ある。 プレジデントは何も言わなくても連載が二年目になるとあける。四年目になるとあける。背後で 彼が目を光らせていることが分る。ほかに「諸君′・」がある。諸君 / は一流独自な雑誌ではあるが、 多く売れる雑誌ではない。 それなの 故にあれに書くときは覚悟している。だれも多くを望まない。 に三年に一度五年に一度あげる。「気は心」である。 私の雑誌は十年余り売れないときがあった。そのときは当然原稿料も安かった。その代り発売と ほとんど同時に送った。電光石火で、せめて安いことのうめあわせをしたのである。これも気は心 である。 ここまで書いてなるほど原稿料はテーマにしにくい、 書かないのはもっともだと気がついた。い まだに書かせてやるつもりのマスコミがある。そんなことを言っているから、後継者がなくなった のだ。小説家志望の若者なんかすでにいないじゃないか。名のある賞の受賞者の平均年齢は五十に 近い。五十に近いということはあと十年たっと小説家人口はなくなるということで、同時に読者人 ロもなくなるということだ。諸井薫は原価計算をしてみよと言っている。紙代、印刷代、人件費に くらべて原稿料がいかに安いか見よと言っている。私は編集者は私以上に算術が出来ないのじゃな いかと疑っている。マスコミは文科系の社員に占められている。理科系をいれよと言ったことがあ るが、それよりまず算術のできる人をいれよ。 算術の出来ない人にアンケートしてもむだだから私は問うことをやめた。それよりこれ以上原稿 料のことを言うのがいやになったのは、やはり文は売るものでないからである。 これだけ文が売られながら、なお売るものでないと言うのはおかしいようでそうでないのである。
それも昭和三十四、五年までである。テレビの時代になると新聞広告は次第に効かなくなった。 委託しなければ売れなくなった。ひとり岩波は昭和十四年以来の買切制をくずさなかった。明治の 昔は書籍も雑誌も買切だった。それを委託制にして大成功したのは実業之日本社だった。ただし雑 にゆうぎんせい 誌だけで、書籍はなお「人銀制」という買取だった。それをくずしたのは昭和初年の「円本」だ った。それまで七百部千部前後だった初版が、三十万四十万という途方もない大量になったのだか ら、印刷製本卸小売に大混乱が生じた。 円本ははじめは売れに売れてようやく受注の態勢がととのったら今度は返品に次ぐに返品である。 けれどもひとたびふくれあがった態勢は旧に戻らない。本は大量生産して大量消費するものになっ た。かなわぬまでもそれを願うものになった。ことに雑誌はそうである。 びとり岩波はい、 し本を安く売って信用を得た。岩波文庫は「☆一つ」一一十銭である。一一つで四十 銭の文庫を一冊売っていくら利があるか。ほかの版元は岩波の定価が安いから高くしたくてもでき ない。「低定価高正味」といって岩波は版一兀にも好意を持たれなくなった。 戦中戦後は本でさえあれば売れたからこの問題は忘れられていたが、売れなくなって気がついた。 岩波は文庫も新書も雑誌まで返品できないのである。ただし「世界」は初めはよく売れた。安倍能 成、和辻哲郎では古いから吉野源三郎は徐々に執筆陣を若くした。オールドリべラリストに原稿を 五ロ 頼まないで、新進気鋭の論客に頼んだ。気鋭の論客というのは左翼また進歩的文化人のことだとは ~ 石すでに言った。安倍以下の老人は自然去って別に「心」という雑誌に拠ったが、もう読者とてはな の いっ終ったか私も知らない。 吉野源三郎はかくれ共産党員で、岩波の社員の四割は党員またはシンバだといわれていた。何よ
ーをひやかしたことがある。戦前サントリーは古いほど 私はそんなこととは知らないでサントリ しいと広告して、白ラベルの丸ビンをサントリー 7 年、角ビンを年と称して売っていた。むろん 7 年は安く肥年は高かったが、戦後両方とも売れに売れたからただ「オールド」といってごまかす ようになった。商売なんてそんなものだと半ば揶揄して「週刊新潮」に書いたが、担当者はとんで そのうち書くだろう。 来なかった。武田のことは書いたことがないから知らない。 、三菱、日立あらゆ それにつけても田 5 いだすのは花森安治である。花森はナショナル、サンヨー るメーカーの商品を俎上にのせて遠慮のない品定めをした。消費者に安くていいものを推薦しよう しいものはいし ) と一一一口った。 