106 熱心な布教活動にもかかわらず、日本はキリスト教国とはなりませんでした。教徒の 総数は人口の一 。ハーセントに達しないままに推移しています。その意味ではキリスト教 は、日本列島に生きる人びとの信仰を変えることはできませんでした。しかしそれは、 人びとの道徳観念・文化意識や社会活動の上に、ひろくまた深い影響を与えました。キ リスト教と教育 ( 女子中等教育が大半、ミッション・スクールに担われていた時期があ りました ) 、キリスト教と文学、キリスト教と社会主義、キリスト教と禁酒連動・廃娼 運動、家庭の観念や一夫一婦制あるいは社会事業・社会施設と数えてゆくとき、近代日 本での文化が、どんなに多くをキリスト教に負うているかを思わざるをえません。その りく 1 」・つ 総合雑誌としての『六合雑誌』は、教義はもちろん学術・政治・経済・社会・文芸など の分野で、意欲的な評論活動を繰りひろげました。 幕臣の子で民友社員の経歴をもっ山路愛山に、維新以後のキリスト教史を主題とした 著述「現代日本教会史論」 ( 「耶蘇教管見。を加えて『基督教評論』〔一九〇六年〕に収録 ) があり ます。そこで彼は、自分の体験をもこめて、「総ての精神的革命は多くは時代の陰影よ り出づ。基督教の日本に植ゑられたる当初の事態も亦此通則に漏れざりしなりーとのべ ています。改宗者に、旧佐幕派出身の子弟が多かったことを指摘する言で、実相をいし キリスト この
110 書簡を装釘して保存しました。その手紙を年次順に整理・翻訳して解説を加えた山本泰 次郎訳編『内村鑑三の生涯ーーベルへの手紙 , ー』 ( 角川文庫、一九五一一年。東海大学出版会版 もあります ) は、後半生に関しての、内村の内面が吐露された最良の自伝をなしています。 そのなかで彼は不敬事件を、つぎのようにベルに伝えています。 内心ためらいながらも、自分のキリスト教的良心のために無難な途をとり、列席の 六十人の教授 ( 凡て未信者、私以外の一一人のクリスチャンの教授は欠席 ) 及び一千人 以上の生徒の注視をあびつゝ、自分の立場に立って敬礼しませんでした ! おそろ しい瞬間でした。その瞬間、私は自分の行動が何をもたらしたかを知りました。元 来この学校に於ける反キリスト教的感情は ( 中略 ) 、今こそ、国家と元首に対する非 ネのそしりをば、私に、また私を通じて一般のクリスチャンに、かぶせ得る絶好の 動機 ( と彼らは考えます ) を見付けたのです。 ( 一八九一年三月六日付書簡、傍点は原文 ) この事件を引金として、教育と宗教の衝突と呼ばれた論争が起ります。国家主義的哲 学者の井上哲次郎が先頭に立ち、教育家や仏教家が加わって、キリスト教を非国家主義、 無差別博愛主義と攻撃しました。これにたいしてキリスト教の側では、植村正久が、国 家主義を「私造せる紙幣を誇示」するにひとしいといい ( 「日本の宗教的観察」一八九一年 ) 、
295 は、当面皮相の政策に迎合することなく、 国家の理想を愛し理想に忠なるものでな ければならない」、「一色塗抹的挙国一致 聞 は却って国家の理想の探求、達成を妨害 新 帝するものである」。 雄 いま一つは、一九三七年一〇月一日、 忠 : 1 原キリスト者藤井武の没後七周年で行った 咲「神と国ーという講演です ( 個人誌『通信』 第四七号、一九三七年一〇月 ) 。そこで矢内 惜田 残原は、第一次大戦のさい欧米のキリスト 教会が、敵国を悪魔として自国の勝利を 、、「こ 1 年 究祈ったことをもって、真の精神を喪失し たとしし しまや日本のキリスト教も戦 争を批判しないこと、それを支持するこ とによって、価値を失いつつあると語気
