2 社会運動家で、一九二八年の第一回普通選挙 ( 男子のみですが ) に京都第一一区から当選、 治安維持法の最高刑を死刑とするなどの改定をもり込んだ緊急勅令に反対して暗殺され ますが、そのように社会運動に入ってゆくのも、生物学をとおしてでした。その生物学 の核心は性科学で、性教育・性行動調査と産児制限論および運動から成りたっています。 京都でクリスチャン夫妻の子として生れた山本は、中学校に入りまた教会へも熱心に 通ったものの、病弱のため退学、園芸を志し、カナダへ渡ります。カナダ滞在は四年半 に及びました。そのあと同志社普通学校↓第一一一高等学校↓東京帝大理学部動物学科とや り直したので、大学を卒業したときは数えで三二歳になっていました。ただちに同志社 大学予科の自然科学概論担当の講師となります。文科系の学生を相手とするその講義で、 彼が主題として設定したのが、「人生生物学」でした。 「人生生物学」という独自の命名には、分類だけに赴きがちの従来の生物学を「死物 学」と断じ、真の生物学すなわち「生命の科学」を説こうとする山本の抱負が示されて います。その生命の科学の核心をなすとされたのが性科学でした。なぜならその問題こ そ、生物としての若者の悩みと関心のまとで、しかもさまざまの禁忌に蔽われていたか らです。講義用に、『人生生物学入門・性教育私見』 ( 一九一一一年 ) という小冊子を作って
個々生レナカラニシテ、自由自治平等均一ノ権利ヲ固有セリトナセル天賦人権主義」を 打破する根拠として用いられました ( 『人権新説』一八八一一年 ) 。その一方で初期の社会主 義者たちは、進化論によって社会進化つまり未来における社会主義への到達を裏づけよ うとしました。幸徳秋水は、「生物進化の理法が人類社会に応用せらるゝの結果は即ち 社会主義」として、ダーウインとマルクスを、幾千年後にものこる一九世紀の生んだ偉 大な姓名としています ( 「ダーヰンとマルクス」、週刊『平民新聞』第四七号、一九〇四年 ) 。 そういう状況に揉まれていた進化論を、生物学の立場から説きあかしたのが、丘の 『進化論講話』でした。まず進化論の歴史を概観したのち、動物・植物の進化の事実を、 地球上の到るところから例をとりつつ縦横に語るとともに、人間をそれらと異なった特 別の存在とする見方や全能の神による創造物とする見方を、そのような生物学的事実に 想もとづいて粉砕します。たとえばこんなふうにです。 思 学生物界の事実を広く集め、生物界の現象を深く観察し、之を基として科学的に研究 した結果は、即ち進化論であるが ( 中略 ) 、人間だけを例外として取扱ふべき特別の 理由も無い故、此通則に照して論ずれば、人は総べての動物の中で牛・馬・犬・猫等の 如き獣類に最も善く似て居る故、此等と共同な先祖から生じた一種の獣類である。 215
その根柢には生物学者らしい認識がありましたが、彼の場合、ことさらに、といえるほ ど性的比喩を介在させています。社会の偽善性への我慢ならぬという気持と、一一 = 口説の効 果への彼一流の計算を含んだ手法であり、文字通り社会の″恥部″を衝きました。が、 その点は柳田との衝突を招きました。性格上、官吏としての立場上、また民俗学を学問 として認知させようとの気持から、その問題に蓋をしている柳田に、南方は鋭く迫って います。表現に当っても、 ( これは性的禁忌にのみ限ったことではありませんが ) 柳田が 行ったように「手柔らかく書きかえることを好まず。如何がわしき処は〇〇〇または けす 「この下幾字刪る」ですまさんことを望む」という態度をとっています ( 一九一一六年一月三 〇日付中山太郎宛書簡 ) 。 これらのことが、南方を奇人あるいは狷介な人物とする印象を世上にもたらしました。 想しかし彼は、それだけ剛直でもあり、自恃もつよかったのです。実際その博学と見識は 無比というべきものでした。人間と動物との交渉についての古今東西にわたる伝承を、 縦横にあるいは冗舌に開陳した『十一一支考』 ( 一九一四ー二四年。ただし牛はない ) などを読 まんだら むと、博識に驚倒させられつつ、よくいわれる南方曼陀羅の世界へと導かれます。 201 けんかい
