030 ヘイトスヒーチに対する 民事救済と憲法 特集 ヘイトスヒーチ ヘイトクライムⅡ - ーーー理論と政策の架橋 九州大学准教授 梶原健佑 京都朝鮮第一初級学校事件 者の刑事責任や行政による対応の可能性が第一義的 ヘイトスピーチの法的分析としては一般に、加害 小さくない。 法の評価が示され、賠償が認められたことの意味は ヘイトスピーチとされる発言に対して裁判所から違 算定に影響を及ほしているに過ぎない。さりとて、 あることは行為の悪質性を導く要素として賠償額の 名の下に不法行為が認定され、発言が人種差別的で 立を導いているのではなく、名誉毀損と業務妨害の は、ヘイトスピーチであることが即、不法行為の成 る目下のリーディングケースである。しかし判決で これがヘイトスピーチの法的責任 ( 民事 ) に関す 件」という ) 1 ) 。 棄却したため原告の勝訴が確定した ( 以下、「京都事 命じる判決を下し、大阪高裁・最高裁ともに上訴を 法行為の成立を認めて、被告に 1200 万円余の賠償を 起。 2013 年には京都地裁が名誉毀損と業務妨害の不 民族教育実施権が侵害されたなどとして訴訟を提 名誉および信用が毀損され、教育業務が妨害され、 学校を運営する学校法人・京都朝鮮学園は、自らの 模様が撮影されたビデオはネット上で公開された。 鮮半島に帰れ一」などの発言が繰り返され、活動の 鮮人を保健所で処分しろ」「ゴキプリ、ウジ虫、朝 立しません」「不逞な朝鮮人を日本から叩き出せ」「朝 がするもんなんですよ。人間と朝鮮人では約東は成 はありません」、 (b) 「約束というのはね、人間同士 は北朝鮮のスパイ養成機関」「朝鮮学校は、学校で そこでは、 (a) 「この学校の土地も不法占拠」「こ の前で在特会等による 3 回の示威活動が行われた。 2009 年から翌年にかけて、京都朝鮮第一初級学校 法学セミナー 2016 / 05 / no. 736 料 150 万円を認めた判決もある 4 。名誉毀損を根拠 博物館を運営する法人の名誉を毀損したとして慰謝 と演説をし、動画をネット上で公開した行為につき、 くんですよ。おまえら人間なのかほんとうに」など は穢多しかいない」「非人とは、人間じゃないと書 の幹部が水平社博物館前で「穢多博物館」「こここ 原告への名誉毀損が認められた。このほか、在特会 させることをいい、京都事件でも ( a ) の諸発言による 周知のように名誉毀損とは他人の社会的評価を低下 筆頭に挙げられるのは、やはり名誉毀損であろう 3 ヘイトスピーチによって成立する不法行為として 名誉毀損 る点は留意されてよいように思われる 2 ることなく被害者が裁判所の法的判断を直接求めう を付随的に期待できる点、公権力の判断を介在させ 予想される。しかし、損害賠償には行為抑止の効果 も金銭賠償を望んでいるわけではない、との反応が ろに対しては、ヘイトスピーチ被害者たちは必ずし 柄にも検討を及ほしてゆく。なお、本稿の狙うとこ 抵触せぬよう、意を用いておかなければならない事 認定、賠償の命令が、憲法による表現の自由保障と らに絞り込む。そのさい、裁判所による不法行為の を検討するのが常識的であろうから、検討対象をさ 格的利益を害することを理由とした不法行為の成立 行われる特殊な事案でない限りは、人格権ないし人 トスピーチが業務妨害などを同時に惹起する態様で 合わせ、現行法での対応可能性を探る。また、ヘイ 稿はヘイトスピーチと不法行為法との関係に照準を れら課題は本特集の別の論攷に委ねることとし、本 に考究されるべき課題と考えられているところ、
[ 特集員へイトスピーチ / ヘイトクライムⅡーー理論と政策の架橋 031 にした不法行為責任の追及は、ヘイトスピーチ被害 救済の有効なアプローチの一つといえよう。 ふれた女性たちが名誉毀損を理由として損害賠償を って」などの発言について、雑誌等を通じて発言に 生殖能力を失っても生きるってのは、無駄で罪です " 悪しき有害ものはババァ " なんだそうだ」「 " 女性が 知事 ( 当時 ) による「・・文明がもたらしたもっとも を問う試みは既になされている。石原慎太郎東京都 個人に向けられていない差別的発言について責任 為法は対処できるのだろうか。 たとえば在日コリアン一般を指しての発言に不法行 特定の個人・法人に向けられないへイトスピーチ、 ヘイトスピーチといえる ( b ) は含まれていない。では、 事実摘示型の ( a ) の諸発言に限られており、典型的な 認めたのは、原告である京都朝鮮学園を対象とする ところで、京都事件で裁判所が名誉毀損の成立を 特定 / 不特定 として②の充足が否定された 7 活動の主眼が差別的見解を世に広めることにあった れた表現全体の内容や活動前後の被告の行動から、 と想像される。京都事件でも、示威活動中に発せら 型的なヘイトスピーチ事案では要件の充足は難しい ーチをめぐる訴訟では②④の要件が争点となり、典 な論評とはいえないと判断されるので、ヘイトスピ 人格を攻撃し貶める表現が用いられるときには公正 る目的ではなかった 6 ) 」と、また、苛烈に被害者の 場合や人格攻撃が目的であった場合には、公益を図 「原告に対する反感ないし敵対感情から表現した を示してきた 5 。 いときには不法行為の成立を認めない、とする法理 当な理由があり、④論評としての域を逸脱していな であることの証明もしくは真実であると信ずるに相 ①②に加え、③前提事実が重要な部分において真実 れるとき、意見論評型の名誉毀損の場合には、上の は真実であると信ずるに相当の理由があると認めら でなされ、③摘示事実が真実であることの証明また の利害に関する事実に係り、②専ら公益を図る目的 高裁は、事実摘示型の名誉毀損の場合には、①公共 や免責事由を慎重に彫琢することが求められる。