096 法学セミナー 2016 / 05 / n0736 LAW CLASS た場合は乙に何罪が成立するか〔結論 1 〕」、「もし 第 2 行為から死亡結果が発生した場合は乙に何罪が 成立するか〔結論 2 〕」を検討する。そしてこの 2 つの〔結論 1 〕〔結論 2 〕のうち、被告人に有利な 結論を最終的な罪責と確定する。なぜなら、被告人 の罪責は〔結論 1 〕もしくは〔結論 2 〕のいすれか ではあるものの、そのいずれであるかが証明されて いない以上、「疑わしきは被告人の利益に」の原則 に従い、罪の軽い方の結論を被告人の罪責とすべき であるからである。 これを、【間題 2 】に当てはめた場合、「もし乙の 第 2 行為 ( 海中転落行為 ) により V が死亡した場合」 に乙に殺人罪が成立する〔結論 2 〕ことは明らかで ある。なぜなら、その場合、第 2 行為が死亡結果を 惹起したのであるし、 ( 乙はクロロホルムで失神させ た後海中に転落させて殺害しようと考えていた以上 ) この時点で乙に殺人の故意が認められることについ て争いはないからである。 これに対し、「もし乙の第 1 行為 ( クロロホルム吸 引行為 ) により V が死亡した場合」に乙に何罪が成 立するかについては争いがある。この点、後述のよ うに、判例は殺人罪の成立を肯定するが、学説の中 に殺人未遂罪 ( あるいは傷害致死罪 ) しか成立しな いとする見解も有力である。もし第 1 行為により死 亡した場合も殺人罪が成立する〔結論 1 ー 1 〕ので あれば、〔結論 1 ー 1 〕と〔結論 2 〕を比較し、い ずれも殺人罪が成立するのであるから、乙の罪責は 殺人罪となる。これに対し、もし第 1 行為により死 亡した場合は殺人未遂罪 ( あるいは傷害致死罪 ) し か成立しない〔結論 1 ー 2 〕のであれば、〔結論 1 ー 2 〕と〔結論 2 〕を比較し軽い罪を選択するので、 乙の罪責は殺人未遂罪 ( あるいは傷害致死罪 ) となる。 このように、【間題 2 】では、「もし乙の第 1 行為 ( クロロホルム吸引行為 ) により V が死亡した場合」 に乙に何罪が成立するかが論点となっている。この 場合、乙は第 1 行為だけで既遂結果が発生するとは 考えていないので、それが早すぎた構成要件の実現 の事例といえるためには、前述のように、乙の第 1 行為が殺人罪の実行行為といえることがせひとも必 要である。そこで、第 1 行為の開始時点で殺人罪の 実行の着手が認められるかが問題となる。 3 殺人罪の実行の着手時期 それでは乙の第 1 行為 ( クロロホルム吸引行為 ) の開始時に殺人罪の実行の着手が認められるであろ うか。 [ 1 ] 実行の着手時期の判断基準 刑法 43 条は、「犯罪の実行に着手してこれを遂げ なかった者」を未遂犯として処罰することを規定し ている。犯罪とは構成要件に該当する行為でなけれ ばならないから、「犯罪の実行に着手して」とは、 構成要件該当行為を開始することを意味するはずで ある ( 形式的客観説 ) 。 しかし、形式的客観的説を厳格に貫くと、実行の 着手を認める時期が遅くなりすぎ、刑法の本来の目 的である法益保護が十分に達成できなくなる。そこ で、判例は、古くから、構成要件該当行為の開始で はなくても、構成要件該当行為に密接な行為がなさ れた時点で実行の着手を認めている ( 密接行為説 ) 。 例えば、窃盗罪の実行行為は「窃取」であるが ( 235 条 ) 、窃盗犯人が住居に侵入して「金品物色のため にタンスに近寄る」行為は、占有を侵害して移転す る窃取行為そのものではないが、その直前に位置し 窃取行為に密接な行為であるから、その行為を開始 した時点で窃盗罪の実行の着手が認められる ( 大判 昭 9 ・ 10 ・ 19 刑集 13 巻 1473 頁 ) 。 このように、刑法 43 条の文言を重視する以上、実 行の着手時期は、できる限り構成要件該当行為に近 い時点、すなわち、構成要件該当行為の直前に位置 する密接行為の時点で認められるべきである ( 密接 性 ) 。 他方、実行の着手は未遂犯としての処罰を肯定す るものであるから、それは未遂犯の処罰根拠に遡っ て検討する必要がある。結果が発生していないにも かかわらず処罰が肯定されるのは、法益保護という 刑法の目的を達成するためである。すなわち、刑法 は法益保護を目的とするが、その目的を達成するた めには、法益が侵害された場合だけではなく、法益 侵害の危険があった場合をも処罰する必要がある。 しかし、法益侵害の危険が少しでもあれば処罰する ということになれば、国民の自由な行動が萎縮せざ るをえなくなる。そこで、法益保護と行動の自由の 確保の調和点として、法益侵害の具体的危険性が認 められる場合に限定して未遂犯を処罰すべきことに
