アメリカガ アメリカ合衆国の歴史 ( 補 ) ケネディ大統領 は就任後直ちに「ニ ーフロンチア精神」を 唱え , 対内的には黒人 公民権問題やドル防衛 問題などに積極的解決 策を打ち出し , 対外的 には従来の「カの外交」 に代わる柔軟な姿勢を 示し , 後進国援助にも 深い関心を示して青年 , 知識層の大きな期待と 支持を集めた。 1961 年 6 月ウィーンにおける ソ連首相フルシチョフ との会談は , 米ソ両国 および広く国際関係の 改善について期待が寄 せられたカ { , ラオス中 立化で原則的合意に達 しただけでドイツ , べ ルリン問題では成果が なかった。むしろ , ソ 連による同年 8 月のべ ルリン境界線封鎖およ び 9 月の空中核実験再 開とそれに対するアメ リカの空中核実験再開 声明などにより , 緊張 は強まった。またコン コカ乱をめぐる米ソ対 立は国連分担金問題と して長く尾を引くこと となった。中南米政策 では , 61 年 8 月調印の 「進歩のため同盟」政策 により社会改良政策援 助を唱えつつ同時に他 方では反カストロ派の ノヾ侵攻を援助し て失敗したり , 対キュ バ全面禁輸を行なう など矛盾した動きを見 せた。そして 62 年 1 ( ) 月 にはソ連製ミサイル基 地建設を理由としてキ バ海上封鎖を宣 し , 一時は米ソの正面 衝突による全面的核戦 争の危機到来を思わせ た。結局これはアメリ 力の強硬な態度と , ソ 連のミサイル撤去によ る譲歩によって解決さ れた。しかし , この事 件はアメリカのみなら す全世界に核戦争の恐 怖と平和的な話合いの 重要さを痛感させた。 以後アメリカは一方で 軍事力の整備増強によ る対ソ応戦体制確立を はかりつつ , - 他方では 中ソ論争の影響などか ら対米軟化をしたソ連 との平和共存と経済競 争への道を歩み始めた。 対アジア政策ではラ オス中立化協定 ( 1962 年 7 月 ) 成立には努力 したが , 同時に南ベト ナムに対しては 1961 年 5 月ジョンソン副大統 領を派遣して以来次第 に軍事的介入の色を濃 ( 99 ページへつづく ) スペイン領フロリダに対する防衛を 兼ねた植民地として出発した以外は おもに農業を目的とした植民地であ ノヾージニア , メリーランドを った 中心、にタノヾコか・ , サウス・カロライ ナ , ジョージアには米 , アイなどが 奴隷制によって栽培され , とくにタ バコは重要な作物であった。政治形 態は会社植民地 , 領主植民地 , 王領 植民地の 3 種があり , 会社植民地で は植民地人が最も広範な自治権をも っていた。他の二者では領主または 王の任命する総督と参事会のはか , 現地植民地人のなかから選んだ代議 員会があって政治を行なった 〔合衆国の独立〕英本国が植民地に 対して重商主義政策を強化したため , 前記の 13 植民地は独立戦争 ( / アメ リカ独立戦争 ) をおこし , 1776 年 7 月 4 日には独立宣言 ( / アメリカ独 立宣言 ) を発した。独立派は植民地 人口の約 % にすぎなかったが , 積極 的に行動し , 英国の海上における横 暴をにくむ列国の援助や同情をえて , ついに戦いに勝ち , 年のパリ条約 で独立を正式に達成した。 この間 , 81 年には 13 植民地の連合規約を作り 連合を強化したが , 独立後この規約 では連合政府を作るのに不適当であ るとして , 87 年には新たにフィラデ ルフィアに憲法制定会議を開いて新 憲法を作成し , 翌年には 13 州の承認 を得 , 89 年には新憲法による新政府 が成立した 初代大統領には G. ワシ ントンが満場一致で選ばれた。新国 家の重要な政策は , 新国家の権威を 十分英国をはじめ列国に認めさせる こと , 独立後の混乱した財政を整理 すること , 当時としてはあまり例の ない民主主義国家としての慣例を定 めることなどにあった。そのために 外交をつかさどる国務長官には Th. ジェフアソンを , 財務長官にはノ ノレトン Alexander Hamilton ( 1757 ~ 18 ( ) 4 ) を任命した はしめ連邦政 府の首都はニューヨークにおかれ , ついで 18 ( ) ( ) 年まではフィラデノレフィ アに , それ以後は現在のワシントン におかれた ハミルトンは少壮有為 の法律家で , 財政を立て直したほか 連邦政府の権限を強化して商工業発 展の基礎を定め , 米国資本主義の親 といわれる。外交では新政府の創立 後数カ月でフランス革命がおこり ついでナポレオン戦争となったので , 米国は英仏両国に対し中立を守ろう とした。ワシントンが辞任のあいさ つでのべた孤立主義の主張を , ジェ フアソンも第 3 代の大統領として守 ろうとしたが , それは困難であった とくに英国の海上での横暴にたえか ね , ついに 1812 年英米戦争をおこす ーこの戦いを通して米国 の経済は躍進し , 名実ともに独立国 として列国に認められることになっ たので , この戦いを第二独立戦争と 9 4 し、つ 〔国民的発展〕 19 世紀前半は国民的 発展の顕な時代である。国民的発 展とは , 第 1 には領上の拡大 , いわ ゆる西漸連動の進展 , 第 2 には連邦 政府の権限のイ申展 , 第 3 には民主主 義の確立 , 第 4 に国民的規模におけ る経済の発展 , 第 5 にアメリカ文明 の誕生ということになると考えられ る。 18 ( ) 3 年 , フランスからルイジア ナを購入したことで合衆国の面積は 2 倍になり , 国民の関心は西部に向 けられるようになった。そのうえ前 記の第二独立戦争で独立国としての 自信をえた合衆国民は , 第一次大戦 までの 1 世紀間をもつばら国内の発 展整備に向けた。その発展はめざま しかったとはいえ , 地域や階層の間 に利害の対立や・紛争がなかったわけ ではない。むしろその寢大なものと して南北戦争がある。それゆえ「国 民的発展」の時代は , 南北戦争をも って前期後期各半世紀すつに分けら れる。 前期 ( 1815 ~ 65 ) はいわは、農業カヾ優 越し , その勢力が支配した時代であ るが , また一面では産業革命期でも ある。それゆえ東部対西部 , すなわ ち商工業社会対農牧社会の対立がめ だった。奴隸制をめぐる南北両地域 の争いは , 主として 18 5 ( ) 年代のこと であった。東西両地域の争いはつぎ のような問題についてであった。東 部は財政政策においては健全財政 , すなわち中央銀行による通貨金融の 強力な統制と保護関税を望んだが , 西部農民は負債階級として地方銀行 による放漫な貸出し , 通貨の膨張と 自由貿易を望んだ。 この二つの問題 は A . ジャクソンのときに ーっは第 二国立銀行の許可期限延長拒否 , 他 は 1833 年の妥協関税となった。東部 はまた西部のすみやかな発展を好ま なかった。それに対して西部人は公 有地の廉価払下げ , 国内交通路の連 邦の費用による改良を強く望んだ。 西部の上地を安く払い下げれば東部 の地価は下がり , 労働者は西部の上 地に心をひかれて移住するから , 東 部では労働力の不足が激しくなる。 しかし農業社会では上地が主要な生 産力であるから , 人々は安い上地を 求めて西へ西へと移動する。これは 同時に米国の富の増進を示すもので あった。それゆえ東部の一部の人た ちが西漸運動に反対しても , その勢 いが弱まることはなかった。西漸運 動の動きは , 新たな州が設立されて , それが連月 ; に編入されていく順序を みればおよその見当がつく。西漸連 動は冒険心 , 移民 , 不景気 , 東部の 既成社会の拘束からの逃避 , 土地の 投機など各種の原因によって進めら れる。新しい肥えた土地を求める人 たちは , 独立のころアパラチア山脈 を越え , 1821 年にはミシシッピ川を こえたミズーリか・羽ヨになっている。 183 ( ) 年代には南部人は当時メキシコ 領であったテキサスに進出し , これ がもとで 46 年には / 米墨戦争がお 一方 3 ( ) 年代から太平洋岸の こった 北西部オレゴンへの関心が高まり 45 年にはカナダとの国境が最終的に 決定した。 48 年には米墨戦争に勝っ てカリフォノレニア ューメキシコ アリゾナ地方を獲得し , 53 年にはさ らに鉄道用地のためガズデン J a me s G a d s de n ( 178 8 ~ 18 54 ) カヾメキシコ から南部国境地域の地を買収し , ーこにハワイ , アラスカを除く米大 陸 48 州の領上が完成した。また 48 年 メキシコとの和約が成立した直後 , カリフォルニアで砂金が発見され , 翌 49 年には世界各地からこの金を目 当てに 1 ( ) 万近い人がやってきて , い わゆる「ゴールド・ラッシュ」にな これによって太平洋岸はカリ った フォルニアを中心に急速に開けた ( / フロンチア ) 。西部の生活はアメ リカ人に各種の影響をケえた いわ ゆる開拓者精神 ( フロンチア・スピ リット ) が生まれたのも , 長いあい だ未開の辺境があったからであり , また一定の土地所有を選挙資格とし た東部諸州の制限選挙は , E 地が安 い西部では意味がなく , 西部では成 年男子による普通選挙が早くから行 なわれた。 