最 の自由と矛盾するものであってはならず、成立要件 ただし、不法行為法もまた憲法で保障される表現 求めた事案がそれである 8 ) 。東京地裁は「上記のよ うな被告の個人的な見解ないし意見が公表されたこ とによって原告ら個々人の名誉が毀損されたかとい うことになると疑問」だという。その理由は、「発 言は、『生殖能力を失った女性』ないし『女性』と いう一般的、抽象的な存在についての被告の個人的 な見解ないし意見の表明であって、特に原告ら個々 人を対象として言及したものとは認められないから ・・・原告ら個々人についての社会的評価が低下する という道理もない」という点に求められている。 名誉毀損とは異なる事例も一つ紹介しよう。明治・ 大正期のアイヌ民族の健康状態や病歴等を収録した 書籍のなかに、アイヌ民族を劣った民族と決めつけ、 差別表現が多く記載されているとして、アイヌ民族 である原告が、民族的少数者としての人格権が侵害 されたなどとして慰謝料の支払い等を求めた事件が ある ( アイヌ史資料集事件 ) 。札幌地裁はこの不法行 為の成立を認めなかった。理由はこうである。当該 「図書に実名を掲げられたアイヌ民族の中に原告ら ・・・現在に は含まれていないことも明らかである。 至るまでのアイヌ民族全体に対する差別表現がされ たとみる余地があるとしても、その対象は、原告ら 個人でなく、アイヌ民族全体である。・・・・・・本件行為 により直接に侵害を受けた者と原告らとの間には、 原告らがアイヌ民族に属するという以外には、何ら のつながりを認めることができない。アイヌ民族に おける同胞間のつながりが他民族に比べ強く、かっ、 アイヌ民族が民族的少数者であることを考慮して も、〔直接の被害者でなくとも法的保護の対象とな る〕社会通念上親子及び夫婦間における精神的つな がりと同視できる」ほどの特別な関係性があるとは 認められない 9 ) 。 性別、民族といった大きな集団 10 ) に向けられたへ イトスピーチについて、それが「集団に属する個人 の名誉を侵害して不法行為となる」という接近方法 には困難さが付きまとうようである 11 ) 。そもそも、 被害者に生じた実際の損害を填補するとの不法行為 の目的からすれば、原告が被ったとは認定できない 被害について救済の手が差し伸べられないのはやむ を得ざるところであな 2 ) 。そこで、不法行為法を通 じたヘイトスピーチへの対応の試みは、被侵害利益 を個人の権利・利益として巧く構成できるかが勝負 どころとなる川 ( ヘイトスピーチの人種差別としての
032 性質は、何らかの不法行為の成立を与件として、その 土台の上で賠償額に影響を及ばす要素とされる ) 。では、 その土台として、どのような権利・利益の侵害を主 張するのがよいだろうか。 何が害されているのか ヘイトスピーチが特定被害者の社会的評価を低下 させるものとして名誉毀損となりうることは既に確 認した。しかし、社会的評価の低下をもたらすとは 評しつつも、「一応は不法行為法上も保護されるべ 権利というだけの内包・外延の明確さは存しないと 件で原告から主張されていた。これに東京地裁は、 権利」なるものが、先述の都知事の発言にかかる事 これらに類すると思しき「平穏に社会生活を営む されやすくなる 16 ) 」点にみる論者がある。 貶められ続け・・・・・・将来のいわれなき犯罪行為にさら 団に属する人々が社会において不当な立場や地位に が国でも、ヘイトスピーチの一つの特徴を「当該集 を困難にする、という主張が注目を集めている。わ 関心の当然の対象として・・・・・・取り扱われる 15 ) 」こと 仕事場で、何事もなく普通に交流し、社会の保護と 「周りの他者と共に、公共の場所で、通りで、商店で、 近年米国では、ヘイトスピーチは、その被害者が [ 1 ] 平穏に生活する権利 以下、幾つかの可能性を探ってみよう。 し、それぞれ分析しておく必要があるはずである。 足するのではなく、その内実をもとに適切に腑分け 異なっている。とすれば、抽象度の高いラベルで満 バシー権とでは、法益としての性質も成立要件等も 、たとえば名誉権とプライ に限定したとしても ても一一一それも表現の自由との緊張関係を孕むもの があるかもしれない。しかし、一口に人格権といっ ラベルを貼っておけばそれで十分ではないかとの声 あるいは、「人格権 ( 人格的利益 ) の侵害」とだけ 法行為のラベルを、名誉毀損とは別に探すことであ の課題は、ヘイトスピーチ被害の実相に見合った不 とは必ずしもいえないのではないか。そこで、本節 表現は、文脈にもよるけれど、社会的評価が下がる 本から出ていけ」「あいつら気持ち悪い」といった 評しにくいへイトスピーチも数多い。たとえば、「日 き利益であると認めて差し支えないように思われ る」と理解を示してみせた。とはいえ、「発言が、 仮に原告らの上記諸利益を否定する趣旨と受け取ら れるものであったとしても、そのことと現実にその ような諸利益が侵害されたということは区別して考 える必要があ」り、「そのような利益が本件各発言 によって侵害されたとは認められない」と結論づけ ている。すなわち、発言と平穏に社会生活を営む利 益の侵害との対応関係、つまり、当該発言を直接の された。 いわざるを得ない」として、不法行為の成立は否定 対する影響は、それだけ希薄化されたものになると を対象者としているだけに、個々人の権利、利益に め難い。本件各発言については・・・・・極めて多数の者 神的な苦痛を与えるまでの内容、性質のものとは認 能力を失った女性』又は『女性』に対して深刻な精 きない」と認めた。しかしながら、「個々の『生殖 ・・・等、様々な否定的な感情を抱いたことは否定で 言に接したことによって・・・・・・憤り、不快感、虚脱感 も扱われている 19 ) 。裁判所は、「原告らが本件各発 なかった 18 ) 。