102 法学セミナー 2016 / 05 / 8736 LAW CLASS が開始された後の結果発生に至る因果の流れに関す る錯誤の問題に過ぎない」と述べて殺人罪の成立を 認めており ( 仙台高判平 15 ・ 7 ・ 8 刑集 58 巻 3 号 225 頁 ) 、 最高裁決定も原判決の判断を是認していることか ら、最高裁決定も因果関係の錯誤について法定的符 合説の立場から故意を阻却しないという考え方に立 っていると思われる。 [ 3 ] 【問題 2 】の結論 以上より、【問題 2 】の乙の罪責は、準備的行為 ( 第 1 行為 ) から死亡結果が発生したと仮定した場合は 殺人罪、構成要件該当行為 ( 第 2 行為 ) から死亡結 果が発生したと仮定した場合も殺人罪となるので、 いずれにせよ殺人罪 ( 199 条 ) が成立する。 また、乙は、甲、丙両名との共謀に基づいて殺人 行為を行ったものであるから、結局、甲、乙および 丙の 3 名に殺人罪の共同正犯 ( 60 条・ 199 条 ) が成立 する。 * 準備的行為 ( 第 1 行為 ) から死亡結果が発生したと仮 定した場合、準備的行為には殺人罪が成立する。これに対 し、現実に行った第 2 行為は、死亡している被害者を海中 に転落させたことになるので、殺人罪の不能犯の問題とな る。この場合、不能犯にはならないという結論をとると、 第 2 行為は殺人未遂罪となる。また、第 2 行為は殺人の故 意で客観的には死体遺棄を実現したことになり ( 抽象的事 実の錯誤 ) 、殺人罪と死体遺棄罪の構成要件は重なり合わ ないので故意犯は成立せず ( 第 7 講 94 頁 ) 、不可罰となる。 もっとも、殺人未遂罪は第 1 行為の殺人罪に包括して評価 されるので、乙の最終的な罪責は殺人罪となる。なお、乙 が現実に行った第 1 行為と第 2 行為を 1 個の行為とみるこ とはできない。なぜなら、第 1 行為は生命侵害に向けられ た行為であるのに対して、第 2 行為は死亡した被害者を海 中に転落させる行為であり、客観的には生命侵害に向けら れた行為ではないので、両行為に客観的な関連性が認めら れないからである。 5 早すぎた構成要件の実現の射程範囲 最後に、クロロホルム最高裁決定の考え方は、ど のような事案にまで及ぶかを検討しておこう。 [ 1 ] 準備的行為の物理的危険性の有無 クロロホルム事件は、準備的行為 ( 第 1 行為 ) 自 体が ( クロロホルムが多量であったため ) 科学的にみ れば生命侵害の物理的危険性が高かったという事案 であるが、準備的行為自体に既遂結果発生の物理的 可能性が全くなくても実行の着手を認めることは可 能である。なぜなら、判例実務において、実行の着 手は、客観的事情のみならず主観的事情をも考慮し て判断されるべきものであるから、行為者の犯行計 画上の第 1 行為と第 2 行為が一体のものといえれ ば、そのような計画を考慮することによって実行の 着手を肯定することが可能となるからである。 例えば、被害者を確実に眠らせることはできるが 死亡させる可能性が全くない睡眠薬を用いた場合で あっても、計画上の第 2 行為との一体性が認められ る限り、準備的行為を開始した時点で殺人罪の実行 の着手を肯定することができる。 [ 2 ] 第 2 行為の実行の有無 クロロホルム事件は、計画上の第 2 行為 ( 構成要 件該当行為 ) も現実に実行した事案であるが、第 2 行為が行われなくてもクロロホルム事件最高裁決定 の考え方に従って事案を処理すればよい。なぜなら、 早すぎた構成要件の実現は、準備的行為から既遂結 果が発生した点にその本質があり、計画したすべて の行為をやり切ったかどうかは関係がないからであ る。 【問題 3 】衝突後刺殺計画事件 甲は、統合失調症の影響による妄想から 0 自 らが一方的に好意を寄せていた V を殺害し自ら も死のうと考えた。甲は、 V がソフトボールの 経験を有すると聞いていたことなどから、身の こなしが速い V の動きを止めるために自動車を 衝突させて転倒させ、その上で包丁で刺すとの 計画を立てた。ある日の午後 6 時 20 分頃甲 は路上を歩いていた V を認め、 V に低速の自動 車を衝突させて転倒させた上で所携の包丁でそ の身体を突き刺して殺害するとの意図の下に、 歩行中の V の右斜め後方から甲運転の自動車前 部を時速約 20km で衝突させた。しかし、甲の 思惑と異なってぐ V は転倒することはなく、ポ ンネットに跳ね上げられて、後頭部をフロント ガラスに打ちつけた上、甲車両が停止した後、 路上に落下した。 V はその衝撃によって、加療 約 50 日間を要する頭部挫傷、右肩挫傷、右下 腿挫傷の傷害を負った。甲は、意外にも A がポ ンネットに跳ね上げられて、路上に落下し、立 ち上がろうとするその顔を見て、急に V を殺す ことはできないとの考えを生じ、犯行の継続を 中止した。甲の罪責を論じなさい。
応用刑法 I ー総論 103 【間題 3 】において、甲は、自動車を v に衝突さ せ V を転倒させてその場で V を刃物で刺し殺すとい う計画を立てていたところ、その計画によれば、自 動車を V に衝突させる行為は、 V に逃げられること なく刃物で刺すために必要であり ( 必要不可欠性 ) 、 甲の思惑どおりに自動車を衝突させて V を転倒させ た場合、それ以降の計画を遂行する上で障害となる ような特段の事情はなく ( 遂行容易性 ) 、自動車を衝 突させる行為と刃物による刺突行為は引き続き行わ れることになっていたのであって、同時、同所とい ってもいいほどの時間的にも場所的にも近接してい るので ( 時間的・場所的近接性 ) 、自動車を V に衝突 させる行為と刺突行為とは密接な関連を有する一連 の行為というべきであり、このような犯行計画を考 慮すれば、甲が自動車を v に衝突させた時点で殺人 に至る客観的な危険性も認められるから、その時点 で殺人罪の実行の着手があったものと認めるのが相 当である。 また、甲が頭の中で想定していた第 1 行為 ( 衝突 行為 ) と想定していた第 2 行為 ( 刺突行為 ) は「一 連の行為」であり、 1 個の構成要件該当事実である といえるので、甲は、現実に行われた第 1 行為 ( 衝 突行為 ) の際に、「自動車を衝突させて被害者を転 倒させた上で包丁で刺すという一連の殺人行為」を 行う認識があるから、殺人の故意に欠けるところは ない。