2 契約の成立の認定 契約が「申込み」と「承諾」という相対立する意思 表示の合致によって成立することは、ほとんど自明の ことのように語られるが、現実には様々な契約締結の 態様があるため、果して契約が本当に成立したのかど うか、何時成立したのかがはっきりしないことも少な くない。日常的感覚では、なし崩し的に契約関係に入 り、なし崩し的に履行を終え、契約関係から抜け出し ていることもまれではない。 その際、小売店や屋台での買物のように、その場で 商品を受け取り、代金支払いも済ませてしまうような 場合にれを「現実売買」という ) にはあまり問題がない。 逆に、国際契約のように、にぎにぎしく調印式を行っ て契約の成立を内外に宣言するような場合も、やはり 疑問の余地が少ない。問題になることが多いのは、① 契約の効力を直ちに発生させないで「予約」という形 をとっている場合、②申込みと承諾の間に時間的間隔 がある場合、③意思表示としての申込みや承諾が明確 でなかったり、不完全であるような場合などである。 (a) 予約の意義 宜上、ここで触れておー ( 1 ) 予約 以下、分説しよう。 っ。 ( 556 条以下 ) 、有償契約一般に関わるため ( 559 条 ) 、便 「予約」については、売買総則の款に規定があるが 「一方予約 ( 片務予約 ) 」の二種類があると言われ、 れば他方が本契約を成立させる債務を負うことになる る「双方予約 ( 双務予約 ) 」と、相手方が請求しさえす 買手の双方に、本契約を将来成立させる債務を負わせ 万円での売買を「本契約」と呼ぶ。予約には、売手と 約」である。このとき、将来締結される甲地の 1000 約を締結する旨を AB 間で合意しておく。これが「予 元に代金を用意できない。そこで、将来、この売買契 甲地を B から 1000 万円で買おうと考えたが、現在手 たとえば、不動産売買契約に関して、 A が、将来、 総合的研飛 [ 日本評論社、 2004 年 ] が詳しい ) 。 な「契約」である ( 予約については、椿寿夫編「予約法の う債権・債務を発生させる効力を生じるもので、立派 に聞こえるが、それによって本契約を成立させるとい 「予約」というと、本体の「契約」とは別物のよう 083 債権法講義 [ 各論 ] 8 の性質は解釈で決せられる。いずれにせよ、承諾義務 者に向かって相手方が予約を本契約にしようという申 込みをすると、これによって両当事者に本契約を締結 すべき義務が発生する。 では、相手が承諾しないときはどうすればいいか。 裁判で、強制履行の形で成立させてもよい ( 414 条 2 項 但書き参照 ) 。しかし、もともと承諾義務を負う者に対 し、あえて裁判で契約を成立させるくらいであれば、 いきなり履行請求を認めたところで不都合ではあるま い ( 承諾を拒んでいることに何か理由があったとしても、履 行の請求の訴えに対して抗弁の形で争わせても遅くはない ) 。 そこで、 556 条は、契約を成立させる権利を持ってい る方が、予約に基づいて契約を成立させる旨の意思表 示をするとにれを「予約完結権の行使」という ) 、契約 が自動的に成立することにした。なお、 556 条が「売 買の一方の予約」としているのは、「一方の当事者が 本契約を成立させる権利を持っている予約」のことを 意味しており、上述の「一方予約 ( 片務予約 ) 」とは異 なるので、注意されたい ( 双方予約も含まれる ) 。 れていると推定する規定をおいた ( 一般に「手付流れ」・ 払えば契約を自由に解除できる趣旨で、手付が交付さ た方が手付金 + 手付金同額 ( すなわち手付の倍額 ) を支 手付を払った方がこれを放棄するか、手付を受け取っ について、 557 条で、ひとます「解約手付」、つまり 民法は、こうした様々な目的で交付される「手付」 ろう ( 成約手付 ) 。 の交付が特約によって契約の成立要件となる場合もあ する趣旨 ( 違約手付 ) が考えられる。そのほか、手付 として「手付」を没収することにして、不履行を牽制 付」を交付する場合や、約東に反したことに対する罰 た場合に備え、その際に生じる損害の予定として「手 旨 ( 解約手付 ) 、第 3 は、一方が債務の履行をしなかっ うな落度がなくとも契約を自由に解除できるとする趣 ったことにする、つまり相手方に別に債務不履行のよ 第 2 は、手付金だけの損失を覚すれば、契約をなか 達したことを証拠だてる「証拠金」の趣旨 ( 証約手付 ) 、 ある。第 1 は、契約なり予約なりに基づいて、合意に う理解すべきかについては、いくつかの見方が可能で 交付されることもある。この、「手付」なるものをど とも少なくない。もちろん、本契約の成立時に手付が 予約に付随して、「手付・手付金」が交付されるこ (b) 手付の角尺
084 法学セミナー 2016 / 1 1 / no. 742 「手付倍返し」などという我が国の旧来の慣行を尊重した制度 である ) 。しかし、翻って考えてみると、諾成契約では 合意だけでも契約は成立するはずであるのに、更に手 付まで交付すると、逆に解消を容易にし、契約の拘束 力を弱める結果になってしまうことには疑問を生ず る。そこで解釈論としては、「解約手付」としての推 定をなるべく限定しようとする学説が有力である。た だ、判例は条文に忠実に、しかも広範に「解約手付」 であるとの推定を行なっており、これを争う者には、 その旨の立証責任が課せられる ( 最判昭和 29 ・ 1 ・ 21 民 集 8 巻 1 号 64 頁 = 売買判百 7 事件 ) 。また、「手金」とか「内 金」などと呼ばれるものも、一般に判例では「解約手 付」と解され、「違約金」であると明示された手付で さえ「解約手付」の趣旨を含むものとした例も存在す る ( 最判昭和 24 ・ 10 ・ 4 民集 3 巻 10 号 437 頁 = 判百Ⅱく第 6 版 > 47 事件 ) 。