こ・つけっ 私は「日生ビル」のたぐいは女の膏血をしばって成ったものだと書いて物議をかもしたことがあ るが、外交が客と寝室を共にしようと、あれは社員でない外交員が勝手にしたことで、会社は関知 しないとはうまい考えである。この百年の大計を考えだしたものは知恵者である。知恵は知恵でも かんち 奸智だと書いたからいやな顔をされたが、それは一瞬で保険会社の正社員は今も昔もホワイトカラ 保険会社は往年の羽 ーのなかのホワイトカラーで、社会的地位はこんなことでこゆるぎもしない。 織ごろのような社会的な蔑視、また制裁をついぞ受けてない。だから私は憎んで甲斐ないことと知 、いかなる商売もうちにいかさま りながら何度でも書くのである。「世はいかさま」に書いた通り を蔵している。けれども保険のそれにくらべれはものの数ではない。 大正八年「改造」創刊号は一一万部で出発してオール委託した。すでに実業之日本社が雑誌は委託 という先例をつくったからそれに従った。「中央公論」を追う意気ごみだったが、よく似た編集で は売れない。返品率六割を数えたという。中央公論はそれまで吉野作造の民本主義 ( いまの民主主 義 ) で売ってきた。それなら改造は社会主義で売ろうと試みたら、たちまち民本主義を駆逐して売 切れた。以来知識階級は社会主義一色に染まって、それはついこの間まで続いた。こうして改造は 代中央公論を凌いだのである。 の改造社長山本実彦は稚気愛すべき人物だが、インテリではないからインテリには軽蔑された。民 本主主義がいけなければ社会主義でいこうと思っただけで、改造山本は社会主義の信奉者でもなんで 日 之もない。 彼にとっての社会主義は商売の一便法であること他の諸雑誌と似たようなものだ。 実改造はいかさまの才はあるが経営は不得手で、絶頂を極めると同時にドン底におちた。大正末年 はそのドン底で十二万円 ( いまの百億 ? ) 負債をかかえて倒産寸前だった。このとき「現代日本文
その外交の住所名古屋へ寄って全額でなくても取立てて来てくれと、これから関西に出張する社員 に命じたら会社側の言いぶんは分った、行って外交の言いぶんを聞いてきましようと言ったのであ つけにとられたことがある。この社員は共産党員ではないがシン。ハで、当時はこういう考えのもの がいたのである。あとでこの男は「木工界」そっくりの新雑誌を創刊して木工界の広告をそのまま 移せば成功疑いなしと、広告部員をそそのかして創刊しようとした。 儲かっているときは社内に人の和がない。赤字のときは和がある。それなら赤字のほうがいいと 私は思うばかりか言って、こんな料簡じや大成しないと自ら笑うと、今は社員も笑うから人の和は あるようだが、さきのことは分らない。 ほとんど唯一のこの騒ぎを、どうしてこういう考えが可能かという観点から書いたら面白かろう が、この社員も今は老いてどこかに健在だろうから書きたくない。 広告を枚挙するのは私には面白いが読者には面白くないだろう。雑誌が日の出の勢いのときは広 告は招かすして集まる。創刊して一両年たったら木工機械のメーカーが誌上に勢揃いするようにな った。庄田、菊川、平安、津石以下のメーカーである。ほかに丸勝、大和などの販売店のごときは 一社で三ページ四ページも大広告した。いまは二、三を除いて総退却してしまった。木工機械は一 日本中に売ったらばたりと売れなくなった。発展途上国に活路を 度買えばこわれるものではない。 求めたものだけがいまも盛業中である。他は誌上から去ったが、会社としては存在していること三 十周年記念のとき、挨拶したら懐しがってくれたことによって分った。 広告は全員が揃うと一社欠けることができなくなる。欠けるとその社は存在しなくなるからで、 「文藝春秋の広告のごときはその例である。ュレビン、セルタス、エビールの接着剤はながく本
