く内国勧業博覧会瓦斯館〉 文明開化ど錦絵 小林清親 小林清親は光の画家どいわれている。ーっの どぎつい洋紅の色 , それが明治版画の印象である。そこに 光源からうつし出される物体や空間の構成に は芸術的なかおりは見いだせない。封建制の抑圧から解き放 新しさをみせた。それがまた , 文明開化の合 たれた人々は自由に天下を往来し , 欧米の思想 , 科学を吸収 言葉ではじまる明治維新の解放感どもマッチ して文明開化を賛美した。れんが造りの家 , 鉄の橋梁 , 蒸汽 した。ろうそくや油のどもしびで暗かった封 建の世は去って , ガス灯から電灯へど光熱生 船 , 陸蒸気 , 電信電話 , ガス灯 , 和服をすてて洋服へ , 舞踏 活の革命を告げる。明治 1 0 年 ( 1877 ) のこの 会 , 園遊会と , 世相は激しく変わった。政治経済 , 社会構成 , くイルミネーション〉どふつうよばれる作品 教育など万般にわたって文化の統一と普及が緊急事となった。 は , 光の画家清親の見のがせぬ画題であった こではこのような大衆性をみたすために , 木版画や銅版画 が採用される。江戸時代には 10 軒たらずだった版元は 120 軒 や北斎の離れえなかった主観的叙情をこえて , 清親の絵には にも達した。銅版画は政府の紙幣印刷などの精密描写に用い 社会的共感にもとづいた写実性が感しられる。しかしその彼 られ , 世相の変化は錦絵に描かれて全国に頒布された。つま もまた , この努力は明治 9 年 ( 1876 ) から 5 年間つづいたくら り錦絵木版の技術は , 当時の新聞報道のやくめを果たしたわ いで , 世俗的な赤絵やポンチ絵の供給者に落ちてしまった。 けであるが , そのために題材は新奇を求めて現実的となり , 機械印刷に速度と量産の点で , 家内工業的な木版技術が駆逐 効果を高めるために強烈な色彩が盛られた。いわゆる「赤絵」 されたことがその一つの原因である。第 2 に世相の描写が , とよばれる安版画の量産がこうして現われた。 3 代広重 , 国 新興の写真術による現実感の表現に及ばなかったことである。 芳門人の芳幾や清親その他の版下絵師も , かかる時代の要求 その意味で清親は浮世絵の最後の人であった。版画はわすか に応して , 活躍をするのだが , いまの報道写真撮影と同しよ に古画の複製技術として活路を見いだすのみで , それとても うな技術労働にほかならなかった。けれども世相の真実を伝 原色写真版の進歩によってやがて滅んでいった。木版画は多 える点では価値があった。また文化の大衆化という文化史的 数生産の機能を利して , 文明開化の新時代に活発な動きを見 使命を果たした業績も忘れてはならない。 そのなかで芸術的な版画の創作に努めたのが小林清親であ せたが , そのためにかえって滅びなければならなかった。 明治 30 年代にはすでに浮世絵という名称も , 日本では過去 った。変わっていく世相に着眼して題材をえらんだ点では , のものとなっていったが , そのころ欧米諸国に輸出された浮 彼もほかの絵師と同様であったが , 彼は西洋の絵画理論や写 世絵版画が , 印象派など世界の絵画に大きな影響を与えつつ 真術をとおした自然観で構図し , 洋風表現の木版化によって 芸術性を高めようとした。明暗の強調がめだち , さらに広重 あったことは皮肉な現象といえるであろう。
が , 祝宴と祭場とを一つにできるよ うになった家屋構造の変わりを考え ねばならない。田の神が田から戻っ て秋から翌春まで家の中に滞在する 信仰の背後には , 神だなを常設でき るような構造を必要とするし , 山へ 帰る田の神を送るにもその祭りを屋 内で行なうには , 田の神の依代と 考えられているイネを持ち帰らわば ならない。そこに屋内と屋外との祭 儀形態に大きな変化が生じてくる。 刈り取ったイネを干してすぐに脱穀 調整する方法は新しく , 以前はイネ のついたままを積み重ねて野天にお き , 必要量だけを屋内に運んで脱穀 した。まだ今でもそうするところは あるが , 多くは脱穀後のわらの保存 法にそのなごりを伝えている。形は 円すい形であるが , 名称は「にお」 という語がいちばんひろく分布して いる。「にお」を作る場所は田の神 の祭場であった田畑の周辺が多く , 「稲場」ともよばれていた 「にお」 の語源は新嘗の「にい」 , 供えも のをさしていう語「にえ」と関係が あり , 「にお」の頂上の飾りは供え ものをのせる器の名である「す 0 工」 系統の語でよばれている。刈り取っ たイネはこのようにして積まれ , 11 月の収穫祭すなわち新嘗祭の対象と なる。種まき後の苗の産屋や植付け 後の物忌みと同じように 刈上げ後 にも長い物忌みの期間があった のことはく万葉集〉その他の古典に もみえているが , 現在の伝承では旧 暦 1 ( ) 月の神無月会ながそれにあたっ ている。 1 ( ) 月は , 日本中の神様が出 - ェずへいくから神祭のない月だとい う説は , 11 月の収穫祭をひかえて 1 カ月におよぶ物忌みの期間を背景に して , 中世以降に流布した伝承であ るカゞ , しかし田の神祭だけは「いの こ」「とおかんや」「かかしあ ( ヂ」 などのように 1 () 月に行なわれている ばかりか , 田の神だけは出雲へいか ないでるすをしているのだという信 仰が全国に行なわれている。これら のことから , 秋の稲作儀礼は穂かけ にはしまり刈上げを終えて , 1 カ月 のきびしい物忌みの生活をへて収穫 祭となっていたことがわかる。そこ ではしめて新米を調理して神に供え , 人間も共食することができたのであ る。収穫祭を終えれば春を迎えるし たくにとりかかるが , 収穫祭は 1 年 の終わりであり同時に始まりでもあ って , 収穫感謝と来る年の豊作を祈 願する祭りであった。 1 年を表わす 「とし」の語がイネを意味したこと もこれによってわかるカヾ , 実際には 4 カ月の冬ごもりの期間があっ て , 田仕事にかかるまでの中間に 暦による正月が設定されたために 1 年の終わりと始まりが収穫祭と合 致しなくなり , 収穫祭の儀礼は正月 に移されたところが多い。正月にま 2 5 1 つられる歳神が田の神と同一であ り , 祭儀の対象が扨俵らにおかれ ているのもそのためである。暦の受 容による正月の設定と田の神祭の 戸別化は , 稲作儀礼や田の神信仰を 複雑なものとしたが , 収穫祭の中心 となる重要な信仰だけは伝えられて きた。すなわちイネの霊に対する日 本人の信仰がまだ各地に共通して残 っていて , 正月の歳神の神体となる 扨俵や宮座などの行事にみいだせる ことである。歳神の籾俵はそれがい すれも種俵であり , きわめて神聖視 されていることは関西地方の「とし がみだわら」 , 石川県能登半島の「あ えのこと」などに明らかである。ま た中国地方の宮座でまつられる「お んたわさま」 , 長崎県対馬計島豆酘 の多久頭魂す神社の「おたねさま」 は , いすれも神田から収穫した種扨 を神体としてまつるのである。この ようなイネをめぐる民俗文化は , 日 本列島周辺の稲作諸民族のそれと比 較することにより , いっそう明確に なるが , その総合的な研究は第二次 大戦後に始まったものであり , 今後 の成果が期待される。 / ( 別刷 ) イネ 〔郷田〕 いの伊野〔町〕高知県吾川郡・の 町で高知市の西に接している。人口 20387 ( 1965 ) 。仁淀川東岸に位置 し , 土讃線が通ヒる。製紙業が盛ん で , 土佐和紙製造の中心だった。現 在タイプライター用の典具帖を紙 , 謄写原紙 , 紙幣用紙 , 障子紙 , ちり 紙など多種の製品を生産。原料のミ ツマタ , コウゾはおもに仁淀川上 中流の山村に産し , 大部分家内工業 的手すき工場ですかれるが , 日本紙 動の高まりに焦慮する岩倉の意を受 けて , く大綱領 , 綱領 , 意見書〉を起 草し , 君主主義的立憲政治の基本方 針をうちたてた。ついで伊藤のもと で大日本帝国憲法の草案を起草し , 取密院での審議にあたっては , 書記 官長として議長の伊藤を補佐した。 また教育勅語の起草にも参加し , 第 二次伊藤内閣の文部大臣となった。 〔鹿野〕 いのうえまさお井上正夫 1881 ~ 1950 新派俳優。本名は小坂勇一 愛媛県出身。新派劇の伊井蓉峰一座 にはいって名をえたが , 明治末期には 新時代劇協会を起こして近代劇を上 演し , 大正 , 昭和期には映画にも出 演した。また 1936 年井上演劇道場を たてて中間演劇を提唱した。く大尉 の娘〉く富岡先生 > く彦六大いに笑う〉 く北東の風 > く閣下〉その他に名演技 をみせ , 後進に大きな影響を与えた。 〔榎本〕 いのうたたたか伊能忠敬 1745 ~ 1818 江戸時代の地理学者。上 総ずに生まれ神保三治郎といったが , 18 歳で佐原の伊能家に養子となり , 衰徹した養家を興し 50 歳で隠居した のち , 高橋至時に天文暦学と測量 術を学んだ。日本で初めて実測の志 をおこし , 1800 年蝦夷を南東岸の地 図を作り , 以後 17 年間に日本全土の 実測図を完成した。忠敬は総図を作 ろうとしてその翌年に死んだが , 遺 図は 3 年後にく大日本沿海輿地全図〉 として師の長子高橋景保の手で 果たされ , 世に「伊能図」とよばれた ( / 地図 ) 。