エネルギー源となります。その意味でそれは、のちに人びとが国家に絡めとられてゆく 素地を固めました。 幕藩制を超える視野 とともに幕末という時期に即していえば、「日本」への開眼は、二つの点で、幕藩的 な秩序を解体させる方向に機能しました。 一つは、藩を超えることを可能とする意識を生みだした点です。武士にとってはそれ は、忠誠対象の変更を意味しましたから、もとより心中での葛藤をともないました。し たけちずいざん かしついに、たとえば長州藩の久坂玄瑞が土佐藩の武市瑞山に書き送ったように、「尊 藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」 ( 一八六一一年正月一一一日付書簡 ) との意識に至 ります。志士という自己認識を支えとして、藩の枠を乗り越えていったのです。イギリ スへ密航するに当っての伊藤博文の歌は、「すめらみくにのためとこそしれ」と結ばれ ていました。脱藩や、藩を超えた連携のそのような日常化のかなたに「日本ーの統一が みえてくることになります。 これを割拠制打破の方向とすれば、いま一つは、身分制打破の意識を生みだしたこと カら
枠組を拡げる わたくしは、思想という一一 = ロ葉を、もう少しひろい意味に用いたいと考えています。そ あ 向れは、次の二つの理由によります。 想 一つは、意識と思想を切りはなさず、むしろ意識を、思想発酵の素と捉えたいからで 思 一す。自己を秩序に埋没させきらず、そこに芽ばえる秩序への違和感、自己への懐疑とし て発現する意識こそが、思想形成への契機をなします。多くの場合その意識は、体系化 されることなく、断片として消え去ったり、心のなかで凍結されたままになりますが、 思想をそのような発現の場から切りはなし、自己完結性をもって認識することは、摘み ら区別されるのが通常です。その一方で思想は、哲学ほどの厳密性、体系性は求められ ず、人生観、社会観などという次元の不定型性を含むとも理解されています ( 世界観と なると、究極性、絶対性が強く、哲学色が濃くなります ) 。 思想は、ほぼこういう枠組のなかに位置する「考えられたことーと受けとめられてき ました。福沢諭吉の思想とか柳田国男の思想という場合に、もっともよく当てはまりま す。
す。「天下」といっても、無限の空間を想定していたわけではありませんが、自国と他 国の違いをはっきり印象づける「日本」という呼称よりは、はるかに漠然とした空間意 識でした。いま一つは、藩が実質的な単位としての意味をもち、「国家」あるいは「国」 が、通常では藩を指していたことです。武士層にとっての忠誠の対象は藩主であり、他 方で、民衆は領民あるいは村民と位置づけられたうえ、身分制によって政治への関与を 遮断されていました。年代をへるとともにヒトとモノの移動が盛んになり、同時に情報 の伝播も速度と範囲を増しますが、制度の建前からすれば、藩の向こうに「日本ーはみ えにくかったのです。 そういう状況に変化が起きたのは、一八世紀後半からです。思想面での一一つの要因が、 その変化を促しました。一つは、西洋諸国の艦船が日本近海に出現しはじめ、否応なく 代 時「西洋、が人びとの意識にのぼってきたことです。反応としての海防意識の高まりは林 しへい 子平の『海国兵談』に典型的に示されました。その自序 ( 一七八六年 ) には、「外国ーと対 末 しづき 幕比しての「日本ーの明快な認識がみられます。また鎖国の意識化ともなりました。志筑 忠雄がケンベル『日本志』の一部を訳出した『鎖国論』 ( 一八〇一年 ) は、「鎖国」という 一一 = ロ葉の初出として知られます ( 原文の逐語訳は「閉ざしている日本帝国」となるそうで
大西祝が、「良民」を「社会の惰性を代表する者ーとするなど ( 「批評心」一八九三年 ) 、カ を尽くして反撃したものの、大勢としては忠君と信仰を調和させようとする方向に向か いました。受難を含めてこの事件は、信仰の自由と国家について省察を迫ってやまない 性格を帯びています。 つよ 一言っけ加えれば、内村のこうした勁い信仰は悩める知識青年を幾人も引きつけまし 。武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉・小山内薫らがそれです。しかし彼らは、神の 世界にとどまりえず、内村にそむき、「背教者」の烙印をみずからに捺すにいたります。 その意味で神の世界をみたことが、彼らにとって文学の世界への跳躍板となりました。 仏教の自己改革 新仏教の自己改革は、廃仏毀釈への危機意識を直接の動因として始まりました。それは の当初は、護法意識を燃えあがらせつつ、政府との結びつきを強め教化の一翼を担うこと 信 に、生きのびる途を探ろうとしました。が、もとよりその地点だけに終始することはで きず、仏教の蘇生へのさまざまの試みや提唱を生みだしました。 きょざわまんし そういうなかで清沢満之は、身をもって信仰の革新に突き進んだ仏教者としてきわだ 111 はじめ