1828 年の大統領選挙で , 西部からはヒめて , しかも丸木小屋 生まれのジャクソンが大統領に当選 したことは , 西部の農民をはしめ都 市の勤労者の支持によるものであっ このように大衆の声が政治に反 た 映しだしたのを「ジャクソンのデモ クラシー」という。それより前に「ジ ェフアソンのデモクラシー」とよば れるものがあるが , むしろこれは一 つの理想をあらわしているものであ る。すなわち , ジェフアソンは教養 のある中産自営農民を中心とする政 治を考え , それまでの少数有産有識 者による政治に反対したのであった 西部が太平洋岸までひろがり , 農業 社会として発展しているとき , 東部 では産業革命が進行していた。植民 地時代からニューイングランドや中 部植民地におこっていた製造工業は かなりの程度に発展していたが , 独 立によって英本国からうけた重商主 こうして英 義的制限がなくなった。 国同様にもめん工業を先頭として近 代工業がおこり , 保護関税 , 特許制 度 , ナポレオン戦争 , 1812 年戦争な どの影響で米国工業は急速にのびた 資本 , 労働 , 市場など不足していた ものも , それぞれ商業資本の転化 , 外国資本の輸人 , 労働節約機械の発 明や移民 , 国内市場の急速な拡大と ラテン・アメリカ諸国などの外国市 場開拓などによって解決されていき , 南北戦争前夜はまた産業革命完成の 前夜でもあった。そして南北戦争は
アメリカン 1 0 1 この原支に多少の修止を加えて満場 マー ( 1836 ~ 1910 ) , T. ェーキンズ ( 1844 ~ 1916 ) らが出るに及んでよう ⅱ : 言の内容は 一致これを可決した 三つよりなる。第 1 は自然権にもと やく本格的なアメリカ絵画が生まれ た。ライタ、、一の神秘的自然 , ホーマ づく政治理論で , 暴政が続くときは 政府を変革するもまたやむをえない ーの冒険的海洋画 , ェーキンズの記 録的描写 , いすれも開拓期の性格の との革命権の理論を展開する。第 2 一面をいきいきと現わしたものであ は暴政の実例として英国 E ジョージ 3 世の圧政を列挙する。第 3 は結語 る。一方これと並んでフランス印象 であって , 「この連合植民地は自由に 派の強い影響下に制作した M . カサ / ト ( 1845 ~ 1926 ) , ホイッスラーら して独立した国家であり , また当然 はむしろその西欧的手法によってよ にそうあるべきである」と宣言し , く知られてはいるが , いすれも米国 さらに独した連邦は当然に宣戦 , 講和 , 同盟 , 通商の条約を結ぶ完全 の自然に即した画家ではない。 っ の権利があることをのべ , したアメリカ絵画の二つの傾向はそ の支持のために生命 , 財産 , 名誉を の後もひきつがれ , 1913 年の「アー ささげることを誓うと結んでいる。 ー ( 兵器庫展 ) 」を契機 〔清水〕 として J. マリン ( 187 ( ) ~ 1953 ) らによ って西欧近代絵画が移入され , 一般 アメリカどくりっせんそうアメ 的に絵画が国際的になった時期にも , リカ独立戦争アメリカ独立革命と G. ウッド ( 1892 ~ 1942 ) , T. H. べント もいう。 1775 ~ 83 年アメリカ 13 十直民 ) のような地方色の濃い 地の英本国に対する独戦争をいう。 ン ( 1889 ~ 画家が根づよく残っていることは注 七年戦争 ( 1756 ~ 63 ) の結果英国は 目される。さらに産業資本の発達が 大植民地帝国になったが , 新大陸で 当然生みだした小市民の現実や , ひ も重商主義政策を強化して戦争の費 いては社会不安を反映して , J. スロ 用を植民地に分担させようとした。 これは植民地貿易に対する各純の課 ン ( 1871 ~ 1951 ) やくン・シャーン ) のような異色画家が生ま 税や制限となって現われた。 なかで ( 1898 ~ れたことも見落とせない。アメリカ も 1765 年の / 印紙条令をめぐる事件 は「代表なければ課税なし」と称し , 絵画の国際化は , 両次大戦に際して 植民地側が初めて実力行使によって 米国に移住または亡命したダダ , シ その実施を阻上した事件である 3 そ ュルレアリスムの芸術家たちによっ て急速に推進され , 世界的な前衛絵 の後 7 ( ) 年のポストン虐殺事件を経て アメリカンフットボール Ame ri- アメリカ独立宣言 17 76 年 6 月 , 独立宣言起 画の重要な拠点となった観があるが , 本国対植民地の関係は悪化し , つい 1874 年ごろアメリカ can football 草委員会が設けられ , の学生がポールを定でしか運べない そうした風潮自体が現代ではアメリ に東インド会社に茶の専売権をワ ( 図の中央 , 左から ) 力的需要の反映となりつつあるとも えて植民地商人を圧迫するにおよん サッカーと , 手に持って走ってもよ J. アダムズ , シャーマ で , 73 年「ポストンティ いえよう。 J. ポロック ( 1912 ~ 56 ) , いラグビーとを合わせて新しいフッ ノヾーー - 丁イ ン , リビングストン M . トビー ( 1890 ~ ) , M. グレープ ー」事件がおこった これに対し本 トボールの規則をつくったが , これ ジェフアソン , フラン がアメリカ独特の競技として発達し , 国が植民地強圧政策をとったので , ) , 日本から渡った岡田 ス ( 1910 ~ クリンカ ( 任命された 他の国でこれをアメリカン・フットボ 1775 年 4 月 19 日の武力衝突となった ) らも活躍している。 兼三 ( 190 ( ) ~ ールとよぶようになった。アメリカ 戦争はポストン郊外のレキシントン , 彫刻は絵画に比べるとはるかに遅 ではこれを単にフットボールといっ コンコードで始まり , 植民地側は最 れ , ようやく 2() 世紀にはいってから ているが , プロもあり野球に劣らぬ 初は苦戦したが , 司令官 G . ワシント ーナード ( 1863 ~ 1938 ) , J. エプ ンの名指揮のもとによく耐え , 77 年 はどの人気をあつめている。日本に スタイン ( 1880 ~ 1959 ) , R . リッポル のサラトがの戦いを転機として戦局 ) らの名があげられるか・ , は 1934 年立教大学教授 P. ラッシュ , ト ( 1915 ~ 体育主事 G. マーシャルの両氏を通し とくに第二次大戦後 , 可動彫刻 ( モ は好転した。その間 76 年に独立宣言 ビール ) を考案して室内空間を敏感 て早大 , 明大 , 立大に伝えられたの を発し , 78 年にはフランスと同盟し , が初めである。この競技は 1 チーム ) の 8 ( ) 年には欧州列国の武装中により にとらえた A . コルダー ( 1898 ~ 11 名すつで , だ円形のポールを奪い 機能性 , 装飾性がめだっ。工芸も 2 ( ) 助けられた。 81 年英将コーンウオリ 合いながら , 相手側陣地をおとしい スはヨークタウンで降伏して戦争は 世紀初頭以来のインダ、ストリアル・ アメリカン・フットボ ーノレノヾスされたポーー れることを争うもので , 試合時間は デザインの発達はめざましいものが 終わり , 83 年パリ条約によって独立 ルを持ち相手の守備陣 6 ( ) 分を 4 期にわけて行なう。得点は , は正式に承認され , あり , 第二次大戦後は C. ィームズ , こシシッピ川に を突破しようとするク この 球を相手側最後部の陣地 ( ェンド・ゾ G. ネルソンらの世界的工業デザイナ いたる地域をその領域とした オーーターーノくック。 / ヾス ーン ) で保持した場合をタッチ・タ、、ウ ーカ { 登場している。 1945 年には S. I. 戦争を機として植民地時代の封建的 たハーフノヾックはタ ンといって 6 点 , タッチ・ダウン後 な占い制度が廃止されたので市民革 D . (The Society of lndustrial ックルで倒されている 3 ャードライン上で許される 1 回の 命の一つともみられるのである。 Designers) カ { 設立されている。 〔塚本〕 〔清水〕 アメリカどくりっせんげんアメ アメリカやぎゅうアメリカ野牛 アメリカン・ノヾイソン , あるいは , リカ独立宣 1775 年 4 月から始ま アメリカでノヾッファロという巨大な ったアメリカ植民地と英本国との武 カ抗争は , アメリカの独立 , 米仏同 野生のウシ。北米大陸の % に群生し 盟の方向に進んだ。 1776 年 6 月 7 日 た。肉が美味で , 皮が良質のため盛 ノヾージニアの代表 R. H. リ んに捕獲されて , はとんど絶滅しか ー ( 1732 ~ 94 ) の提案にもとづき , 5 人の独立 けたが , その後保護されて増加しつ 宣言起草委員が任命され , その一人 , つある。牛の雄と交配したものは , ジェフアソンによって独立宣言は執 キャッタロとよばれ肉用に適する。 筆された。大陸会議は同年 7 月 4 日 , 〔黒田ネし〕 / 野牛 アメリカ独立戦争 1777 年 1 ( ) 月 17 日 , ゲーツのいる独軍はサ ラトがでイギリス軍を包囲し , 敵将バーゴイン以下を降伏させた
