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1. 国民百科事典7

ワカイヒト 6 4 0 り , 近年戸倉峠に国道 29 号線のトン ベストセラーになった 〔あら筋〕地方の一女学校教師間崎は , 私 ネルが開通し , 京阪神への最短コー 生児江波恵子の奔放な誘惑に負けて関係を 〔野本〕 スか・開かれた。 結び結婚を誓う。同時に彼は知的で進歩的 わかさぎキュウリウォ科の魚。 思想をもっ同僚の橋本先生にもひかれてい 鳥取 , 松江でアマサキ、 , 信濃川付近 る。橋本先生が左翼蓮動の疑いで検挙され でシロイオという。背びれ 9 軟条 , たとき , 先生の間崎への恋情を察した恵子 しりびれ 16 軟条。全長 15 cm くらいの 代表的な歌人が , 江戸時代中期の賀 は , 熱烈な間崎の求婚をこばんで身を引い 小魚で , 本州北部 , 北海道 , 朝鮮北 茂真淵気である。すぐれた国学者で てしまう。恵子の卒業式を前にして間崎は 部の汽水域 , 海跡湖に分布している。 もあった彼は , く万葉集 > を理想とし 教師をやめ , 橋本先生をいたわりつつ上京 従来霞が浦がもっとも有名であった て作歌し , 前代の歌風とは対照的な する。 〔遠藤〕 が , 諏訪湖 , 山中湖 , 榛名湖 , 現実主義的歌風を示している。この わかきウェルターのなやみ若き 現実主義的傾向は , 江戸時代の和歌 ウェノレターの悩み D ie Le id e n d e s そのほかの人造湖などに移殖され繁 の基本的な方向となったものである Jungen Werthers ゲーテの書簡体 殖している。つくだ煮 , 塩焼き , フ 告白小説。 2 部。 1774 年刊行。婚約 ライ、てんぶらなどにする。〔安田〕 この時代にはまだ十分に徹底さ 者のある娘への恋に苦しんだゲーテ 北海道特産のシシャモも同し科に れるということはなかった。真淵の 自身の体験を中心に , 知人の失恋自 属し , 全長 20cm くらい。 11 月ころ川 門人には村田春海 , 橘 ( 加藤 ) 千蔭 殺事件などを筋立てに利用して , 純 にのは、って産卵するが , 子持ちの干 のようにく古今和歌集 > を理想とす 物はとくに賞味される。 るもの , 本居宣長燼 , 荷田在満 粋で激しい生命力を世俗の規制のた 〔吉井〕 わかさぬり若狭塗福井県小浜 のようにく新古今和歌集 > を理想と めに断ち切らなければならなかった 市に産する塗器。下塗りの上に卵殼 青年の悲劇を描いた。シュッルム・ するものが出ている。またこの系統 の粉末 , もみ殼を使って模様を描き , とは別に , く古今和歌集 > を理想とす ウント ドラングの思潮を真に芸術 彩漆を施し金属箔を押して , 透漆 的に安着し , 作者の名を一躍高めた。 るものとして , 京都において江戸時 代中期には小沢芦庵気 , 末期には香 をかけた華麗な塗物である。安土ち 〔あら筋〕ウェルターは舞踏会でロッテと 川景樹を中心とする景園派が大き 桃山時代の慶長期 ( 17 世紀初め ) ごろ 知り合い , 強くひかれる。彼女の婚約者ア な影響力をもち , さらに高崎正風ら ルベルトは高潔な人物で , ウェルターを友 に小浜の塗工松浦三十郎による海辺 人として親しく遇する。ウェルターは危機 の御歌所派も宮廷を中心に勢いがあ の模様を現わした塗物に始まり , 江 を感ヒて苦悩のうちにその地を去る。彼は った。しかしこれらの歌人は , 当時 戸時代の万治年間 ( 1658 ~ 61 ) に現在 しばらく官職につくが , うまくいかす , ま としては清新な詠風を示しているに のような方法が津軽から導入されて たロッテのもとへくる。彼の恋情は強まる もかかわらす , 和歌史的には一種の 製作されたといわれる。これが藩主 はかりで , 心、の錯乱を起こし , アルベルト 擬古におちいっており , 第一級の作 酒井侯により若狭塗と名づけられて にもうとんじられる。二人のはしめてのロ 品を残しているとはいえない。 保護を受け , 変種も製作された。現 づけが破局を決定づける。彼は来世での再 そのなかで江戸時代末期の良寛と橘 在は実用品が主で , 塗ばしの生産額 会を信しつつ自殺する。 〔神品〕 曙覧虫けとカゞすぐれているカ { , ともに は全国一である。 〔春川〕 わかくさものがたり若草物語 歌壇的には孤立していた。かくて江 / 四人姉妹 わかさわん若狭湾福井県 , 京 戸時代末流の和歌は , 明治の和歌革 都府北部の湾。東の干飯讐崎から西 わかさ若狭旧国名。現在の福 あ与謝ま半島南東岸までをさす。丹 新運動によって否定されねばならな 井県南西部にあたり , 北陸道に属す かったのであり , また和歌という名 波山地北端の野坂山地が陥没してで る。若州ともいう。古くは越こ国 称も , 和歌革新以後は用いられるこ きたもので , 若狭湾央から同心円状 へ往来する交通路にあたり , 漁業が とが一般に少なくなった。 