手付の額の多寡も、その性質に影響しな いとされる ( 大判大正 10 ・ 6 ・ 21 民禄 27 輯 1173 頁 ) 。契約 解消のチャンスをなるべく確保しようとする自由主義 的発想によるものであろうが、意思解釈の問題として は再考の余地があるように思われる。 (c) 解約手付と「履行の着手」 解約手付カ咬付された場合、手付流しまたは手付倍 返しで解除ができるのは、「当事者の一方が契約の履 行に着手するまで」と限られている ( 557 条 ) 。そこで、 何をもって「履行の着手」とみるかが問題となる。最 大判昭和 40 ・ 11 ・ 24 ( 民集 19 巻 8 号 2019 頁 = 判百Ⅱ < 第 6 版 > 48 事件 ) は、「客観的に外部から認識し得るよう な形で履行行為の一部をなし、又は、履行の提供をす るために欠くことのできない前提行為をした場合」に 履行の着手があるとしている。 【最大判昭和 40 ・ 11 ・ 24 】事案は、 Y が大阪府 から不動産の払い下げを受けて、さらに X に売り 渡すという契約について、 X から 40 万円の手付が 支払われていたものであるが、大阪府からの払い 下げを受けて Y 名義に登記を移した時点で価格が 急騰したために、 Y が手付を倍にして提供しつつ 解除の意思表示をしたものである。最高裁は、 Y の行為をもって「特定の売買の調達行為にあたり、 単なる履行の準備行為にとどまらす、履行の着手 があった」と解している。しかし、問題はその次 で、相手方たる X のほうは、未だ履行に着手して いるわけではないから、不測の損害を被るわけで はないとして、結果的に Y の解除権行使を認めた。 つまり、自ら履行に着手した場合でも、相手方が 履行に着手するまでは 557 条 1 項にいう解除権を 行使できるというわけである。 売主が手付の倍額を戻して売買契約を解除するに は、買主に対して右額を現実に提供することを要する ( 最判昭和 51 ・ 12 ・ 20 判時 843 号 46 頁、最判平成 6 ・ 3 ・ 22 民 集 48 巻 3 号 859 頁。なお改正法案 557 条 1 項でこの趣旨を明文 化し、宅建業法 39 条 2 項もこれに沿って改正される予定であ る ) 。 ( 2 ) 申込みと承諾の認定 (a) 申込みと申込みの誘引 A が B の所有する甲地を 1000 万円で購入する売買 契約で考えよう。 A が買主、 B が売主である。先す、 「申込み」は確定的内容のものでなければならない。 つまり、「承諾」は単に OK というだけのものでなけ ればならない。さらに、直ちに契約を成立させてよい かが問題である。たとえば、不動産業者 A の入口の窓 ガラスに「甲地、 1000 万円で販売」という張紙が出 ている場合はどうか。 ーこに、 B がいきなり入って来 て「あれを購入する」と言っても、通常は、直ちに契 約は成立しない。業者 A には、顧客 B の人柄や信用状 態などから、「貴方には売らない」という可能性が残 っていると考えられるからである。諾否の自由を留保 していると見られる「求人広告」なども同様である。 この場合、広告や張紙の内容は確定的な「申込み」で はなくて、相手からの申し出を誘う「申込みの誘引」 ( いわゆる「勧誘行為」と評価することも妨げない ) という ことになる。相手を選ばず、必ず応ずるような行為で あれば、「申込み」と解してよい。一般に、契約内容 が具体的に明示されているかどうか、相手を選ばない ような取引かどうか、などを基準に判断される ( 広告 の性質の変化については前述・本誌 740 号 120 頁参照。さらに、 現代消費者法 32 号の特集も参照 ) 。ただ、問題は何が「申 込み」で何が「承諾」であったかを詮索することや、 抽象的に契約の成立時点を定めることにあるのではな く、契約の成立にともなう様々な効果、とくに「現実 履行の強制」をどの時点で当事者に負わせるのがふさ わしいのかという観点から、決定していくべきもので あることは既に述べたとおりである。
なり、 A による錯誤主張 ( 95 条 ) の可能性が残るに過 ぎない。戦前の古い判例には、真意の不一致を理由に 契約不成立としたものがあるが ( 大判昭和 19 ・ 6 ・ 28 民 集 23 巻 387 頁 ) 、学説の多くはこれに批判的であり、現 在の判例も厳密には成立における意思主義に従ってい るとはいえない。むしろ、契約の解釈問題として、い かなる内容での契約が成立したかが問われるのが通常 である。 後述のように、ホテルが予約注文に応じて部屋をリ ザープする場合のように、意思実現による契約の成立 を語ることのできる場合もある ( 526 条 2 項参照。改正 法案 527 条も同じ ) 。つまり、契約は、申込みと承諾の 意思表示の合致によって成立するが、明示・黙示を問 わす、何をもって「申込み」と「承諾」と考えるかは、 表示された意思的行為の「解釈」によって決せられる。 したがって、契約が、いかなる内容で、何時成立する かは、優れて言当面的問題であり、契約の効力発生をめ ぐる状況判断にかかっている。 (c) 契約が有効に成立するための要件 誰と、どのような契約を、どのような方式でするか は、原則として、当事者の自由に任されているが ( 契 約自由の原則 ) 、その際に、合意の要素となる内容があ る程度確定していること ( 確定性 ) 、それが実現可能で あること ( 可肯 ) 、違法なものではないこと ( 適法性 ) は必要である。さもないと、国家がその合意の実現に 助力しようにもできないからである。もっとも、確定 性と可能性については、結局のところ、履行するまで の段階で明らかになればよいことであり、ときには原 始的に不能である場合のリスクを引き受けながら契約 をする場合もあるので ( 冒険的取引など ) 、そのような 契約もまた有効である ( その意味では、原始的不能は必ず しも契約不成立をもたらさない ) 。いまーっ重要な成立要 件が、契約当事者の「能力」である。