ふつう 2 mrn であるが , とくに屋根は 3 mm を使うこともある。塗装はふつ う白べンキ塗りである。暖房は小温 室では電熱器 , ストープ , ポイラな どによるが , 大温室では石炭または 重油による温湯ポイラや蒸気ポイラ による。冬季の保温は作物の種類 によって違うが , 15 ℃を目標とする ことが多い。営利栽培では周年同し 作物を作る場合もあるが , 冬と春は 花または野菜 , 夏は高温を利用して メロンの栽培を行なうことが多い。 〔浅山〕 おんしゃ恩赦国家元首の特権 によって公訴権 ( 公訴を提起して判 決を求める権利 ) を消滅させ , また は刑の言渡しの効果の全部もしくは 一部を消滅させること。旧憲法では 恩赦は天皇の大権事項であったが , 現憲法では内閣の権限に属し , 内閣 か、決定し , 天皇の認証をへて行なわ れる。国家的祝事にさいして行なわ れることが多いが , 刑事裁判および 執行の画一的形式性を是正する刑事 政策上の意義をもつ。大赦 , 特赦 , 減刑 , 刑の執行の免除 , 復権の 5 種 がある。大赦は政令で罪の種類を定 めて , とくに規定がなけれは、 , その 罪について有罪の言渡しをうけた者 について , 言渡しの効果を消滅させ , まだ言渡しをうけていない者につい て , 公訴権を消滅させる。特赦は有 罪の言渡しをうけた者のうち , 中央 更生保護委員会の申出があった特定 の者について , 有罪の言渡しの効果 を将来に向かって消滅させる。特定 の者に限られる点と , 言渡しをうけ た者に限られる点で大赦と異なる。 減刑には , 政令で罪や刑の種類を定 めて一般的に言渡しをうけた者の刑 言渡しをう を軽減する一般減刑と , けた特定の者についてだけ刑を軽減 する特別減刑とがある。刑の幸夬行の 免除は刑の言渡しをうけた特定の者 についてその執行を免除する。復権 は有罪の言渡しをうけたため資格を 失い , また停止された者について , その資格を回復させるものである。 〔中村〕 日屮取ウェンチョウ ) おんしゅう温 中国 , 浙江省南東部 , 甌江入口 南岸に位置する都市。人口約 20 万。 海より 30 km はなれ , 甌江海運航路の 起点になっている。帆合がここから 約 100km の麗水までゆくか・ , 1955 年 に甌江上流にタ、、ムと発電所が建設さ れ , 洪水の脅威がなくなり , 水運も 便利になった。甌江流域の生産物 , 茶 , 竹材 , ミカン類および本市で製 造される織布 , 紙 , かばんなどの移 出地として発展している。温州の名 は唐代に温州治所をおいたことから 起こり , 1876 年のチーフー ( 芝罘 ) 条 約によって開港した。それ以前にも 浙江産の茶の独占輸出港として繁栄 〔横川〕 オンシャ 5 9 8 おんしゅうのかなたに恩讐の彼 方に菊池寛のノト説。 1919 年 1 月 く中央公論〉に発表。大分県耶馬渓ぞ 青の洞門の由来に取材し , 封建的な 身分関係やかたき討ちという慣習に 反発を試みたテーマ小説である。作 者自身の手でく仇討き以上 > という 3 幕の戯曲に改作 , 19 20 年 3 月文芸 座の守田勘弥らによって初演された 〔あら筋〕主人のめかけと通じ , 主人を殺 して女と逃げた市九郎は , 脱俗して僧了海 となり , 罪のあがないに青の洞門の開掘に かかる。 18 年後足は衰え失明同然の彼を発 見した主人の子は , その献身的努力に感し て開通の時までかたき討ちを延ばして助カ するうち , かたき討ちを放棄し , 着手以来 21 年目の開通の夜了海と手をとりあって感 涙にむ・は : 。 〔遠藤〕 おんじゅく御宿〔町〕千葉県夷 隅み郡 , 太平洋に面する網代 % 湾に のぞむ町。房総東線に沿う。人口 8815 ( 1965 ) 。北条時頼が滞在した とから御宿の名か、ついたといい , そ のとき歌に詠よまれた最明寺のタ影の 松は船の目標ともなった。漁港で地 方商業の中心地。漁村の岩和田は海 女耋で名高く , アワビ , ササェ , テン グサを採る。海浜にある高さ約 50 m の砂丘は , サンドスキー場となる。 また , 1928 年に建設された高さ 17 m の日本 , イスパニア , メキシコ交通 発祥記念碑がある。 16 ( ) 9 年フィリピ ン長官をのせたサンフランシスコ - 号 が遭難してここに上陸した記念であ る。網代湾は遠浅で , 海水浴場と なる。 〔尾留川〕 おんしよう温床フレームとも いう。寒い時期でも暖めて , 苗を育 てることのできるようにした設備。 板 , わら , コンクリートなどで囲い , その上にガラス , 油紙 , ビニルなど の障子をかける。熱源は稲わらや落 葉などの醸熱材料が踏み込まれたが 最近は電熱線の利用が多い。管理上 , 大きさは幅 1.2m , 長さ 3.6m , 前のわ くの高さ 25 cm , うしろの高さ 5()cm 程 度のものが多く , 4 枚の障子を開閉 して温度を調節する。秋まき草花 , サポテン類 , トマト , ナスなどの育 苗や栽培に利用される。 温床の一例 床土 一 = 釀熱材料三 〔浅山〕 土 おんせん温泉〔町〕兵庫県北西 部 , 美方郡に属する町。人口 11 ( ) 73 ( 1965 ) 。中心集落の湯ゆは山陰線浜 坂駅から南へ 10km に位置し , 日本屈 指の高熱炭酸泉の / 湯村温泉が所 在する。また鐘尾 , 扇ノ山はスキ ー場としてにぎわう。山地は但馬ド 牛の産地として知られ , 県営の放牧 〔末尾〕 場もある。 おんせん温泉古代人にとって 地下から温湯がわき出す現象は神秘 的であり , またわき口に見られる沈 殿物などに霊妙な薬効を感じとった であろう。そのため温泉地にまつわ る神話 , 伝説の類は非常に多い。ス クナヒコナノミコト , 春日す大明神 , 薬師如来 , 観世音などのみちびき で温泉を発見したという縁起のある ところや , 最初の発見者としてャマ トタケルノミコト , 神功皇后 , 武内 宿禰 , 空海 , 行基 , 役えの行者から , 戦国時代の武将の名などを伝えてい る温泉地が諸方にある。さらに山間 の温泉などでは , 鳥獣がこれを教え たとして , その名も鹿教湯げ , 熊 の湯 , 鷺 : の湯などといわれている類 これら温泉を神秘的なもの も多い。 に考えたことは , つえをついたり腰 をおろすと急に温泉がわき出したり , また不浄があったため急に湧泉えが 停止してしまったなどという伝説に も残されている。発見の古い温泉で はまたその利用の歴史も古く , みそ ぎの神事や天皇の温泉行幸などの記 録がく日本書紀 > く万葉集 > く続日本 紀 > などに見え , 当時すでに玉造 , 道後 , 有馬 , 白浜などの温泉はかな りひろく知られていた。しかし室町 時代まではきわめて一部の温泉が素 朴な湯治に用いられたにすぎない 江戸時代になると貝原益軒 , 後藤艮 山 , 字田川穃庵らの温泉療法に 関する著書のはか , 温泉図鑑などの 案内書も発刊され , 一般庶民にも親 しまれるに至った。しかしこの時代 には庶民の入浴する一雑湯」「総湯」 と , 幕吏 , 代官 , 藩主らの利用する 「殿様湯」「かぎ湯」とが区別され , あるいは「町人湯」と「さむらい湯」 「士人湯」などともよばれていた 各藩では湯役所をつくり湯奉行 , 湯 別当を置き , 湯税をつかさどった また一般人は湯入り講をつくり掛け 金をつんで温泉にいく風習があり 正月の湯 , 寒湯治 , 花湯治 , つゆ湯 治 , 田植えあがり , 丑こ湯治 , 秋湯治 など , 季節湯治を主とし , 比較的き まった温泉地に毎年おもむいて疲労 回復と翌年の健康増進をはかった。 この時代に今もなお湯治温泉でみら れる湯治風俗が育成された。たとえ ば砂湯 ( 砂むし湯 ) , 滝の湯 ( 打たせ 湯 ) , 時間湯 ( かぞえ湯 ) , かぶり湯 , むし湯 , 合せ湯などは , いすれもそ の温泉の特性を反映し , また , に伴い , 湯もみ歌や湯かぶり歌もう たわれた。明治時代になると温泉の 科学的研究もしだいに盛んになり , とくに昭和以降は温泉医学および分 析化学の進歩によって温泉のもつ医 療効果が実証され , 褞泉の利用者も ことに交通機関 広範囲にわたった の発達と観光施設の整備改善は , 温 泉を旧来の湯治に利用する傾向から 観咒 , 保養さらに歓楽地として利用
アジサイ 3 9 したり , 明の年号を用いたりしてい あしかかばくふ足利幕府 / 室 法が講しられ , 戦国争乱の時代にあ る。しかし義満みすから文化を愛好 , りながら遠く日本各地から学ぶもの 町幕府 保護したので五山文学や能楽などい あしかがよしあき足利義昭 が絶えなかった。渡来したキリスト 教宣教師もこの「坂東の大学」のこ 1537 ~ 97 足利 15 代将軍。義晴の第 わゆる北山文イヒが興った。 〔奧野〕 とを伝え , 「日本の最大かっ主要なる 3 子 , 義輝の弟。出家して奈良の一 あじがさわ鰺ガ沢〔町〕青森県 もの」 ( く耶蘇会日本通信〉豊後篇上 ) 乗院主となり覚慶といったが , 1565 西津軽郡の町。人口 20504 ( 1965 ) 。 年三好 , 松永らが将軍義輝を殺した と記している。江戸幕府も保護した 津軽平野の西端に位置する漁港。藩 が , 廃藩後は図書館となった ので奈良をのがれ , 還俗して義秋 , 政時代は江戸 , 大阪 , 松前に津軽米 いま も宋版の漢籍をはしめ貴重図書を多 元服して義昭と改めた。佐々木氏 , を移出し , 関西の物資を移入した。 く蔵している。 朝倉氏 , さらに織田信長にたよって 岩木川河口の十三湊攴れ没落後は西 〔奥野〕 将軍職の回復をはかった。 68 年信長 あしかがじたい足利時代 / 室 回り航路の基点となったが , 交通路 は義昭とともに入京し将軍職につか 町時代 が変化し , そのうえニシン , ハタハ あしかかたかうじ足利尊氏 せた。しかし義昭は信長と対立し , タの漁獲を失い , 現在では単なる地 朝倉 , 浅井 , 武田氏らと連絡して信 方的漁港にとどまっている。海と山 1305 ~ 58 室町幕府初代将軍。貞氏 長を討とうとしたが , かえって攻め にはさまれた片側町である。〔奧川〕 の子。はしめ高氏と書き , 鎌倉幕府 られ , 73 年将軍職から追放されて室町 あしがら足柄相模・国西部の に仕えた。後醍醐譿天皇の反幕計画 幕府は名実ともに滅びた。〔奧野〕 総称であるが , いまのはは、神奈川県 に参加 , 元弘 3 年 ( 1333 ) 5 月京都の あしかがよしまさ足利義政 足柄上 , 足柄下郡の範囲をさす。