図はのちに景保が / シー ポルトに譲ったためシーポルト事件 のもととなったが , 欧州人はこれに よって正しく日本の地理を知ること イノコ 伊能忠敬 業の大工場もある。 〔西村〕 いのうえかおる井上馨 1836 ~ 1915 明治の政治家。長州藩士の家 に生まれ , 志道家の養子となって , 名を聞多としたが , のち井上家に復 帰した。青年時代から尊王攘夷誌 , 倒幕運動に献身し , その間反対派の ため重傷をおった。明治維新後 , 大 蔵大輔 , 工音別郎として資本主義の育 成に力をつくした。それだけに実業 界との結びつきが強く , 三井の番頭 と非難されたこともある。ついで外 務卿 , また第一次伊藤内閣の外務大 臣として / 条約改正にあたったが , 不成功に終わった。このとき彼のとっ た欧化政策がいわゆる / 鹿鳴館夐 時代を現出させた。のち侯爵となり , 元老 , 財界の大御所として政財界に にらみをきかせた。生涯を通して伊 藤博文と堅い友情に結ばれ , その政 治的介添役をつとめた。 〔鹿野〕 いのうえこわし井上毅 1844 ~ 95 明治時代の官僚 , 子爵。号は梧 蔭。熊本藩士の家に生まれ , 1870 年 上京して官吏となり , 岩倉具視 , 伊 藤博文の信任を得てその政策立案者 の役割をつとめた。 81 年自由民権運 かできた。 〔瀬田〕 いのこ亥の子旧暦 10 月の亥の 日に行なわれる行事。主として関西 から西に分布しており , 稲の刈り上 げ祭りとなっている。もとは 10 月 15 日の満月にあたる望の日の行事で あったが , 十二支の観念がはいって中 世以降から亥の月にあたる 10 月の亥 の日を祭日とするようになった。 の日に田の神が田から家へ帰るとし , 亥の子餅とか亥の日餅といって餅 をついて , たわらや倉 , なんどなど に供えるところが多く , 亥 , すなわ ちイノシシは多くの子を産むところ から , 翌年の豊産を祈る気持が強く , 一部では商人も亥の子を祝っている。 この日には亥の子突きとか石亥の子 といって , 子どもが円形の石をつい てまわったり , 各戸から餅や金銭を もらい歩くことも盛んであったが今 はすたれた。関東では十日夜かと か案山子上げの名で , 刈り上げ祭 が行なわれている。旧暦 2 月の亥の 日に , 春亥の子と称して田の神を祭 る地方も一部にはあるが , いすれに しても田の神が家と畑を往復する信
2 5 7 宿場町 , 市場町として発達した。製 る。泉川沿いに染色工場があり , 東 材 , 木工 , 線香製造が盛ん。二宮尊 洋紡など綿布 , 被服工場も多い。尾 徳の遺跡が多い。 〔尾留川〕 道との間を連絡船がかよい , 大阪 いまがわうじ今川氏室町 , 戦 別府航路の寄航地 , 芸予諸島渡海船 国時代の武家。足利義兼の孫長氏の の集結地でもある。北部の波止浜 は , 塩田と造船で知られたが 1959 年 二男国氏が , 三河幡豆郡今川庄を 製塩は廃止された。南部の桜井は漆 領したのに始まるという。その孫の 範国は足利尊氏に従軍して功があ 器の産地で , 白砂青松の海岸は瀬戸 り , 駿河の守護に補任され , 遠 内海国立公園に属する。城跡は吹揚 公園となり , 北西部の近見山 ( 244 m ) 江娉み , 駿河に武威をふるった。室 は瀬戸内海の眺望がよい。 町後期に至ると義元は父氏親をつ 〔石丸〕 いで三河をも支配下にいれ , 戦国大 いまよう今様平安後期より中 名の雄となり , 1560 年全国統一の夢 世初期にかけ行なわれた短唱叙情歌 謡。語義は「当世ふうの」の意で , をもって西上する途中 , 桶狭門おけ この最初の窯といわれているが 日はざま 今様歌の略称か。歌体は 7 ・ 5 音 1 で織田信長の奇襲にあって敗死し , れとはは、同期の稗古場窯 , 内田小 句を 4 句重ねたものが多く , 後世こ 家勢は急に衰えた。その子氏真諾は 峠窯 , 百間窯などの跡からは , 李 の歌謡形式を一般に今様とよぶが , 徳川 , 武田両氏に国を奪われ , 朝風の雅致ある染付も出上する。 当時は 1 句 8 ・ 5 音も優勢であるほ に守護としての今川氏は滅んだ。の れらは初期伊万里染付とよばれ , 最 か種々のくすれた歌体もあった。催 ち氏真が徳川家康の御伽衆 : とな 近とみに評価が高まった。有田一帯 馬楽などについで新しく公卿の ったので , 今川氏は江戸時代には高 は , これより日本における磁器焼造 間に流行し , 遊女や傀儡女にも名 の一大中心地となるが , とくに寛永 家として幕府につかえた。 〔浅沼〕 手を生んだ。後白河法皇は親しく愛 ( 1624 ~ 44 ) 末 , / 柿右衛門による赤 いまがわよしもと 今川義元 15 好し , その歌詞と音律とを / く梁塵秘 絵の発明とともに色絵が盛んとなり , 19 ~ 60 戦国時代の武将。氏親の 三男。駿河 3 遠江みの守護。はし 抄ん > に集成した。その他く古今 その声価は , 遠く欧州にまで及んだ ( 18 世紀初頭 ) 。作品は , 藍を絵染付の 目録抄 > 紙背の 64 首以下 , く平家物 め僧職にあったが , 兄氏輝の死後 , 語 > などの諸書に散見する。 / 和 食器類をはしめ , 豪華な錦手 , 染錦 , 遠俗して家督をついだ。老臣大原 青磁など多種にわたるが , ことに染 讃をんとの関係もみられ , 仏教歌謡と 雪斎の知略にたすけられて武威大い いうべきものが多いが , 庶民の生活 錦五叟船手談の鉢警は名高い。 / 色 にあがり , 織田氏と戦い , 三河岡崎 の哀歓をうたった民謡ふうのものも 鍋島 の松平氏をも勢力下におさめた。そ 〔渡辺〕 多数ある。 〔新間〕 の間 , 領国内で検地を行なって家臣 いみ忌み人間の特定の行為に いまり伊万里〔市〕佐賀県北西 ついて禁止する社会的儀ネ凵貫習で , に所領を安堵咎し , あるいはあてが 部 , 伊万里湾にのぞむ市。 1954 年伊 信仰と結びついて伝承されてきたも い , また産業の発展を助長させたり , の。日本では古くから「いみ」とい 極力領国支配の整備に尽力したが , 万里町ほか 1 町 7 村が合併して市制。 うことばカ { 用いられているか、 , ポリ 人口 67316 ( 1965 ) 。松浦線と筑肥線 1555 年雪斎を失ってからは , 失政も との分岐点で , 沿岸航路の中心、でも 多くなり , 60 年大軍を率いて西上す ネシア語の / タブーの訳語として 「禁忌」ということばも用いられて あり漁港を兼ねる。中世には倭寇 2 ぅ る途中 , / 桶狭間まの戦いで織田 の松浦党の根拠地であった。近世 , いる。忌みには特定のものを不浄視 信長に奇襲され敗死した。 〔浅沼〕 有田を中心とする陶磁器製造がおこ して近づかぬ場合と , 神聖視して接 いまず今津〔町〕滋賀県高島郡 , ると , 佐賀藩の製陶技術秘密保護政 近しない場合があるが , こ 琵琶胡北西岸の町。人口 11245 ( 19 ク ) こ二′つク ) 態度には共通した考えがあり , 元来 策からその独占積出港として繁栄し , 65 ) 。小浜に至る若狭街道と敦賀 有田焼は伊万里焼の名で知られるよ は別のものでなかったと思われる。 に至る西近江路の分岐点で , 湖港 うになった。明治初年伊万里県の県 特定の行為を禁止するということは , でもあり , 中世以来北国方面との交 庁がおかれたがまもなく廃され , 軍 通の要地として栄えた。江若鉄道の 特定の時期や機会に神聖な行為とし 港の指定も佐世保に決まったのでし 終点で , 湖西の政治 , 文化の中心を て行なっていたから , その行為を行 だいに衰え , その後炭鉱の開発や鉄 なす。旧陸軍演習場だった西部の饗 なうことのできる手続や資格 , 条件 道開通などで繁栄をとりもどし , 市 庭野には自衛隊が駐在する。ガラ をもたない , あるいはその時期や機 制施行まで西松浦郡の政治 , 経済の ス加工に天然がスを利用して温度計 会でもない不浄の身のときに行なう を製造する。北の石田川はアユの 中心であった。広い面積をしめる農 ことを忌むのである。忌みにはすで 産地。 〔小林〕 村部には人形山など地すべり地区が に起原の不明のものが多く , 消滅し ィーマニ〔山〕 lllimani 南米ボ 多い。特産物には藩御用窯の伝統 たものも多いが , 禁制の面ばかりが リビアの西部 , 首都ラ・ノヾスから南 をもつ大川内焼 ( 鍋島焼 ) , 大川ナシ , 強調されて残存するために , それを 東約 4 ( ) km にあり , アンデス山脈中の かまばこなどがあり , 湾内ではノリ , 起原発生的に類別することはむすか カキ , 真珠が養殖される。〔土井〕 高山。標高 6460 m 。水河をもつ花コ しい。忌みの行為には積極的に忌み ウ岩の山で , 南東のふもとにタング いまりやき伊万里焼佐賀県有 の状態にはいる場合と消極的な場合 ステンの鉱床がある。 田町一帯で生産される磁器。有田焼 とがある。前者は物忌精進ん 〔町野〕 と 今治〔市〕愛媛県北部 , いまばり ともいう。江戸時代に佐賀藩が , そ いわれているように , 神祭にあたっ 瀬戸内海の来島海峡にのぞむ市。 てその前後に田畑山林の労働や出漁 の製法の秘密のもれることをおそれ , 1920 年市制。人口 104470 ( 1965 ) 。中 製品はすべて , 有田から少し離れた を禁止して汚れた行為をしないとか , 世まで今治平野の一漁村で , 今張 神の降臨のときに神人の行列を見な 伊万里港を経て販売されたので , とよーよれていたが , 16 ( ) 4 年藤堂高虎 の名が全国にひろがった。文禄・慶 いで家の中に閉しこもっているなど が今治城を築き , 35 年以後は久松氏 長の役 ( 16 世紀末 ) 後 , 佐賀藩主鍋島 である。また神祭の役にあたる人が 3 万 5 千石の城下町として発展した。 直茂に従って朝鮮より日本に帰化し 祭りの前から特定の小屋や室に寝起 産業の中軸をなす綿業は明治初期に た李参平 ( のち金ヶ江三兵衛と改名 ) きして , 男女の交わりを禁し , 特定 おこり , 大正中期に好況期をむかえ が , 有田泉山に白磁上を発見し , 16 の服装をして圻離旨をとり , 彼らだけ た。特産のタオルは原糸前さらしの 16 年日本ではしめて白磁器の焼造に の手によって煮オきをし , 会話にも 柄物を特色とし , 産額の % を輸出す 成功した。上白川の天狗谷窯黔 4 たは , 忌詞ばを用いて饉慎することがある。 伊万里焼の染錦蘭図 鉢 ( 五叟船手 )