に断層線が走るため , 海岸線はリア 〔安田〕 盛んであった。鎌倉時代にははじめ ス状を呈し , 敦賀 , 小浜 , 高浜 , わかいひと若い人石坂洋次郎 津々見氏が , のち北条義時とその一 舞鶴 , 栗・田 , 宮津などの支湾 , 立石 , ( 1900 ~ ) の小説。 1933 年から 37 年 門が守護となった。南北朝時代には 常神 , 久須夜岳 , 大島 , 大浦などの まで雑誌く三田文学 > に継続発表さ しばしば守護の交代がみられたが , 半島が形成されている。良港が発達 れ , 37 年刊行。前編は第 1 回三田文 室町時代にはいると一色氏 , のちに し , また暖寒流の交流点にあたるの 学賞を受け , 出世作となった。作者 は武田氏に支配された。織田信長は で , カレイ , タラ , イワシ , サノ の長い教師生活の体験を背景に「華 丹羽氏を , 豊臣秀吉は浅野氏を封じ アジ . プリなど豊富な魚類が漁獲さ やかで放恣どで無惨で美しい」悪魔 た。江戸時代には小浜藩 , 高浜藩が れる。海岸は , 1955 年若狭湾国定公 的な少女の姿が魅惑的にいきいきと 置かれ , 幕末には小浜藩だけとなっ く若きウェルターの悩 園 ( 面積 2 ( ) 3. 61 km2 ) に指定された。 た。廃藩置県以後 , 1873 年に敦賀 描かれている。女学校を題材にした み〉ウェルターとロ ッテとその弟妹たち。 美浜町久々子海岸から / 天ノ橋立に 県 , 76 年滋賀県 , 81 年福井県となっ 小説の型を破った点が読者に受け , J. D. ドナートの画から て現在に至る。く町歩下組帳 > ( 1716 至る延長 65km に及ぶ樹枝状の海岸美 は , 海食洞与の蘇洞門まと , / 三方五 ~ 47 ) によれば , 町約 5045 町 , 畑約 湖 , 高浜および和田海岸 , 音海の断 2213 町。総石高 , 慶長 3 年約 85000 がいなどをふくみ , 舟遊び , 海水浴 , 石 , 元禄年間約 88282 石 , 天保 3 年 釣りなどによい。 〔勝俣・細野〕 約 91 ()19 石。近世の特産物には紙 , わがし和菓子日本固有 , また 小浜の酒 , 菅浜のすすり石 , サケな は日本の伝統の上に立っ / 菓子。外 どがある。 〔谷口〕 わかさ若桜〔町〕鳥取県東部 , 国から渡来した品でも和風化した類 をひとまとめにして和菓子とよぶ。 八頭郡の町。人口 55 ( 1965 ) 。戦 〔歴史〕大陸文化移入以前は , 穀物 国時代には城下町として , 近世には または果実の原始的加工物であった 宿場町として栄えた。町域の大半は から , とくに常用食との区別はなか 山地で , 千代川上流の八東川の ったが , ・神饌用のもち ( 餅 ) , あめ 低地に , 国鉄若桜線の通しる市街が ある。林業と果樹栽培が盛んで製材 ( 飴 ) などを菓子の類にあげることが 木工業を行ない , 二十世紀ナシ , コ できよう。遣唐使が中国から将来し リナギを特産する。紅葉の美しい た菓子を唐菓子とよび , 延喜式によ 戸倉峠 , / 氷ノ山えスキー場があ れば次の 8 種があった。 1 ) 梅枝 ワカサギ 第

2. 国民百科事典7

ュイ / ウ 3 3 1 数カ年を要する場合が多い。ャンマ し , 波動説を主張してニュートンの ー制とヒ。ツツバーグの通路にあたる 粒子説の誤りを指摘 , その立場に基 ので , 今では伉大湖の鉄鉱とペンシ 科は全世界に 250 余種 , オニャンマ づいて視覚の生理学的解明を試みた 科は約 30 種を産し , 日本には前者は ルバニアの石炭を使っている。河川 しかし当時の学界からはあまり支持 14 種 , 後者は 2 種を産する。 / ( 別 は水運に向かないので , 輸送費をカ されなかった。そのほか , 弾 1 生にお ーするために加工度の高い鉄鋼製 刷 ) こん虫 〔黒沢〕 品を製造している。耐火レンがやセ けるヤング率の提示 , 乱視 , 血液運 ャンヨーフ、・テン Jan Joosten 動論の研究なども行なった。考古学 メント , 電球 , コークスや関連化学 1557 ? ~ 1623 160 ( ) 年豊後んに一票 では古代エジプト象形文字の判読に 製品 , ゴムエ業もある。 着したオランダ船リーフデ号の航海 〔石光〕 かかり , シャンポリオンに先んしロ ゃんまトンポ目ャンマ科および 士。以後 / 三浦按針 ( W. アダムズ ) ゼッタ石の一部を解読 これをくプ オニャンマ科に属するこん虫の総称。 らとともに徳川家康の知遇をうけ , リタニカ百科事典〉に発表。〔後藤〕 大形の / トンポばかりで , 小さいも 幕府の外交顧問となり , 長崎 , 江戸 ャングズタウン Youngstown 米 のでも開張 90mm もある。