したがって、甲は殺人未遂罪 ( 199 条・ 203 条 ) が成立する。本問類似の事案において、名古屋高裁 も、同様の考え方に立ち、殺人未遂罪の成立を肯定 している ( 名古屋高判平 19 ・ 2 ・ 16 判タ 1247 号 342 頁 ) 。 同様の裁判例として、ガソリンを散布し ( 第 1 行 為 ) その後に点火する ( 第 2 行為 ) という犯行計画 を立てた被告人が、ガソリンを散布した後、 ( 点火 行為をする前に ) 心を落ち着けるためにタバコを吸 おうとしてライターに火をつけたところ、ガソリン の蒸気に引火して爆発し家屋が全焼したという事案 において、現住建造物等放火罪 ( 108 条 ) の成立を 肯定したものがある ( 横浜地判昭 58 ・ 7 ・ 20 判時 1108 号 138 頁〔ガソリン散布事件〕 ) 。こでも、裁判所は 計画説に立ち、「被告人はガソリンを散布すること によって放火について企図したところの大半を終え たものといってよく、この段階において法益の侵害 即ち本件家屋の焼燬〔筆者注 : 現在では焼損〕を惹 起する切迫した危険が生じるに至ったものと認めら れるから、右行為により放火罪の実行の着手があっ たものと解するのが相当である」とした上で、被告 人の故意責任を検討しこれを肯定している。 ( おおっか・ひろし )
応用刑法 I ー総論 1 01 と ( 重 ) 過失致死罪 ( 211 条ないし 210 条 ) が成立し、 後者は前者に包括されることになる。 しかし、既遂罪の構成要件と未遂罪の構成要件と は、既遂結果が発生したか否かという点だけが異な り、それ以外の面、すなわち、構成要件該当行為 ( 実 行行為 ) の点では両者の構成要件は異ならない。既 遂罪か未遂罪かは、事後的に判断し、構成要件該当 行為から既遂結果が発生した場合が既遂罪で、既遂 結果が発生しなかった場合 ( 因果関係が認められな い場合も含む ) が未遂罪である。これに対し、故意 は ( 結果が発生する前の ) 行為時の行為者の認識の 問題であるから、認識・予見の対象は、実行行為を 行うこと、その実行行為には結果を発生させる危険 があること、したがって、そのような実行行為を行 えば結果が発生することになるであろうということ である。そのような認識がなければ故意があるとは いえないのであって、それは既遂罪であろうが未遂 罪であろうが同じである。既遂罪か未遂罪かは行為 後の判断であって、行為時の故意を既遂の故意と未 遂の故意に分断することは妥当ではない。 このように考えると、【間題 2 】では、準備的行 為 ( 第 1 行為 ) 時に、当該行為によって結果を惹起 するという認識が乙に認められるかが問題となる。 そして、それは、乙の頭の中で結果を惹起するため にどのような行為を行おうと考えていたかを構成要 件の観点から評価し、それが 1 個の行為から結果を 惹起しようとしていたと評価されるのか、 2 個の ( 2 段階の ) 行為から結果を惹起しようとしていたと評 価されるのかを検討することによって判断される。 そこで、問題となるのは、乙が頭の中に描いてい た第 1 行為と第 2 行為に一体性が認められるか否か である。もし、こで一体性を否定すると、第 2 行 為によって結果を発生させると考えている以上、現 実に行った第 1 行為の時点で殺人罪の故意を認める ことができない。そのため、【間題 2 】の乙には暴 行ないし傷害の故意しか認められないので、傷害致 死罪が成立するにとどまる。 これに対し、前述のクロロホルム最高裁決定のよ うに、必要不可欠性、遂行容易性、時間的・場所的 近接性が認められることを根拠として 1 個の行為で あると評価すると、殺人罪の故意を認めることがで きる。なぜなら、行為者が認識していた事実は、構 成要件的に評価すれば、「クロロホルムを吸引させ て海中に転落させる行為」により殺害するという 1 個の構成要件該当事実であり、そのような行為から 結果を発生させるという認識が、現実に V にクロロ ホルムを吸引させるという準備的行為の開始時点で 存在したといえるからである。 [ 2 ] 因果関係の錯誤 準備的行為の当時、乙に殺人罪の故意があるとし ても、その後、行為者の認識とは異なる因果経過を たどって結果が発生しているので因果関係の錯誤が 問題となる。 因果関係の錯誤は、具体的事実の錯誤の 1 類型で あり、判例実務が採用する法定的符合説によれば、 認識した因果経過と現実の因果経過との間に齟齬 ( ズレ ) があっても両者が法的因果関係 ( 危険の現実 化 ) の範囲内で一致するのであれば、その齟齬は構 成要件的には重要でないので故意は阻却されないと される。 【間題 2 】において、乙の準備的行為 ( クロロホル ム吸引行為 ) と V の死亡の間には明らかに因果関係 が認められるし、乙が認識していた因果経過 (V に クロロホルムを吸引させた上で海中に転落させるとい う一連の行為によって死亡させる ) が現実に存在する と仮定した場合に法的因果関係が認められるので故 意は阻却されない。なぜなら、乙は、現実の因果経 過を認識していなくても、それと同じ構成要件的評 価を受ける因果経過を認識している以上、反対動機 の形成が可能であるから、発生した結果について故 意責任を問うことができるからである。 