オリモノ 5 7 3 に複雑な組織が織られるようになっ 日本の織物を開発したことがく日本 た。紋織機の初歩のものは , 中国で 書紀 > にみえている。養蚕製糸の方 法も伝えられ , 奈良時代には , 錦 , 花機とよは、れ , 日本では空引機とい あや , うすぎぬ ( 羅 ) , 紗皐などの高級 われているもので , 複雑なたて糸の の絹織物に進歩し , 麻織物もいろい 開口装置をつけ , さらに機台の上に ろっくられた。奈良の正倉院に現存 助手か・いて開口動作を助けていたも するこれらの染め織物は , 織物史上 のである。これを機械イ匕したのが , 世界にもまれな貴重な資料である。 フランスの J. ジャカーノレによって 18 平安時代には絹織物はますます精巧 ( ) 1 年に発明されたジャカード機であ 優美のものか、つくられ , 華麗な衣服 る。すでに 1785 年には英国の E. カ トライトによって , 蒸気機関によ や装飾が貴族の間に用いられた。鎌 倉および室町時代には特別な発達も る動力で織るカ織機が発明され , 人 力による手機から飛躍し , さらに 18 なかったか、 , 豊臣秀吉は織物の復興 94 年に米国の J. ノースロップによっ をはかり , のちに有名になった西陣 て , 自動織機が発明されて以来 , 1 織物の基礎を開いた。桃山時代は一 人の工員が多数の織機を受け持っこ 般に豪華な織物や , めすらしい南蛮 とができるようになっている ( / 織機 ) 。 織物などによっていろどられた。江 〔織物の種類〕織物の種類ははなは 戸時代には , うちつづく平和によっ だ多く , 原料 , 組織 , カ日工 , 用途 , て染め織物はひしように発達し , 各 幅 , 産地などによって分類されてい 地の絹織物産地には , それぞれ特色 南米のアンデス地帯に栄えた先インカ文 る。原料繊維の種別によって , 綿織 ある絹織物が製造されるようになり , 化の織布。神像と鳥を組み合わせている 物 , 毛織物 ( 梳毛まう織物 , 紡毛織物 ) , 仙台平 , 米沢糸織 , 結城つむぎ , 絹織物 , レーヨン織物 , スフ織物 , 紗 ) などの精巧な織物が生まれ , 明 甲斐絹すい , 秩父太織 , 岐阜ちりめ 代には薄いしゆすや手工芸的なろ アセテート織物 , 合成繊維織物など ん , 西陣織 , 博多織など有名とな ( 絽 ) 刺しなどに特徴がみられる。な がある。近来は , これらの原料繊維 った。また麻織物としては , 越後上 お前記のように , インドでは古く綿 を単独で織物にするばかりでなく , 布 , 能登上布 , 野州さらし ( 晒 ) , 奈 織物が発達し , その技術は東南アジ 2 種あるいは 3 不重の繊維を混紡し交 良さらしなどがさかんになり , 特色 アの諸国に伝わり , ジャワさらさな 織して , 特殊の性状を与えた織物が ある和服地がつくられた。キワタは 多い。織物の組織別には , 平織物 , ど特色ある織物を生んだ。 江戸時代にはいって栽培か、ひろか、り , あや織物 , しゆす織物 , 重ね織物 , 〔日本の織物史〕静岡の登呂えの遺 これによる綿織物がしだいに発達し 添毛織物 , からみ織物 , 紋織物など て , 生もめん , 縞 , かすり , ちぢみ , 跡から出土した織物の破片は , いま があって組織による織物の性状の変 別珍 , コール天などが各地で糸設られ , から約 20 ( ) ( ) 年前 , 弥生ごよ式土器の時 化をあらわしている。織物を加工に ひろく一般の衣料 , 寝具 , 日用繊維 代のもので , 麻のような植物繊維で よって分類すると , 生織物 , 白生地 , 製品類として用いられたものである。 織った平織の布であり , 日本最古の 無地染め織物 , 縞織物 , かすり織物 , 織物遺物であろうという。大和朝 毛織物は , 江戸時代には外来のラシ プリント地 , ちぢみ織物 , 縮充織物 , 廷の国内統一の初期には , 楮をう布 , ャ , ラセイタ , ゴロフクレンなどか、 起毛織物など , いろいろのカ日工によ 麻布 , 宇布 , 葛布などや , 染色し 珍重されていたか、 , 明治以後になっ て , 主として外国からの原毛輸入に ってそれぞれ独特の性状をもった織 た縞鬘の倭文布のような織物が用 よって製造されるにいたっている。 物地がつくられている。また用途別 いられていた。中国との交渉か、始め 綿織物も , 明治以後は外国の輸入原 にみると , 着尺地 , 羽尺を地 , 洋服 られると , その進歩した織物と技術 綿によって紡織し , 大正昭和の各時 地 , 外とう地 , 裏地 , 心、地 , など , が伝来し , 応神天皇の時代に呉織は , 代を通して , 毛織物とともに世界有 漢織霊はとよばれた工人か・帰イ匕して , そのはか多くの用途に応した種類か、 ある。織物の幅の種別によっては , 数の紡織国となっている。 豊臣秀吉の陣羽織と伝えられる絹綴錦。 〔織機の発達〕織物は , たて糸を幾 小幅織物 , 並幅織物 , 広幅織物など 地は淡い黄色で , 一部分に金 , 銀のモー 本も並べたものに , よこ糸を 1 本す の区分もされている。また , 織物の ル糸を織った豪華なもの。織技 , キ莫様など 原産地の名称をつけた独特の織物の っ織りこんでつくるもので , その原 からベルシア産と認められ , 敷物として 種類がある。たとえば結城つむぎ , 則は古代から少しの変わりもない。 作られたのを陣羽織に用いたのであろう ただその道具や機械がしだいに発達 してきているだけである。最初はお そらくなんの道具もなしに よこ糸を組み合わせただけであった 0 ろう。織機の最も原始的なものは立 機で , たて糸をつるし下げて , よ こ糸を織りこんだものであろう。古 代キ、リシアやエジプトの絵などに残 っているもの , 現在の未開土人の間 に行なわれているものがそれを示し ている。立機は長い織物を織るのに 不便であり , 長い布を織るためには 水平にしかけた横機が考案された と考えられる。低文化民族の機織に はこの種のものが現在でも行なわれ ている。これが進歩すると , たて糸 を巻きつけておき , 残った部分を巻 きとるような機械となり , いざり機 , 高機へと発達して , 平織からしだい 兩不包 花機の図。中国明代末 の産業技術書く天工開 物〉 ( 1637 ) にみえる もの。日本の写本から 0
牛牛肉ご乳製品は動物性タンパクど脂肪の大事な栄養源 であるが , 米食偏重の日本の肉類や乳の摂取量は、米 国、英国の 5 % 程度であって栄養水準は低い酪農の おくれが大きな原因の一つでもある。広い山ろく地帯 の開放ど造成 , 酪農農家の長期保護育成ごいった , 本 質的な国土の体質改善が必要であろう 上運動に出ていくホルスタイン種の群れ。日本の酪 農の中心地北海道。下右高冷地農業の八ガ岳山ろく には、ジャージー種を中心どした酪農が発達した。山梨 県。下左ホルスタイン種の子牛に乳をやる岩手県
3 7 6 うめたうんびん梅田雲浜 1815 起こしやすく , 排水に不便であり , ~ 59 若狭誓か小浜藩十で , 幕末の尊 高潮や地震による被害も大きいので , 王攘夷派の志士。名を定明 , 通称 構造物は高く基礎を堅固につくらな 源次郎 , 雲浜は号。朱子学を学び , くてはならない。河川 , 海 , 岡沼の 1852 年藩政に関する建言が過ぎて浪 ような公共の水面を埋め立てる場合 , 公有水面埋立法による手続をとるこ 人となった。ペリーの来航以来 , 政 とか、必要になっている。 情混乱のうちで , おもに京都を中心、 〔坂上〕 うめのきごけ〔梅木苔〕ウメノ に改革派のひとりとして活躍し , 保 キゴケ科の葉状地衣の一種。日本で ( 雄 ) 守派の井伊直弼結の行なった / 安政 は松 , 梅などの古い樹皮 , 岩石 , 墓 の大獄に連座し , 江戸に護送され小 倉藩邸に幽囚中病没。 〔浅沼〕 石などに多く発生し , はとんど全裏 面で固着している。革質で大きくひ うめたて埋立て水面を埋めて 新たに陸地にすることを埋立てとい ろがり , 縁はなめらかで丸味のある う。すなわち水面に上砂などを捨て 裂片をもつ。表面は灰白色または淡 て , 陸地をつくる作業のことである。 灰緑色。中央部には細かい粉状の針 芽を密生する。まれに小さな杯状 , の中に群生する。それで天幕毛虫の 春分 , 秋分の満潮時の水面が陸岸の 赤かっ色の子器を散生することがあ 異名もある。終齢幼虫は体長 6 mm く 前面と交わる接線を水陸の境と定め , る。胞子はだ円形で無色。松 , 梅な らいで , 空色の地にだいだい色のす この線を通称埋立線といい この埋 しがある。成虫のガは 8 月ごろ羽化 立線より高い上地を陸地という。 どの老枝についたままのものか・いけ する。日本の各地に普通ながで , 欧 般に埋立地の高さは , 埋立線より 〔小林〕 花用にされる。 州 , 北米などにも分布する。 B H C 剤 , うめはらりゅうざぶろう梅原音 1.5 m から 2 m くらい高いのカ { 普通で D D T 剤で駆除する。 洋画家。京都に生 ある。この点 , 水面下の土地を排水し 三良 1888 ~ 〔長谷川〕 うめしゅ梅酒ウメの実を材料 てつくる / 干拓とは根本的に異なる。 