ない。ト林は岩波に何人かの婦人がいたことを明らさまに書いてないことは前にいった。あばいて ちよく 直となす風がないのを私は好ましく思っている。小林は「横浜事件」の一環で捕えられひどい拷問 をうけている。戦後拷問した特高たちを訴える仲間にはいれといわれたが断っている。拷問したの てあし は手足で、それをさせたのは治安維持法である。今さら手足を訴えても仕方がない。 岩波茂雄は戦争中一度倒れたが回復した。戦争が終ったらさあこれからは自分たちの天下だと息 吹きかえした。安倍能成も敗戦と同時に同志と共に総合雑誌の発行を思いたった。すなわち「世 界」である。岩波は喜んで引受けたが小林はその顔ぶれをひとめ見ただけで賛成しなかった、古い。 安倍能成、谷川徹三、山本有三たちの時代はもう去った。新しい雑誌は新しいメンバーで出発しな ければならないと思うのは当然で、その新しいというのは進歩的、左翼的ということで、戦後は急 速に左傾すると見てとったのだろう。ジャーナリストである。 それでも「世界」は安倍能成を主幹に吉野源三郎を編集長に、その年の十一一月に創刊された。は はなわさくら じめは保守的な雑誌として出たのである。すぐ売切れた。編集部に塙作楽がいた。塙作楽は吉野 の下に「世界」創刊から三年あまりいて、頭角を現わしたせいか追われてほかの部に移って結局十 五年いたとその「岩波物語」 ( 審美社 ) に書いている。別に昭和三十二年ごろの公安調査庁調べで は、岩波社員一一百余名のうち共産党員は三、四十人、シン。ハを含めると八十余名、全員の四割近く 擁が党の同調者だったと書いている。塙は正式党員で共産党から辞令をもらっている。共産党も辞令 ~ 石を出すか、またそれが候文なのがおかしいからついでながらあけておく。 私入党決定通知氏名塙作楽一、決定二十一年二月二十日貴下ノ入党ヲ確認ス右御通知 申上候一一十一年二月一一十日日本共産党東京地方委員会④塙作楽殿
て大成功した。東横は二流のデ。ハートだったがこれで活気づいたので他のデ。ハートもまねるように なった。最後までまねしなかったのは三越である。三越の面子にかけて「名店街」はつくりたくな っこが、ほかの全部にあってびとり三越にないことは許されない。十年近くたってしぶしぶ老舗 街を置いて、今では何事もなかったふりをしている。 この年高島屋の「シャンプル・シャルマント展ーは人口にこの展の主旨を掲けて末尾に宇佐美、 菊地、福王以下のクレジットを明記した。いずれも高島屋設計部の面々である。社内のデザイナー の名を社外のそれと同じく明記することが刺激になるとみたのである。それならメーカーの名もい ずれ出すようになるだろう。 デ。ハートは何もっくらないところだとはすでに言った。店員までメーカーに派遣させる。すなわ ちバイロット万年筆の売子は三越の社員のふりをしているがパイロットの社員だから、そこで気に それと知らないうちは いった万年筆がなくて隣りのプラチナを買うと。ハイロットの利にならない。 しいが知れば客は気がねである。 そう思って見わたすと売子のすべては派遣店員かと疑われて、客は派遣店員に包囲されている自 分を発見して、これではおちおち品定めできない、またどこに本物の店員がいるかさがして見つけ だられない。 九客にもすいぶん分らず屋がいてデバートに文句を言うと、電光石火それはメーカーに伝えられ、 二メーカーの店員がデバートの店員のふりをして詫びにかけつけて謹んで無理をきくいきさつはいす 暮れ書くが、デバートは電光石火以外は何一つしないで信用だけ得て、もしその社長が朝ごとに「信 用が第一です」と説教して、店員が耳傾けるとすればそれは一幅の戯画である。 メンツ