箱 六波羅を攻め落とした。やがて鎌 根外輪山の金時山 ( 1213m ) は足柄山 14 3 6 ~ 90 足利 8 代将軍。義教の 倉幕府は滅び後醍醐天皇による / 建 ともよばれ , その北の足柄峠 ( 759m ) 次男。父が嘉吉の変で横死 , 兄義勝 武中興が開始されたが このとき は早く死んだため 1443 年管領畠山持 には , 江戸時代に関所がおかれてい 高氏は勲功第一とされ , 天阜の名の 国の擁立で家督をつぎ , 49 年将軍と て , 幕府が根越えの東海道を建設 するまで東西を結ぶ重要な交通路で なる。そのころ農民の団結が進んで あった。足柄平野はフォッサマグナ 彼らの組織的抵抗は , 強訴 , 逃 東端の酒匂川地溝帯に堆積した酒 数うなどの消極的抵抗から武力に 匂川の沖積平野で , 上砂運搬量が多 よる一揆 ( / 上一揆 ) に訴えるよう いため洪水が多い。 / 精根〔勝俣〕 になって , いままでにないたかまり あしがる足軽疾足ともいい こうした不穏な社会 をみせていた 「足軽く走りまわる」の意で , 歩卒 , 情勢に加うるにあいつぐ天変地異が 雑兵のこと。鎌倉期の戦記物語にみ あり , 大守護の専横 , 将軍の無力化 が著しくなった。義政は最初は政治 える足軽は戦闘の外側にいて副次的 な働きをしていたらしいが , 室町時 に熱意をしめしたが , 晩年にはまっ たく無関心になり , 夫人の日野富子 代 , とくに応仁の乱ごろから歩兵に よる集団的戦闘が戦術の主体に変わ や側近の手によって政治が運用され , り , 足軽は戦力の中心、となった。太 幕政は極度に乱れた。ついには義政 田道灌の足軽戦法や長篠の戦いに のあとつぎ問題に端を発して 1467 年 足利尊氏 おける織田信長の足軽銃隊などはそ / 応仁の乱がおこり幕府の威信は地 の例である。近・世になると兵農分離 尊治の 1 字を与えられて尊氏と改め , におちるにいたった。義政は将軍職 の結果 , 武十階級の下位層として常 を子義尚に譲り , 戦乱をよそに東 武蔵 g し , 常陸 , 下総の守護とな 備され , 平時は雑役にも動員された。 山に / 銀閣を建て , 風雅な隠とん生 った。しかし新政府の政治は公家政 明治維新後 , 「卒」といわれたが , 廃 活を送った ( / 東山文化 ) 。 治の復活をめざして貴族 , 寺社を優 〔興野〕 藩後は十別に列せられた。 あしかがよしみつ足利義満 遇し , 武士に対する恩賞その他の処 1358 ~ 1408 足利 3 代将軍。尊氏の あじさい日本原産のユキノシタ 理か、うすかったために , 武士は新政 孫。 1368 年 , 2 代将軍義詮らのあ 科の落葉低木で , ひろく庭木として 府に望みを失い , 武家政治の再興を とをつぎ , 78 年京都室町に「花の御 植えられる。高さ 1.5 ~ 2 m , 葉は大 願うものが多くなった。尊氏はこの 形の卵形で対生し , 厚く光沢があり , 所」といわれる壮麗な邸宅を建てて , 動きをつかみ , 武十の衆望をになっ 幕府をここに移した。尊民 , 義詮の 縁はきよ歯状。 6 ~ 7 月に大きな花 て弟の直義と鎌倉で新政府に対す をつけるが , 花弁にみえるのはがく 時代は南北両朝の対立がつづき , 足 る反旗をひるがえした。朝廷はただ 上 , アジサイ 利氏による全国支配はまだ行なわれ 片で , 雄すい , 雌すいは / トさくて , ちに新田新義貞を向けてこれを討た 下 , がクアジサイ ていなかった。義満は南朝の勢力範 実はならない。花ははしめ緑 , つぎ せたが , 尊氏はたやすく義貞を破っ に白く , 満開で青 , のち再び緑とな 囲であった九州を平定し , 明徳の乱 て西上し京都にはいった。楠木正成 る。欧米で改良された西洋アジサイ らの反撃にあっていったん九州へ落 によって山名氏を , 応永の乱によっ ( ハナアジサイ ) には淡紅 , 紫紅 , 白 て大内氏を平らげるなど有力武将を ちたが , それもっかのま九州武士団 などがある。半日陰の湿地によく育 の支持を受けて東上し , 途中正成を おさえて幕府の基礎をかため , やが て 92 年南北朝合体も実現させた ( / たけ低く 湊川にやぶり , 3 カ月後には再び京 ち , 乾燥地には適さない。 育てるには花後に新枝の半分を切り 南北朝 ) 。 94 年将軍職を当時 9 歳だっ 都にはいった ( 1336 ) 。こうして建武 た子の義持に譲って太政大臣になり , もどし , 秋に再び 2 ~ 3 節に切りつ 政府を倒した尊氏は , 光明天皇を擁 める。繁殖は梅雨のころ花のない新 ついで京都北山に別邸を営み / 金閣 立し ( 北朝 ) , 吉野にこもった後醍醐 枝の先端をさすか , 成葉に腋芽をつ 天皇 ( 南朝 ) に対抗した ( / 南北朝 ) 。 を建てここに移ったが , なお実権を けて一葉さしを行ない , 冬は落葉し こうしてく建武式目 > 17 条を制定し にぎって幕府の組織をかため , また た枝を 3 節約 25cm に切って日当たり 政治方針を樹立し , 1338 年には待望 しばしば天皇や上阜の行幸にならっ のよい場所にその % を埋めてさし木 の征夷大将軍に任せられた。のち直 て各地を訪れるなど勢威をはった。 義およびその養子直冬第らと反目を する。近縁の植物には本州海岸に自 また使節を中国の明に送って通交 生し , 南朝方の武士たちとの三つど 生しアジサイの原種となったガクア を求め , いわゆる / 勘合貿易を始 もえの争いのうちに廱をわすらっ ジサイ , べニガ、クなどがあり , 花の めて多大の利をあげた。その際義満 周囲はがく片の花 , 内部は真性の小 て没した は , 外交文書に「日本国王臣源」と称 〔奥野〕 足利義満
カイチュウ 6 4 7 物語〉く古今著聞集〉などに多様なお スペースのつごう上むすかしく , 実 マンスなのであって , 米国のポーはそ そろしい妖怪変化を生み , やがて中 際には 9 ( ) 。曲がらざるをえない場合 の派の末期の作家のひとりといえる。 が多い。踊り場を用いて 9 ( ) 。曲がる 国怪談の本式な移植の第一として 西洋の怪談はおよそっぎのように分 余裕がない時は , なるべく上り口に く奇異雑談集〉が行なわれた。江戸 類されよう。第 1 類はマクロコスモ ス ( 超自然怪談 ) で , 1 ) 幽霊 , 化け物 , 近く湾曲部を持ってくる方がよい。 初期には , ひきつづき中国のく剪灯 2 ) 妖魔まう , 吸血鬼 , フランケンシュ なお居間に階段が続いている場合は , 新話〉などの翻案が多くなり , 仮名 煙突の働きをすることとなり , 冬季 草子のく御伽婢子喆りく狗張子 > タインもの , つきもの , 怨霊もの , 運命の恐怖などの魔術的恐怖 , 3 ) 悪 暖房の温度が逃げてしまうので注意 を皮切りとしてく百物語評判 > やく怪 夢 , 幻影 , などを素材とする。第 2 を要すち。 談全書 > も成り , 中期には読本欹の く英草紙亡さ > く繁野話いく莠句冊 類はミクロコスモス ( 人間そのもの 階段の基本的構造は 2 本のささら の恐ろしさに超自然の現象が伴うも し > などが続刊されると同時に , 中 げたを上下の床梁の間に斜めにか の ) で , 1 ) 病気 , 狂気 , 2 ) 血みどろ , 国ものの日本的な純化翻案として上 これにもとづいて踏み板と蹴こ 残虐さ , などを素材としている。 み板を渡し , 手すりを立てる法であ 田秋成の傑作く雨月物語〉があらわ れ , また講談では乾坤坊黔良斎や れらの怪談小説は , W. スコット以来 るが , らせん階段などのようにささ 初代林屋正蔵のような名手が出て , 英国では大部分の作家が試みている らげたを省略し , 側壁や主柱に固定 する法もある。このほかに鉄骨階段は おなじく日本的なすごみを生み出し , か・ , 19 世紀には J. S. レ・ファニュと この影響もあって劇作家鶴屋南北が 鋼板やパイプなどを用いて作り , 簡 いう専門作家が出 , 2 ( ) 世紀には上記 く四谷怪談〉などの狂言を書くにい 単な階段に適する。石造階段は玄関 のプラックウッド ( 1869 ~ 1951 ) カゞ超 や出入口に用いられ花コウ岩や安山 たった。明治時代には歌舞伎の河竹 自然物語の第一人者として知られる。 黙阿弥と講談の三遊亭円朝とが二大 岩などを用いる。 〔赤岡〕 かいたん怪談妖怪変化物の ガイ、ダ、ンス guidance J. デュ 家といってよく , ことに円朝は中国 イによれば , この語は , 「個々の児童 物語を総称し , 民間の昔話伝説のふ の古典的な怪談をたくみに改作して しぎな話 , 能や歌舞伎の処おんも / く牡丹灯籠昔会う〉く真景累ガ淵がふち の先天的資質を協同して助ける」 ーかさね > 第し、広りよう の , 講談や落語の怪談噺どな , 怪異小 などの名作を高座にのはせ , またそ とを意味し , 「行為の焦点 , または中 見 , 恐怖小説など , すべて怪談に属 れは脚色されて芝居にも上演された。 心、点をえさせること」であって , 子 する。〔中国〕東洋における怪談の どもの抵抗を排しながら外からカを これら日本の怪談の特色は , 幽霊の 一大宝庫は中国で , すでに六朝ぅ 出現にいたる因縁話の付与と , 出現 加えてゆく統制と対立する概念であ ごろ , 「志怪」という素朴な怪異談の 時のすごみのきいた描写に力点があ る。その理論を体系化した A. J. ジョ ーンズは , 「それは , その個人の生活 類があり , 唐代で盛んだった「伝奇」 ることで , それは中国の空想ともち これもはとんど霊魂やキツネ , がい西洋の心理的な味ともちがう。 の中で起こってくる問題の解決を助 は , サルのあやしさを説くものであった。 けること。その個人のために問題を ただし明治以降は欧米文学の影響に 宋代以後は道教や仏教の影響が強く よって , 怪奇小説はかなり欧化の傾 解決してやるのではなく , 彼が問題 民間の信仰や芸能が表に出て , 怪談 向をみせた。とはいえ , E. A. ポーや を解決するのを助けてやること。そ A. プラックウッドのような怪異一筋 の焦点はその個人であって問題では は話本として写実的になり , 明代に いたって / く剪灯新話芒衾 > ( 1378 ) , のふしぎな迫力を持っ作家をいまだ ない」とのべて , 助力を必要として 持たない。その意味では日本に帰化 く剪灯余話〉などの本格的な著述が いる個人を助けて , 自分のカでやっ あらわれるにいたった。