あてていますが、ひとり佐幕派にかぎらず、キリスト教への帰依者には弱い立場に置か れた人びと、打ちひしがれた人びとが多かったということができます。 内村鑑三 そんなキリスト教は、一神教という性格ゆえに、天皇への無条件的な崇拝を要求する 国体論と激突します。そのもっとも劇的な事件が、内村鑑三不敬事件でした。この事件 については、小澤三郎『内村鑑三不敬事件』 ( 新教出版社、一九六一年 ) が委曲を尽くして います。それによりますと、第一高等中学校の嘱託教員であった内村が、一八九一年一 しん 月九日、同校で、前年一〇月三〇日に渙発の教育勅語の捧読式が行われたさい、その宸 署に最敬礼しなかったゆえをもって、校内・校外からの非難を集中的に受け、依願解嘱 新のかたちで辞職に追いこまれたというのが、事件の実相です。 革 のその内村は高崎藩士の子、彼もまた愛山のいう「時代の陰影」から生れたキリスト者 信 の一人でした。武士の子だった彼がどのようにして回心したかは、三〇代半ばに書かれ た自伝『余は如何にして基督信徒となりし乎』 ( 一八九五年、原著は英文の 7 ミ e ゝ 蒡ド・ 0 ミ 0. 警醒社書店。同年ゝ 7 0 ミ se CO き e ミと改題されてシカゴ 107 しょ
を『西国立志編』として、翌 ・・ミル『オ 七二年、 ン ・リバテイ』を『自由之理』 として、それぞれ刊行しまし 周 た。なかでも前者は、「自助」 西を実現した人びとの生涯を描 きだしている点で多くの読者 をえ、その志を励ましました ( 松沢前掲『近代日本の形成と西 洋経験』には、両書の訳し方や 迎えられ方についての詳しい解説があります ) 。またキリスト教に関心をもち、『擬泰西人上 書』 ( 一八七一年 ) を著わしてその解禁を説き ( 解禁は七三年 ) 、やがてみずからも受洗しまし た。その思索には、キリスト教の「神」の観念を、儒教の「天」の観念で理解しようと した跡が顕著で、「敬天愛人」の語を、日本人として初めて用いました。 たじまのくにいずし 加藤弘之は但馬国出石藩士の子息、はじめ佐久間象山に兵学を学び、やがて蘭学に入
鸞アウグス神の国服部英次郎訳 《仏教》 教行信証子大栄校訂 , → , , 全五冊藤本雄三 ブッダのことば中村元訳歎異抄金子大栄校注キリスト者の自由「ルティンんター庫 聖書への序言石原謙訳 現 元 真理のことば トマス・ア・ケンピス ブッダの 中村元訳正法眼蔵道 全四冊水野弥穂子校注キリストにならいて大沢・呉訳 感興のことば プ , ダ神々との対話中村元訳正法眼蔵随聞記辻哲郎校訂霊 操門脇佳吉訳 プ , ダ悪魔との対話中村元訳一遍上人語録大橋俊雄校注イエス伝田穣 仏弟子の告白中村元訳夢窓国師夢中問答佐藤泰舜校訂イエスの生涯シアイツ = ル ーテーラガーター 波木居斉二訳 ーメシアと受難の秘密 シュヴァイツェル ブッダ最後の旅中村元訳日本的霊性篠田英雄校訂水と原生林のはざまで 野村實訳 法華経坂本幸男 訳注新編東洋的な見方鈴木大拙キリスト教と世界シ = ヴァイツ , ル 鈴木俊郎訳 全三冊岩本裕 上田閑照編宗教 ラン井筒俊彦訳 浄土三部経早島鏡正訳注南無阿弥陀仏付心偈柳宗悦コ 全三冊 全一一冊紀野一義 般若心経中村元訳註 イスラ 1 ム文化井筒俊彦 《キリスト教他》 ーその根柢にあるもの 金剛般若経紀野一義 聖書世記関根正雄訳 大乗起信論高崎道訳注旧約リ 法華義疏花山信勝校訳出エジプト記関根正雄訳 全ニ冊 臨済録入矢義高訳注ョブ記関根正雄訳 訳注靼促亠日圭冖塚本虎一一訳 碧巌録嵒和 新徒のはたらき塚本虎二訳 選択本願念仏集大橋俊雄校注聖 , 聖アウグス 出口白服部英次郎訳 関西村恵信訳注テイヌス 無 全ニ冊
れらの創唱宗教は、つよい自律性を機軸とする点で信仰の新生面をひらきました。 キリスト教の移植 ペリー来航を機とする開国は、キリスト教の日本への再来を不可避としました。もた らされた文明は、キリスト教をバックボーンとしていたからです。外交問題となった信 キリンタン こ・つさっ 仰の自由の要求のまえに、新政府は、切支丹禁制の高札を撤去し、また帝国憲法では、 「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という限定つきながら「信 教ノ自由ーを認めます。仏教と神道が中心だった日本人の信仰世界に、まったく異質の 信仰が説かれてゆくことになります。 カトリック・ギリシア正教・プロテスタントと大きく分けられる三教が、それぞれ日 新本を伝道の地としました。カトリックでは、禁圧されていた切支丹が復活したほか ( 維 の新政府による浦上信徒の弾圧がありましたが ) 、あらたな布教が開始されました。ギ 信 シア正教では、ニコライによる布教がきわだっています ( ニコライについては、中村健之介 『宣教師ニコライと明治日本』〔岩波書店、一九九六年〕があります ) 。プロテスタント諸教派の 場合、伝道を西へと進めて太平洋岸に達していた米国の教会が、主力を占めました。
