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1. 国民百科事典1

ィのくリゴレット、。中央リゴレットは最近なくなったい 960 年 2 月 4 上左円 57 ~ 58 年のメトロホリタン・オペラにおけるブッチーニの 日 ) アメリカの / 、リトン歌手レナード・ウォーレン。下円 55 ~ 56 年 く蝶々夫人 ) 第 2 幕蝶々夫人はイタリアのソプラノ歌手アントニエ ミラ / ・スカラ座におけるレオン・カ / ヾルロの ( 道イヒ師ンのフィナーレ ッタ・ステノレラ、 . - ヒ : も円 53 ~ 54 年ミラノ・スカラ . 座における・べノレテ・

2. 国民百科事典1

ンべ一地方にわすかしかいないが タター財閥をはしめ , 財界の大物が この教徒の出であるため重視されて いる。 〔政治〕 195 ( ) 年 1 月 26 日に公布され , 本文 395 条 , 付表 8 からなる世界最 長文の憲法によって , インドの政治 機構は連邦制と定まり , 中央と地方 との間には所管事項が分かたれてい る。中央は国防 , 外交 , 運輸通信 通貨 , 羽ヨは司法 , 行政 , 保健 , 土地 , 教育などの立法権をもつ。中央の議 会は . ーにド両院からなり , 上院は定員 25 ( ) 人以 ~ ド , 下院は 5 ( ) ( ) 人以下。予算 関係法案は下院の議決が優先し , 上 院はこれを妨げることはできない。 上院は 2 年ごとに髫を改選し , 任期 6 年 , 解散はない。下院は任期 5 年 で 21 歳以上の男女による普通選挙で 選ばれる。独後 3 回の総選挙が行 なわれ , いすれも国民会議派が圧倒 的多数を占め故ネール首相のもとに 国民会議派の政治が続いてきた。元 首は大統領で , 中央の両院と各州 - ド 院議員からなる選挙人団の間接選挙 で選ばれ , 任期 5 年。首相は大統領 によって任命され , 閣僚と連帯して 中央議会下院に責任を負う。地方行 政は , 独立直後 55 ( ) 余の藩王国統合 を行ない , A B C D の 4 クラスの 28 り、 l•l ー語の不統一 , 大 組織であったが , 小のふぞろいなどまったく間に合わ せ的であったため , 56 年言語を主と して 14 州 6 中央直轄地に再編成した。 この過程で約 1 年近くインド各地に 暴動と混乱が続き , 地方主義の弊害 が表面化した。のちポンべー州は 6() 年 5 月グジャラチ語のグジャラト屮日 とマラチ語のマハラシュトラ州に分 かれ , 63 年末ナガランドが州に昇格 したため現在は 16 州 1() 直轄地になっ た。各州は大統領の任命する知事の 下に , 州首相以下 , 閣僚が行政を担 当 , 二院または一院の州議会で , り・ l•l の立法を行なう。州議会もおおむね 国民会議派が多数を占めているが , 57 年の第 2 回総選挙に , ケララ州で 共産党が第一党になり , 左派の無所 属議員を加えて , インドで初めて共 産党の州政府を組織した。そして憲 法のわく内で共産党の主張を盛り込 んだ改革を行なったが , ついに 1959 年 6 月与野党の対立は暴動化し , 7 月末州政府は解散され , 大統領の直 接統治となった。その後 6 ( ) 年 2 月の 州議会選挙では反共統一戦線が勝ち , 65 年 2 月の選挙では左派共産党の根 強さを示した。大統領直轄地は , 首 都地区デリーを除けば , おくれた辺 境地区で , 大統領が弁務官または州 知事を通にて直接統治している。 政党は / 国民会議派が圧倒的に優 勢で , これに次いでは - 共産党 , 人民 社会党があり , 右翼のコミュナル ( 宗 派主義 ) 政党としてジャンサン党 , 保守新党として 1959 年にできたスワ 3 1 1 タントラ党などが有力である。国民 会議派は独立以来すっと政権を担当 し , ガンジーを継いだ故ネール首相 ( 1965 死去 ) の下で対外的には中立主 義をとり , 対内的には社会主義型社 会の建設を目標とした五カ年計画を 進めてきた。共産党は 1924 年結成さ れ , 42 年合法政党としての活動を始 めた。全印労働組合会議 , 全印農民 組合 , 全印学生連合などを勢力下に もち , 57 年の第 2 回総選挙で党勢を 大いに拡張した。 62 年秋に中印紛争 が起こるとともに , 中国は侵略者か をめぐって左右両派に分裂した。左 派は 64 年末に大弾圧され指導者多数 が逮捕された。人民社会党は , 1934 年会議派内に生まれた会議派社会党 が , 独立後会議派から分離 , 第 1 次 総選挙後の 52 年 , 勤労人民党と合併 してできた。国民会議派が社会主義 的政策をとなえているため , 特色を 出しにくく , 64 年春アソカ・メータ 派が脱党して国民会議派に合流した ジャンサン党は 19 51 年結成されたヒ ンズー教の優位を主張する極右政党 だが , 多くのコミュナル政党中ただ ーっ全国政党として認められている。 スワタントラ党は , もと国民会議派 の右派に属した人々が中心で , 会議 派の急進的な社会主義政策に反対し て , 59 年 8 月結成した保守政党。個 人の自由 , 企業の自由を強調する。 外交政策の面では , インドは故ネ ール首相の平和五原則を基礎に中立 主義を堅持している。しかし平和五 原則を共同声明した相手国の中国と は , 1959 年秋国境紛争が悪化し , 62 年ついに武力衝突した。さらに独立 とともにカシミール帰属を争ってき たパキスタンが 63 年中国に接近した 結果 , 印パ関係も危険化し , 65 年戦 火を交えるにいたった 〔経済〕インドの経済は , 英国の支 配下に英本国に原料を供給し , 工業 製品を輸入する植民地経済であった が , 19 世紀の後半以来 , 緩慢ながら 綿 , 黄麻の繊維工業が発展し , 20 世 紀にはいってからは 2 度の世界大戦 をへて鉄鋼業を中核として , 重化学 工業も成長してきた。独立当時のイ ンドは , 世界的な規模の綿業 , 黄麻 産業に , かなり発達した製鉄 , 製糖 をもち , 工業生産額だけでみれば , 世界の八大業国の一つに数えられ るほどであったが , 全体としてみれ ば , 依然圧倒的な農業国で ( 当時の農 業人口は 75 % ) , 国民所得の半ばは農 業が占めていた。したがって独立当 時から指導者の願いは工業化にあっ た。ところが , パキスタンの独立で 重要な農業地帯がパキスタンにはい ィたため , 食糧と工業用原料の生産 は減少し、独立直後のインドは深刻 な食糧不足に悩まされてきた。 Ⅱ ) 億 ルピーをこえる食糧輸入に加えて , パキスタンとの分割による難民の受 け入れ , 藩王国統合などで , 政治的 にも経済的にも忙殺され , 工業化に 乗りだすことができなかった。 した独立後の諸事態が一段落して , 第 1 次五カ年計画が実施されたのは 1951 年からである。第 1 次五カ年計 画 ( 19 51 ~ 56 ) は農業中心で , 第 2 次計画以後の工業化の基礎づくりと いった意味をもっていたが , これが 予想以上の好成績 ( 総目標額 237.8 億 ルピーに対し , 実績額 2 ( ) 1.3 億ルピ ー ) で完了したことは , インド政府の 計画に対する自信と期待を強めるこ とになり , 56 年 4 月からの第 2 次五 ヵ年計画は工業建設にいちだんと比 重を加えた。しかしその秋に発生し たスェズ動乱で輸入品価格および農 産物価格の騰貴と外貨不足のため経 済情勢は悪化し , 第 2 次五カ年計画 は大幅の削減 ( 当初総目標額 48 ( ) 億 ルピーが 45 ( ) 億ルピーとなる ) を余 儀なくされた ーで人口の著しい 増加に対する農業生産の不足があら ためて痛感され , 61 年からの第 3 次 五カ年計画では農工並進の線が打ち 出された。すなわち最終案によれば 第 3 次五カ年計画の純投資は公共部 門 63 ( ) 億ルピー , 民間部門 41 ( ) 億ルピ 計 1 ( ) 40 億ルピーとなっており , この五カ年計画による経済建設でと くに注目すべきことは , 1 ) 重要産業 の建設は , 国家が中心になって , 国 有国営で行なおうという社会主義型 社会の方式 , 公共部門優先と , 2 ) 米 国とソ連を二つの極にして , 西欧諸 国と共産諸国がインドに行なってい る援助競争の激化が予想されること である。 1961 ~ 62 年の国民所得の構成は農 林漁業 47 % , 鉱工業 19 % , 商業運輸 業 17 % , ほか 17 % で , きわだった変 化はみせていないが , 工業化の基礎 はできたといえよう。貿易の相手国 としては英国が従来第 1 位を占めて いたが , 資本財輸入の膨張と食糧輸 入の増加で , 輸入においては米国が 1959 年に英国を抜いて第 1 位になっ た。慢性的な輸入超過であり , この 貿易尻 % の赤字 ( 32 億ルピー 1963 ~ 64 ) が , 外貨不足の原因でもあるの で輸出促進に努力しているが , 外貨 の不足は 57 ~ 58 年度以降悪化の一途 である。インドの主要輸出品は , 茶 , 黄麻製品 , 綿製品 , 鉱産物で , 主要 輸入品は , 機械 , 鉄鋼 , 石汕製品 , 運輸資材 . 食糧などである。 〔社会〕インドの社会構造の基礎に なってきたものは , / カスト制度 , 大家族制度 ( 共同家族制度 ) , 農村自 給体制 ( 自治的な村落共同体 ) の三つ であったが , これらはインド社会の 停滞性を決定づける要因でもあった。 このうち農村自給体制は , 英国支配 のもとでいち早くくすれだしたが , 逆にカスト制度は強化される傾きが あった。インドの独立以来 , カスト インド インド共和国の大統 領はラダクリシュナン ( 1888 ~ ) で , 1962 年 5 月就任 , 任期 5 年。 首相は 64 年 5 月のネー ル死去後シャストリ ( 64 年 6 月就任 ) であったが , タシケント宣言に署名 した直後急死し , 66 年 1 月からインデイラ・ ガンジー ( ネールの娘 ) にかわった。 インド共和国の経済 ( 補 ) インドの農業は 不振である。可耕地が 少ないつえ , かんカ { い 面積が全耕地のわすか 16 % にすぎないこと , 農業人口の 15 % が全耕 地の 85 % も所有すると いう上地制度に改革が 行なわれておらす , 農 民の労働意欲が低いこ と , 農業技術がおくれ 肥料が不足し , 牛 , サ ル , ネズミの被害が多 いことなどがその原因 である。米国の PL48 ( ) ( 農産物貿易振興援助 法 ) による食糧援助量 は , 198 年に結んだ 5 ヵ年協定で総計 1700 万 トンであったが , イン ドの深刻な食糧危機を 防げす , さらに 65 年は 異常かんばつのため , 1 ( ) ( ) ( ) ~ 1 浦 ( ) 万トンはど 不足 , 1 億 1 ( ) ( ) ( ) 万の人 口がききんにみまわれ るおそれさえ出てきた。 ケララ , 西ーくンカつレ , マハラシュトラの各州 で , 食糧暴動がひん発 している。