さらに清代 した小泉八雲 ( ラフカジオ・ハーン ) ていけるようにしてやることをがイ のすぐれたく Kwaidan( 怪談 )> を残 には最も盛んとなり , ます / く聊斎 ダンスの本質とした。米国では , と すのみである。 志異こ、 ) を第一として , く閲微草堂 〔瀬田〕 くに 193 ( ) 年ごろからガイダンス運動 〔西洋〕欧米で屋談とよぶべきもの 筆記 > く不子語 > などのような怪談の が盛んになり , 戦後日本にも採り入 にはかならす恐怖が伴い , さらに超 れられて著しい影響を与えたが , 近 名著が出て , いすれも日本に影響す 自然の要素がなくてはならない。単 るところが大きかった。ただし中国 来戦前の先達の試みをも受けついで 「生活指導」ということは、がひろく の怪談は , 怪異の出現までを日本で にコなースト・ストーリー gho s t s tory ( 幽霊話 ) だけでなくスーパーナチュ のように重視せす , それがどのよう 用いられるようになった。がイダン スには , 職業指導 , 学業指導 , 人格 な現われかたをするか , また人間と ラノレ supernatural story ( 超自然談 ) どのような関係を結ぶか , どのよう を含むといえる。したがってミステ 指導 , 社会性指導 , 経済指導 , 余暇 指導などとよばれる分野があり , 学 に正体が見破られるかの経過がこく リーー・ストーーリ—mystery story(iEfi 校においても児童生徒の生活の全領 めいに述べられ , キツネの霊などは 秘物語 ) というのがいちばん近いで むしろ美しくこまやかに写し出され あろう。古代ギリシア , ローマ時代 域にわたる問題が対象とされる。そ の方法も , 各種の検査 , 記録 , 事例 て人間くさく , しかもこの世と異な から中世にかけて怪奇幻想の物語は る香を付してあるところに特色があ つきることないが , 恐・怖という感情 研究など , 多彩な資料の収集とそれ り , 人間を昇華した空想の化身にんと 自体はしつは特殊な近代的なもので らの解釈に立って行なわれる。した いうおもむきが深い。〔日本〕怪は あり , その意味での恐怖と超自然と がって , 個々の教師にそれができる 古くから伝えられたが , 霊の存在は ような素養が望まれるとともに , 高 の結びつきは , やはり英国の 18 世紀 奈良 ~ 平安時代をとおして仏教と大 度の専門教育をうけた専門職員の必 半は以後に流行したいわゆるゴシッ 陸文化によって教えられ , く日本霊異 ク・ロマンス ( 恐怖小説 ) から始まる 要性がきわめて増大してきている。 には 4 り > やく今昔物語 > の素朴な説 といえる。これはゴシック式建築 ( 城 日己よういき 〔岡津〕 かいちゅう〔回虫〕線虫類カイチ 話となってくるが , つぎに仏教の因 など ) にまつわる怪奇を物語ったも 果輪回の説と道教にもとづく陰陽 のが多く , 恐怖感をあおることを目 ュウ科に属する人体寄生虫。はとん 道弩の思想とがそれを深化して , 多 的とした。 H. ウォルポ ' ールのくオト ど全世界に分布し , 日本では都会 , くの物怪 , 怨霊の話を生み , く源 ラントーの城〉 ( 1764 ) , A. ラドクリ 農村を通して 50 ~ 90 % 以上の感染率 氏物語 > などの中にも怪奇の美しさ フのくュードルフォーの怪奇〉 ( 1794 ) , があり , 小児とくに学童に感染率が を意識させた。鎌倉室町時代の戦乱 M. G. ルイスのく修道士 > ( 1796 ) など 高い。成虫はふつうヒトの小腸に寄 期には , 刺激的なく餓鬼草紙し > が代表作であり , これらは大陸にも 生し , 雌 20 ~ 4()cm , 雄 15 ~ 25cm のミ やく百鬼夜行絵巻 > の絵図があらわ 流行した。 / 探偵小説の直接の祖先 ミズ状で , 体は淡桃色ないし黄白色 れたように , 説話集でもく宇治拾遺 はやはりこの 18 世紀のゴシック・ロ で光沢があり , 両端が細く , 雄では 一三ロ カイチュウ ロ 雄
ウジ 3 4 4 うじ氏 / 氏姓制度 地域を守護する / 産上社神 , / 鎮守 うじ宇治〔市〕京都府南部の市。 との混同もひろくみられる。 京都市南端 , 大津市西部に接する。 氏神の祭配こい圏を構成する人々は 氏子とよばれる。氏子はもとは地域 1951 年 , 宇治 , 東字治の 2 田」・カヾ 3 的にかぎられていること , 祭りにあ を合併して市制。人口 68934 ( 1965 ) 。 宇治川が市内を流れ , 東岸に標高 すかることの二つが条件になってい た。氏子ということばは鎌倉時代の 3 ( ) ( ) ~ 5 ( ) ( ) m の笠取山塊がせまる。旧 字治町は渓ロ集落として発達した古 後期からあらわれる。それは上代の 日本におけるウシの飼育頭数 い町で , 宇治橋ははしめ大化 2 年 氏人という概念にかわるものであ ( 1964.2. 1 農林省 ) ( 646 ) に架橋されたといわれる。市 る。氏人は同族的共同体を構成する 総数割合 品種名 の主産業は品質のすぐれた玉露で 人々のことで , 氏上 : のあるいは氏 代表される製茶で , 玉露 , 碾茶は 1209 ( ) 0() 頭 36. 7 % ホルスタイン 長のにひきいられて氏神の祭りに 29 ( ) 00 それぞれ全国の約 4 ( ) % を生産してい 参加する義務をもっていた。たとえ 用 が一ンジ るが , 宅地造成で茶園は減少してい ば奈良時代のはしめに藤原氏一門は 工アシャーー 春日神社をたてて氏の神とあがめ , る。繊維の大工場もある。琵琶胡総 種 プラウンスイス また橘氏は梅宮を , 源氏は八幡宮 合開発の一環をなす宇治川ライン天 黒毛和 種 1649000 イ殳 を氏神とし , 氏族の長が一族をひき ガ瀬ダムは 1965 年に給水を開始した。 かっ毛和 種 374 ( ) ( ) 0 肉 つれてこれを祭った。中世にはいっ 付近は宇治川ライン , 琵琶湖につな 無角和 種 9000 用 て社会体制が同族的な集団から地縁 がる観光地でもあり , / 平等院鳳凰 日本短角 種 230 ( ) 0 種 的集団へ移るにつれ , 神社の祭配圏 朝鮮 牛 10 ( ) 0 ぅ堂 , / 万福寺 , 浮島の十三重塔 , もまた氏人もその姿をかえる。やが 興聖寺 , / 宇治上神社がある。京阪 日本では商習慣上 . けられている。 て氏人にかわって氏子ということば 電鉄字治線の終点駅で , 国鉄奈良線 前ページ図に示すように分けている。 が祭祀をうけもつ者を意味する概念 も通じている。 〔藤岡〕 各部分についてはそれぞれ名称がっ うじいえ氏家〔町〕栃本県塩 になった。現在屋敷神などの一族一 いていて外国名のなまった名称と和 門の神を「うちがみ」とよんでいわ 谷皐お郡の町。鬼怒川東岸の扇状地上 名とが混しっている。この肉の部位 ゆる氏神と区別しようとしたり , 混 にあり , 東北線に沿う。人口 2 ( ) 359 が分けられたのは解体の処理のっこ 同をさけるために「いつけ氏神」「ま ( 1965 ) 。古くからの交通要地で , 江 うとその肉質による調理法の便のた き氏神」などといっている地方がか 戸時代には奧州街道から会津東街道 めであって , この部位は肉質の良否 なり多く残っているが , これは氏神 の分岐点に位置する宿場町として栄 により等級がつけられ , それぞれこ の古い性格をいまにったえるもので えた。地方中心都市であり , 醸造 , れに適合した調理法がある。その一 製材のはか , わら切り機を主とする はないかと考えられている。 例をしめせば別表の通りである。別 現在各地にみられる氏神の類型は , 農機具 , セメント , ガラス製品を産 に雄 , 雌 , 去勢 ( ぬき ) , 子牛とに分 する。 ほは、つぎの 3 種に分けることができ 〔尾留川〕 けられるが , 肉質は雄よりも雌がよ うしお潮汁魚貝類を塩味だけ る。 1 ) 村氏神とよことができるも く , 繊維が密で柔らかく , 色調は光 で調理した吸い物。昔 , 海辺で海水 の最も一般的な信仰で , 一定の地 沢のある赤かっ色で , 筋肉の間に脂 をくみとって魚員類を煮たことから 域内に住む者がすべて氏子となって この名がつけられたものらしい。現 肪をはさみ大理石状あるいは霜降り いる氏神。 1 村に 1 社がふつうであ 代ではカツオ節のだしを用いすに 状に点在しているのが優良品である。 この種の氏神には頭屋とか るか・ コンプだしで材料を水から入れて煮 繊維が粗剛で脂肪をましえす肉色が 頭人臥とよばれる宮座の制度があり あげる。代表的なものはタイの潮汁 黄色を帯びているようなのは老牛か 村内の特定の家崩だけが神主となっ 労役牛で味もおちる。牛肉の品位は で , はかにタラ , スズキ , ハモなど て祭りをいとなむことが多い。 2 ) 屋敷 氏神とよばれるもの屋敷の一部に ウシの性別 , 年齢 , 栄養状態によっ 淡泊な魚や , ハマグリなどが用いら 祭られている祠で , これを , 氏神 4 ~ 6 歳が風味最もよい。 れる。献立のしゅんからは春の料理 て異なり , とよんでいるところは多く , 関東か 子牛肉は幼いはど白みのある桃色で で , サンショウ若芽を吸い口に用い ら東北地方 , 九州南部地方に分布 味は淡泊である。また飼育法はその た風味は絶品といえよう。 〔柳原〕 している。この地方では村の社は氏 うしかいざ牛飼座初夏の天頂 肉の味にも大きく影響し , 松阪牛 , 神とよばす , お宮 , 明神さま , 八幡 付近をかざる星座で , 午後 8 時の南 近江牛の味が外国にまで聞こえて さま , 天神さま , 鎮守さま , 産上さ 中は 6 月 26 日。神話では , カリスト いるのは , その飼育法が精細をきわ め近畿西部で生まれた良牛の子を温 まなどといっている。もとおなし氏 の子アルカスと , 天をささえる巨 族のもので祭っていた神を , 氏族集 人アトラスなどといわれるが定説は 暖で年中若草がある和歌山県下に移 団がくすれ去ったのちにも屋敷に祠 ない。。星は / アルクツルスという し , 約 4 年をへて , 三重県松阪に移 1 等星。星はプルケリマ ( アラビア を設けて祭り , それを , 氏神とよぶ し , 高度の飼育をし , ときに白米飯 , 語で最も美しいもの ) といい , オレ のだと解される。 