〈山本夏彦の主な著訳書〉 年を歴た鰐の話 (= ・ショヴォ原作 / 桜井書店・絶版 ) 日常茶飯事 ( 中公文庫 ) 茶の間の正義 ( 中公文庫 ) 変痴気論 ( 中公文庫 ) 毒言独語 ( 中公文庫 ) 編集兼発行人 ( 中公文庫 ) かいつまんで言、つ ( 中公文庫 ) つかぬことを言う ( 中公文庫 ) ゃぶから棒 ( 新潮文庫 ) 美しければすべてよし ( 新潮文庫 ) 不意のことば ( 新潮社 ) 世はいかさま ( 新潮社 ) 一一流の愉しみ ( 講談社文庫 ) おじゃま虫 ( 中公文庫 ) 笑わぬでもなし ( 中公文庫 ) ダメの人 ( 中公文庫 ) 恋に似たもの ( 文春文庫 ) 冷暖房ナシ ( 文春文庫 ) 「戦前」という時代 ( 文藝春秋・文春文庫 ) 生きている人と死んだ人 ( 文藝春秋・文春文庫 ) 無想庵物語 ( 文藝春秋・文春文庫 ) 最後のひと ( 文藝春秋 ) 良心的 ( 新潮社 ) 夏彦七平の十八番づくし ( 中公文庫 ) 同意地悪は死なす ( 中公文庫 ) 「豆朝日新聞」始末 ( 文藝春秋 ) 何用あって月世界へ ( ネスコ ) 世間知らすの高枕 ( 新潮社 ) 愚図の大いそがし ( 文藝春秋 )
228 れにはいっていたから、読者は必要に応じて岩波か新潮か角川をさがせば発見できた。すなわち私 たちは文庫という小図書館を背後に背負っていると安心していられた。 それが横溝正史以来崩壊したのである。もう在庫しないと角川が言いだしたから他は安心してそ れにならった。その例として久保田万太郎里見弴の諸作がどの文庫にもはいってないことは以前書 、ま自社で売れている単行本を他社の文庫に奪われる。いかにも 文庫を持っていない出版社は、 ) 残念である。わが社も文庫をと続々文庫を出すようになった。中公文庫や文春文庫がそれで、これ らは範を岩波・新潮にとったからまだ文庫の原形をとどめていたが、そのうち横溝プームにあやか る徳間文庫、光文社文庫などが出るようになると、いずれもカバーを極彩色にして客の目を奪おう として奪いすぎ、尋常の客を茫然とさせた。 いま毎月十点すつ新刊を出す文庫が十社あれば〆て百点である。それが小売の本屋に毎日おしょ せてくれば本屋は本を恐れるようになる。置く場所がないから前の月の文庫を返本するようになる。 まだ売れるのに返本する。かくて文庫の寿命は一、二カ月になった。それなら月刊雑誌と同じで出 すほうも売るほうも追いっ追われっして、中身のよしあしを問わなくなった。 ドカ こうして版元はいま自ら墓穴を掘っている最中である。文庫プームは近く終るだろう。 。いったい本はいくら売れればいいのか。明 ーの時代がまた来ると言われているが来ないだろう 治大正時代は初版五百か七百部だった。それで版元は食べていかれた。 ただし金尾文淵堂は一人である。せいぜい二、三人である。私は私の読者を百人だと思っている。 そりや税務署は国民の敵ですぞなどと書けば百万読者は痛快がってくれるが、つくづく人間という
出版社じゃなかった * 並の出版社限りなく赤本屋に接近する 佐佐木茂索と池島信平 * 文士なのに経営の才あり * 戦時中の佐佐木の屈託 * 突然「不動の姿勢」 をとって礼を言う * 池島信平から学んだこと 中央公論と改造そして文庫 * 戦前の一流中の一流は朝日と中公 * 滝田樗陰千部を十二万部にする * 定 紋入りの人力車で駆けずり回る * 徳富蘇峰、吉野作造の論文はロ述筆記 * 綜合雑誌の原型を作る * 改造山本実彦中公に肉薄 * 純文学が大衆文学を 「村八分」にする * 改造っいに中公を抜けず 原稿料・画料小史 * 人権蹂躪のような原稿料 * 原稿料値上げは千里を走る * 世間は九割まで 陋習から成っている * 原稿料は物価にスライドしない 和紙と洋紙 * 奉書、 * 社史はなぜか用紙印刷製本に言及しない * 大正八年が天下分け目 細川、西の内、雁皮、鳥の子、局紙 * 履歴書は美濃紙に限った * 謄写版の 24 ア