少なくとも法的 効果をめざした意思を形成する能力 ( 意思能力・事理弁 識能力 ) があり、法的権利義務を担うに足りるだけの 能力を持った者でなければ、完全に有効な契約はでき ない ( 行為能力。なお、改正法案 3 条の 2 も参照 ) 。たとえ ば赤ん坊も、権利能力はあるので契約当事者になるこ とはできるが、結局、保護者である親が代わって ( 法 定代理して ) 契約するほかない * 。未成年者の場合や、 成年者でも病気などで正しい判断が期待できない場合 ( 制限能力者 ) は、やはり保護機関である親権者やその 081 債権法講義 [ 各論 ] 8 他の法定代理人 ( 成年後見人など ) の支援を必要とする。 未成年者を含む制限能力者が法定代理人の同意を得な いで行った契約は、一定範囲で取り消すことができる。 任意代理人が利用されているときには、代理行為を行 う者について、適切な代理権の存在と誰の代理人であ るかについての顕名が必要である ( 99 条 ) 。申込みや 承諾も「意思表示」の一種であるから、民法総則で問 題となる錯誤・詐欺・強迫・虚偽表示・心裡留保など も当然に問題となり、公序良俗違反の有無などの有効 要件も重要な問題となるが、ここでは立ち入らない ( 民 法総則での議論を復習されたい ) 。 * 【胎児は契約当事者となるか】たとえば、母 親のお腹にいる胎児に向かって、父親がなした贈 与の契約は有効であろうか。契約は、双方当事者 による意思表示の合致であるから、表意者に有効 な意思表示をなし得る能力がない以上、契約は成 立し得ない ( 母親には、現行法上、法定代理権も存 在しない ) 。したがって、母親に対する関係で、 出産を停止条件とする第三者のためにする契約が 成立することになろうか。しかし、政策的に、胎 児にも権利義務は帰属すると解する余地があり、 民法は個別に胎児に関する特則を設けている ( 721 条、 886 条、 965 条、 7783 条 1 項 ) 。これについては、 河上・民法総則講義 28 頁以下、また、河上正二「胎 児の法的地位と損害賠償請求権」山田卓生先生古 稀・損害賠償法の軌跡と展望 ( 日本評論社、 2008 年 ) 3 頁以下所収、参照。かわいがっているべットに 対する贈与となると、権利義務の帰属も困難とい うほかなく、当該ペットの世話をする者との関係 を考えることになろう ( この問題については、河上・ 民法総則講義 211 頁 ) 。 (d) とされる「方式」の履践 契約自由の原則には「方式からの自由」も含まれる。 したがって、契約は原則として不要式で、通常、契約 書の作成などは契約成立の立証手段にとどまる ( 口約 東でも契約は有効に成立しうる [ 諾成契約 ] ) 。しかし、例 外的に、単純な合意以外の特別の方式の履践を法や特 約が要求している場合は、これを満たしていること ( 要 式性・要物性など ) が必要である。民法には現実に目的 物が移動していないと契約が有効に成立しない契約と して消費貸借 ( 587 条 ) 、使用貸借 ( 593 条 ) 、寄託契約 ( 657 条 ) があり、目的物の引き渡しが行われて初めて契約
【考えてみよう】自動販売機にコインを投入す る行為は「申込み」だろうか「承諾」だろうか。 これは承諾であり、契約はそのときに成立すると 言うべきであろう。空車のタクシーに向かって手 をあげる行為はどうか。空車のサインを出してタ クシーが道路を走るのは、おそらく「申込みの誘 引」であり、手をあげる行為が「申込み」と解さ れる。もっとも、駅等のタクシー溜りに駐車して いる行為は「申込み」であり客が乗り込む時点で 契約が成立すると解され、乗車拒否は許されまい。 ショーウインドウへの陳列は一般に「申込みの誘 引」であるが、正札をつけて陳列するのは「申込 み」であるといわれる。では、スーパーでの買い 物などはどう考えたら良いか。スーパーの場合、 いっ顧客が品物を棚に戻せなくなり、代金を支払 わねばならなくなるかを考えればよかろう。 (b) 変更を加えた承諾 B の方が A に対して「私の甲地を 1000 万円で買わ ないか」と言い、 A がそれに対して無条件で「買う」 と言えば、 B の行為が「申込み」、 A の行為が「承諾」 になる。ところが、 A が、「 900 万円でなら買う」と 返答したらどうか。これは、売買の条件に変更を加え ているから、「承諾」にはならないで「新たな申込み」 となる ( 528 条 ) 。「即金で」という条件に、「月賦でなら」 と答えるのも同様である。 【書式合戦】これに関連して、約款を利用した 企業間取引では「書式合戦 (battle of forms) 」と いう現象が見られることがある。互いに自己の約 款を契約条件とするつもりで交渉が続けられる結 果、書面が飛び交うごとに「新たな申込み」があ ったと見られ、どちらの約款が契約条件になって いるかわからない状態になってしまうのである。 例えば、 A 会社が B 会社に原料を供給する契約を 締結しようとした場合、 A は自分の販売約款の中 に債務が不履行となっても一定限度の賠償額で免 責されるという条項を挿入し、 B 会社の購入約款 には損害の全額プラス違約金をとる旨の約款条項 を入れているとしよう。 B からの「注文書」には 条件は当社の購入約款によるという一文が印刷さ れていて、これに応じた A の「注文請書」にはや はり当社の販売約款による旨の一文が挿入されて いる。民法の原則からすると、後の方が「新たな 085 債権法講義 [ 各論 ] 8 申込み」となって、黙って履行したほうが黙示の 承諾を与えたことになりそうである。我が国では、 問題が表面化していないが諸外国では裁判で争わ れたケースがいくつかあり、当初は、原則通り最 後に自己の約款を指定した方の約款が契約内容に なると考えられていた。