3 ) 同族氏神本家 ビールをケえるなど念を入れた飼養 を中心に分家の集団で祭る氏神の ンジ色と緑色の有名な二重星である。 の結果である。 こと祭主も本家の主人があたり 牛肉はタンパク質 , 脂肪に富み , 〔草下〕 氏「・は祭リに参加する義務をもつ点 うじがみ氏神一定の地縁的あ 消化吸収もよく , かっ食肉中最も美 から , 古代の氏族中心の氏神に近い 味とされる。カロリーは l()()g 中通 るいは血縁的集団が信仰する神のこ と。もとは一族一門の祭る神で , 氏 形をとっている。以上の 3 種は成立 肉で 133C 引 , 脂肪の多い肉で 259C 引 神の祭りは , おなし氏に属するもの 当初から無関係のものもあるが , 3 ) をふくむ。料理法は別表のようであ がくすれて 2 ) になったり , 3 ) がさら の権利であり義務であった。しかし るが , 日本式料理ではすき焼きが第 氏神信仰の内容は時代とともに変わ に 1 ) になるような拡大と分化の過程 ー・でそのはか煮込み , つけ焼き , っ り , いまではその住んでいる上地の をみる場合もある。なお子どもの生 くだ煮などある。その他はもつばら 後 3() 日めとか 1()0 日めに氏神に参り , 神が氏神になったり , さらに故郷の 西洋料理で , シチュー フリカッセ , 氏神のはかに , 現住地にも氏神をも 氏子入りをする慣習があるが , 今で ロースト , ステーーキ , フライなどそ っ二重 , 三重の氏子さえ認められる は単なる誕生祝いの行事とも化して の調理法はきわめてひろい。 / 肉料 ようになった。生まれた上地やその いる ( / 宮参り ) 。 理 / 臓物料理 / ( 別刷 ) ウシ〔川島〕 〔郷田〕 ウシの反すう胃ウシ はヤギ , ンカ , キリン などと同しく四つの胃 をもっている。このう ち第一胃 ~ 第三胃は食 道の変形したもので , 胃液腺のある真の胃は 第四胃だけであるが , 第一胃にはいろいろな ノヾクテリアカ { 共生して いてセルロースを分解 する。食物は食道→第 一胃→第二胃→食道→ ロ腔→食道→第三胃→ 第四胃のコースを通る 食道 第一胃 第四胃 500 - い - 1 - い】 C LO 1 宀
設、。廴 0 尋熱 ~ ↓馥膏介、ケ . イ - 時代え物齢、き・ト手達宕付石第を止下中 当イ石れをイ 1 戸 . ・を、才夬、、・ドををん瓦 時行い、第。缸豊 支よ既 増勅第人様を . 4 ・第。民予奢 をイ : 社、各を第貳チ、をま和 1 中伀イい 4 4 9 一組になっており , なかには 1 ( ) 巻 , 2 ( ) 巻 , 48 巻のものもある。このよう に特殊の形をとっているので , これ を鑑賞するには机上に置き , 左手で 開き右手で巻きながら , 右から左へ と視線を動かしながら見ていくこと が規定されている。 絵巻物は内容のうえからみると宗 教的なものと鑑賞的なものとの二つ に分けることができる。宗教的絵巻 はだいたい信仰的な意図のもとに作 られ , 仏教関係のものが大半を占め ているが , そのほかに神道関係のも のも制作されている。その内容も広 範囲にわたっているが , 仏教の経典 などを絵ときした経典類 ( 絵因果経 , / 地獄草紙 , / 餓鬼草紙など ) , 仏寺 や神社の由来や , 神仏の霊験を描い た / 縁起物類 , 高僧の伝記を描い た高僧伝類 ( 華厳縁起 , 法然上人 絵伝 , ・遍上人絵伝など ) の絵巻が その代表的なものである。鑑賞的絵 巻は主として鑑賞を目的として作ら れたもので , この類に属する絵巻は だいたい文学的 , 説話的 , 世俗的な 内容をもっている。そしてこのなか には主として平安朝文学に題材をと った物語文学類 ( 源氏物語絵巻 , 寝 覚物語絵巻 , 紫式部日記絵巻など ) , 奇怪な事件や珍奇な実話を題材とし た伝奇説話類 ( 伴大納言絵詞 , 絵 師草紙 , 長谷雄卿草紙など ) , 室町時 代の / 御伽草子を題材とした御伽 草子類 ( 大江山絵詞 , 土蜘蛛 [ 草紙 , 福 富草紙など ) , 歴史上の著名な合戦を 主題とした戦記類 ( 平治物語絵巻 , 蒙古襲来絵詞 , 後三年合戦絵巻など ) , 和歌を背景とする人物や風景を描き ならべた和歌文学類 ( ミ十六歌仙絵 巻 , 伊勢新名所歌合絵巻など ) など の絵巻がある。このように絵巻は題 材的に多くの種類にわかれるが , れを概括的にみると , その大半が文 学的 , 説話的内容をもっていること がわかる。なかには単に風俗 , 肖像 , 動物などを描きならべたにすぎない ものもあるが , 大方のものは主とし て人事を対象とし , 恋愛 , 闘争 , 奇 跡 , 怪異などにからまることがらを 扱っている。 絵巻物は様式の面からは彩色絵巻 と墨・色の描線を主にした白描絵巻 にわけられ , 前者はさらに色彩本位 の情趣的な「作り絵」様式と描線主 体の写実的な様式とその折衷的なも これらはすべて大 のにわけられる。 和絵の画風を基本としており , 絵巻 物はいわば / 大和絵と運命をともに している ( 他の様式で描かれたもの は絵巻物とよは、ない。例 : 山水長巻 ) 。 絵巻物形式の歴史は , 直接には中 国に基づき , おそらく仏教文化の渡 来とともにもたらされたと思われる。 日本で制作された絵巻物形式の最古 の遺品である絵因果経は , 奈良時代 ( 8 世紀 ) に中国の原本を写したもの である。このように絵巻物形式のも のは , 日本でもかなり古くから作ら れているが , しかし日本的な内容と 様式とをそなえた純枠な絵巻が生ま れるようになったのは , 1 ( ) 世紀 ( 平 安中期 ) から 1 1 世紀にかけてのこと である。それは当時の新日本文化台 頭の気運に刺激されて生まれたもの であった。しかもこの時代にかな文 字が流布し , 日本的な物語文学が台 頭したため , 絵巻もその影響をうけ て文学的内容を盛った物語絵巻が多 く作られた。 こうして絵巻の内容が 日本化するにつれて , その表現もこ れに適応する画風がくふうされ , こに大和絵の発達をみるようになっ た。そして 12 世紀 ( 平安後期 ) にはい るとく源氏物語絵巻 > , / く信貴山 縁起 > く伴大納言絵詞 > , / く鳥獣戯画 > などの傑出した作品が作られた。 の四つの作品は , それぞれ異なった 技法や様式によって , それぞれ異な った世界を形成している点ではなは だ意義が深い。これにつつく 13 ~ 1 4 丿 ま斌な , 名廴声 エマキモノ 絵巻物左はく絵因果 経 > ( 奈良時代 ) , 右は く伴大納言絵詞〉 ( 平安 末 ~ 鎌倉初期 ) 部分 左上はく平治物語絵を > ( 鎌兪時代 ) , 右上はく華 厳縁起 > ( 鎌倉初期 ) , 左下はく三レ六歌仙 > の中の在原業平 , 右下 はく紫式部日記絵巻〉 ( 鎌倉初期 )
アフリカ アフリカ探検 育とともに小麦や綿などが栽培され ラで開かれた全アフリカ人民会議か その後も毎年開かれており , その議 ている。ガーナのココア生産も世界 題も独立の達成から維持 , さらには 全体の以上を占めている。その他 建設へとその指向をかえ , しだいに エジプト , スーダンなどの綿 , 東ア 効果をあげてきている。しかしアフ フリカ地域のコーヒーやサイザル , 西アフリカ地方のラッカセイか・知ら リカ内部にも , 人種の展覧会といわ れるはど雑多な人種間のセクト主義 れる。しかしこれらの世界市場で商 が各地で団結を拒んだり , せつかく 品としての重要性をもっている農産 物は西欧の資本と技術によって発展 豊富な天然資源をもちながら , これ を開発する民族資本がないため植民 したもので , いまも生産過程や販売 地支配が経済的に温存される要因と の面でその影響下におかれている。 なる , などの問題がある。さらに南 またこれら商業作物の栽培国では大 アフリカ共和国やローデシアの人種 麦 , 小麦 , トウモロコシ , 米などの 差別は深刻な問題となっており , 今 主要農産物の生産がのびず , 一般に 1820 年までに探検された地域 後の動きが注目される。 食糧を輸入に」いでいるというのが 1850 年までに探検された地域 〔経済〕アフリカ経済のおもな特徴 現状である。 1870 年までに探検された地域 としてはおよそっぎの諸点があげら ロ 1890 年までに探検された地域 貿易は生産量の増大とともに増加 1910 年までに探検された地域 れる。 1 ) 重要な原料資源が豊富なこ しているが一般的にいって貿易構造 ロ若干の旅行によって知られた地域 と , 2 ) これらの資源のはとんどが外 が原料輸出と食糧 , 製品輸入の植民 数字で表わされた年に始めて知ら 国の資本や技術で開発されているこ れた海岸 地型を示しているのに変わりはない。 と , 3 ) 総人口の大部分を占める原住 とくに近年の著しい特徴をあげると , 民が原始的な自給農業に従事してい 1 ) 米国が輸出入ともに戦前より高い ること。このような点から , 資本が ため , 一部の教育を受けたエリート 地位を占めるにいたったことで , 輸出向け原料生産部門に集中し , そ と , 他の住民との断層はきわめて大 れは米国の戦略物資の買付けと各国 こから派生する第二次産業への投資 によるドル獲得のための対米輸出増 きく , 宗教や言語の問題も考慮にい をはとんど誘発しない , 輸出による 強 , それに米国資本の増大による , れると , アフリカにおける文化の創 利益が海外からの投下資本に配分さ 2 ) アフリカ諸国と旧本国との貿易が 造は , きわめて困難な諸問題をかか れ , 流出している , 現地のアフリカ 増大したこと , および旧本国が他の えていることになるといえよう。 人はきわめて貧しい生活状態におか 国の製品に対し輸入制限その他の措 〔奥野・山口〕 れている , などといった現象が現わ 置をとってきたこと , 3 ) アフリカ大 〔歴史〕アフリカでは , 現在のとこ れている。 ろ最古の猿人 ( アフリカ原人 ) の化石 陸内の相互あるいは三角貿易が増大 ますアフリカの重要鉱産物と , そ も発見されておリ , 人類の出現はき の傾向にあること , などである。 れが・世界生産額中に占める比重をみ 〔交通・文化〕アフリカの交通は , わめて古くにさかのは、ると思われる。 ると , ソ連および中国などを除き , 一般に自給経済が支配的なことと並 ウガンダのカフ文化は旧石器時代の んで , 密林や砂漠 , 高原などの地形 ダイヤモンド ( 工業用を含む ) 99. 