290 にふれました。その湛山の「満州」事変への発言は、「満蒙問題解決の根本方針如何」 ( 一九三一年、『石橋湛山評論集』所収 ) に、もっとも端的にみられます。 進行しつつある中国の統一国家建設連動に危機感を覚え ( ノイマン『現代史』の表現 を藉りれば、「中国の進歩こそは、実に日本の夢魔であった」となります ) 、満蒙問題の 根本的解決と称して東北部の切り離しをめざしたこの戦争にたいし、石橋は真向から反 対しました。なぜか。「それでは支那の政府と国民とは納得しないに極っている」、「如 何に善政を布かれても、日本国民は、日本国民以外の者の支配を受くるを快とせざるが 如く、支那国民にも亦同様の感情の存することを許さねばならぬ。然るに我国の満蒙問 題を論ずる者は、往々にして右の感情の存在を支那人に向って否定せんとする ( 中略 ) 。 ( オ ( 力」「之を要するに我国民が満蒙問題を根 之は余りにも自己反省を欠ける態度でま、よ、ゝ、 本的に解決する第一の要件は、以上に述べたる支那の統一国家建設の要求を真っ直ぐに 認識すると云うことだ」。 ここに貫かれているのは、中国国民の主体性についての認識を促し、日本の国家主義 の独善性に警告する視点です。石橋のこうした中国観にのちになって気づいた中国文学 者の竹内好は、それを「わが石橋発見」と呼び、「『石橋湛山全集』を読むまで、私は、
中村の「人民ノ性質ヲ改造スル説」も、ほぼ同様の論旨をもっ論説で、こちらは、「奴 ( ママ ) 隷根情」を減ずるために民撰議院の設立を提案しています。彼の「善良ナル母ヲ造ル 説」は、それを承けて、女性に男性と同等の教育を、とする議論でした。そこには、日 本を担う精神上肉体上に強壮な子供をえるためには、まず女性を「善キ母」につくり変 えなければならないとの主張がありました。この主張は、中村の賢母良妻論として繰り ひろげられることになりますが、女性を「母」として位置づける議論の源流になるとと もに、女性にたいしてひたすら服従を説いた『女大学』からの転換を意味してもいまし た。彼は、のち同人社女学校を開き、女子教育に力を尽くします。 ふっしよく 奴隷根性の払拭をめざした啓蒙思想家たちにとって、洋書を読むと出会う individ ・ ual,individuality という言葉は、独特の新鮮さをもって響いたようです。はじめこの 一一一一口葉は意味を汲みとることができず、辞書では「分タレヌ事」などと訳されていました 想 インヂヰヂュアル インヂヰヂュアル 思 ( 神島一一郎『近代日本の精神構造』岩波書店、一九六一年 ) 。西周が「人々」、「個々人々」 啓箭者は「国民気風論」、後者は「人世三宝説」 ) 、中村正直が「独自一箇」「各自一己ー「人民 各箇ー ( 『自由之理』、もっと漠然と「人民」とも訳しています ) 、福沢が「独一個人の気象 ( イ ンヂヴヰヂュアリチ ) 」 ( 『文明論之概略』 ) と、それぞれ記しているのをみるとき、初め何 う
・・“ロ引第な り場 よ造 旨ローー 1 中国観の転換 回ケ「西洋」の発見は、中国観の転換に 欧ス 米囮連なりました。転機となったのは、 八四〇ー四一一年のアヘン戦争です。呂 万和『明治維新と中国』 ( 六興出版、一 も細密な観察記録となっています。し ばしば比較文化論を繰りひろげ、数多 い銅版画と相俟って、読者を往時の旅 へと誘いこまずにはいません。そうし てこの使節団は、津田梅子・中江兆民 ら五九名もの留学生を同行していまし た。その意味では岩倉使節団は、大留 学時代を告げる暁鐘だったともいえま
143 彼らを存在しないもののようにみなす社会への怒りがあふれています。だからこそ彼 かんせい は、こうもいわざるをえなかったのです。「賃銀を低廉にして特に賞与の陥穽を設け、 むさほ 徒らに労働を貪らんとするが如きは、余りに人間をオモチャにする者、斯くの如きは すべか 須らく排斥せざるべからざるなり」。 精細な観察に裏づけられたこれらの 僊作品は、記録文学と社会科学の領域を 田同時に拓きました。その底を流れるの 久は、ことに横山の場合、追いつめられ 「風た人びとを人間として回復させたいと 残 の、やむにやまれぬ熱情、言葉の真の 絵 挿意味においての人道主義でした。一一葉 京亭四迷が、彼らが「下層社会」に関心 黒を抱くのに少なからぬ影響を与えてい 最ます ( 当時のさまざまの生活観察や生活記 録は、中川清編『明治東京下層生活誌』に 滝等、
次 目 目次 はじめに 思想と向きあう (lll) 「近代日本思想」という主題 / 思想という枠組 / 枠組を拡げる / 思想の歴 史をみる意味 / 構成と姿勢 幕末という時代 ( 三 ) ペリー来航とマインドの騒動 / 「西洋」の発見 / 『西洋事情』 / 岩倉使節 団 / 中国観の転換 / 「日本ーの発見 / 幕藩制を超える視野 / 近代日本思想 の土壌 2 啓蒙思想 ( 三 0 国家の建設と「民心の改革 , / 明六社 / 「西洋ーの導入 / 気風の改造 / 明 六社の群像 / 福沢諭吉と「一身の独立。 / 文明史論 / 翻訳時代へ ろ自由と平等 ( 六 l) 自由民権運動 / 植木枝盛と人民主権論 / 中江兆民と「理」の追求 / 「民権
