ラジオテレビは本の広告には向かないことが分った。「週刊新潮は今日はつばーい」以外に広告 がない ことによってもそれは知られる。活字は活字で広告するよりほかないと分ったのが運の尽き で、活字を主とした博報堂とラジオテレビに移った電通とはこれによって大差が生じるのである。 博報堂はもと瀬木一族の会社だった ( 今は然らず ) 。私が知っているのは瀬木博尚の子の博信の しオカ部長課長の名 時代で、その長男 ( 三代目 ) がかくてはならじと思ったのだろう。前にも ) っこヾ、 を全部横文字に改めた。 アート・ディレクター、アカウント・エクゼクテイプ、クリエテイプ・ディレクター以下無数の 片カナを用いてこれを名刺に刷りこんだ。 ディレクターは部長職に当るからアート・ディレクターは制作部長、アカウント・ディレクター は営業部長である。アメリカの役職名をそのまま用いて、これで旧式の広告主を煙にまいたのであ る。博報堂の三代目の作戦勝ちである。 世はいかさまというけれど、 ) 、 し力さまの才こそ才である。それ以上の才はめったにない。な、に ほクリエテイプという一一 = ロ葉がしばしは出てくる。クリエテイプとは創作のことである。役職名をそっ かくり盗用してクリエテイプもないものだが、これで成功したのである。 さ コピーもも博報堂は昭和三十年代から用いている。これが日本語になったのは四十年代から 以だから最も早かったといっていいだろう。プレゼンテーションというのはこのディレクターたちが 電五人十人勢揃いして、大企業の重役たちの前でひとり一席ずつ弁じることをいう。 ティレクターにだまさ 大企業の役員は広告のことを知らない。 ことにテレビの広告を知らない。。 けむ
のには一理があるのである。大松下にこんなことを一一 = ロうとはーーーマスコミ人にはショックだったは ずである。ただし一般人にはショックでないから、それが反映して暮しの手帖以外のマスコミはす ぐ忘れたのである。 記事は分らなくても広告は分ると再三私がいうのは新聞広告のことである。ところが今はテレビ の時代で、広告を論ずるならテレビのを論じなけれはならない。 それなら一にも二にも「電通」である。電通は広告を扱って日本一だそうで、博報堂もそれに続 いて二位たという。ほかに「東急エージェンシー」「大広」があるが、その一々についていうのは くだくだしいから電通と博報堂についてだけいう。あとはその亜流だとみて察してもらう。 電通が日本一 ( いま世界一 ) になったのはテレビのおかけで、活字だけのころは電通も博報堂も みじめな存在だった。押売と広告屋お断りといわれたくらいである。それが今日のようになったの はテレビの広告を制作まで引受けたからで、番組そのものとそれに挿入するは広告主には制作 できない。。 とうしていいか見当もっかない。 電通はテレビ局の時間を買って、望みのタレント望みの筋書の一切を提供して〆て千万三千万五 千万で売る。コピーライターが五十万百万とるようになったのはその手下になったからである。 コールデンタ 広告だけでなく制作いっさいを引受ければその利は何倍何十倍になるか分らない。。 一イムを全部買いきっておけば、スポンサーは電通 ( または博報堂 ) 経由でなければ番組を流せない 世わけで、こうして電通はみるみる巨大になったのである。もし電通が欲するなら近く「一一一一口論」を左 電右することができる。それが不可能事でなくなること往年の新聞の如しである。テレビを支配する ものは天下を支配できる。ただ電通はいまそれに気がついてないだけである。 だい一ッっ
144 脈を利用するためだとはすでに言った。 ここが博報堂と違うところで博報堂は復員した社員を雇わなかった。四ページの新聞では今いる 社員も養えないからこれをとがめることはできない。 電通の吉田秀雄は先見の明があったというべきだが、吉田はアメリカの進駐軍がラジオの民間放 送を近く許可するという情報を得ていたのである。ところが許可されたのは実に昭和一一十六年だっ むく たから、それまで吉田は要らない人材をかかえて苦しんだが、それは二十六年以降酬われた。 一位の電通と一一位の博報堂の間には大差が生じた。電通ビルは銀座、博報堂は神田にあって神田 は出版社の巣窟だから勢いおとくいは出版社である。出版業の特色は発注者がないのに勝手に作る ことである。 印刷も製本も外注で、自分は印刷所も製本所も持たない。設備も工場もない。