音楽の協力を楽劇の支柱とした。 れは , それまでの俳優中心の演劇に 対して , はるかに演出家の仕事を高 く置いたものであり , 演劇が総合芸 術であるという思想の出発点ともな さて 1879 年は近代劇の歴史の上で 忘れることができない年である。 の年ノルウェーのイプセンはくノ、形 の家 > を発表 , 痛烈な社会批判をこ めて近代劇を確立した。 このとき以 後演劇はたんなる娯楽ではなくなっ たといえよう。なぜなら , イプセン は , 舞台で展開される世界を最も現 実に密着した世界であるとし , 観客 はその現実の一断面と劇場の中で対 面するものと考えたからである。し たがってイプセンは , 舞台に飾られ た 1 室内のできごとは , ちょうど現 実の部屋の「第四の壁」をとりはす この したようなものであるとみた。 考え方は , とくに近代の個人主義社 会の悲喜劇をえがき出す強力な手段 になり , これ以後「市民悲劇」とい う分野が近代劇の中で大きな地位を 占めることとなった。ロシアのチェ ーホフはイプセンの確立した近代劇 をさらに一歩前進させ , 彼のく三人 姉妹 > く桜の園 > などの作品は批判的 リアリズムに上台をおいた傑作とし て有名である。このはか 19 世紀の末 には数多くの作家があらわれて幾多 の名作を発表した。自然主義による 輝かしい作品く日の出前 > を書いた ドイツのハウブトマン , はしめは強 い社会主義的傾向をもちながら後に は神秘主義的なかげをもつにいたっ たスエーデンのストリンドベリ , 既 成道徳に反抗し , 表現主義のさきが けとなったく春の目ざめ〉の作者ド イツの F. ウェデキント ( 1864 ~ 1918 ) , くモンナ・ノヾンナ〉く青い鳥 > など で知られる象徴主義演劇の代表的作 家ベルギーのマーテルリンク , 悲劇 くサロメ > で耽美まん主義のにない手 となった英国の O. ワイルドなどが それである。一方 , 近代劇における 喜劇はアイルランド生まれの B . シ ョーによって確立された。しかし喜 劇はもはやある様式の中に閉しこも ったものではあり得ない。ショーが 喜劇作家として高い名声を博すこと ができたのも , ショーの鋭い個性に よるものであった。同しことがワイ ルドやイタリアの L. ピランデロら についてもいえる。 ところで , 19 世紀に近代劇が完成 される一方 , 演劇の商品化が著しく 進んできて , 欧州各地に商業劇場が 繁栄するようになる。すると , 観客 の安易な興味につけこんで , 俳優個 人の人気を重くみるような傾向が生 いわゆるスター・システムで ある。劇作家までがそれにもとづい た作品を書くようになった。これら の影響で , イプセン , ストリンドベ 4 7 3 ーらの戯曲ははとんど上演 一種のさげすみの意味もこ めて「レーゼドラマ」 ( 読む戯曲 ) と よばれることもあった。そして , レ されす , リ , シ - ヨ 天下は太平であるというような考え 思想 , すなわち楽を正しくおもえば その楽劇の上台には , 中国の礼楽の 対話劇よりも楽劇の性格が著しく , よく含んで進んできた。その結果 , 洋の演劇は , 長らく宗教的色彩をつ れに対しインド , 中国 , 日本など東 沿革をあらましたどってきたが , 〔日本の演劇〕以上で , 欧羽ヨ演劇の いるといえよう 民族性を自覚せざるをえなくなって ってきた演劇が , あらためて各自の こに本来民族芸術として各国土に育 間の文化交流が著しく促進され・ , そ 関の急速な発達によって , 世界各国 を示しているが , と同時に , 交通機 機をはらみながら , さまざまの試み の演劇は , さらに次代への発展の契 で注目されている。このように現代 で表現することに成功したという点 の死 > は「意識の流れ」を舞台の上 ) のくセーノレスマン ミラー ( 1915 ~ 将来への手探りを続け , アーサー 商業劇場の強大なエネルギーの中で たしかな地位を得た米国の演劇は , E. オニールを生み , 世界の近代劇に した。また 20 世紀になってようやく 条件を叙事的にえがくべきだと主張 離れて , 人間に影響をおよは、す外的 ならないから , 感情本位の演劇から できごとの冷静な観察者でなければ 的な意義をもたせ , 観客は舞台上の による叙事的演劇論で , 演劇に教育 な主張をもったのは上掲のプレヒト 第二次大戦後の演劇でとくに鮮明 れた タニスラフスキー・システムか、生ま スラフスキーの演劇理論いわゆるス 現主義演劇が興り , ソ連にはスタニ て B. プレヒト ( 1898 ~ 1956 ) らの表 ~ 1966 ) の政治演劇が現われ , つづい る状態の中からピスカートル ( 1893 興り , ドイツには敗戦のさんたんた にはロマン・ロランの民衆演劇論が たとえは、フランス ぶ演劇が興った 欧州には , 政治と人間性の回復を叫 戦によって悲惨な絶望を体験すると , 先端をきる芸術であった。第一次大 時代には , 演劇は詩と同しように 〔現代の演劇〕社会の大きくゆれる ための貴重なささえともなった。 つぎに興ってくる現代の演劇運動の 展に大きな役割をはたした。そして う態度をとって , 近代劇の完成 , 発 しての戯曲をあくまで尊重するとい のモスクワ芸術座などは文学作品と 自由舞台 , 英国の独立劇場 , ロシア く , フランスの自由劇場 , ドイツの すぎない演劇だけがあったわけでな なったのである。もちろん , 娯楽に 曲の高い文学性を保証することにも ーゼドラマであることが逆にその戯 工ンゲキ 方がおかれていた ことにインドは 一種の宗教的浄化を演劇に求めた。 日本でも神道や仏教の影響を受け , 舞台を神聖視してきた伝統を見のが すわけにいかない。 日本の演劇の原初的な形に , ふっ う古代の神楽などが顧みられるが , その後アジア大陸から移入された伎 楽 , 舞楽 , 散楽などの諸楽や , 農 民芸能としての田楽などを要因と しながら , 14 世紀に武家貴族の保護 を受けていわゆる猿楽の / 能が こに日本の演劇らしい演 成立した。 劇がはしめて生まれたといえる。そ れに伴って幕間の興として / 狂言う が独特の喜劇を形成したが , これら 能および狂言は , 貴族および武家た ちの特権的な保護芸術として育成さ 一方 , 17 世紀以来 , 京都に生 れた。 まれた , お国歌舞伎をさきがけに 新興階級の町人によって支持された / 歌舞伎がしだいにその様式を完成 し , またそれと並行して / 人形浄瑠 璃うが , やがて近松門左衛門とい う偉大な作家によって , 深く町人社 会の人間性をとらえた演劇として大 成された。しかしこれら江戸時代に 盛行した日本の演劇は , やはり戯曲 を基本とする ( ドラマティカルな ) 演劇であるよりも , より舞台そのも のの表現を重んしる ( シアトリカル な ) 演劇として複雑化していった。 そして戯曲文学として深まらなかっ たのは , 絶対封建主義と鎖国制度に よって , 民族全体が世界から孤立し ていたためである。それゆえに , 江 戸後期の傑出した歌舞伎作家の鶴屋 南北や河竹黙阿弥にしても , 舞台 のトリックを利用して因縁話や因果 応報の芝居を作ることに術を駆使 するほかはなかった。こうして歌舞 伎の様式美が , 上述のような封建社 会下の町人たちによって固定化させ られたのである。 明治維新以来 , 日本の演劇は一変 して欧羽ヨ演劇に追いつくことに焦点 を合わせた。明治の政治と同しよう に欧化主義が演劇界を支配し , 1887 年には政治家 , 学者 , 文学者らによ って演劇改良会が結成され , 劇場か ら花道をとり去ること , 女方を廃す ること , 脚本をひろく出版すること などを提唱した。しかし歌舞伎その ものを欧化思想にまきこむことは当 然できなかった。そして 1906 年に坪 内逍遙うや島村抱月鵲らが文芸協 会を創立し , シェークスピアやイプ センの戯曲を移入したことから , 演 劇の欧化思潮が一歩を踏み出した。 明治以後の最初の女優とされる川上 貞奴が現われたのは 1800 年代の末で あり , 松井須磨子がはなばなしい活 躍をはしめたのは 1913 年からである。 こうした歴史的な立ちおくれは , そ もそも歌舞伎に対して新しい演劇を 目ざして明治中期に起こった / 新派