とした。一流会社の製品でも悪いものは悪いと言った。末流会社でも、 流も末流もほめられたときは「暮しの手帖ご推薦」と広告し、悪く言われたときは乗りこんで抗議 抗議できないものはかけであらぬデマをとばした。暮しの手帖は広告をとらぬと言っているが、 びそかに大メーカーと取引して大金をとっていると、ひとは自分でも信じてないことを言うのであ る。言わなければおさまらないから言うのだろうが、私は人間というものはイヤなものだなあと嘆 せずにはいられない。 月夜の晩ばかりではないぞとおどすものもいる。闇夜には気をつけろという意味である。いくら 一それが本当でも満座のなかで完膚なきまでに言われてはくやしかろう。けれどもその通りなら改良 世するよりほかないから涙をのんで改良したから、あの悪評高い松下の食器洗い機はよくなったので 電ある。二十年前花森がテストして「愚劣な食器洗い機。主婦を甘くみてはいけない」「洗ってみて あきれかえる」「不完全なのを承知で売っている」とほとんど面罵したしろものである。
容を見て仕入れるわけではない。 この著者でこの版元でこの造本ならいくら仕人れていいかきめる。 取次店にとっては売れる本が本である。しばらく前は磯村尚徳「ちょっとキザですが」新しきは 一一谷友里恵「愛される理由」以下売れさえすれば本である。小売店は取次店と同じく売れる本が本 である。 古本屋にとってはいくら売れてもベストセラーの多くは本ではない。 一冊五十円百円のところに ほうりこまれる。古本屋も内容を読まないこと卸小売と同じであるが本を見る目がちがう。読者に やや近いがちがう。どこがちがうかは改めて言う。 さきに私は製本屋は印刷屋の下職で出版社からじかに金をもらわな : 卩リ し届屋からもらう、それ はなが年の習慣だと書いたら、一流の製本屋からわが社は出版社にじかに見積を出し、じかに支払 を受けていると注意された。いかにもそうである。けれどもそれはひとにぎりの一流だけで、今年 ーセント、五人以 の「製本白書」によると回答のあった六百六十三社のうち職人四人以下が四三。ハ 上九人以下が三一ヾ ーセントだったという。これでは戦前とほとんどかわらない。しかも手不足で 廃業するものしきりだという。地あけ屋に地所を売って去るもの、ビルを建ててオーナーになるも のはあっても、今後とも新規開業するものはなかろうとこれは誰にでも分る。 辞取次店にとっての一流の製本屋というのは私たちの見る一流とはちがう。納期を守るのが一流な の みもり 業のである。わが「室内」の三森製本は従業員百人の中堅だが、搬入の時間を守るので取次では「製 屋本は ? 」「三森です」と答えるとそれなら大丈夫と安心する。ここでは一流である。 製雑誌の七割近くは大日本と凸版が印刷製本している。この二大印刷があてにならないという。マ ンガ雑誌には一週五百万、六百万部も出るのがある。何社にも分けて製本させているが、これが一
156 戦後彼らのいうマーケット・リサーチとはどういうものか、ためしに私はやってもらったことか あると言ったのは、通信販売には「英会話」「書道」「速記」「校正」、ありとあらゆるものがあって 「インテリア講座」だけがない。十なん年前だからない。「室内」が試みたいからリサーチしてく れと頼んだのである。リサーチの仕方まで私は教えた。通信販売五十点のうちどれが売れてどれが 売れてないか。広告料は毎月どれだけ払っているか、着々と払っているか、滞っているか。商売に なるか否かはその支払いぶりをみれば分る。講座は常にストックしておかなければならない、どの くらいの在庫がどこにあるか、社員は何人で給与はいいか悪いか、そのほかこまごま教えたがひと 月たっても返事がなかった、ふた月たっても返事がないのでどうしたと聞くと、通信販売の代理店 は古い歴史があって群小が扱って大手は扱うことすくないという。 。あとはそれで察しられるとい 大手が扱っている五社か六社でいい 五十社全部なんか要らない。 ったがなお待ってくれというのでしびれをきらし、そのうちゃる気を失って立ち消えになってしま った。彼らのいうリサーチはこの程度のものである。リサーチという片カナはいまだに実体をとも なっていないのである。 同じく十年前家具が売れないころ工作社が売ることを思いついた。プランは一夜にして成る例で ある。相手はマンションである、コーボである。客はその一角を買ったがインテリアをどうしたら じゅうたん いいか分らない。「室内」が一流デザイナーを動員してカーテン絨氈テープル椅子にいたるまでそ ろえて売る。の三種をそろえてそれぞれ百万百五十万二百万と定価をつける。むろんローン である。「室内」なら品物はどのメーカーからも揃えられる。しかも倉庫を持っ必要がない。広告 だけまたセールスだけで商売になる。