ドイツでは「最終文言理 論 (Theorie des letzten Wortes) 」と呼ばれ、英米 では「ラスト・ショット原則 (last shot principle) 」 などと呼ばれた。しかし、こうなると双方が何と かラスト・ショットを放とうとして、書面が飛び 交う結果となり、書式合戦の弊害が著しい。諸外 国の判例では、結局どちらがラスト・ショットを 放ったのかを探求することをやめ、「衝突する内 容を含む限りで、約款は双方とも契約内容とはな っていない」とするものが多い。こうなると、契 約不成立となる可能性も生ずるが、既に契約が履 行されていることも少なくないため、信義則上、 契約の維持を命じ、衝突によって生じた空白部分 を任意法規で補充するという解決が与えられる。 おそらく、妥当であろう ( 内田・ 32 頁以下、 34 頁も、 UCC2-207 ( 3 ) を参照しつつ同旨か ) 。 ( 3 ) 隔地者間の契約 (i) B が A に対して「申込み」をする際に手紙で「甲 地を 1000 万円、現金即時払いで買わないか。他にも 希望者があるので、この申込書面が到着してから 10 日以内に返事を戴きたい」と書いたとしよう。しかし、 その後 C が来訪して、 B に小切手帳を見せながら 「 1500 万円支払うから、是非甲地を売って欲しい」と 申し出た。 B は、 A に対する申込みを取り消そうと思 い、電話の届かない A のもとに「話はなかったことに してほしい」と電報を打った ( あまり現実的でない設例 ではある ) 。関係はどうなるか ? 。 民法 97 条は、「隔地者に対する意思表示は、その通 知が相手に到達したときから効力を生ずる」旨を規定 している。「申込み」も意思表示には違いないから、 電報が手紙の到達より前に A のもとに届けば、申込み は効力を生じない。電報は申込みを取り消すことに成 功したのではなくて、申込みの効力の発生自体を阻止 したことになる。しかし、一足遅れで既に手紙がつい ていた場合には、 521 条の規定が適用される。 521 条 1 項は「承諾期間を定めてした契約の申込みは、撤回 することができない」としている。例えば、今日 10 月 8 日に申込みの手紙を出したとすると、手紙の着く
ない」と言い、 B が「 1100 万でなければ売らない」 と言っているときに、仲介にたった C に「 1000 万円 で手を打たないか」と水を向けられ、 AB がそれぞれ c に対してその仲介案に同意する意思を表明した場合 も、厳密には申込みと承諾の意思が相対立する関係に ない。しかし、いすれの場合も客観的に取引内容か一 致しているばかりでなく、両当事者ともに契約の成立 を望んでいる ( 契約締結への意思が - 一致している ) わけで こでは契約が成立したものとして扱う方 あるから、 が実務上の要請に叶っているということで、契約を成 立させるのが通説的見解である ( 新注民 13 ) 350 頁以下 [ 遠 田新曰 ) 。この場合、後からの申込みを承諾とみなす ことになろうが、もともと「申込み」であるから、後 からの申込みの到達時を契約成立時とするのが適当で あろう ( 内田・ 43 頁も同旨 ) 。結果的に、第 2 申込みの 到達まで第 1 申込みが撤回可能ということになる。 (b) 意思実現による契約成立 ( i ) 黙示的承諾と意思実現 黙っていても、相手からの注文に応じて品物を発送 するように積極的に契約の履行行為をすることは、多 くの場合「黙示の承諾」ありと見てよい。もっとも、 単なる「沈黙」だけでは、原則として、承諾にならな い。承諾しない場合は返事をするということか取引慣 行となっているような場合はともかく、勝手に品物を 送り付けて「購入しないのなら返送せよ、返事がなけ れば承諾とみなす」といった行為 ( ネガティブ・オプシ ョンによる「送りつけ商法」 ) は認められない。近時、い わゆる「健康食品」の送りつけによる消費者被害が多 発したが、このとき、消費者側には送り付けられた商 品の購入義務も返品義務も生じない。特定商取引法 59 条は、消費者が商品を受領した日から 14 日間以内 ( 引 き取りを請求したときは 7 日間以内 ) に、消費者が商品購 入を承諾せず、かつ事業者が引き取らない場合は、そ の後は、事業者は商品返還請求権を失うものと定める ( 期間経過後は、保管義務も消滅し、使用処分しても消費者に 何らの責任を生じない ) 。ちなみに、 2016 年の消費者契 約法改正は、同法 10 条前段で、消費者の不作為を一 定の意思表示と擬制する「みなし条項」カ坏当条項と して無効となる可育生を示した。 なお、商人間では、このような場合、商法 509 条で「平 常取引をする者からその営業のに属する契約の申 込みを受けたときは」、遅滞なく諾否を通知する義務 089 債権法講義 [ 各論 ] 8 があり、通知を怠ると契約を承諾したものとみなされ、 しかも申込みとともに送られてきた物品の保管が義務 づけられているので注意を要する ( 商法 510 条参昭 ) 「意思実現による契約の成立」としては、ホテルが 電話での宿泊申込みに対して部屋をリザープする行為 や、シュリンク・ラップ契約 ( PC ソフトウェアの箱のラ ップを破ったときにライセンス契約が成立したものとみなす という表示がある ) などが、しばしば例に挙げられる。 多くの場合は、黙示的承諾の認定によっても処理が可 能であろう。 ( ⅱ ) 事実的契約関係 「意思実現による契約の成立」の問題と似た問題に 「事実的契約関係 (faktische vertragsverhältnisse) 」の 議論がある ( 既に、総則で学んだ。河上・民法総則講義 308 頁以下 ) 。ドイツのハウブト (Haupt) が最初に唱えた もので、日本でも、この理論の導入が一部の学者によ って試みられている。