238 た荒畑寒村『日本社会主義連動史』〔一九一三年〕は、当事者による史的概観として貴重です ) 。 アナキズム 三つ目はアナキズムの母胎となったことです。日本でのアナキストといえばまず挙げ られる幸徳秋水・大杉栄・石川三四郎は、いずれも平民社の出身でした。そのうち秋水 は、いわゆる大逆事件の首領としてくびられ、石川は、石川啄木のいう「時代閉塞」の なかで亡命同然に日本を離れ ( 滞欧生活は七年余にわたりました ) 、大杉は関東大震災の さい虐殺されますが、それぞれアナキストとしての独自の思想展開をみせました。 はじめ国体論との対決を避けていた観のある幸徳秋水は、『平民新聞』編集人として の入獄、出獄後の渡米、その地での連動家たちとの接触をへて、「直接行動」論者とし て帰国し、アナキズムの旗頭の役割を担います。そのために政府に狙い撃ちされるので すが、そういう立場からの仕事として、獄中で書き遺著として刊行された『基督抹殺 論』 ( 一九一一年 ) があります。「生前の遺稿ーとして書かれたこの作品は、前述したよう に、歴史的人物としてのキリストを否定している点で「天皇制」への読みかえを連想さ せます。それに先立って彼は、クロポトキンの『麺麭の略取』を翻訳しています ( 一九 キリスト
是れ至理也 . / 自由民権思想における「西洋ーと「東洋ー / 自由民権思想 と天皇制 / 「自由」の受けつがれ方 / 「平等ーの受けつがれ方 4 欧化と国粋 ( 公 l) 国家構想から文化構想へ / 平民主義と国粋主義 / 「明治ノ青年」と平民的 欧化主義 / 「国粋ーと世界への貢献 / 新しい文化意識 / 「アジアは一つ」 5 信仰の革新 ( 一 00 ) 近代化と信仰の革新 / 創唱宗教の簇生 / 天理教と大本教 / キリスト教の移 植 / 内村鑑一一一 / 仏教の自己改革 / 『歎異抄』の復活 6 国体論 ( 一一 0 水戸学と国体論の構築 / 経典としての帝国憲法と教育勅語 / 挑戦者たち / 農本主義 / 「昭和」と国体 7 生存権・人権 ( 一三九 ) 基本的人権と近代日本 / 『日本之下層社会』と『女工哀史』 / 田岡嶺雲と 「ヒューマニチー」 / 廃娼の思想 / 田中正造 / 全国水平社
ませんでした。 仏教と人びととのかかわりという点では、これらは、もっともひろい範囲で影響を及 ぼした変化ということができます。と同時にその反面で、国家や教団や習俗という世俗 と切れた次元で、あるいはそれらに鋭い緊張感をもって、近代化にともなう信仰の革新 が進行しました。内面の自覚が、信仰というかたちでいかに形成されたかという課題と して、それを受けとめるとき、三つの顕著な動きを認めることができます。曰創唱宗 そうせい 教の簇生、ロキリスト教の移植、曰仏教の自己改革、がそれです。 創唱宗教の簇生 幕末・維新をはさむ一九世紀は、強烈な教祖による新しい宗教の簇生の時代をなして 新います。世紀初頭の尾張国の元武家奉公人きのによる如来教、中期の備前国の神官黒住 宗忠による黒住教、大和国の地主の主婦中山みきによる天理教、備中国の農民赤沢文治 信 による金光教、後期の武蔵国の農民伊藤六郎兵衛による丸山教、丹波国のポロ買いをな おおもと りわいとする主婦出口なおによる大本教などが、その代表的な場合です。教祖となるひ との印唱こゝゝ ーカカるというので創唱宗教とも、また創唱者や信者の社会層から民衆宗教と 101 こん一」・つ