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検索対象: 歴史に学ぶ「執念」の財政改革
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1. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

公表されたのは六月十三日である。定信が加判の列 ( 老中 ) 上座に任命されたのは 六月十九日のことだ。 このように露骨なまでの取り引きの末、定信はようやく念願の老中になることが できた。 ちつきよきっとつつしみ 十月一一日、慕府 ( 定信 ) は田沼に、下屋敷にて蟄居・急度慎を命し、またまた 一一万七〇〇〇石を収公した。田沼は加増につぐ加増で、六〇〇石から五万七〇〇〇 石にまで増俸されていた。さきに一一万石、ふたたび一一万七〇〇〇石を収公され、一 万石にまで減石された。一万石は孫の意明が継承した。 さがら 田沼は遠州相良に城を築いていた。その城を幕府 ( 定信 ) は徹底的に破壊しつく してしまうという、まるで意味のないことまでやった。 田沼の〃残党みはまだ幕閣にいた。加判の列上座という肩書では、全員を追っ払 うことができない。定信は御三家などに願って将軍補佐という役につけてもらった。 四代将軍家綱が若かりしころ、家綱を助けるため保科正之 ( 三代将軍家光の異母弟 ) が任ぜられたことがあるだけという、重い役、将軍補佐に任ぜられた。 将軍補佐という役をつけてもらって、ようやく定信は田沼の残党を一掃した。天 明八年 ( 一七八八 ) の三月から四月にかけてだ。 ほしなまさゆき

2. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

210 んのことはない。「八万貫目の大敵」かもしれないが、「士卒への半知」や「庶民 への石別負担」を強いていれば借金などそこそこは返せたということのようで、し かも長州藩ではこれを過去も以後もすっと繰り返している。 『幕末の藩政の改革』 ( 田中彰著 ) によれば、天保十一年から十三年までが「二十 石懸り ( 半知 ) 」で、以後天保十四年の「十八石懸り」から始まり、毎年「一石」 すっ減っていって嘉永四年 ( 一八五一 ) に「三ッ成 ( 十石懸り ) 」ということだ。 ありてい 長州の〃改革〃は有体にいえば「士卒」や「庶民」への負担の強要だった。 金は藩のものか大名のものか 成功した重豪の改革 藩に入ってくる金が、藩のものか大名のものかという間題は、江戸時代も時がた つにつれ、好むと好まざるとにかかわらす商品・流通経済 ( 貨幣経済といってもい い ) に巻き込まれるようになると、大名であれ藩士であれ誰もが一度は考えたこと のある、時には深刻な間題で、しかもこのことは経済・財政の〃改革〃と密接にか かわりあっていた。そのことをます薩摩藩からみてみる。

3. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

うとした。つまり年貢収入を確かなものとしようとした。吉宗にとって、財政を安 みち 定させる途はそれしかなかった。 吉宗は将軍になった当座、何かと譜代の大名や旗本に気をつかった。気をつかわ ただゆきかってがかり すにすむようになった頃、享保七年 ( 一七一一一 l) 五月、老中水野忠之を勝手掛老 中、財政専管の老中に任した。勝手掛老中は堀田正俊の農政専管老中の系譜をひい ている。 ちなみに勝手掛老中は財政を専管するだけに発言力が大きく、水野忠之以降、大 体老中首座が勝手掛老中もかねて、総理のような権限をもつようになった。 つづいて吉宗は新田開発を奨励し、諸大名に上げ米を命し : : : と「享保改革」を すすめていく。そして享保八年に定めたのが「足高の制」である。 団 慕府はそれまで、役職にある者に、役料を支給してきた。足高の制というのは、 集 ばってき 官基本的には役料の支給だが、狙いは小禄の人材を抜擢することにあった。 旗本・御家人の数は、禄高が三〇〇〇石、五〇〇〇石、七〇〇〇石と高くなるほ のど少なくなる。逆に五〇〇石、三〇〇石、一一〇〇石と低くなるはど多くなる。ピラ 幕ミッド型の人的構成になっていて、当然のことながら人材は禄高に比例せず、人数 に比例して輩出した。つまり下級旗本・御家人に多くいた。

4. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

もしそれらを税として徴収するという目的で、田沼がリードしてやっていたとす るなら、田沼は経済オンチの、おそろしく雑な政治家だったとい、つことになる。 田沼は〃成り上がり〃である。 りん 父意行は紀州から吉宗に従ってきて直参になおった。手当ては廩 ( 蔵 ) 米三〇〇 俵である。草高 ( 年貢を徴収する前の高 ) に直すと三〇〇石、三〇〇石取りにあた る。中級と下級の間に位置しよう。やがて意行は六〇〇石の知行 ( 土地 ) 取りとな り、田沼は六〇〇石を相続した。そして加増につぐ加増で、五万七〇〇〇石の大名 にまでなった。 〃成り上がり者みにたいする目はいつの世もきびし い。だからこそ田沼は対人関係 圧 抑を大事にした。むをくばった。上にも、下にも。昇進を重ねていけはいくはど : 進松平定信のことにしても、もし定信が自分に怨みを抱いていることが分かれば、 み田沼のことだから、いろいろな手を使ってむをほぐしたことだろう。 田沼はひたすら対人関係に心をくだいた。安永の末年頃から天明初期の頃には、 けいばっ 慕閣の重要人物や門閥と華麗な閨閥をつくりあげていた。これだけ縁をつないでお 田けば、どんなことがあっても失脚はないだろう、と思われるほどの閨閥をだ。 一方、政治の、ことに経済にかんする政治は、天明元年に勝手掛老中の松平輝高

5. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

それで、小禄の人材を高位の役人に抜擢したとしよう。抜擢されてもしかし、彼 らはたちまち勤めに困った。役人になると、それも高位になればなるほど、身のま ともぞろ わりの衣服や供揃え、あるいは同僚とのつきあいに金がかかった。 小禄の者でも勤まるよう、役職の規定役高を定 小禄の者ではとても勤まらない。 め、家禄が規定役高に達しなければ、在任中足りない分を支給するーーーという制度 が「足高の制」である。勘定奉行の規定役高は三〇〇〇石だった。もし家禄が五〇 〇石なら一一五〇〇石が、三〇〇石なら一一七〇〇石が在任中支給された。 だから、と神沢はさらにつづけている。 なら 「御勘定の諸士 ( は ) 一統に ( 全員 ) 励みて、平勘定は組頭に成ん事を欲し、組頭 。あいとも うらや は吟味役を望み、吟味役は奉行を茨み、相倶に進転せん事を励むにより : 軽士農民出身の杉岡、細田、神谷、神尾、萩原らは勘定奉行にまで昇進した : 享保改革時の、足高の制による勘定所の役人の猛烈なスピード出世を、同時代人 はおそらく、目をみはるような思いで見つめていたのだろう。 かんせいちょうしゅう 神沢は、五人はいずれも軽士農民出身だという。確認しておこう。『寛政重修 しよかふ 諸家譜』によると、いずれも軽士の出身で農民出身はいない。 と。

6. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

あて 宛の上納を命じたのである」 いまひとっ分からない。『萩藩の財政と撫育』にはつづけてこうある。 「天保十年八月、公は萩を発して江戸に参勤し、翌十一年一一月に再び国に帰った。 旧記『流弊改正控』によれば、公は襲封以来ひとり士卒を責めるのみならず、躬自 ら率先して倹約の範を示し、一一ヶ年間に既に六千七百余貫目の負債を償還した」 倹約で一一年間に六七〇〇余貫 ( 一一万両余 ) を償遠したというのである。 すると相当の倹約を強いたことになる。そこで士卒への「十八石懸り」とか「半 知」とかはいったい何で、どのくらいの規模のものか、『萩藩の財政と撫育』を見 ていくと、「半知」とは「四ッ成」、四公六民といわれている士卒の平均的取り分 四割の半分、一一割を上納することで、取り分を三割にして一割を上納するのが「十 革石懸り」、「十石懸り」と「半知」の間の、たとえは一割八分を上納するのが「十 済八石懸り」ということであった。 の規模はどの / 、らいかとい、つと、 「兼房 ( 役職は当職、姓は毛利 ) 等の計算によれは、士卒は半知、庶民は石別四升 五合宛の負担として ( 年に ) 約五千四百一一十一一貫目の収入になる」 ( 同著 ) ということである。五四二二貫目。両に換算すると九万両余である。これまたな

7. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

110 ただゆき 代目の忠元と六代目の忠之が老中 ( 二代忠元は江戸年寄、のちの老中 ) に就任して おり、ことに六代の忠之は老中首座兼勝手掛老中として吉宗の享保改革を助けてい る。 水野忠邦が藩主となったのは文化九年 ( 一八一一 l) 、十九歳の時である。領地は からっ 肥前唐津にあり、水野家は六万石を領有していた。 三年後、文化十一一年 ( 一八一五 ) 十一月、水野は奏者番を拝命する。 奏者番というのは、政治的にはなんの力もない式典官のような役職だ。ただし、 大名の登龍門のような役職で、〃末は老中をみと目指すのなら、何はともあれ任官 しなければならないという役職である。 老中になれる家 ( 大名 ) は限られている。数万石から一〇万石くらいまでの譜代 大名だ。六万石の水野家は、一一代の忠元と六代の忠之が老中になっていることでも あり、家格に問題はなかった。ただし、八代忠任からの領地である肥前唐津は長崎 警護の任を負っていて、藩主は幕府の重要な役に就くことができなかった。肥前唐 津の殿様であるかぎり、奏者番より上の役には進めない。老中などむろん論外だっ こぶ かわじとしあきら 水野を的確に評しているのは幕末の名官僚川路聖謨だ。川路はこの時期、小普

8. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

144 寛政改革に基づく〃改革〃などより、はるかに実情に沿っていた。だが実情に沿っ ているからといって、それがスムーズに世間に受け入れられるとはかぎらない。 上知令か命取りに 『旧事諮問録』にこんな話が載せられている。天保六年 ( 一八三五 ) に仙石騒動と いう御家騒動が起きたことは前述した。幕府は仙石家の禄高五万八〇〇〇余石のう ち二万八〇〇〇余石を収公した。一一万八〇〇〇余石は天領となった。 そこで間題が起きた。仙石家と幕府の年貢の徴収率がすいぶん違う。仙石家のは 高く、幕府のは低い。従来仙石家が課していた通りを課すか、御料 ( 天領 ) 並みに 変えるかが問題となったのだ。 結局、御料並みとされて収公された土地の農民は得をしたのだが、総して御料の にもかかわらす、ちょっとでも増徴の動きがあると、彼 年貢の徴収率は低かった。 らは敏感に反応した。例えば天保十三年 ( 一八四一 I) 近江でのこと。江戸から検地 にやってきた勘定 ( という名称の勘定所の高級役人 ) 市野茂三郎らを、蜂起した二 ひのべ 万余の農民が襲い、市野に「検地十万日日延」という証文を書かせたりしている。

9. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

214 商人的な長州藩の殖産興業 そこへいくと長州の毛利家の場合、金を私するということでは島津家などよりは るかに巧妙だった。長州の江戸中期の改革は土佐や肥前佐賀などより早く行われ、 そのことにはのちに触れると冒頭で述べておいた。 しげなり 時期は宝暦期で、藩主は毛利重就の時。重就は宝暦元年 ( 一七五一 ) に支藩から 入って宗家を継いだ。その時の僴金は三万貫目 ( 五〇万両 ) で、 「倹約に励んだり、古借の利率を引き下げたり、一部償還の期限を延期したり、や むをえないものは借り替えの処置で、どうにか年々の経費を賄った。しかし結果は 八年間に新借一万貫目を増し、この年 ( 宝暦八年 ) 九月の計算では、ついに負債の 総額は四万貫目の大台を突破してしまった」 ( 三坂圭治『物語藩史六』長州藩。以下 かぎかっこ内はおなし ) そこでどう立て直しを行ったかというと、貞享四年 ( 一六八七 ) 以来七〇余年ぶ りに検地を行った。結果は、 「増高六万三千三百七十余石に対し、減少は一一万千七百六十余石となり、差引四万 千六百石はかりの増加となった」 この時重就は帰国中で、

10. 歴史に学ぶ「執念」の財政改革

188 夫婦養子を迎えたとなると、なにもせっせと子づくりにはげむこともない。アメ リカから帰ってきたあと、小栗はとんと小蝶にご無沙汰だったのではないか。それ に小栗には小蝶に淫したふしがない。金銭面ではむしろ相当しわい。「ばかにおし でないよ」。小蝶はおそらくそうふてくされるようにいって瑕をとったのだろう。 もっとも小栗はそのあとも側女を抱えていることは抱えている。 アメリカへいった小栗はいろんなものを見てきた。あれもとりいれよう、これも とりいれようと思った。そんな一つに石造りの洋館を建てるというのがあった。こ れだと火事に遭っても焼けおちない。 帰ってきた年の十一一月十五日に「金一一十一両大坂へ頼候石の代」とあるのを皮 とびかた 切りに、「石代」「石車カ代」「鳶方払」「建具屋払」「左官払」「大工手間」などと いう記述がさかんに見え、およそ一年半後の文久一一年 ( 一八六一 l) 六月一一十日には 「金九両一分一朱腰掛代遣ス」という記述が見られる。洋館はおそらくその頃完 成して、指物師に見様見真似でつくらせた椅子やテープルがはこび込まれたのだろ 小栗の日記は慶応三年 ( 一八六七 ) 一月一日から死ぬ四日前までの一年数カ月分 しかのこっていないが、「仏蘭西ミニストルロクシハロン ( ロッシュ・レオン ) 来