「内心の平穏」は都知事発言の事件で に属するものである等として不法行為の成立を認め 感等を抱いたに止まり、表現も本来自由な言論活動 とがある 17 。ただし同判決は、原告は不快感、不安 上において尊重されるべきものである」と述べたこ されないという利益を有し、この利益は社会生活の は自己の欲しない他者の言動によって心の静穏を乱 が侵害されたと個人が訴えでた事件において、「人 の領域における心の静穏を乱されることのない利益 団体やその主宰者を誹謗する表現によって、宗教上 できないか。最高裁はかって、自己の帰依する宗教 の状態を「法律上保護される利益」と捉えることは られない状態を強いられているとすれば、この内心 の社会的評価は低下しないとしても、心穏やかでい 集団に向けられたヘイトスピーチによって個々人 [ 2 ] 内心の平穏 に近い。 すである。とすれば、この因果関係の立証は不可能 しても、同種の発言の積み重ねがそれをもたらすは ヘイトスピーチにそうした社会構築の効果があると 立証しなければならないわけである。しかし、仮に 起因として現実に当該利益が害されたということを
【事例 1 】 X は、電子マネーの金額情報が記録された℃ カードについて、これを所持していた A からひ そかに奪い取った。 この事例において、 X は、当該 IC カードに対し て占有侵害・移転を行ったといえ、窃盗罪 ( 235 条 ) の成立を認めることができそうである。しかし、 の事例において問題となるのは、当該 IC カードそ れ自体が保護に値する財物に当たるのかということ である。というのも、 IC カードの素材は単なるプ ラスチック片と IC チップなのであって、そこに注 目すべき「財産的価値」を見いだし難いからである。 また、電子マネーの「財物」性の問題と関連して、 行為者の「不法領得の意思」の有無についても問題 になる。というのも、 X が IC カードを奪った目的 に着目してみると、一般的には当該カード自体を欲 しているのでなく、当該カードに記録された電子マ ネーを手に入れて利用したいと思っているはずだか らである。それゆえ、電子マネーの金額情報とそれ が記録された媒体を分離して検討するならば、 X に は媒体である当該カードについて「不法領得の意思」 がないのではないかという疑問も生まれる 3 以上の問題について参考になるのは、「秘密資料」 が記載されたファイルを盗み出した場合において、 窃盗罪の成否が問題となった下級審の裁判例であ る。この裁判例によると、情報の化体された媒体の 財物性は、情報と媒体が合体した全体をも考慮して 判断すべきであるとされた ( 東京地判昭和 59 ・ 6 ・ 28 刑月 16 巻 5 = 6 号 476 頁 ) 。この理解は、電子マネーと その媒体の関係についても当てはまる。すなわち、 【事例 1 】における IC カードについて、その記録さ れた電子マネーと一体となった全体に着目すると、 IC カードに財産的価値があることを認めて「財物」 性を肯定することができるのであり 4 ) 、また、電子 マネーとそれが記録された IC カードを分離して判 断するのではなく、その全体を考慮して X に不法領 得の意思があると認められ得るのである。 [ 3 ] 電子マネーの「財産上の利益」性 金額情報がウエプ上などのサーバを通じて管理さ れており、その保有者はカードなどある特定の媒体 トル回イヤル ることになる。ただし、自己の所持する媒体に電子 い場合には、「財産上の利益」性を肯定すれば足り 取得、利用に当たってある特定の媒体を必要としな 報がウエプ上などのサーバを通じて管理され、その は、その「財物」性を肯定し、他方で、その金額情 その取得、利用に当たって媒体を必要とする場合に て、その金額情報がカードなどの媒体に記録され、 以上からすると、プリペイド式電子マネーについ 詐欺罪の成否が検討されたのは正当と考えられよう。 に取引が処理されていることから、電子計算機使用 が伴っておらず、また、電子計算機によって機械的 ることである 7 ) 。当該電子マネーには具体的な媒体 を捉えて X が「財産上の利益」を得たと指摘してい のは、判例が、電子マネーの利用権の取得という点 ている この点はともかくとして、注目すべきな 着目してこれを肯定し、結論的に同罪の成立を認め ないにもかかわらず、そのような情報を与えた点に 判例は、 A が電子マネーの購入を申し込んだ事実が 偽の情報」を与えたといえるかが問題となったが、 いる。この事例では、 X が電子計算機に対して「虚 得ること、または他人に得させることと規定されて 磁的記録を作ることによって、財産上不法の利益を な指令を与えて財産権の得喪、変更に係る不実の電 理に使用する電子計算機に虚偽の情報、または不正 2 の前段において、同罪の成立要件は、人の事務処 る ( 最決平成 18 ・ 2 ・ 14 刑集 60 巻 2 号 165 頁 ) 。 246 条の 計算機使用詐欺罪 ( 246 条の 2 ) の成否を検討してい この事例において判例は、 X の行為につき、電子 万 3000 円相当の電子マネーの利用権を得た。 マネーを購入したとする電磁的記録を作り、 1 1 算機に接続されたハードディスクに、 A が電子 子マネーの販売のための事務を処理する電子計 番号等を冒用し、インターネットを介して、電 X は、窃取した A 名義のクレジットカードの 【事例 2 】 ことになる 5 ) 。例えば、次の事例をみてみよう。 ことはできず、「財産上の利益」にすぎないという 化体していないのであるから、「財物」性を認める マネー ) については、そのデータが具体的な媒体に 用することのできる電子マネー ( サーバ管理型電子 によることなく、 ID やパスワードなどによって利 105