クロロホルム事件最高裁決定は、乙の故意責任に ついて、「実行犯 3 名は、クロロホルムを吸引させ て V を失神させた上自動車ごと海中に転落させると いう一連の殺人行為に着手して、その目的を遂げた のであるから、たとえ、実行犯 3 名の認識と異なり、 第 2 行為の前の時点で V が第 1 行為により死亡して いたとしても、殺人の故意に欠けるところはなく、 実行犯 3 名については殺人既遂の共同正犯が成立す るものと認められる」と判示し ( 前掲・最決平 16 ・ 3 ・ 22 ) 、因果関係の錯誤に直接言及はしていない。し かし、原判決は、クロロホルムを吸引させる行為が 殺人罪の実行行為に当たると認定する際、「なお、 その後、被害者を海中に転落させる殺害行為に及ん でいるが、すでにクロロホルムを吸引させる行為に より死亡していたとしても、それはすでに実行行為
1 OO 法学セミナー 2016 / 05 / n0736 LAW CLASS と評価できるかを検討する。その際の判断基準は、 ( 前述のように ) 、①必要不可欠性、②遂行容易性、 ③時間的・場所的近接性の 3 つである。 まず、 V にクロロホルムを吸引させて失神させる 準備的行為 ( 第 1 行為 ) は、 V を自動車ごと海中に 転落させる構成要件該当行為 ( 第 2 行為 ) を確実か っ容易に行うためには必要不可欠である ( ① ) 。 V を失神させない限り V を運転席に乗せてそのまま海 中に転落させることカ坏可能だからである。 次に、第 1 行為に成功すれば、第 2 行為を行う上 で障害となるような特段の事情はない ( ② ) 。なぜ なら、失神した V を自動車で A 港の岸壁まで運ぶの は容易であるし、夜間であるため発見される可能性 が低く、また、もし V が目を覚ましたとしても再度 クロロホルムを吸引させることは可能であったから である。 さらに、第 1 行為の地点と第 2 行為の地点は距離 にして 2km にすぎず、移動手段は自動車であるから 数分で移動できる距離であるから時間的にも場所的 にも近接しているといえる ( ③ ) 。 こで問題となる時間的・場所的近接性は、あくまで も計画上の第 1 行為と第 2 行為の近接性である。実際には、 第 1 行為終了後第 2 行為に至るまで約 2 時間が経過してい る。もしそれが最初から予定されていたことであるなら約 2 時間経過していることをもとに時間的近接性を検討する 必要がある。その場合、 2 時間の経過があっても、乙自身 は第 1 行為の後直ちに第 2 行為の現場に到着しており、乙 が 1 人で第 2 行為を実行できるにもかかわらす甲を呼び寄 せ甲の到着を待っていたにすぎないということであれば、 この程度の時間で時間的近接性が失われることにはならな いといえよう。 以上より、計画上の第 1 行為と計画上の第 2 行為 は刑法的には 1 個の行為と評価できる。したがって、 1 個の行為によって結果を惹起しようとする乙の犯 行計画をも考慮すると、現実に行われた第 1 行為 ( ク ロロホルムを吸引させた行為 ) の開始時点で、既遂に 至る客観的危険性が認められるので、殺人罪の実行 の着手が肯定される。 クロロホルム最高裁決定も、「実行犯 3 名の殺害 計画は、クロロホルムを吸引させて V を失神させた 上、その失神状態を利用して、 v を港まで運び自動 車ごと海中に転落させてでき死させるというもので あって、第 1 行為は第 2 行為を確実かっ容易に行う ために必要不可欠なものであったといえること、第 1 行為に成功した場合、それ以降の殺害計画を遂行 する上で障害となるような特段の事情が存しなかっ たと認められることや、第 1 行為と第 2 行為との間 の時間的場所的近接性などに照らすと、第 1 行為は 第 2 行為に密接な行為であり、実行犯 3 名が第 1 行 為を開始した時点で既に殺人に至る客観的な危険性 が明らかに認められるから、その時点において殺人 罪の実行の着手があったものと解するのが相当であ る」と判示している ( 前掲・最決平 16 ・ 3 ・ 22 ) 。 4 早すぎた構成要件の実現の処理方法 以上のとおり、乙が現実に行った第 1 行為 ( クロ ロホルム吸引行為 ) は客観的には殺人罪の実行行為 であり、しかも、乙はクロロホルムを吸引させるこ とにより死亡結果が発生するとは思っていない。し たがって、【間題 2 】は、「早すぎた構成要件の実現」 の事例であることが明らかとなった。そこで、この ような「早すぎた構成要件の実現」の事例をどのよ うに解決すべきかが問題となる。 早すぎた構成要件の実現の問題の本質は、行為者 が既遂結果を発生させるために必要であると考えて いた複数の行為のすべてが終わらないうちに既遂結 果が発生していることから、既遂結果について当該 犯罪の故意責任が認められるかという点にある。 そこで、①準備的行為 ( 第 1 行為 ) の時点で当該 犯罪の故意が認められるか、②行為者に因果関係の 錯誤があることから故意が阻却されないかが問題と なる。 [ 1 ] 故意の有無 【間題 2 】において、乙が準備的行為 ( 第 1 行為 ) を開始した時点で殺人罪の故意があるといえるかが ます問題となる。なぜなら、乙は第 1 行為によって 既遂結果が発生するとは考えていないからである。 この点、学説の中には、故意には既遂罪の成立に 必要な「既遂の故意」と未遂罪の成立に必要な「未 遂の故意」があり、既遂の故意を肯定するためには、 行為者において、当該犯罪の既遂結果を惹起するた めに必要な行為をすべて行ったという認識が必要で あるとする見解も有力である。この立場からは、【間 題 2 】のように準備的行為 ( 第 1 行為 ) から既遂結 果が発生してしまった場合には、未遂の故意はある が既遂の故意はないので乙には殺人罪は成立しない ( 未遂故意説 ) 。乙には、殺人未遂罪 ( 203 条・ 199 条 )