幼虫は池沼 に屋敷を賜わり , オランダ , 英国と 国 , オハイオ州北東音阯マホニング などの静水中にすむが , 渓流や高地 の貿易をあっせんし , 自分も朱印状 川にのぞむ鉄鋼業地帯の中心都市。 の湿原の水たまりなどにすむ種類も を下付されて南方貿易を行なった。 人口 164196 ( 1964 ) 。付近の石灰石 , ある。成虫は昼間に水辺を往復する 晩年帰国のため離日したが , 海難で 種類が多いが , 夕暮れにだけ活動す 鉄鉱 , 石炭を使って鉄鋼業専門に 19 不慮の死をとげた。東京の八重洲は , 世紀中期から発展してきた町である。 る種類や , 林間の空所を往復する種 彼の日本名「耶楊子」がなまったも 鉄鉱と石炭は出なくなったが , ェリ 類もある。幼虫は成虫になるまでに ク ) とし、う。 〔浅沼〕 を一個の実体とする古代の考え方か ゆあさ湯浅〔町〕和歌山県西部 河 : る湾にのぞみ , 急斜面の山地のふ もとに細長くのびた市街は , 東海道 ら , それを能動的作用とみなす主張 紀伊水道に面する有田郡の町。人 の旧宿場町で , 漁師町も発達してい に変化した。カントの認識論的観念 ロ 17002 ( 1965 ) 。国鉄紀勢線が通し る。市街は熊野街道の宿場をかね , る。サクラエビの漁場として知られ , 論以後その傾向はとくに顕著である。 また古くからの要港をもち , 海産物 山地はミカン , ビワなど果樹栽培が ロ隹心、論は spiritualism の訳語で , / 観 やミカンの積出しで富を貯えた商人 盛んである。国鉄東海道線が通し , 念論とほは、同意だが唯心論が存在 が多かった。鎌倉時代の初め , 上豪 興津町との間には / 薩睡つ峠がある。 論的であるのに対し観念論は認識論 湯浅氏が築城し , そのころから続く 〔千葉〕 的で , その意味で近代哲学は観念論 湯浅しよう油の製造が町の代表産業 の語を使用することが多い。〔小川〕 ゆいごん遺言 / 遺言 ! ん になっている。はかにムショケキ、ク , ゆいのう結納婚約の成立を確 ゆいしようせつ由井正雪 ? ~ 1651 江戸初期の「慶安の変」の首 認するため , 婿 , 嫁双方から証拠の 線香 , ノリを産し , 特産にサンボウ 謀者。駿河る国由比の染め物師の子 カン ( 三宝柑。ミカン類 ) がある。豪 品物を取りかわすこと。その語義に 商紀国屋文左衛門の生地といわれる。 という。楠木正成を慕いその子孫と ついては , 結いの物 , すなわち二つ 称し , 江戸に出て楠流の軍学を講し , の家が新しく姻戚関係を結ぶため 〔谷岡〕 大名 , 旗本 , 浪人など多数の門弟を に , 共同に飲食する酒さかなを意味 ゆい結結うとか結ぶという意 味で , 村内の特定の家が幾軒か共同 得た。 1651 年 ( 慶安 4 ) 3 代将軍家光 するという説もあるが , 一般には申 し , 労力の交換をすること。地方に 込みを意味する言納を結納にな が死去し , 家綱が幼少で将軍となっ よって「てまがえ ( 手間換 ) 」「かたい たのを機とし , 丸橋忠弥とはかり , まり , さらに納を「のう」と音読し - ・時 紀伊藩主徳川頼宣の名をかたって浪 しごと ( 語仕事 ) 」などといい たものといわれている。納幣 , 納采こ 人を集め , 幕府を倒そうとした。し とも書き , 近世では「たのみのしる に多くの労力を必要とする田植えや かしこれが発覚し , 7 月 23 日忠弥が し」とも称した。民間では「樽を入 稲刈り , 屋根のふきかえなどのとき 江戸で捕えられ , 26 日正雪も駿府で れ」「酒おさめ」「茶のもの」などと に行なわれる。結の仲間は一定して 幕吏に襲われて自殺した。この事件 いることもあるが , 毎年違うことも もよんでいる。結納に贈る品物はか は , 社会の秩序が整い , 身分が固定 1 日労力を提供してもらうと , ならすしも一定していないが , 酒食 あり , かならす 1 日の労力を返すことが原 して浪人が立身出世する余地のなく の料であるのが古い形で , 婿方から 則で , 金銭や物品によって返すと結 は嫁の帯料とともにカツオ節 , する なってきたことへの不満の現われと 結納の目録の例。婿方 考えられる。この事件は後世く碁太 返しがつりあわぬといってきらわれ め , コンプ , 白髪 ( 麻 ) , 末広 ( 扇 ) , 柳 から嫁方へ贈る場合で , 平記白石噺〉く慶安太平記〉などの る。結は農村に多いのに対し , 漁村 友志良賀は麻 , 子生婦 歌舞伎狂言として脚色され , 一般に ではもやい ( 催合 ) が多く , もやいで はコンプ , 寿留女はす 地引網とか海草採取を行ない , 収穫 知られている。 るめ , 松魚節はカツオ 物を平等に分ける。「もやい」は「結」 ゆいしんろん唯心論広義には 節 , 家内喜多留は柳樽 と違って労力の貸借関係がなく , 特 精神か物質に対して独自であるとす の意である。目録に金 一封とか金額を書きこ 定の仲間がなく , 心安いものの間で る二元論的な立場を含めることがあ むことは避ける。名あ 随時結ばれる。また労力の協同だけ るが , ふつうは精神を根源的なもの てはふつう事前に仲人 でなく共同分配をも意味する。 とみなし物質をその所産とする一元 を通して決めるが , 先 〔坪井〕 論的唯心論をさす。その極端な例は 方が父のときはこちら ゆい由比〔町〕静岡県中部 , 施 外界の実在を否定するバークリーの も父の名にする。本人 原郡の町。人口 13774 ( 1965 ) 。駿 独断的唯心論である。唯心論は精神 同士の名にしてもよい ・飛女 ・太悪賀妾 ・等を