3. 国民百科事典1

ウ工ーサー 3 2 4 もに中継基地となり , 軍事基地とし れ , 1438 年領国上野に帰った。持 ルトンに大製鋼所がある。石油 , 天 ても重要となった。太平洋戦争の激 氏が憲実を討ちに派兵したのに乗し 然ガスがこれにつぎ , 精製工場や天 戦地の一つ。 て , 幕府は持氏追討の軍を起こし , 〔小野〕 然がス液化工場があり , オハイオ川 ウェーザー〔川〕 We s e r 西ドイ 持氏の軍を破って , 憲実の助命願い やカノーア川流域における化学工業 ツの川。チューリ ンゲン地方に発す も許さす習 39 年持氏を自殺させた 地帯の発展は目ざましい。ケイ土を るウェラ川とフルダ川カ { カッセルヒ ( 永享の乱 ) 。乱後はどなく憲実は執 産し , 力、、ラスやびん工場があり , ま 東方のミュンデンで合流し , これよ 事職を弟に譲って出家し , 諸国をめ た陶磁器をつくる。アルミニウムエ り下 : 朮をいう。ウェストファーレン ぐり , 長門で没した。 / 足利学校 場 , 織物工場もある。広葉樹材を主 までウェーサ、一山地を貫流し , それ を再興したことでも著名である。 とする木材生産地で , ュリノキ , カ から北ドイツ平野を流れて北海に注 〔奥野〕 バノキ , トネリコ , カシ , トウヒ , ぐ。全長 44()km 。プレーメンまでは うえすぎようざん上杉鷹山 17 ッカ、、 , クルミ材が多い。主要農産物 外洋髜 } の [ 行が可能。河口に漁港市 51 ~ 1822 江戸中期の出羽第米沢藩 はトウモロコシ , 麦類 , 干し草 , ジ ウェーザーミュンデか、ある。運河で , 主で , 名君として名高い。名を治憲 ャガ、イモ , リンゴ , モモ , ブドウ , ライン川 , 工ルべ川と結 ( よれている。 といい , 鷹山は隠居後の号。上杉重 スモモなど。牛 , 羊 , 豚も多い。シ 定の養子となり 〔生野〕 176 7 年藩主になる ュが一グロープには , アメリカ海軍 うえすぎうじ上杉氏鎌倉 ~ 江 と , 財政窮乏の米沢藩の藩政改革に 自慢の大天体観測用ラジオテレスコ 戸時代の武家。 1252 年 , 勧修寺 ( 藤 着手した。改革は自身の徹底した倹 ープカゞある。 原 ) 重房が鎌倉幕府 6 代将軍宗尊親 約から始まり , 凶作に備えて倉を建 南北戦争まではバージニア羽ヨに属 王に従って鎌倉に下り , のち丹波上 てるなど農村復興に尽力し , また副 していたか、 , 1861 年開戦とともに分 杉庄をえて改称したのに始まるとい 業を奨励し , クワ , コウゾ , 漆など 離 , 北軍につき , ホイーリングを新 う。その子孫は扇谷翳 , 詫間い , 大 の栽培と織物産業を発展させた。彼 主者にとし , 63 年にウェストノヾージー 懸洋 , 山内の 4 家に分かれ , 足利 の改革は , 初期には保守派家臣の反 アとして州となった 〔石光〕 対にもあい , また産業奨励にあたっ 氏との親族関係から関東管領家の ウェストファーレン WestfaIen ては江戸の豪商に資本の援助を頼み , 執事となり , また越後 , 上野享伊 英語でウェストファリア。北ドイツ そのため利潤を独占されたりしたが , 豆の守護を各家で交替につとめて東 の大平原南部 , ウェーサー川とライ 封建社会というわくのなかでは精い 国に勢いをふるった。詫間 , 大懸は ン川の間の地。旧プロイセン以来の つばいの改革であった ほどなく絶え , 扇谷 , 山内の両上杉 〔浅沼〕 県で , 1939 年当時の面積 2 ( ) 215km2 , ウェスチング′、ウス Ge orge 氏が栄え , 管領家をも圧迫して勢力 人凵 521 ( ) ( ) ( ) であった。 45 年以降は西 We s t i n g h 0 u s e 1846 ~ 1914 米国 をきそい , とくに / 太田道灌の謀殺 ドイツのノルトライン・ウェストフ の発明家 , 企業家。 1867 年空気プレ 事件以後は不和となったが , 新興の アーレンり、 l•l に含まれている。この地 ーキを発明して特許をえたが , 北条氏との争いには一致してあたっ はルールの石炭 , その南方の鉄鉱な はのちに各国の鉄道で採用された た。しかし 1546 年川越で北条氏康与 ど豊富な鉱物資源にもとづく近代工 また自動式鉄道信号機を考案した に敗れ , 扇谷家は朝定が戦死して 業によって西ドイツ経済の支柱とな 当時米国は直流発送電方式であった 滅び , 山内家の憲政は越後の長尾 っており , 他に麦類を主とする農業 ので長距離の送電に難点があり , 彼 景虎 ( 上杉謙信 ) をたより , 61 年景虎 や牧畜も盛んである。 は初めて高圧の単相交流発送電方式 に家督を譲ってこの家も絶えた 9 世紀 , ザクセン公国の一音にであ を採用して , 謙信の養子景勝は豊臣秀吉の五大老 それをもとにして 1886 ったか・ , 118 ( ) 年多くの領地に分裂し 年ウェスチングハウス電気会社を創 の 1 人として重きをなしたが , 98 年 このうちきをなしたのがウェ た 会津へ , さらに関な原の戦いののち 設した ストファーレン公国で , ケルン大司 〔福井〕 米沢へ移封されて家勢は袞えたが 〔ウェスチングハウス電気会社〕 教に与えらオーした。 1614 年マルクとラ 江戸中期には名君鷹山が家運をた G . ウェスチング - ′、ウスか、ヒ。ツツ / ヾ フェン . スプノレクはプランデンプル グに設立した , 米国の電気機械器具 てなおした ク・プロイセン領となった。 1618 ~ 〔浅沼〕 の製造会社。 1886 年に創立。ゼネラ 48 年ドイツを舞台として戦われ , そ うえすぎけんしん上杉謙信 15 ルエレクトリク社に次ぐ大企業で , 30 ~ 78 戦国時代の武将。名は輝 の衰退をまねいた / 三十年戦争の終 発電 , 送電 , 電力の利用制御面での各 鹿 , 不識庵謙信はその号。前名を 結のウェストファーレン条約は , 景虎 , 政虎 , 幼名を虎千代といった。 種機器 , 蒸気タービン , ガスタービ の地のミュンスター , オスナプリュ 越後守護代長尾氏の出で , 家督を ン , 家庭用電気器具を製作する。 19 ノク両市で締結された。 181 ) 3 年帝国 つぎ春日山が城にはいって領国を 代表者会議本決議によって , 公国の 2 ( ) 年世界最初のラジオ放送局 K D K 統治したが , 1561 年北条氏に追われた 大音に分はヘッセン・タ、、ノレムシュタッ A を設立し , また初期のテレビジョ 上杉憲政から家督を譲りうけ , 関 トに , 東音に地域はプロイセンに、合イ并 ンに業績が大きかった。最近では原 東管領にとなった。北条氏と戦って 子力利用面で研究製作を進めている。 され , さらに ( ) 7 年ナポレオンはこの 現在資本的にはメロン財閥と関係が 地と東方工ルべ川までの土地をあわ 小田原城下に迫り , 武田信玄とは / 川中島の戦いをくりかえすなど , 各地 深い。日本の三菱電機と提携して せてウェストファーーレン王国をつく った。 1 ( ) 年ノ、ノーノヾーの大部分も に転戦し , 勢力圏を拡大した。 この いる。 〔吉永〕 の国に合併されたが , 同年末 , 間 1553 年 , 59 年に京者ににの : よってい ウェスト′ヾージニア〔州〕 We s t デンとともにフランスに・合イ并された る。 7 ( ) 年に北条氏と和し , 78 年天下 Virginia 米国東部の中はどにある 15 年ウィーン会議の結果 , もとの公 統一の夢をいだき , 大軍を率いて京 州。面積 62622km2 , 人口 1797 ( ) ( ) ( ) ( 19 64 推 ) 。主都はチャールストン。 1863 国とミンデンその他の諸侯↑頁はプロ 都に向かう途中で病死した。直情径 行 , 節義を重んした勇将であり , イセンの 1 県としてのウェストファ 年に 35 番めの州となった。アノヾラチ ーレンを構成することとなった 生女性を近づけなかったといわれる。 ア山脈西側の山地の多い州なので , 〔宮尾〕 マウンテンステートとあだ名され , 〔浅沼〕 うえすぎのりざね上杉憲実 14 西はオ / 、イオ川 , 東はポトマク川流 ウェストミンスター Westminster 英国 , ロンドン中央部にある区で , 10 ~ 66 室町時代の関東管領足利 域につづく。米国屈指の鉱産州で , 1963 年の鉱産額は 7.7 億ドルにおよ テムズ川北岸にある。古くから国政 持氏性の執事。幕府に反抗的態度 の中心、地であリ , をとる持氏と幕府の間の調停に心を その筆頭は石炭 ( 歴青炭で年産 ヾッキンガム宮殿 , 国会議事堂 , ウェストミンスター 1 億トン ) で , ホイーリングとウェー くだいたが、かえって持氏ににくま 上杉議信