5 % , 最古のものに属し , さらにサンゴ文 金 75. 8 % , コノヾルト 68. 4 % , クロム により , また単調な海岸線のために 化 , カプサ文化をはしめさまざまな 49. 3 % , リン 34. 3 % , アンチモン 良港がなく , 河川も下流部に急流が 石器文化の存在か確かめられている 34. ( ) % , マンガ、ン 24.8 % , 銅 24. 3 % , あるなどの自然的悪条件が重なって , ( / 人類 / 旧石器時代 ) 。しかし , ア その発達が阻害され , それがまた大 フリカの先史時代はなお不明の点が ( 1963 国連統計 ) などである。とくに 多く , 歴史的に明らかなのは古代ェ 陸全体の開発をおくらせる原因とも 南アフリカ共和国の金 , コンゴ ( レオ ジプト以後である。ナイルの下流域 なっている。しかしナイル川は古代 ポルドビル ) のコ / ヾルトとダイヤモ からいまにいたるまで重要な交通路 は世界最古の文明の発生した地方の ンドなどは一国で世界市場を左右す る力をもつ鉱産物である。ウランの であり , コンゴ ーっで , 古くより多数の都市が繁栄 ジェノレ , ヨガン一く ジなどの諸大河もそれぞれの地域に したが , それらは前 30 世・紀ごろ統一 埋蔵量は , 資本主義世界では南アフ 王国に統合され , この古代エジプト リカ共和国が第 2 位 , コンゴ ( レオポ おける主要交通路の役割を果たして ルドビル ) が第 6 位 , 生産量はそれ 王国は 26 回の王朝の交替をみながら いる。鉄道は初めこれらの水路を結 ぞれ第 3 位 , 第 4 位 ( 1 9 60 推 ) であ 前 6 世紀にベルシアに併合されるま ・ために発達し , しだいに海岸にあ る。また近年注目されているサハラ で存続した。 る港とその背後の原料生産地をつな この間前 12 世紀ごろよ 地域の石油など今後の開発をまって ぐために建設された。さらにその後 りフェニキア人 , 前 8 世紀よリギリ 飛躍的に増産が期待されている。工 は各地の植民地をつないで政治的な シア人の , 北アフリカへの商業 , 植 業は全体的にみて小規模の原料加工 結びつきを強化するという意味で重 民地活動が盛んになり , カルタゴ , と消費財匸業で , その発展は基礎と 視されてきたが , 鉄道の総延長は世 キレネなどいくつかの植民市が建設 なる鉄鉱や石炭生産の貧弱さと , 機 された。ベルシア帝国を滅ばしたア 界のわすか 5. 7 % ( 1962 ) にすぎない 械など資本財の入手難 , 労働力の不 という状態である。ただサハラでは レクサンダー大王は東征の途中 , 前 足などで制約されている。しかし動 333 年エジプトに侵入したが , その際 大型バスがラクダによる隊商の交通 力となる発電所の建設が達成される に代わったのをはしめ航空機の進出 ナイル河口に建設したアレクサンド につれて工業化が急速に進むものと が注目される。おもな定期航空路と リア市は , 以後 3 世紀間にわたって してはカイロ ~ ケープタウン間 , プトレマイオス朝エジプトの首都と みられる。 プラルタル ~ ラゴス間などがあり 原住民の原始的な農牧業はいせん してヘレニズム文化の大中心地とな いすれも欧州 , さらにはアジアと結 支配的である。とくに中央アフリカ った。北アフリカにフェニキア人が 地域における芋類やキビなどの栽培 , びついている。アフリカの西端にあ 建設した植民市のカルタゴと戦って 内陸の乾燥地帯における遊牧などは るダカールは , 欧州からアメリカへ ( ポエニ戦争 ) 勝利を収めたローマは , その代表的なものといえる。しかし の航空路の拠点として重要な位置を 前 1 世紀までに北アフリカ全上を領 しめている。 北アフリカ地域では地中海式気候地 土とし , 以後 4 世紀間この地は文化 教育 , 文化の面では , アフリカは 帯特有のオリープ , ブドウ栽培が行 的にも大いに開け , キリスト教も普 なわれ , また牛 , 羊 , ヤギなどの飼 及した。 長い間植民地支配下におかれていた 1443 1462 ジ 1499 1486 1484 1543 1498 1486
工ーテノレワ 4 3 4 混合工ーテノレ CH30C2H5 奏された。管弦のみで舞はない。 地し , 下流には東京の衛星都市松戸 , メチノレエチノレエーーテノレ の曲に日本語の / 今様をつけて歌 市川がある。市川国府台の里見公園 芳香族工ーテノレ C6H50C6H5 うことが平安末期から起こり , これ の堤は桜の名所。 〔駒井〕 えどこもん江戸小紋型染めの ジフェ . ニ . ノレ。工 . ーーテノレ をく越天楽今様 > といい愛唱されて 環状ェーテル 和服地。京友褝に対する語だが , きた。福岡県の民謡黒田節なども , /CHz—-CH2 これが俗曲化されたものの一つであ 普通は細かい模様を表わすいわゆる C H 2 ー CH 2 る。また安土姚山時代に佐賀の僧賢 / 小紋のうち , とくに細かい精巧な ジオキサン 構造の中にエーテル結合をもって 順は越天楽今様をもとに箏の組歌 模様を単色で染めたものをいう。 いるものは , 天然物 ( デンプン , セ く富貴す > を作ったが , それが八橋検 〔藤島〕 ルロース , リグニンなど ) や合成高分 校曁うの手で俗化されてく菜蕗す > えどさんざ江戸三座江戸幕府 子化合物 ( ポリウレタンなど ) に多い。 の曲となり近世箏曲のもととなった。 公認の江戸の歌舞伎劇場で , 中村座 , 代表的なエーテルは , ジェチルエー 最近では近衛秀麿や L. ストコフスキ 市村座 , 森 ( 守 ) 田座をいった。江戸 テノレ C2H5 ー O ー C2H5 で , ふつう単に ーがく越天楽 > を管弦楽に移して演 では 1624 年猿若 ( のち中村 ) 座創立 工ーテルといえは、これをさす。ジェ 奏し , また宮城道雄は箏と管弦楽に 以来多くの劇場ができたが , 57 年明 チルエーテルは , とくに溶媒として 暦の大火後は前記 3 座に山村座を加 よるく越大楽変奏曲〉 ( 1928 ) を作曲 ひろく用いられる。また化学操作上 , 演奏した えた 4 座のみ官許され , さらに 1714 〔田辺〕 抽出によく利用される。引火しやす えと干支 / 十干十二支しつ 年絵島生島 % 事件 ( / 大奧 ) のため しゅうにし い性質だから注意を要する。麻酔薬 山村座は廃絶 , 3 座となった。座主 えど江戸 / 東京の古名。江戸 としても利用される。 〔熊野谿〕 はそれぞれ中村勘三郎 , 市村羽左衛 幕府の所在地として政治の中心地で 工ーテンレワイス EdeIweiss 欧 門 , 森田勘弥の世襲制であるが , 興 あった。古くから江戸氏という豪族 州アルプスの名花としてよく人に知 行上不都合が起こると控櫓をと称 が土着していたが , 14 57 年太田道灌 られているキク科の高山植物。セイ して都 , 桐または村山 , 河原崎の別 が / 江戸城を築城してから集落らし ョウウスユキソウともいい , スイス 名義で代行する制度があった。各座 い体裁を備え , 1590 年徳川家康が居 山岳会の記章に図案化されている。 城に定めて急激に発展した。 はしめ は堺こか町 , 葺屋町 , 木挽まき町にあっ 日本にもウスユキソウ , ハヤチネウ 日本橋を中心とする市街地は小規模 て町名がそれぞれの俗称でもあった スユキソウ , ミヤマウスユキソウな であったが , 寛永年間 ( 1624 ~ 44 ) の が , / 天保の改革後は猿若町一 どの同属の植物を産し , なかでもミ 三丁目に移された。明治に入り三座 参勤交代制の成立によって武士人口 ヤマウスユキソウはもっともエーデ が急増し , 大阪が「天下の台所」す 制は撤廃された。 〔河竹〕 えどじたい江戸時代徳川時代 ルワイスに似ている。いすれも高山 なわち町人を中心とする経済の町な 帯の岩石地にはえる多年草で , 全体 ら , 江戸は武士を中心とする政治の 16 ( ) 3 年徳川家康が征夷 ともいい に白い綿毛をかふ、り , とくに茎の上 町として , 明暦の大火 ( 16 57 ) 後の区 大将軍として江戸に幕府を開き 20() 部の葉では著しい。花はあまり目だ 画整理を契機に一大消費都市となっ 以上の諸藩 , 諸大名を支配してから たないが , 花の直下の数葉は接近し 1867 年徳川 15 代将軍慶喜のいわゆ た。当時の人口は不明であるが , 明 て放射状にひろがり目だっ。〔田辺〕 る大政奉還に至るまでの期間をいう。 暦以後武士 5 ( ) 万 , 町人 5 ( ) 万 , 合計 100 この時代の初期は , 4 代将軍家綱 万以下になったことはなく , 漸増の ( 在職 1651 ~ 80 ) のころまでで , 幕府 状態にあり , 文化文政年間 ( 19 世紀 の基礎が確立し中世的なものが排除 初め ) に最大になったという。また このころには , 庶民文化の中心も大 されるとともに , 近世的なものが一 阪から江戸に移った観があり , 幕藩 応できた時期である。 / 鎖国の体制 体制崩壊寸前の消費文化を代表した。 が整って , わすかに長崎だけがオラ 明治維新後は新政府によって東京と ンタ、、 , 中国船に開放され , キリスト 改名され , 首都となった。 教を禁圧するための宗門改めが徹底 〔浅沼〕 えとうしんべい江藤新平 1834 的に行なわれて , 仏教が国教化して ~ 74 明治初期の政治家。名は胤 普及した。一方 , 公家気武家の諸法 雄。佐賀藩士の子に生まれ , 尊王 度 , が公布されて , 公家や武家が , 完全に幕府の統制下におかれた。老 攘夷運動にたすさわった。維新後 中を中心とする幕府の機関もでき , 政府につかえて , 江戸遷都を唱えた。 1872 年司法卿 : よとなり , フランスの 諸大名の参勤交代制も確立し , きび しい身分制度をその基礎とする / 幕 刑法や民法を移植するのに功績をた 藩体制が固められていった。これら てた。翌 73 年参議となったが , 征韓 工テ、ン Eden 工デンの園ともい の過程でいろいろな事件が起こって い , ヒプル語で「楽しい」の意。旧 論を唱えていれられす辞職した。っ いる。