まれ , 関西美術院で安井曽太郎とと とした甘ロの酒。焼酎覊に砂糖 ( 氷 もに浅井忠に学ぶ。 1908 年フランス 〔埋立ての目的〕港湾用地 , 工場敷 砂糖がよいとされるが , 普通の白砂 地 , 空港用地 , 耕地 , 宅地 , 道路敷 に渡り , とくにルノアールの影響を 糖でもよい ) を溶かし , これに青ウメ 地 , 鉄道用地などをうるためである うけた。 13 年帰国して個展で注目さ が , 最も多いのは , 港湾用地と工場 れたが , 翌年二科会創立に参加 , 18 を浸し , 浸透作用により酸味 ( 主とし 年まで同会に属した。 20 ~ 21 年再渡 てクエン酸 ) と香気を液汁にしみ出さ 敷地である。築港工事は港の造成上 せる。家庭での製法の 1 例を示せば , かならす埋立工事を伴うもので , 岸 欧して , 22 ~ 25 年は春陽会 , 翌年国 ウメの実 ( 色の変わる前の青い実 ) を 壁 , さん橋 , 荷揚げ場 , 倉庫などの 画創作協会に加わって洋画部を新設 , 洗ってよく水をきり , これを 1.5 kg ( 1 28 年同会解散後も洋画を中心に国画 港湾施設は埋立地につくられること 升 ) に白砂糖 60 ( ) g ( 1 斤 ) , 焼酎 (). 9 / 会と改称して指導的立場にあった が多い。また重工業地帯は工業用原 ( 5 合 ) , みりん ( ). 54 / ( 3 合 ) , 水 ( ). 18 / 東洋の伝統を生かした豪快で , 華麗 料の輸送に便利な個所を選定する必 ( 1 合 ) を加え , つは、か , びんの中に 要があり , とくに日本のように原料 な画風で知られる。 〔春川〕 の海外依存度の高い場合は , 港に隣 密閉し , ときどき動揺させていると 接するか , 直接荷揚げ施設をもっこ 1 ~ 2 カ月で梅酒になる。みりんは とが得策なので , 臨海地帯に工場敷 加えなくともよいが加えると風味を ます。つけたウメの実も食用にする。 地を求めることになり , これらの用 梅原竜三郎 ( 補 ) 1950 地は多く埋立てによってつくられる。 梅酒のアルコール分は 11 ~ 12 % であ 年国画会の名誉会員と 埋立地の計画をするには , 目的 , 地 る。夏季には氷水で割って飲む。 なった。 52 年文化勲章 形 , 工費 , 工期 , 施工方法 , 利用能 〔川島〕 を受賞。同年ベネチア 率などを考慮する必要がある。 うめだ梅田大阪市北区の国鉄 のビエンナーレには国 . 〔埋立ての方法〕 1 ) 陸地の上砂を掘 大阪駅の付近一帯をいい , もと曽根 際審査員として渡欧 , その後も渡欧して南フ 削運搬して埋め立てる方法と , 2 ) 水 1874 年梅田停車場 崎村に属した。 ランスのカンヌを中心、 面下の上砂を採取して上運船を用い ( 大阪駅 ) ができ , 現在は国鉄のはか , に製作した。また 57 年 て運搬するか , サンドボンプで水と 阪神電鉄 , 京阪神急行電鉄 , 地下鉄 , には , 1935 年 ( 当時は 一緒に土砂をパイプで流、して運び埋 市電 , トロリーバスなどが起点を置 帝国美術院 ) 以来の芸 め立てる方法があり , 後者が安価で く市交通の重要地で , 中央郵便局 , 術院会員を辞任した。 迅速で一般に用いられている。それ 北京 , 富士 , 浅間 , 桜 第一生命ビル , 阪神ビル , 阪急ビル 島などを精力的に描い ゆえ埋立てには , 遠浅で , 埋立てに などが建ち並び , その間を地下街が ている。 / ( 別刷 ) 美術 梅原竜三郎く浅間山 > 適した上砂が多量にあり , 干満の差 連絡する。都心、音にに向かって梅田新 うめほ、し梅干しウメの実を塩 道が通し , 商店 , 劇場が軒を並べ , が少なく , 波の小さい場所が適当で づけにしシソの葉を加えて紅色に発 ある。 近辺に北浜 , 堂島 , 中之島などの市 色させたつけ物で , 本づけの前に再 埋立地は地盤が悪く , 地盤沈下を の中枢部が続いている。 〔駒月 : 〕 三干すのでこの名がある。江戸末期 のく嬉遊笑覧 > によればはじめは塩 押しにして酸汁をとったあとのウメ の実をたくわえたものだが , やがて 料理用 , 製菓用に利用し , 次いでシ ソの葉を加えて紅色の色を出した ・ツト水 . と出ている。古来 , 貯蔵食品として 愛用され , また薬効があるとされた ・、・埋立三 梅干しの紅色は元来シソの葉にはア ントシアン類のシソニンという紫色 の色素を含有しているが , ウメの実 といっしょにつけるとその中のクエ ウメシュ オビカレハの成虫およ び幼虫 ( ウメケムシ ) オビカレハの成虫 オビカレハの幼虫 ウメノキゴケ 一土や砂 と・ろを送るパイプ 理立工事ますパイプ で泥を送って埋め立て , これに鉄パイプをおし こんで泥の中に砂の柱 をたて , この砂柱をつ うして排水を行なう かたい地盤
位」の原則で , 国防長官と三軍の長 官には軍人は任命されないことが注 目される。 63 年 1 ( ) 月末の推定兵力は 陸軍が常備軍 16 師団で総兵力 1 ( ) 8 万 , 海軍が在役艦艇 85 ( ) 隻で総兵力 66 万 , 空軍が第一線航空機約 2 万機で総兵 カ 88.5 万。はかに各軍とも核武装可 能の各種ミサイルをもっている。国 防費総額は 5()() 億ドルを越え , 歳出 総額の 6 ( ) % に達している。さらに 65 年 8 月の選抜徴兵法改正などによ リ 66 年中には三軍合計 298 万に増強 を予定している。米国は原爆 , 水爆 をもち , これらを運ぶ手段として長 距離爆撃機をもち , 中 , 長距離誘導 弾の開発に懸命になっている。 つ いう国防力強化のに台になっている のは , やはりソ連が武力によってそ の勢力を拡大しようとするのを阻止 するために , 米国は強力な軍事力に よってにらみをきかすという考え方 である。 62 年 1 ( ) 月のキューノヾ危機に おける強固な態度はその例である。 しかしベトナム紛争の現状から , れまでの N A T O にはしまった集団 的防衛努力という軍事中心の政策だ けではだめで , アジア , アフリカな どの後進国の心、をつかまねば共産主 義との戦いには勝てないという反省 なども生まれてきている。 〔社会〕米国民はよく働き , よく遊 よく働くのは , 米国民が建国以 来独力で辺境を開拓して , 今日の独 特のアメリカ文明をつくりあげた経 1789 ~ 1797 験が国民性を形づくっているからで 1797 ~ 1801 ある。米国民は , 努力して金をもう 1801 ~ 1809 ける人間を無条件に尊敬する。逆に 18 ( ) 9 ~ 1817 貧乏している人間をみると , それは 1817 ~ 1825 1825 ~ 1829 社会の責任ではなくて , 本人の怠惰 1829 ~ 1837 の結果であろうと考える。英国の労 1837 ~ 1841 働党のような , またフランスやイタ リアの共産党のような , 資本主義体 1841 ~ 1845 制そのものを否定する政党が米国で 1845 ~ 1849 1849 ~ 1850 うし、う 3 育たないーっの理由は , 1850 ~ 1853 国民の心理にある。米国民は 1 週の 1853 ~ 1857 うち 5 日間熱心、に働き , 上曜日と日 1857 ~ 1861 曜日はのんびりと遊ぶ。ドライプに 1861 ~ 1865 出かけたり , 芝居を見たりする。 7 1865 ~ 1869 月 4 日の独立記念日とか 5 月 31 日の 1869 ~ 1877 1877 ~ 1881 戦没将兵記念日などの祝日が日曜と 重なると , 祝賀を 1 日くりのべて 3 日の連休をとる。米国人は野球 , フ ットボールなどのスポーツを見るの が好きだ。テレビの普及も , 米国の 社会にはかりしれない影響を及ばし ている。米国人は交際にあたっては , 人みしりをしないはうだ。ちょっと 知合いになると , すぐに友人を自宅 に招待する。その点 , よほど親しく ならないと自分の家に人を招待しな い英国人やフランス人とはたいへん 9 3 諸州でとくにはなはだしい。南部で は黒人は , 黒人だけの居住地区に住 み , 黒人の子どもは黒人だけの学校 に通う。 / ヾスに乗れは、 , 白人は前の 方 , 黒人はあとの方と座席が差別さ こういう差別待遇に黒人は久 れた しい間甘んじてきたが , 第二次大戦 後黒人の自覚は急に高まってきた 黒人の多くが兵十として欧州 , アジ アに戦い , 軍隊では黒人に対する差 別待遇が廃止された。第二次大戦は 「民主主義のための戦争」であり , 黒人兵士たちは祖国に帰ったら , そ こに民主主義 , いいかえれば人種の 平等が実現されようと期待した。と ころが帰国してみると , 黒 / 、はやは り白人より一段下級の市民として扱 われているという現実にぶつかった これが第二次大戦後の米国南部に起 こった黒人別待遇反対運動の背景 である。黒人の地位向上のために活 動している全国的な団体は , 黒人地 位向上協会 ( N A A C p ) である。協 会は , 教育施設や交通機関で黒人を 差別するのは憲法違反であるという 法廷闘争を中心に戦った 1954 年の 最高裁判決は , こういう法廷闘争の 結果かちとられたものである。