4. 国民百科事典1

南部 ( 現在のベルキ、一地方 , および フランドルの一部 ) を中心に毛織物 工業が発達し , 宗教改革運動のなか にあって毛織物生産者の間には新教 徒が多かったか、 , フェリペ 2 世はカ トリック側世俗勢力の代表として新 教徒を弾圧して民衆の激しい反感を 買い , 他方 , ネーデルラント土着の 封建貴族たちは外国 ( スペイン ) 軍隊 の駐留と支配に大きな圧迫を感じて いたから , オランイエ公ウイレム 1 世 ( 1533 ~ 84 ) およびエグモント伯を 指導者とする反スペイン運動が開始 され , かっ毛織物業者らの富裕な市 民が加わった。宗教裁判による恐る べき新教抑圧を行なったスペイン側 のアノレ / ヾ公に対し , 1568 年ついに戦 いを開始した。 76 年にはネーデルラ ント全州が同盟を結んだが ( がン条 約 ) , やがて南部新教徒の北部移住と ともに南部 1 財日はスペインに服した。 これに対して北部 7 ')'lil( ホラント , ゼーラント , ュトレヒト , ヘルデル ラント , オーフェノレ・アイセノレ , ・フローンヘン , フリースラント ) は ュトレヒト同盟を結んで ( 1579 ) , 81 年ついにネーデルラント連邦共和国 としてスペインから独立し , 1648 年 ウェストファーレン条約により国際 的に承認された。今日ネーデルラン ト ( 正式の国名 ) をふつうオランダと よぶのはこのときの北部の中心ホラ ント屮日に由来するものである。 〔独立以降〕 17 世紀はオランタ、、の黄 金時代であった。政治上は共和政体 のもとオランイエ家が独立時のウィ レム 1 世以降総督として支配的な位 置に立ち , 経済上では 1602 年オラン ダ東インド会社が設立され , ポルト がルの勢力を追い払ってバタビア ( ジ ャワ ) を中心に活発な東インド植民 活動 , 東洋貿易を展開して大きな繁 栄を示し , また文化の面では国際法 の祖といわれる法学者グロチウス , 晢学者スピノザ , 自然科学者ホイへ ンス , 画家レ・ンプラント , ロイスダ ール , ライデン大学などを生み出し て当時の欧州文化の一中心を形成し た。しかしながらクロンウェルによ る航海条令発布を原因として起こっ た英蘭戦争 ( ] 652 ~ 74 ) のころから , 農村毛織物工業の順調な進展を国力 の背景とする英国にしだいに圧倒さ れ , フランス王ルイ凵世との抗争 , 名誉革命の結果としてのオランイエ 公ウィレム 3 世の英国王就任 ( 1689 ) などをへて , 英国 , オーストリアと の同盟の下に起こしたスペイン継承 戦争以降その衰退は明らかとなり , さらにオーストリア継承戦争のとき には手痛い打撃をこうむった。フラ ンス革命時には , 革命軍によってこ こにノ、タビア王国力 { 建設され , 181 ( ) 年にはナポレオンによりフランスに 合併されたが , 解放戦争によるナポ レオンの失脚後 , 列強諸国により 15 5 6 5 年のウィーン会議でベルギーを合併 した新王国がっくられ , 国王として オランイエ家のウィレム 1 世 ( 在位 1815 ~ (0) が君臨したしかし , 語 , 風俗 , 習慣を異にするべルキーは , 3 ( ) 年 , フランスの七月革命をきっか けとして独立を宣言し , 列強により 承認された。ウィレム 3 世の長い治 世下 ( 1849 ~ 9 ( ) ) においては , 植民地 法の改正 , 学校教育の町編 , 48 年の 新憲法改正 ( 1887 , とくに選挙権の拡 大 ) など一連の進歩的諸政策が内閣 によリ施行され . 彼のあとには娘ウ イルヘルミナが 18 歳で女王の位につ いた ( 1898 ) 。第一次、第二次大戦に おいては中立の態度を維持せんとし たが , 第二次大戦では 194 ( ) 年にドイ ツ軍に侵略され , 活発な抵抗にもか かわらすついにナチスの支配下にお かれた。女王はロンドンにのか・れ , ロッテルダムその他諸都市は戦争に より大きな被害をうけた。 45 年 , ド イツの降伏により解放されてから経 済的復旧に努力し , 48 年にはベネル クス三国と関税同盟を結び , 翌 49 年 北大西洋条約に調印した。 この間王 位は 1948 年現在のユリアナ女王 ( 前 女王の娘 ) に移り , また東インドの植 民地では 1945 年インドネシア連邦共 和国が独立を宣言し , 49 年国連の介 入により正式に承認された。〔木村〕 〔日本との関係〕 17 世紀中ごろから / 鎖国にはいった日本の唯一の世界 への窓であったオランダ商館は , 当 時の日本に西洋文化を注ぎ込む貴重 な役割を果たした。 16 ( ) ( ) 年 , デ・リー フデ号がはしめて豊後坐を訪れたが , まもなく東インド会社を設立したオ ランダは ()9 年その支店として平戸 ( 鎖 国とともに出島に移転 ) にオランダ商 館を設立 , これは本社の消滅 ( 180 ( ) ) 後も 1855 年まで存続した。キリシタ ン禁制までの輸入品は中国やべンガ ルなどの生糸や絹のはか西洋の毛織 物 , 綿織物 , 皮革 , 力、、ラス , 香水 , 砂糖などであったが , ギャマンや , オルゴールなどのオランダ語は庶民 の間にも知られ , 海外情報を提供し たオランダ風説書 , とくに日本にお ける近代科学や近代医学の源流とも なった / 蘭学の果たした役割は大き い。日本からはおもに銀 , 銅 , 金の ほかショウノウ、タバコ , 木材 , 陶 器 , 漆器などを輸入したが , 浮世絵 や伊万里焼から日本の美を摂取した オリエント せられた。出島には商館長 ( / 甲比 丹 ) 以下 1 ( ) 人前後が駐在し , 行動 にきびしい制限を受けながら , 1855 年日蘭和親条約締結まで , 西欧貿 易と文化交流の唯一の窓口としての 役割を果たした。またナポレオン戦 争にさいし , オランダ本国が事実上 消滅し , 海外領土も失なわれたとき , 出島にだけはオランダ国旗がひるが えっていた。幕末には商館長以下の 居宅 , 倉庫など 65 むね , 植物園 , 家 畜飼養場などがあった。現在 , オラ ンタ、商館跡として植物園などが復原 されている。 〔長谷〕 オランダりようアンチルオラン ダ領アンチル〔諸島〕 Netherlands AntiIIes 南米ベネズエラ北部海岸 沖にある / クラサオ ( キュラソー ) , アノレノヾ , ポネーノレの 3 島と , こから 北東方へ約 8 ( )( ) krn 離れた小アンチル 諸島のセントトマーチン , セントユ ースタチウス , サバの 3 島からなっ ている諸島で , オランタ、、領西インド 諸島ともいう。総面積 961km2 。人口 203519 ( 1963 ) 。最大島はクラサオ島 で , 同島のウィレムスタットが中心、 都市。おもな産業はベネズエラから 産出する石油の精製で , クラサオ島 とアルノヾ島には米国系の精油工場が ある。 〔町野〕 ことも知られている。 田〕 オランダしようかんオランダ商 館江戸時代のオランダ東インド会 社の日本支店。 16 ( ) 9 年 / 平戸に創設 された。 13 年には英国も平戸に商館 を開いたが , 23 年に閉鎖したので , 以後平戸における貿易上の利益を独 占した。しかし鎖国の制令とともに 幕府の圧迫も強くなり , 4 ( ) 年にはキ リスト紀元を記した倉庫のとりこわ しを命せられ , 41 年 / 出島に移転さ オランダりようギアナオランダ 領キアナ / スリナム オランダりようニューギニアオ ランタ、領ニューギニア Netherlands ーギニア西半の New Guinea 旧オランダ領植民地。 1963 年インド ネシアへ行政移管。 / 西イリアン オリエント Orient オリエント はラテン語のオリエンス ( 東方 ) に由 来し , オクシデンス ( 西方 ) に対比さ れることばであって , 一般に西洋に 対する東洋の意味であるが , 狭義に は現在の中近東地方をさす。その範 囲は時代によって異なるが , 古代以 来 , ダーダネルス海峡とカフカズ山 脈によってョーロッパと境を接し , インタ、、ス川によってインドと境し , 北東アフリカのエジプトを含む広大 な地域をさしている。 自然地理的には世界の大乾噪地域 に属。し , アナトリア , アルメニア , イランの高原地帯 , リビヤ , シリア , アラビアの砂漠地帯 , およびナイル 流域 ( エジプト ) とチグリス , ューフ ラテス流域 ( メソボタミア ) の沖積層 平野とに 3 分される。 〔文明の発祥地〕この地方は現在 , 世界の乾燥地域に属しているが , れは今から 1 万年ばかりまえに始ま った。乾燥が進むにつれて , 人間 も動物も水を求めて , しだいに大河 の流域に集まってきた。大河の定期 はんらんのもたらす肥えた土は , 肥 料なしに毎年の収穫を約束し , 狭い 渓谷での人間と動物の長い共存によ って , 家畜の飼育も始まった。 ,