幕府の重臣本多正純のいわゆ いで 74 年民撰芫議院設立建白書の署 約聖書創世記によれば , 神が / アダ る字都宮釣天井 , 佐渡金山などを開 ムとイプを造り , 住まわせた楽園で , 名者の一人となったが , その直後 , いた大久保長安の事件 , 家光の弟駿 伝説的にはメソボタミアにあったと 佐賀で不平士族におされて乱を起こ 河大納言の事件 , 将軍の継嗣問題 いわれるか、 , アルメニア , カシミ し ( 佐賀の乱 ) , 敗れて死刑となった。 をめぐる大老酒井忠清の事件などは ル地方とする新説もある。 こで罪 , 〔鹿野〕 幕府関係の騒動であり , 黒田騒動以 病気 , 死をしらぬ超自然的状態で暮 えどがわ江戸川千葉県北東の 下いくっかの / 御家騒動は , 幕府の らしていたアダムとイプは , 原罪を 関宿町付近で利根川と分かれ東 統制の不行届きのところに発生した 〔小林〕 京湾に至る川。長さ約 5()km 。もと利 犯して追放された。 ものである。しかし統制強化は着々 えてんらく越天楽雅楽曲の一 根川の本流であったが , 江戸初期に と行なわれ , 肥後の加藤家 , 広島の つ。正しくは越殿楽と書く。唐の俗 江戸を洪水から防ぐため改修して , 福島家などの大名家とりつふ、しもそ 楽に基づくが , 作曲者 , 作曲年代な 利根川は太平洋に注ぐようになった の一環として行なわれた。戦国の余 ど不明。原曲は平安初期に唐から伝 江戸への米の水運輸送路としてにぎ 勢をひく浪人の騒動 ( 山井正雪の乱 , 来したらしい。左方に属する小曲で , わい , 沿岸に東宝珠花 , 行徳 , 浦安 別木庄左衛門の事件 ) もあれば , 武士 早 4 拍子。本来は平調 3 だが , 日本 などの町が発達した。西岸は早場米 の男達瓣こ , 旗本の白柄組と幡随院 地帯 , また野田 , 流山の醸造業が立 では盤渉黔調や黄鐘調にも移して ェーデノレワイス イ、
イギリス ( 補 ) 1964 年 10 月の総選挙で , 労働 党のウイルソン内闍が 成立した。少差で敗れ た保守党は , 51 年 10 月 成立のチャーチル内閣 以来ィーデン , マクミ ラン , ヒュームと保持 しつづけた政権の座を 譲った。イキリスの野 党は「影の内閣 ( シャ ドー・キャビネット ) 」 をつくって , 議会で与 党と対決する習慣だか ら , いまの保守党も 65 年 7 月 , 党首に公選さ れたヒースら 12 人の下 院議員で影の内閣を構 成した。 イキリスがかかえて いる経済上 , 外交上の 難問に , E E C 加盟が ある。 E E C カ { できた ころ , イギリスは E F T A ( ョーロッパ自由 貿易連合 ) を北欧 3 国 やスイスなどと結成し , 対抗する構えだった。 しかし阜 E C の繁栄と イギリス経済の不振と のため , 61 年夏マクミ ラン首相は E E C への 加盟を申請した。けれ どもフランスの反対に あって , 63 年 1 月 , イ ギリスの加盟は無期限 にたな上げされてしま 65 年 5 月の E F った。 T A の会議でもウイル ソン首相は E F T A と E E C の協調の必要を 演説したが , この辺に し国際収支の慣性的 赤字に悩むイギリスの E E C への執着ぶりが うかカ { えよう。 第二次大戦直後から 51 年にかけて , アトリ ーの率いる労働党政府 のもとで , イングラン ド銀行 , 無線 , 有線通 信 , 民間航空 , 炭鉱 , 道路輸送 , 電力 , ガス , 鉄鋼の各産業について 国有化が実行された。 その後の保守党政権下 で鉄鋼と道路輸送業の 国有化は解除されたが , 65 年 5 月 , 労働党年来 の主張である鉄鋼国有 化が下院を 310 対 306 の この 少差で通過した。 はか戦後のイギリスで は , 産業国有化に伴っ て , 公社 , 公団の形で 公営がふえているし , 公私混合経営の比重も 高まっている。なお労 働党政府は 65 年 9 月 , 7 ( ) 年には国民総生産を 64 年の 25 % 増にしよう という五カ年計画を発 ・表した。 なお , 1966 年 4 月の 総選挙の結果は , 労働 党は 363 議席 , 保守党 は 252 議席であった。 分科委員会の形で機能を果たしてい ることが多い。 ことに枢密院の法務 委員会は連合王国 , オーストラリア , ニュージーランドおよびそれらの属 領の最終上訴審として重視されてい る。顧問官全員の会議は国王死去の 場合もしくは国王が結婚の意思を表 明したときに召集される。 内閣の首班は下院第一党の指導者 が国王から指名される。首相の宮中 席次は皇族を除くと , カンタベリー 大監督 , ョーク大監督 , 大法官 ( 上院 議長 ) につぐ。閣僚は上下両院議員 のなかから選ばれ , 首相の推薦によ り国王が任命する。しかし下院優位 の原則により , 閣僚は上院議員より も下院議員の方が多い。政府は閣内 相と閣外相に分かれ , 前者は常時閣 議に出席するが , 閣外相は自己の所 管事項討議の場合に限り , 閣議への 出席が求められる。閣議の内容は辞 職した閣僚といえども首相を通し国 王の裁可を得たうえでなければ , れを発表できない。郵政 , 国税など の事務は中央政府が連合王国全上に わたって統轄しているが , 労働省は グレートプリテンのみ , 保健省や教 育省はイングランドとウェールズの みといったぐあいに , 各省により管 轄地域が違う。 1679 年 / ホイッグ党 , / トーリー党の両政党が生まれ , 1832 年前者が自由党 , 後者が保守党 と改名して , 二大政党の対立時代が 生まれた。 2 ( ) 世紀にはいってからは 労働党が進出 , 自由党が後退して , 保守 , 労働両党の対立となっている。 〔外交〕外交政策の基調は米国をは しめ西欧諸国と協調しつつ , 東西間 の緊張緩和を実現することにおかれ ている。またスェズへの派兵 ( 1956 ) , ヨルダンへの進駐 ( 1958 ) などがあっ たが , 国連中心主義の外交を展開し ている。第二次大戦中にできた対日 悪感情はなかなか消えなかったが , 1952 年 1 月対日平和条約の批准書を 寄託して日本との親善関係を復活し た。しかし日本の東南アジアやアフ リカへの経済進出にはきわめて警戒 的で , 日本との通商協定にも消極的 であったが , 62 年日英通商航海条約 が締結され , 関税 , 輸出入 , 事業活 動 , 外資導入 , 海連などについての 最恵国待遇 , がツト 35 条の対日援用 を撤回した。 〔社会〕英国人は保守的で , 新しい ものよりも古いものを尊ぶ。ロンド ンの議事堂は第二次大戦中にドイツ 軍の空襲を受けて破壊されたが , 戦 後昔のままに再建された。クロン ウェル時代の 6 年間を除けば , 過去 900 年近くも王政がつづいていると いうことも , 英国人の保守性をよく 物語っている。しかしこの保守性に は , 過去を反省して将来に資する , という前向きの意味もある。だから こそ , 戦後ただちに「揺りかごから 墓場まで」の国民医療制度をはしめ 一連の社会保障制度を確立して , 福 祉国家を築き上げることができた のだ 英国人はまた現実家である。だか らどんなに高尚な理論でも実現の可 能性がないものにはふりむきもしな い。英国の中華人民共和国承認など は , 現実主義の外交をよくあらわし ている。英国人はまた個人主義に徹 し , 他からの干渉をきらう。毎日顔 をあわせていても , 紹介がなければ ロもきかない。しかし各人各様のし っかりした人生観をもっているから , 独裁政治もできにくい。しかし国家 存亡のときとあらば , この個人も国 家全体のためにささげられ , 挙国一 致の体制ができ上がる。激しにくく , さめにくい英国人は , 日本と同し島 国に住みながら , 日本とは違った国 民性をもっている。 イギリスの歴史 〔志賀〕 〔先史・古代〕イギリスの地には , すでに旧石器時代から人類が住み , やがて新石器時代には , フランス方 面からいわゆる「イベリア人」か・渡 って住みつき , 巨石記念物などを残 した。しかし前 6 ~ 前 2 世紀に大陸 のケルト諸族が海を渡ってプリテン 島に侵入し , 先住民を征服しつつ , アイルランドまでもひろがった。プ リテン島は欧州大陸側からみると , 海岸に白亜の断がいが連なっている ので , 「白い国」を意味する「アルビ オン」とよばれたが , ローマ人はこ の島のケルト人をプリトン人とよび , したがってこの地はプリタニアと名 づけられた。プリトン人が文明に触 れるようになったのは , 前 55 年ロー マのカエサルがガリアから攻めこん できてからのちのことである。カエ サルは島の南東部を一時占領しただ けでひきあげたが , やがて 43 年ロー マ皇帝クラウジウスはみすから兵を ひきいてプリタニアに侵入し , この 地の大部分をローマの支配下におい た。以後約 350 年間プリタニアはロ ーマの属州として , ローマ文明の影 響を受けることになった。 〔中世〕 5 世紀にはいって , 欧州大 陸でゲルマン民族の大移動がおこる と , プリタニアのローマ兵は大陸に ひきあげ , ローマの支配は終わった。 プリトン人は自立していくっかの小 王国を建設したが , 5 世紀の半ばこ ろよりゲルマン民族の一派であるア ングル人 , サクソン人が大陸から侵 入してきた。彼らはプリトン人と戦 いながら , 6 世紀中にほは・今のイン グランド地方を征服し , そこに数個 の王国を建てた。以後をイギリスの 七王国時代という。 この間に彼らの なかにキリスト教が信仰されるよう になった。彼らの征服を免れた西方 ウェールズや北方スコットランド地 方は , ケルト系の人々が国を建てた のである。 9 世紀の前半 , 七王国の つのウェセックス王エグベルト E gbe rt ( イングランド王としての在 位 829 ~ 839 ) カ { , 他のアングロ・サク こに初め ソン人の王国を統一し , てイングランド王国が成立した。イ ングランドとは「アングル人の土地」 という意味である。しかしこのころ から , ノルウェー , デンマーク方面 より , デーン人とよばれるノルマン 人の一派の侵入が始まった。 9 世紀 末アルフレッド大王 ( 在位 871 ~ 899 ) は彼らを打ち破ってイングランド王 国の独立を保ったが , 大王の死後彼 らの侵入はますます激しくなった。 ついに 11 世紀前半デーン人の王クヌ ト ( 在位 1016 ~ 35 ) がイングランド 王位についた。その後一時アング ロ・サクソン出身の王が復位したが , 1066 年ヒフランスのノノレマンジー公 ド黒太子 ( 1330 ~ 76 ) の働きなどもあ でもあった。