[ 特集員へイトスピーチ / ヘイトクライムⅡーー理論と政策の架橋 033 集団に向けられたヘイトスピーチが、その集団に 属する個人の内心に不快・不愉快というレベルに止 まらない深刻な被害をもたらしたと証明できるかど うか、苦痛の深刻度と因果関係の立証が鍵となる。 それぞれ困難な論点ではあるけれども、今後、議論・ 分析が進んでゆくかもしれない圸。 [ 3 ] 名誉感情 ( 侮辱 ) 名誉毀損が成立しない対個人へイトスピーチに関 して、考えうる現実的な他の選択肢としては名誉感 情侵害がある ちらは [ 2 ] と比べると議論が僅 かに先行しており、賠償責任が認められた裁判例も 蓄積されてきている。名誉毀損にいう名誉には名誉 感情 ( 自身の人格的価値についてもっ主観的な評価 ) を含まないとの判例は刑事民事ともに確立している ものの、不法行為法にあっては名誉から独立した利 益として名誉感情を認める見解が一般的である 22 ) また、刑法学では侮辱を事実の摘示なしに社会的評 価を低下させることと捉えて名誉感情侵害とは区別 している一方、民事では両者の区別は曖味のようで、 裁判所は ( 名誉毀損を生じさせない ) 侮辱行為につき、 名誉感情侵害を認めたり人格権侵害を認めたりして いる。なお、原告を直接対象とした発言しか、どれ も今のところ認容例はないようである 23 ) さらに検討すべき論点 本稿が課題とする不法行為法でのアプローチは、 以上みてきたように、可能性にあふれているとは言 ポテンシャル い難いものの、若干の潜在性は見て取れる。この隘 路に道行きを探るにあたっての要検討事項をさらに 幾つか挙げておきたい。 4 の [ 2 ] 、 [ 3 ] に共通しているのは、「内心」や「感 情」という主観的なものを被侵害利益として置いて いることである 24 。しかし、主観的な事情を不法行 為の成立要件とすることには慎重さが求められ、主 観だけを基準とすることは避けねばならない。傷つ きやすさには個人差があり、被害の有無・程度に関 して本人の主張だけで加害責任を認めるとなれば、 現行法体系は大きく揺さぶられる。 [ 2 ] で紹介した 最高裁判決は、「人は、社会生活において他者の言 動により内心の静穏な感情を害され、精神的苦痛を 受けることがあっても、一定の限度ではこれを甘受 すべきであり、社会通念上その限度を超えて内心の 静穏な感情が害され、かっ、その侵害の態様、程度 が内心の静穏な感情に対する介入として社会的に許 容できる限度を超える場合に初めて、右の利益が法 的に保護され、これに対する侵害について不法行為 が成立し得るものと解するのが相当である」と述べ た 25 ) 。アイヌ史資料集事件でも名誉感情侵害に関し て、「社会通念上許される限度を超え、一般的に他 者の名誉感情を侵害するに足りると認められる場合 でなければならない。その判断に当たっては・・・・・行 為者がした表示の内容、表現、態様等の具体的事情、 侵害されたと主張する者の客観的な事情も総合して 検討されるべき」とされた % 。こうした判断枠組み は多くの裁判例で確認できるもので、いずれも成立 の可否を原告の主観に頼るのではなく、客観的な物 差しによって判断しようとしている。 しかしながら、表現の自由保障の観点からすると、 かかる諸要素を考慮した受忍限度論では萎縮効果の 懸念を完全に払拭できていない、と評価したくなる。 表現者に働く萎縮効果を最大限減少させるには、ど のような材料を揃えておけば事後の訴訟で勝てるの か見通しを与えるべく、 ( 個別の事案ごとの適切な判 断を重視する立場からは異論もあろうけれど ) もう少 し明瞭な要件化が求められてよい。たとえば、米国 の不法行為法では、意図的に精神的苦痛をひき起こ すことは独立した不法行為となりうると認識されて きた (lntentional lnfliction of EmotionaI Distress 〔 IIED 〕 )。その成立要件は、④故意または無謀にも (recklessly) 、⑤極端かっ言語道断な行為がなされ、 ④その行為と精神的苦痛との間に因果関係があり、 ④苦痛が深刻であること、と定式化されている。⑥ では単なる侮辱とは到底いえないレベルの性質が要 求され、④も苦痛の強度や持続期間を厳格に判断す ることになっている 27 ) また、加害行為のもつ表現としての価値如何は、 受忍限度論のなかでは数多の考慮要素のワンオプゼ ムの位置づけしか与えられていないようにみえる。 表現の自由に配慮しての免責法理が整えられてきた 名誉毀損の領域とは異なった事態である。その意味 において、仮に今後 [ 2 ] や [ 3 ] の利益が次第に認めら れてゆくとするならば、それはヘイトスピーチ被害 者にとっては好材料といえそうな反面、憲法学の観 点からはただ喜んでばかりはいられない。ちなみに
応用刑法 I ー総論 095 早すぎた構成要件の実現という問題について、最 高裁判所としてはじめて判断を示したのがクロロホ ルム事件最高裁決定 ( 最決平 16 ・ 3 ・ 22 刑集 58 巻 3 号 187 頁 ) である。そこで、同判例をきちんと分析 して判例の考え方を正しく把握しておくことが極め て重要である。 【間題 2 】は、クロロホルム事件の事案を簡略化 したものである。早すぎた構成要件の実現の事例は、 実行の着手、因果関係、故意、因果関係の錯誤など の論点が複雑に絡み合っているため学習者にとって は難解であり、判例の考え方を正しく理解すること は必ずしも容易ではない。そこで、以下、この判例 に焦点を当て、早すぎた構成要件の実現の事例解決 の思考手順を丁寧にフォローすることにしよう。 丙は、夫 V を事故死にみせかけて殺害し生命 保険金を詐取しようと考え、甲に殺害の実行を 依頼し、甲は報酬欲しさからこれを引き受けた。 甲は、実行担当者乙と次のような犯行計画を立 てた。