ハウブトは、契約を目指しての 社会的な接触が始まっている段階で相手に負傷を負わ せたようなケース ( 契約締結上の過失の一場合 ) 、事実上 の会社・雇用関係、電気・水道といった社会的な生活 必需品やサービスの給付義務などにおいて、そこでは 意思の合致が問題になるのではなく、一定の「事実」 から契約関係の成立を直接認めた方がよいと主張し た。例えば、電車に乗り込むという行為、有料駐車場 に車を乗り付ける行為、頼みもしないのにアパートに 新聞カ晦日届けられ断わりもしないでそのまま読んで いる行為、のように一定の事実上の提供行為と事実上 の利用行為があれば、双方当事者の具体的意思如何に 関わらず契約カ陏効に成立したと同様な法律効果を発 生させてかまわないのではないか、というわけである。 ただ、これらの例は「黙示の承諾」があったとして伝 統的意思理論でも契約の成立を認めることができそう であり、そうでなくても「意思実現による契約の成立」 ( 526 条 2 項 ) を認めることも不可能ではない。したが って、その限りでこの議論に実益はない。 問題は、当事者が行為能力が制限されている場合や、 契約の成立を明示的に拒絶しているような場合であ る。小学生が、間違えて反対方向にいく電車に乗って しまったような場合、子ども料金を払わせるべきであ ろうか ? 。地回りのヤクザが映画館の入口で入場券の 購入を求められたカ亜絶して中に入って映画を見て出 てきたような場合、入場契約 ( 映画鑑賞契約 ) の成立を
LAW 080 谷カぐで 社会的意味が明らかであれば、指先の動き一つで取引 1 意思表示の合致 が成立することもある ( 魚市場での競りを想起されたい ) 。 ( 1 ) 申込みと承諾 当事者間で同種の取引力続しており、不承諾ならば 既に民法総則の「法律行為」で学んだように、「契約」 一定の積極的行為が要求されるような場合 ( 商法 509 条 は、原則として「両当事者の申込みと承諾という相対 など ) には、全くの沈黙でも承諾の意思表示と認めら 立する意思表示の合致」によって成立するとされてい れることがある。要するに、状況から見て、合意内容 る。当事者の合致する意思表示のうち、先になされた の履行に向けての給付の確定度と、表示行為の中に当 ものを「申込み」、この申込みに応じて契約を成立さ 事者の最終的契約締結意思を読みとれるかどうかが重 せる意思表示が「承諾」である ( もっとも、交渉を経て 要である。ちなみに、売買と異なり、請負などでは必 契約が成立する場合には、先後を決めることが困難なことが すしも代金カ定している必要はなく、仕事の具体的 多く、組合契約のように、多数の者が同一方向・目的での意 内容が定まっている必要もない場合がある ( タクシー 思を一致させる局面では、合同行為的形態のものもあるので の旅客運送契約の成否につき、大阪地判昭和 40 ・ 6 ・ 30 下民 注意が必要である ) 。 集 16 巻 6 号 1180 頁なと参昭 ) (a) 申込み・承諾の意義 (b) 契約成立における意思主義・表示主義 「申込み」は、相手方の承諾があれば契約を成立さ 定義における両当事者の「意思表示の合致」という せることを目的とする確定的意思表示であり、特定の 表現が示すとおり、これは「成立における表示主義」 相手に対する場合のみならず、不特定多数の者に対し に立脚した定義であって、文字通り客観的意味での「表 ても為すことカ可能である。 示」の合致を意味し、必すしも両当事者の「真意」が 「承諾」は、無条件で相手の申込内容を受け入れる「諾 一致していることを意味しない。たとえば、 A が自己 (OK) 」の意思表示であり、そうでない場合 ( 条件を付 所有の甲を 100 万円で B に売却しようと考え、誤って、 A は B に甲を 10 万円で売る、 B は甲を 10 万円で買う して承諾したり、変更を加えて承諾したような場合 ) には、 「新たな申込み」となる ( 528 条参昭 ) という合意をしてしまった場合、契約としては、甲を 申込みと承諾は、常に明示的になされるとは限らす、 10 万円で売買する旨の契約が成立したことが前提と 法学セミナー 2016 / 1 1 / n0742 債権法講義 [ 各論 ] ー 8 第 1 部序論喫約総則 第 3 章契約の成立 [ 第 1 節 ] 契約の成立 CLASS ク ラ、ス 東京大学教授 河上正二 こでは、契約の成立に関する民法上の規律を検討する。既に民法総則 の法律行為のところでも登場した問題であるが、契約法には、主として隔 地者間の契約と懸賞広告に関する規定が用意されている。インターネット や携帯電話の普及した今日の社会では、「隔地者」の観念は重要性を失い つつあり、意思表示の発信・到達の同時性が原則化しつつあるといえよう。 なお、「懸賞広告」の問題は、本文に述べるように、もともと契約の成立 にかかる問題であるかにも疑問がある。 [ ここでの課題 ] 第 1 節契約の成立
090 法学セミナー 2016 / 1 1 / no. 742 認めて料金の支払いを請求できるであろうか。有料駐 車場に「自分は料金を支払うつもりはない」と明言し ながら車を乗り付けた場合にも、駐車場利用契約の成 立を認めて料金を請求できるだろうか、というわけで ある。 ドイツでは、最後の駐車場の利用に関する事件で「事 実的契約関係理論」を承認した有名な判決がある。し かし、学説では、この理論の必要性について争いがあ って未だに決着がついていない。我が国では、これま でのところ判例もなく、学説の多くも導入には消極的 である。事実的契約関係理論が適用されそうな場面は、 伝統的な契約理論でもほとんどカバーでき、地回りの ヤクザのケースや駐車場のケースなどは信義則 ( 禁反 言、行為に矛盾する異議 ) などで封じることも可能である。 分であるというのが、大方の感触であろう ( 森島昭夫「事 実的契約関係について」法学教室 93 号 88 頁 [ 1988 年 ] など ) 。 やや問題なのは、制限行為能力者の公共乗物等への乗 車の場合であるが、むしろここでは乗り間違えた子ど もから料金を取るべきではあるまい。