オウサカジ 4 9 7 南港などの整備計画が進められてい 住吉区の住吉大社も由緒ある古い神 く西部では大規模な重化学工場が集 るが , かって全体の 4 割をしめた伝 社で摂津国一ノ宮として多くの信仰 中している。北部地区は淀川 , 新淀 統的な中国市場を失い , 現在でも恒 を集める。代表的な大阪の繁華街で 川間に工場が分布し , 繊維 , 窯業な 常的輸入超過港になっている。東南 ある / 道頓堀は , 崛の南岸に沿い どに特色がある。明治初めの造幣局 アジア諸国へは繊維 , 金属 , 機械な 中座 , 歌舞伎座などをはしめ劇場 , の設置 , 十族授産のメリャス手工業 どの輸出もみられ , 加工貿易港とし 映画館が多く , これと T 字型をなす などの成立を契機に発展し , 市域の 拡大とともに北部に移った。東部も ての面目も保っているが , 戦前の貿 千日前も同様な歓楽街であるが , 道 易最盛時の貨物取扱量まで回復して 明治初年陸軍造兵廠が設けられたの 頓堀とは別の情緒をもっている。ま に刺激され , 下請工場の機械 , 器具 た南部の新世界は庶民的な盛り場で いない。広大な後背地と豊富な水量 類の小工場が生まれ , さらに婦女子 をもつ淀川水系は , 明治以前米の輸 あり , 大阪駅周辺の梅田は交通の結 の余剰労働力が各種の雑工業を生ん 送を中心に最も重要な輸送網であっ 節点を利し , デパート , 地下街 , 食 だ。西部では汽車 , 車両 , 造船 , 金 堂 , 劇場などが集中して雑踏する。 たが , 鉄道網 , 道路の発達は舟運の 属 , 化学などの大規模な工業が行な 相対的な衰退をまねいた。市域に通 市民のいこいの場所である中之島公 われるが , 大阪港の整備 , 安価な地 する陸上交通網は北部を東西に貫く 園は , 堂島 , 土佐堀の川筋にはさまれ , 東海道線をはしめ , 関西線 , 阪和線 公会堂 , 図書館なども置かれている。 価 , 運河の開さく , 豊富な地下水な などの国鉄 , 阪神 , 京阪神 , 南海 , 南部には住吉 , 天王寺の両公園があ どが工場誘致の大きな力となった。 市域のはば中心部は , 「町人の町」・ り , 前者には運動施設がととのい 近鉄などの私鉄が放射状に集中し , 後者には美術館 , 動物園 , 植物園 , の伝統をうけついだ商業地区で , 中 周辺の衛星都市群と密接に結ばれて 市立自然科学博物館などがある。市 いる。大阪 , 鶴橋 , 天王寺 , 西九条 でも船場 , 島ノ内一帯は同一の業種 南部の阿倍野は上町台地南部をしめ が集中して問屋街をなし , 道修町 を結んで大阪環状線が通じ , また市 街の中心を南北に地下鉄が走り , 市 の薬 , 本町一帯の繊維 , 谷町筋の洋 る住宅地である。教育機関として大 服地 , 南久宝寺筋の化粧品 , 雑貨 電 , バス網も多いが , 周辺都市から 阪大学 , 大阪外国語大学 , 大阪学芸 類 , 八幡筋の道具 , 松屋町筋のがん 大学 , 大阪市立大学 , ・府立大阪女子 の流入人口をさばききれす麻ひ状態 具 , 菓子など著名なものが多い。 に近い。そのため私鉄の市内乗入れ 大学などがある。 〔藤岡・小野〕 おうさかじけん大阪事件 1885 や高速道路の建設が行なわれ , 大阪 れらの間屋街はひろく西日本に広大 府による大阪中央環状線 , 外環状線 年 , 旧自由党左派のくわだてた朝鮮 な商圏をもち , 中でも繊維は東京を 内政改革運動。 1884 年自由党が解党 など 3 大環状線 , 1 ( ) 大放射線の整備 しのいで全国に及んでいる。古い伝 し , 自由民権運動が退潮期にはいる 統を誇る問屋街とともに 小売商店 計画も進められている。 〔名所〕背後に京都 , 奈良の観光都 と , それにあきたりない旧自由党左 街もにぎわい , 東京の銀座に匹敵す 派の大井憲太郎 ( 1843 ~ 1922 ) らは , る高級商店街は中心部をしめる心斎 市を控えているため , 大阪の観光的 朝鮮の民権運動を援助し , 対外危機 橋筋 , 戎橋す筋に沿って伸びてお 性格はやや薄いが , 古い歴史を物語 を招くこ、とによって日本政府を反省 り , また周辺各地から集中する電鉄 る神社や公園 , 繁華街などは多い。 さ , 国民の政治意識を高めようと のターミナルを中心として , 難波 , / 大阪城は市街北東部にあり , 巨大 な石がきは昔のおもかげをしのばせ した。強盗までして資金を集め , 爆 梅田新道 , 新世界 , 上六などの一 弾を製造して , まさに渡鮮しようと るが , 現在の天守閣は 1931 年の復興 次的商店街が作られている。都心北 したとき発覚して , 大阪 , 長崎など 部中之島に面する北浜は大阪証券取 によるもので , 内部は博物館に利用 引所を中心に証券会社が集中し , 銀 で捕えられた。女流民権家の景山 され , 周辺は公園になっている。著 ( 福田 ) 英子もそのなかに入っていた 行 , 保険会社などの金融機関は高麗 名な社寺には天満宮 , 四天王寺 , 住 〔鹿野〕 橋筋 , 御堂筋に並んでいる。 吉大社などがあげられる。菅原道真 おうさかじよう大阪城金 ( 錦 ) 〔交通〕大阪は六大都市では最も水 を祭神とする天満宮は 949 年の創建 城ともいい , 現在大阪市東区の一部 と伝え , 3 月の例祭 , 7 月の夏祭は 運に恵まれている。淀川をはじめ数 を占め , 石山本願寺の旧地でもある。 多くの人出でにぎわう。 / 四天王寺 多くの分流が市域を流れるが , また 難攻の末 , 織田信長は 1580 年この地 は聖徳太子によって建てられた日本 運河の開さくが水運の便を助けてい を手中にしたが , 信長の死後 1583 年 最古の寺といい , 戦災で多くの建造 る。古くから洪水の防止を目的に河 豊臣秀吉の支配下にはいった。秀吉 物を焼いたが , 戦後復旧が進んだ 川の改修が行なわれ , 安治川 , 木津 は入城後築城に着手し , 85 年までに 多くの国宝 , 重要文化財を保存する。 川 , 大和川などをはしめその例が多 諸大名に助力を命して完成させた い。新淀川も 1896 年以来 15 年間かけ 城の外郭は北を淀川 , 東を猫間新 て造られた新河道である。運河は古 川 , 西を東横堀川で区切る広大なも くは東横堀 , 西横堀 , 道頓堀などが ので , 城の内郭は本丸 , 二の丸 , 造られ , 明治以後も堂島堀川 , 境川 の丸 , 山里丸からなり , 本丸と山里丸 運河 , 木津川運河 , 城東運河などの の面積が約 2208 坪 ( 1 坪 = 3.305m2 ) , 開さくが進んで , いわゆる「水の都」 大阪城天守閣を望む。 本丸 , 二の丸 , 三の丸の周囲が 3 里 を造り出した。一方 , 貿易港として 天守閣は延べ 1534 坪 , 8 町 ( 約 12.6 ) という当時最大の城 の大阪の機能も見落とすことはでき 高さは 42m ( 石がきか ない。神戸 , 横浜に比べると貨物取 らは 56m ) 、に及ぶ 扱量は少ないが , 大阪の商工業の発 展はこの港に負うところが多い。 18 68 年の開港当時は安治川の河口が利 用され , 土砂の埋積のため大型髜 } の 入港は困難であった。そのため 97 年 以来防波堤築造 , 港内しゅんせつな どの築港計画が進み , 第一次大戦に よる好況にささえられて 1929 年はほ・ 築港は完成 , 35 年には全国貿易額の 23 % を占めるに至った。戦後も年間 貨物取扱量 50 ( ) ( ) 万トンを目標に大阪 南大阪の繁華街新世界。通天闍は高さ 100 m の鉄塔で展望台からは淡路島も見える を大