すなわち、乙の運転する自動車を V の運 転する自動車に衝突させ、示談交渉を装って V を乙の自動車に誘い込み、クロロホルムで V を 失神させた上で、 A 港まで運び、自動車ごと V を海中に転落させて溺死させるというものであ った。ある日、乙は、甲の指示に基づき上記計 画を実行に移し、乙車を V 車に追突させた上、 示談交渉を装って V を乙車の助手席に誘い入れ た。同日午後 9 時 30 分頃、乙は多量のクロロ ホルムを染み込ませてあるタオルを V の背後か らその鼻ロ部に押し当て、クロロホルムの吸引 を続けさせて V を昏倒させた ( 以下、この行為 を「第 1 行為」という ) 。その後、乙は、 V を約 2km 離れた A 港まで運んだが、甲を呼び寄せた 上で V を海中に転落させることとし、甲に電話 をかけてその旨伝えた。同日午後 1 1 時 30 分頃、 甲が到着したので、乙は、ぐったりとして動か ない V をあらかじめ A 港にまで運んでおいた V 車の運転席に運び入れた上、同車を岸壁から海 中に転落させて沈めた ( 以下、この行為を「第 2 行為」という ) 。 V は死亡したが、その死因は 溺水に基づく窒息であるか、そうでなければ、 クロロホルム摂取に基づく呼吸停止、心停止、 【間題 2 】クロロホルム事件 窒息、。ーショックまたは肺機能不全であるが、い ずれであるかは特定できなかった。 V は、第 2 行為の前の時点で、第 1 行為により死亡してい た可能性があった。なお、甲、乙は、第 1 行為 自体によって V が死亡する可能性を認識してい なかった。甲、乙および丙の罪責を論じなさい@ すなわち、「もし第 1 行為から死亡結果が発生し かない。 る。このような場合は「場合分け」をして考えるし 基づく窒息死であるか不明であったという点であ または肺機能不全であるか、第 2 行為による溺水に ム摂取に基づく呼吸停止、心停止、窒息、ショック 問題は、 V の死因が、第 1 行為によるクロロホル 討しなければならない。 実に実行した 2 つの行為は、原則どおり、別々に検 る場合の「例外的」処理にすぎない。そこで乙が現 の行為とみるのは、その必要性と合理性が認められ 別々に検討するのが「原則」である。両行為を 1 個 そもそも、 2 つの行為が存在する以上それらは 行為といえるか自体が自明ではないからである。 といえなければならないが、両行為とも殺人の実行 というためには、いずれの行為も殺人罪の実行行為 とはできない。なぜなら、両行為を 1 個の実行行為 行った第 2 行為を当然のように 1 個の行為とみるこ しかし、乙が現実に行った第 1 行為と乙が現実に ものであるという誤解が生じやすい。 為 ) を 1 個の行為とみて殺人罪の成立を肯定したと ルム吸引行為 ) と現実に行った第 2 行為 ( 海中転落行 ら、判例は、乙が現実に行った第 1 行為 ( クロロホ て、その目的を遂げた」という判示がある。そこか と海中に転落させるという一連の殺人行為に着手し ロホルムを吸引させて V を失神させた上で自動車ご ところで、平成 16 年決定の中に、被告人は「クロ るか否かが問題となる。 199 条 ) が成立する。そこで、乙に殺人罪が成立す は共謀が認められるので殺人罪の共同正犯 ( 60 条・ 定する判例・通説の立場からは ) 、甲、乙および丙に に殺人罪 ( 199 条 ) が成立すれば、 ( 共謀共同正犯を肯 なっているが、 V 殺害の実行犯は乙であるから、乙 【間題 2 】では、甲、乙および丙の罪責が問題と 2 死因が特定できない事案の処理方法
102 法学セミナー 2016 / 05 / 8736 LAW CLASS が開始された後の結果発生に至る因果の流れに関す る錯誤の問題に過ぎない」と述べて殺人罪の成立を 認めており ( 仙台高判平 15 ・ 7 ・ 8 刑集 58 巻 3 号 225 頁 ) 、 最高裁決定も原判決の判断を是認していることか ら、最高裁決定も因果関係の錯誤について法定的符 合説の立場から故意を阻却しないという考え方に立 っていると思われる。 [ 3 ] 【問題 2 】の結論 以上より、【問題 2 】の乙の罪責は、準備的行為 ( 第 1 行為 ) から死亡結果が発生したと仮定した場合は 殺人罪、構成要件該当行為 ( 第 2 行為 ) から死亡結 果が発生したと仮定した場合も殺人罪となるので、 いずれにせよ殺人罪 ( 199 条 ) が成立する。 また、乙は、甲、丙両名との共謀に基づいて殺人 行為を行ったものであるから、結局、甲、乙および 丙の 3 名に殺人罪の共同正犯 ( 60 条・ 199 条 ) が成立 する。 * 準備的行為 ( 第 1 行為 ) から死亡結果が発生したと仮 定した場合、準備的行為には殺人罪が成立する。これに対 し、現実に行った第 2 行為は、死亡している被害者を海中 に転落させたことになるので、殺人罪の不能犯の問題とな る。この場合、不能犯にはならないという結論をとると、 第 2 行為は殺人未遂罪となる。また、第 2 行為は殺人の故 意で客観的には死体遺棄を実現したことになり ( 抽象的事 実の錯誤 ) 、殺人罪と死体遺棄罪の構成要件は重なり合わ ないので故意犯は成立せず ( 第 7 講 94 頁 ) 、不可罰となる。 もっとも、殺人未遂罪は第 1 行為の殺人罪に包括して評価 されるので、乙の最終的な罪責は殺人罪となる。なお、乙 が現実に行った第 1 行為と第 2 行為を 1 個の行為とみるこ とはできない。なぜなら、第 1 行為は生命侵害に向けられ た行為であるのに対して、第 2 行為は死亡した被害者を海 中に転落させる行為であり、客観的には生命侵害に向けら れた行為ではないので、両行為に客観的な関連性が認めら れないからである。 