戦争の前期はエドワー であったフランドル地方争奪の戦争 これは当時最大の毛織物工業地 渉して侵入し , / 百年戦争がおこっ ェドワード 3 世 ( 在位 13 27 ~ 77 ) が十 前半フランスにおける王家の交代に ランドの支配下にはいった。 14 世紀 王のころにウェールズ地方がイング のもとでさらに発展した。なおこの のエドワード 1 世 ( 在位 12 72 ~ 13 ()7 ) 起原とされている。議会制度はつぎ る議会を開いた。これが英国下院の 貴族に加えて州代表 , 市民の出席す シモン・ド・モンフォーノレカ { , イ曽 , に反抗した。そのさい , 貴族の首領 失政が多かったため , 貴族は再び王 ったヘンリー 3 世 ( 在位 1216 ~ 72 ) も 考えられるようになった。続いて立 世にいたって英国自由主義の起原と 民のためのものとはいえないが , 後 とをおもな目的としたもので , 全国 た これは封建貴族の権利を守るこ 迫って / マグナ・カルタを認めさせ 貴族は一致して反抗し , 1215 年王に に重税を課し , 失政が多かったので ランス内の領上の大半を失い , 国民 が立った。王は対仏戦争によってフ 弟のジョン失地王 ( 在位 1199 ~ 1216 ) チャード 1 世 ( 在位 1189 ~ 99 ) ののち , せた。 12 世紀末の十字軍で有名なリ 制を整備して王権をますます伸長さ 内に広大な領土をもち , 国内では法 ー 2 世 ( 在位 1154 ~ 89 ) は , フランス ランタジネット朝をはじめたヘンリ 12 世紀半ばフランスよりはいってプ から王権の強いことが特色であった イングランドの封建制度ははじめ 実ともに封建国家となった。 を治め , これ以来イングランドは名 行なわれていた封建制度によって国 傾向がおこっていたが , 王は大陸に ンドの社会はこれ以前より封建化の ノルマン王朝をひらいた。イングラ リアム 1 世 ( 在位 1066 ~ 87 ) と称して ウィリアムがイ受入して王となり , ウィ
覚大師が開山したという地蔵堂であ った。地蔵尊を拝むと , 死者の苦難 が救われるといわれ , 毎年 7 月の下 旬から行なわれる大祭典には参拝人 が血盆経を読んだり , この経を八大 地獄にある血ノ池に投げ入れたりす る。祭りには / おしら神をまつる巫 女す ( いたこ ) が , 死者のことばを伝 える呪術を行なう。かっての交通 不便が , 民俗信仰を残している原因 ともなっているが , 近年むつ市から ノヾスが通じた 〔谷口〕 オゾン 0 z 。 ne / 酸素の同素体。 分子式 03 乾燥した空気中で 1 万 ポルト前後の高圧で無声放電を行な わせるとできる。その・ほかフッ素と 水とを作用させるとき , リンの酸化 するとき , 酸素の加熱 , 硫酸の電解 , 紫外線 , X 線 , 陰極線を空気に当て るとき発生する。常温ではなまぐさ いにおいのある淡青色の気体で , 融 . 一 251.5 。 C , 沸 . ー 112 。 C である。 液体は黒青色 , 固体は暗紫色。不安 定できわめて強い酸化作用を示し , 銀 , 水銀は常温で酸化される。イン ジゴ , リトマスなどの有機色素は酸 化脱色し , 木材 , ゴム , 毛などもし だいに破壊される。 / 大気中にはこ くわすか存在する。ぬれているヨウ 化カリデンプン紙を鋭敏に青くする ので , この反応をオゾンの検出に利 用する。殺菌漂白 , 有機合成の酸化 5 3 5 桃山時代の武将。信秀の子で 1551 年 家督をつぐ。幼少のころから俊敏で 奇行多く , 傍若無人だったが , 53 年 , 、、後見人平手政秀の諫死 t•んで武道に専 念するようになったという。信秀の 死後 , 家運をよく盛り返し , 6 ( ) 年に は今川義元の大軍が西上するのを / 桶狭間まの戦いで滅は、し , 天下に 勇名をはせた。 62 年清洲 , 岩倉の 両織田家を統一し尾張一国を領知し た。同年三河の松平元康 ( 徳川家康 ) と同盟を結んで後顧のうれいを除き , 全国統一への道を歩むことになった。 ます 67 年 , 美濃の斎藤氏を倒し , 手 中にした稲葉山城を岐阜と改めて居 城にした。そのころ朝廷が尾張の御 料地の回復をのぞみ , また将軍の弟 足利義昭がたよってきたので , 68 年 義昭とともに京都に入り , 幕府を再 興し , また皇居を造営した。しかし そののち義昭と不和になリ , 義昭が 信長打倒のため浅井 , 朝倉 , 武田 , 毛利の各氏や本願寺などによったの で , 73 年義昭を追放 , こに足利幕 この間 , 彼は同盟者家 府は滅んだ 康や秀吉ら部下の力をかりて反信長 勢力を平定していく。すなわち , 70 年の姉川の戦いで浅井 , 朝倉を敗走 させ , 71 年延暦寺こを焼打ちし , 73 年には朝倉についで浅井をも滅は、 し , 長島の一向一揆をしすめ , 大和興福寺も屈伏させ , 75 年には 鉄砲を使って三河長篠に武田勝頼 を破った。 76 年 . 近江の安上に大 城郭を築いて岐阜から移り , 安土桃 山文化の基礎をたて , キリシタン文 化の摂取も行なった。 この間 , 官位 はしだいにのは、り , 77 年には右大臣 に任ぜられた。しかし信越の上杉 西の毛利 , 石山の本願寺を平定せす には天下統一の夢は実現しないので , 彼はふたたび行動を開始した。 78 年 上杉謙信の急死によって北方のおそ れはなくなり , 80 年には石山を破っ て本願寺勢力を一掃した。そののち , 残る毛利を平定しようと , 先陣羽柴 ( 豊臣 ) 秀吉の加勢に西下する途中 , 京都本能寺で臣明智光秀のむはんの ため本能寺に自刃して果てた ( / 本 能寺の変 ) 。全国統一を目前にひかえ た天正 IO 年 ( 1582 ) 6 月 2 日のことで ある。信長は過酷であったといわれ るが , 時代の動きに明敏であり , 革 新的な方策を行ない , また新文化の 吸収にも積極的であった。 〔浅沼〕 おたふくお多福狂言で醜い女 の仮面を乙御前 ( 略して乙とい う。お多福はその転語とされている。 本来の乙御前は若い娘という意味で あるが , 狂言の性質上仮面ではこっ けい化され , ふくれ乙の異名もある。 狂言で乙御前が醜い娘を意味したよ うに , お多福も醜い女の呼称に用い おもに幼稚園児 , 学童がかかり , さい乳幼児はかからない。飛沫感 染で、潜伏期は 2 ~ 3 」固間。 38 ~ 3 9 OC の発熱があって , 1 ~ 2 日後ます 片側の耳下腺がはれ , つづいて 1 3 日後他側の耳下腺もはれてくる。 軽い痛みがある。 1 週間くらいのう ちに下熱し , 耳下腺のはれもひいて ゆく。合併症として , 髄膜炎を起こ すと頭痛 , 吐きけ , おう吐があリ , 脳炎を起こすと意識障害 , けいれん をともない , 日本脳炎と区別がっか ない。すい臓炎を起こすとはげしい 腹痛を訴える。成人ではこう丸炎 , 卵巣炎を合併し不妊の原因となる。 耳下腺がはれないで合併症に相当す る病気だけで発病することが意外に 多く , このときは血清学的方法によ って診断がつく 療法は安静を保ち , 高熱があれば 頭部をひやし , 耳下腺のはれに痛み があれば冷湿布をし , 2 % ホウ酸水 でたびたびうがいをして口内を清潔 に保つ。食欲に応して水分と柔らか い物を自由に与える。髄膜炎の頭痛 には腰つい穿刺芒んをして脳圧を下げ る。脳炎を起こすと生命の危険があ こう丸炎には , はじめ冷湿布 , る。 痛みが去れば温湿布をし , 副腎皮質 ホルモンを服用して極力 , 組織の破 壊を防ぐ。感染力は発熱と同時から 下熱後 1 週間くらいまであるものと して , この間登校を禁止し , 他人と の接触を避ける。免疫性は強く , 1 度かかれば一生の間 2 度とかからな オタル 織田信長 ( 愛知県長興寺蔵 ) 年本能寺の変に至る事 して入京してから , 82 年信長が足利義昭を奉 一 ( 資房 ) の著で , 1568 る。信長の祐筆太田牛 な書にく信長記〉があ 正期の史料として重要 伝記を中心に , 永禄天 織田信長 ( 補 ) 信長の 歴を記述している。 剤として用いられる。 〔雨宮〕 おたうじ織田氏室町時代以来 の武家。越前国丹生彎郡織田神社の 祠官髣、んの出とされる。常昌のとき尾 張国の守護斯波氏に仕え , その子常 勝は守護代になったが , やがて主家 をしのぎ , 尾張を領知するようにな った。 1466 年の斯波氏の内紛で , 織 田氏も清洲と岩倉の 2 派に分かれ て争いをつづけたが , 清洲織田氏は 信秀のとき , 国の内外に武威を示す にいたった。その子信長はさらに勢 力を拡大し , 全国統一の野望に着手 したが , 本能寺の変で死し , その後 は信長の弟長益 ( 有楽斎 ) と次男信雄 のみがそれぞれ江戸時代の大名とな いのが普通である。 〔高津〕 った 〔浅沼〕 おたきゅうでんてつ小田急電鉄 東京の新宿を起点として , 小田原に 至る 82.8km の小田原線と , その途中 の相模大野から分かれ , 東海道線藤 沢をへて片瀬江ノ島までの 27.4km の 江ノ島線の 2 線を持っ私鉄。 1923 年 発足の小田原急行鉄道が , 数社と合 併 , 分離をくリかえしたのち , 48 年 資本金 1 億円で新しく発足した 5 ( ) 年箱根登山鉄道と契約を結び , その 後 , 小田原から箱根の湯本まで電車 を通じ , 57 年からは S E 車と称する 特急電車が新宿 ~ 箱根湯本間を 1 時 間 2 ( ) 分で走っている。 59 年から御殿 場線へも乗り入れている。〔伊崎〕 おたのぶなが織田信長 1534 ~ 82 室町時代後期 ( 戦国時代 ) ~ 安土 おたまき日本北部の山地に自生 する , キンボウゲ科の多年草で , 葉 は 2 ~ 3 回三出状に複生する。 5 月 に青紫色または白色の花をつける。 花びらのように見えるのはがくで , はんとうの花びらは白くて細長い中 空の距があってがくの間から後方に 突き出て内方に湾曲している。栽培 は秋に種子をまき , フレームまたは 霜よけをしたところで育苗すれば春 に開花し , 古株は株分けで繁殖する。 ォダマキには種類が多く , アメリカ ォダマキは草たけが 6 ( ) ~ 8 ( ) cm にも達 し , 北米産のロングスパーと称する 一種は , 距の長さが 10 cm にもなる。 〔浅山〕 おたる小樽〔市〕北海道西部石 狩湾に面する市。 1922 年市制。 40 年 高島町ほか 1 村を合併した。人口 196771 ( 1965 ) 。札幌 , 函館に次ぐ北 海道第 3 の都市で , 重要な港湾をも ち , また函館線が通しる古くからの 商業中心地である。湾内は広く水深 も大で , 三方に火山性台地をひかえ ている。広い湾口をもっているので , 波浪は長大な防波堤で防がれている。 市街は海岸から山ろくに階段状にひ ろがり , 北西の手宮と南東の小樽築 港では石炭積み出しなどが行なわれ , その中間には倉庫が立ち並ぶ。小樽 右 , ロングスノヾ オダマキ られる。 / おかめ 「鈴木〕 おたふくかぜ流行性耳下腺炎の 俗称。ビールス感染による伝染病で , 小樽市 ( 補 ) 小樽の海 岸一帯はおたもい海岸 , 祝津 , 忍路 ( おしよろ ) 海岸など景勝が多く , また古代文字が描かれ ているという手宮洞窟 ( 史跡 ) や朝里川温泉も 市内にあるので , 1963 年ニセコ積丹小樽海岸 国定公園に指定された。