講義をする、一点も疑いのない喋り方をすると「百閒座談集」で言っている。また「忘れ得ぬこと としき ども」 ( 朝日新聞社 ) という対談集のなかで今井登志喜を相手に、西田 ( 幾多郎 ) 先生にも田辺 ( 元 ) おもかげ 先生にも哲人の俤も哲学者の姿もない、ただの哲学の教授だ、もう一つ御両人とも本当にドイツ 語が読みこなせるか、哲学以外のものを読みこなせるか、また和漢のものを、附焼刃でなくよく読 めたらあんな哲学的表現にはならなかったと思うが、御両所は日本語にはどこまで思想を盛り得る か、盛り得ないか、そういう国語の領域をちっとも知らないね。一一人とも日本語を所有してないと 一一 = ロっている。 岩波の用語は哲学叢書に端を発している。文学もまたそうだ。岩波は伝統の日本語を壊したとい ったら、なぜそれを十年前一一十年前に言ってくれなかったかと、一読者に言われた。実は私は書い ている。中村白葉、原久一郎、米川正夫の三人はトルストイとドストエフスキーの翻訳者で、岩波 しいくらいである。原文に忠実なあまり、また文法的に正しくありたいあまり、 お抱えといっても、 彼らは日本語のリズムを失ったと私は書いている。 そくぶん 志賀直哉は「アンナ・カレーニナ」を読了するのに、断続して半年かかったと仄聞したが、あん な面白い本をこんなにつまらなくしたのはこの三人のうちの一人である。読む速力と理解する速カ は本来一致しなけれはならないのに翻訳はお構いなしである。岩波文庫は多く一致しない。 三人をひとまとめにして「米川正夫論」 ( 中公文庫「ダメの人」 ) を「諸君 / ーに書いたのは昭和五 十三年六月だった。もっと古くは昭和三十五年に「この国」 ( 中公文庫「日常茶飯事」 ) に書いている。 近くは「最後の人」 ( 平成二年文藝春秋 ) に書いている。「最後のひと」は九鬼周造の「『いき』の構造」 にはじまって「『いき』の構造ーに終っている。私は九鬼の岩波用語を平談俗語に直した。九鬼の
「文藝春秋」について筆を費すなら私はさかのほって「中央公論」についても言わなければならな い。私の「年を歴た鰐の話」他一編は中央公論編集部篠原敏之に認められ、昭和十四年春と秋の特 大号に出たからである。 昭和十四年は春秋一一回まだ大冊の特別号が出すことができた時で、鰐の話のような閑文字が載せ ばん られた時である。篠原と私は初対面である。篠原梵という気鋭の俳人の存在は知ってはいたが、こ 文の篠原がその梵だとはむろん知らなかった。武林無想庵に朝日新聞と中央公論に紹介状を書いても しらって訪ねたら、出て来たのがこの篠原だったのである。 造そのころは今とちがって新聞は朝日新聞、雑誌は中央公論が一流中の一流として威張っていた。 とべつに「改造」があってしばらく中央公論を圧したが、昭和十年代は再び中央公論の時代になって ニロ 公いた。改造の全盛時代は昭和初年円本で大儲けしてその儲けを改造につぎこんで、定価を中公より 中安くして部数をふやそうとしてふやしたころである。 中央公論はしばらく苦境に陥ったがやがて持ちなおし昭和十四年現在中央公論が一で改造は一一の 中央公論と改造そして文庫
そう思う。岩波は一介の商人にすぎないとも言ったが、商人だなんて思っていなかった。戦争中出 ほうか 版報国といったが岩波こそ出版によって邦家に報いようとした明治人である。 岩波文庫は星一つ二十銭で出発した。真理は万人によって求められることを自ら欲しているのに、 学芸は狭い堂宇にとじこめられている。それを特権階級からとりかえして民衆に開放するためにこ の文庫を出すと言っているところをみると、女学校の教師はやめたがこんどはさらなる大ぜいの教 育を試みようとしたのである。再び人生教師になるなかれ、女生徒を教えることのできないものが どうしてはるか大ぜいを教えることができよう。 昭和十四年九月岩波は自社の本の買切制 ( 買取制ともいう ) を実施した。本の買切制は版元の理 想で、ただ実行できないでいたことである。昭和十四年は本が最も売れて倉庫はからつほになりつ つある時である。