応用刑法 I ー総論 095 早すぎた構成要件の実現という問題について、最 高裁判所としてはじめて判断を示したのがクロロホ ルム事件最高裁決定 ( 最決平 16 ・ 3 ・ 22 刑集 58 巻 3 号 187 頁 ) である。そこで、同判例をきちんと分析 して判例の考え方を正しく把握しておくことが極め て重要である。 【間題 2 】は、クロロホルム事件の事案を簡略化 したものである。早すぎた構成要件の実現の事例は、 実行の着手、因果関係、故意、因果関係の錯誤など の論点が複雑に絡み合っているため学習者にとって は難解であり、判例の考え方を正しく理解すること は必ずしも容易ではない。そこで、以下、この判例 に焦点を当て、早すぎた構成要件の実現の事例解決 の思考手順を丁寧にフォローすることにしよう。 丙は、夫 V を事故死にみせかけて殺害し生命 保険金を詐取しようと考え、甲に殺害の実行を 依頼し、甲は報酬欲しさからこれを引き受けた。 甲は、実行担当者乙と次のような犯行計画を立 てた。すなわち、乙の運転する自動車を V の運 転する自動車に衝突させ、示談交渉を装って V を乙の自動車に誘い込み、クロロホルムで V を 失神させた上で、 A 港まで運び、自動車ごと V を海中に転落させて溺死させるというものであ った。ある日、乙は、甲の指示に基づき上記計 画を実行に移し、乙車を V 車に追突させた上、 示談交渉を装って V を乙車の助手席に誘い入れ た。同日午後 9 時 30 分頃、乙は多量のクロロ ホルムを染み込ませてあるタオルを V の背後か らその鼻ロ部に押し当て、クロロホルムの吸引 を続けさせて V を昏倒させた ( 以下、この行為 を「第 1 行為」という ) 。その後、乙は、 V を約 2km 離れた A 港まで運んだが、甲を呼び寄せた 上で V を海中に転落させることとし、甲に電話 をかけてその旨伝えた。同日午後 1 1 時 30 分頃、 甲が到着したので、乙は、ぐったりとして動か ない V をあらかじめ A 港にまで運んでおいた V 車の運転席に運び入れた上、同車を岸壁から海 中に転落させて沈めた ( 以下、この行為を「第 2 行為」という ) 。 V は死亡したが、その死因は 溺水に基づく窒息であるか、そうでなければ、 クロロホルム摂取に基づく呼吸停止、心停止、 【間題 2 】クロロホルム事件 窒息、。ーショックまたは肺機能不全であるが、い ずれであるかは特定できなかった。 V は、第 2 行為の前の時点で、第 1 行為により死亡してい た可能性があった。なお、甲、乙は、第 1 行為 自体によって V が死亡する可能性を認識してい なかった。甲、乙および丙の罪責を論じなさい@ すなわち、「もし第 1 行為から死亡結果が発生し かない。 る。このような場合は「場合分け」をして考えるし 基づく窒息死であるか不明であったという点であ または肺機能不全であるか、第 2 行為による溺水に ム摂取に基づく呼吸停止、心停止、窒息、ショック 問題は、 V の死因が、第 1 行為によるクロロホル 討しなければならない。 実に実行した 2 つの行為は、原則どおり、別々に検 る場合の「例外的」処理にすぎない。そこで乙が現 の行為とみるのは、その必要性と合理性が認められ 別々に検討するのが「原則」である。両行為を 1 個 そもそも、 2 つの行為が存在する以上それらは 行為といえるか自体が自明ではないからである。 といえなければならないが、両行為とも殺人の実行 というためには、いずれの行為も殺人罪の実行行為 とはできない。なぜなら、両行為を 1 個の実行行為 行った第 2 行為を当然のように 1 個の行為とみるこ しかし、乙が現実に行った第 1 行為と乙が現実に ものであるという誤解が生じやすい。 為 ) を 1 個の行為とみて殺人罪の成立を肯定したと ルム吸引行為 ) と現実に行った第 2 行為 ( 海中転落行 ら、判例は、乙が現実に行った第 1 行為 ( クロロホ て、その目的を遂げた」という判示がある。そこか と海中に転落させるという一連の殺人行為に着手し ロホルムを吸引させて V を失神させた上で自動車ご ところで、平成 16 年決定の中に、被告人は「クロ るか否かが問題となる。 199 条 ) が成立する。そこで、乙に殺人罪が成立す は共謀が認められるので殺人罪の共同正犯 ( 60 条・ 定する判例・通説の立場からは ) 、甲、乙および丙に に殺人罪 ( 199 条 ) が成立すれば、 ( 共謀共同正犯を肯 なっているが、 V 殺害の実行犯は乙であるから、乙 【間題 2 】では、甲、乙および丙の罪責が問題と 2 死因が特定できない事案の処理方法