ただ、黙示の意 思表小の推定がいかにも不自然で、不当利得や事務管 理等の規定でも処理しきれない状態が無いとは言えす ( 未成年者の必需契約、成年被後見人の日常生活に関する行為 [ 9 条但書き ] など ) 、古典的契約理論に反省を迫る試金 石という意味でも、今後とも検討されるべき理論では ある ( 河上・民法総則講義 308 頁以下 ) 。 (c) 契約の競争締結 ( 入札・競売 ) 契約締結の特殊な形態に、契約の競争締結がある。 具体的には、競売・入札方式のものがある。一方の当 事者を競争させて、最も有利な価格や条件を提示した 者と契約を締結するというものであり、最近では、イ ンターネット上のオークションなどもさかんに行われ ている。 ( i ) 競冗 「競売」の場合、一般には、競結の申出人が「最 低価格」を提示するなどして競売手続きを開始し、相 手に価格を競り上げさせ、最終的に最高価格提示者と 契約を締結するのが通常である。最低価額カ甘是示され ている場合は、それ以上の最高イ耐幇是示者とのみ契約 を成立させる義務を生じる。申出人が最低価額を提示 していない場合は、相手が最高価格を提示した場合に も、これが「申込み」となるので、申出人から改めて 「承諾」の意思表示をなすことが必要になると解され ている。 ( ⅱ ) 入札 「入札」の場合には、最低価格が提示されていると きは「入札公告」が申込みとなり、入札が承諾となる。 逆に、入札公告に最低価格カ甘是示されていない場合は、 原則として「申込みの誘引」に過ぎないと考えられる ため、入札が申込み、落札決定が承諾となると考えら れている。もっとも、国や地方公共団体が主催する入 札の場合、契約書を作成し記名・押印があって初めて 契約が確定するため ( 会計 29 条の 8 、地方自治 234 条 5 項 参照 ) 、落札段階で直ちに契約が成立するわけではない。 1 意義 懸賞広告とは、「ある行為 ( = 指定行為 ) をした者に 一定の報酬を与える旨を広告した者 ( = 懸賞広告者 ) は、 その行為をした者に対してその報酬を与える義務を負 う」というものである ( 529 条 ) 。その性格が、契約で あるか、単独行為であるかについては争いがある ( 結 論から言えば、懸賞広告をあえて契約的に説明する必要はな い ) 。その内で、優等者にのみ報酬を与えるというの が「優等懸賞広告」である。この懸賞広告の撤回に関 しては、 530 条が、広告者は指定行為を完了する者が いない間は、同じ方法で撤回の広告ができる旨を定め ている ( 同条 1 項本文 ) 。既に広告を見て一定費用を投 じて指定行為を完了しようと努力した者がいる場合に も、広告者は原則として賠償責任を負わないが、すぐ に撤回することになるような広告をしたことに過失が あれば、不法行為や契約締結上の過失の問題を生する 可能性がある。 なお、かなり細かい問題ではあるが、 530 条 1 項但 書きは、当初の広告中に撤回しない旨を表示していた 場合には撤回できないものと定め、同条 2 項では、 1 項に定めるように当初の広告と同じ方法で撤回ができ ない場合には、他の方法でも撤回ができるが、その場 合は、それを知った者に対してのみ、撤回の効力があ る旨を定める。さらに、同条第 3 項は、懸賞広告者が 指定行為をなすべき期間を定めたときは、撤回権を放 棄したものと推定している * 。 531 条は、指定行為を完了した者が複数いる場合に 第 2 節懸賞広告
086 法学セミナー 2016 / 1 1 / no. 742 のが 1 日おいて、 10 月 10 日とする。到着した 10 日は、 初日であるから言 1 に入れないで ( 140 条「初日不算入」 参照 ) 、 11 日から 10 日間、つまり 10 月 20 日いつばいま でに承諾をせよと申し込んだことになる。 10 月 20 日が、承諾の期限であるので、 A は、その 日までに返事ができるように調査をしたり、金策に走 るかもしれない。ところが、やっと承諾できる見込み が着いた矢先に「撤回」の通知が届き、それカ陏効と なってしまうと、 A の努力は無駄に終わる。そこで、 この承諾期間内は申込みを撤回できないことにしたの が、 521 条の立法趣旨である。承諾期間を定めた場合 に、申込者がうけるこの制約を「申込みの拘東カ」な どと呼ぶことは既に述べた。この間は、 A の承諾の意 思表示のみによって契約を一方的に成立させることが できる状態にあり、このような申込みの状態をさして、 「申込が承諾適格のある状態にある」などという。 ( ⅱ ) さらに、この例のように、 10 日間といった相当 の承諾期間の定めがない場合も、民法 524 条は「隔地 者」間では「承諾の通知を受けるのに相当な期間を経 過するまで」は、やはり申込みの撤回ができないもの とした ( なお、改正法案 525 条 1 項は、隔地者間の契約を超 えて一般的に適用されることとした上で、但書きで、申込者 カ鰔回権を留保した場合の例外を明記している ) 。 【隔地者】「隔地者」という概念は、「対話者」 に対立するもので、べつに場所が離れているとい うことではなく、直ちに返答ができる状態にない ものをいう。従って、例えば物理的には離れてい ても電話などで話している場合には、「隔地者」 ではない。テレックスも電話に準じて良いであろ う。「通知を受けるのに相当な期間」は、基本的 には申込みと承諾の通信に要する期間に、調査・ 検討に必要な期間を加えたもので、場合によって 判断するほかない。ただ、インターネットや携帯 電話の普及した今日の社会では、隔地者について のルールの占める重要性は次第に小さくなってお り、そこでの発信主義・到達主義の対立にも、大 きな意味を見出すことができなくなっている。新 たなルールは、基本に戻って到達主義を貫徹させ うか。民法に規定はないが、わざわざ「隔地者」に関 ようとしており、それに相応しい時代となってい (iii) 承諾期間の定めのない「対話者」間の申込みはど ると言えよう。 