借金はなくなり岩波の預金は七十万円 ( 当時大金 ) 以上になった。創業以来の好 この機に懸案の買切を実行したのである。 況で、返品はほとんどない。 昭和十四年はノモンハンで大敗した年だが、国民は負けたとは知っていてもあんな大敗だとは知 らなかった。好景気なのはむろん出版界だけではない。たいがいの商売は好景気だったからバー カフェ、ダンスホールは満員で夜は浮かれ歩くものが多かった。戦前はひたすら暗かったと一言うも のが多いから念のために書いておく。 こんなときの買切だから小売書店は痛痒を感じなかった。戦後も何年かは本でさえあれば売れた から、これまた問題にならなかった。岩波が小売書店の総攻撃をうけるようになったのは、本が出 すぎて返品に次ぐに返品という時代になってからである。その返品をひとり岩波が引取ってくれな いことに今さらのように小売書店は気がついたのである。 いっかい
新もし売れなくてもながく棚に置けばいずれは売れる。それでも売れなければ割引く。自分の見込み ちがいだから返品するのを恥じる風が当時はあった。薄利ではあっても品のいい商売で、地方都市 では目に文字のある人の稼業で一家が食べられればそれでよかった。 明治大正までは本屋はこんな商売で、誰も丸ビルみたいな本屋になろうなんて考えもしなかった。 本屋ばかりではないたいていの商売がそうだったから世間は無事だったのである。本屋を稼業でな くしたのは円本である。本も大量生産して大量消費させることができると考えていちかバチか試み て成功したのが改造山本なのである。 永井荷風は改造を冷笑して、はじめ円本のなかに自作をいれないと言った。本を何万何十万と売 るなんてとんでもないと一流新聞に三回にわたって書いたが、印税一割三万円くれると聞いて直ち に応じた。前言をひるがえしたと悪く言うものがあったがこれまた人の常である。それに荷風は戯 作者である。岩波文庫に星ひとっ二十銭で売られては一円以上の単行本が売れなくなるからいやだ と一一 = ロった。 ( ししか、千点以上になってその揚一一 = ロするご 誠文堂新光社の小川菊松は文庫は百点一一百点のうち、 とく常に在庫する義務を自ら負うなら、出版業ではなくて倉庫業だといって、円本にも文庫にも参 加しないで同じ昭和一一年「大日本百科全集」全三十七巻を出しはじめた。これは予約金をとらない、 分売自由という他の裏をかいたもので、そのかわり一冊一円五十銭で、売れるものは多く、売れそ うもないものは少く刷ったので返品がなかったという。他の全集は当初三十万四十万予約申込みが , の本は あっても、あとで解約者相次ぎ十万一一十万の返品が出たから小川の言う通りだったが、小Ⅱ いま全く残ってない。
韓国の「月刊中央」編集部につめよられ、世界編集長はその四〇。ハーセントは事実でない、・ 生は実在しない、何人かの筆になると言って平然としていたのは、社会主義は善で資本主義は悪だ から、社会主義の実現のためには虚偽もまた許されると思っているからである。 ベトナム戦争のときも「世界」は共産軍と呼ばすに解放戦線といった。北ベトナムの正規軍は参 加してない、参加しているのは人民解放戦線だと読者をあざむいた。これは「世界」ばかりではな 、朝日新聞をはじめ大新聞はみなそう書いた。共産主義国といわすに社会主義国と書いた。いす れにせよ社会主義は正義で、正義を実現するためにはうそは許されるから、ウソだウソだと証拠を つきつけても平気である。恐れいらない。 北朝鮮は南に向かって三十八度線の下にトンネルを掘った。何本も掘って一旦緩急あったときは 南へ攻めこむつもりだと、韓国は写真にとって世界中にばらまいたが、北朝鮮はあれは韓国が自分 で掘って北が掘ったと言いふらしているのだと言った。 これまた正義ならいかなる虚偽も許される例で、だから何は売っても人は正義だけは売ってはな らないと言ったのである。そして人は金より正義が好きなのである。岩波はその草創から正義を売 り続けたのである。 夏彦七平の対談集「意地悪は死なず」 ( 中公文庫 ) のなかに「何よりも正義を愛す」という一章が ある。人は金より正義が好きだ、ことに金に縁のないひとは好きた。 反核アピールは正義である、核反対なら当然このアピールに署名してくれるはすだとその顔に書 いてある。署名を断ると「なぜか」と不服である。