216 そうして、 我先祖は藤原の朝臣某であるとか、我兄の妻は従何位侯爵某の落胤であるとかいう て、自慢したいのが普通の人情であることを思へば、先祖は獣類で、親類は猿であ ると聞いて、喜ばぬのも無理でまよ、ゞ、 ( オ ( カ善く考へて見るに、下等の獣類から起り なお ますます のぞみ ながら、今日の文明開化の度までに進んだと思へば、尚此後も益々進歩すべき望が はず ある故、極めて嬉しく感ずべき筈である。 このように徹頭徹尾、生物学的事実を押し立てる論議は、「人種生存の点からいへば、 脳カ・健康ともに劣等なものを人為的に生存せしめて、人種全体の負担を重くする様な 仕組を成るべく減じーという優生学的な主張へも突き進みました。人間を「獣類系統に せきつい 属する一の脊椎動物に過ぎぬ」とするこの書物は、こうして生物学を諸科学の基礎にす べしと主張しつつ、人間を不動の前提とする社会観を大きく揺さぶる力にみちています。 進化を続けてゆくとどうなるかは、丘の得意とする話柄だったとみえ、その問題につ いて幾篇もの文章を遺しています。一つは「所謂偉人ー ( 一九一一一年 ) で、偉人を造りあげ るのは人間の奴隷根性にほかならないから、進化とともにそういう存在は消滅するだろ うとする議論です。二つ目は「自然の復讐」 ( 一九一一年 ) で、進化は文明の進歩として自 あそん らくいん
然の征服に至り、その結果は自然から復讐されるだろうとの見通しです ( もっとも丘は、 それでも各民族は自然の征服に向けて競いあうよりほかはないとします ) 。三つ目は 「猿の群れから共和国まで」 ( 一九二四年 ) で、人間あるいは社会の進化は、服従性の退化 をもたらさざるをえず、その結果は世襲王国をへて共和国に至るだろうとの予言です。 また体裁からいって『進化論講話』の姉妹編というべき『生物学講話』 ( 一九一六年 ) は、 人間もそのなかに含めた生物の生涯を、食うこと・産むこと・死ぬことの三つを軸とし て説明した書物です。丘は、さまざまなタテマエを緩衝物とする人生や社会に、まるで 復讐するかのように、徹底した生物学的人生観や社会観で身を律したひとでした ( 丘の おもな著作は今日では、筑波常治編『丘浅次郎集』〔近代日本思想大系 9 、筑摩書房、一九七四年〕 や、『丘浅次郎著作集』全六巻〔有精堂、一九六七ー六九年〕に収められています ) 。 想 学山本宣治の性科学 その丘浅次郎の『進化論講話』『生物学講話』を、「両者共に科学的宿命論の傾向著し き著作と批判しつつも、「明治大正思想史上重大なる代表的作品」と敬意を払い、み ずからの生物学を築いていったのが、山本宣治です。彼は「山宣」の愛称で親しまれた 217
219 います。そのなかの「講義の方針」でいいます。 通常アメバより人類に論及する多数斯学者の求心的記述とは正反対に、人類に於け る生物学的現象を主として述べ、其了解に資する範囲内にて一般生物界の諸現象 を引照する遠心的方法を執る。 此遠心的叙述の出発点、青年好奇心の焦点に位する性的現象しかも吾人人類の性的 生活の内容の生物学的考察。 「青春の危機」にある受講者に、 生物学の立場から助言しようとす るのが、山本の目的であったわけ です。それに当り自分の立場を、 宣「妻を前に今の我は性慾飽和生活 の平静に活き、前日の焦燥を脱却 して学事に没頭せんとするも ( 中 略 ) 、しかも決して老節たるを得 ず、内に炎々たる性的危険性を蔵
地震・憲兵・火事・巡査 * 241 自然科学者の任務 224 自然の復讐 216 時代ト農政 195 支那思想と日本 184 渋沢栄一滞仏日記 30 社会医学 226 社会改造の根本精神 175 社会事情と科学的精神 229 社会主義神髄 * 128 , 235 自由画教育 171 自由主義 189 自由党史 * 36 , 63 十二支考 * 201 , 329 自由之理 46 , 48 侏儒の言葉 * 319 出家とその弟子 * 115 人権新説 49 , 215 進化論講話 214 , 215 職工諸君に寄す 233 職工事情 * 144 女性の歴史 280 女工と結核 226 女工哀史 * 144 植民地政策史 364 植民及植民政策 296 , 297 昭和史 314 将来之日本 84 , 87 条約改正論 76 招婿婚の研究 280 218 人生生物学入門・性教育私見 神社合祀に関する意見 200 真政大意 49 人生論ノート 243 , 244 真善美日本人 90 神代史の新しい研究 166 心頭雑草 270 