238 んど呪う。今度つぶれるのは甲社だ乙社だと、げんに自分が書いている一流出版社のことをいう。 目下盛業中の大会社のことを言うのでふしぎに思ったがははあと分った。そこからもらっている金 が人権蹂躙みたいな金だからである。 かんき 光文社のカッパブックスならご存じだろう。社長は神吉晴夫 ( 故人 ) である。講談社からいでて 講談社より講談社らしい人で、出版は創作だと称し商業主義に徹するのま、 ) 、、 ( ししカ著者をあごで使 、つようなところがあった。 出版社と執筆者の仲は雇用の関係ではないのに、「使う」と言う。ロでは先生先生と言いながら 使用人だと思っている。使用人なら給金を払うが、払わないでかけではこの原稿には誰を使うなど という。大新聞は書かせてやる気でいる。本は出してやるである。 ひんしゆく 神吉晴夫はそれを露骨に言ったから著者には顰蹙された。カッパブックスは並の本屋なら一万か 一一万しか売れない本を何十万と売ったから黙っていると、それをいいことに「伊藤整先生も壺井栄 先生も印税を一一。ハ ーセント負けてくれたぞ。中村 ( 武志 ) 君のような駆けだしが生意気いうな」と 言ったそうである。 伊藤整の「文学入門」壺井栄の「二十四の瞳」中村武志の「サラリ ーマン目白一二平」の三点がな ぜかカッパブックスの出版の皮切りに選ばれた。このとりあわせは変である。けれども売ってみせ る自信がある。そこが神吉晴夫のえらいところで、はたして売れた。 それは広告に次ぐに広告を以てしたからで、その費用は莫大てある。自分のカで売れたと思うな、 売ったのはおれだぞと神吉は言うのである。だから五万部を超えたら一〇。ハーセントの印税を八。ハ ーセントに負けろ、広告代を持てというのである。伊藤、壺井の両先生はすでにご承知だと言うの
205 赤本 年警視庁調べで都内に三千軒あったという。古本屋も扱った。古本は回転が遅いが、貸本は早い その売行きを小学館、集英社、講談社まで偵察にきて、売れる画家をあとで引きぬいた。すなわち うめず 白土三平、水木しける、楳図かすお、水島新司などである。彼らはすべて貸本屋出身である。けれ ども桜井が持ったような劣等感はもう誰も持たなかった。時代だろう。 大手出版社が彼らを引抜いて本らしい体裁にして「コミック」と称して書店で売出したから貸本 屋とその取次屋は滅びたのである。「少年ジャンプ」はいま週に ( 週にですぞ ) 五百万部売れると いう。「少年ジャンプ」のたぐいは昔ならみんな赤本である。戦後の出版界は赤本の天下になった と言っていいだろう。むろん出版も商売だから売れるものなら売るがいいが、尋常な本屋と赤本屋 とは差別されなければならない。今は並の版一兀が限りなく赤本屋に接近する時代ではあるが、だか らこそ差別がなければならないのである。それでなければむかし桜井を、またついこの間までマン ガ本を扱わなかった甲斐がない。
ろしきを得たから「世界」は売れに売れた。返品はなかったから、この時はまだ小売書店は事を荒 だてなかった。 あんぼ その全盛時代は昭和三十五年「六〇年安保」までだろう。「世界」は全面講和を主張して、単独 講和と対立した。ソ連中国の両大国だけを除いた講和は単独ではないのに単独と称し、再び三たび 大戦を誘発すると国民をおどし「世界」は増刷に次ぐ増刷をした。大新聞も同じ論調だったから、 岸を倒せ殺せという声は国会を包囲した。革命寸前の騒ぎであわやと思わせたが、仔細に見ると共 に安保ハンタイではあるが、革新陣営の足並はすでに乱れていた。「世界」は代々木の共産党べっ たりで、学生の多くは反代々木である。 共産党はこの運動を党勢拡大に利用しようとしていると、反代々木系の学生は見てとって共産党 とすでに敵対していた。安保反対を本気で戦ったのは、全学連だけだったのではないかとのちに言 われた。 