5 早すぎた構成要件の実現の射程範囲 最後に、クロロホルム最高裁決定の考え方は、ど のような事案にまで及ぶかを検討しておこう。 [ 1 ] 準備的行為の物理的危険性の有無 クロロホルム事件は、準備的行為 ( 第 1 行為 ) 自 体が ( クロロホルムが多量であったため ) 科学的にみ れば生命侵害の物理的危険性が高かったという事案 であるが、準備的行為自体に既遂結果発生の物理的 可能性が全くなくても実行の着手を認めることは可 能である。なぜなら、判例実務において、実行の着 手は、客観的事情のみならず主観的事情をも考慮し て判断されるべきものであるから、行為者の犯行計 画上の第 1 行為と第 2 行為が一体のものといえれ ば、そのような計画を考慮することによって実行の 着手を肯定することが可能となるからである。 例えば、被害者を確実に眠らせることはできるが 死亡させる可能性が全くない睡眠薬を用いた場合で あっても、計画上の第 2 行為との一体性が認められ る限り、準備的行為を開始した時点で殺人罪の実行 の着手を肯定することができる。 [ 2 ] 第 2 行為の実行の有無 クロロホルム事件は、計画上の第 2 行為 ( 構成要 件該当行為 ) も現実に実行した事案であるが、第 2 行為が行われなくてもクロロホルム事件最高裁決定 の考え方に従って事案を処理すればよい。なぜなら、 早すぎた構成要件の実現は、準備的行為から既遂結 果が発生した点にその本質があり、計画したすべて の行為をやり切ったかどうかは関係がないからであ る。 【問題 3 】衝突後刺殺計画事件 甲は、統合失調症の影響による妄想から 0 自 らが一方的に好意を寄せていた V を殺害し自ら も死のうと考えた。甲は、 V がソフトボールの 経験を有すると聞いていたことなどから、身の こなしが速い V の動きを止めるために自動車を 衝突させて転倒させ、その上で包丁で刺すとの 計画を立てた。ある日の午後 6 時 20 分頃甲 は路上を歩いていた V を認め、 V に低速の自動 車を衝突させて転倒させた上で所携の包丁でそ の身体を突き刺して殺害するとの意図の下に、 歩行中の V の右斜め後方から甲運転の自動車前 部を時速約 20km で衝突させた。しかし、甲の 思惑と異なってぐ V は転倒することはなく、ポ ンネットに跳ね上げられて、後頭部をフロント ガラスに打ちつけた上、甲車両が停止した後、 路上に落下した。 V はその衝撃によって、加療 約 50 日間を要する頭部挫傷、右肩挫傷、右下 腿挫傷の傷害を負った。甲は、意外にも A がポ ンネットに跳ね上げられて、路上に落下し、立 ち上がろうとするその顔を見て、急に V を殺す ことはできないとの考えを生じ、犯行の継続を 中止した。甲の罪責を論じなさい。
098 法学セミナー 2016 / 05 / n0736 LAW CLASS う批判がある。しかし、計画説は、密接性や危険性 を判断する上での判断要素の 1 つに犯行計画を入れ るだけであり、計画自体 ( 主観面 ) の危険性から直 ちに実行の着手を認めるものではないのでこの批判 は当たらない。 例えば、窃盗の故意で電気器具店の店舗に侵入し た場合、犯行計画を考慮しなければ店舗に立ち入り 懐中電灯で物色を開始した時点で ( 店舗内の電気器 具が盗まれる危険性が認められるので ) 窃盗罪の実行 の着手が認められる可能性がある。しかし、行為者 が「なるべく現金を盗みたい」という計画をもって いたことを考慮すると、実行の着手時期をレジスタ ーのある煙草売場に行こうとした時点に繰り下げる ことも可能となるのであって、計画の考慮が着手時 期を常に早めるわけではない。 [ 3 ] 計画的犯行における実行の着手の判断の 考慮要素 行為者が、準備的行為 ( 第 1 行為 ) を経た上で構 成要件該当行為 ( 第 2 行為 ) におよび既遂結果を発 生させるという犯行計画を立てていた事案におい て、準備的行為を開始した時点で実行の着手が認め られるか否かを判断する際には、 ( 前述のように ) 行 為者の犯行計画を吟味する必要がある。 行為者が準備的行為 ( 第 1 行為 ) と構成要件該当 行為 ( 第 2 行為 ) という 2 段階の行為を行って結果 を惹起しようと計画している場合、行為者が頭の中 で計画していた第 1 行為と第 2 行為が、もし現実に そのとおり行われたと仮定したとき、この 2 つの行 為が 1 個の行為と評価できるかが問題となる。 そして、行為者が計画していた準備的行為が、そ の後に予定していた構成要件該当行為の直前に位置 する密接行為であり、準備的行為自体に既遂に至る 客観的危険性が認められれば、行為者は「 1 個の行 為」により結果を実現しようという計画を立ててい たと刑法的に評価できる。そこで、 1 個の行為によ り結果を惹起させるという犯行計画をも考慮すれ ば、行為者が現実に行った準備的行為 ( 第 1 行為 ) の開始時点で実行の着手を認めることができる。 このように、第 1 行為と第 2 行為の一体性が問題 となるとしても、それは行為者が現実に行った第 1 行為と第 2 行為の一体性ではなく、あくまでも行為 者の計画した、すなわち行為者が頭の中で考えた第 1 行為と第 2 行為の一体性が問題となっていること に注意する必要がある。 問題は、計画上の準備的行為と計画上の構成要件 該当行為が 1 個の行為と評価できるかを判断する際 の判断基準は何かである。この点につき、クロロホ ルム最高裁決定は次のような事情を考慮要素として 重視している。 第 1 は、準備的行為 ( 第 1 行為 ) が構成要件該当 行為 ( 第 2 行為 ) を確実かっ容易に行うために必要 不可欠であるといえるかである ( 必要不可欠性 ) 。