これ によって , 公共学校に黒人力ゞはいっ てくるのを拒むことは許されなくな った。黒人と白人の共学に続いて , 交通機関の座席差別撤廃運動が行な この運動のなかで最も注目 われた されたのは , 1955 ~ 56 年にアラノヾマ 州モントゴメリという人口 12 万ばか りの都市で行なわれたバス不乗運動 である。黒人席と白人席の差別撤廃 を要求して , 5 万の黒人がバス・ポ イコットという大衆運動を行なった。 これは黒人の問題が大衆運動という 形で米国社会に登場したという意味 で画期的な意義をもっていた 系列の運動は , 1960 年初めから南部 諸州で黒人学生の食堂すわりこみと いう形で展開された。南部の大衆食 堂が黒人の客に対して白人と同しサ ービスをしないことに対する抗議と して , 黒人学生が , 何時間も食堂に すわりこむという静かなデモを粘り ういう黒人の運動 強くつづけた の指導者となっているのは , 黒人の 牧師たちである。現在の米国の黒人 の運動は , N A A C p の法廷闘争や 啓蒙活動と , 牧師たちの指導する静 かな大衆運動の二本建てですすめら 17 世紀とともに会社組織による植民 体制が始められた。 16 ( ) 7 年ロンドン 会社 ( 通称バージニア会社 ) によるジ ェームズタウンの建設がこれであり , これが最初の恒久的植民地となった。 その目的は開拓 , 貿易の利 , 貴金属 の探求などにあった。ついで 2 ( ) 年に は , 信仰の自由と生活の改善を求め る / 清教徒によってプリマス植民地 これがニューイングラ が作られた。 ンド植民地の始まりである。その後 この地方には英本国を追われた清教 徒の移住が多く , それぞれの主張に よって , マサチューセッ , ロード アイランド , コネチカット , ハンプシャーの 4 本直民地ができた これらの地方は農業に好適ではない ので , 漁業 , 造船業 , 商業 , 釀造業 などで栄えた。中部植民地はニュー ヨーク , ノレノヾニア , デラウェアだカヾ , 月リの一 つはオランダとスエーデンの植民地 として出発し , あとの二つはクエー カー教徒のひらいた植民地である。 中部植民地は造船業 , 商業などのほ か , 穀物の生産地となった。南部に はノヾージニアのはか , メリーランド , ノース・カロライナ , サウス・カロ ライナ , ジョージアの 4 植民地が作 られたか、 , メリーランドか、カトリッ ク教徒の植民地 , ジョージアが南方 米国歴代大統領 アメリカガ アメリカ合衆国の社会 ( 補 ) 黒人の差別待遇 反対連動は 1962 年のミ シシッピ大学事件 , 63 年のノヾーミングハム騒 動と大学入学権をめぐ る問題にまで拡大し , ついに入学妨害中止の ため軍隊出動を大統領 カヾ命令するにいたった 63 年 8 月にはワシント ンで 2 ( ) 万人大行進が行 なわれ , 64 年 7 月には 新公民権法が発効する こととなった。その後 65 年にはセルマにおけ る流血事件を経て , 黒 人投票権を保障する公 民権法が成立し , 法律 上ははば完全な差別撤 廃が確認された。 運動を終始指導してき た黒人のキング牧師は 1964 年度ノーベル平和 賞を受賞している。 ジョンソン大統領は 黒人問題とともに一般 貧窮家駐救済と青少年 非行防止のための「豊 かなる社会」政策を推 進中である。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 IO 12 13 14 15 16 17 18 19 2 ( ) 21 22 24 25 27 28 29 3 ( ) 31 33 34 35 36 ワ J. J. ジ 名 シント アダム ジェフアソン シ、ノ ン・ロ ン ズ ン ャクソン Q. アダムズ ノヾン・ビューーレン W. H. ノ、リソン タ 丁 フ ピ プ リ グ ア イラ イラ イノレモ ア プノヲー ン - ゾノ シヨ冫 / 、ノ フン ク ア ス ン ン ン ト ズ ガーフィーノレド サ れている。 〔宮地〕 クリープランド 23 B. ノ、リソン クリー - プランド ( 再 ) リッジ ディング イ . ルソン フト 26 Th. ルーズベルト マッキンリ 合衆国の歴史 〔植民地時代〕 1498 年のカボット父 子による北米海岸の探検が , 英国が 新大陸に対して領上権を主張する根 拠となった。スペインは南方から現 在の米国の地へ探検の歩をすすめた が , 金銀を発見できないので退いた 英国は国内体制の整ったエリザベス 朝から新大陸経営にのり出したが , W. ローリの植民事業は失敗に終わり , タ ウ ク フ ちカ { う。 だカ { 米国人も , こと黒人問題となるとま こういう人みしりをしない ある。それは南北戦争で敗れた南部 るで人間が変わったようにがんこで 32 F. ルーズベルト トル -7 ン アイゼンノ、ワー ケネディ L. B. ジョンソン 在職期間 1841 1881 1929 ~ 1933 1923 ~ 1929 1921 ~ 1923 1913 ~ ・ 1921 1909 ~ 1913 1901 ~ 1909 1897 ~ 1901 1893 ~ 1897 1889 ~ 1893 1885 ~ 1889 1881 ~ 1885 1961 ~ 1963 1953 ~ 1961 1945 ~ 1953 1933 ~ 1945 1963 ~ 戸属 政党 フ フ 民共 民共 民共 民共 民 ホ 民 共 共 共 民 共 共 共 民 共 民 共 共 共 共 共 共 民 民 民 民 民 共 民 民 民 = 民主党 , 共 = 共和党 , 和党 , フ = フェデラリスト , ホ = ホイッグ 民共 = 民主共
オリンピッ 5 7 5 施す。また用途 , 取扱い上の便利な したがって織物の試験検査をして , 技はローマ帝国末期に廃止され , 異 オリンピア ( 補 ) 発掘 教の神殿としてゼ・ウス神殿も破壊さ は第二次大戦で中断し 品位を表示したり , 検査済の保証を どのために防水加工 , 防虫加工 , 防 ていたカ { , 1952 年以降 したりしている。日本工業規格 ( J I S ) 皺ぅ加工 , 防縮加工 , 防火加工など れ , 6 世紀には地震で上砂におおわ E. クンツェの指揮で再 を行なう場合がある。最近はウォッ のなかには , 織物類の規格が規定さ れた。 19 世紀キ、リシアの独立以来 , 開。スタジオンは現在 れていて , 輸出織物はこれによって シュ・アンド・ウェアカ日工 ( 洗たくし ドイツ政府の手などで発掘が行なわ 完全に発掘され当時の たままでアイロンかけの不要な加工 ) , 検査され , 合格品だけが輸出されて れ , 聖域 , 神殿 , その他の建造物 , 彫 状態に復元された。観 耐洗加工 ( 洗たくしやすい加工 ) , 除 いる。内需織物もこれに準して検査 刻 , 碑文などが出土した。 〔高橋〕 客席の発掘で , 多くの 青銅器 , 陶器 , 武器な 電加工 ( 静電気防止の加工 ) , 衛生加 され , 品質のよいものを市販するよ オリンピック Olympic オリン どが発見された。 工 ( 汗のにおいや水虫を防ぐ加工 ) な うにすすめられている。また最近は ピック競技は , 古代ギリシアの祭礼 どの特殊な加工も施されるようにな 繊維製品品質表示法が施行され , 繊 のさいオリンピアの丘で行なわれた 維の種類 , 混用率などを表示して , 宗教行事として発祥し , 4 年に 1 度 っている 〔織物の品質〕織物の品質は , 原料 繊維製品の取引や最終消費者の便宜 すっ催され , 記録にあらわれている をはかるように法制化されている。 だけでも 10 世紀半以上もの長期間っ 繊維の種類 , 紡織染色加工の程度な 生産者側でも , 新しい織物類には , づいた。ローマの支酉己によって禁止 どによって異なる。織物の形態上か その取扱法などを記入した下げ札を らみると , 長さ , 幅 , 厚さおよび重 されてからは , 19 世糸己になってフラ つけて , 消費者に品質を説明する手 量については , 織物の種類によって ンスの / クーーベノレタンの主唱により , 段を講している。 / ( 別刷 ) 織物 標準の定められているものか、ある。 国際的な体育競技の祭典として復興 ふつうに慣用されている長さ , 幅を し今日にいたっている。前者を古代 示すと , 表のようである。 おりもよう織模様織物組織に オリンピック , 後者を近代オリンピ 織物地として特色のある性能は , よって表わした模様。これに対して ックとよんでいる。 織り上がった織物に染料によって模 軽いわりに厚さの厚いことで , いい 古代オリンヒ。ック 様をつけるのを / 染め模様という。 第 1 回オリンピックは前 776 年 ( 884 織模様には , 生地模様と , 色糸応用 年説もある ) に行なわれたが , これ 模様とがある。生地模様は , 地組織 は以前から先住民族やイオニア人 , とちがった組織で模様を織り出した アカイア人に行なわれてきたものの もので , これを無地染め , または模 影響であり , そのころ毎年流行した 様染めにし , あるいは白生地のまま 悪疫封しのため , 守護神ゼウスの祭 精練仕上げして用いる。