5. 国民百科事典1

ータ エレベ 4 5 5 極光接膜ス 電、イど剤サラ ケ体着ネガ いるが , 明るさ , 効率の点でなお十 北東部を貫流 , 北ドイツの平野を北 分でない。しかし時計の文字盤 , 自 西に流れ , 漏斗状にひろがって北海 動車 , 航空機などの計器の目盛盤 , に注ぐ。その間ドレスデン , マクデ ラジオのタ、、イヤル , そのはか表示器 プルク , ハンプルクをへて , 地勢的 にも , 経済 , 文化的にも , 北ドイツ などにすでに使用されている。また の最も重要な境界をつくっている。 これらのはか光増幅器 , 光像記憶装 置 , 表示装置などの新装置として開 ライトメリツッ ~ マイセン間は有名 な景勝。プルタバ川の合流点までは 〔佐藤〕 発されつつある。 中型の , ピルナまで 846 km は大型の エレクトロン / 電子 合で航行できる。ポヘミアでは 2 カ エレ′ヾス〔山〕 Erebus 南極大 月 , 下流では半月氷結するが , ハン 陸岸のロス島にある活火山。高度 プルクまでは 1 年中外洋船で航行で 4023 m 。 1841 年 J. C. ロス隊により きる。縦横の運河によってベルリン 発見され , その乗船名にちなんで命 ウイスラ川 , オーデル川 , ノヾルト海 名された。 * 目 . 面岩 , 玄武岩質の成層 ライン川と結ぶ治水工事 , ダムが 火山で ( 最近の活動は 1947 年 ) , 1908 発達し , 水力発電が行なわれる。 年 , E . H . シャクルトン隊の T. E . 工ルンストく風景ー接触作用〉 1934 ~ 35 デービッドらが初登頂。 〔戸谷〕 〔生野〕 て米国に移り市民権を取ったが 49 年 エレ′ヾン Erevan ソ連アノレメ 工アレマク Ermak Timofeevich ~ 15 ロシアのシベリア征服者 , 以降またパリに住む。その間ベネチ ニア共和国の主都。人口 61 1() ()() ( 19 64 ) 。標高 12 ( ) ( ) m に近い高原にあり , アのビエンナーレ展で大賞を獲得 コサックの隊長。ドン・コサックの 背後にアララート山をのぞむ。機械 出身とも , プリウラル・コサックの ( 1954 ) , つつ、いてシュルレアリスト・ 出ともいわれる。大企業家ストロガ 製造のほか , 陶器 , 織物 , 食品など グループから除名された。 〔石川〕 ーノフ家のすすめと支援をえ , 1581 の軽工業が発達し , この市だけで全 エレクトロニクス / 電子工学 年 800 人ほどのコサックを率いてカ エレクトロルミネセンス electro- 共和国工業生産の % をあげている。 マ河畔から東進し , 西シベリアのイ luminescence 田各して EL という。 , 博物館 , 国立大学 科学アカデミ ルチシュ河畔に至り約 3 年かかって ケイ光体膜を 2 枚の電極ではさんで , がある。市は 17 世紀に隊商ルートの シビル汗国を征服したが , クチュム これに電界を加えると発光するいわ 根拠地として栄え , ベルシアの要さ 汗の夜襲をうけて戦死した。ロシア ゆる電界発光の現象をいう。 いがあったが , 19 世紀初めにロシア この現 象は 1936 年にデストリオが 104 ~ 1 ( ) 5 のシベリア征服の始まりである。 領となった 〔渡辺〕 ポルト / cm の交流電界を加えてはし エレベータ elevator 鉄塔や建 〔阿部〕 めて発光することを見いだした。発 築物の中をガイドレールに沿って人 工ーアレリヒ Paul Ehrlich 18 生した光を不透明な金属板の外に出 や荷物をのせたかご ( ケージ ) を上下 ドイツの医学者。シュレ 54 ~ 1915 させる垂直交通機関。 1853 年米国の す点に実用上の問題が残されたが , ジェンの生まれ。 1889 年ベルリン大 学内科学講師となり , 9 ( ) 年コッホ研 オチスが , 自動安全装置つきのホイ 透明導電膜が発明されるにおよび , 究所にはいって免疫学を研究した 1950 年ごろから急速に発展した。酸 ストを考案してエレベータと名つけ 96 年血清学研究所を設立 , 99 年フラ たが , 能率の悪い水圧式や蒸気圧式 化スズは導電性を示し , 薄膜にする ンクフルト国立研究所長 , 1906 年ゲ にかわって電動式のものがあらわれ と透明になる。これをネサ膜といい , オルク・シュバイヤー研究所長とな たのは 1889 年ニューヨークにおいて これをはりつけたカ、、ラスをネサカ、、ラ り , 08 年ノーベル生理医学賞を受賞 スといっている。このネサガラス透 であった。日本最初のエレベータは した。彼はアニリン染料による生体 明電極と金属板とを , ケイ光体と混 1890 年に浅草十二階に設けられたも 細胞の染色を研究中 , 色素が選択的 合した接着剤ではり合わせたものが のである。装置の原理は井戸つるべ に特殊な細菌や寄生物だけを染色す つまり E L 発光板である。ケイ光体 と同しで , ケージの重さにつりあう 結品内の電子が加えられた電界で加 ることを発見し , これにヒントを得 重錘 ( カウンタウェート ) を片側につ て 04 年トリバノソーマに有効な薬剤 速され , 発光中心に衝突し , それが るし , モータのまき上げる重さをへ もとに戻るときに光を発する。この トリバンロートを発見 , さらに ( ) 9 年 らしている。交流式と直流式があり , 場合 , 明るさは加える電圧に大きく 秦佐八郎とともに梅毒治療剤 / サ 前者の速力は毎分 75m どまり , 後者 依存する。 E L 発光板は照明用ラン ルバルサンを創製して / 化学療法の は毎分 40() m 強まで実用に供されて プとして理想的な面光源であるため 創始者となった。このはかアニリン いる。デパート , 大ビルの客用に直 色素による細菌染色法の考案 , ジア 将来の照明用光源として期待されて 流式を , 小ビル , 荷物用に交流を使 ゾ反応の発見 , ジフテリア血清検定 う。日本の建築は 1965 年現在 31m 以 法の創始 , 免疫学の基礎理論である 下であるため , 速さの最高も毎分 15 ( ) エレクトロ・ルミネセンスの構造と原理 側鎖説の提唱など多くの業績をあ m どまりである。長行程のエレベー げた。 タとしてはニューヨークのエンノ、イ 〔石原〕 工′レンスト Max Ernst 1891 ~ アステートビルの 3 ( ) 4 m , 日本では シュルレアリスム ( / 超現実主義 ) 川口放送塔の 295 m などがある。モ の代表的画家の一人。ドイツのケル ータの馬力は , 速さと積載荷重によ ンの近くプリュールに生まれた。ポ り異なるが , 通例 , 大ビル用の直流 1 ( ) 人乗り 150m / 分で 25 馬力程度。運 ン大学で哲学を修めたが , 1913 年ハ 転方式にはいろいろある。運転手な ンス・アルプと知り , 第一次大戦後 しで , 自動的によびよせられるもの はいちはやくケルンのダダを組織し た。独特のコラージュを発表 , 1922 の中でも , 各階から同時によんでも , 年パリに移り , 24 年以降シュルレア つぎつぎと自動停止して乗客を拾う リスムの運動に参加した。 25 年には 高級なものもあり , また最近では 4 フロッタージュの技法を考案した 台または 6 台の並列エレベータ群を パリ時代の代表作にく博物誌〉く百 統合運転して , あらゆる乗客の待合 頭女 > などがある。 41 年戦火を避け せ時間を短くしようとする群管理運 工ーノレリヒ 光 高周波電圧