094 法学セミナー 2016 / 05 / no. 736 応用刑法 I ー総論 [ 第 8 講 ] 早すぎた構成要件の実現 明治大学教授 大塚裕史 拳銃が暴発し、弾丸は壁を貫通し隣室の v に命 ◆学習のホイント◆ 中し V が死亡した。甲の罪責を論じなさい。 1 判例実務が、実行の着手の判断にあたり、 行為者の主観的事情 ( 犯行計画 ) を考慮す 早すぎた構成要件の実現は、行為者が既遂結果を 発生させるために必要であると考えていた複数の実 る理由、およひ、犯行計画の分析の仕方を 説明できるようにする。 行行為をすべて行う前に既遂結果を発生させた場合 2 早すぎた構成要件の実現とはどのような場 をいう。【間題 I 】では、甲としては拳銃の手入れ ( 第 合を指すのか、また、早すぎた構成要件の 1 行為 ) の後に隣室に立ち入って拳銃を発砲 ( 第 2 行為 ) させて V を死亡しようという計画であったが、 実現の事例では何が問題となり、それにつ 予期に反して拳銃の手入れ行為から殺害結果が発生 いてとのように見解が分かれるのかを理解 している。甲の認識より時間的に早く既遂結果が発 生してはいるが、【間題 1 】は早すぎた構成要件の 実現の事例ではない。なぜなら、第 1 行為の時点で 1 早すぎた構成要件の実現とは何か 殺人罪の実行に着手していないので、第 1 行為は殺 早すぎた構成要件の実現 ( 早すぎた結果の発生 ) 人罪の実行行為とはいえないからである。 とは、行為者が第 1 行為 ( 準備的行為 ) の後、第 2 したがって、殺害結果が殺人罪の実行行為から発 行為 ( 構成要件該当行為 ) によって結果を惹起する 生したとはいえず、行為者が計画していた殺人罪の 計画であったが、予期に反して第 1 行為から結果 ( 既 成否 ( これが早すぎた構成要件の実現の事例の検討課 題 ) を検討する必要はない。【間題 I 】の甲には、 遂結果もしくは未遂結果 ) が発生した場合をいう。 その場合、行為者が計画していた犯罪 ( 既遂罪もし 殺人予備罪 ( 201 条 ) および過失致死罪 ( 210 条 ) が くは未遂罪 ) が成立するかが問題となる。 成立する。 早すぎた構成要件の実現の問題といえるために 第 2 に、第 1 行為 ( 準備的行為 ) 自体によって結 は、次の 2 つの前提をクリアする必要がある。第 1 果を惹起する可能性があることを認識していないこ に、第 1 行為 ( 準備的行為 ) が実行行為といえるこ とが必要となる。第 1 行為から結果 ( 既遂結果もし とが必要である。早すぎた構成要件の実現が問題と くは未遂結果 ) が発生した場合、 ( 第 1 行為から結果 なるのは、行為者が当該犯罪の実行に着手した後に を発生させる意図がなくても ) 第 1 行為に結果を発生 させる危険性が高いことを認識していたのであれ 行為者の認識よりも早い時点で既遂の結果が発生し ば、第 1 行為の時点で結果惹起についての故意が認 た場合である。 められ、結果惹起について故意犯が成立することに 異論はない。したがって、早すぎた構成要件の実現 は、第 1 行為自体から結果が発生することを認識し ていない場合に問題となりうるのである。 【間題 1 】 甲が、隣室にいる V を射殺しようと企て、そ の準備として拳銃の手入れをしていたところ、
LAW JOURNAL 口一ジャーナル えん罪救済センターの始動 001 JOURNAL ロー・ジャーナル 法学セミナー 2016 / 05 / no. 736 冤罪を訴える事件の調査や弁護の支援を無償で行 う「えん罪救済センター」 1 が、 2016 年 4 月から立 命館大学を拠点として活動を開始する。いわゆる「イ ノセンス・プロジェクト」の日本版であり、国内で は初の取り組みとなる。 1 イノセンス・プロシェクトとは 「イノセンス・プロジェクト」とは、冤罪被害者 の救済を行うための調査・弁護活動を無報酬で行う 団体のことである 2 。 1992 年、ニューヨークのカー ドーゾ・ロースクールに第 1 号のイノセンス・プロ ジェクトが誕生した 3 ) 。四半世紀を経て、現在では アメリカだけで 60 以上のプロジェクトが存在する。 各州に、少なくともひとつのプロジェクトがある。 第 1 号のイノセンス・プロジェクトは、 DNA 鑑 定を行うことで無実が明らかになる事件 ( 一部の性 犯罪や殺人罪などが典型的な事件 ) のみを受任してい る 4 。そうしたことから、 DNA 鑑定を活用すること によって冤罪支援活動を行っている団体のイメージ が強いようである。たしかに初期に立ち上がったプ ロジェクトはそうだったが、活動が円熟期を迎えた 現在、 DNA 鑑定では冤罪を晴らすことができない 事件に支援対象を広げているプロジェクトも多く存 在する。代表的な例は、放火事件である。事件直後 の火災調査によって放火であると判断され有罪を受 けたが、元の火災調査自体が科学的に見て誤ってい たという場合である。アメリカでは火災の原因を科 学的に分析するという取組みが進んできた。そのこ とによって、以前の火災調査が、実は非科学的に行 われていたことが明らかになった。このような新た な知見が、放火事件の冤罪救済活動に結びついてい る。 なお、全てのプロジェクトに共通するのが、原則 として、「無実」を主張する者の事件 ( 犯罪性・犯人 性を争う事件 ) のみを受任するという点である。 イノセンス・プロジェクトの活動形態として日本 日本版イノセンス・プロジェクトの可能性 甲南大学教授 笹倉香奈 で良く知られているのは、ロースクールをベースに したプロジェクトのモデルである。クリニック科目 ( 臨床教育科目 ) のひとっとしてロースクールの中に 実務家教員によって開講される。学生はその講義を 履修することで冤罪被害者の弁護活動に参加する。 実際の事件の弁護活動を実務家とともに行うこと は、学生にとってまたとない実践的教育の機会とな る。無償の弁護活動であるから、社会にも貢献でき る。