電話と机さえあれ は開業できる商売だから戦前は銀行は相手にしなかった。出版とは何かと問われたらびと口に右の それは実業というより虚業である。戦後銀行は相手にするようになったが、 よ、つに答、んるか、し それは銀行がパチンコ屋にもサラ金にも貸すように堕落したからで、出版屋が向上したわけではな ) 0 その出版は広告によって売る。当れば諸家絶賛忽ち百版などと誇大広告する。今でもする。発売 しないうちに諸家は絶賛するのだから、諸家は出版屋の手下か仲間である。 、にしている広告代理店もまた虚業である。鉄鋼、電力、建設などの基幹産 それを一番のおとくし 業は昔は広告しなかった。電通がそれらに広告させたのはラジオテレビの広告を手がけたからであ る。出版の広告がなぜ儲からないかというと、原稿は版元がつくって一五バーセントの手数料しか
博報堂は遅ればせながらテレビ部門に進出して片カナで れまいぞと思っても反駁する知識がない。 成功したのである。 片カナの勝利だといえば児戯に類するが、浮世は児戯に類するところなのである。博報堂はのち に本物のアメリカの代理店と提携するようになるが、はじめはただ言葉だけを借りたのである。言 葉だけならタダである。それでまず社員を洗脳し、ついでに広告主をスポンサーとおだてスポンサ ーを操るに成功したのである。これで博報堂は電通との大差を少しくちちめたのである。 プレゼンテーションは一人ずっしゃべるのだから、それは歌舞伎の「つらね」や「割りぜりふ」 に似たもので、もし広告主に十分な知識があればその一々を論破できるはずである。 その証拠に広告代理店は出版社にはプレゼンテーションを試みない。功を奏さないと知るからで 、。トⅡほどでな ある。誠文堂新光社の小川菊松のごときべテランはなまじな外交より広告に明るし くても出版社は広告の表裏に通じているから、たいていの外交は太刀打ちできない。できても互角 で、互角なら仲間である。 戦前広告しなかった、または広告すること少かった大会社では広告部に回されることは左遷だっ た ( 今でも左遷である会社がある ) 。したがってスタイリストだのコピーライターだのといわれて も何が何やら分らない。見積のなかにそれがはいっていれば何者かなのだろう。それが高いか安い か見当もっかない。言われるままに払うのは面白くないからまけさせるが、個々に文句をつけるだ けの知識はない。 全体の一割を、一一割をまけろとい、つよりほかない。 駅のそばの丸井はもとは月賦屋といわれてさけすまれていた。中野の店の二階の天井は昭和一一十 年代にぬけおちた。朽ちていたのである。それがクレジットと称して一躍恥すべきものでなくなっ
どうしてそんなことを知っているのかというと、なに職業別電話帳を見れば分るのである。たと え小さくなっても会社としてはあるのである。広告しないものは存在しないと私が繰返して言うゆ えんである。 まことに電話帳は情報の宝庫である。化粧品はその一例にすぎない。以前万年筆のページをさが したら全二ページ、正味一ページしかなかった。万年筆がいかに斜陽であるかこれで分った。ただ なかにスワン万年筆があったので絶えて久しい対面をする思いをしたことはいっぞや書いた。 いまは好景気のせいで新聞の半ばは広告である。それも何を広告しているのか分らぬ広告である。 意図不明の広告ははじめ 税に奪われるよりというつもりの広告だから効果のほどは期待してない。 テレビに多かったが、次第に活字に及んだのである。全三十二ページのうち半ばが広告なら読者は 見ないでまたいでいく やがて新聞を見る習慣を失う。ことに子供が失う。こうして新聞は自ら墓 穴を掘って、しかもそれに気がっかないでいる。 これは高度成長以来のことだからすでに二十なん年になる。コピーライターの多くは無学で無知 である。その募集広告を見ると三十歳未満とあるところを見ると、むしろ無知を武器にして新感覚 ほを出そうとしているらしいことに気がつく。コピーについては改めて言うことにして話を博報堂に か。」、す - 0 さ 私が初めて広告の外交に親しんだのは昭和十六年だとはすでにいった。担当は博報堂の中島 ( 隆 以之 ) だった。この人は広告マンとしては紳士で、すでに分別盛りで珍しく暗いかけがなかった。戦 電後博報堂を去って朝日新聞専属の朝日広告社の役員になり、のちに社長になったから自然私は朝日 の広告はこの朝日広告にまかせることになった。広告主が外交に従って移動する例である。
