松下 - みる会図書館


検索対象: 私の岩波物語
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1. 私の岩波物語

126 以上話して一分もかからないがこれでお分りだろうか。「室内」は暮しの手帖とちがって創刊以 来広告を満載している。それにもかかわらず言いたいことを言ってのけている。なぜそれが可能か、 私に可能なら他にも可能なはずだからそれは次第に述べる。 新聞雑誌の世界では松下電器、松下電工以下の松下グループには気をつけろと言われているのに、 うかつな私は忘れていた。松下グループは巨大な広告主で、もし批評がましいことを書いたら承知 しないぞ、全広告を引きあげるぞと電通または博報堂を介しておどかすそうである。または直接の りこんでくると聞いて、ははあそういえば二十なん年前来たことがあったなと、ほんやり思いだし はしたものの気にもとめないでいた。 ほかにサントリーと武田も似たようなところがあると聞いたが、わが「室内」にはサントリーの ウイスキーとビールは出る幕がない。武田といえば薬屋だろう。これも出ない。 広告は出てない。 松下は昔「。ハニチャー」という新作家具と照明器具の広告を何度か出したが、それきりになったの は「室内」がパニチャーに批評がましいことを書いたからだそうで、こらしめのため出さないらし つうよう いが、出さなくてもべつに痛痒は感じないから忘れていた。一一十なん年松下はこらしめているつも りだったかと今ごろ気づいても、それは松下のひとり相撲でご苦労なだけである。 松下電器また電工といえば大会社である。それが零細「室内」を二十なん年憎み続けるとはよく よくのことだろうに、当の室内に心当りがないのたからたいしたことではないに違いない。念のた めに調べて見たら今は昔号 ( 昭和三十八年十月号 ) の「室内室外」に「東西。ハニチャー騒動ーーー京 大阪はてんやわんや」と書いたのが出て来た。

2. 私の岩波物語

128 二、三年前私はさる大雑誌に電気餅つき器のことを書いた。電気餅つき器なんてきわものである。 今日あって明日ないものである。零細メーカーの仕事で松下のような大メーカーのすべきことでは ないと書いたら、担当の編集者がとんできて申し訳ないが松下の名を削ってくれと言う。なぜと私 は怪しんで問う。実は松下はすぐ見とがめて広告を引きあげると言ってくる、ヘーえそうかいと私。 それなら松下の二字を削って、大電気メーカーのすることじゃないと改めるがいし ) と、担当者が気 の毒だから私は直すことを承知したが、これで分ったのである。全マスコミが松下幸之助を「さわ らぬ神」扱いにして、松下幸之助の説教を恭しく聞くふりをするわけが分ったのである。 まことに金は魔ものである。前回私は電通は一一 = 口論を左右する力があるのに気がっかない、近い将 来その危険があると書いたが、近い将来どころか広告主が言論を左右しているのを目撃して以後気 をつけて見るようになって、松下の広告が十余年室内に載っていないことを知ったのである。松下 ばかりでなくどの会社でも広告部長は多く一一、三年で交替する。それなのになぜこのことがあるか というと、前任が後任にプラックリストを渡して、なかに「室内」がはいっているから永遠に広告 しないのだ、悪く思うなよとわが広告部員が松下に行ったとき言われたそうである。 だから大雑誌は恐れるのである。五大雑誌だか八大雑誌だか知らないが、多く雑誌を出していれ ば松下グループの広告だけでも毎月一億や二億にはなる。テレビラジオならもっと莫大になる。そ まできなくなる。 れを総引きあけするぞと言われたら松下の批評ー 私は浅薄な正義はきらいだが、こんな脅迫に屈するのはもっときらいだから、そうと分ったから 今これを書く気になったのである。大新聞や大雑誌が松下やサントリ ーや武田に屈して何が言論の 自由だろう。 うやうや