6. 国民百科事典1

工フェドリ 4 4 6 テレビジョンの映像信号は A M であ ーの酪農大学がある。戦後は札幌の るが , 音声信号は FM で送られてい 衛星都市的傾向を示し , 通勤者が多 る。家庭用受信機としては A M 受信 い。野幌台地の一角に広い林業試験 機と兼用のものが多いが , リミッタ 林があり , 原始林 ( 特別天然記念物 ) も保存されている。 などの装置が付属するため価格が多 〔岡本〕 工べレスト〔山〕 Everest チベ 少高い。 〔中野〕 工フタ′レロ厭嗹 Hephthalites, ット語でチョモルンマ Chomolungma ( 大地の母神 ) といい , イ Hayt 引などと書かれ , 白いフン ( 匈 、ノ、一一ノレヒ、マ ラヤの東部 , ダージリン北西方 17()km 奴 ) ともよばれる。 5 世紀中ごろ , にある世界最高の山。高さは 8840 rn トハラの地 ( いまのアフガニスタン ィを . を ( ほかに 8842 , 8848 , 8888m の説カヾ 北部 ) に興り , 急速に勢力を拡大し て , 天山山派からインダス川にわた あり , 1954 年インド政府は 8848m と る広大な地域を征服した。インドの 発表した ) 。 1830 年ころからヒマラ ロンプク水河からのぞ 仏教徒を迫害し , ベルシアのササン ャの三角測量を行なっていたインド 年ゴート人に破壊され , 復興後 431 年 むェべレスト山の偉容 測量局は , 前山に隠れて目だたなか 朝の内紛に干渉した。アジア内陸交 に宗教会議が開かれたりしたが衰 った無名峰にヒ。ーク 15 の名を与えた。 易路の中枢部を押えて , 隊商の利を 微をつづけて寒村となった。 19 世紀 そして 49 ~ 5() 年の最初の測煢値を補 後半に遺跡が発掘された むさばった。その人口構成は遊牧民 〔志賀〕 正して , 52 年に 8840m ( 29 ( ) ( ) 2 フィー 工フェドリン ephedrine マオ を主体とし , 君主もバダフシャンと OH ウ科の植物マオウの地上茎を乾燥し グールの間を季節移動していた 6 ト ) という高度が測られ , 世界一高 CH—CH—NH たものは漢方薬麻黄として発汗下 世紀中ごろ ( 558 ~ 561 ) 突厥とササ い山だということがわかった。そし CH3 CH3 熱剤に用いられる。これには 0. 5 ~ ン朝とのはさみ撃ちを受けて滅びた。 て測量局の初代長官 G. ェべレスト卿 1.0 % のアルカロイドが含まれるが , ェフタルという民族名はなお 8 世紀 ェフェドリンの構造式 の名をつけた。ェべレストの主峰は その主成分がエフェドリンである。 の初めまで残った。工フタルはこれ 北西にロンプク , 南にクーンプ , 東 1887 年長井長義により発見され , 交 まで匈奴の子孫と考えられているが , にカンシュンの 3 水河をもっ水食 習俗 , 容ばう上からして , 感神経末しようを刺激し気管支けい その言語 尖芫峰で , ローツェ , ヌブツェ , チャ むしろトハラ土着のイラン系民族と れんを静める効果が認められ , 鎮 ンツェ , プモリなどの連峰がェべレ すべきであろう。 〔本田〕 ことにせん息治療薬として 咳懿剤 , スト山群をつくっている。冬と夏の 工ープリアレフー′レ April f001 重要視されている。おもに塩酸塩が モンスーン季には人の近接を許さず , 万愚節ともいう。西洋の風習で 4 月 使用されるが , 現在では合成によっ わすかに両者の交替期 5 月中旬 ~ 6 1 日をエープリル・フール・デーと て製造されている。 〔宮木〕 月上旬と 9 月下旬 ~ 10 月中旬だけ探 いい , いたずらや , うそをついてもか 工フエムほうそう F M 放送周 検できる。 まわない日になっている。その起原 〔登山の歴史〕 19 ( ) 5 年英国のアルバ 波数変調 frequency modulation( / は諸説があるが , もっとも一般的な 変調 ) を用いた放送方式の略称で振 イン・クラブはクラブ創立 5 ( ) 年の記 説は昔の新年は現行の暦で 3 月 25 日 念事業としてェべレスト遠征を計画 幅変調 amplitude modulation を用 いた方式 ( A M 放送 ) に対する語。信 になっていて , それから 4 月 1 日ま したが , チベット入国の許可がとれ 工べレスト山 ( 補 ) 標 で春分の祭りがひらかれるが , その す , 実現しなかった。そして第一次 号の波形に応ヒて搬送波の周波数を 高について従来各説が 最後の日に贈り物を交換するならわ 変化させる , つまり周波数の疎密の 大戦後の 1921 年に初めて第 1 回の遠 あったが , インド政府 の公式発表値 29028 フ しがあった。ところが 16- 世紀に暦法 度合いを送るべき信号の波形に一致 征隊が送られた。このときから 53 年 ト ( 8848m ) が , 最 の改正があったため , 新年が 1 月 1 させる方式である。 の登頂成功までの経過を要約すれば 近は採用されている。 日となった。しかし , 地方によって F M 方式の利点は , 振幅が一定な つぎのとおりである。 196 ( ) 年以降の登頂は , はいぜんとして古い暦を用いていた ので高い送信能率かえられることと , 1921 年 , 第 1 回遠征隊長ハワード・ビ 6 ( ) 年 5 月 25 日に中国隊 ことから 4 月 1 日が新年の祭りの最 ュリー。現地調査を行ないその後の計画の 受信電界強度が変化する場合でも受 の史占春が北ルートか 基礎となった。 終日と考えられ贈り物や新年の祭り ら初登頂。 63 年 5 月 1 信機側で振幅制限器で振幅を一定に 1922 年 , 第 2 回隊長プルース代将。最 日と 22 日に米国のデュ 4 月 1 日の祭りは古く をしていた してから周波数弁別器で F M 検波す 初の本格的登山隊。初めて酸素補給器を試 ーレンフルト隊が成功。 から行なわれていたが , ェープリル・ れば安定な受信が行なえ , また同時 みたが , 当時のものは重くてかなり不便の さらに 65 年 5 月 20 ~ 29 フール・デーとなったのは 17- 世紀の に混入雑音も振幅制限されてその 多いものだった。しかしこの年 8321 m 付近 日にインドのコーリ隊 初めからである。なおインドでは 3 響がすっと少なくなることである。 に達し頂上の直下に迫った。 が登頂した。 1924 年 , 第 3 回隊長ノートン。高度記 月 31 日に春分の仏教の諸法が終わる このように F M は A M に比べて安定 録では , ノートン自身が 8564 m まで登り頂 ところから , 東洋起原説も出ている。 で雑音の少ない良質な方式であるの 上への距離を縮めたが , マロリーとアービ 〔青木〕 で , とくに高忠実度をもつハイファ ンの二人が頂上尾根でゆくえ不明になった。 エプロ〔川〕 Ebro スペイン北部 , イ放送 ( / ハイファイ ) に適当してい 1933 年 , 第 4 回隊長ラトレッジ。モン カンタブリア山脈に源を発し , エプ るが , その効果を高めるためには大 スーンの雲に悩まされ登山の面では前回の ロ沼を通り , アラゴンを横断して地 きな周波数幅を占有する必要があり , 成績に及ばなかった。 1935 年 , 第 5 回隊長シプトン。新ルー 中海に注ぐ川。イベリア半島で地中 このため超短波や超短波帯が適当 ト踏査を試みた。 海に注ぐ唯一の大河で , 全長 928km , となる。 1936 年 , 第 6 回隊長ラトレッジ。 FM 方式の原理は 1936 年に E. H. 支流 32 。かんがい事業が発達し , 1938 年 , 第 7 回隊長チルマン。両回と アームストロングが最初の実験を行 全国の水力発電量の約 % を供給して も悪天候のため本攻撃にはいる機会を与え なって以来 , 短波の遠距離通信に応 いる。 られす退いた。 用されていたが , 中波放送帯の飽和 えべつ江別〔市〕北海道石狩平 1951 年 , 第 8 回隊長シプトン。第二次 大戦後初めての遠征隊で , ネパール側から と高忠実度放送への要求から一般都 野の中央部に位置する市。 1955 年市 偵察を試みその後の登山への道をひらいた 市放送に進出し , 現在米国では約 6 ( ) 1878 年 , 屯 制。人口 44510 ( 1965 ) 。 1952 年 , スイス隊が初めて登場し , モン 局 , 欧州 , たとえば西ドイツでは約 田兵村の設置以来農村中心地とし スーンの前とあととに 2 回の試みを行なっ 6 ( ) 局の FM 局があり , 日本では 1958 て発展した。北日本製紙の工場を有 た。しかし春の試登で南蜂直下に達したに 年に実験放送 { はしめられ , NHK, し , 火力発電所があるほか , 野幌 すぎなかった。 にはレンが工場群がある。付近の台 東海大学など局の放送が開始され 1953 年 , 第 9 回隊長ハント代将。英国 て増加の傾向にある。また標準方式 としては 9 回めの試み , スイス隊を合わせ 地は酪農の中心地帯であり , 全国唯 0