めることがある。松下の予算をまかされている。生かすも殺すも代理店次第だと広言するたぐいで ある。 大会社の代理店は一社ではない。上は電通から下は零細な代理店まで使っている。それらが打っ て一丸となって松下またはソニーの評判を悪くしている。「松下タブー説」はそのあたりから出た のだろうと、多く代理店のせいにして話したらよく分ったと笑ってくれた。 親玉は何と言っても電通である。電通こそタブーだと新聞雑誌は恐れるが考えてもみるがいし 電通を批評したらどうして全広告を引きあげることができるか。電通が広告しているのではない。 ひばう スポンサーが広告して、電通はその窓口にすぎない。五十社百社のスポンサーに某が電通を誹謗し たから番組をおりてやってくれと頼めるか。どれ、どんな誹謗をしたのか見せてごらん ( 読んで ) なに多少の誇張はあるがもっともなことばかりじゃないか。第一芸術は誇張だよ。このくらい誇張 しなければ面白くないとスポンサーはからからと笑うだろう。 口を開けば「一一一一口論の自由」を言うマスコミが電通タブー説、松下タブー説をとなえるのはけけん である。電通が特定の某社をしめだすなんて出来っこない。だから忌憚なく論じていいと私は二十 る 年前から論じている。古くは「小説新潮」で近くは雑誌「太陽ーで「電通世界一」 ( 中公文庫「つか かぬことを一 = 〕う」所収 ) を書いたが、べつに「ぎよっとするのは一分間だけ」というコラムも書いた まことに電通ばかりか人がぎよっとするのは一分間だけなのである。 以 電通だって功績がないではない。戦争中のどさくさまぎれにそれまでなかった広告に定価をきめ 通 電た。それは昭和三十年代まで守られなかったが、それでもきめた。新聞雑誌が発行部数をいつわる のに業を煮やして協会をつくった。このに加入すると部数をいつわることができない
136 それを各社が買えば経済である。ここに通信社の存在の意味があって、のちに電通の通信部門は独 立して新聞連合社と合併し同盟通信となり、戦後は共同通信になって残っている。共同通信や時事 通信という新聞はない。ただ共同や時事の記事を各社が買えばムダは省けるのに、各社がそれぞれ 記者を特派して通信社の機能はよく発揮されていない。 通信部門を切離して広告部門だけになった電報通信社は同盟広告部を吸収し、「電通」として広 告代理業専門会社になった。これが世界一になったのは活字部門からラジオへ、ラジオからテレビ へ移ったからである。博報堂は活字専門で、移ること遅かったからしばらく下位に甘んじていたが、 これもいつのまにか電通を追って二位になった。そのいきさつは「電通世界一」 ( 「つかぬことを一一一一口 う」中公文庫 ) に書いたから大急ぎで言うと、テレビ以前の広告業は賤業で堅気のする仕事ではな かった。ひと口に広告屋と押売りお断りといわれていた。 広告代理店というものは品物を売らない、新聞雑誌の紙面を売る。しかもそれは自分の紙面では 。無数の新聞のスペースを売って一割五分の手数料をとる。 明治大正の人には理解できない商売往来にない商売だから信用がなかった。第一広告というもの 必要があるのは売 の必要を基幹産業は認めていなかった。鉄や石炭や造船は広告する必要がない。、 薬や化粧品や酒である。 広告は常に足りないから値はあってなきが如しで、代理店に属する外交員は給料をもらわず歩合 で働いた。かりに某月刊雑誌の広告料が一万円だとすると、それを外交は定価五万円と称して三万 円にまける。会社へは一万円納めればいいのだから二万円は自分のものとなる勘定で、そういう客 ねんぎめ を十社一一十社持っているから大外交なのである。年極なら歩合は毎号はいる。むろん運動費は自弁