索引 東京人類学会雑誌 202 東京経済雑誌 54 中央公論 170 , 190 , 370 , 373 近きより 298 , 301 , 302 他山の石 298 , 300 ネーチャー ( ル砒の 192 日本人 85 , 89 , 91 , 93 , 145 日本及日本人 86 日本 85 , 95 土曜日 349 , 350 ときのこゑ 147 東洋自由新聞 68 , 69 東洋経済新報 174 , 289 東京婦人矯風雑誌→婦人新報 ( Ⅳ 0 and Queries) ノーツ・エンド・クイアリーズ 農業雑誌 50 は 美・批評 婦女新聞 婦人公論 行 349 362 282 198 , 202 あ行 朝日訴訟 141 足尾鉱毒事件 新しき村 130 , 131 149 , 164 192 , 事 婦人新報 ( 東京婦人矯風雑誌 , 矯 風雑誌 ) 147 文化 182 文藝春秋 319 平民新聞 ( 週刊 ) 215 , 236 ー 238 ま・や・ら行 民族と歴史 155 , 156 牟婁新報 202 明六雑誌 41 , 42 唯物論研究 251 六合雑誌 106 労農 246 項 アナキズム 238 , 239 イエ 8 , 9 , 249 妹のカ 265 岩倉使節団 27 , 28 , 67
276 なく、特集を組むなど、女性問題を取りあげざるをえなくなりました。 『青鞜』の思想的な達成は、たとえばらいてうの「世の婦人達に」 ( 第三巻第四号、一九 一三年四月 ) にみられます。そこで彼女は、結婚制度を痛撃しました。発禁の因をつくっ たその論説のなかより一一、三の文章をつなげば、「結婚は婦人にとって唯一絶対の生活の 門戸で、妻たり、母たることのみが婦人の天職のすべてであろうか、私どもはもうこん なことを信ずることはできなくなっております」、「愛なくして結婚し、自己の生活の保 証を得んがために、終生一個の男子のために昼間は下婢として、その雑用に応じ、夜間 がえん は淫売婦として侍することを肯じている妻の数は今日どれほどあるか知れないでしょ う」、「今日の社会制度では結婚ということは一生涯にわたる権力服従の関係ではないで しょ , つか」 一一一一口葉だけでなく、らいてうは、新しいライフスタイルの創出へと踏みだします。奥村 博 ( のち博史 ) との、結婚制度によらない「共同生活」がそれでした。『青鞜』の人びと のそのような想いは、のちらいてうを継いで主宰者となる伊藤野枝の「習俗打破ーの四 字に、おそらくは凝集するものでした ( 「貞操に就いての雑感」第五巻第一一号、一九一五年一一 月 ) 。それは、論説だけでなく、『青鞜』所載の一首一首の歌にも籠められていました。
ム ズ 「職業的技能」をもっことを、女性の「人格の独立と自由」を「保証する第一の基礎」 とし、妊娠・出産期の女性への「保護」を要求する欧米の女性連動に不賛成を表明した のが、発端となりました。平塚らいてうがこれにたいし、「母性保護の主張は依頼主義 はんばく か」とはげしく反駁しました。晶子のいうように、経済力のない女性は「結婚及び分娩 を避くべきーだとすれば、「現代大多数の婦人は生涯結婚し分娩し得る時は来ないもの と観念してゐなければなりますまい」。「保護ーか「自立」かという現在につながる問題 の提起でした ( 論争の全容は、香内信子編『資料母性保護論争』〔ドメス出版、一九八四年〕に収 められています ) 。 「われ」に固執しつつ、体験のなかから思想を発酵させてきたフェミニストたちのな かで、山川菊栄は、「われーにすがらずとも自立できる論理の骨格を備えた個性でした。 女子英学塾 ( 現在の津田塾大学 ) の出身で、マルクス主義を身につけた彼女は、「無産婦人ー を軸とする女性論の、日本における構築者となりました。その立場から、廃娼論争や母 フ 性保護論争にもかかわって、論客としての切れ味をみせましたが、なかでも彼女の面目 を示したのは、労働組合婦人部設置論争です。 283 一九二五年、無産団体間に無産政党組織準備委員会が作られたとき、山川は、「「婦人