ウキヨゾウ 3 ともに退廃に流れて質的に低下し , 代わって葛飾北斎 , 安藤広重らが 洋風画の受容 , 自然観照の深化によ り風景画に新機軸を出した 江戸名所をはしめ東海道 , 木曽街道 , 近江八景 , さらには日本六十余州に いたる全国の庶民の実生活と風上が うっされた。また , 花鳥画や武者絵 あるいは横浜絵 , 長崎絵 , 浪華錦 絵の発達も時勢の現われだが , 云術 的価値に乏しい。 明治以後一時は印 刷機能の面で浮世絵も発展をとげた が , 明治 3 ( ) 年代で浮世絵木版画は衰 い 滅し , 歌舞伎関係の鳥居派がわすか に命脈を保つのみで , 現代版画がと って代わった。浮世絵は , 絵師の地 位も低く日本美術の主流からながら く軽視されていたが , 江戸末期に欧 州に紹介されて人気をよび , 印象派 などの新絵画連動にも刺激を与え , 浮世絵左から奧村政信のく小姓吉三〉 , 鳥居清倍のく団十郎の竹抜五郎〉 , 鳥居清長のく洗濯と張り物 > ( 3 枚続きの右 ) 海外における声価は高い。 / ( 別刷 ) 浮世絵 〔楢崎〕 から統制されて一定の地区で特殊の うきよぞうし浮世草子 1682 年 発達をとげた遊里 , 歌舞伎などの享 / 井原西鶴のく好色一代男 > に始ま 楽機関に取材し , 相伴って隆盛にな り , 明和 ( 1764 ~ 71 ) ごろに八文字屋本 の衰亡とともに終わった近世前期の った。一方 , 当時庶民的な絵入り版 この 町人文学。西鶴の作品をそれ以前の 本が大いにもてはやされたか、 仮名草子から区別して , 浮世本 , 好 版本の様式を風俗画にとり入れ , 新 色本 , 浮世草子などの名称で呼び始 しい浮世絵様式に統一したのが菱川 師宣劣 2 である。浮世絵はこの廉価 めたのは彼の死後であるが , 「浮世」 な版画形式で民衆に受け入れられ , とは好色または当世生活の意に解さ 同時にその感情 , 欲求を反映した れる。浮世草子の題材のほとんどは 元禄 ~ 享保 ( 1688 ~ 1736 ) を中心に菱 西鶴のく西鶴諸国咄どな > く好色一代 川 ( 師宣 ) 派 , 懐月堂 ( 安度 ) 派 , 奧村 女〉く武道伝来記〉く日本永代蔵〉く世 ( 政信 ) 派 , 上方の西川 ( 祐信 ) 派や 間胸算用 > く西鶴置上産 > などに扱わ 役者絵専門の鳥居 ( 清信 ) 派が出て , れ , これらか、また浮 - 世草子の主要作 歌川国芳のく東都富十 版式も墨一色すりからそれに丹色を 景画および秘戯画などがある。浮世 である。彼の没後 , 都の錦 , 錦文流 , 見三十六景〉の内く新 絵の語は浮世帽子 , 浮世元結弉など 塗る丹絵 北条団水 , 月尋堂らは西鶴の模倣者 多色筆彩の漆絵へと進 大はし橋下の眺望〉 み , 174 ( ) ~ 5 ( ) 年代には数色すり版画 にすぎす , 雲風子林鴻のく好色産毛 > , の類語とともに元禄時代 ( 1688 ~ 17 である紅すリ絵が作られ , 肉筆絵は ( ) 4 ) 前後に流布し , 文献では天和元 夜食時分のく好色万金丹 > ( 1694 ) , 西 年 ( 1681 ) に初めて見える。現世肯定 まったくわき役的存在となった。 1765 沢一風のく御前義経記〉 ( 17 ( ) ( ) ) など の・享楽的意味あいが濃く , 源流は 年鈴木春信により多色すりの錦絵 の作がわすかに亜流の評をまぬかれ 桃山時代に盛んに描かれた洛中洛 が案出され , 18 ( ) () 年ごろまでの浮世 ている。そしてく傾城色三味線 > の 外う図 , 四条河原図などの庶民遊 絵黄金時代が現出した。版画は絵師 刊行 ( 1701 ) で興味本位の大衆化に成 のみの製作でなく , 彫り師 , 摺すり師 , 楽図 , 風俗図である。これらの筆者 功した版元の八文字屋自笑 ( ? ~ 1745 ) それに注文主の絵本問屋 ( 版元 ) を加 として既成の画派に属する画家のほ は , 作者の江島屋其磧ミき ( 1667 ~ 17 えた 4 者の協力作業であり , 絵師の かに新興の町絵師が登場し , 寛永 36 ) と組んで浮世草子を盛んに刊行 描いた版下絵を彫り師が桜材の版木 ( 1624 ~ 44 ) 以後は , もつばら後者の し , これか、八文字屋本といわれるか・ , 手に帰した。彼らは大和絵師を自 にはりこんで彫り , 指定の色数だけ 浮世草子の商品化に拍車をかけた。 称したが , 描くところはすべて庶民 の版を作って摺り師に回し , ばれんで 其磧には類型的な性格描写で新生面 風俗であった。とくに風致上の見地 奉書にすり重ねて仕上げる。これら を開いたく世間子息気質〉 ( 1715 ) の技術がこの時代にめざましく進歩 があり , この類を「気質物」といっ し , 平面的構成 , 明確な色彩美とい ている。自笑の死後数代にして八文 う浮世絵独自の魅力が達成された 字屋本は滅んだ 〔広未〕 うきよぶろ浮世風呂式亭三馬 春信 , 鳥居清長 , 喜多川歌麿がつぎ の滑檮本この最高作。初編 ( 1809 ) , つぎに出現して美人画様式を更新し , 2 編 ( 1810) , 3 ~ 4 編 ( 1812 ) 。初編 役者絵には勝川春章 , 東洲斎写楽が と 4 編は男湯 , 2 編と 3 編は女湯を 出た。とくに歌麿 , 写楽は大首絵形 舞台にし , 登場人物はありふれた江 式の中にそれぞれ女の理想美と役者 戸の庶民で , 中風病み , 小言をい の個性的写実を表現してヒ。ークをな した。その他細田栄之 , 北尾重政 , う老人 , 座頭 , 常磐津の師匠らし 歌川豊春 , 豊広 , 豊国らの活躍も見 き女 , 文学少女 , 勇みの男など , そ は こに地方人もましえている。これら のカ { せない 市井の庶民の , 当時の社交場であ 18 ( ) ( ) 年から明治維新までの末期に った湯屋における言動を , 筋や事件 は , 浮世絵はますます幅ひろく多量 に生産されたが , 美人画 , 役者絵は によらす会話を中心に活写すること 浮世草子錦文流く棠 大門屋敷 > のさしえ も、 4 や・
オウシマッ 4 9 9 方 , 王子は流浪して貧民の境をなめ , 忠 伊豆大島 実なマイケル・ヘンドンの手で両者が正当 な立場に帰る。 〔瀬田〕 おうしま大島伊豆半島の東方 約 2 ( ) km , 東京から ll()km に位置し , 伊 豆諸島中最北最大 ( 面積 91km2 ) の島。 人口 11540 ( 1965 ) 。富士火山帯に属す 島公園 る活火山島で , 玄武岩質のコニーデ ネ , へ動物園 型複式火山の頂部が太平洋上に突出 勹者住 元町 大敷網はその規模によ おうしま大島瀬戸内海芸予諸 したもの。外輪山のカルデラの中に って 6 ~ 1 ( ) Om の水深に 島の一つで , 津倉島ともいう。面積 中央火口丘の / 三原山 ( 75 8 m ) が噴 まで設置できる。大形 45km2 , 人口 16374 ( 1965 ) 。愛媛県越 出し , 火口からはたえす噴煙を上げ , ノウ のもので身網の長さ 180 智ま郡の吉海町と宮窪町からなり , 大島の御神火として知られている。 ~ 360m , 巾量 7 ( ) ~ 140m . 筆 外輪山の山腹には多数の寄生休火山 来島海峡をへだてて今治市と対 に及びかき網の全長は があり , 島の南東端波浮堡港は爆裂 す。最高所 382 m の丘陵性の島で , 1000 m ぐらい。身網とか 火口である。島の周囲には海食がい 南東の海岸は今治 ~ 鞆断層で切ら き網の接する部分は開 ・・閭イ大 4-0 km が発達し , 東岸では高さ 15 ( ) m に達す れ直線をなす。建築 , 土木用に用い 放され魚の入口となる 差木地竜王崕 る大島石として有名な花コウ岩の石 る。全島火山砕せつ物と溶岩流から 下田い 9- 、大島 成り , ーっの川もない水の乏しい島 材生産が島内第 1 の産業である。ま なので , 島民はもつはら天水に依存 た塩田があり , かんきつ類も産する。 おうしきあみ大敷網漁獲用建 し , まれに泉水から水道をひいて使 〔 . 勝俣〕 網の一種。日本に発達した建網のう おうしまたかとう大島高任 18 っている。水田はまったくなく , 畑 ちでもっとも古く , 元和年間 ( 1615 26 ~ 19 ( ) 1 日本の近代鉱業技術の創 は今もなお切替え畑でサツマイモや ~ 23 ) に山口県で発達したものであ 始者。盛岡生まれ。名は総左衛門。 麦を作り , 3 年間耕作すると林地に る。明治後期から大正初期にかけて 大島 ( 補 ) 伊豆七島の もどす。ッパキ , ハンノキ , 大島桜 父周意は南部藩医。 15 歳で江戸に 大島は七島中最も交通 全国的に普及し , プリを大量に捕獲 が便利で , 港情緒のあ がよくしげる。乳牛を飼ってバター 2 ( ) 歳で長崎に出て蘭学 , 砲術 , 採鉱ヤ していたが / 大謀滸罔の発達ととも ふれる波浮港 , ツバキ を製造し , ツバキ油 , 薪炭とともに 金術などを学ぶ。 1853 年藩命により にすたれた。大敷網は魚を捕獲する 並木 , 御神火の三原山 , 水戸の反射炉築造に参加 , 57 年その 東京方面へ移出して , 島の三大商品 身網と , 身網へ誘導するかき網とか 大島公園など名所や史 原料銑生産のため釜石鉱山を開発 , をなしているが , ツバキ油と薪炭は らなる。身網ははは三角状で網目の 跡 , 独特の風俗も多く , 日本最初の洋式製銑に成功。 69 年維 細かい網地からなり , かき網はあら 時代からとり残されつつあり , 島の 19 年他の島々ととも 新政府の鉱山権正になり , 高任と改 経済に大きな問題となっている。好 い網地で作られている。大敷網は操 に富士箱根伊豆国立公 名。 70 年から 2 年間欧米を視察 , 帰 園に追加指定された。 漁場をひかえているが漁業は小規模 業か・ 2 ~ 3 人でたりるノト形のものか また , 1963 年に島内循 国後 , 釜石 , 十輪田 , 阿仁 , 小坂 , である。島の縁辺 , 外輪山の山ろく ら 10 () 人以上を要する大形のものま 環道路が完成した。西 佐渡など各鉱山の近代化に尽力。晩 に泉津 , 岡田 , 元町 , 野増 , 差木地 , である。漁獲物の対象はプリのはか , 岸の元町では 1965 年 1 〔森下〕 波浮港の集落があリ , 1955 年合イ并して 年は日本鉱業会会長。 サバなど沿岸によせるすべ イワシ、 月 11 日大火がおこり , おうしまつむぎ大島紬奄美あま 東京都大島町となった。「あんこ」 てのものである。 / 漁網〔小牧〕 み 大島支庁 , 町役場 , 郵 とよばれる島の女は , かすりのきも 大島の名産の絹織物。たてよことも おうしざ雄牛座冬の空の星座。 便局 , 繁華街を含む町 の大半 ( 約 15 万 m2 ) を焼 玉糸を用いた / つむぎ織であるが , のに前かけをしめ , 髪にてぬぐいを 1 月 24 日午後 8 時の空に南中する。 失 , 被災世帯 408 , 被 テーチキ ( タチシャリンバイ ) の樹皮 まいた特徴ある服装で , 趣をみせて ギリシア神話では , ゼウスの化けた 害総額 2 ( ) 億円に達した。 の煮出し汁を用いて染め , さらに鉄 いる。東京竹芝桟橋煢から毎日船が 牛で , フェニキア王の娘エウロバを 分を含む泥の中にもみ込み ( 泥染め ) , 通い ( 約 7 時間 ) , 風向きにより岡田ま さらったという。黄道十二宮の一つ。 黒かっ色に染め上げる。堅牢でし たは元町に着く。下田 , 熱海 , 江ノ 。星は / アルデノヾランという 1 等星。 ふ、みのある色合いが特徴で多くはか 〔勝俣〕 島 , 伊東とも便がある。 / プレアデス星団 , ヒアデス星団と すりがらである。テーチキのはかア いう二大散開星団があるのでも名高 おうしま大島紀伊半島の先端 , イ , クチナシ , シイなどの植物染料 い。また ( 星の近くにあるカニ星雲 潮ノ岬の東に lkm の水道を隔てて位 も用いられる。明治初期に織物技術 は , 超新星のなごりといわれ , / ラ 置する島。面積 10km2 。基盤は石英班 が改良され , 鹿児島市や都城市でも 岩 , 上に海成レキをのせ , 標高 8()m ジオ星の一つとしても知られる。 生産されるようになったが本場物に の稜 3 よ線の東西に走る海岸段丘が発 〔草下〕 は及ばない。植物染料なので酸に弱 達し , 最高所は大森山 ( 172 m ) 。和 おうじとこじき王子ど乞食 T he 大島元町港三原山の くまたべンジンの類を用いてはなら 歌山県串本壮町に属する島内の集落 Prince and the Pauper アメリカ ゆるやかなすそ野にひ らけ , 東京や伊東 , 下 ない。なお色合いやがら合いのみを の作家マーク・トウェーン作の歴史 は , 半農半漁の生活を営む。東端の 田からの定期船が着く 樫野劣し崎には 1870 年設置の灯台 , 明 小説。 1881 年作。トウェーンは , 英 治初年遭難したトルコ車艦の碑があ 国に旅行してこの物語のヒントをつ り , 島の中央に京都大学の植物園が かみ , 1877 年から執筆して , 娘たち ある。串本 ~ 大島間に巡航船が通い , にこの物語をささげた。作者自身も 島内を東西にバスが通しる。〔式〕 この作品を愛していたが , 中世の野 蛮な生活と残酷な国法とを写実的に おうしま大島山冂県東部 , 広 島湾に位置する島。面積 14 ( ) km2 。屋 盛りこみ , 王子と乞食をいれかえて 代 % 島ともいい , 山口県大島郡 ( 人 風刺をきかせた傑作であったから , ロ 43359 。 1965 ) をなす。花コウ岩か 「デモクラン一の寓話」と呼ばれる。 ら成り , 最高所は 695m 。古くから ソ連ではミ / 、ルコフが劇化に成功 開柘されたが , 人口過剰のため出か 8 せぎ , 海外移民が多い。階段耕作に 〔あら筋〕うり二つの 2 少年。ヘンリー よる山地の耕地化が進み , ミカン栽 世の王子工ドワードと乞食の子トムとが , 培などが盛んなはか , タイ , イワシ 冗談で服をとりかえたために , トムは宮廷 〔谷口〕 漁も行なわれる。 のにせ王子として王家のかせに苦しみ , 風早・・ 2 4 km 千波
広瀬川流域の水田および山村地域を 含む。特色ある旧十族屋敷をもつ出 水は出水平野の中心地で , アルコー ル工場がある。薩摩藩関所跡のあ る米ノ津は漁港で , 1959 年に出水製 紙工場が新設された。出水駅からバ スで 2 ( ) 分の干拓地荒崎の水田地帯は ツルの渡来地 ( 特別天然記念物 ) とし て有名。特産物は苗木 , 葉タバコ , クルマエビで , アサクサノリの生産 も盛んである。 〔土井〕 2 0 1 いずみさんみやく和泉山脈大 阪府と和歌山県の境を 40km にわたっ て東西に走る地塁。東は金剛山地に 接し , 西は紀淡海峡を隔てて淡路島 諭鶴羽山地につらなる。北斜面は 瀬戸内気候 , 南斜面は南海気候であ る。また北面は大阪の商圏に属し , タマネキ、栽培などの近郊農業 , 南面 はキシュウミカンの栽培か、それぞれ 盛んで , 気候 , 産業の性状を南北に 分ける。南北に通しる交通路が山脈 頭にある古代ギリシアからの旧都で , 旧名はスミルナ Sm yrn a とよばれた 二つの鉄道系統の終点となっており , 付近のトルコタバコ , 綿花などのお もな集散加工地である。またトルコ の主要軍港で , 北大西洋軍の南部軍 に属する東南軍司令部と第 6 戦術空 軍司令部か、おかれている。スミルナ はく当ハネ黙示録 > のなかに記され ている七教会の一つの所在地である が , 現在もキ、リシア正教 , カトリッ クおよびアルメニア教会の大司教の 所在地。オスマン・トルコが 1424 年 この町を占領して以来今日におよぶ が , 第一次大戦後ギリシアとの間に イズモサキ 泉気を花 いずみおうつ泉大津〔市〕大阪 府南部 , 大阪湾に臨む泉州機業地帯 の綿毛機業都市。 1942 年市制。・人 . ロ 53312 ( 1965 ) 。古く「府中の浜」と よばれた : 巷で , 近世には紀州街道の 明治以後泉州紡織業 宿男尺であった の発展に伴い , 全国の過半数をしめ る毛布産地となり , とくに綿毛布は 全国の 95 % を産する。その他メリヤ ス , ラシャ服地 , 染色 , さらし , ゴ ム製品がある。北部の助松海岸は海 水浴場大阪市とは南海電鉄本線で を縦断する。 〔谷口〕 いすみしきぶ和泉式部平安中 期の女歌人。生没年不明。父は大江 雅致 , 母は平保衡の子という。最 初和泉守橘道貞に嫁して和泉式部と よばれ一女小式部を生んだ。長保 年間 ( 999 ~ 10 ( ) 4 ) 道貞のもとを去り 為尊 . 綣親工の愛人となり , その没後 は弟の敦道親工に愛された。まも なく弟宮も没し , 中宮彰子につかえ て藤原保昌と再婚した。のち保昌と も不和となったらしいが , 晩年の事 情は不詳である。えん麗多情で多く の男と交渉をもち , 歌僧の道命阿闍 梨との情話も伝えられる。女歌人 として赤染衛門と並称されたが , は るかに天オ的で , 奔放な情感豊かな歌 風は時流をぬいた。歌集にく和泉式 部集 > 5 巻 , く同続集〉 2 巻がある。 また敦道親王と贈答した恋歌をもと とする歌物語和泉式部日記は和泉式 部物語ともいい , 親王との出会いか らその本邸にひきとられるまで約 1 ( ) カ月の忍ぶ恋の心理を描いているが 自作か他作か不明である。なお式部 は和歌の霊験を語る主人公として全 国各地に伝説が残っているが , それ らは中世の民間文芸である / 語り物 の伝承によっている。 「黒髪の乱れも知らすうちふせばまっかき 帰属問題がおこった。 〔奥野〕 連絡している , 、 〔小林〕 いずみきようか泉鏡花 1873 ~ 1939 作家。本名は鏡太郎。金沢生 まれ。はじめ尾崎紅葉の門下生とな ったが , 日清戦争直後の社会的関心 の高まったころく夜行巡査 > く外科 室〉を発表し , 観念小説とよばれて 好評を博した。しかしこの傾向は発 展させられることなく , その後はロ マン主義的作風に一貫した。明治末 期に自然主義のは、つ興により紅葉門 下の小栗風葉 , 柳川春葉 , 徳田秋声 らも自然主義に近づいていったが 鏡花はロマン主義的作風を守って反 自然主義運動のための文芸革新会に 参加した。雅俗混合による独自の文 体を駆使して神秘的幻想の物語や , 粋や侠の世界を描き出した。代表 作にく照葉狂言 > ( 1896 ) く高野〉 ( 190() ) / く婦黔系図〉 ( 1907 ) く歌行灯 > ( 1910 ) などがある。彼の作品が新派 劇や映画となって大衆にひろく迎え られたのは , ロマン主義的陶酔のな かに庶民的正義感や義理感情が豊富 に盛りこまれており , プルジョアジ ーの卑イ谷さへの反感が示されていた ことによるのであろう。永井荷風 , 谷崎潤一郎 , 久保田万太郎 , 里見弴 らに影響を及は、している。〔広未〕 いすみさの泉佐野〔市〕大阪府 南部 , 大阪湾に面する泉州紡織工業 地帯の市。 1948 年市制。人口 66521 ( 1965 ) 。近世 , 付近に産する和泉綿 , 黒砂糖の集散地 , イワシ漁業の基地 ( 干しイワシに加工 ) として栄え , 回 船問屋もあったが , 明治以後織物工 業都市となった。東方の熊取町とと もに内需向タオルの生産が盛んで , 年産額 4 ( ) 億円。他に特紡糸 , メリヤ ス , 織機のシャットル ( 杼ひ。全国生 産の約 80% ) , 木管を産する。東部 の農村地帯は日本有数のタマネキ・産 やりし人ぞ恋しき」 〔石田〕 いずも出雲旧国名。雲州とも いう。現在の島根県の東半。山陰道 に属し , 東は伯耆う , 西は石見 南は備後に接する。