民本主義 - みる会図書館


検索対象: 近代日本思想案内
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1. 近代日本思想案内

会を風靡するに至ります。 まれすけ かがみ やや似た傾向は文学にもあらわれています。この場合、武人の鑑とされた乃木希典が、 好個の標的となりました。白樺派の人びとは、学習院長であった乃木のもとで学校生活 を送ったという事情もあって、彼を戯画化するのを精神のばねとしました。また芥川龍 之介は、作品「将軍」 ( 一九二一年 ) で、軍参謀であった父と文科の学生であるその息子と の、乃木をめぐる価値観の相違をあざやかに、しかしやや矮小化して描きだしました。 吉野作造と民本主義 吉野作造は、青年期にキリスト教徒となり、入学した東京帝国大学法科大学で政治学 主を専攻しました。同大学教授となっていたその彼を一躍、論壇の花形としたのは、『中 と央公論』一九一六年一月号の巻頭に掲載した長大な論説「憲政の本義を説いて其有終の 美を済すの途を論ず」 ( 岡義武編『吉野作造評論集』所収 ) でした。民本主義の政治論の委曲 民 は、このなかに尽くされています。そこで吉野は、民本主義とはデモクラシーの訳語の 8 一つであり、「国家の主権の活動の基本的の目標が政治上人民に在るべし」との意味で あるとのべ、憲法の精神的根柢はこの民本主義にあると主張しました。さらに彼は語を 161 ふうび その

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次 目 8 民本主義と教養主義 (IFÅJ) 国家と思想の新段階 / 吉野作造と民本主義 / 民本主義の諸相 / 長谷川如是 閑の文明批評 / 「民衆」の浮上 / 自由教育運動 / 植民地主義批判と「改 造」の機運 / 人生論と哲学プーム / 文化史と文化論 / 学生と教養 / 自由主 義 9 民俗思想 ( 一九 ll) フォークロアの誕生 / 柳田国男と民俗学 / 南方熊楠と禁忌への挑戦 / 「東 国の学風」 / 伊波普猷と沖縄学 / アイヌ文化を謳いあげた人びと / 柳宗悦 と「民芸」 / 今和次郎の民家探求 科学思想 ( 三四 ) 丘浅次郎と『進化論講話』 / 山本宣治の性科学 / 小倉金之助と数学の社会 性 / 社会医学の人びと / 科学論の担い手と時局 Ⅱ社会主義 ( 二三 0 ) 近代日本と社会主義 / 初期社会主義 / 幸徳秋水の帝国主義批判 / 平民社と 非戦論 / アナキズム / マルクス主義 / 三木清の人間学 / 講座派の人びと / 0

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170 原書は丸善にはありません、浅草にあります」とのべています ( 『權田保之助著作集』第一 巻、文和書房、一九七四年 ) 。 自由教育運動 民本主義的な文化認識は、教育の改革への関心や機連を引き起さずにはいませんでし こ。教育は、民本主義の人間的基礎をつくる仕事だったからです。吉野作造は、「憲政 の本義ー論文と同じ号の『中央公論』の「社論」欄に、「精神界の大正維新」という文 章を寄せ、文教政策を、「我文部省の目的は、青年子弟の思想感情を一定の鋳型より打 出さんとするに在りと批判しました。 この気分は、児童と接する小学教師たちにしだいに共有のものとされはじめており、 各地で自由教育運動として実践されてゆきました。児童の内発性を引きだそうとする自 由教育連動の核心とされたのは、綴方教育と自由画教育でした。綴方教育の元祖という えのすけ べき芦田恵之助は、経験を方法化してまとめた『綴り方教授』 ( 一九一三年 ) で、その意義 を、実生活に即したかたちで児童に実感を綴らせることとしています。 かなえ 自由画教育の提唱者は、画家の山本鼎でした。彼は、お手本を模写する従来の美術教

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彼らは、吉野のなかにみずからの願望の政治思想への結晶を認めたのでした ( 吉野につい てはおびただしい研究があります。松尾尊兊ら編『吉野作造選集』全一五巻 + 別巻〔岩波書店、一 九九五ー九七年〕の各巻解説など ) 。 民本主義の諸相 民本主義が大正デモクラシーの政治学をかたちづくったのにたいし、その法学を代表 したのは、東京帝大法科大学 ( ↓法学部 ) 教授の美濃部達吉を代表的な提唱者とする天皇 機関説でした。それは、統治権の主体を天皇にでなく国家にあるとし、天皇を国家の機 関とする憲法学説Ⅱ国家法人説でした。美濃部の主著と称すべきは、『憲法撮要』 ( 一九 義 ト大日本帝国憲法 一一三年 ) 、『逐条憲法精義』 ( 一一七年 ) と思われますが、その憲法学説は、 ) とそのものへの批判と、ロ多くの憲法学説への批判とから成っていました。 義 主 曰について美濃部は、帝国憲法には君主主権主義がすこぶるつよいとし、しかし君主 本 民 主権主義であっても、国のすべての権力が不可分に君主の一身に属するのでなく、統治 権はつねに国家に属する権利であり、したがって君主主権とは、君主を国家の最高機関 とするのと同義と主張しました。とともに、日本では国民の意向にもとづく政治は、貴

