病気の牛のアクビみたいな力のない声が聞えて来て、玄関脇の四畳半から、のそっと出て来 ます。 「なにしてたんよ、呼んでるのにイ」 わたしは気が短いのでつい突っけんどんにいうてしまいます。 「手伝てもらいたいことがあるさかい、呼んでますのや、さっきから : 大きな身体でのーっと立ってます。 「聞えたんか聞えなんだのかどっち ? ぬい子はいつもーー。朝も夜もトレバンちゅうもんをはいてます。ェビ茶のと紺のと二着持っ ててかわるがわるはいてるんですけど、何せ、紀の国 ( イヤーの運転手が「あのひと、八十キ ロはおますで。あの人が右手に坐らはったら、車が右にかしがって、左のタイヤ、浮きました 中 のもんな」というたような肥満体ですから、そのトレ。 ( ンの大きいこと。洗濯して真横に股をひ ろけてわーツと干してあるのを見ると、こんな大きいのも売ってるんやなあ、と感心してしま し っ むそのトレ。 ( ンをはいて、ぬい子は仕方なさそうに縁側へ来ます。肥ってるせいか、この人は 何をさせても、ただ歩いてるたけでも、仕方なさそうにしてるように見えるのです。 「これとこれを縫い合せてちょうだい、細かい目 = で縫うんやよ」 また
いるのです。お正月はあんたのところでのんびりさせてもろて、曲った腰を伸ばしたい、とい う手紙が暮に来てるのです。 けれどもぬい子は、 「はあ : : : ええんです」 AJ い一つ・は、かり・・。 「そんなこといわんと、帰ってあげなさいよ」 いくらいうても、 「ええんです : : : ええんです」 とくり返します。 うす 私はぬい子に去んでもらいたい。サルカニ合戦の臼みたいな姿して、流しの前にどてーツと のつっ立って、二時間もかかって茶碗を洗うてる姿を見てるだけで、この頃は心臓が苦しゅうな って来るのです。 し 「あんた、茶碗ひとっ洗うのに、何分かかってるのー っ もち む つい大声を出してしまう。時計を見てると、餅がゆ食べた茶碗をひとっ洗うのに六分一一十八 続秒かかりました。しもやけでイモムシみたいに膨れた指が、イモムシみたいにのろのろ動いて、 いつまでもいつまでも茶碗をこすっています。茶碗は洗剤の盛り上った泡の中に隠れて、見え へんくらいです。あんたね、洗剤というもんは、一「三滴、洗い桶の水の中に落して使うたら
「きっと強い守護霊はんがついてくれてはるのやろうなあ」 うらや と茨ましがりました。 「もしかしたら、死なはった日一那さんが守ってはるのかもわからんわ」 というので、 「あんな人、ついてくれても何の足しにもならんわ」 というてやりました。 息子や嫁や娘や婿、孫らもみな、可愛げないし、あんな連中に遺産残して喜ばすのアホらし いですがな。その気持はわかるけど、丁度お金がなくなる頃にあんばいよう死ねるかどうか、 わからへんからねえと、おつやさんは心配性やから心配ばっかりしてる。そんなもん、なくな ったらなくなった時のことですがな。そんなこと心配するやなんて、今まで何のために苦労し て来ましてん、というてやりました。戦争から敗戦のあとにかけて、物のない時に五人の子供 のを育てたあの苦労で、わたしなんかもう苦労のタコがコチンコチンで多少のことではこたえっ いかんようになってます。お金がなくなったら息子のとこへ帰りますがな。その時はその時や。 し・ ぬい子はおつやさんが探して来てくれた娘です。わたしは一人暮しをするつもりやったので っ むすが、息子らが心配してどうしても誰か家事を手伝う娘を連れて行ってくれというたんです。 年寄りをひとり、そんな紀州の端っこへ住まわせてるなんて、世間の聞えが悪い、と嫁もうる さくいうので。