紋ちりめん , 典を盛大に行なったさいの奉納競技 紋羽二重 , 紋りんす , 紋しゆす , であった。古代オリンピックの会期 ダマスク , 紋ビロード , 紋しゅうた は , 夏至のあとの 2 度めか 3 度めの んなどのようなものである。つぎに 満月の日をはさむ 5 ~ 6 日間。競技 色糸応用の織模様には , 染色した糸 種目は最初の 13 回は短距離競走だけ だったが , しだいに増加して中距離 を用いて模様を織り出したもの , 染 色した糸と組織を組み合わせて複雑 競走 , やり投げ , 円盤投げ , 走り幅 とび , レスリング , ボクシング , / ヾ な模様を織り出したものなどがある。 ンクラチオン ( レスリングとボクシン 前者としては縞気絣す , 格子 ( チェ グをいっしょにしたような競技 ) , ック ) などで , たて糸 , よこ糸などの 紋織組織図 色糸の用い方によって織模様を出し 武装競走 , 戦車競走 , 五種競技 ( 走 かえると , 織物地の間に空気孔が含 たものである。後者は , 風通 , 紋 り幅とび , 円盤投げ , 短距離競走 , まれていて , ふくらみがあり , 弾力 御召 : し , どんす , 綴錦記ゴプラン , やり投ーナ , レスリング ) など 26 種に があることである。空気を含む量を 壁掛け ( タベストリー ) , 模様しゅう および , その中には少年だけの競技 やレスリングもあった。既婚の女子 含気量といい , ふつうの織物では 6 ( ) たんのような色彩模様を織り出した は競技を見ることも許されす , 女子 ~ 80 % くらいである。含気性のある ものである。 / 紋織物〔小川〕 の競技は 1 度も行なわれなかった。 ことは , 繊維の不伝熱性とともに オリンビア Olympia ギリシア 織物地の保温性に関係し , 含気量の オリンピアの競技場は長さ約 215m , の古地名で , ペロポンネソス半島北 幅約 3()m の長方形で , 短距離競走は 大きいものは , 保温力もすぐれてい 西部ェリス地方にある。ゼウスの神 る。また含気性のある結果として , この端から端までを走った。レスリ 域として古代ギリシアの宗教的中心 ングやボクシングもこの中で行なわ 一般に織物は通気性に富むものが多 をなし , その祭事である古代オリン い。織物地の吸水度は , 原料繊維の れ , 戦車競走も何回となく往復した ピック競技の開催地であった。三方 と思われる。周囲には約 5 万人の見 性質によって左右されるが , 織物地 を丘に囲まれ , アルフェイオス川が 物人を収容できる石造のスタンドが のなかに含まれる水分量は , その組 流れ , 風光が美しい。前 5 世紀半ば 織があらく空気孔の多いものほど大 あり , 夜間競技も行なわれた。参加 にゼウス神殿が建てられ , 宝庫や競 である。織物地のしなやかさ , かた 記念像なども作られた。競 資格は厳重で , 1 ) 純粋のギリシア人 技施設 , さは , 原料繊維や糸 , 織り方 , 仕上 げなどに左右される。柔軟で腰があ って弾力のある織物が , 上衣の衣料 として望ましいとされている。織物 地の強さは , 引っぱりの強さ , 引き 裂きの強さ , 摩擦の強さなどがあっ て , 耐久力に関係する。原料として は , 合繊類は一般に耐久性の大きい 織物をつくることカ { できる。 織物の品質を検査するためには , 綿スフ , 絹人絹 , 毛製品 , 化繊 , 麻 製品 , 織物染色などの検査協会がっ くられていて , それぞれ検査規定に 断面 重織の 毛よこ糸 地よこ糸 ↓ ↓ ↓ ↓ 〇 0 〇 0 〇 0 0 紗織 たて糸 ビロード織の上は織ったま まの構造 , 下は毛よこ糸を 切断した場合の構造を示す からみ織 ) 〇 0 〇 0 0 〇 0 0 ビロード織の断面 越絽
5 8 3 この時代の地層がまだ発見されてい フカズ , その後 , ジャウジカウとよ は、れていたことがある。 〔渡辺〕 オルスク Orsk ソ連 , ウラル山 脈南端にある工業都市。人口 199 ( ) ( ) ( ) ( 1964 ) 。オリ川とウラル川との合流 点にあって , 鉄道の要地でもある。 1735 年城さいとして創建され , 現在 , 地下資源を基礎に , ヤ金 , 機械製造 , 精油 ( 原油はグーリエフから送油管 で送られる ) を中心に発達している。 〔加藤〕 オー′レス′ヾイス allspice メキ シコ , 熱帯アメリカ , 西インド諸島 に産するフトモモ科の常緑樹ピメン トの未熟果実を乾燥して製した香辛 料の一種。ニッケイ , クロープ , ナ ツメグなどの香料が合併したような 風味があるのでオールスパイス ( 百 味コショウ ) といわれる。ジャマイ カ・ペノヾーともいう。外観は黒コシ ョウに似る。粒のままのと粉末にし たものとあり , 洋風料理に欠かせな ない。 / 地質時代 〔尾崎〕 ・オアレ′ヾニ Albany 米国 , ーヨーク州の主都。人口 129726 ( 19 60 ) 。 ューヨークの 23()km , ノ、 ドソン川上流西岸の商工業都市。東 部 13 州では最古の白人入植地の一つ で , 1614 年にオランダの交易場が置か れ , 24 年にはオランダ西インド会社 が築城して植民に着手 , ビーノヾーウ イックとよんだ。 64 年英蘭戦争の結 果ニューヨーク州が英領となるとと もに , オルバニーと改められた。独 立戦争のときの激戦地。 1897 年に州 の主都となった。毛皮交易とインデ ィアンとの交渉の歴史は占い。 1825 年工リー運河の開さく後 , 商業都市 オーレオマ の浮彫りより ) ス ( 前 5 世紀後半ころ エウリデイケ , ・、ノレメ 右からオルフエウス , として発展した。 〔石光〕 い香辛料である。 〔川島〕 オレフエウス Orpheus ギリシ アの伝説的音楽家 , 詩人。オルフェ ウス教の創設者。オイアグロスまた はアポロンの子でトラキアに生まれ た。アポロンから竪琴を授けられ , その歌には動物もききほれたという。 アルゴ船遠征隊に加わり , 音楽によ って皆を元気づけ , セイレンの島を 通る・ときには魔攵らと張り合ってよ りみごとに歌い , 無事に島の難所を 通らせた。妻エウリデイケの死にさ いしては , 連れ戻そうと地下界に下 り , 彼の奏する音楽に地下界のあら ゆるものは聞きはれ , 地下界の王ハ デスの心を動かし , 地上に出るまで はけっしてふりむかないという約束 で妻を連れ帰ることを許したが , 禁 を破り妻はたちまち地下界へと呼び 戻された。のち , 妻以外の女を愛さ なかったため , トラキアの女たちに 八つ裂きにされ , と竪琴は川をく だってレスポス島に着いた この島 にサッフォーらの歌人が輩出したの はこのためであるという。また首を 掘り返したところ血にまみれたまま なおも歌いつつ、けていたという別伝 もある。死後彼は「至福の島」で音 楽によって人を楽しませ , 竪琴は天 に登って星座となったといわれる。 彼の宗教詩をもとにした密教的な 霊魂の救済を述べたのがオルフエウ ス教である。前 7 / 6 世紀ごろアッチ 力に出現した。その不死の魂は輪 回い転生するが , オルフエウス教に よってのみ救われて天に帰るという 説はヒ。タゴラスやプラトンにも現わ オー′レポ′レ Aalborg デンマー ク , ュトランド半島先端部の中心都 市。人口 85800 ( 1960 ) 。リム峡湾にの ぞみ , 半島で最も古い町の一つであ り , 11 世紀初め以来ニシン漁と司教 居住地として栄えた。現在は農酪産 品の集散加工 , 造船 , セメント , 紡 織などの工業が活発である。対岸の ネレスンビとはクリスチャン 9 世浮 オルドス 0 rdos 中国 , 内モン ゴル自治区の黄河湾曲部にかこまれ , 北は陰山 , 西は賀蘭山山脈 , 南東は 長城にかこまれた中国名で河套とよ ばれる地域。ほは、イクチャオ自治区 に当たる。南部は標高 1500 rn で北に ゆくにつれて低く 1 ()()() m 以下となる 高原地帯。ほとんど乾燥した砂漠で あるが , 東部は雨量も多く , ウラン ムルン川 , 無定河などによって刻ま れた波状地を形成し , 草原をなす。 歴史的にもモンゴル族の豊かな牧場 地帯であったが , 18 ~ 19 世紀に漢族 の入植が多くなり , しだいに農耕地 に変わり , 現在では農牧交錯し , 漢 , 蒙両族雑居地になっている。土地の 流失 , 風砂の害があるので農耕には あまり適さない。南西部の低地は湖 や干しあがった湖底の連続地で , 天 然ソーダ ( 全国生産量の約 40 % ) , 塩 ( 鄂塩とよぶ ) が生産される。北部 は砂漠で起伏がはげしい。 〔横川〕 オルドビスきオルドビス紀古 生代のうち / カンプリア紀につぐ約 5 億年から 4.4 億年前までの時代をい う。その代表的な地層は英国のウェ ールズ地方に分布していて , 火山岩 も発達し , 巻員 , 二枚貝 , サンゴな どのほかフディシ ( 筆石 ) という浮遊 動物の化石を含み , / サンヨウチュ ウ ( 三葉虫 ) もたくさんみられる。