読書子に寄す 岩波文庫発刊に際して 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かっては民を愚味なら しめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪し返すことはつね に進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の 書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の 流行を見る。その広告宜伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。 千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さす読者を縛して数十冊を強うるがごとき、はた してその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。この ときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前 より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたっ て文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わす、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわ めて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。 この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択すること ができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従 来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の 事業として吾人は徴力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさ しめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の 熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その 達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。 昭和二年七月 岩波茂雄
321 度にその毒薬を混ずるとする。さうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要する だらうか ( 中略 ) 。いはゆる科学的常識といふものからくる漠然とした概念的の推算 をして見ただけでも、それが如何に多大な分量を要するだらうかといふ想像ぐらゐ はつくだらうと思はれる。いづれにしても、暴徒は、地震前から可也大きな毒薬の ストックをもって居たと考へなければならない ( 中略 ) 。 仮りにそれだけの用意があったと仮定した処で、それからさきが中々大変である。 何百人、或は何千人の暴徒に一々部 頃署を定めて、毒薬を渡して、各方面 月 に派屯退しなければならよい。 此れが 年 中々時間を要する仕事である。扨て それが出来たとする。さうして一 画人々々に授けられた缶を背負って出 自 彦掛けた上で、自分の受持方面の井戸 田 の在所を捜して歩かなければならな ・、第二 ( を」を寺 、 0 かなり
235 このような課題をたてた秋水は、二〇世紀初頭の二冊の著作、『廿世紀之怪物帝国主 義』 ( 一九〇一年 ) と『社会主義神髄』 ( 〇三年 ) で、帝国主義と社会主義の対比を念頭に、も いわゆる っとも明快な議論を繰りひろげました。彼は前者で、帝国主義を、「所謂愛国心を経と ミリタリズム なし、所謂軍国主義を緯となして織り成せるの政策」として否定しました。つづく後者 では、マルクス、エンゲルス、イリー、 モリスらの諸書によって社会主義の概要を説く とともに、金銭Ⅱ財貨がい かに人びとを苦しめまた堕 を 鉢落させているかを指摘し、 の用それを超える制度としての 社会主義に、人類の未来を 麭みようとしました。「社会 『主義は、一面に於て民主主 水て義たると同時に、他面に於 秋し 徳に て偉大なる世界平和の主義 幸手 を意味す」という箇所に、
国家構想から文化構想へ 自由民権連動の引き潮は、政府と反対派との国家建設の構想をめぐる競いあいか、終 りに近づいたことを意味しました。政府は主導権をもって、内閣制度の樹立 ( 一八八五 年 ) 、学校制度の整備 ( 八六年 ) 、憲法の発布 ( 八九年 ) 、教育勅語の渙発 ( 九〇年 ) 、貴衆両院 より成る帝国議会の開設 ( 九〇年 ) と、一気に大日本帝国の骨格を造りあげます。条約改 正交渉を進めたことももちろんで、その進展をにらみつつ、商法・民法などの法典の整 備がはかられてゆきます。 大日本帝国憲法は、天皇について、曰「万世一系」という正統性、ロ「統治」権とい う主権、曰「神聖」という不可侵性を規定し、いわゆる天皇制を打ちたてますが、同時 に、日本を立憲国家として出発させるための規範ともなりました。教育勅語は、この制 度に、教育をとおして、精神を注入する機能を担うことになります。「国体」の観念が 4 欧化と国粋
論説と感想録 ここまで、論として公表することを名実ともに求めた文章をおもに対象として、近代 日本思想を眺めてきました。もちろん「秘書」として公の眼にふれないよう配慮した言 論や、「献一言」として特定のひとに宛てて示した言論もあります。しかしそのように公 簡 表の途をみずから閉ざしたり限定したりするのは、それぞれの社会的条件と一一 = 口論の質と 随の関係にもとづいており、そうした条件のもとででも著わされたということは、それだ 伝け論述者の、みずからの思想を伝えたいとの熱烈な意志を示しています。 記しかし文字として書かれた ( ロ述の筆記を含みます ) 作品に限定しても、思想表現の形 日 ・ 4 式はいわゆる論説にはとどまりません。日記・自伝・随想・書簡という、感想を吐露す る分野の拡がっていることが、すぐ眼につきます。逆に人びとの思想表現の総体からい 繝うとき、いわゆる論説のほうが決定的に少なく、それは、表現世界という大海に点在す 日記・自伝・随想・書簡