7. 国民百科事典1

イタリア イタリア ( 補 ) 第二次 大戦を同し枢軸国とし て戦った日本 , ドイツ , イタリア 3 国間には , 後進国もしくは中進国 という著しい共通点が ある。そしてイタリア もまた , 日本や西ドイ ッと並んで , 戦後の経 済成長が目ざましい国 である。 戦前はまったくの農 業国だったイタリアだ が , 戦後には工業の伸 びが急激で , 1953 年を 18 とした国連の工業 生産指数によると , 5 ( ) 年カワ 9 なのに比べて 62 年は 193 と , 2 倍半もの 発展ぶりである。 いう発展の原因はいろ いろあるが , その最大 のものは E E C への加 盟である。しかし南北 の格差や , ファシズム 時代につちかわれた国 家資本主義的な傾向な どが , 現在のイタリア 経済の高度成長をささ えていることも , 見の カ { ゼ・ない。 南部農業地帯と北部 工業地帯との格差は , 19 世紀の民族統一運動 に際して , 南部が無関 心もしくは反対の態度 をとったころから芽ば えた。統一国家の形成 に成功したサポイ王家 は , 北部の工業化 , 近 代化を , 南イタリアの 植民地化という犠牲を はらいながら推進した。 そして同ヒ政策は , 戦 後すっと政権をにぎっ ているキリスト教民主 党の手でも推進されて いる。すなわち , 党内 に 8 派閥をかかえてい るキリスト教民主党は , それだけに複雑な社会 的利害を代表している わけだカ { , いちばん前 面に出ているのは北部 の金融資本の利害で , 戦後にたびたび出され たプラン , たとえは・ 50 年の「南部開発 10 年計 画」 , 54 年の「経済開発 10 年計画」 , 農業機械 化を中心とした 60 年の 「緑化 5 年計画」など も , 結局は南部の困窮 をまわくだけだった。 イタリアの完全失業者 2 ( ) 0 万 , 潜在失業者 300 万 , 失業率はヨーロッ パで最高といわれるカ { , 農業部門 , それも南部 の農業部門での失業率 が , とくに高い。移民 のはげしい流出も , の高い失業率と深くっ なカ { っている。 イタリアの国家資本 卞義の戦前版が I R I ( 工業復興協会 ) で , 戦 いられる。なお観光客の多いために イタリア人のなかには外国語 , とく にフランス語を話すものが多い。 イタリアの宗教はローマ・カトリッ クー色といってもよく , 国民の 99.6 % がカトリック教徒である。国内の カトリック組織は大司教区 , 司教区 合わせて 280 , 教区約 2500 , 教会 6. 4 万 , 慈善施設約 3600 , 聖職者約 23 万をも っている。首都ローマ内部に法王庁 が存在するため国と教会との関係が 混乱しがちだったが , 1929 年 2 月 21 日のラテラノ条約でこの問題は最終 的解決をみるにいたった。法王はイ タリアの国と政府と首都を承認する 一方 , イタリアは / ノヾチカンの独立 を認めるというのがその骨子である。 イタリア新憲法もその第 7 条で「国 と教会はそれぞれ独立した主権をも つ。両者の関係はラテラノ条約をも って規定されているとおりである」 とうたっている。 〔産業〕第二次大戦後のイタリア経 済は政府の施策がよかったことと , 外国とくに米国の援助 , さらにまた 1948 年からはマーシャノレ・プランの 実施によって , めざましい復興ぶり を示した。 57 年 11 月ごろから景気後 退のきざしがみえはしめたが 59 年ま でにこれを克服し , セニ政府の民間 投資奨励策などによってさらに発展 を続けた。現在注目されている経済 計画は十ヵ年開発計画のバノー プラン , 1 兆 28()0 億リラを基金とし て 195 ( ) 年以来実施されてきた南部開 発十二カ年計画 , 59 年 11 月に発表さ れた農業発展五カ年計画などである。 リラ貨の交換性は 58 年 12 月に回復し 安定している。それでもイタリアの 経済的水準はドイツ , 英国 , フラン スなどの西欧諸国に比べるとまだか なり低い。その二大原因は石炭 , 鉄 , 石油の地下資源をもっていないこと と , 人口に比し耕地面積が狭いこと である。全国上の 43 % が耕地 , 17 % が草地と放牧場 , 27.1 % が植林地 , 12. 9 % か、不毛の荒地である。 鉱物資源としては水銀 , 大理石 , イオウ , 鉛などが多く , とくに水銀 は世界生産高の 4 割以上に達してい る。しかし重工業にとって最も必要 な石炭 , 鉄 , 石油に乏しいのはなん といっても大きな痛手である。山地 には水力発電が盛んで , 軽工業をは しめ多くの産業部門に豊富に動力を 供給している。戦後の天然資源開発 で大いに注目されているのは天然が スの利用である。その生産は 1938 年 にわすか 1 万 7 千 m3 だったのカ { , 62 年には 6. 2 億 m3 に激増した 農業はイタリアの最重要産業で , 全国民の約 % が農民 , キリスト教民 主党系の農民組、合連盟には 170 万以 上の家族が加入し , 組合員総数 784 万以上に達している。耕地は南へい くほど少なく , 北部のポー平原に最 2 1 8 トスカナ , カンノヾニアの 両地方がこれにつぐ。主要農産物は ジャガイモ , ブドウ , オ このはか米と生糸は欧り・ リープで , 小麦 , 麻 , も多くて , 死去に伴い , 国会での選挙の結果 , 大統領で , 64 年 12 月セニ大統領の は国民の統一を象徴する任期 7 年の ズム化の危険を防止している。元首 を禁止し , 王政復活ないし再ファシ 和政体の変革を目的とする憲法改正 確された。また第 139 条により共 の男女参政権、労働者の権利などが 立の原則 , 基本的人権 , 満 21 歳以上 月新共和国憲法が施行されて三権分 47 年 2 月講和条約が結ばれ , 習年 1 ルト 2 世はポルトガルに亡命した が共和制を支持したので国王ウンべ 6 月 1 ( ) 日の国民投票の結果 , 54. 3 % 国体決定の目的で実施された 1946 年 〔政治〕第二次大戦に破れたのち , A L I A が中心、である。 国家資本であるアリタリア A L I T 界第 8 位。航空事業は , その 70 % が 海運は総船舶 571 万トン ( 1964 ) で世 ーの交通機関であるところも多い。 ているか・ , 南部や島部ではロノヾが唯 覧バスと自動車道路もよく整備され バス 20 万台 , 観光国であるだけに遊 は 1963 年末の調査によると 386 万台 , 達は欧州第一である。自動車台数 が電化されており , 電化鉄道網の発 に近く , 豊富な電力のおかげで 5() % している。鉄道は総延長 2 万 1 千 km 〔交通〕陸運 , 海運ともによく発達 にも積極的態度をとっている。 力を続け , 他方ソ連 , 中国との貿易 はつねに英仏間の対立を調整する努 欧州の経済機構再編成問題について ら 6() 年にかけて大きな課題となった 和されていく傾向にある。 1959 年か は欧州共同市場加盟以来しだいに緩 右されてきた。しかしこうした関係 るので , 相手国の経済事情に強く左 品その他非必需品が相当部分をしめ 性がない半面 , 輸出品は完成品 , 食 殺される ) 。このように輸入に弾力 住民の国外出かせぎと観光収入で相 てやむをえないことである ( 入超は 糧などの重要物資が不足する国とし に赤字であるが , これは原材料 , 食 対外貿易は戦前戦後を通してつね 各国市場に強い競争力をもつ。 伝統的な綿 , 絹 , 人絹の繊維工業も え , その 25 % を輸出している。また , 動車生産は , 1963 年度は 110 万台を越 て登場するにいたった。なかでも自 製造工業がイタリア工業の花形とし 近年 , 自動車 , 航空機 , 造船などの 重工業はあまり発達していないが , は発達していない。原料不足のため なり盛んであるが大規模な遠洋漁業 至るところに漁村があり , 漁業もか である。海岸には保養地にましって は羊を筆頭に午 , 豚 , ヤギ , 馬の順 北部では酪農も発達している。牧畜 におけるイタリアの特産とみてよい c 社会民主党の J. サラガットが就任し た。国会は二院制で , 上院下院の両 院は対等の権利をもち , 任期も同し く 7 年 ( 1963.2 改正 ) となっている。 政党は大別して右派 , 左派 , 中道派 に色分けされる。中道派の代表的政 党は戦後一貫して政権の中心勢力で あったカトリック系のキリスト教民 主党である。この政党は 1926 年ムソ ニによって解散させられたイタ リ リア人民党の流れをくみ , 戦後再編 成したもので , 商工業者と農民を基 盤としている。社会民主党も中道派 で , 51 年 4 月社会党から右派が脱退 結成したもので反共的色彩がかなり 強い。つぎに左派で代表的なのは共 産党と社会党である。共産党は 1921 年に結成され , ムソリーニ時代に非 合法化されたが戦後復活 , 急速に発 展し党員約 17 ( ) 万 , 西欧第一の党勢 をもつにいたった。グラムシ ( 1891 ~ 1937 ) やトリアッチ ( 1893 ~ 1964 , 1944 年以来共産党書記長 ) らのすぐ れた指導者のもとに , スターリン主 義とは一定の距離を保ちながら , 構 造改革とよばれる独自の平和的革命 戦略をうちだしたからである。現書 記長はロンゴ。 1893 年創立の社会党 は非合法化されたムソリーニ時代を 通算すればいちばん古い政党である。 しかし第二次大戦後はサラガットの 率いる右派が脱党したはか , 容共 , 非容共両派の対立が続き衰退の色は 隠せない。右派としては自由 , 民主 , 共和 , イタリア社会運動 ( M S I ) な どの諸党がある。うちイタリア社会 運動は戦後解体したファッショ党の ・部を含む極右派で , 新ファシズム 連動として注目される。なおイタリ アの地方行政は 19 県 , 91 郡 , 78 ( ) 4 市 町村からなり , 県にはある程度の自 治権が認められている。 〔外交・軍事〕外交的にはデ・がス ペリ政権以来一貫して欧州統合と親 西欧の路線が守られている。東西両 陣営が鋭く対立する国際情勢を背景 に , 対米協力 , N A T O 強化の外交 方針をおし進めるとともに , 西欧統 合体制をめざす経済外交を積的に 展開しつつ西欧陣営内での発言力を 強めてきた。イタリア固有の外交問 題としては , イタリア人住民の多い / トリエステの帰属問題 , 旧オース トリア領南チロルをめぐるオースト リアとの紛争などがあるが , 前者は ューゴスラビアとの間ですでに円満 解決し , 後者だけがいまだにくすふ っていてオーストリアとの関係を不 明朗なものにしている。 1947 年の講 和条約でイタリアは戦前の植民地全 部を失ったが今日では中東とアフ リカ地域の経済開発をめざして活動 している。 憲法は国際紛争解決の手段として の戦争を放棄しているが , 自衛の義 務は規定している。講和条約による