の公教育制度が著しく整備されたことを示しています。一八七一一年の学制に始まる公教 育制度は、一九世紀末までに、義務教育段階での皆就学をほば達成し、中等教育・高等 教育拡充の時期に入ろうとしていました。それは、一九二〇年前後を中心とする中等・ 高等教育機関の大増設に至ります。その結果、「学校出ーという、制度化された教育で 育てられた知識層が成立します。そのなかの知的エリートによって担われた思想は、従 来のように経世家意識にもとづく論でなく、習得した専門知識つまり学を軸とするよう になりました。学歴社会の成立は、「苦学」生や「独学」者を生みだす反面、かってな い数の若者に、「学生ーとしての思索と探究のための時間と空間を与えました。 民本主義と教養主義は、このような知識層を提唱者とし、また本来の受けとめ手とし 義 主て、日露戦後期に出現しました。 教 民本主義の ( 造語者ではないにしても ) 提唱者として知られる吉野作造の登場は、日露 義 主戦争の意義を高らかに唱えるところから始まっています。彼は、東京・本郷教会の牧師 民・えびなだんじよう 海老名弾正の主宰する雑誌『新人』に寄せた幾篇かの論説で、閉鎖性・専制性をもって ロシアを「文明の敵」とし、戦争の結果は「主民的」勢力の増大をもたらすだろうと予 びゅうほう 測しつつ、日本の改革のために「権力万能主義の謬妄」を指摘し、また「主民主義」を
についての認識の変革を迫った論説です。彼は、「天子ニ敵スル者ーを「総テ賊ト云フ」 見方を、「人君独裁国ノ風習」としりぞけます。そこからは、君主の暴政や意見の相違 により政府に抵抗する場合は「賊」とすべきでないという主張がみちびきだされます。 反逆者に無条件に悪逆非道のイメージを貼りつけるのを否定する議論です。抵抗権や反 対党の存在を許容する議論とも読むことができ、少なくとも反逆者を破廉恥罪で処すべ きでないという議論です。「朝敵」即「賊」ではないとの意見です。固定観念を揺さぶ る点で、こういう議論こそ啓蒙の名にふさわしいものでした。 あらゆる点で独裁国のしるしを拭い去っていってこそ、文明国から、日本もその一員 として認知されるとの想いに、啓蒙思想家たちは駆られていました。それだけに導入と いう次元での発言は、すべて欧米からの視線を意識して、日本を矯正しようとの文脈で なされました。津田真道は「拷問論」でのべます。「拷問ヲ廃セスンハ遂ニ欧米各国ト 想 思車ヲ並テ馳騁スへカラサルナリと。また森有礼は「妻妾論」で指摘します。「女子ヲ 啓以テ男子ノ遊具ト為 , す状態が改まらなければ、「外国人ノ我国ヲ目シテ地球上ノ一大 あるい 淫乱国ト為スモ或ハ虚謗ニ非サルナリ」と。 ぬぐ
招致されました。建設機械や資材そのものも、各国からの寄せ集めに近かったのです。 何よりも速度が求められました。欧米諸国との落差は、現在からは想像できかねるほ ど大きかったからです。それだけに「西洋は、幕末での「西洋」の発見以来、追いか けるべき目標であるとともに対抗すべき相手、つまりモデルにしてライヴァルと意識さ れていたからです。文明開化は、そのように急がれた国家建設に当って、外観からイン テリアに至るまでを規定した様式でした。 国家という建築物が造られるのに呼応して、その住人を造りあげることをめざしたの が、今日、啓蒙思想と呼ばれている思想です。 それを担った人びとは、したがって啓蒙思想家と称されます。最大の啓蒙思想家とし て衆目の一致する福沢諭吉は、さきに引いた日 馬場辰猪宛の手紙で、「マインドの騒動は ますます 今尚止まず」という文言につづけて、「此後も益持続すべきの勢あり。古今未曾有の 想 この わくでき 思此好機会に乗じ、旧習の惑溺を一掃して新らしきエレメントを誘導し、民心の改革をい 啓たし度」とのべています。啓蒙思想家の出現は、そのような使命感と自負心をもっ経世 家的知識人の生誕を意味しました。 たく みぞう