3. 私の岩波物語

記事は京大阪の大騒ぎを伝え、それにびきかえ東京側はひっそりかんとしていると書いただけの ものである。このとき松下はまだバニチャーを売出してない。前宣伝をはじめ、八月に地元大阪で 九月に東京で発表会を開いたところである。 その前号号 ) ではすでに進出する兆しがあったから、もし大メーカーが乗りだしたらと警告 を発している。零細メーカーは大メーカーの進出におびえていつも否定的なことを一一一一口う。それを伝 え、その代り問屋も小売も売れるものなら仕入れると言っている声も伝えたから、何にも怒ること その上期号で、「反。ハニチャーに物申す」と広島在住の山内明さんの一文をのせているの だからこれ以上公平なあっかいはないから、松下から部長だか課長だか忘れたがはるばる一一人づれ が来たときも、文句を言いに来たとは思いもよらないから、私はにこやかに応対して帰したが二人 は翻弄されて追いかえされたと思ったらしい。 なぜそんなことを思ったか、たまたま松下は「室内」に一ページだけ広告していた。広告してい る以上礼賛するのが当然である。批評がましいことを言うなら以後広告しないぞと言いにきたつも りらしいが、さすがに言いかねたのだろう。それに私は松下の広告が出ているかいないか知らなか った。半年や一年出ていたのかもしれない。 ) ものはい ) 、だめなものは また万一大広告主でもいし だめと書く雑誌だということは連載の「こわしてみる」を見れば分るはずである。こわされたメー 一カーは無念だろうが、ながい目でみればよくなると信じているから五年や十年の不利は私は覚悟の 世上である。 電そこが松下の分らないところで、部下が分らないのは部長が分らないからだと二十年たってやっ 盟と分った。

4. 私の岩波物語

めることがある。松下の予算をまかされている。生かすも殺すも代理店次第だと広言するたぐいで ある。 大会社の代理店は一社ではない。上は電通から下は零細な代理店まで使っている。それらが打っ て一丸となって松下またはソニーの評判を悪くしている。「松下タブー説」はそのあたりから出た のだろうと、多く代理店のせいにして話したらよく分ったと笑ってくれた。 親玉は何と言っても電通である。電通こそタブーだと新聞雑誌は恐れるが考えてもみるがいし 電通を批評したらどうして全広告を引きあげることができるか。電通が広告しているのではない。 ひばう スポンサーが広告して、電通はその窓口にすぎない。五十社百社のスポンサーに某が電通を誹謗し たから番組をおりてやってくれと頼めるか。どれ、どんな誹謗をしたのか見せてごらん ( 読んで ) なに多少の誇張はあるがもっともなことばかりじゃないか。第一芸術は誇張だよ。このくらい誇張 しなければ面白くないとスポンサーはからからと笑うだろう。 口を開けば「一一一一口論の自由」を言うマスコミが電通タブー説、松下タブー説をとなえるのはけけん である。電通が特定の某社をしめだすなんて出来っこない。だから忌憚なく論じていいと私は二十 る 年前から論じている。古くは「小説新潮」で近くは雑誌「太陽ーで「電通世界一」 ( 中公文庫「つか かぬことを一 = 〕う」所収 ) を書いたが、べつに「ぎよっとするのは一分間だけ」というコラムも書いた まことに電通ばかりか人がぎよっとするのは一分間だけなのである。 以 電通だって功績がないではない。戦争中のどさくさまぎれにそれまでなかった広告に定価をきめ 通 電た。それは昭和三十年代まで守られなかったが、それでもきめた。新聞雑誌が発行部数をいつわる のに業を煮やして協会をつくった。このに加入すると部数をいつわることができない

5. 私の岩波物語

のには一理があるのである。大松下にこんなことを一一 = ロうとはーーーマスコミ人にはショックだったは ずである。ただし一般人にはショックでないから、それが反映して暮しの手帖以外のマスコミはす ぐ忘れたのである。 記事は分らなくても広告は分ると再三私がいうのは新聞広告のことである。ところが今はテレビ の時代で、広告を論ずるならテレビのを論じなけれはならない。 それなら一にも二にも「電通」である。電通は広告を扱って日本一だそうで、博報堂もそれに続 いて二位たという。ほかに「東急エージェンシー」「大広」があるが、その一々についていうのは くだくだしいから電通と博報堂についてだけいう。あとはその亜流だとみて察してもらう。 電通が日本一 ( いま世界一 ) になったのはテレビのおかけで、活字だけのころは電通も博報堂も みじめな存在だった。押売と広告屋お断りといわれたくらいである。それが今日のようになったの はテレビの広告を制作まで引受けたからで、番組そのものとそれに挿入するは広告主には制作 できない。。 とうしていいか見当もっかない。 電通はテレビ局の時間を買って、望みのタレント望みの筋書の一切を提供して〆て千万三千万五 千万で売る。コピーライターが五十万百万とるようになったのはその手下になったからである。 コールデンタ 広告だけでなく制作いっさいを引受ければその利は何倍何十倍になるか分らない。。 一イムを全部買いきっておけば、スポンサーは電通 ( または博報堂 ) 経由でなければ番組を流せない 世わけで、こうして電通はみるみる巨大になったのである。もし電通が欲するなら近く「一一一一口論」を左 電右することができる。それが不可能事でなくなること往年の新聞の如しである。テレビを支配する ものは天下を支配できる。ただ電通はいまそれに気がついてないだけである。 だい一ッっ