8. 国民百科事典1

アメリカガ 1963 年の国民所得 4747 億ドルを , 産 業別に分類すると , 製造工業 1332 億 ドル , 商業 738 億ドル , 金融 , 保険 , 不動産業 47 ( ) 億ドル , 農林業 185 億ド ルなどとなっている。この内訳から も , 米国が工業国だということがわ かる。米国工業の花は製鋼業 , 自動 車産業 , イ学工業 , 機械工業などで あるが , 6 年の粗鋼生産高は月平均 826 万トン ( 日本は 262 万トン ) , 同し く自動車生産高は乗用車 63. 6 万台 ( 日本は 3.4 万台 ) , 商業車 12.2 万台 ( 日 本は 8.27 万台 ) となっている。 以上のような米国経済の働き手で ある労働者の生活はどうであろうか。 1963 年の数字によると , 製造工業労 働者は 1 週間にはば 4 ( ). 4 時間働き , 賃金は 99. 38 ドルぐらいである。 47 年 の週労働時間は 4 ( ). 1 時間 , 収入は 54. 14 ドルだったから , 働く時間は この間わすかにふえ , 収入は相当ふ えたことになる。もちろん 47 年と 63 年では , 物価も上がったことを考慮 にいれねばならない。米国の卸売ー 物価は , 1948 年に比べると 63 年には 11 % ぐらい上がっている。しかしこ れを考慮にいれても , 労働者の労 1 動 条件は着実に改善されているといえ よう。米国労働者の週平均労働時間 は 1929 年には 45.7 時間だった っ いう労働者の生活条件の改善のため に資本家と交渉する総元締めは米国 労 1 動総同盟・産業別組織会議 ( AFL - c I O ) である。これは労働総同盟と産 業別組織会議という二つの大労組が 1955 年に合同して作られたもので , 組合員は約 15 ( ) () 万である。 〔政治〕米国は 1789 年に施行された 成文憲法によって統治されている。 その後いくっかの修正条項がつけ加 えられはしたが , 世界で最も寿命の 長い成文憲法である。その特徴は , 1 ) 連邦政府が一方にあり他方に州政 府があって , 連邦制をとっており , 州政府がかなりの権限をもっている こと。 2 ) 連邦政府は行政 , 立法 , 司法の権限を厳格に分ける三権分立 制をとっていることである。政府の 行政権は大統領がもっている。大統 領は元首でもあり , 米国の国内政策 や対外政策のすべては大統領の考え によってその方向がきまるといって よい。もちろん大統領がどんなにす ぐれた政策を考え出しても , その実 行は , 議会による立法の手続を経な ければならない。対外政策について も議会の承認を得なければならない。 しかし近年の例でいえば , 第 28 代の W. ウィノレソンや第 32 代の F. ノレーズ ベルトのようなすぐれた大統領が , 米国の政治にそしてそれを通して罘 国民の生活に活気と一定の方向を与 えたということは争えない。大統領 と副大統領は任期 4 年。その選出は 5 ( ) 州の有権者の投票によって行なわ れる。副大統領は , 大統領の行政上 9 2 の補佐としては大した役割を与えら れていない。しかし大統領が任期中 に死ぬと大統領をつぐので , 潜在的 には重要な地位ということになる。 大統領は彼を助ける機関として内閣 をつくる。内閣を構成するのは国務 , 国防 , 財務など各省の長官である。 しかし内閣はあくまで大統領の諮問 機関で , 日本や英国などの内閣はど 重要なものではない。国務長官や国 防長官なども , それぞれの省の行政 上の長という色彩がつよい。また れらの長官は連邦議会の議員であっ てはならないという点でも , 日本の 闍僚とはたいへん違っている 米国の立法権は議会に属する。憲 法第 1 条には , 「この憲法によって 与・えられるすべての立法権は , 合衆 国連邦議会に属せしめる。連邦議会 は上院と下院で構成する」とある。 上院議員は各州から 2 人すっ , 合計 10 () 人である。任期は 6 年。下院議 員は州人口の大小によって数がちが う。現在定員は 435 人 , 任期は 2 年。 米議会のなかでは上院の方が下院よ りも重要である。それは一つには下 院が任期わすか 2 年であるため , 下 院議員は当選すると同時につぎの選 挙のことを考えねばならないことか ら , 自分の選挙区の利害だけを考え て , 米国全体の利害という広い見地 に立ちうる人が少ないことによる。 これに反して上院議員は任期 6 年と いうことにも助けられて , ワシント ン政界の指導的人物になる人材が多 い。また外交問題では , 上院が憲法 の上でも重要な地位を与えられて いる。 アメリカの政党の歴史は 1787 年の 建国当時 , 強力な連邦政府を求める フェデラリスト党と , これに対抗す る 1791 年の民主共和党の結成にはし まる。前者に G . ワシントン , A . ミルトン , J. アダムズ , 後者に T h. ジェフアソンらの指導者をもった 1817 ~ 25 年は善意の年とよばれ , フ ェデラリスト党は解消して , J. モン ローを中心とした , 民主共和 1 党の もとに全国民が団結したもしかし 28 年ふたたび分裂して , フェデラリス トの主張をつぐホイッグ党と , 民主 共和党を改名した民主党の出現をみ た。 54 年奴隷問題をきっかけとして ホイッグ党は解散し , リンカンを中 心として新たに共和党を結成して民 主党に対立した こうして現在米国 の政党は , 民主党 , 共和党の二大政 党に分かれているが , どちらも保守 党とみてまちがいない。アイゼンハ ワーは共和党の大統領だが , 1952 年 に共和党の大統領候補として出馬す る前には , 彼か・民主党から出るとい ってもだれも驚かなかったであろう。 民主 1 心と共和党の違いは , しいてい えば , 民主党にはニューディールの 伝統があって米国を福祉国家にした いと思うものがわリあい多いのに対 して , 共和党には連邦政府の国民生 活に対する十渉は少ない方がいいと する人がわりあい多いということで ある。大統領はその政策を , 議会に 対する教書という形で提示する。そ の立法化は議会内の与・党議員が行な う。そこで議会内の政党幹部が重要 な役割をもっことになる。上院 , 下 院の民主党 , 共和党の院内総務 , 外 交 , 財政 , 軍事など重要な委員会の 委員長がこの分野で大きな権限をも っている 米国の政治で他の国ととくに違っ ているのは , 連邦裁判所が非常に重 要な地位を与えられていることであ る。それは司法権をゆだねられてい る連邦最高裁判所が , 憲法の最終解 釈権をもっていることによる。最高 裁の判決は , しばしば米国の進路に 重大な影響を及は、す。 1954 年に最高 裁が , 公立学校での人種差別による 黒人と白人との分離教育は憲法違反 であるとの判決を下したことが , 黒 人の差別待遇廃止連動を飛躍的に前 進させたのは , その著しい例である。 最高裁は首席判事以下 9 人の判事で 構成され , 判事は終身官である。判 事は大統領が上院の助言と承認を得 て任命する。 〔外交・軍事〕米国の外交政策の基 調は伝統的に孤立主義であった。そ れは , 米国は欧州やアジアのことに はかかすらわす , 国上の開発に専念 しようという要求から生まれたもの であった。だが今日では , 米国は世界 の至るところの問題に首をつつこみ , 関心をもつようにかわっている。米 国は第二次大戦の結果として , 孤立 主義をすて , いわば国際主義にかわ ったということができる。米国は第 二次大戦中から国際連合の設置にき わめて熱心で , 国際連合の重要メン ーとしてこれに加入した。しかし 今日の米国の外交の特徴となってい るのは , 単なる国際主義ないしは国 連主義ではない。米国外交の基調は , ソ連と共産主義勢力の拡大を防止し ようという反共 , 自由陣営強化とい うことにある。このために , 米国は 北大西洋条約機構 ( N A T ( ) ) にはい って , 欧州の防衛にひと役買い , 東 南アジアでは東南アジア条約機構 ( s E A T ( ) ) をつくり , 中南米では 米州機構 ( ( ) A S ) を , 中東地域では 中央条約機構 ( C E N T ( ) ) を , 南太 平洋地域ではアンザス条約 ( A N Z A s ) を組織した。 米国はこういう集団的努力ととも に , 自国の防衛力の強化にも大きな 努力をはらっている。米国の軍事機 構についていえば , 陸海空三軍の最 高統帥権は大統領に属し , 国防長曾 は軍事行政を統轄し閣僚として軍を 代表する。 1947 年に新設された国防 総省が三軍を統轄するが , 「文官優

9. 国民百科事典1

イクジ 乳児体操 手の握り方 ( A ) と 足の持ち方 ( B ) の基本 2 . 腹ばいにさせると 自然に頭をもちあげる 3 . 両腕を横に開き , 上にのばして , おろす 4 . 足くびを握り , ひ ざとまたを屈イ申させる 5 . 両手を握り上体を ひきよせ , すわらせる 6 . 両手を握り身体を ひき上げて , 立たせる 7 . 両手を握ってひき 上け身体をつり上げる 8 . わきのしたを両手 でささえて跳躍させる 9 . 片手で両足くびを 持ち他の手で背をささ えさかさにつリ下げる 1 0 . 足くびを持ち腹を ささえさか立ちさせる 〔各体操の開始時期〕 4 カ月 3 カ月 9 ~ 1 ( ) は満 6 ~ 7 カ月 7 ~ 8 は満 5 ~ 6 カ月 5 ~ 6 は満 3 ~ 2 ~ 4 は満 2 ~ これはあおむけに直さなくとも よい。夜の睡眠 , 昼寝とも , ひとり でねる習慣をつけること。添い寝は 安眠を妨げる。湯たんはは生後 1 カ 月以上になったら不要で , 足がひえ て寝つきが悪いときには用いてもよ いが , 寝ついたら取りはすす。 ひどり遊び生後 5 ~ 6 カ月ごろ から , そろそろ相手を求めることが 現われ始め , おとなたちもつい相手 になリすぎて , しらすしらすのうち に乳児を疲れさせる。このため牛挈し をのみ残したり , 離乳食をたべなく なったり , 夜泣きをしたりするよう になる。なるべくひとり遊びをする ように習慣づけ , ときには相手にな これも時間をきめて , ってもよいが 度をすごさないことが必要である。 乳児の日課食事 , 睡眠 , 入浴 , 戸外あるいは室内の遊びなど , だい たいの日課はきめておく。あまり厳 格に行なう必要はない ( たとえば睡 眠時間が少しのびて食事がおくれる くらいはかまわない ) が , おとなの 1 7 6 つごう , 来客 , 旅行などで , しじゅ う日課を変えるようなことはさけわ ばならない。 幼児の育て方 幼児の発育幼児期の身体発育の 標準数値は乳児期とともに第 1 表に あげた。乳児期ほどの著しさはない が , それでも身長は年間 6 ~ 8 cm す つのびるし , 体重も年間 1.5 ~ 2 kg すっふえていく。 筋肉の発達とともに , 運動機能の 発達は著しく , 1 年半になるとちょ こちょこ走り , 1 年 8 カ月でしきい をまたぎ , 手をひかれて階段を上り 降りする。 2 年になると自由に歩け るようになる。また 1 年半でさしで 食べることができ , 2 年になると鉛 筆で線をかいたり , まりを投げたり することができる。 3 年になると鉛 筆で円をかいたり , はさみを使った りすることもできるし , はしを使う こともできる。 3 年半になると自分 ひとりで食事をするようになる。適 当なおもちやを与えてこれらの運動 の練習をさせ , 筋肉と運動神経の発 達をはかることが望ましい。 たとえ ば 1 ~ 3 年では木馬とか引き車など の全身的な運動のできるもの , また 3 年以上ではぬり絵や切り抜きなど を与える。さらに 4 年になると , 走 ったり , とんだり , よじのは、ったり する全身運動がうまくなり , 三輪車 も乗りまわす。 5 年になると手や指 先の動きがたくみになり , 絵や字を かき , ひとりで着物を脱いだり着た りすることができる。 栄養幼児期になると家族といっ しょに食事したりするため , 栄養に 関する配慮が乳児期より少なくなる。 しかし栄養標準からみても , 体重 1 kg について 1 ()() C a 1 を必要とし , お となよりも割合は大きい。また盛ん な発育のためにタンパク質 , 脂質 , カルシウム , ビタミン類を必要とす る。それゆえ幼児のたべる少ない量 の食物の中に これらの栄養物が豊 富なようにくふうしなければならない。 さらに幼児期の前半では間食もた