ふつう編集者は雑誌が売れなくても減俸されることはない。売れても増俸されることはない。こ だ賞与は多く出る。ほんとは功あるものだけに多く出したいが、それは許されない。全員に出すか ら勢い一人あたりは少くなる。そのかわり売行き不振だからといって賞与を出さないことは許され ない。組合は銀行から借りてでも出せと迫って、社長がそれを呑んで出すと、借りた金でもポーナ スはポーナスだから社員は借金だと思わない。それを繰返して赤字が年々ふえてつぶれた会社に筑 摩書房がある。筑摩はつぶれる直前まで一流企業並のボーナスを要求してそれに近い額をとってい 4 」 A 」い、つ。 「改造」は大正八年に創刊号三万部で出発した。すでに十一一万部の中央公論を追うのだから、同じ ような顔ぶれを揃えるには原稿料を多く出さなければならないと、中央公論が二円のひとには三円、 三円のひとには四円、四円のひとには五円だした。はじめ返品の山になやまされたが、中央公論が 大正デモクラシーで売るなら、こちらは社会主義で売ろうとその派の執筆者をそろえたら、たちま ち売れるようになった。そこへ第一次大戦後の不景気である。インテリだけの世界ではあるが民主 主義より社会主義に人気が出るのは時の勢いで、これが改造が売れるようになった原因である。 史 「改造」というタイトルはその名の通り革命なんぞめざしてはいない。せいぜいおだやかな改造く 画らいなところで、この左傾は商業主義による。けれどもそれで売れるならさらに左傾したほうがい 、 0 料 原中央公論は滝田は死ぬし ( 大正十四年 ) 、デモクラシーの本家だからにわかに転向もできないし、 改造に押されて返品は四割を超えるし、それでも改造が原稿料をあければ同様にあけなければなら
315 製本屋廃業の辞 た女子をことに好まない。 内容が伴わないうち外見がキャリアウーマンみたいになった女を見るこ とをさらに欲しない。虎ノ門にいればそのことがないのはひと安心で、故にわが社の社員に職業臭 があるものは平成一一年現在びとりもない。幸か不幸か全員素人風である。
なら思いもよらなかった自分史が毎日本のごときものになって出るが、よくしたもので読み手がな 、 0 本と本でもないものの境い目はどこにあるか。それは当人には分らない。編集者に見てもらうよ りほかないが、編集者には最低は分るが、それからさきは分らない。最もよく知るのは古本屋だと は前に言った。ただし本になってしまってから知る、なる前のことは知らない。 だから著者は不安なのである。四百回書いてもなお不安なのである。私は「室内」の経営者だか ら編集部員は私の原稿を没書にできない。かけで笑っているかもしれない。私は主婦之友の社長石 川武美や、講談社の社長野間清治が自分の雑誌に人生訓みたいなものを連載していたのを知ってい る。社員ではないが私なら笑う。よくまあ平気で載せられるなあ。 ところがあとでそれをまとめるとたちまち百版売れるのである。石川武美も野間清治も立志伝中 の人物で、その人の処世訓を有難がって買う人が当時も今もいるのである。いても私は読まない。 その証拠に二人の著書をいま読むものはない。 主婦之友や講談ネ ( 土こは ) 」ます一り一かし 、つばいいて、社長の文をほめちぎったのだろうか、かくの如 きごますりは今は稀になった。すくなくともわが編集部にはいない。 その無言はもののよしあしが 分らないための無言なのか、最低の社交を知らないための無言なのかどちらだか分らない。 だから私は他の雑誌に書いて私の作文が水準以下のものでないことを自分のためにも社員のため にも示した。三十年前は「週刊朝日」にコラムを連載した。十九年前から「諸君 / 」にやや長目の ものを書きはじめた。私は私の雑誌 ( 「室内」 ) に私の原稿を依頼したいと言ったが、わが社員はほ とんど悲鳴に近いこの一一 = ロ葉に何も感じないのである。あるいはぎよっとするのは一分間だけなので
144 脈を利用するためだとはすでに言った。 ここが博報堂と違うところで博報堂は復員した社員を雇わなかった。四ページの新聞では今いる 社員も養えないからこれをとがめることはできない。 電通の吉田秀雄は先見の明があったというべきだが、吉田はアメリカの進駐軍がラジオの民間放 送を近く許可するという情報を得ていたのである。ところが許可されたのは実に昭和一一十六年だっ むく たから、それまで吉田は要らない人材をかかえて苦しんだが、それは二十六年以降酬われた。 一位の電通と一一位の博報堂の間には大差が生じた。電通ビルは銀座、博報堂は神田にあって神田 は出版社の巣窟だから勢いおとくいは出版社である。