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3 2 9 けて唱えられたことがある。日本で 東地方までひろがった時期を中期と は水田に稲を栽培する方法がはしめ するが , 後期にはいるとしだいに文 から行なわれた。田げた , 大足 , 田 様は簡略化され , ついにはほとんど 舟 , 木製のすき , くわなどの農具が , 器面装飾がみられなくなってしまう。 奈良県唐古 , 静岡県登呂の両遺跡 北九州では朝鮮のドルメンに似た支 から発見されておリ , 登呂では整然 石墓を造って死者を葬る風習が行な としたあぜ道に囲まれた水田跡も認 われ , これとともに大きな二つのか めをあわせた中に死者を入れる甕棺 められた。成熟した稲を刈リ取るた 葬もみられた。山凵県上井ガ浜遺跡 めには , 石製の穂摘み具 ( 石包丁 ) が これを束ねて高床の倉庫 では板石を組み合わせて箱形の石棺 用いられ , に収めた。倉庫に出入リするために を作り、その中に死者を葬った集団 は 1 本造りのはしごがかけられ , 柱 墓地が発見された。中部 , 関東地方 の根もとには鼠返しが取り付けら 以東の墓地はなお明らかでない。あ 用いた素槍がもっとも多く , 全時期 れた。ともに静岡県山木遺跡からの るいは縄文時代のように特別な構築 にわたって使用された。江戸時代に 出土品がある。狩猟 , 漁労も行なわれ , 物のない , そまつな埋葬法であった は全長 3 ~ 3.5m 前後 , 穂の長さ 10 ~ イヌガヤ製の丸木弓 , 石鏃 ( 石の かもしれない。一般に東日本の弥生 2()cm のものがふつうであった。素槍 やしり ) , 銅鏃 , 骨角製釣針 , 魚網用 式文化には , 縄文時代からの伝統が の穂のとくに長いものを大身槍 , ま の石錘こ , 上錘なども発見されてい 強く残されることが多く , 津軽海峡 た横刃を左右につけたものを十文 る。当時の住居は縄文時代と同しく 字槍といい , その横刃を湾曲させた を越えた北海道には , ついに弥生式 竪穴釐式であったが , 水田に近く村 文化の波は及ぶことがなかった。北 ものを鎌 : 槍 , 相手の武器をからみ 落を営む必要があったので , 河川に 海道にはアイヌの祖先たちが , 彼ら とめたリ , 物に打ち掛けたりするた 接した自然堤防の上や沖積低地に進 の古い文化をかたくいつまでも守っ めに , 穂に近い柄の部分に鉄製の鉤 : 出する傾向が強くなった。倉庫や多 ていたのである。 / ( 別刷 ) 弥生式文化 を取り付けたものを鉤槍という。ま 量の農耕用具を作るために , 木工が 〔岸沢〕 た長さによって手槍 ( 1.8 ~ 2 m ) と 盛んに行なわれ , 鋭い鉄製工具がそ やり槍広義の「やり」は刺突 長槍 ( 3.5 ~ 5 m 以上にも及京 ) があ の原動力となった。他の木製品とし った。手槍は小槍ともいい , 枕槍 , を主とした長柄の利器の総称で , 古 ては , うす , きね , 槽 , しやくし , 物見槍などに使われた。長槍は長柄 代の / ほこをはしめ , 竹やりや木や 槍ともいい , 槍足軽の集団戦用とし わん , さら , 盤 , 局杯、 , 片凵 , 腰 りなどを含むが , 今日では一般に細 掛け , その他用途不明の品が多量に て戦国時代に起こって普及したもの 長い刃に長い柄をつけ , 両手でしこ 発見されている。実用品としての鉄 である。やりの柄は多くアカガシで いて相手を突き刺す攻撃用の / 武器 製具には遺物として残っているもの 作るが , 竹などで作ったものもある。 をいう。日本では , 南北朝時代から 江戸時代以前には素地このままのカ に斧ふ頭があリ , そのはか , きり 歩兵戦の発達につれて使用され , 室 ン柄が多かった。塰柄としては黒漆 町時代後期 ~ 安土 % 桃山時代に実用 やりがんななども用いられたと推定 される。青銅製品には剣 , はこ ( 矛 , 塗りや青員叩など種々のものがあ の最盛期を迎え , 武家の表道具とさ リ , とくに皆未 , タイマイ ( べっ甲 ) 戈 ) , 鏡 , / 銅鐸腕輪などがある。 れた。江戸時代にはもつはら武門の 名誉を象徴する儀仗として尊ばれ , の柄は武功の表示とされた。