282 彼女は小説「獄中の女より男に」 ( 『青鞜』 ロの提起者は同じく社員の原田皐月でした。 , 第五巻第六号、一九一五年六月 ) で、主人公に「女は月々たくさんな卵細胞を捨てています。 受胎したというだけではまだ生命も人格も感じ得ません ( 中略 ) 。私は自分の腕一本切っ て罪となった人を聞いた事がありません」とのべさせ、女性 ( と医師 ) だけに負わされる 堕胎罪に挑戦しました。 曰は、日本基督教婦人矯風会と廓清会が「醜業婦ーという言葉を用いたのを知った伊 藤野枝が、「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就て」 ( 『青鞜』第五巻第一一 号、一九一五年一二月 ) を書いてそれにつよく反撥したのをきっかけに、起された論争で す。結果的に、公娼制度について分析を深める論争となりました。 貞操・堕胎・公娼の三問題が正面切って提起されたことは、男性によってはほとんど 看過されていた問題に、女性ならではの角度から斬りこみ、家父長制や性の核心に迫っ たという画期的な意味をもちました。 つぎに起きたのは母性保護論争でした。この論争は、女性教養誌として創刊されてい た『婦人公論』や、代表的な総合雑誌の一つだった『太陽』などを舞台に、一九一八年 から一九年にかけて、はなばなしく展開されました。与謝野晶子が、自活できるだけの さっき
364 日本資本主義分析 * 246 日本社会主義連動史 日本社会主義史 232 日本自由主義発達史 日本少国民文庫 337 日本政治思想史研究 日本中世史 181 日本的性格 184 日本的霊性 * 116 日本道徳論 * 49 238 189 336 00 配所残筆 * 313 バスカルに於ける人間の研究 * 244 長谷川如是閑評論集 * 168 花田清輝評論集 * 344 麺麭の略取 * 129 , 238 藩論 37 東山時代における一縉紳の生活 日本に於ける産業組合の思想 195 日本に於ける否定の論理の発達 115 日本農村婦人問題 248 , 249 日本之下層社会 * 142 , 144 日本の数学 223 日本の民家 * 212 日本の目覚め * 96 , 98 日本の労働連動 * 233 日本風景論 * 94 日本文化史序説 181 日本文化の問題 184 日本平和論大系 287 乳児死亡の実態 226 , 227 如是閑語 168 女人創造 270 人間学のマルクス的形態 244 農業三事 50 農村の母性と乳幼児 226 後狩詞記 195 , 202 181 被差別部落一千年史 * 落一千年史 人及び女として 270 百一新論 47 ひらきぶみ 270 平塚らいてう評論集 * 貧乏物語 * 164 , 165 ファシズム批判 186 風土 * 180 福翁自伝 * 51 , 315 →特殊部 273 福沢諭吉教育論集 * 51 武士道 * 99 婦人思想形成史ノート 284 婦人と文学 268 「婦人の特殊要求」について 283 , 284 復興期の精神 345 ふるさとの女たち 265 文学に現はれたる我か国民思想の 研究 * 166 , 179
憲法ハ日本的天則に出しなり、宇宙の天則より出でたるニハあらざるなり」 ( 日記、一九 一一一年三月一一四日条 ) 。そんな彼は、「婦人人権復活」を唱え、廃娼を主張してもいます ( 田中の文章は、自伝・演説草稿・論策・日記・書簡など『田中正造全集』全一九巻 + 別巻〔岩波書 店、一九七七ー八〇年〕にほば網羅されています。また『田中正造選集』全七巻〔同、八九年〕には、 主題をしばり年代を追うかたちで、彼の文章が選びだされています ) 。 荒畑寒村『谷中村滅亡史』 ( 一九〇七年 ) は、田中に心酔していた若い社会主義者の彼が、 同村の強制収用を知って、一気に書きあげた書物です。足尾鉱毒事件の経過を簡潔に記 すとともに、田中の闘い・谷中村の悲連にたいする荒畑の痛憤が躍っています。 全国水平社 人人権の思想は、差別にたいし人間としての尊厳を回復しようとの欲求に深く根ざして 権います。その意味で被差別部落は、人権の思想の熔鉱炉をなしました。同時にこの場合 生 の人権の思想は、生活上の悪条件の改革を求める点で、生存権の要求ともなりました。 部落解放思想の上で大きな足跡を遺しているのは、中江兆民です。彼は、一八八八年 しののめ に大阪で創刊した『東雲新聞』に、被差別部落民「大円居士」の名前で「新民世界」と
たし、矯風会は、彼女らの救済や制度の改革に奔走しました。前者の機関誌『ときのこ ゑ』 ( 発刊時は『鬨聲』 ) や後者の機関誌『婦人新報』 ( 『東京婦人矯風雑誌』↓『矯風雑誌』 から改称 ) には、持続的に廃娼への取りくみがみられます。さらに一九一一年には、救 世軍・矯風会を初めとするキリスト教徒を中心に、廓清会 ( 会長島田三郎、副会長矢嶋 楫子・安部磯雄 ) が結成され、機関誌『廓清』を創刊、目的を公娼廃止にしばって活動 し しました。『廓清』創刊号の編集後記には、「立憲国の臣民として、而かも明治の聖世に じゅうりん 生を享けながら、我等の同胞が人権は蹂躙せられ、自由は束縛せられ殆んど身動きもな そのまま らぬ状態に在るを知りながら、どうして之を其儘に放棄し置くを得べきか。来れ人道の 戦士よ」とあります。 これらの連動には、売春という「醜業ーをなくして風俗・道徳を争化しようとか、一 人夫一婦制を実質化しようとか、文明国としての体面を整えようとか、「海外醜業婦」と 権 しう「国辱ーを一掃しようとか、いろいろの動機もまじりあっていました。が、基調に 存 生 あるのは当然、人身売買を取りやめさせるとともに、その対象となっている女性を救い だそうとする信念でした。一九一一一年、国際連盟総会で「婦人及児童ノ売買禁止ニ関ス ル国際条約」の結ばれたことが、廃娼連動を後押ししました ( 日本政府は一九二五年、 147 かくせい