ぎよう 日四十キロ、一週間で歩くという行をとって来ましたんや。朝は一一時に起きて、握り飯一個持 って出発するんや。道というたら山また山。水は一日に小さい水筒一個分たけや。自分を捨て み仏の子になりますという修行やさかい、腹へったたら、のど乾いたたらいうてはならん。日 本全国からよりすぐった行者が三十名、集っております。その一行の、わしや道中奉行という 役で、こりや、奥さん、道中奉行というたなら、一行を導く役目やさかい、一番えらい。責任 も重い。その道中奉行をば、無事に務めて最後に那智の滝の勝玉神社に参詣して帰って来まし たんやが」 来るなり、家中に響きわたるような声でしゃべらはるので、私はもうびつくりして、何が何 やらわかりません。そのうち漸く、 「そんで、その大喰いの娘はんというのは、どこにいます ? といわれて、わかりました。権藤はんはおつやさんに頼まれてぬい子の様子を見に来てくれ はったのでした。去年、咲山さんの奥さんが、米屋の善ちゃんに頼んで、この先の巫女さんに 訊ねてもろうたら、ぬい子にはごっついタヌキが憑いてるといわれたということを、私がおっ やさんに話したので、それを聞いて来てくれはったのです。 「はあ、ぬい子ですか。呼んでみましよう」 私は立って、 「ぬい子さん、ぬい子さん」 ようや
174 物袋を下げてと・ほと・ほとお使いに行くぬい子の後姿を見ていると、なんでもっと、さっさと歩 かへんのやろと怒る気持と一緒に、なにやら可哀そうなような、虐めたらいかんのに虐めたい ような、イジイジ、ムズムズする気持が湧いて来て、何ともいえず情けのう、腹立てつつあわ れでたまらんようになるのでした。 十月の連休に、孫の謙一がひとりでひょこっと来ました。おつやさんがヨメに報告している とみえて、うちでもぬい子のことが話題になっているらしい。謙一は、 「おばあちゃん、サべッ意識はいかんで」 えらそうな顔していうのです。 「おばあちゃんはサべッ意識もってるさかい、手伝いとうまいこといかへんのや。人間、み な平等やで。皆、ひとしなみ、ちゅうこと知らなあかん」 小さい時はおばあちゃんおばあちゃんいうて、わたしに背中掻いてもろて寝るのが好きな可 愛らしい子やったのに、ちょっとの間にニキビ出してメガネかけて親の前でも平気でタ・ハコ吸 います。 「ええか、おばあちゃん、今、おばあちゃんは何もせんと、他人の労働力に頼って生きとる んや。そのことについておばあちゃんには何ら反省の色がないな。おばあちゃんは社会に対し
「やつばり、あんだけ身体が大きかったら、出るもんも仰山出ますのやろか」 「仰山出たとしてもでっせ、拭くのはいっぺんですやろ」 「小刻みに出て、そのたんびに拭いてるんでつしやろか」 よえいっえ 「それとも潔癖性とちがいますか。二重、三重、四重五重、それくらいに折って、こう扇子 みたいに重ねて使うんでつしやろか」 「それとも痔イでも悪いか」 「はア、痔イねえ。それは考えられますー 「けどそうやとしたら、相当、重症ですなあ , 「キレ痔は血が走りまっさかい」 だっこう 「脱肛ちゅうもんも難儀やそうでっせー 「なるほどなあ、脱肛ねえ : : : どっちかいうたら、キレ痔より脱肛のカンジですねえ」 の「歩く時見てたら、・ほったら・ほったら歩いてますなあ、やつばり痛いからでつしやろか」 「けど、出るもんが仰山やったら、やつばり食べる方も食べますやろフ し 「そらもう、食べるの何のて : : : 」 っ む ようこそ聞いてくれはりました、という気持でわたしは身体をのり出してしまいます。実は おも しいとうてたまらんのを誰にもいわず、我慢 食べもんの話なんかするのはいやらしいと思て、 しておりましたのです。さっきも申しましたように、一緒に食事をいただきませんから、見て ふたえ みえ
高桑はいっこ。 「考えてみれば先生、こうしてアクセクアクセク、来る日も来る日も走り廻って金を作っ それでちっとも、ラクにならないのはどういうわけでしようなあ。先生みたいにこれだけ人の クしずつでもよくなりそうなものなのに。 何倍も頭使って、身体をコマメに動かしていれば、 4 まるで何ですよ、籠の中で車廻してる二十日鼠と同じじゃありませんか。本当に不思議たか ア 「いや高桑君、人生というものはそういうものさ , 春彦はいった。 「シジフォスは重たい大石をやっとの思いで山の上へ押し上げる。押し上げたと思うと石は 落ちて来る。また上げる。また落ちる。ギリシア神話は語っているよ。永遠の労苦と戦うの飛 人生だとね。人生は不条理だとねー 高桑は「はアといって沈黙した。いつもそうだが春彦の口から不条理という一言葉が出てヰ ると、高桑は沈黙するよりほかなくなる。 「・ほくはね、自分を不条理の英雄たと思っているよ。・ほくは逃げない。訴えない。祈らない ただ、黙々と落ちる石を上げるのみだ」 その通り、次の石はまた落ちて来らア、と高桑は思う。しかし先生はそれを上げるだろう。 今までだって上げて来た。だから今度も上げてくれるだろう。高桑はそっと呟いた。 かご
