。本来なら罷免ものであ さしひか る。家慶は遠山を人物と見ている。「御目通り差控え」という軽い処分で済んだ。 このように水野と町奉行との対立の一つ一つを見ていくと、登場するのは遠山ば かりで、相方の矢部は姿を見せない。矢部はどうだったのか 幕末の水戸の名物男藤田東湖はその頃、これはという人物を訪ねてはあれこれ議 ようかい 論を吹っ掛け、人物を試していた。政治好きの、何かと慕府の政治に容喙していた なりあき 藩主水戸斉昭の参考に資するためでもあったろうが、矢部との質疑応答も『見聞偶 筆』という著に書き遺している。それによると物価間題に関して、矢部はこういっ たそうだ。 「この事それがし職 ( 町奉行 ) にては日夜苦心する所なり。閣老並びに勘定奉行の 論は、罪を奸商に帰しその奸を摘せよとそれがしにしばしば督責すれども・ : 物価問題に関して水野は、遠山と矢部に、元凶である ( と思っている ) 問屋や仲

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

「人情軽薄之風俗を始め文華を去り、質朴に帰り、金銀融通も互いに信義を以て相 かなり 便じ候間、凶年・火災等の困厄相重り候とも、可也活計も相立ち候故 : : : 武家の みだり これ 面々も猥に商売に貪られ候義も之無く候」 町政一般について水野が描いていた姿は、ーー質朴に帰れば、金銀も互いに信義 を持って融通するようになるから、飢饉や火災等の災厄が重なってもなんの心配も いらない、武家も商人にむさばられることがないーー社会の現出のようである。 ク金銀は互いに信義を持って融通するようになるみ社会ーーと水野はいう。 いどんな社会なのだろう ? 観念的というより、むしろ発想は病的といっていし 水野は続けて、「然る所」と転して、町奉行の意見を述べる。 しゃびのたぐいことごと 「奢靡之類悉く相禁し、質素之風俗第一に相成り候へば、市中衰微いたし、 いしゅう : 御城下はいかに繁華に致し 諸国蝟集之大都会には、不都合の光景にも相成り、 置き申さす候而は、相成らす義に之有り候間、其の手心に差略し世話仕る可き見込 の旨町奉行共申し聞け候」 御城下は繁華であるべきで、それを基本に町政を行うべきだと町奉行どもは申し ておりますがといって、 かえ このたび 「此度の機会にて、挽回一洗仕り候へば、却って世上にも面目を改め候間、又、三、

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

154 面でだった。 いえもち 将軍家茂は予定に若干遅れて文久三年 ( 一八六三 ) の二月二十一日に陸路京をめ ざして江戸を発った。 じよ、つい ところが飛んで火に入る夏の虫だった。京に入ると攘夷派にとり込まれてしまっ た。無理難題を吹っかけられ、なおかっ天皇からは帰東をゆるされす、進退きわま ってしまった。 そこで兵を京に送り、将軍を奪遠して天皇から条約の勅許を獲得し、ついでに京 の攘夷派に鉄槌を下そうとする動きが江戸でおこった。歩兵奉行もかねていた小栗 は水野とともにその主謀者となり、主謀者となることによって頭角を現していった。 だがしかし、幕末のこの「承久の故事」は失敗する。小栗は勘定奉行の座をおわ れ、その後どさくさにまぎれ就いていた陸軍奉行並の座も追われる。 栗本瀬兵衛とレオン・ロッシュ 小栗は元治元年 ( 一八六四 ) の八月十三日にまた勝手方勘定奉行に復職した。 ( 先の勝手方勘定奉行就任時に一時、町奉行に転していたから正確にはこれが三度目の てつつい

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

242 である。 も「とも宿という宿がすべてそうだ「たのではない。公事訴訟関係のことが苦手 な者もいる。無能な者もいる。旅人宿と百姓宿はすべてでおよそ一 = 一〇軒だ「たが ( 案外少なか「たのである ) 、公事訴訟関係の手伝いを専門にしていた宿はそのうち のおよそ一「三割だった。 江戸の社会は公事訴訟の社会といっていし いま以上に人々は、ほとんどが金公 事とい「て金銭貸借にかかわるものだ「たが、公事訴訟に熱中していた。そんなな かにあ「て宿、ことに公事訴訟関係を専門に扱うおよそ一「三割の宿、別名公事宿 といった宿の果たした役割は大きく、ー卩 月にも何首もうたわれている。 そのうちから一一首を紹介しておこう。 けんか 馬喰町人の喧嘩で蔵を建て 国々の理屈を泊める馬喰町 笑いをさそう飛脚賃詐欺 町奉行所、勘定奉行所、寺社奉行所に侍機していて、在の者を相手の御差紙 ( 召

10. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

では農民出身の勘定奉行がいなかったかというと、そうでもない。 天明七年 ( 一七八七 ) に勘定奉行となり、寛政十年 ( 一七九八 ) 、町奉行に転じ やすもり みみぶくろ たのに、根岸鎮衛という男がいる。『耳袋』という著を残していることでも知られ ている。 根岸は実父が農民出身だった。 おかち 慕府の最下級武士層の一つに御徒がある。親子代々相続していく譜代とちがって、 おかかえ 一代かぎりの御抱席だから勤めをひくとそれまでとなっていた。ただし建前で、身 寄りがいれば、身寄りが新規御抱えとなった。 それで身寄りだが、いちいち詮索されない。だから金を払って「身寄り」になり すまし、新規御抱えの御徒となる者がでてくる。そうやって御徒になることを「御 あき 集徒の株 ( あるいは明 ) を買う」といった。 としあきら 官慕末の勘定奉行川路聖謨の父も、御徒の株を買って直参になったロだ。根岸鎮 衛自身も『耳袋』に、箱根湯本で鍼師をしていた男が、旅の途中の大坂の裕福な後 の家と知り合い、早い話ができて、後家に御徒の株を買ってもらい、やがて組頭から 幕譜代席に転じた話を、「計らざるの幸いにて身を立てし事」と題して記している。 さがみ 身分制度の厳しい社会だったが、直参になる抜け道はあったわけで、相模国津久