1 5 4 合理的なものであり , いま世界中で う。手術はかいよう好発部位をすべ 近世医学史略年表 採用されている。古く中国におこっ て切除し , 残った胃と腸をつなぎ合 て日本では江戸時代末まで医者の大 パラケルスス没。化学を医学に応用 , 中世医学を改革 〔藤田〕 わせる。 1541 部分の頭を占めていた漢方すなわち べサリウスく人体の構造について〉刊行 いがく医学医学は病人をなお 1543 東洋医学は , 今日の日本では少数の パレく銃創の治療法〉刊行。多くの手術を行なう して健康なからだにもどし , また人 154 5 医者によりわすかな命脈を保ってい 人を病気にかからせないようにする セルべッス火刑。血液の肺循環を論したくキリスト教 15 53 る状態である。洋医学の合理性と ことを研究する学問である。人が生 の復活〉も焼かれる いっても , それは比較的新しい時代 大友宗麟 , 豊後に病院をたてポルトガル人アルメイダ をうけてから ( それは生まれでるよ 1556 に得られたもので , 10 世紀あまりの り前からであるが ) 寿命を全うしう に治療させる。西洋医学伝来のはしめ 長い中世の欧州は , キリスト教の強 るかどうか , すなわち一生の幸福と ハーベーく血液循環の原理 > 刊行 1628 い支配下にあって自由な考え方がで マルピーギ , 顕徹鏡により毛細管と赤血球を発見 密接に結びつく学問であるから , だ 1661 きなかったので , 医学も紀元前のギ レーウェンフック , 顕微鏡でヒトの精虫を発見 れでも関心をもち , 多少の差はある 1677 リシアにくらべて退歩するのみであ オランタ、、の H. プールハーべく医学論 > 刊行 が , ある程度の知識をもっている。 1708 った。暗黒の中・世ではローマのガ、レ 山脇東洋 , 初めて死体を剖見。 59 年く蔵志 > を刊行 現在の日本では , 貧富にかかわらす , 17 54 ヌスの学説が唯一の医典とされ , そ スイスの A. v. ハラーく人体生理学要綱〉刊貧 ( ~ 66 ) すべての人が進歩した医学の恩恵を 17 5 9 のわくのそとにでることができす , く疾病の位置と原因 > 刊 うけることができるように一応は仕 イタリアの G . B. モノレが一 17 61 そして病気の多くは当時の治療法で 行 , 病理解剖学の基礎を作る。ウィーンの L. アウ工ン 組まれているが , 現実はなかなか理 はなおらないので , 祈りなど僧によ プルッガー , 打診法を創始 心、から遠いものがある。また医学が るましないが盛んに行なわれたこと 杉田玄白らく解体新書 > 刊行 進歩したとはいっても , 病気によっ 17 74 は当然であった。今日でも医学が病 ジェンナー , 牛痘接種法を発見 , 実施 てはまだどうしてもなおせないもの 1796 フランスの M. F. X. ビシャーく一般解剖学〉刊行 , 病 気をなおせないとき , 人は宗教とか がけっして少なくない。 1801 迷信の方向に進みがちである。 理組織学の基礎を作る 医学を身につけて医術を施すもの , ドイツの A. ゼルチュルナー , モルヒネを純粋抽出 近世の合理的な医学はべサリウス すなわち / 医師は人の生命をあすか 1804 の人体解剖学とハーベーの血液循環 華岡青洲 , 麻沸湯で全身麻酔し乳がんを手術 る職業であるから , その養成すなわ 1805 フランスの R. T. H. ラエネック , 聴診法を発表 の理論にはしまったといえる。どち ち医学教育はいま各国が最も力を入 1819 らもガ、レヌスの権威を根本からくつ シーポルト来日 , 医学 , 博物学を伝える れているものである。日本にも 46 の 1823 アメリカの C. T. ジャクソン , 工ーテル麻酔を実施 がえすものであった。べサリウスと 医科大学および医学部があって優秀 1842 イキ、リスの J . Y. シンプソン , クロロホルム麻酔を はは、同し時代に臨床医学に大きい改 な医師をつくることに努めている。 1847 革をしたのは / ヾラケルススとノヾレで 実施 その大学課程は他の専門が 4 年であ オランダ船将来の牛痘苗で長崎で種痘に成功 ある。とくにパレはそれまで理髪業 るのに , 医学だけは 6 年であり , 医 184 9 パスツール , 乳酸腐敗の原因を微生物に帰す といっしょにされていた外科の地位 師の資格をうるにはその上にインタ 18 54 ベルナール , 肝の機能を研究。内分泌説の先駆 を高めて医学の重要な一部となした ーンすなわち実地修練 1 年のあとで 18 55 のである。その後欧州の医学は幾多 ヘルムホルツく生理学綱要 > 刊行 ( ~ 67 ) 国家試験をとおらなければならない。 1856 江戸神田お玉が池に種痘館設立。後に医学所となる の学説が生まれて動揺しながらもた 医学の一部でも歯科は特別な技術を 18 57 えす進歩をつづけた。物理学や化学 フィルヒョーく細胞病理学〉刊行 要するので , / 歯科医師の養成はた 1858 ゼンメルワイスく産じよく熱の原因 > 発表 での発見がただちにとり入れられた いてい別の学校でなされている。イ 1861 リスター , 石炭酸による消毒法を実施。ベルナール いまでは X 線か、病気の診断にいカ、に ンターンの 1 年も歯科医学校の卒業 1865 大きい役割をなしているかは , だれ く実験医学序説 > 刊行 生には課せられていない。家畜の病 ゴルトンく天オの遺伝〉刊行。優生学の先駆 でも知るところであり , 麻酔剤をは 1869 気を対象とする獣医学は医学と深い コッホ , ひ脱疽菌発見。ベルツ来日 じめ無数の化学薬品が病気の治療に 1876 これは畜産学と つながりをもつが コッホく細菌学の新方法 > 発表 , 連鎖球菌発見。パス 主役を演している。初め医学の革新 1881 の関係から農科大学または農学部に ツール , 炭疽病ワクチン発見 はイタリア北部を中心にしておこっ おいて教えられている。 コッホ , 結核菌発見。このころ病原体の発見あいつぐ たが , まもなくアルプスを越えて北 1882 医学を生物学の一部と考えること クレベリンく精神病学教程 > 刊行 方にひろがり , 欧州の各地の大学で 1883 は正しくない。人の生命を守るとい ドイツの A. クノルら , アンチピリンを合成 自由活発な研奔がなされた。米大陸 うのが医学の本質であるから生物学 1884 ことにアメリカ合衆国が時代の進む べーリングと北里柴三郎 , 血清療法を創始 の単なる応用面ではない。もっとも 1890 につれて医学の進歩にもかなり大き メチニコフ , 白血球の食菌作用を発見 1892 今日の医学研究が生物学者によって 志賀潔 , 赤痢菌発見。ドイツのグルムマッ , 、ら X 線計 い役目をはたした 1897 はなはだ多く助けられていることは 日本は 16 世紀に南蛮人渡来のとき 断学を確立 確かであり , そのはか物理学 , 化学 , ランドスタイナーー , 血液型を発見。高峰譲吉 , ウシの に西洋医学について初めて少しばか 1901 工学 , 数学などあらゆる部門の科学 副腎髄質から結品状アドレナリンを抽出 りの知識を得たが , そののちキリス 者たちに教えられて日に月に新たな オランダの w. アイントホーベン , 心電図を記録 ト教禁圧のため , 17 世紀には西洋医 1903 進歩をなしつつある。また医学の目 ワッセルマン , 梅毒血清反応を発表 学を知る道がほとんど閉ざされた。 19 ( ) 6 的が病気そのものでなく , 病人をな ェールリヒと秦佐八郎 , サルバルサン創製 18 世紀の後半になって少数の日本人 19 0 9 おすにあるのだから , 社会の仕組み 鈴木梅太郎 , オリサニン ( 最初のビタミン ) 発見 が努力してオランダ語を解読しうる 191 ( ) が人々の健康を保つのに適している 山極勝三郎ら , 人工がん発生に成功 にいたって西洋医学を学ぶ道が開か 1915 かどうかの問題がたいせつである。 フランスの L. Ch . A. カルメット , B C G 接種開始 れた。杉田玄白らのく解体新書 > が 1922 病気になったらだれもがみな心配な パプロフく条件反射学〉刊行 刊行されたのが 1774 年である。明治 1926 く診療をうけられるのでなくてはな A. F. フレミング , ペニシリンの抗菌作用を発見 政府がたつにおよび知識を世界に求 1928 ういうところに医学のだ らない ドイツの H. ベルが一 , 脳波を発見 める方針がとられて , 医学はドイツ 1929 いしな一面で政治家の仕事がある。 セリエ , 警告反応の説をとなえる を師とすることとなり , 同国から教 193 ( ) 〔医学の歩み〕現代の医学は人類が ドーマク , プロントジル合成。サルファ剤時代始まる 師を招き , また日本から留学生をつ 1932 この地球上に現われてから以来の長 ワックスマン , ストレプトマイシンを発見。この年よ 1944 ぎつぎに欧り、日に送ることとなった いあいだの知識の集まりである。そ りアメリカでペニシリン量産開始 しっさい 19 世紀のドイツは医学にお れも古代ギリシアからローーマの隆盛 いて各方面の大家が輩出して , その 時代をへてルネサンス以後の欧州で 注病原体 ( / 伝染病 ) , / ホルモン , / ビタミンのやや詳細な発見史 についてはそれぞれの項目を参照 隆盛は世界最高のものであった。日 めざましく発達した西洋医学が最も イガク