も し、構成要件該当行為を行うためには準備的行為が 必要不可欠なものであれば、準備的行為を構成要件 該当行為に密接な行為と言いやすいし、準備的行為 自体に既遂に至る客観的危険性を認めやすい。 こで既遂に至る客観的危険性とは、構成要 * なお、 件該当行為 ( 第 2 行為 ) に至る客観的危険性の意味であり、 準備的行為 ( 第 1 行為 ) 自体から既遂結果が直接発生する 危険性を問題にしているわけではない。このことは、例え ば、 ( 一般に窃盗罪の実行の着手が認められるとされてい る ) 物色行為 ( 準備的行為 ) から直接財物の占有移転とい う結果が発生するわけではないことを考えれば明らかであ ろつ。 第 2 は、準備的行為 ( 第 1 行為 ) に成功すれば、 構成要件該当行為 ( 第 2 行為 ) を遂行する上で障害 となるような特段の事情がないことである ( 遂行容 易性 ) 。もし、準備的行為に成功しても、構成要件 該当行為を遂行する上で障害となるような特段の事 情が存在するならば、準備的行為を構成要件該当行 為の密接行為と言いにくいし、準備的行為自体に既 遂に至る客観的危険性を認めにくい。逆に、このよ うな特段の事情が存在しなければ、準備的行為 ( 第 1 行為 ) を完了することにより犯行計画の重要部分 を終えたと評価できる。 第 3 は、準備的行為 ( 第 1 行為 ) と構成要件該当 行為 ( 第 2 行為 ) とが時間的・場所的に近接してい ることである ( 時間的・場所的近接性 ) 。両行為が時 間的・場所的に近接していれば、準備的行為が構成 要件該当行為の密接行為と言いやすいし、準備的行 為自体に既遂に至る客観的危険性を認めやすい。 クロロホルム事件最高裁決定は、以上の 3 点を考 慮要素として指摘しているが、そのほか準備的行為 ( 第 1 行為 ) 自体が成功する可能性が高いかどうか という要素 ( 準備的行為の成功可能性 ) を重視する下 級審判例もある ( 例えば、前掲・名古屋地判昭 44 ・ 6 ・ 25 ) 。たしかに、準備的行為が成功する可能性が低
応用刑法 I ー総論 ければ、準備的行為自体に既遂に至る客観的危険性 が低いことになるので実行の着手は認められない。 クロロホルム事件最高裁決定も、夜間の自動車内に おいて 3 人がかりで被害者に襲いかかればクロロホ ルムを吸引させることは容易にできるし、多量のク ロロホルムを吸引させれば失神させることも容易で あるから、第 1 行為が成功する可能性は明らかに高 かったといえる事案であったため、特にこの点に言 及しなかったのではないかと推測される ( 平木正洋 「判解」最判解刑事篇平成 16 年度 175 頁 ) 。 099 《コラム》 行為の一体性の判断基準 ある行為と別の行為が 1 個の行為といえる ( 一体性 ) ためには、 2 つの行為の間に客観的 : にも主観的にも関連性が認められることが必要 : である。客観的な関連性が認められるためには、 : ① 2 つの行為が実質的に同一の法益侵害に向け られた行為であり ( 法益侵害の実質的同一性 ) 、 : ② 2 つの行為が時間的・場所的に近接している こと ( 時間的・場所的近接性 ) が必要である。 また、主観的な関連性が認められるためには、 ・③ 2 つの行為が 1 つの意思決定に貫かれている ! こと ( 意思の連続性 ) が必要である ( 基本的基準 ) 。 ところが、クロロホルム最高裁決定は、②時 間的・場所的近接性を挙げながら、①や③に 及していない。それは、クロロホルム事件のよ うな計画的犯行において①や③が認められるの は当然だからであろう。すなわち、準備的行為 ( 第 1 行為 ) も構成要件該当行為 ( 第 2 行為 ) も 三被害者の殺害という結果に向けられたものであ るから①法益侵害の実質的同一性が認められる し、もともと構成要件該当行為を行うために準三 三備的行為を行うのであるから③殺害の意思も連 : 続しているといえる。 それでは、クロロホルム最高裁決定が、 ( 前 三述のように ) ②以外に、④必要不可欠性、⑤遂 : 行容易性をも考慮要素にしたのはなぜであろう か。準備的行為が構成要件該当行為の直前に位 : : 置する密接行為であり、準備的行為自体に既遂三 に至る客観的危険性が認められるためには、両三 行為の間に、客観的関連性・主観的関連性が認・ められるだけでなく、富接不可分性が認められ : る必要があるからである。行為の一体性という ! のは、もともとは 2 個存在している行為を接着三 して 1 個の行為とみることを意味するが、 2 つ : ーの行為が密接不可分といえるためには、いわば : 三「より強力な接着剤」が必要であり、それに当三 : たるのが④と⑤なのである ( 付加的基準 ) 。 こうして、クロロホルム事件最高裁決定は、 三準備的行為と構成要件該当行為の一体性を検討 する際に、必要不可欠性、遂行容易性、時間的・ : 場所的近接性という 3 つの要素に注目すべきこ とを明らかにした点で重要な意義がある。 [ 4 ] クロロホルム事件における実行の着手の有無 それでは【間題 2 】で「もし乙の第 1 行為 ( クロ ロホルム吸引行為 ) により V が死亡した場合」に 乙の第 1 行為の時点で殺人罪の実行の着手が認めら れるであろうか。 これを肯定するためには、第 1 行為の時点で既遂 に至る客観的危険性が認められなければならず、そ れは ( 前述のように ) 客観的事情のみならず主観的 事情をも判断資料として判断されなければならない ( 計画説 ) 。 まず、乙の第 1 行為 ( クロロホルム吸引行為 ) は、 客観的にみれば人を死に至らしめる危険性の高い行 為であった ( 客観的事情 ) 。なぜなら、クロロホルム を多量に吸引させればその行為自体から既遂結果が 発生してしまう物理的可能性があるからである。