10. 国民百科事典1

覚大師が開山したという地蔵堂であ った。地蔵尊を拝むと , 死者の苦難 が救われるといわれ , 毎年 7 月の下 旬から行なわれる大祭典には参拝人 が血盆経を読んだり , この経を八大 地獄にある血ノ池に投げ入れたりす る。祭りには / おしら神をまつる巫 女す ( いたこ ) が , 死者のことばを伝 える呪術を行なう。かっての交通 不便が , 民俗信仰を残している原因 ともなっているが , 近年むつ市から ノヾスが通じた 〔谷口〕 オゾン 0 z 。 ne / 酸素の同素体。 分子式 03 乾燥した空気中で 1 万 ポルト前後の高圧で無声放電を行な わせるとできる。その・ほかフッ素と 水とを作用させるとき , リンの酸化 するとき , 酸素の加熱 , 硫酸の電解 , 紫外線 , X 線 , 陰極線を空気に当て るとき発生する。常温ではなまぐさ いにおいのある淡青色の気体で , 融 . 一 251.5 。 C , 沸 . ー 112 。 C である。 液体は黒青色 , 固体は暗紫色。不安 定できわめて強い酸化作用を示し , 銀 , 水銀は常温で酸化される。イン ジゴ , リトマスなどの有機色素は酸 化脱色し , 木材 , ゴム , 毛などもし だいに破壊される。 / 大気中にはこ くわすか存在する。ぬれているヨウ 化カリデンプン紙を鋭敏に青くする ので , この反応をオゾンの検出に利 用する。殺菌漂白 , 有機合成の酸化 5 3 5 桃山時代の武将。信秀の子で 1551 年 家督をつぐ。幼少のころから俊敏で 奇行多く , 傍若無人だったが , 53 年 , 、、後見人平手政秀の諫死 t•んで武道に専 念するようになったという。信秀の 死後 , 家運をよく盛り返し , 6 ( ) 年に は今川義元の大軍が西上するのを / 桶狭間まの戦いで滅は、し , 天下に 勇名をはせた。 62 年清洲 , 岩倉の 両織田家を統一し尾張一国を領知し た。同年三河の松平元康 ( 徳川家康 ) と同盟を結んで後顧のうれいを除き , 全国統一への道を歩むことになった。 ます 67 年 , 美濃の斎藤氏を倒し , 手 中にした稲葉山城を岐阜と改めて居 城にした。そのころ朝廷が尾張の御 料地の回復をのぞみ , また将軍の弟 足利義昭がたよってきたので , 68 年 義昭とともに京都に入り , 幕府を再 興し , また皇居を造営した。しかし そののち義昭と不和になリ , 義昭が 信長打倒のため浅井 , 朝倉 , 武田 , 毛利の各氏や本願寺などによったの で , 73 年義昭を追放 , こに足利幕 この間 , 彼は同盟者家 府は滅んだ 康や秀吉ら部下の力をかりて反信長 勢力を平定していく。すなわち , 70 年の姉川の戦いで浅井 , 朝倉を敗走 させ , 71 年延暦寺こを焼打ちし , 73 年には朝倉についで浅井をも滅は、 し , 長島の一向一揆をしすめ , 大和興福寺も屈伏させ , 75 年には 鉄砲を使って三河長篠に武田勝頼 を破った。 76 年 . 近江の安上に大 城郭を築いて岐阜から移り , 安土桃 山文化の基礎をたて , キリシタン文 化の摂取も行なった。 この間 , 官位 はしだいにのは、り , 77 年には右大臣 に任ぜられた。しかし信越の上杉 西の毛利 , 石山の本願寺を平定せす には天下統一の夢は実現しないので , 彼はふたたび行動を開始した。 78 年 上杉謙信の急死によって北方のおそ れはなくなり , 80 年には石山を破っ て本願寺勢力を一掃した。そののち , 残る毛利を平定しようと , 先陣羽柴 ( 豊臣 ) 秀吉の加勢に西下する途中 , 京都本能寺で臣明智光秀のむはんの ため本能寺に自刃して果てた ( / 本 能寺の変 ) 。全国統一を目前にひかえ た天正 IO 年 ( 1582 ) 6 月 2 日のことで ある。信長は過酷であったといわれ るが , 時代の動きに明敏であり , 革 新的な方策を行ない , また新文化の 吸収にも積極的であった。 〔浅沼〕 おたふくお多福狂言で醜い女 の仮面を乙御前 ( 略して乙とい う。お多福はその転語とされている。 本来の乙御前は若い娘という意味で あるが , 狂言の性質上仮面ではこっ けい化され , ふくれ乙の異名もある。 狂言で乙御前が醜い娘を意味したよ うに , お多福も醜い女の呼称に用い おもに幼稚園児 , 学童がかかり , さい乳幼児はかからない。飛沫感 染で、潜伏期は 2 ~ 3 」固間。 38 ~ 3 9 OC の発熱があって , 1 ~ 2 日後ます 片側の耳下腺がはれ , つづいて 1 3 日後他側の耳下腺もはれてくる。 軽い痛みがある。 1 週間くらいのう ちに下熱し , 耳下腺のはれもひいて ゆく。合併症として , 髄膜炎を起こ すと頭痛 , 吐きけ , おう吐があリ , 脳炎を起こすと意識障害 , けいれん をともない , 日本脳炎と区別がっか ない。すい臓炎を起こすとはげしい 腹痛を訴える。成人ではこう丸炎 , 卵巣炎を合併し不妊の原因となる。 耳下腺がはれないで合併症に相当す る病気だけで発病することが意外に 多く , このときは血清学的方法によ って診断がつく 療法は安静を保ち , 高熱があれば 頭部をひやし , 耳下腺のはれに痛み があれば冷湿布をし , 2 % ホウ酸水 でたびたびうがいをして口内を清潔 に保つ。食欲に応して水分と柔らか い物を自由に与える。髄膜炎の頭痛 には腰つい穿刺芒んをして脳圧を下げ る。脳炎を起こすと生命の危険があ こう丸炎には , はじめ冷湿布 , る。 痛みが去れば温湿布をし , 副腎皮質 ホルモンを服用して極力 , 組織の破 壊を防ぐ。感染力は発熱と同時から 下熱後 1 週間くらいまであるものと して , この間登校を禁止し , 他人と の接触を避ける。免疫性は強く , 1 度かかれば一生の間 2 度とかからな オタル 織田信長 ( 愛知県長興寺蔵 ) 年本能寺の変に至る事 して入京してから , 82 年信長が足利義昭を奉 一 ( 資房 ) の著で , 1568 る。信長の祐筆太田牛 な書にく信長記〉があ 正期の史料として重要 伝記を中心に , 永禄天 織田信長 ( 補 ) 信長の 歴を記述している。 剤として用いられる。 〔雨宮〕 おたうじ織田氏室町時代以来 の武家。越前国丹生彎郡織田神社の 祠官髣、んの出とされる。常昌のとき尾 張国の守護斯波氏に仕え , その子常 勝は守護代になったが , やがて主家 をしのぎ , 尾張を領知するようにな った。 1466 年の斯波氏の内紛で , 織 田氏も清洲と岩倉の 2 派に分かれ て争いをつづけたが , 清洲織田氏は 信秀のとき , 国の内外に武威を示す にいたった。その子信長はさらに勢 力を拡大し , 全国統一の野望に着手 したが , 本能寺の変で死し , その後 は信長の弟長益 ( 有楽斎 ) と次男信雄 のみがそれぞれ江戸時代の大名とな いのが普通である。 〔高津〕 った 〔浅沼〕 おたきゅうでんてつ小田急電鉄 東京の新宿を起点として , 小田原に 至る 82.8km の小田原線と , その途中 の相模大野から分かれ , 東海道線藤 沢をへて片瀬江ノ島までの 27.4km の 江ノ島線の 2 線を持っ私鉄。 1923 年 発足の小田原急行鉄道が , 数社と合 併 , 分離をくリかえしたのち , 48 年 資本金 1 億円で新しく発足した 5 ( ) 年箱根登山鉄道と契約を結び , その 後 , 小田原から箱根の湯本まで電車 を通じ , 57 年からは S E 車と称する 特急電車が新宿 ~ 箱根湯本間を 1 時 間 2 ( ) 分で走っている。 59 年から御殿 場線へも乗り入れている。〔伊崎〕 おたのぶなが織田信長 1534 ~ 82 室町時代後期 ( 戦国時代 ) ~ 安土 おたまき日本北部の山地に自生 する , キンボウゲ科の多年草で , 葉 は 2 ~ 3 回三出状に複生する。 5 月 に青紫色または白色の花をつける。 花びらのように見えるのはがくで , はんとうの花びらは白くて細長い中 空の距があってがくの間から後方に 突き出て内方に湾曲している。栽培 は秋に種子をまき , フレームまたは 霜よけをしたところで育苗すれば春 に開花し , 古株は株分けで繁殖する。 ォダマキには種類が多く , アメリカ ォダマキは草たけが 6 ( ) ~ 8 ( ) cm にも達 し , 北米産のロングスパーと称する 一種は , 距の長さが 10 cm にもなる。 〔浅山〕 おたる小樽〔市〕北海道西部石 狩湾に面する市。 1922 年市制。 40 年 高島町ほか 1 村を合併した。人口 196771 ( 1965 ) 。札幌 , 函館に次ぐ北 海道第 3 の都市で , 重要な港湾をも ち , また函館線が通しる古くからの 商業中心地である。湾内は広く水深 も大で , 三方に火山性台地をひかえ ている。広い湾口をもっているので , 波浪は長大な防波堤で防がれている。 市街は海岸から山ろくに階段状にひ ろがり , 北西の手宮と南東の小樽築 港では石炭積み出しなどが行なわれ , その中間には倉庫が立ち並ぶ。小樽 右 , ロングスノヾ オダマキ られる。 / おかめ 「鈴木〕 おたふくかぜ流行性耳下腺炎の 俗称。ビールス感染による伝染病で , 小樽市 ( 補 ) 小樽の海 岸一帯はおたもい海岸 , 祝津 , 忍路 ( おしよろ ) 海岸など景勝が多く , また古代文字が描かれ ているという手宮洞窟 ( 史跡 ) や朝里川温泉も 市内にあるので , 1963 年ニセコ積丹小樽海岸 国定公園に指定された。