江戸時 大陸から輸入された銅剣や銅戈は , 正式の外出にはかならす槍持を従え 代の柄は太刀打といって , 茎のは とくに北九州地方に多く , 死者に副 葬されて発見される。しかし , 中国 , ることになった。やりは身と柄とか いる部分を千段巻にしたり , 青貝叩 らなる。身は穂ともいい , 鉄を鍛え 近畿地方から発見される国産の銅剣 に塗って , その下部を麻糸で鏑ふ巻 て三稜角にとがった細長い刃に作り や銅鐸などは , 集落から離れた山腹 にして血止めとしている。穂は鞘で 穂の根 , すなわち茎を柄木の内部 などに , まとまって上里蔵されている おおう。鞘は初め素朴な穂形のも ことが多いので , それらは農耕に関 にさしこんで連結する。身の先端を のが多かったが , 時代をへるにつれ 係をもっ奉納品としての意味をもっ 穂先という。両刃でまっすぐな身を て , 穂形 , 補形 , 紋所形 , 鳥毛 , 毛 ていたと考えられている。栽培植物 としては , 稲のはかにも小麦 , アワ , ヒ工 , マクワウリ , ヒョウタン , ソ , 麻などがあり , 麻の繊維は機織 具の存在とあいまって , 織物の発達 したことを示している。登呂からは , ちきり , ちまき , 杼ひ , おさなどの 機織具が出上しており , 糸を紡ぐた めの石製 , 上製紡錘車は各地から多 量に発見されている。上器の製作に はまだろくろの使用はなく , 縄文時 代から根本的な変化は起こっていな いが , 形や文様は簡素でしかも優美 になリ , 焼き上がった色調はよリ明 るい淡かっ色になった。首の細いっ は、 , ロの広いかめ . 米を蒸すための こしき , 高杯などが持徴的な器形で あり , 北ル州では死者を入れて葬る ための大きな甕棺も作られた。文 様には , くしの歯状の施文具を用い た櫛こ目文 , 員殼文 , 縄文などがみ られるが , 縄文はとくに東日本に限 って現われた。櫛目文が九州から関 ャリ 0 槍の穂先。 左から素 ト文字槍 槍 , 鎌槍 , 弥生式文化の遺品 4 種。 左端は青銅製の有柄細 形銅剣。長さ 51.5 cm, 福岡県三雲出 f•.o 弥生 中期。これは大陸から の舶来品とされている。 その右は国産の広形銅 。福岡県糸田町出上。 青鋼製で長さ 36. 6cm , 弥生後期。その右も国 産の広形銅剣。岡山県 瑜珈山出止。青鋼製 , 長さ 46.7 cm , 弥生後期。 中央にみごとなあや杉 文 , その下には銅鐸文 様との関連を思わせる S 字形連結渦状文が施 されている。右端は高 床倉庫用の木製のはし ・。長さ 155Cm 。丸木か ら刻出したもの。静岡 県山木出 E 。弥生後期 4

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メガネ 2 1 5 高の地位にいた。 1919 , 24 , 56 年日 ヒ人間の学習能力の実験に使われる。 ただし紙の上の迷路では , 3 方囲ま 本訪問公演をした。 〔尾崎〕 めいれきのたいか明暦の大火 れた部分を塰りつぶしていけば , む 明暦 3 年 ( 1657 ) 1 月 18 ~ 19 日の江戸 だのない道がわかる。 〔清水〕 めいろくしや明六社明治初年 大火事。丸山火事 , 振袖火事とも いう。 18 日午後に本郷丸山の本妙寺 に啓蒙思想を鼓吹した日本最初の有 から出火し , 次々に延焼 , さらに伝 力な学術結社。 1873 年 ( 明治 6 ) 森有 ネしの主唱によって結成され , 「同志 通院前などからの出火も加わって , 集会シテ異見ヲ交換シ知ヲ広メ識ヲ 19 日夜までに江戸のはとんど全市を 明ニスル」 ( 明六社制規 ) を目的とし 焼き , 江戸城も西丸以外は焼失した。 た。社名は創立の年にちなむ。会員と 大名屋敷 500 , 旗本屋敷 770 をはしめ、 迷路にはいると左手を 寺社 , 蔵や民家無数が焼け , 死者は して , 森をはしめ西村茂樹 , 西周齢ゎ , 壁にふれて進めは・かな 津田真道 , 福沢諭吉 , 中村正直 , 加 10 万を越えたという。つづいて 1 月 る。 / 近視は遠方をながめるとき , らすもとへ戻れる。左 藤弘之 , 杉亨二 , 籖作秋坪 , 籖作麟 20 日は大雪となった。再 1 建にあたり , 平行光線が網膜の前方に像を結ぶよ 図では点線のとおりす 道路や河川の拡張 , 火除地 ( 広小 祥 , 津田仙 , 神田孝平ら当時の代表 うな目であるから , その矯正には目 べての道を通り , 右図 的な洋学者を網羅 2 うした。社の活動 路 ) の新設 , 町家の規模など計画的 にはいる光線をあらかしめ分散させ では X が独立した島の な建設方針がとられ , 江戸は姿を改 はく明六雑誌 > の刊行と演説会の開 ようになり , 通れない る凹レンズが用いられる。 / 遠視は めた。本所 , 深川へ市街がのびたの 催とを軸としたが , なかでもく明六 これと反対に , 平行光線が網膜の後 もこのときである。