6. 私の岩波物語

ることなのである。 けれども何事も一得一失はまぬかれない。編集をたてすぎると営業の不平不満はつのる。私はっ い何年か前さる大雑誌に、電気餅つき器なんてきわものは大松下が手を出していい仕事ではない、 零細無名の町工場にまかせよと書いたら、営業から文句が出て、もし松下が立腹して全広告を引き あけると言ったらどうする、この字句改めてもらってくれと言われて担当者がとんで来たので鼈く より笑った。 大松下がそんなことを言うはすがない。営業部ここにありと日ごろの不満がこれを言わせたのだ なと私は察したが、争うほどのことではないので、松下の名を去って電気餅つき器なんて大電機メ ーカーがつくっていいものではないと改めたが、両者の仲をよくするにはしばしば酒食を共にした らいいと思、つが、今ど、つしているか知らない。 博文館の時代は明治の末まで続いた。元取次の扱いがその当時七割まで博文館の雑誌と書籍だっ たのが、次第に実業之日本社に追われるようになった。「実業之日本」「婦人世界」「日本少年」な どが売れだしたのである。今では想像もっかないほど実業という言葉は明治年間は魅力だったので 代ある。ほかに雄弁という言葉も同じく魅力ある言葉だった。講談社の旧社名は大日本雄辯會講談社 ので、「雄辯」はその看板雑誌だった。ひと旗あける、一国一城のあるじになる、という言葉も当時 社 本は可能性のある一一 = ロ葉だったのである。 日 之栗田確也も小川菊松もひと旗あけるつもりだから、奉公にはけんだのである。昼と夜の区別もな 実く働いたのは主人のためばかりではない、自分のためだったのである。ひとロで一一一〕えばそれは「個 人」の時代だった。昭和になってからは「法人」 ( 大会社 ) の時代になったから、これらの言葉は

7. 私の岩波物語

164 「暮しの手帖」はメーカー品をテストして忌憚なく言うために創刊以来広告を載せてない。私は広 告を満載してなお忌憚なく一一一一口えると称して一 = ロっている。 広告を載せても言論は自由なのである。いまは活字の時代ではなくテレビの時代だから、もしテ レビで忌憚なく言って、全テレビから広告を引きあけるぞといって実行したら、その商品は存在し なくなる。ソニーが松下が日立が全広告を引きあげたら存在しなくなるからそんなことは出来ない のである。したがって暮しの手帖は広告を載せてもいいのである。 狂人ではあるまいし私だってよく考えた上で発言している。いっぞや大松下を例にあげた。その 後日譚を書かせてもらうと、その号が出た直後宣伝部長が手紙で会いたいと言ってきた。見ると文 章というものは恐ろしいもので、その人の心持がありありと出ている。自分は部長になって日が浅 、 0 代理店まで目がとどかない。社内ではあんなことを書かれて抗議しないのかとやいやい言われ ている。言、つのは抗議に上京しなくていい立場の人々である。とにかく行くから会ってくれと言外 の意味が分るのである。 喜んで会うとはたして文句を言いにきたのではないと分って一見旧知のようになった。以来新製 品、新発売の商品があると逸早く報せてくれて、それが紹介するに値するものなら紹介すると礼状 をくれるから結局は「人」である。ただしこういう宣伝部長は稀である。たいてい威張ってその社 の評判をおとす。前回のセンターの手紙はその例で、あれは弁解すると見せかけておどしたの である。 その時私は代理店に気をつけよといった。松下やソニーにその気がなくても、代理店が横暴を極