新日本史 94 新日本之青年 87 新聞に載った写真 256 新民世界 153 親鸞聖人筆跡之研究 114 親鸞ノート ( 正・続 ) 115 新論 32 , 118 , 119 新論・迪彝篇 * 32 , 118 数学教育の根本問題 221 数学者の回想 220 生活の探求 264 正義を求める心 239 精神界の大正維新 170 精神主義 112 『青鞜』女性解放論集 * 273 生物学講話 217 西洋事情 25 , 51 世界に於ける希臘文明の潮流 戦時期日本の精神史 263 戦前戦中を歩む 371 , 373 戦争責任者の問題 341 禅と日本文化 184 善の研究 * 177 , 178 , 188 相互扶助論 240 漱石文明論集 * 325 9 182
199 いう経歴に機縁しています。帰国ののち隠花植物や菌類の採集と研究の生活に人り、や すみか がて紀州・田辺をついの栖としました。 生物学を原点とする南方の面目を躍如たらしめたのが、神社整理への果敢な抵抗でし た。神社整理とは、一九〇六年の勅令「神社寺院仏堂合併跡地譲与ニ関スル件」と合祀 令によって打ちだされた政策で、原則として一町村一社に統合しようとするものでした。 それは、国家に連なる " 格式。ある 神社へと人びとの信仰を誘導・改変 しようとする狙いをもち、日露戦後 の国民統合政策の一環をかたちづく 楠りました。とともに、神林を伐採す 方るという点で、自然の生態系破壊を 南 もたらしました。当時、木材への需 要が高まり、山林の濫伐が全国的に も始まっていたのでした。とりわけ 熊野の美林をもっ三重・和歌山両県
数学のように一見、抽象的な世界を築きあげている分野と異なり、医学は、だれにも よく視えるかたちで人びとの生活とかかわりをもっ学問です。それは、人びとの生死、 健康や病いという生命そのもののはたらきと、日々直面しています。その生命のありよ うは、生物学的条件とともに社会的条件によっても大きく規定されています。生命をま もること、すなわち治療や予防は、その意味で社会的条件への視野なくしては達成され えないという性格をもちます。学界に通有の現象として、学問のための学問 ( 医学のた めの医学 ) という意識が主流をなすなかで、病いを社会矛盾の所産とする視点を打ちだ した人びとが、医学界にあらわれました。推進者たちは、その医学を「社会医学」と称 しました℃近代日本の場合、病いをもたらし生死を決定する最大の社会的条件は、貧困 でした。社会医学の人びとは、こうして貧困という土壌から、病いの問題に取りくもう 想とするに至ります。 思 学社会医学という名称はまだなかったのですが、その先駆者となったのが、石原修です。 0 一一〇世紀の初頭、若い医学者となった石原は、内務省嘱託として農村の衛生調査に赴き、 りかん 結核が急速にひろがりつつあること、その発生源が罹患して帰郷した女子労働者にある こと、さらに彼女らの発病が工場での苛酷な労働条件と不衛生な居住条件にあることな
剛した。こうして有名な言葉が吐かれます。「階調はもはや美ではない。美はたゞ乱調に 在る」 ( 『大杉栄評論集』 ) 。大杉は、ポルシエヴィズムとのあいだのいわゆるアナ・ボル論 用務所 争での立役者でしたが、批判の基調は、ボルの集権主義に向けられていました。ー を「監獄大学」と称し「一犯一語」をモットーとした彼には、翻訳も多く、なかでもク ロポトキン『相互扶助論』 ( 一九一七年邦訳 ) は、優勝劣敗にかわる生物界の原理の提唱と してひろく読まれました。 これにたいして石川三四郎は、人びとの自治に根ざす土の哲学ともいうべき「土民哲 学」を提唱しました。『近世土民哲学』 ( 一九三三年 ) は、それを簡潔に語った作品です ( 鶴 見俊輔編『石川三四郎集』〔近代日本思想大系、筑摩書房、一九七六年〕所収 ) 。「土民哲学」と は、デモクラシーを「土民生活」 ( デモスⅡ土民 ) と訳しその哲学という意味で、そこに もうまい は、「野蛮、蒙昧、不従順な賤民ーを意味していた「土民」を、「土着自立の社会生活 者」と読みかえようとする意志がこめられていました。こうして彼は、「生活の基礎を 土に求める」という哲学を打ちたて、その角度から文明批判に及びました。一節だけ引 きます。 進化論、生存競争論が生れて以来、文明人の理想は「自然の征服」にあった。自然