出版業の特色は発注者がないのに勝手に作る ことである。 印刷も製本も外注で、自分は印刷所も製本所も持たない。設備も工場もない。電話と机さえあれ は開業できる商売だから戦前は銀行は相手にしなかった。出版とは何かと問われたらびと口に右の それは実業というより虚業である。戦後銀行は相手にするようになったが、 よ、つに答、んるか、し それは銀行がパチンコ屋にもサラ金にも貸すように堕落したからで、出版屋が向上したわけではな ) 0 その出版は広告によって売る。当れば諸家絶賛忽ち百版などと誇大広告する。今でもする。発売 しないうちに諸家は絶賛するのだから、諸家は出版屋の手下か仲間である。 、にしている広告代理店もまた虚業である。鉄鋼、電力、建設などの基幹産 それを一番のおとくし 業は昔は広告しなかった。電通がそれらに広告させたのはラジオテレビの広告を手がけたからであ る。出版の広告がなぜ儲からないかというと、原稿は版元がつくって一五バーセントの手数料しか
は当然である。けれども、幸か不幸かそのことはなかった。 ただ選挙のポスターは代理店の製作である。代議士の衣裳も演説も代理店が大金をとってかけで 指図している。候補者にそのセンスがないからそれと見分けがっかないが、そのうちつくようにな るだろう。彼らは電通の言うなりに手足を動かし口をはくばくさせる。そういう候補者が画面にあ らわれるようになるだろう。 一読者から電話で広告百年の仕くみを以上ではじめて知ったと言われて、かえって私は狼狽した。 もう少し丁寧に言わなければよく分らない。たと あんまり手短に書いたのであれでは十分でない。 えば広告は原稿をにぎった外交のものだということ、今も昔もそれが鉄則だといったが、それはな ぜか。 外交のながい奔走で九分九厘まで手にはいるはすの原稿をどうして奪われるかと言うと、重役の せいである。何も知らない重役はわが社は一流会社である、したがって広告は同じく一流会社であ る電通、または博報堂に出すべきで、無名の代理店から出すのはわが社にふさわしくないと言われ るる ほればそれまでである。ここに至るいきさつを縷々説明して聞いてくれればよし、まず聞いてくれな かい。なお言いはればその外交との仲を疑われるから、それ以上は言わない。 さ こうしてとんびに油あけをさらわれるのである。三十年来さらわれて一流はいよいよ一流に、末 以流はいよいよ末流になったのである。昔同業者の新年会がとっくみあいに終ったゆえんである。 電電通が復員した旧社員やもと満鉄の引揚者を社員にしたのは敗戦直後である。当時は紙がなくて 新聞は二ページやがて四ページしか出せなかったころである。それなのに彼らを雇ったのはその人
これまたリサーチさせようと思ったが、リ。 前てこりていたからやめたというより、私のなかにはい かさまの才ある私とそれを冷笑する私が同居していて、一方が一方を笑うからたいていのプランは 立消えになるのである。よくまあ「室内」だけは実現して三十なん年続いたものだと我ながら感心 する。 故に私は広告のなかなるいかさま部分を一方では許し、一方ではほとんど憎んでいる。昔電通 センターが「電通センター戦略十訓」をひろく世間に公表して物議をかもしたことがある。 「もっと使わせろ」 「ムダづかいをさせろ 「季節を忘れさせろ」 「贈りものをさせろ」 「流行遅れにさせろ」 ( 以下略 ) いくら広告のプローカーでもこんな露骨な標語をかかけ社員を督励するばかりか、ひろく天下に ほ自慢するとは社会に対する公然たる挑戦だと私はそのころ担当していた「小説新潮」の「社会望遠 の 鏡」という欄に書いた。いま調べてみると昭和四十五年四月号とあるからすでに二十余年の昔であ る。 以 電通センターの社長は発表してはみたものの世間の反感に驚いて引っこめたそうだが、私は 通 けいがん 電ますこれが正直なのに驚いた。この通りである。二十年前すでにこれに気がついたのは炯眼である。 きんもっ けれどもそれを言うことは禁物なのである。