ア ジア大陸では , カンプリア紀層につ づいて , オルドビス紀の厚い石灰質 の地層か、重なっている。この石灰岩 は分布が広く , 岩質の変化が少ない ので , その当時は , おだやかな海で あったと思われる。アジア , とくに 中国の中部から北では , フディシ類 カ { はとんどみられないで , 巻貝やア クチノセラスという頭足類が多い しかし朝鮮半島から中国にかけて , オルドビス紀の後半から / 石炭紀ま での上也層が欠けている。日本では , き橋で結はれる。 〔戸谷〕 オレミュッツ / オロモッ オ′レレアン (_)rléans フランス , ロアーノレ川中流 , / ヾリの南 12()km に ある都市。人口 84233 ( 1962 ) 。百年戦 争中 1428 ~ 29 年にかけて , 英国の占 領下にあったが , 一少女 / ジャンヌ・ ダルクの活躍によりフランスの手に 奪回したことは有名である。オルレ アン侯の居城としてこの地方の都で あったが , 15 世紀末この地方はフラ ンス王国に統合され , オルレアンも 一地方都市となった。機械工業や , 醸造 , 食品などの農産物加工を主と する小都市で , むしろオルレアンは ロアールの水運とパリから南下する 道路との交差点として軍事的要地と して重要性があった。オルレアンを めぐるソローニュは狩猟の好適地で あり , ウサキ、やハチみつなどの野趣 にとんだ料理はオルレアンの名物で ある。 〔寺田〕 オルロ O r u r 0 南米ボリビテの 西部にある都市。人口 86985 ( 1962 ) 。 ラバスの南方約 2()()km, 標高 370 ( ) m の高原にある。町の周辺にはスズ鉱 山が多く , ポリビアの主要な鉱山地 帯をなしており , 鉄道の中心地でも ある。かっては銀山地帯の中心地で れている。 〔高津〕 あった 〔町野〕 オー′レフス Aarhus デンマー ク , ュトランド半島部の中心都市。 人口 119568 ( 1960 ) 。東岸の同名の良 港湾にのぞみ , 農酪産品の集散加工 , 酒造 , 鋳造などが活発である。文化 施設も完備しているが , 数百年前の 町なみを外部および内部ともに再現 した野外博物館がめすらしく , また 1933 年開校の総合大学はコペンハー ゲン大学とともにこの国の学術中心 になっている。 〔戸谷〕 ーオー・レオ・マイ・シ・ン aureomycin 放線菌ストレプトミケス・アウレオ フアキエンスの培養液からとり出さ れる抗生物質。 1948 年米国のダカ・一 B. M . Duggar によって発見された 公定名はクロルテトラサイクリンで , オーレオマイシンは米国のレダリ 社の商品名である。金黄色の結品で , 塩酸塩またはカルシウム塩カヾ医療用 となる。各種のグラム陽性 , 陰性の 病原菌や病原性のリケッチア , 大型
4 9 6 方に中小企業団地 , 岸和田 , 忠岡 建立し , 証如の時 , 京都山科本願 寺が日蓮宗徒に焼き打ちされ , この に木材コンビナートなど工業団地計 画が進められ , これに応じて中央環 地が本山となるにおよんで , いわゆ る寺内要い町としての体裁を整えた。 状道路 ( 茨木 ~ 八尾 ) や大阪市内の高 大伽藍蹶を中心とする方 8 町は堀と 速道路 , 地下鉄の建設が進行してい 障壁で囲まれ , そのまわりに 2 ( ) ()() 軒 る。兵庫県伊丹市に大阪国際空港 , 以上の人家が建ち , 各地の商人が集 八尾市に民間商業用の空港がある。 まって宗教都市としてにぎわった 大阪市を中心に府内とその近辺に のち戦国時代になって , 全国統一を はリクリエーション地が発達してい めざす織田信長はこの地の重要性に る。 / 宝塚 , 箕面 , 服部髱緑地 , 甲 着目して本願寺攻略にかかり , 11 年 子園 , 仁川 , 枚方パーク , / 生駒山 , 間におよぶ戦乱ののち 158 ( ) 年に和議 河内長野 , 狭山池 , 浜寺 , 岬などの なって , その手中に帰した 行楽地がおもに私鉄によって経営さ このと き市街は徹底的に壊滅された。のち れ , これらに史跡名勝が結びついて いる。すなわち北部では箕面滝の箕 に豊臣秀吉が支配し , 彼は広大な大 阪城を築造し , 町の経営にあたった 面公園 , 能勢妙見 , 北摂の摂津耶馬 が , / 大阪の陣で豊臣氏が滅びたの 渓 , 水無瀬宮 , 桜井駅跡 , 天王山 , 高速道路が通しる大阪 ち , 大阪は徳川氏の手中に収められ 紡を基礎とし , 1870 年の堺紡績 , 92 淀川左岸には成田不動 , 生駒山遊園 市中之島付近。手前は 1619 年江戸幕府の直轄地となり , 地 , 生駒聖天 , 枚岡梅林 , 野崎観音 , 大江橋で , 右手の建物 年の岸和田紡績によって近代的工業 た。 は大阪市庁である 大阪城代の統治のもとに一大発展を 信貴山毘沙門天があり , 南河内の古 化のロ火をきった。現在生産は地域 墳群 , / 金剛山 , その中腹にある千 とげた。寛文 ~ 元禄年間 ( 1661 ~ 17 的に分化し , 堺は緞通 , 泉大津は毛 (4), 河村端賢瑟の航路改良や淀川 早城 , 中世の修験道の霊場転法輪寺 , 織りと綿毛布 , 岸和田と貝塚は紡績 , 観心寺などがあり , 泉州では浜寺公 泉佐野は内需向けタオルをそれぞれ の治水工事によって諸回船が就航し , 園 , 淡輪遊園地 , 羽衣 , 助松などの また市内に上荷船に , 市内と京 , 伏 特色とし , 農村部でも細布 , かなきん , 海水浴場などがある。なお府内には 見を結ぶ過書船会 t% よ , 大和川に剣先 ネル生地などの織物が盛んである。 国立 3 大学のほか , 公私立の大学 16 船などが就航してすこぶる便利 また南河内では富田林をの竹すだ よく , 諸藩の回米や西日本の商品が をはしめとして , 総数 2() におよぶ図 れ , グラスポールの生産が輸出用雑 書館がある。 大阪に集まり , 売り払われ , 天下の 〔小林〕 貨として注目され , その他在来工業 貨物の 7 割はここに集まるといわれ おうさか大阪〔市〕大阪府の中 として千早 , 石川の高野どうふ , 北 た。回米を取り扱う蔵屋敷続きが中 摂の寒天がある。工業の総生産額に 央 , 大阪湾に面する日本第二の大都 之島付近に林立し , そこを中心に 対する 1963 年の割合は繊維 ( 13.5 % ) , 市。淀川河口の三角り、 l'l 上に位置し , 堂島の米市場 , 天満の青物市場 , 電気機器 ( 11.7 % ) , 機械 ( 10.2 % ) , 周辺を尼崎 , 豊中 , 吹田 , 守口 , 雑喉場の魚市場などがあり , 「天 以下 , 化学 , 鉄鋼 , 金属の順で , 最 布施 , 八尾 , 堺こかなどの衛星都市 群がとりまく。大阪府庁の所在地で 近では繊維の割合が低下し , 弱電関 下の台所」の名をうたわれた。町は あり , ひろく西日本の経済 , 交通 , 係が増大している。地域的には羽曳 東 , 西 ( 江戸は北 , 南 ) の両町奉行 文化の中心をなし , 中でも経済の面 のもと , 本町筋を境に北組と南組 , 野 , 寝屋川 , 富田林など外縁都市で では日本の商圏を東京と二分してい 淀川以北の天満の大阪三郷からなっ 工業が発展している。現在 , 堺 , 大 ていた。人口は元禄 ( 1688 ~ 1704 ) こ る。 1889 年市制。面積は 186. 5km2 で 阪南港 , 泉北 , 貝塚に , 2497 万 m2 に 大阪府の約川 % , 人口は 3156222 ( 19 ろ 35 万 , 享保 ( 1716 ~ 36 ) ごろ 4 ( ) 万で , およぶ臨海工業用地の造成と港湾整 65 ) で , 府全体の 47.4 % である。し 以後はば 40 万前後だった。幕末から 備が行なわれ , 堺地区では石油化学 , 明治初年にかけて , 大阪は一時危機 かし , 戦前の最盛時 325 万人までに 鉄鋼の工場が稼動している。 にみまわれたが , 1874 年に鉄道が開 〔都市・交通〕大阪府は第二次大戦 は現在なお回復していない。戦災で 通し , 85 年ごろから軽工業 , とりわ 市域の約 % が焼失し , 1945 年当時に 前から市の数も日本一だったが , 戦 け紡績業がおこり , 銀行 , 鉄道 , 紡 は人口も 110 万にまで減少した。市 後も大阪市を中心に都市群を形成し , 績を中心とする近代都市として再び 総数 27 , 人口 1 ( ) 万以上の市も 1 ( ) を数 内は東淀川 , 西淀川 , 旭 , 城東 , 都 〔浅沼〕 繁栄をみた。 島 , 大淀 , 北 , 福島 , 此花 , 港 , 西 , え , 近畿圏の中核になっている。国 〔産業〕市の有業人口の産業別構成 鉄は東海道新幹線 , 東海道線のほか , 東 , 南 , 浪速 , 天王寺 , 東成 , 生野 , は製造業か 38.3 % で首位 , 卸売りお 片町線 , 関西線 , 阪和線が通し , 東 大正 , 西成 , 阿倍野 , 住吉 , 東住吉 よび小売業 , サービス業がこれに続 京より早く明治末から発達した私鉄 の 22 区に分かれる。 き 3 業種で全体の 8 ( ) % 以上を占める。 