生活などで劣った人びととして、ほとんど無視あるいは貶視されてきました。そのなか でこの言葉の浮上は、認識の次元での「民衆」の独立化と価値化を示しています。背景 には、「民衆」が政治勢力として無視できない勢力へ成長してきたという事実がありま した。その場合の「民衆」とは、労働者や農民と特定されるよりは、雑多な非特権諸階 層の総称でしたが、それゆえにそれは、既成の支配層を、一にぎりに過ぎない存在とし て浮び上がらせる役割を果したともいえます。 " 発見 ~ された「民衆」は、文化意識変動への大きな要因となりました。知識層にと っての " 他者。であっただけに、多分に善意や願望や自己陶酔を内包して、文化創造の 泉ともみなされました。一九一〇年代に唱えられた民衆芸術論はその表われです。ロマ 主ン・ロラン『民衆芸術論』 ( 大杉栄訳、一九一七年 ) は、そういう潮流の象徴となりました。 と同時に、民衆生活ことにその余暇生活としての民衆娯楽への関心を生みだしました。 ~ 我ごんだやすのすけ 権田保之助は、その分野の申し子のような存在です。彼は、新しい娯楽としての活動写 民 真を取りあげて『民衆娯楽問題』 ( 一九一一一年 ) を著わし、また民衆娯楽の包括的な考察と しての『民衆娯楽の基調』 ( 一九一三年 ) を世に送りました。そのなかで、「学者と云えば 英独仏の原書を秘蔵して、これを小出しにする商売」と皮肉りつつ、「民衆娯楽問題の 169 へんし
200 では、神社整理は徹底的に行われました。 それにたいする南方の異議申し立ては激烈でした。反対連動で一時収監されたのちも、 一九一一年には再度にわたって、東京帝大教授で植物分類学の松村任三宛に、あわせて 四百字詰原稿用紙換算で一一一〇枚に及ぶ手紙を書いたのを初めとして ( 松村への仲介を 依頼された柳田は、これを『南方一一書』として、自費で刊行します ) 、やはり東京帝大 教授で植物病理学の白井光太郎に宛てて、四百字詰換算八六枚に及ぶ「神社合祀に関す る意見ー ( 一九一二年 ) を書き送るなど、倦むことを知りませんでした ( いずれも『南方熊楠 いんめつ 全集』 7 一九七一年 ) 。それらで彼は、「合祀は勝景史蹟と古伝を湮滅すーなどと民俗の ふんまん 保護を主張するとともに、自然破壊への忿懣をつよく訴えています。那智のクラガリ谷 しだ うっそう は、その名のとおり鬱蒼たる森林に覆われた谷で、珍植物ことに羊歯類がおびただしく 生育しているがゆえに保安林とすることが緊要というのが、松村への彼の要請でした。 東の田中正造と並んで、この時期の一一大環境保護論者ということもできます。 道徳のタテマエ性にたいし、民俗の探究は生活や生活意識のホンネに迫ることを真骨 ひわい 頂とします。その意味では性の問題を避けて通ることはできません。鄙猥と目されるそ の現象を、南方は、ほとんど文化の根幹つまり人倫の大本とする姿勢で取りあげました。
は、その源泉を本質的に「西洋」に負っています。ではそれは、啓蒙思想家たちの多く がそうであったのと等しく、「西洋」を唯一の価値の源泉としたでしようか。 そうではありません。兆民の場合、すでに早く留学からの帰途、アフリカやアジアで 英仏人が、その土地の人びとに「犬豚」にも劣るような仕打ちをしているのを実見し、 西洋の文明が、その域外にたいしては侵略・傲慢・抑圧・蔑視として機能しているとの 認識をもちました。その意味でいわゆる文明は、あるべき普遍性を体現する価値でなく、 特殊西洋的文明として相対化されたわけです。 同時にそこには、強者の専制に抵抗する自由民権の論理が世界の次元ではたらき、強 者としての西洋を追うのでなく、もう一つの、より普遍的な文明を求める心が準備され ます。『自由新聞』に寄せた「論外交」 ( 一八八一一年 ) は、そういう思索の結晶の一例です。 きようばっ 等そのなかで兆民は、留学から帰国途上の見聞を想い起して、「己レノ開化ニ矜伐 ( 誇るこ どとーー引用者 ) シテ他邦ヲ凌蔑スルガ如キハ、豈真ノ開化ノ民ト称ス可ケン哉」と決めつ 自けつつ、そのような「強兵」にかわる「道義」をもってする国際関係のありようを提示 し、「小国」として独立を保持する途を主張しました。 もっと大事なことは、「西洋ーを意識しながら「東洋」の復権がはかられたことです。 べ