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174 が、彼の朝鮮美術への傾倒をつうじてなされることになります。 デモクラットたちのなかで、もっともまぎれのない帝国主義批判を展開したのは、 『東洋経済新報』の石橋湛山でした。今日、急進的自由主義者と位置づけられている彼 は、第一次世界大戦の開戦当時以来、一貫して参戦反対、領土や利権の獲得反対を唱え てきました。その彼の、たんに外交政策にとどまらず将来の日本像を示した論説が、ワ シントン軍縮会議をまえに書かれた「大日本主義の幻想」 ( 一九二一年、松尾尊兊編『石橋 湛山評論集』所収 ) です。「朝鮮・台湾・樺太も棄てる覚悟をしろ、支那や、シベリヤに対 する干渉は、勿論やめろ」と始まるこの論説で、石橋は、経済合理主義と民族自決主義 にもとづいて、大日本主義を捨てることによって、「世界の弱小国全体を我が道徳的支 持者ーとするよう努めるべきだとのべています。 それらの意味で民本主義は、脱帝国主義化への可能性を示しました。そういう変化に もかかわらず、第一次大戦後の思潮は、その民本主義をも押し流すほどの勢いで、新し い展開をみせてゆきます。中央公論社に入ってまもない記者木佐木勝は、一九一九年の 年末の日記に、「時代の波はいま烈しく動いている」、「吉野博士らの第三階級のための デモクラシーに対して、第四階級のデモクラシーの主張が鮮明になってきたのも、今年 きさき

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の公教育制度が著しく整備されたことを示しています。一八七一一年の学制に始まる公教 育制度は、一九世紀末までに、義務教育段階での皆就学をほば達成し、中等教育・高等 教育拡充の時期に入ろうとしていました。それは、一九二〇年前後を中心とする中等・ 高等教育機関の大増設に至ります。その結果、「学校出ーという、制度化された教育で 育てられた知識層が成立します。そのなかの知的エリートによって担われた思想は、従 来のように経世家意識にもとづく論でなく、習得した専門知識つまり学を軸とするよう になりました。学歴社会の成立は、「苦学」生や「独学」者を生みだす反面、かってな い数の若者に、「学生ーとしての思索と探究のための時間と空間を与えました。 民本主義と教養主義は、このような知識層を提唱者とし、また本来の受けとめ手とし 義 主て、日露戦後期に出現しました。 教 民本主義の ( 造語者ではないにしても ) 提唱者として知られる吉野作造の登場は、日露 義 主戦争の意義を高らかに唱えるところから始まっています。彼は、東京・本郷教会の牧師 民・えびなだんじよう 海老名弾正の主宰する雑誌『新人』に寄せた幾篇かの論説で、閉鎖性・専制性をもって ロシアを「文明の敵」とし、戦争の結果は「主民的」勢力の増大をもたらすだろうと予 びゅうほう 測しつつ、日本の改革のために「権力万能主義の謬妄」を指摘し、また「主民主義」を

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近代日本思想案内 幕末維新から戦後まで、近代日本百年の間に 日本人によって生みだされた思想とそれを担 った思想家について簡潔に記した近代日本思 想入門。啓蒙思想、民本主義、民俗思想、社 会主義、フェミニズムなど主な思想潮流とそ の主要な著作を紹介する索引を付す い中野達彦 カバーカットⅱ福沢諭吉『世界国尽』より

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8 民本主義と教養主義 191 応じようと思う」。この論説を含む著書『時局と自由主義』 ( 一九三七年、『河合榮治郎著作 集』第一一一巻、社会思想社、一九六八年、所収 ) は、天皇機関説事件、一一・二」ハ事件への批判 精神にあふれ、河合の自由主義者としての面目を示しています ( それだけに、刊行の翌 年発禁処分を受け、他の三著とともに出版法違反事件で起訴される原因となりました ) 。

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平民主義 84 ー 87 , 92 , 93 , 95 ペリー来航 21 母性保護論争 282 , 283 マルクス主義 242 ー 245 , 251 , 252 民法典論争 123 民俗学 193 , 194 民衆 168 , 169 民芸連動 173 , 210 妙好人 116 水戸学 32 , 118 三笠書房 251 丸山教 101 170 民本主義 158 , 159 , 161 ー 163 , 168 , 民友社 84 , 94 明六社 40 明六社演説会 41 明六社制規 40 や・ら行 ラジオコード 375 横浜事件 373 矢内原事件 293 労農派 246 労働組合婦人部設置論争 liberty の概念 26 283

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162 つぎ、政治の目的が一般民衆の幸福にあ ること、政策の決定が一般民衆の意向に よることを民本主義の要求する一一大綱領 造とし、その完成のために一一一一〕論の自由の尊 野重や選挙権の拡張を提言しました。吉野 はここで、「一般民衆」という言葉を少 数の「特権階級」と対立させていますが、 その特権者とは、歴史的特権階級と新興 の財政的特権階級、つまり貴族と資本家 を意味しました。 注意ぶかく国体論への立ち入りを避けていたにもかかわらず、吉野の思想上の挑戦は、 一九一八年、国家主義団体の一つである浪人会との、立会演説会というかたちでの対決 ひさし を招きました。その日の光景は、当時、吉野の身辺にいた麻生久の作品『黎明』 ( 一九二 四年 ) に活写されていますが、そこでは、吉野を支援するため、あるいは彼の身を気づ かって会場につめかけた人びとは、学生・労働者・商店員・市民たちとされています。