このような形態のほかにも、公設弁護人事務所 やその他の一般の弁護士事務所の中に設置されてい るプロジェクトや、 NPO として活動するプロジェ クトも存在する。 なお、アメリカでは州ごとに大きく法制度が異な り、弁護士は自身が登録している州においてのみ弁 護活動を行うことができる。そのような理由から、 「イノセンス・プロジェクト」という同じ名前がつ いていても、一つひとつのプロジェクトはそれぞれ 独立した団体であり、個別に活動を行っている。 2 イノセンス・フロシェクトの影響 アメリカでは、 DNA 鑑定によって冤罪を晴らさ れた事件は 337 件に上る ( 2016 年 3 月 25 日現在 ) 。 のうち 20 件は、死刑判決を言い渡されていた事件だ った。これらの事件の多くにイノセンス・プロジ ェクトが関わった。膨大な数の冤罪事件は、社会を 大きく揺るがせた。 1990 年代までのアメリカでは、 冤罪事件があるとの認識が一般的ではなかったので ある。このような状況の下、プロジェクトが DNA 鑑定を用いたことは、画期的だった。 DNA 鑑定は、 科学的に「完全な無実」を立証することのできる証 拠だからである。全く無実であることが明らかであ る人々が有罪を言い渡され、時には死刑を言い渡さ れていたという事実は、人々に衝撃を与えた。「無 実の人を処罰してはいけない」という命題には、ど のような立場の者も疑問を差し挟むことができな い。さらに、これらの事件を分析することによって、
127 B I 戦争に抗する 子ども法 そども法 ケアの倫理と平和の構想 岡野八代 = 著 大村敦志・横田光平・久保野恵美子 = 著 岩波書店 / 2015 年 10 月刊 有斐閣 / 2015 年 9 月刊 四六判 / 本体 2800 円十税 A 5 判 / 本体 2500 円十税 戦争に抗する深い思考へのいざない 「子ども」をめぐる法 本書は、 9.11 以降のテロとの戦争の中で犠牲になった 子どもは、一個の人格として尊重され、その権利が守ら 人々や、「慰安婦」被害者など具体的な生の経験から、反 れるべき存在である。そして、家族や社会を通して成長し、 暴力・反戦争について思考する。 2015 年夏、日本に住む やがては社会の新たな担い手となっていく。しかし、その 多くの者たちが立憲民主主義が揺るがされる不安に直面し 成長の過程では、親や学校等と非対称な関係に置かれる危 た。私たちにはこの時代を生き抜き未来の平和に繋ぐため うい存在でもある。いじめや虐待、非行といった問題がと の、理論と思考が必要である。そして立ち向かう情萍も りざたされるなかで、子どもの過去や現在だけではなく将 戦争は、「市民の命を犠牲にしてまで国益を守るための 来を見据えて、いかにその人格を尊重し、その権利を守る 手段であ」り、立憲民主主義とは相容れない。では、どの ことができるのだろうか。 ように戦争に抗するのか。本書では、立憲主義の原点に集 本書は、「子ども」をめぐる様々な法を分かりやすく教 結し、個々人が「民主主義的な活動を広げ、私たちの手に、 えてくれる。各章は経験した、あるいは耳にしたことのあ 政治の価値を取り戻すことである」と述べられている。本 るような事例をもとに、そこでの問題点、関連する法制度、 書は、戦争が人間を傷つけるという戦争の本質から目をそ 望ましい解決の方向性を読者に示している。重要な条文が らさない。戦争とは何か、国家とは何か、立憲主義、民主 随所に掲載され、法学の基礎知識にも触れているため、初 主義とは何かといった根本的な問いを読者に投げかけ、暴 学者にも読みやすい。かって「子ども」だった方だけでな カ・戦争に抗するための思想を紡ぎ出す。 く、今「子ども」の方にも、手に取って欲しい一冊である。 死刑に直面する人たち WTO ・ FTA 法入門 グローバル経済のルールを学ぶ 佐藤大介 = 著 小林友彦・飯野文・小寺智史・福永有夏 = 著 岩波書店 / 2016 年 1 月刊 法律文化社 / 2016 年 2 月刊 四六判 / 本体 2600 円十税 A 5 判 / 本体 2400 円十税 我々は皆殺人者である グローバル経済のルールを学ぼう ! あなたは人を殺したことがありますか。この問いにピン 最近、新聞やテレビで TPP ( 環太平洋バートナーシップ ) とこない人は、是非この本を手に取ってほしい。国家とし に関するニュースをよく見かけるのではないだろうか。 て死刑制度を残すということは、国民が、殺人を行ってい TPP をはじめとする地域貿易のルールである自由貿易協定 ることにほかならないからだ。自分の手で人の命を殺めて (FTA) とはどのようなものだろうか。そして、国際貿易 いるという事実は極めて重たいはずだが、なぜそれを実感 のルールである世界貿易機関 (WTO) と FTA との関係は できないのか。本書はこの問題に正面から取り組む。 どうなっているのだろうか。本書は、 WTO と FTA とを対 死刑の是非を問うための前提作業として、本書は、死刑 比させるという新しいアプローチをとりながら、グローバ 囚の日常やその執行のあり方に迫る。その上で、死刑囚に ル経済のルールについて分かりやすく説明している。また、 対するアンケート、 ( 元 ) 死刑囚の家族及び被害者への調査、 初学者にも分かり易い解説でありながら、その内容は充実 各分野の専門家へのインタビューなどを通じて、死刑制度 しており、 WTO はもちろん、日米欧が締結している FTA に対する色々な意見が偏ることなく紹介されている。 までも取り扱っている。従来の国際経済法のテキストは、 なかなか身近に感じることのない死刑制度ではあるが、 分量が多く難解なものが多かった。本書は、国際経済法の 例えば、本書にも紹介のある刑務官という職業を、自身の 入門書として簡潔で内容も充実しており、法学部生にはも 進路選択の一つとして選択しうるかというあたりから考え ちろん、法学を学んだことのない方にも是非お勧めしたい てみるのもいいかもしれない。 一冊である。 戦争に抗 平和 死刑に 直面する大第 人たち 0 ・ FTA 法人