なお両国の回向をう 雑誌〉は , 1874 年 3 月 ~ 75 年 11 月に 方に像を結ぶ目であって , その矯正 院はこの火事の死者を葬った万人塚 わたって 43 号が刊行され , 政治問題 には凸レンズが用いられる。 / 乱視 の地に建てられたものである。 はもちろんあらゆる思想 , 文化 , 風 とは外界の 1 点からくる光線が眼内 〔川崎〕 俗現象をとらえて自由主義と功利主 で 1 点に集合しないものである。 めいろ迷路道が曲がりくねっ 義の立場から解明し , 総合雑誌の源 れには正乱視と不正乱視とがある。 流となった。社員の多くは明治政府 前者は円柱レンズで矯正できるが , ていたり枝分れしていたりして , い の官僚であったため , 民撰議院論争 ちどはいったらなかなか出られない 後者はいかなる掛眼鏡でも矯正でき ようなもの , ないしは中心部までゆ には尚早論を唱えたが , 西欧近代思 す , ときにコンタクトレンズで矯正 きつけないものをいう。鐘乳洞与な 想の移植に不滅の足跡を残している。 されることがあるだけである。眼鏡 ど自然にできた迷路もあり , また動 く明六雑誌〉の廃刊とともに実質上 レンズの度はダイオプター ( ジオプ 物でモグラのように巣を迷路のよう の活動を終えた。 〔鹿野〕 , D と略称 ) で表わす。〃はレ につくるものもある。人工的につく メイン〔州〕 M a i ne 米国 , 北東 ンズの焦点距離で 1 ( ) 0 cm を除した数 られたものでは西洋伝説上 , クレタ である。たとえば焦点距離 5 ( ) cm の凸 部の州。面積 86017km2 , 人口 989000 ( 1964 ) 。人口密度は 11.5 で全国平均 レンズは十 2 D であり , 焦点距離 25 島の王 / ミノスのラビリントス ( 両 刃の芹の宮 ) は有名で , 迷宮をさす よりかなり低い。 1820 年第 23 番めの cm の凹レンズは - 4 D である。目の 屈折異常の度はその矯正レンズの度 州となり , 主都はオーガスタ ( 人口 語にもなっている。名工ダイダロス の作で牛頭人身の怪物ミノタウロス 20913 ) 。この地方の開拓の歴史は古 で表わされる。たとえば十 2 D の遠 を隠したが , 英雄 / テセウスはアリ く 15 世紀にさかのばるが , 開拓民の 増加とともに , マサチューセッ植民 アドネに贈られた糸玉で道をあとづ け , 怪物を退治して生還する。この 地の一部として , しだいに知られて 糸の利用は古代の実際の人知であっ きた。土地は氷食を受け , このため たろうが , その後迷路冒険物語のっ 州内には 170 ( ) 余の氷食湖がある。 きものになっている。中世のフラン ・ステートのあだ名が イン・ツリ スの教会では , アミアン , シャルト 示すように 州は山がちで針葉樹が 多く , 林業が盛んでパルプ , 製紙な ルなど , 床に迷路を示したものがあ って天国への道を象徴する「エルサ どの工業も行なわれる。農業には不 レムへの道」ともいわれ , 庭園に娯 適な土地であるが , 大消費地に近く 楽として設けたものでは , ロンドン 集約的な農業が行なわれ , ジャガ、イ 近郊の旧王宮ハンプトン・コートの モの生産は有名で , 園芸農業 , 養鶏 いけがきが有名である。日本では江 も盛んである。世界三大漁場の一つ 戸向島に「八重だすき」という迷路 であるニューファウンドランド海域 があったといわれ , また各地の遊園 を近くにひかえ , 水産業も活発で , 地などに設けられた例がある。 開発も古く , ポートランドなどの漁 出入口一つの迷路では , たとえば ニシンの漁獲が多 港を根拠にタラ , 左手を壁にふれながら ( 岐路ではい い。工業は州工産額の 27.5 % ( 1963 ) つも右折 ) 進めば , ともかくもとへ を占める製紙を筆頭に , 繊維 , 食料 戻れる。このとき樹路状の迷路では 品 , 皮革などがある。北端に位置し , すべての道を往復することになるが , 風景もすぐれ , 夏季の避暑や狩猟に 輪なりの部分があると一方向だけの 訪れる客が多い。ポートランド , 通過になり , 3 本以上に分かれて合 ーイストン , バンゴアなどの都市 がある。 わさる場合には , 立ち入らない道が 〔小野〕 めがね眼鏡 / 目の屈折異常を こうした迷路に深入りしてか 残る。 らでは左手の規則を使っても , 矯正し , または有害な放射線に対し 1 を回るだけで出られなくなるおそれ 目を保護する用具。ふつうは透明が 」がある。出口が別に指定されている ラスで作られるが , ときにメチルメ 場合や , また袋小路をさけるには , タクリル樹脂あるいはゼラチン膜が 幾回か試みた末の記憶にたよるはか 用いられることもある。目の屈折異 この意味で迷路は , 動物ない 常には近視 , 遠視 , 乱視の 3 種があ 迷路 2 例 ( 上 2 図 ) 。上 はフラン・スのシャノレト ル聖堂にある迷路。中 の迷路。下の 2 図は迷 路の平面図がわかって いるときの解き方。左 の迷路で 3 方が囲まれ ているところを消し , 消したためにまた 3 方 が囲まれることになれ ばそれを消す。このよ うにすると , 右のよう に必要な道だけが残る