148 一位の電通と一一位の博報堂の差はなお隔たるばかりである。窮余の一策として博報堂は巻き返し をはかって成功した。いかなる策を弄したか。 「個人」は死ぬが「法人」はなかなか死なないことを私はまのあたりに見たことがある。「室内」 が三十年を迎えたとき三十年前の、また一一十年前の広告主で今は消息の絶えた会社全部に最新号と 挨拶状を添えて送ったところ、受取人なしで戻ったものがほとんどなかった。これでまだ法人とし て健在だということが分った。なかにはよくおほえていてくれたと懐しがって電話をくれた社長が 何人かいた これを化粧品の例でいうと「ロゼット洗顔。ハスタ」のたぐいである。黒子さんと白子さんの漫画 の広告で、ロゼットでこんなに白くなったという他愛のないものだが、これは戦前からよく読まれ、 同じ人の漫画が昭和四十年をすぎてもまだ出ていた。漫画にも流行がある。時代遅れではないかと 言ったらあれは社長の書いたものだそうで、そうか素人ならうまい、やめないのは道理だと納得し たがいつのまにか出なくなったから社長は亡くなったのだろうと思っているうちにロゼットそのも のの広告を見なくなった。 かみのもと パピリオ、加美乃素本舗、ヨウモトニックなどいずれも全盛だった時代がある。戦前である。キ スミーやマダムジュジュは戦後だが今は見ない。 これらの会社はもうないものと思っていたら、そ れがあるのである。七、八年前キスミーの大工場を車で通りすがりに見て、オヤとふりかえったこ しるびー とがある。ロゼット本舗詩留美も、オリジナル化粧品本舗も、ポンジーも八重椿本舗もあることは あるのである。
広告というものは昔も今も原稿を手にした外交のものなのである。飲ませ握らせ、よしんば抱か せても原稿が他社の外交の手にわたってしまえばそれは他社のもので、これは鉄則である。 だから広告代理店の新年宴会はとっくみあいの喧嘩になった。あれだけの金をつかって、すんで のところで自分の手にはいったはずの原稿を奪われたのである。酒がはいれば「おのれ」ととびか かるのは無理はない。 電通が大きくなったのはラジオテレビ以来である。活字の広告は版元が作る。いまだに週刊誌の 広告は編集者がつくっている。原稿を書いたり集めたりした編集者が広告も書く。全き他人である 電通や博報堂にまかせる気はしない。 だから世にも醜い時代遅れの週刊誌の広告が、いまだに出ていると電通のレイアウトマンは思う。 自分たちにまかせればはるかに美しい広告が出来ると思うが、手塩にかけた雑誌の広告を、どうし て他人にまかせられようと編集者は手放さない。 そのうち世はテレビの時代に移った。テレビのスポンサーは何百万何千万円の予算をのむかのま ないかだけである。人気女優の誰を起用してどこでロケーションをしてだれに監督させるか、それ る ( いくら払ったら ) ) 、 ししカ見当がっかないから 、いっさいを電通または博報堂にまかせる。三千万円 の かのならそれなりの見積が出る。コピーライターだのスタイリストだの髪結いだのはこの見積の さ なかにもぐりこんだから、大金がとれるようになったのである。 以 インテリアはもぐりこまなかったから、その項目がない。 本来インテリアは百万二百万、今なら 通 電五百万や千万の予算はとっていいテーマである。故人剣持勇にはその才能、またはったりがあった が、その後この種の人材がいないから、この業界はテレビに乗りおくれた。
代理店は利になるから全国に出す。テレビ ば不公平になるから地方紙にも出さなければならない。 にも出す。予算は年ごとに増えて電通博報堂を利するために税金がどのくらいむだ使いされている かそれをとがめる機関がないから、つくれと言いたい。私は広告好きだから何ならチェックしてや る。 六〇年安保のときそれまで岸を倒せ、殺せと言わんばかりだった新聞に、暴力を排し議会主義を 守れと七社連合の広告を出させたのは電通だといわれている。少くとも扱ったのは電通である。電 通の吉田秀雄は広告会社の域を出たかったのではないか。危険である。 昭和四十年代から十年余り「室内ーは苦境におちいった。おちいっても手形を振出してないから 平気である。いまはごらんの通り広告はあふれている。いずれも直接申込である。代理店は定価及 びマージン厳守だと聞くと、そんな雑誌がどこにあると冷笑する。熊本日日新聞の例があるから相 手にしないと、邪魔して広告主に広告させまいとするのがある。 