新聞はこのぶんでは本当に国会に乱入しやしまいかと恐れて、「暴力を排し議会主義を守れ」と 七社連合の声明 ( 広告 ) を出したら、不思議ではないか騒ぎはびたりとおさまった。この広告を企 画したのは電通だといわれた。「今こそ国会へ」とあれほど扇動した新聞はその鎮静ぶりに我なが ら驚いたが、それに対する反省はなかった。 語 これが岩波の全盛期の最後で、反代々木系の学生は「世界」を離れた。安保が可決されてテーマ 物 犠を失った「世界」は、・生なる匿名の「韓国からの通信」を十五年間連載した。金大中事件を のきか ーム 奇貨として常に北朝鮮の肩を持っ通信を掲けたが、当初は南北朝鮮の情報がなかったから、この通 幻信は呼物で四冊まで新書本になったが、次第に情報がはいるに及んで・生は「北」の手先かと
りである。 桜井は金品を贈って作者に尽すことひとかたでなかったのに、い、 し原稿をもらえなかったのは、 もと赤本屋だと告け口をする者があったからである。 出版社はみすみす売れない本でもほれこんで出す。いまだにそうである。そうであってはじめて 出版社なのである。月遅れの雑誌や円本の見切本、ゾッキ ( 東棄と書くという人あり ) 本などを売る のは商売であっても出版ではない。 ついでながら言うが昭和初年の円本の返本は何十万何百万冊出た。アルスの「日本児童文庫」の 返本三十万部は一冊三銭でようやく売れた。改造社の「現代日本文学全集ー三十万部は一冊十一一銭、 春陽堂の「明治大正文學全集」三十万部七銭五厘、以下略すがこれを引取ったのはみなゾッキ本屋 だった ( 小川菊松「出版興亡五十年」による ) 。一冊十一一銭や七銭五厘じや大損だと思うだろうが、そ うでない。版元が儲けたあとの残本である。これらは古本屋で十銭か一一十銭で売られた。どれだけ 文化のためになったか知れない。 それでも処分しきれないから朝鮮、満洲、台湾で売って大儲けし た。講談社の「講談全集」「修養全集」だけは野間清治が報知新聞社長になった時で、新聞の「お まけ」に使ったので見切本には出さないですんだ。昔ながらの絵本、月遅れの雑誌、見切本を売る 業者は初めは別々だったが、次第に混乱が生じた。桜井均はそのなかの赤本屋あがりだと告け口さ 本れたのである。 この桜井均が私の「年を歴た鰐の話」に惚れこんで、本にしてくれたのである。竹村書房もずつ 赤とあとで知ったが坂口安吾の熱烈な推挽で、本にしたいと再一二言ってくれたが、私は桜井を選んだ。 竹村は尾崎士郎の「人生劇場」を出して大成功した恥ずかしくない出版社ではあるが、今それ以外 へ
編集は売れない。 したがって乱作をしなければやっていけない。乱作すれば質がさがる。 これからさきは私 ( 筆者 ) の意見だが乱作がずらりと勢揃いするから小説雑誌は売れなくなる。 げんに小説の時代は終った。あれは原稿料を出し渋ったせいで自業自得だといえは事は簡単だが、 編集者には編集者の言いぶんがあって、一万円の大工に三万円出しても三万円の仕事は出来ないよ うに、三千円の作者に一万円出してもそれだけのものは書けない。 この三千円という相場は昭和五十七年ごろのものだが今もほほ同様である。四、五千円だと聞い た。流行作家でも一枚七、八千円だろう。誌で一万円出すところがあるが、あれは読者がない か、らここでは問題にしない。 面倒だから手短に言うと文章というものは志を述べるもので、本来売るべきものではない。それ をいいことに江戸時代は潤筆料を払わなかった。祝儀に角樽でも持参して一タの宴をはればそれで よかった。原稿料らしいものをとったのは馬琴 ( 曲亭 ) あたりがはじめだというから古いことでは ~ よ、 0 明治になってもその風は残っていて金のことはロにしなかった。原稿を頼まれて原稿料はいくら だと聞かないのはおかしいと言うものがあるが、私は聞かれたことがない。三十三年間に両三度あ 史 ったが、それは多く末流の筆者でプロなら雑誌を手にとって、目次を見て品定めして自分が書いて 料 画恥ずかしくない雑誌か否か、原稿料はどのくらいかまで分る。だから聞くまでもないので聞くのは 料素人である。思ったより安ければ二度と書かなければいいのである。 原 この習慣をよいことにして編集者はいくらだか言わない。言わないのではない、知らないのがい る。だから原稿料はこの二十年いや三十年あがってない。一枚三千円が、いまは三千五百円、せい つのだる