LAW JO [ 飛、 A しロー・ジャーナル 006 れる犯罪事実の事案が重大であり、 これを処罰しな 5 司法と行政の距離 ければ著しく正義と衡平に反すると認められる場合 「善処」を要請する文書の提出 には、裁判所が縮小認定を行う義務を負うとしてい る ( 上記大法院 2009 年判決 ) 。このような考え方は、 本件では、韓国外交部から法務部に渡された文書 この文書 従前から採られてきた ( 大法院 1997 年 2 月 14 日判決な が、検察を通じて裁判所に提出された 5 は、日韓関係を考慮し「善処」を要請するものであ ど多数 ) 。たとえば、検察が殺人罪のみを公訴状に り、判決宣告前日に届けられた。 2015 年 12 月 17 日付 記載して起訴し、公訴状変更を行わなかったため、 の KBS 報道によれば、この文書は「量刑の参考資料」 傷害致死の認定がなされすに無罪が言い渡されるこ ともある ( 春川地裁 2015 年 7 月 3 日判決 ) 。名誉毀損 として提出されたという。そして、本件裁判所は、 罪についても、虚偽事実による名誉毀損 ( 刑法 307 判決の宣告に先立ち、この文書を朗読した。このこ 条 2 項 ) で訴追され、審理途中で当該事実の虚偽性 とは、司法の独立に疑問を抱かせる。 が否定された事案で、事実の摘示による名誉毀損 ( 同 韓国では、政治的判断が司法に持ち込まれること 条 1 項 ) の成立を認定しなかった原審の判断が肯定 がある。過去には、 2006 年の米韓 FTA を巡り、通 商部がアメリカから受け取った文書を裁判所に提出 されている ( 大法院 2008 年 10 月 9 日判決 ) 。 ちなみに、上記大法院 2009 年 5 月 14 日判決は、縮 したこともあった ( ソウル行政裁判所 2012 年 4 月 12 日 小認定を行うべきであるとした。この事案は、婚姻 判決 ) 。盧武鉉政権下では、与党が国会で少数となり、 関係にある者の手足を縛り、殴った上でべランダか 議会での解決が困難になった首都移転問題が憲法裁 ら突き落として殺害したという殺人事件である被 判所に委ねられた ( 憲法裁判所 2004 年 10 月 21 日決定 ) 。 韓国の司法と行政の距離感は、 ( 1 ) 権威主義体制期に 告人は、被害者を殴り、両手足を縛った事実を認め つつ、殺害の故意ゃべランダから突き落とした事実 司法が政権の手足として濫用され、両者の接近に抵 抗感が少ないことや、 ( 2 ) 民主化後の司法積極主義へ を否認していた。原審の光州高裁は、殺人について の転換なども影響していると思われる 6 合理的な疑いがない程度の証明が行われていないと した上で、傷害や暴行等の縮小認定を行わすに無罪 もっとも、本件では、「善処」しなくても無罪判 決を言い渡すことができた ( 3 ・ 4 参照 ) 。提出され を言い渡した ( 光州高裁 2006 年 12 月 29 日判決 ) 。これ た文書は事実認定に影響していないと思われる。加 に対して、大法院は、上記テーゼを確認した上で、 ( 1 ) 被告人が認めている事実を有罪と認定しても、そ 藤氏は、大統領府が追い詰められていた ( 本件が有 の防禦権行使に実質的な不利益をもたらすおそれは 罪の場合には国際社会から、無罪の場合には国内反 日勢力から批判を受ける ) と指摘した上で、文書は ないこと、 ( 2 ) 婚姻関係にあって互いに保護する義務 大統領府が裁判所に提出したものであると解してい がある被害者に対する犯行であり、縮小認定される る。そして、既に無罪判決を書き上げ、世論や大統 犯罪事実が軽微であるとは言えないことを挙げた。 領府を敵に回す怖さを感じていた裁判官の許へタイ そして、「検察官による公訴状変更が行われなかっ たという理由のみで他の犯罪事実を処罰しないこと ミング良く文書が届いたため、読み上げたのではな は、適正手続による実体的真実の発見という刑事訴 いかと推測している 訟の目的に照らし、著しく正義と衡平に反する」と 6 韓国内の評価と影響 8 ) 述べ、原審無罪判決を破棄し、事件を原審裁判所へ 高麗大・洪榮起教授は、韓国の法学者は本稿で挙 差し戻している。 げた諸判例を周知しているため、本件で有罪判決が 本件は、これらの判例を踏まえ、公訴状記載の特 宣告されることはないと考えていたと言う。また、 別法上の名誉毀損 ( 情報通信網法法 70 条 2 項 ) と、縮 検察も同様であるため、無理な起訴であると承知し 小認定によって認め得る刑法上の名誉毀損 ( 刑法 ていたのではないかと言う。同大学校の河泰勲教授 307 条 2 項 ) を比較し、本件記事の作成目的などを は、本件は検察への政治的影響が明確に示された事 考慮した結果、刑法 307 条 2 項による処罰をしなく 例であるとし、国際的な恥であると言う。 ても著しく正義と衡平に反しないと判断したものと このような見解は、当初から指摘されていた。本 思われる。 件記事公表直後の 2014 年 8 月 20 日には、ハンギョレ 0 二 =