8. 私の岩波物語

130 ) と言われた。メーカーは この洗い機は何年かの間に四回テストされて、当分買わないほうがいし 出来のよしあしだけでなく、モラルまで疑われた。そしてこのときである。花森は一読者に、い、 、と分った、買うまい、けれどもその洗い機を買うためにここ にも食器洗い機は買わないほうがしし にあるお金で何を買ったらいいかと問われてショックをうけたのは。 すでに安くてよい品を選ぶ時代は去ったのである。買っては捨て、捨てては買う時代にかわった のである。新品同様の家具やテレビが粗大ゴミにまじって捨てられる時代になったのである。 私は日本が大金持になったとは思わないが平気で捨てる時代になったとは思う。してみるとテス トする時代は終ったのである。一一十年前にテストした食器洗い機は今よくなっている。松下のは一 流になっている。花森が存命ならテストした甲斐があったと喜ぶだろう。 ところが社史 「暮しの手帖」は創業四十年になる。してみれば暮しの手帖こそ社史があっていい。 は社員でさえ読まない。読売新聞社史は高木健夫が書いたそうで、高木は名のあるコラムニストな のに社長に書きなおしを命じられたという。もっと社長をほめよ、ほめかたが足りない、そのあと どうなったか知らないが、ほめればほめるほど誰も読まないものになったにちがいない。 いくら暮しの手帖でもその自慢話なら読まれないから、ます「商品テスト」をぬきだして年代順 に並べて一巻にしてはどうか。電気釜、洗濯機、ストープ、ミシン、掃除機以下食器洗い機にいた るまで並べ、当時のコメントを添えたらそれはそのまま歴史になる。工業デザインとその使い勝手 と値段の推移の歴史になる。一読したたけで高度成長とは何であったか、家事はどれだけ減って女 は何を得たか、また失ったか、家庭はいかなる影響をうけたか、この四十年はそもそも何だったか、 そこに書いてあるものはもとより書いてないものまで彷彿と分って、世の常の社史とはちがったも

9. 私の岩波物語

顰さて私は「広告」についてもすでにすいぶん書いた。かりにも「社史」だから何年何月号に書い たとあけるべきだがそれには及ばないほど書いた。しまいには私は記事より広告を信用するとまで 書いた。一字千金というが新聞広告には莫大な金がかかる。だから分らないことは書かない。分る ことが最低の条件で、その上で読者を立たしめ歩ましめ店まで行ってその商品を買わしめなければ ならない。 タイトルはすでに広告でなければならない。「性に眼覚める頃」 ( 室生犀星 ) 「挨拶はむづかしい」 ( 丸谷才一 ) などには読者を歩ませ買わせる力がある。 私は情報の多くを記事より広告から得ている。広告主は分らないことは書かないとはすでに言っ た。記者は書いて月給をもらう者だから分らないことを平気で書く。広告のうそと誇張に読者はだ まされないが、記事のそれにはだまされる。広告は誇張だと知って書きもするし読みもして割引く からいいが、記事は本当だとうけとるからいけないのである。 コメントは少い。せいぜい二行か三行である。広告全部に目を通しても十 広告の文字は大きい。 分とはかからない。週刊誌の広告はすでに事件をふるいおとしてある。それを見ればこれ以上知る べき情報は今週はないと分って、読まないですんで便利である。 その広告をはっきり拒絶したのは花森安治である。花森は広告は記事を支配したがるとみた。故 に広告はほしいが載せないときめて死ぬまで載せなかった。載せないで忌憚なくメーカー品の品定 めをした。大松下の皿洗い機をテストして、これまですいぶんどうかと思うものに出会ったが、こ んなふしだらな商品はこれがはじめてだと書いた ( 四十三年冬季号 ) 。 大松下はスポンサーでないから広告を引きあけると言えない。だから花森が広告を載せなかった

10. 私の岩波物語

368 この週刊誌とうのは「週刊文春」のことである。週刊誌がこんなにほめられることは稀である。 そくぶん 二ページ見開きコラムを宝とまで言われたので、彼女は喜んだと仄聞した。それで登場してもら ったのだが、互」初対面のせいか話ははずまなかった。以下「テレビのなかのインテリア」のリ ドである。 天下はイ人間の天下だというのに、向田邦子さんのテレビドラマに出てくる人物は依然と して畳人間かりである。「だいこんの花」でも「寺内貫太郎一家」でも、登場人物はみんな 旧式な茶の日で胡座をかいている。 モダンリ ングのなかでの芝居は、家具調度壁紙以下がカラフルだと目うつりして役者が引 立たない。 れにテレビの見物にも畳人間の血はまだ脈々と流れていて、共感はこっちにある はすだと彼は言、つ。 この対談は昭五十六年一月号だから彼女が不慮の死をとける八カ月前である。生きているうち にほめておいてかった。それまでも私は二、三度ほめている。けれどもそれらはことのついでに 触れただけであ。この時は四ページまるごとほめたのである。しかもデビューしたときすでに名 人だとまで一一一口っ ) る。間にあってよかった。 人物登場には 、則として同じ人物は二度出ないことになっている。だが何事にも例外はある。 ちどきに二人まさ一人出たこともある。またイベントがあって同じ人が二回出たこともある。今後 はそんなことに こだわらないつもりである。第一回の佐々木武士は全国家具組合連合会会長の資 格で出て、技能 リンピックを中心に語っている。四十六年一月号だったことはすでに述べた。 あぐ、り