5. 国民百科事典7

2 1 8 て王国ははろばされ , 市は一時廃虚 催中におきた鳶職とカ十との大げ た憲法にだいたい類似したものであ る。すなわち教育を国家の義務とし , となった。その後ニュー んかに取材したもの。意地と腕カく スーくイン 大上地所有を制限し , 鉱山 , 石油 , 副王領の首都が建設され , 1821 年メ らべに終始し , 作品価値は高くない E 地を国有とし , とくに外国人によ キシコの独立とともにその首都とな が , 江戸末期の生活習俗や社会制度 った。最近では紡績 , 製紙 , 食料品 , が克明に写されている点で興味ふか る石油と鉱山の権利を制限して国際 タノヾコ , 貴金属細工など軽工業も行 い。劇的にすぐれている 3 幕めは師 この新憲法によ 間の問題となった 匠河竹黙阿弥の助筆だという。 なわれるようになっている。〔小野〕 る改革も依然たる大地主など保守勢 力の反対によって効果をあげぬうち メキシコわんメキシコ湾 Gu Ⅱ 〔榎本〕 1920 年カランサは暗殺された of Me x i c 0 フロリダ半島 , ュカタ めくら盲めくらすなわち失明 2 ( ) 年代は混乱を続けたが , 34 年カル ン半島 , キューバ島などに囲まれる 状態には , 医学的に光覚もないもの デナスが政権をとるに及んで改革が 北アメリカ最大の湾。面積約 185 万 と , 視力が眼前 1 m でようやく指数 実行に移され , 農民に土地が与えら km20 カリブ海と合わせてアメリカ地 を弁する程度で , したがって目を使 れ , 英米の石油利権は国営に移され 中海ともよばれる。湾の中央部は深 う仕事のできないものとがある。め 積極的な政策が推進された。その次 度 30 ( ) Om 以上 , 比較的平らで , 最深 くらには高度の小眼球 , 脈絡膜欠損 の大統領カマチョは前任者の急進政 部 ( 3780 m ) はシグスビー・ディープ などのように先天性のものもあるが 策を改め , 対罘 , 対教会関係も改善 とよばれ , 湾南西部にある。塩分 3.5 重要なのは後大的に病気によって起 され , 第二次大戦には対米協力を行 ~ 3.6 % 。湾内はユカタン海峡から侵 こったものである。その原因は角膜 , 入する赤道海流が , ゆるく時計まわ なった。アレマンがカマチョの後任 水品体 , 硝子体 ( ガラス体 ) のような りに環流し , フロリダ海峡を出て勢 者となり , 戦後の経済的難局に処し , 透明体に濃厚な混濁を残す病気か , 力を強め , メキシコ湾流 ( 湾流 ) と 社会 , 経済 , 貿易の各方面に著しい あるいは網膜や視神経を萎縮させる 改善を行なった。 1917 年の憲法の精 病気かである。病気の性質上 , たと なって大西洋を北上し , 欧州の気候 神は戦後ようやく結実したというべ えば白内障や角膜混濁のように , 水 に大きな影響を与える。湾岸には米 きである。改善の余地はなお数々あ 品体摘出や角膜移植などの開眼手術 国 , メキシコの港が立地し航行船舶 るとはいえ , 政治 , 経済 , 社会の各 によってふたたびある程度視力を回 カ { 多い 方面でメキシコが近年はど安定した めぎしま女木島 / 鬼な島 復させうるものもあるが , 網膜色素 めキャベッ〔芽キャベッ〕 / キ 変性症 , 浸出性網膜炎のように現在 ことはない。なお , 以上の 20 世紀前 半の政治 , 社会情勢を背景に , ポサ ャベツの栽培変種でコモチカンラン の医学ではその進行を防止すること ともいう。直径 2 ~ 3 cm の結球芽を食 のできないものもある。しかし失明 ダ , シケイロス , リべラ , オロスコ らが , 革命的情熱のたぎる大壁画を に導く病気でもその多くは予防でき , 用とする。出回りは 11 ~ 3 月ごろ。 またある程度の治療もできて , 努力 続々と描いて特異な国民芸術を形成 おもに洋食の添えものに供し , ゆで すれば患者を失明から救うことがで し , ひろく世界画壇の注目をあびた。 てからノヾターいため , クリーーム煮な きるものである。日本の盲人数は人 「清水〕 / ( 別刷 ) メキシコ どとし , またマヨネーズをかけて食 ロの約 O. 1 % とみられている。 / 目 メキシコシチ M e x i c 0 C i t y メ 〔川島〕 べる「 , 〔萩原〕 キシコの首都で , 正称はシウダド・ めぐすり目薬眼病の診断 , 予 めくらといえばすぐ / あんまを連 デ・メヒコ。