284 の特殊要求」について」 ( 原題「無産政党と婦人の要求」 ) を書き、労働組合連動のなかの 抜きがたい女性問題軽視を批判し、女性に関する条項として綱領に、戸主制度の撤廃、 女子無能力者規定の撤廃、男女および植民地民族の共通の賃銀制の確立、保育室および 保育時間の確保、結婚・妊娠・分娩を理由とする解雇の禁止、公娼制度の全廃などを盛 りこむことを要求しました。この主張は、男子指導者の反論を招きましたが、山日は、 「無産階級における女性隷属の事実ーを繰り返し指摘しつつ、労働組合に婦人部を設置 することの必要を迫ったのでした ( 鈴木裕子編『山川菊栄評論集』や、田中寿美子ら編『山川 菊栄集』全一〇巻 + 別巻〔岩波書店、一九八一ー八一一年〕があります ) 。 女性問題に取りくんできた丸岡秀子の『婦人思想形成史ノート』上下 ( ドメス出版、一 九七五・八二年 ) は、それらの論争をつうじて、近代日本における女性の思索の軌跡を浮 び上がらせた作品です。また「婦選ーという一言葉を造りだし、女性の参政権獲得に奮闘 した市川房枝の『市川房枝自伝戦前編』 ( 新宿書房、一九七四年 ) は、その人生と闘いがど のようなものであったかを、正確なタッチで伝えてくれます。 と書いてきて、この場所が一番ふさわしいか疑問があるものの、一一人の女性の、思想 表現としての自伝にふれておきたいと思うようになりました。一つは、民権家福田 ( 景
268 の交錯点に想いを結晶させる文学は、伝統的に女性の自己表現の分野と公認されてきた だけに、集中的な爆発の場となりました。その結果として女たちの織りなしていった作 ′」し、り 品は、男たちの拵えごとめいた思索と異なり、人生そのものを問う生身の、あるいは捨 身の迫力にみちたものとの特色を帯びました。 宮本百合子『婦人と文学ーー近代日本の婦人作家ーー』 ( 一九四七年 ) は、そんな女性作家 の生と作品を、それぞれの時代のなかに位置づけた傑作です。大幅に改訂して単行本化 したのは第一一次大戦後ですが、「原稿掲載見合せーを内務省から内示されていた作家の 一人である彼女が、検閲の文句のつけにくい随筆をという編集者たちの需めに応じ、帝 国図書館 ( 現在の国会図書館 ) に通って旧い雑誌をノートにとりつつ、もともとは一九三九 年から四〇年にかけて、総合雑誌や文芸誌に連載していった作品でした。単行本として 刊行直前、一一一月八日がきて、日検挙され出版も中止されていたのを、戦後に加筆し て書物としたものです ( 中村智子『宮本百合子』筑摩書房、一九七三年。それにしても、原「婦 人と文学」には、宮本の勇気と知性・感性の確かさが横溢しており、そのままのかたちで一冊にま とめられていないのが惜しまれます ) 。「前がきーで宮本は、「一人の日本の婦人作家が、野 蛮な文化抑制の時期、自分の最もかきたい小説はテーマの関係から作品化されなかった
Ⅷ対象とする年齢を一一一歳未満でなく一八歳未満とすること、植民地には適用しないこと を条件に、この条約を批准します〔市川房枝編集・解説『日本婦人問題資料集成』第一巻「人 権」ドメス出版、一九八三年〕 ) 。 いくつもでるようになった廃娼決議や請願書は、いずれも「公娼制度ハ正義人道ニ悖 リという類の理由を掲げています。また「公娼制度ハ人身売買ト自由拘東ノ一一大罪悪 ヲ内容トスル事実上ノ奴隷制度ナリ」と謳った請願書もありました。そういう連動の中 心となって活躍したのは、矯風会の久布白落実です。国際連盟の条約を承けて、彼女が 議員や弁護士ら専門家の意見をきいて作成し、提出議員によって一九一一二年の第四五議 会に上程された売春制度禁止案は、明快に「婦女ノ人権保護ニ関スル法律案」と銘打た れていました。 審議未了で廃案となりましたが ( この時期、毎年提出され、いずれも審議未了となっ もしく なんびと ています ) 、この法律案は、第一条「何人ヲ問ハス自己若ハ他人ノ情欲ヲ満足セシムル もしく 目的ヲ以テ婦女ヲ略取若ハ誘拐シタル者ハ一一年以上ノ有期懲役ニ処スー以下、事実上の 人身売買にたずさわった人びとを、親権者を含め刑事罰の対象とするとともに、「芸娼 妓」の自由廃業を最大限に保障するなど、人権思想の結晶と称すべき性格をもっていま