〔沿革〕古代には「なにわ ( 難波 , 浪 網も大阪市から放射状にのび , 阪神 すなわち大阪は商工業の都市であり , 電鉄の本線 , 国道線 , 京阪神急行の 速 , 浪華 ) 」 , 石山本願寺の本拠地だ 農林水産の第一次産業従事者はわす ったころ「おさか ( 小坂 ) 」といい 神戸線 , 宝塚線が兵庫と , 京阪神急 か 1.1 万人にすぎない。第二次大戦 行の京都線 , 千里山線 , 京阪電鉄京 江戸時代には「大坂」の字を一般に 阪線が京都と , 近畿日本鉄道の奈良 後多くの都市が町村合併による市域 用い , 「おおざか」と濁っていったら 拡張にともない第一次産業の比率を 線 , 本線 , 南大阪線が奈良県と , 南 しい。前面に海をひかえ古代から交 通の要地として発展し , 大和 : ま朝廷 高めたのと比べ趣を異にしている。 海電鉄の本線 , 高野線が和歌山県と また , 東京と比べサービス業などの それぞれ連絡している。これら私鉄 の外港であると同時にしばしばこ 第三次産業の比率が低く , 産業全体 の起点は大阪市内のターミナルで国 に遷都され , 遣隋使し , 遣唐使など に中小企業的色彩が強い。市域の最 電大阪環状線と地下鉄に連絡する。 大陸との交通はここを起点とするほ も外部は工業地区で阪神工業地帯の ど重要な地であった。平安時代には また , / 名神高速道路が通じている。 中核をなす。工場数 2873 ( ) , 従事者 私鉄は郊外住宅地を経営し多くの住 京都の外港として淀川の河口付近が 数 596523 人 ( 1963 ) で , 東京都につぎ 栄えたが , 鎌倉時代 , 南北朝時代に 宅団地を発達させたが , 府ではさら 日本第 2 の地位をしめ , 「東洋のマ は , 交通の要地であるため , 戦乱の に , 千里山丘陵に 3 万戸 15 万人の , ンチェスター」とも称される。工業 地となることが多かった。室町時代 泉北丘陵に 4.5 ・万戸 18 万人の大規模 区ははは、北部 , 東部 , 西部に分かれ , 後半の 1496 年に一向宗の蓮如が石 = タウンを造成中で , 千里山 よ、ニュ 北部と東部は比較的零細な工場が多 山 ( のちの大阪城の地 ) に石山御坊を 団地ははは、完成した。 このはか , 枚 オウサカ 口下れ T 第
オシャマン 5 2 5 層から成り , 先端に近い咒山の標高 が集まって球状となり , 花後にさや 445m が最高。沈水型の山地で典型 を結んで 3 個の種子ができる。 こ一よ 的なリアス式海岸をなす。付近には れ種子は翌年自然によくはえる。 金華山島や網地島 , 田代島など多 〔浅山〕 くの小島が散在する。遠洋漁業の漁 おしどり〔鴛鴦〕がンカモ科の 港として女川町 , 牡鹿町 , 石巻市荻 鳥。小形のカモで東アジア特産。ウ 浜・のがあり計鹿町は捕鯨業の根拠 スリー , 樺太 , 朝鮮 , 中国北東部 , 地でもある。その他の湾もそれぞれ 日本 , 琉球 , 台湾に分布する。日本 漁村を有し , 波の静かな西岸ではコ の北部では留鳥であるが , また大陸 ウナゴ , 餌まイワシなど , 東岸ではマ から渡ってくるのもあり , 東京以西 グロやプリの定置網漁業を営む。ア の地では留鳥と冬鳥とがましってい ワビ , テングサ , ワカメの磯漁業も る。雄の冬羽はみごとで , とくに目 行なわれ , 万国浦ではカキの養殖が をひくのは翼の風切羽の後列のもの 盛んで , 種ガ、キの特産がある。半島 の 1 対が幅ひろく上方に立ち , いち 内部ははとんどが松林で , 畑は集落 よう羽 , つるぎ羽 , おもい羽などの 付近に点在するだけ。半島全体が県 名でよばれるものになっていること 立公園に指定されている。〔勝俣〕 である。ところが夏の羽はいちょう ぶ津軽海峡海底トンネルが計画中で おしかわしゅんろう押川春浪 羽を失ってみすは、らしく , わすかに ある。 おじや小千谷〔市〕新潟県中部 1877 ~ 1914 明治時代の作家。名は くちばしが赤く頭の色の濃いことに の平野にある都市。人口 4737 7 ( 1965 ) 。 方存。キリスト教牧師押川方義の子。 よって雌と区別がっく。繁殖期は 4 1954 年市制。信濃川にのぞみ , 上越 ~ 7 月で水辺 , 森の中などで , 大木 東京専門学校卒業。巌谷小波の 線の駅は右岸に , 市街地は左岸段丘 の幹の高いところにできた穴を利用 推薦で発表した冒険小説く海底軍艦〉 上にある。特産 / 小千谷ちぢみで知 ( 1899 ) で名をあげ , 日露戦争前後の 花 して巣をつくる。卵は 10 個内外。か られる機業地で , 北魚沼地方事務所 国家主義の波にのりく武侠懿の世界〉 えったひなは高所からとびおり , ノヾ があって北魚沼と古志郡地方の行政 , く新日本島 > など勇壮な冒険小説で ウンドして地上にころがるが , それ 経済上の中心、となっている。江戸時 青少年こ親しまれた。 19 ( ) 4 年博文館 でもなんら傷害を受けすにやがて水 代は三国街道の宿場で , 信濃川の河 に入社 , 雑誌く冒険世界 > を主宰 , にはいる。「鴛鴦齲の契ド」などと . 港としても栄えた。付近農村ではコ のち退社しく武侠世界〉を創刊した。 いうが , オシドリは同科のがン , カ イの養殖が行なわれ , 春秋は娯楽と モ類と同じく 1 雄 1 雌で , どちらか 〔広末〕 して闘牛が盛んである。小千谷ちぢ が命を失うまで関係を堅持するよう おしき折敷薄板に低い縁を折 豆果 / みは冬ごもりの手機で織られ , 近年 である。元来 , 鴛は雄で鴦は雌であ り回したもので , 料理を盛って出す しだいに袞えたが , 麻布類はいまも ったが , 日本では 2 字で一つの種類 器。古くは平常にも , また儀式や饗 宴うのときに用いられたが , 近時 , をさす。 / ( 別刷 ) 鳥類 市の主要な産物である。船岡公園 , 〔高島〕 小千谷スキー場がある。 〔千葉〕 懐石の敷きせんに多く用いられるの おじゃちじみ小千谷縮新潟県 で懐石ぜんの名もある。平安時代に 小千谷市を中心として織りだされる は浅香 , 沈シタン , また白や青 麻ちぢみで越後ちぢみともいう。 の胡粉えふ地に花鳥などを描いた絵折 の地方は古くから麻布が織られてい 敷もあった。もつばらわびを旨とす たが , 寛文年間 ( 1661 ~ 73 ) に明石を る懐石に折敷を用いるようになった の浪人堀次郎が明石ちぢみの手法を のは托鉢僧が食事どきに食器をの とり入れて作りだしたと伝えられる。 せるために常時所持している油単 本来は手紡ぎのチョマをたてよこと から往時の茶人がヒントを得たとも もに用いてちぢみ織りにしたもので , 考えられる。形により種々の名称が さらすのに寒中に雪の上に野ざらし おしまはんとう渡島半島北海 あるが , 3 寸四方 ( 1 寸 = 3. () 3cm ) の ( 雪ざらし ) を行なう。純粋に伝統を 道南西部の半島で , 石狩 , 勇払低 ものを小角えく , 5 寸四方のものを中 伝えるものは越後上布小千谷縮の名 角う , 8 寸四方を大角という。ま 地より南の部分をいう。北海道胴体 で重要無形文化財の指定を受けてい 部とは異なり , 地形 , 地質的にも植 た桟脚 , 粒脚などのついたものを る。最近はラミーなどの紡績糸を用 脚打ちといい , 四すみを切ったもの 物的にも東北地方の延長にあたり , いて大帚生産され , 夏の着物地とさ クリ , スキ、の自然林の北限は小樽莞る このはか円形 , 半 を平折敷という。 れている。 / ちしみ ( 縮 ) 〔赤岡〕 月形 , 胴張り , 妻形など趣向をこら 付近である。山がちで平野に乏しく , おしやまんべ・長万部〔町〕北海 第三紀層上に那須火山帯に属する狩 したものもあり , 塗物技術の発達に 道南西部渡島ま支庁管内の町。人口 場山 ( 1520m ) , 駒ヵ・岳 ( 1140m ) など ともない高度の美術品までが現われ の火山がそびえ , 頸こ部には羊蹄轗 るようになった 〔柳原〕 山 ( 1893m ) , 恵庭岳 ( 1320m ) , 積丹 おじぎそうネムリグサともいう。 しやこ阜 ( 1255m ) などの火山が集まる。 プラジル原産のマメ科の多年草。日 たんし」 温泉 , 湖沼が多く , 本州と同しよう 本では春まき一年草としてはち植え , な小規模な景勝地に富む。北海道で または花壇に載培される。葉は羽状 最初に開発され , 松前城跡など史跡 複葉の小葉が 4 片手のひら状につい も多い。小樽 , 江差 , 余市などの漁 ている。葉にふれると・小葉がしだい 業中心地をはじめ沿岸に漁村が多く , に内側に折りたたみ , 手のひら状に イカ , イワシ , タラを漁獲し , かっ なっているつけ根と葉柄の部分で折 れる運動を起こす。これは葉の各関 てはニシン漁が盛んであった。南音に の小平野には 187 ( ) 年以来稲作が導入 節における細胞の膨圧の変化による ものである。栽培には土質を選ばす され , またリンゴ , サクランポを産 するが , 半島内陸の開発は遅れてい 育てられるカ { , 排水と日当りのよい る。白神崎と津軽半島竜飛まっ崎を結 ことが必要である。花は腋生し小花 0 ををルリ ニ・ 小 T ・谷ちぢみの雪ざらし 0 花 オジギソウ 雄 折敷の種類左上は大 角 , 右上は円形 , 左下は 半月形 , 右下は胴張リ