古代における 政治上 , 宗教上の中心、地であり , く出 雲風上記〉を伝承する。大化の改新 のとき 1 国で , 733 年以降 10 郡とな った。建久年間 0190 ~ 99 ) 佐々木氏 守護 , のち塩冶氏を称し , 1338 年 滅びて佐々木高氏が守護 , のち尼子 氏守護代 , さらに塩冶氏に代わった 1485 年尼子氏が奪い , 富田に築城し 1566 年毛利元就が尼子氏を滅 た は、し , 91 年には吉川氏の所領となっ た。江戸時代には松江に堀尾氏が築 城し , 1718 年松平氏が封ぜられた。 その後 , 広瀬 , 母里の支藩が出 , 松 江とともに 3 藩となり , 1871 年島根 県 , 96 年意宇弩 , 秋鹿 , 島根各郡を 廃して八束郡 , 楯縫 , 出雲 , 神門 各郡を廃して簸川郡とし , 能義 , 大 原 , 仁多 , 飯石 t し各郡と合わせ 6 郡 になり現在にいたる。く町歩下組帳 > ( 1716 ~ 47 ) によれば田約 15495 町 , 畑 約 4916 町。総石高慶長 3 年約 18665 ( ) 石 , 元禄年間約 282490 石 , 天保 3 年 約 302627 石。近世の特産物には十六 島 3 のノリ , 友島のプリ , 能義郡 , 飯石郡の鉄 , 松江のスズキと茶 , 野 いずみねつ泉熱 / しようこう 熱に似た病気で , 異型しようこう熱 ともいう。最初に独立疾患として記 載した泉仙助の姓を冠して泉熱とい う。原因はビールスと考えられてい るが , 最終的にはまだ確定していな い。伝染経路はこのビールスで汚染 された飲料水や食物などによると思 われるものが最も多い。潜伏期は 3 ~ 14 日 , 主症状は発熱 , 発しん , 消 化器症状である。熱は第 5 病日ごろ , いったん下がり 1 ~ 2 日のうちに ふたたび上昇し 1 ~ 3 週でしだいに 下熱する。 M 字型または 2 峰性の熱 型を呈する。発しんは , しようこう 熱に似るが , それよりも限局してい ることが多い。死亡はまれである。 治療には , テトラサイクリン , クロ ラムフェニコールなどが試みられる。 〔北本〕 イス、ミアレ lzmir トノレコの西岸 の都市。人口 36 ( ) 829 ( 1960 ) 。アンカ ラ , イスタンプールにつぐ同国第 3 の都市。小アジア西岸のスミルナ湾 白の紙などがある。 〔谷凵〕 地である。 〔小林〕 いずも出雲〔市〕島根県東部 , 出雲平野の市。 1941 年市制。人口 68765 ( 1965 ) 。出雲平野をつくった斐 伊巳川と神戸川の集落から発達し た市場町で , 旧名を今市といった。 現在も農畜産物を集散するほか , 綿 紡績工業も発達し , 農村の余剰労 1 動 力を吸収している。また家内工業的 な木工 , 醸造 , 窯業 ( 出雲焼 ) がある。 また出雲大社参拝の玄関口で山陰線 に沿い大社線が分岐する。神戸川上 流の須佐神社への途中 , 奇岩が立ち ならぶ立久恵峡がある。〔西村〕 いずもざき出雲崎〔町〕新潟県 三島郡 , 日本海岸に面した細長い町。 人口 9337 ( 1965 ) 。北陸街道の宿場と して発達し , 江戸時代には佐渡島 との連絡港 , 天領代官所在地であっ たが , 今は漁港となっている。越後 線が通しる。明治の初めここを中心
オルコック 5 8 2 の作曲家にも P. ヒンデミット , F. プ オアレコック Rutherford AIcock ーランクらにオルガン曲があり , 最 1809 ~ 97 英国の外交官 , 駐清領事 近では O. メシアンが新しい様式のオ をへて , 1859 年駐日総領事として江 ルガン曲を書いて注目されている。 戸に着任 , 同年初代公使となった ド・オルガン〕パイプを用い 米国公使ノ、リスの帰国後は外交指導 す , ハーモニカやアコーデオンと同 権をにぎり , 横浜開港 , 貿易制限 , 貨幣交換など対日外交には強硬策を 様 , 金属製のリードに空気をあてて 音を出すオルガンで , 19 世紀にパイ とった。 64 年下関砲撃には主導者と プ・オルガンの代用品として作られ なったが同年帰国 , のちに駐清公使 た。小型で簡便であるが , パイプ・ ( 1865 ~ 71 ) となる。著書にく大君の オルガ、ンのような音量や表現力はな 都 > ( 日本滞在記 ) がある。〔浅沼〕 い。ふいごから空気だめを通って空 オ′レコット Louisa MayAlcott 気を吹き出す方式のハルモニウムと , 1832 ~ 88 米国の女流作家。思想家 A. B. オノレコット ( 1799 ~ 1888 ) の娘 空気を吸い出す方式のアメリカン・ れを愛用したと伝える。現在の風圧 オーがンとの 2 種がある。前者は欧 としてペンシルバニア州に生まれ 屮トに普及し , やや高級である。日本 た。少女時代から作家を志し , 詩 , オルガンの最初の記録は 4 世紀のも 短編 , 戯曲を書き始め , 16 歳の時に でオルガンとよぶのはふつう後者で , ので , 6 世紀前後から教会に採用さ 演奏がやさしく価格も安い。いすれ はく花物語 > を発表している。 / く四 れて発達した。 10 世紀には , 40 本の 人姉妹 > ( 1868 ~ 69 ) を書いて以後は , も鍵盤は 61 鍵 5 オクタープが標準で , ノヾイプと 70 人で送風する 26 のふいこ ペダルでふいごを動かし , 踏み方の その好評に力を得てく昔気質誓たの少 をもつオルガンの記録がある。その 強弱とひざで動かす増音器 ( スウェ 女 > など同傾向の少女向き家庭小説 ころのオルガ、ンは鍵でなく音栓をひ ル ) で音量を調節する。 き出して演奏したが , 13 世紀には約 ノ、ノレモ . ニウ を数多く発表した。 〔宮本〕 3 オクタープの鍵盤が備えられ , 15 ムはふつう 4 列のリードをもち , そ オルゴール音楽がん具の一種。 この れぞれが高音部と低音部に分かれて 世紀には足鍵盤も加えられた。 オランダ言吾のオノレゲノレ orgel の転イヒ ようなオルガンの歴史に伴い , その 音栓につながる。音栓をひき出さな 語。構造は , 箱のなかに歯の長短に ければ , 鍵 ( キー ) をおしても鳴らな 音楽も発展してきた。中世初期の教 よって音階をつくる金属板を , くし 会で用いられたオルガンは , 単旋聖 い。アメリカン・オーがンも 2 ~ 13 形にとりつけ , それに接して多くの 歌を単声で重複するものにすぎなか 個の音栓をもっているが , 小型のも とげのついた円筒が装置してあり , ただ風車がまわって音 ったか・ , 14 世紀になるとオノレガン独 のにはない。 ぜんまい仕掛けで円筒を回転させる をふるわせるボクス・フマーナの音 自の音楽の最古の楽譜 ( タブラチュ と , とげが金属板をはしいて , 音楽 栓は , アメリカン・オーガ、ン独特の ァ ) が現われる。 15 世紀にはとくに をかなでる。 1770 年ごろ欧州で考案 ドイツで発達し , 最古の前奏曲の例 . もので , 赤字でしるしてある。最近 され , 貴族の間でもてあそばれた は , モータで風をおこす電動式リー や C. ノヾウマン ( 1410 頃 ~ 73 ) のオノレガ 時計 , タノヾコケース , コンノ、クトな ド・オルガンがあり , その増音器は ン作曲法の書物がみられ , 16 世紀に うした器具へ どにも仕込まれて , ペダル式とひざ操作式がある。また なるとその他の国々にも普及して , の応用は 700 種にものは、る。大きな その一種にリード・オノレガンとアコ ものではピアノぐらいもあって , 200 トッカータ , リチェノレカーレ , カン ーーデオンの合いの子のコード・オル 曲をかなでるオルゴールの製作され ツォーナなどのオノレガン音楽の新し ガンとよぶものも作られている。 たこともある。日本への伝来は江戸 い形式が現われる。 17 世紀から 18 世 末近くで , 嘉永 5 年 ( 1852 ) 4 月 , 江 〔電気オルガン・電子オルガン〕 2() 紀中ごろにかけてのバロック時代は 戸深川仲町で , オランダ渡りのチャ 世紀初頭から電気的な発音原理によ オルガン音楽の盛期であり , 無数の ルゴロと称し , 音響を発する不思議 独奏曲 , 声楽曲のほか , 通奏低音楽 るオルガ、ンを作る試みが盛んとなっ な箱として見せ物にした。また文久 器として合奏にも加えられた。そし た。その方式を 3 大別すると , 1 ) 機 年間 ( 1861 ~ 64 ) に時計師小林伝四郎 てノヾロック・オルガン音楽の頂点を 械的振動を電気振動に変えるもの カヾ日本の音楽にあわせたオノレゴーノレ 築いたのか、 J. S. ノヾッノ、であった。古 代表はウーリツツア・オルガンで , を製作したことがある。明治以後は , 典派時代以後は , 多くの機構上の改 これはリードの振動を静電誘導で電 く東京雛玩具が商報 > 明治 36 年 4 月 革が行なわれたにもかかわらす , 演 気振動に変え , 増幅してスピーカを 号の掲載広告に , 「最新流行玩具 , 洋 奏様式の変化からオルガン音楽はむ 鳴らす。 