るのは、猫そっくりゃなあ、と思い当ります。あの大きな身体で足音を立てずに歩くことはび つくりするほどで、寝てるのかと思てると、いつの間にか後ろへ来ていて、 「あのーう、奥さん」 と声をかけられて飛び上ったことは幾たびか。 「猫の百ペん飯いいますがな」 と咲山さんの奥さんも感心していました。 「トイレット 、むちや使いするのもこれでわかります。丁度、猫ちゅうもんは丸い もんみたら : : : 」 「そうそう毛糸の玉にじゃれて、先つ。ほの糸を引っぱって、なん・ほでも手繰ってほどいてし まいますもんなあー ー、たぐってたぐって、遊んでたんやろか 「便所の中でトイレット 「そこまで、想像は届きまへんでしたなあ」 と私と咲山さんの奥さんは肯き合う。おつやさんも何べんも電話をかけて来て、 「へんにそっけないところがあって、ちっとも親しまんと、それでいて出て行きもせすに居 ついてるいうのも、猫的やねえ」 と感想をいうたりしてくれる。謙一は、 「おばあちゃん、この前のタヌキが憑いてるという話のときは、そういえばタヌキ的や、タ
「とりあえず、、早いとこ手金をうっといた方がいいよ」 と陽子にいっこ。 ・「小山が何となくハッキ屮しなかっただろ ? あれはね、今もうひとつ、買手のクチがかカ ってるんだよ。女房の方の関係でねー 「そうなの、そんならいいのよ、そちらへ廻してもらっても : : : 」 「いやね、ところがね、小山は金を急いでるんだよ、早いとこ女房とケリをつけてイタリア へ行きたいんだよ。多少安くしても、早く金をくれる方にしたいらしい。だからね、とりあえ ず二百でも三百でもいいんた、渡した方が勝ちだと思うよ。とにかく安いからね、あの場所で 百二十坪で四千万円なんて : : : 銀行から借りてすぐ転売しても儲かるよ」 「ちょっと安すぎるのがクサいけどね。でももし手金を渡すのなら小山さんに直接渡すわ もちろん 「勿論だよ、・ほくは話の橋渡しするだけだよ 男「丁度、定期預金の満期が来てるのがあることはあるんだけど、一「三日考えるわー の「考えることはないじゃないか、気に入ったんだろう」 風 「でもこの話があなたから出てることが気に入らないのよ」 せりふ そういう台詞をいう快感に負けて、陽子はいつもしらすしらず深みに嵌って行くのである。 陽子を車から降ろすと、春彦はターンして脇田の家へ車を返しに行った。脇田の家は区役
二人で汗かいて大忙しに働いてるというのに、ぬい子はまだェビ芋をむいていて、なにや ポシャポシャというたようなので、 「え ? なに ? 」 訊き返しますと、 「あの、エビ芋て、なんでエビ芋いうんですか ? 」 咲山さんの奥さんは昆布まきの味加減を見ようとして、客につき刺したやつを宙に浮かー たまま、私は裏ごししてるしやもじを、お芋の上に当てたまま、ポカンとして顔を見合せ、 れから、 「そんなこと知りまへんがな ! 」 「この忙しいのになにいうてるねン ! 」 中 の 一緒に怒鳴ったんでした。 きよ、フおく 丗一おおみそか 大晦日の除夜の鐘を、私は「万感胸臆に満つ」というような思いで聞きました。たった一ー し で除夜の鐘を聞くなんて、生れて六十四年、はしめてのことです。死んだ主人は頼りない人で けんか む喧嘩ばっかりしてましたけど、なん・ほ頼りない人でも、おらんよりはやつばりいてくれる方 続なん・ほええかわかりません。何の役に立たないでもええ、そこに坐ってくれてはるだけでえ、「 と、しみじみ思うたのは、主人が死んでからはじめてのことです。そんなことを思うたといニ のも、年のせいというよりは、芦屋の家を出てここへ来たせいで、それからぬい子のせいや