につさん 室内の営業部員がスポンサーに日参してようやくまとめたものを、最後にスポンサーに代理店は 電通である、博報堂である、あるいは東急エージェンシー ( 以下略 ) である、そこを通してくれと ほいわれれば承知するよりほかない。 の この世界では原稿は手にした者のものだとは再三言った。九分九厘までまとめたのはわが社の広 さ 告部員である。それを有力代理店にさらわれてはさぞくやしかろう。 以 一流代理店は安い広告は扱わない。ただスポンサーが「室内へ」と言ったときだけ渋々扱う。四 通 電十万の広告の二割なら八万にすぎない。当方から言わせれば天から降ってきたマージンだ。それな のにその原稿をとりに来いという。礼を言って先方が持参するのが当然なのに、上役は下っぱにそ
150 朝日新聞が朝日広告を育てたのは、電通または博報堂だけに広告を一任すると弊害が生じるから である。毎日新聞も毎日広告社を育てた。 やがて新聞としての朝日が全盛時代を迎えると、専属の広告社まで威張るようになったから妙で ある。昭和一一十 , ハ年朝日広告の柏木 ( 仮名 ) という陸軍軍人あがりの担当者は、わが社の出版物を 調べたいから貸してくれと言った。当時私は家具や建具の図集を出して注文品だけ売って取次店に 委託販売していなかった。当時家具屋や建具屋は本屋の客ではなかった。したがって卸して本屋に 並べても売れなかったから、外交販売と通信販売を主として好成績をあげていた。通信販売にはい ( ししか、それをそのま かがわしいものがあるからいっせいに調査したいと朝日が代理店に言うのま、 ま客に伝えるのは驚くべき無礼である。 ) と、まだ若い私は立腹して朝日広告と縁を切って 調べたければ朝日は黙って買って調べるがいし 東弘通信社に移ったのである。東弘通信社は博報堂出身の無数の広告代理店の一つで、それがよく 生き残って今は新聞広告を扱って一流になっているが、広告の主流がテレビに移ってからの一流だ からほんとの一流とは一言えない。 東弘通信社には戦前の広告代理店の体質が濃厚に残っていたから私はこれで戦前を察した。社長 は株式会社というものを理解していなかった。金庫から金をわしづかみにして客の接待に使うよう なことをした。あとは経理にまかせる。その辻褄をあわせるのが経理の仕事だと心得ていた。 昭和三十年代まではこんな社長はいくらでもいた。一一十六年にはラジオの広告がはじまった。東 弘通信社も早速試みたが、ラジオで本のタイトルを言って、詳しくは今朝の新聞の一面下段をごら ん下さいというがごときは全く効果がないのですすめられて私も二、三度やってみたがすぐにやめ
140 ひとり都新聞 ( いま東京新聞 ) だけが、なぜ一面を全面広告にしなければならないかと自問して 学芸欄を一面にもって来て、その下に尾崎士郎作・中川一政画、長編小説「人生劇場」を据えた。 これが大当りで、それまで花柳界と株屋の新聞だった都新聞がインテリをとらえたことは、「『都新 聞』回顧」 ( 文春文庫「冷暖房ナシ」 ) に書いた。 これは大英断で他の新聞もまねればいいのに、もともとまねっこのくせに都新聞のような東京だ にちにち こけん こうじん けのローカル紙の後塵を拝するのは沽券にかかわると思ったのだろう。朝日、東京日日 ( いま毎 日 ) は相変らず一面を広告でうめて苦しんでいた。 外交には月収五百円千円とる大外交あり、カバン外交といって喪家の狗のごとき一人外交あり、 いずれも堅気ではないからいくら金がはいってもはいっただけ出て倉を建てたものはない。 さりとて悪漢ばかりではない。 戦前のことはすこししか知らないが、昭和三十年で戦前を察する と、外交は依然として歩合で働いていた。ずいぶん派手に金をつかっていたが、すでに時代遅れだ と思われたのはラジオの民放が、続いてテレビが現れつつあったからである。 広告はラジオとテレビの時代になって、活字広告は押され気味である。博報堂は新聞雑誌に力を いれ電通はラジオに力をいれたからしばらく差がついた。昭和一一十五年現在ラジオは一千万台あっ 受信機はタダだと電通社 たという。が普及させたラジオの受信機に民間放送を流せばいい。 長吉田秀雄 ( 明治三十六年生 ) は考えた。 のちに広告の鬼といわれたのはこの吉田秀雄である。吉田は賤業視された広告を世界一に仕上け た男である。私が見たのはその電通が大きくなる過程である。博報堂は活字の天下が続くと思って いたのでおくれをとったことはすでに言った。群小の代理店はまだ眠っている。