2 ) 機械的回転をなかだちとし 琴 ( オルゴール ) 廻転発美音」とみえ , しろ衰退したが , 19 世紀の作曲家の て電気振動をおこす方式代表は L. ノ、ンドノレで回転させるものカゞ売りだ 中にはメンデルスゾーン , リスト , パモンドの発明したノ、モンド・オノレ されている。明治の末から幼児用の フランク , サン・サーンスらのすぐ ガンで , 同期モータで回転される歯 「ガラガラ」にオルゴールを応用した れた作品をみることができる。現代 車 ( トーン・ホイール ) によって磁束 これは円筒 ものが販売されてきた。 を変化させ正弦波の交流をおこす。 状のもののなかに , 鋼鉄の針金を数 3 ) まったく電気的に電気振動をおこ 本たて , 上部から振り子をつるし , す方式真空管やトランジスタによ ハンドルをふると振り子が針金にふ る発振回路を使うので , この種類の れ音を発するものである。〔山田〕 ものを電子オルガンともいう。日本 オアレジョニキゼ Ordzhonikidze 製品にヤマハ・エレクトーンがある。 ソ連南西部 , カフカズ山脈の北側に これら電気オルガンや電子オルガ ある都市。人口 20200 ( ) ( 1964 ) , 北オ ンの演奏装置は , いすれも 61 鍵 2 段 セチア自治共和国の主都。テレク河 の手鍵盤と足鍵盤とをもち , 音栓を 岸にあり , 南にカズベク山 ( 5047 m ) 備えている。高調波 ( 倍音 ) の組合せ をのぞむ。近くの亜鉛鉱山の精練が や , 振動の減衰などを電気的に行な 行なわれ , 農業 , 医学などの大学 , って , 音色の変化をつくるのである。 金属研究所がおかれている。 ことにハモンド・オルガンは豊富な らカフカズ山脈横断のグルジア軍道 音色と簡便さによって愛用されてい がはしまる。帝政時代にはウラジカ る。 / 電気楽器〔角倉・大浜〕 4 オルコックの著書く大 君の都〉のさし絵。そ の当時の呉服屋の店さ きがよく描かれている ーふたをしめるごさがって - ・回転板をどめる オ丿レゴー ) レの しくみ 回転どめ ばね 振動弁 せんまい 回転板 振動板 ねじ
5 3 6 城下町 , 東海道の宿場町として栄え 勝納川の谷に集まる。緑川に国立 平安朝中期の物語。 4 巻。ほば冷 泉 , 円融天皇のころ ( 970 頃 ) の成 た。明治以後停滞したが , 1920 年小 小樽商科大学がある。港は初め手宮 立と思われ , 作者不明だが男性の作。 に設けられて道主要部の門戸となり , 田原駅の開設 , 34 年丹那トンネルの この時代に流行したまま子いしめの 開通によって東海道線に接してから 1882 年幌内 ( 現三笠市 ) までの鉄道 説話に脚色した勧善懲悪的な作品で , 都市化が進み , 商業中心地となった。 開通後は石炭も積み出している。港 この種の作品の最古のもの。いわば 東海道線のはか , 小田急電鉄 , 直通 湾をもたない札幌とは近接した距離 大衆向きの家庭小説で , 当時の家庭 バスで東京と結ばれ , 箱根登山鉄道 , にあって , 都市機能の点で相補う関 バスで箱根に , 伊豆補根鉄道大雄山 生活の種々相がリアルに描かれ , 筋 係がみられる。 〔岡本〕 の運びもあざやかで , 全体がよくま オタワ Ottawa カナダの首都。 線で南足柄町に通し交通は便利。古 人口 2682 ( ) 6 ( 大市域では 42975 ( ) ) ( 19 とまっている。 くから水産業が盛んで , プリはとく 61 ) 。セントローレンス川の支流オ に有名。箱根細工 , かまばこ , 梅干 〔あら筋〕意地悪いまま母にいヒめられて 屋敷内の落ちくほんだ一室をあてがわれ , し , 小田原ちょうちんなどを産し , タワ川にまたがる。 1826 ~ 31 年に軍 裁縫などにこき使われていた姫君が , 忠実 事的目的でオタワ川とオンタリオ湖 毛織物 , フィルムエ業 , 印刷工業も な侍女阿漕 ( あこぎ ) の手引きで通って来る を結ぶリドー運河が建設されたが , ある。気候 , 風景に恵まれて明治以 ようになった左近少将に救われ , 少将の屋 このとき測量を担当した軍人の名に 後 , 別荘地となり , 梅 , 桜の多い小 敷に引き取られて幸福にくらす。少将はさ ちなんでバイタウンの小村が生まれ , 田原城跡の一部は公園となっている。 まざまな手段でまま母をこらしめるが , 終 〔尾留川〕 これが今日の首都の母体となった。 わりはゆき届いた世話をしてやり , みなめ おたわらせいばつ小田原征伐 1854 年に市街再編 , 川の名からオタ でたく栄える。 〔石田〕 1590 年豊臣秀吉が小田原の北条氏を オーチャードグラス 0 r c h a rd ワと改名された。当時首都の決定を 滅は、した戦いで , 秀吉の全国統一過 grass カモガ、ヤともいう欧州産の めぐってケベック , モントリオール , 程での最後の戦い。 87 年九州を平定 イネ科の多年草。 / チモシーととも キングストン , トロントの 4 市が激 しく競い合ったが , 1858 年ビクトリ した秀吉は , 残る東国の征服をめざ に世界的に有名な牧草である。また キヌイトソウ ( 絹糸草 ) とも称して , ア女王の英断で英仏両勢力のほば境 し , 再三の上洛 , 致札の命にも服さ ない北条氏政 , 氏直の父子の勢力を 水盤の中で綿や泥の上にまき , 芽ば 界に位置するこの町 ( 当時の人口は 2 えを楽しむこともあり , 常緑芝とし 討つ決心を定めた。そこで秀吉は 89 万 ) が選定された。 1916 年の大火で 年末北条方に宣戦を布 : 告し , 翌年豊 て用いることもある。耐寒性が強く , 古い建物の多くは焼失している。純 臣方は海陸の各方面から攻め下って 葉は群生して幅ひろく , 高さは 1 m 然たる政治都市で , 連邦議会議事堂 , 前後に伸びる。牧草としての栽培は , 各官庁 , 外国公館をはしめ各種教育 小田原城を包囲した。この戦いで北 条方はもとより豊臣方も , 持久戦の 文化施設が緑地帯をましえて落ち着 整地後一面に種子をまき , 播は種後 2 体制をしき , 豊臣方は石垣山に築城 いた空気をかもしだす。また , 第二 年めに繁茂した茎葉を刈り取る。年 次大戦中オランダ女王亡命の返礼と する一方 , 秀吉はしめ諸将も妻子を 2 ~ 3 回刈り取ることができ , 適期 同伴した。しかしこうした対陣の間 して贈られたチューリップが各所に 刈り取りの干し草は 7 ~ 8 % の粗タ に , 岩槻 , 八王子など北条方の諸 ロきはこるので , チューリップ・シ ンパク質を含み , 消化率もよく , そ 支城は陥り , 城内からも内応者が出 チの俗称をもつ。郊外ではこの町の の他の成分や家畜の好みもチモシー て , 戦わすして開城すべきかどうか , 発祥の基礎となった製材業がいぜん に劣らない。 〔浅山〕 城内は内紛して決定しかねた。「小 おっげお告げ聖告 , 受胎告知 , として活発に行なわれ , さらにノヾル プ業やセメント業も加えられている。 田原評定せ」の語はここから出てい 天使祝詞 , / アベ・マリアなどとも また , ヒ西 160 のチョーク・リノヾー る。約 100 日の包囲ののち , 北条氏 いう。キリスト教において , 天使ガ プリエルがマリアに「めでたし聖 と親類関係にある徳川家康の尽力で には世界的な原子力研究所がある。 寵噐、うみちみてる者よ , 主汝紗とと 開城に決し , この結果 , 氏政および 〔戸谷・〕 もにまします , 汝は女の中にて祝せ 松田憲秀ら重臣は死を命ぜられ , 氏 おだわら小田原〔市〕神奈川県 られたる者なり・・・・・・汝懐胎して一子 直は高野山に追放された。秀吉は北 南西端 , 箱根山東ろくから酒匂川 を生まん , その名をイエズスと名づ の沖積地にのぞみ , 早川と酒匂川に 条氏の旧領を家康に与え , 会津へ東 ・・」 ( ルカ 1 章 ) といって聖 征して奧羽を平定し全国統一を完 はさまれた要害地にある市。 1940 年 くべし・・ 母となることをマリアに告げたこと 成した。北条方の敗因は , 兵力の差 に小田原町 , 足柄町などが合併して 市制。人口 143377 ( 1965 ) 。 1495 年北 にもあるが , 農兵をかり集めた編成 に結束力が欠けていた点も見のがせ 条早雲が大城下町をつくって以来 , 工ノレ・グレコ作くお 2 デ〉 1600 年ごろ の作 , 兪敷大原美術館に所蔵されている ない 〔浅沼〕 滅亡まで 5 代 96 年間 , 南関東の中心 おちあいなおぶみ落合直文 18 61 ~ 1903 明治時代の歌人 , 国文学 者。萩廼家と号した。宮城県の生 まれ。東京大学古典講習科に学び , 1888 ~ 89 年長詩く孝女白菊の歌 > を 作って知られた。森鶸外の新声社に 加わり , 詩歌を発表するかたわら国 文古典の双書や国文典の編著にたす さわった。やがて短歌革新に志し , 1893 年彼の結成した「浅香社」は 近代短歌結社の始まりで , 門下に与 謝野鉄幹 , 尾上柴舟物ぅ , 金子薫園ら 新派和歌の中心作家を輩出した。死 後く萩廼家遺稿 > く萩廼家歌集 > が刊 「萩寺の萩おもしろし露の身のおくつきど 〔広末〕 ころこことさだめむ」 オタワ オーチャードグラス 小田原城は本丸 , 二ノ 丸 , 内ほり , 外ばりな どの跡が残り , 一部は 自然公園となっている 3