し かし、準備的行為に既遂結果発生の物理的な可能性 があるという事情 ( 客観的事情 ) だけで直ちに実行 の着手を認めるのは適切ではない。 * 例えば、夫に毒入りウイスキーを飲ませて殺害しよう と考えた妻が毒入りウイスキーを押入れにしまっておいた ところ ( 準備的行為 ) 、妻が外出中にたまたま帰宅した夫 が押入れにウイスキーの瓶があることを偶然発見しそれを 飲んだために死亡したという事例では、準備的行為を開始 した時点で夫が死亡する物理的可能性はあったといえる が、妻は後日ウイスキーのグラスを夫に差し出して飲ませ ようと計画していたのであれば、当該準備的行為は、殺人 罪の予備にすぎないと評価すべきであろう。このように 準備的行為に既遂結果発生の物理的な可能性があっても、 常に実行の着手があるとは限らないのである。 そこで、客観的事情に加え、主観的事情、すなわ ち、行為者の犯行計画の内容を吟味する必要がある。 具体的には、計画上の第 1 行為 ( 準備的行為 ) と計 画上の第 2 行為 ( 構成要件該当行為 ) が 1 個の行為
108 法学セミナー 2016 / 05 / n0736 LAW CLASS 先行の同罪の被害者が A ないしは電子マネーの運営 会社であり、後行の同罪の被害者が B 社であれば、 被害者が異なるのであって、この 2 つの罪は併合罪 の関係となろう。しかし、 B 社が電子マネーの運営 会社より代金相当額の支払いを受ける限りで、そこ に損害が発生したとみるべきではない。 X が代金の 支払いを免れてゲームを行ったことから発生した損 害はいずれにせよ A ないしは電子マネーの運営会社 が負担することになり、この損害と先行の同罪にお いて生じた損害は表裏一体のものと評価されるべき であるから、後行の同罪は不可罰 ( 共罰 ) 的事後行 為として処理すれば十分と思われる。 [ 2 ] 媒体に対する複数の不正利用 【事例 3 】では、行為者が IC カードについて 1 回 だけ横領を行ったが、電子マネーの不正利用が複数 回にわたって行われる場合も想定される。この場合 に横領罪はいくつ成立して、その罪数処理はどうな るのであろうか。例えば、次の事例をみてほしい。 【事例 6 】 X は、 A から買い物を頼まれて、その支払い のために A が保有する電子マネーが記録された ℃カードを預かった。しかし、 X は、その買い 物以外に、その℃カードを勝手に利用して、 B 店において雑誌を購入しただけでなく、さらに、 C 店においてジュースを購入した。 これまで述べてきたように、この事例においても、 電子マネーの加盟店、運営会社に対する関係におい て ( 電子計算機使用 ) 詐欺罪の成否を検討するので はなく、 A に対する関係において横領罪の成否を検 討する必要がある。こで問題となるのは、 2 回目 の不正利用について横領罪の成立を認めることがで きるのかということである。既に 1 回目の不正利用 について横領罪の成立を肯定するのであれば、いわ ゆる「横領物の横領」といった問題が生じるのであ る。ここで、 1 個の財物につき、既に横領したとい えるのであれば、さらに当該物を横領することはで きないとも考えられる。これに対して、判例は、従 来の立場を変更して、一度横領した物をさらに同一 の行為者が横領した場合に、その後行行為につき、 別途横領罪が成立し得るとの判断を示した ( 最大判 平成 15 ・ 4 ・ 23 刑集 57 巻 4 号 467 頁 ) 。この判例による と、【事例 6 】において 2 回目の不正利用は文字通 りの「不可罰」的事後行為であると解するのではな く、横領罪の構成要件該当性を肯定することができ る限りにおいて、「共罰」的事後行為として横領罪 の成立が認められることになろう 15 ) 。 X は、一度は IC カードを横領したとしても、未使用の残額部分 について、なお A から委託の趣旨に基づき IC カー ドを管理するよう規範的に要請されているのであ り、それにもかかわらず再度電子マネーを不正利用 したのであれば、この点に基づきさらに横領罪の構 成要件該当性を肯定することができる 16 。したがっ て、先行の横領罪と後行の同罪は、いすれもその成 立が認められるのであり、一体的な財産侵害がなさ れたといえる限りで両者は包括一罪として評価され ると解される。 事実を処理するメソッド 今回は主としてプリペイド式電子マネーに関する 事例を中心に検討したが、これを利用することによ り、商品、サービスの提供を受けることができるの であるから、電子マネー自体に財産的価値を認める ことができる。このことを前提として、電子マネー の金額情報が媒体に記録されている場合には、その 媒体について「財物」性を肯定し、他方で、その金 額情報がウエプ上のサーバを通じて管理されている 場合など、具体的な媒体を伴わない場合には「財産 上の利益」性を肯定することになる。したがって、 媒体の占有を侵害し、その移転をなすことによって 電子マネーを不正に取得する場合には、窃盗罪など を検討し、媒体の占有移転によることなく電子マネ ーそれ自体を不正に取得する場合には、電子計算機 使用詐欺罪などを検討することになる。また、自己 の占有する他人の媒体を使用することにより、電子 マネーを不正に利用する場合には、横領罪を検討す ることになる。なお、今回は十分に検討することが できなかったが、今後は、サーバ管理型電子マネー の不正利用についても財産犯の成否を解釈論ないし は立法論として検討する必要があると思われる 17 ) さて、さらに問題となるのは、電子マネーの不正 取得に続いて不正利用がなされた場合である。 では先行の犯罪と後行の犯罪の罪数処理が問題とな るが、不正利用については占有離脱物横領罪ないし