して特別に規定を用意したことを考えれば、話してい る間は、何時でも申込みを撤回できるということであ ろう。ただ、撤回をしないままその場を別れた場合に は、この申込に拘東カがあるかどうかは若干問題とな る。通説は、商法 507 条の規定などを考慮して、対話 の終了までに返答がなければ申込みは拘東カを失うと 解しているが、信義則上相当な期間は 524 条を類推し て拘束力を有すると考えた方が当事者の意識に適合す る場合が多いように思われる。日本人の感覚としては、 答を明言しないでその場を離れることは、「後日改め て、お返事する」との意図であることが一般ではあろ つ。 (iv) 申込発信彳リ達前申込者死亡 ( 525 条 ) こまかい問題であるが、申込者が申込みの発信後、 到達前に死亡したり能力を失うというような事態が生 じた場合はどうなるか。 97 条 2 項をそのまま適用す ると、申込みの効力に影響はないことになりそうであ るが、 525 条では特に「申込者が反対の意思を表示し た場合又はその相手方が申込者の死亡若しくは行為能 力の喪失の事実を知っていた場合」には、申込みは効 力を生じないか無能力者による申込みとなる。例えば、 申込者が「自分の命は長くはない。もし、貴殿の承諾 がない内に私カ疵亡したような場合には契約は成立さ せないことにして戴きたい」と述べているような場合 ( 梅・要義 389 頁 ) や、ある人が「甲地を 1000 万円で売 りたい」と申込みの意思表示を手紙で発信した翌日に 交通事故で死亡し、相手が次の日の朝に新聞でそのこ とを知り、午後になって申込者の手紙が届いたような 場合、申込みは効力を生じない。ずいぶん、きわどい 事例について規定したものである。立法段階でも、い っそのこと削ってはどうかという意見もあったが、残 された ( 改正法案 526 条でも維持され、「意思能力を有しない * イスラム契約法には MajIis ( 契約締結の現場 ) な る法理があって、物理的に相手が立ち去ったとき に、申込みがその効力を失う。面白いことに の Majlis には時間の観念がなく、交渉中に相手が 居眠りをしたり、間に仕切りをおいたりして、そ れがどんなに長い時間続いても、物理的に近くに いるという要件が満たされている限り MajIis は存 続するという ( J . クールソン ( 志水巌訳 ) ・イスラ ムの契約法 ( 有斐閣、 1987 年 ) 61 頁以下 ) 。
078 法学セミナー 2016 / 09 / no. 740 LAW CLASS 務の担保を目的とするため、事例 Pa 2 ( 2 ) における D の本件敷金返還請求の可否について検討するに際 しては、第一に、賃借人の賃料支払義務・用法遵守 義務・原状回復義務と敷金の機能との関係を確認す る必要がある。これを前提として第二に、敷金充当 に関する特約の意義と効力が問われる。その上で最 終的に、目的物の復旧に要した費用負担は賃貸人・ 賃借人のどちらに帰すべきなのかが決定されなけれ ばならない。 [ 2 ] 賃借人の義務と敷金の機能 (a) 賃料債務・原状回復義務と敷金の関係 賃借人の用法違反による建物の損傷に関する補修 費用が敷金によって填補されるべきことは明らかで あるが、通常の使用収益に起因する原状回復義務と 敷金との関係はどうであろうか。この点につき判例 は、特約がある場合を留保しつつ、通常損耗 ( 通常 の使用収益にともなう劣化・減価・汚損・経年変化など ) の回復は、敷金によって負担されるべき原状回復義 務に含まれないと解する 12 。賃料債務には、使用収 益にともなって通常生じる損耗に対する手当ても織 り込まれていると解されるため、賃料支払に加えて 敷金による負担を求めることは、賃借人にとって二 重負担になるというのがその理由である。したがっ て、使用収益不能の期間を除いて D が賃料支払を怠 っていなければ、本件敷金による充当は許されない ことになる。しかしながら、 C が行った壁紙の張替 えおよび清掃は通常損耗に含まれないと目される 上、本件賃貸借においては敷金負担に関する本件特 約が存するため、賃料債務とは別個に敷金によって 負担すべき原状回復義務の意義がさらに問われる。 (b) 特約の効力制限とその論理 D による本件敷金返還請求を正当化するために は、本件特約の適用を排除しなければならない。特 約の適用排除のための法律構成としては一般に、① 民法 90 条または消費者契約法 10 条に基づく無効、② 解釈による適用範囲の制限、③信義則・権利濫用に 基づく主張制限が考えられる。①→③の順に画一的・ 絶対的→個別具体的・相対的な処理となっていくが、 問題類型に応じて適切な構成を選択することが求め られる。①は適用場面を問わずラディカルに特約の 効力を否定する構成であるが、壁紙の張替えと清掃 費用を賃借人の負担とする旨の本件特約が当然に不 当条項にあたるとまではいえないであろう。そこで、 本件特約を有効としつつ、それがどのような終了事 由および局面における原状回復に適用されることを 予定したものなのかに関する解釈により ( ②構成 ) 、 または、損耗の程度、費用額、賃借人の利用態様、 賃貸借終了に至る経緯等に照らして ( ③構成 ) 、適 用または主張を制限すべきことになろう。判例には、 震災を契機として賃貸借が終了した場合における敷 引特約の適用の可否につき、当事者が予期していな い原因および時期において賃貸借が終了した場合を 予定したものではないとして、②構成によって賃借 人の負担制限を導いたものがある 本件特約についてみれば、これをもつばら期間満 了など通常の終了事由における原状回復を予定して 設けられたものと解釈した上で、 i . 天災により使 用収益が妨げられたことが実質的な終了原因である こと、ⅱ . D の利用期間が短かったことにかんがみ れば、このような場合における費用負担を賃借人に 帰することはその内容に含まれていない、と評価す ることができよう。 (c) 賃貸人の修繕義務および所有者として負うべき 負担との関係 このようにして本件特約の適用を排除した上で、 あらためて当事者間の負担分担のあり方について検 討しよう。事例 Pa 2 ( 2 ) において問題となっている 壁の張替えおよび清掃は、実質的にみれば、賃貸借 期間中に生じた天災による汚損の除去および損傷の 補修を目的とするであると目されるところ、その費 用負担は、たとえ本件特約がなくても、賃借人の原 状回復義務に含まれるのかといえば、賃借人の使用 収益による汚損・損傷でないため、むしろ賃貸人の 修繕義務 ( 606 条 1 項 ) の範疇に属するものではない か ? ただし、賃貸人がいかなる場合にどこまで修繕義 務を負うべきかについては、損傷の程度、回復に要 する費用・期間、賃貸借の目的・期間等に応じて合 理的な範囲に画定されるべきであるから、事例 Pa 2 のようなケースにおいて、 C は速やかに乙を 復旧させる義務を負うといえるかどうかについては 場合分けを要しよう。そうだとしても、少なくとも 乙の復旧に関する最終的な負担は所有者である C に 帰すべきであって、本件賃貸借の存在および終了を 理由としてこれを D に転嫁することは許されないと 13 )
082 法学セミナー 2016 / 1 1 / no. 742 の成立が認められる。それらは、契約の主たる効果が 受け取った目的物の将来の返還義務の発生であること からの論理的帰結でもあるが、諾成的消費貸借などは 実務上必要な観念といわれている。なお、贈与契約は 原則として合意のみによって成立するが ( 549 条 ) 、書 面によらない贈与の場合は、履行カ鮗わるまでは撤回 が可能とされているため ( 550 条 ) 、その効力確定には 履行の完了が必要となる。ここでは贈与が対価を伴わ ない無賞行為であることが景彡響している。法律関係の 明確化や取引安全の保護、法律行為当事者に慎重な考 慮を促すべき局面では「方式」が一定の役割を演じて いるわけである。保証契約は書面でしなけれは効力を 生じないとされ ( 446 条 2 項 ) 、任意後見契約は公正証 書によることが必要とされている ( 任意後見 3 条 ) のも このような意味で理解される。 (e) 契約が成立すると いったん成立した契約は、双方に権利・義務を発生 させ、一定の解除事由がない限り一方的には破棄でき ない拘束力を生む。逆に言えば、「契約の成立」を語 ることの意味は、契約の効果である履行義務を不可逆 的に発生させるべき時点を探ることを意味する。たと えば、売買契約の成立では、当事者の確定的な購入意 思の表明と、これに承諾を与えた相手方の正当な信頼 を保護するにはどうあるべきかが問題となる。無論、 契約準備段階や交渉段階であるからといって、まった く法的にニュートラルというわけではなく、信義則上、 互いに相手方に対して無用の出費や損害を与えないよ う配慮すべき義務を負うことが、判例上認められてい ることは既に見た。交渉が一定の段階に達すると、出 会い頭の交通事故のような全く事前の接触のない不法 行為とはやや性質を異にした、いわば「契約の熟度」 に応じた責任カ第吾られている。いすれにせよ、こうし て契約が成立することによって、売買の場合には、当 事者に財産権の引渡請求権と代金支払請求権という履 行請求権が債権・債務の形で発生し、これが金銭支払 義務と目的物所有権の移動という物権移転を基礎づけ る。 ( 2 ) 申込関係 申込関係は、契約の申込後、契約の成否カ定する までの間に発生している ( ある種の債権的 ) 関係である が、そこでは、特に申込みの一方的撤回が許されない 「申込みの拘束力」と相手方の承諾によって契約を成 立させることのできる「申込みの承諾適格」という効 力に留意しておく必要がある。 (a) 申込みの拘束力 申込者による申込みの撤回を許さない効力を、「申 込みの拘束力」と呼ぶ。申込みの意思表示がいつでも 撤回できたのでは、相手方の地位カ墸しく不安定にな るからである。民法は、一定期間、申込みの撤回がで きない場合を定めている ( ドイツ型である。フランス法、 英米法は承諾があるまではいつでも撤回可能としている ) 。 これは、さらに①承諾期間付きの申込みの場合と、② 承諾期間の定めがない場合に分かれる。 ①承諾期間を付してなされた申込みは、撤回が許さ れないが、期間経過後には効力を失い、その承諾適格 を失う ( 521 条。改正法案 523 条も同旨 ) 。したがって、こ の場合には申込みの撤回は問題とならない。この承諾 期間は、申込後に指定することも可能である。 ②承諾期間を定めずになされた申込みが、隔地者 ( 直 ちに返答のできない者 ) に対してなされた場合、承諾の 通知を受けるのに相当期間は、申込みの撤回は許され ない ( 524 条 ) 。相当期間経過後、申込みの撤回が可能 となっても、申込みの撤回がなされないままであると、 さらに相当な期間は承諾適格カ続し、承諾によって 契約が成立するとするのが通説である ( 承諾適格は消滅 時効による消滅まで存続するとの説もあるが、当事者の通常 の意思に反しよう ) 。対話者に対する申込みの場合は、 承諾期間が付されていない場合は、対話関係の終了に よって申込関係も終了し、申込みは承諾適格を喪失す る ( 商法 507 条参昭 ) (b) 申込みの承諾適格に関する特則 申込みの承諾適格は、申込みの効力の存続状態であ り、民法には、遅れた承諾と延着の場合についての特 則 ( 522 条、 523 条 ) 、申込みの撤回通知の延着について の特則 ( 527 条 ) が用意されている。 (c) 新たな申込み 承諾者が、申込みに条件を付し、その他変更を加え てこれを承諾したときは、その申込みに対する拒絶と ともに、新たな申込みをしたものとみなされる ( 528 条 ) 。