北緯 19 。の熱帯地であ 防 , 治療 , または手術のさいに用い られる薬剤。水溶液 , 油剤 , 軟こう , 想するように , 盲人の多くは現在 , るが , 標高 22 6 ( ) m のメキシコ高原中 粉末などがあるが , 水溶液がもっと あんま , はり , きゅうなどで生計を にあり気候は年中温和である。人口 は 2050723 ( 1963 ) 。市街は東西南北 も多い。点眼薬ともいう。診断用に これらか、いつごろから たてている。 に整然たる街路をもち , 中央の広場 盲人の渡世手段となったかは明らか はホマトロピン水 , フェレフリン水 , でないが , すでに近世都市では一般 プラサ・マヨールには大統領官邸や 手術用にはコカイン水 , アドレナリ 化している。また特異な勘の鋭さを 諸官庁が並び , 政治 , 商業の中心地 ン水などがあるが , ふつうは予防 , 治療用であり , 抗生物質 , サルファ 区をつくっている。アメリカ大陸最 生かした専業として , 中世以来 , く平 古の町で , 歴史を物語る建造物が多 家物語 > を語る琵琶法師のように 剤 , コーチゾン , アトロピン , ピロ カルピン , その他各種収れん剤 , 殺 い。 1 ま襾糸己ノヾロックの平ゞ前 , 1551 年 琵琶などを伴奏に用いた語り物を盲 メキシコシチの中心街。 創立のメキシコ大学をはじめ , 博物 菌剤などが用いられ , ホウ酸 , ビタ 人がつかさどり , そこに当道という ファレス大通りとラ・ 館 , 劇場 , 美術館 , 図書館などみる ミン剤なども添加される。目薬を美 整然たる組織を生んだ。それは単な レフォルマ大通りの交 べきものが多い。 容の目的で連用しすぎて , 角膜の障 る職能組合ではなく , 幕府の保護を 差点付近。後者はアラ 害をおこした例もあるので , 注意を スペイン侵入以前は 14 世紀ごろア 受けて税金や刑罰をも差配する自治 メダ公園近くにはしま ズテク族が要害の地としてテノチチ 要する。 団体で , 冠婚葬祭その他の場合に町 る約 13km にわたる , 幅 トランの名のもとに首都としたとこ 人や武士から運上ぅ ( 江戸時代の雑 平均 5 ( ) m の壮麗な大通 メクネス M ekne s モロッコ王 ろであるが , りで , マクシミリアン 1521 年コノレテスによっ 税の一つ ) をとりたてる権利を与え 国中央北部 , 中央アトラス山脈の北 皇帝の建設したもの られたため , やがて多額の金を得て ろくにある都市。人口 177128 ( 1960 ) 。 高利貸をするものが現われ , 江戸時 フェスの西南西約 53 にあり , 空港 代にはそれを座頭金と称して一種の もあり道路網の中心地である。オリ 金融業とさえなった。当道の起原は ープ , オレンジ , ブドウなどの豊か な農業地帯にあり , 鉄道もラバト , メキャへ カサプランカ , タンジールに通する。 大学もある。 11 世紀に建設され , 16 7() 年スルタンのイスマイルカ { 王宮を 建てたところで , 17 ~ 18 世紀の古跡 〔西野〕 めぐみのけんかめ組の喧嘩 歌舞伎脚本。世話物。 4 幕 8 場。竹 柴其水作。本題はく神明恵和合取 かみのめぐみわ 組 > 189 ( ) 年新富座初演。 18 ( ) 5 こうのとりイみ。 年江戸芝神明境内の春場所相撲開 メキシコシ 0

6. 国民百科事典7

ワタイレ 6 6 6 に取材してその間の心境をおもに につとめ , 1832 年には , 江戸詰めの 家老となった。このころから蘭学者 人称で述べていく小説の一形態。形 の小関三英や医者の高野長英らと交 式上ではドイツのイヒ・ロマン ( 一 友を深め , 尚歯会を作って内外情勢 人称小説 ) に似ているが , 日本特有 の研究につとめた。 38 年オランダ商 の性格とおいたちをもっている。元 館長ニュイマンとの対話の記録く鴃 来 , 近代小説の理念と方法は社会性 , 舌或問 > や翌 39 年のく西洋事情 科学性 , 実証性を基盤とする虚構性 御答書〉は , 海外事情紹介の先駆的 があったが , 日本の / 自然主義小説 著書である。また幕政を批判してひ はそれを欠いて単なる経験の私的記 そかにく慎機論 > ( 未定稿 ) などを書 録に堕していったことが , 私小説発 いたが , 39 年の蛮社の獄に連座して 生の一つの背景とされる。また自然 主義のあと開放的な自我拡充を標 投獄され , のち , 国もとに蟄居を 榜うした / 白樺 ; 派の文学は , そ 命ぜられた。そして門下の福田半香 の理想を日常的倫理に求め , 心境の が師の生活費にと思って開いた江戸 練摩による調和的自己完成をめざす の画会が災いして , 累の他に及ぶの 方向をたどったが , これが私小説の をおそれて自決した。崋山は絵を金 わたいれ綿入れ表布と裏布の もうーっの背景となった。この系統 子金陵 , 谷文晁などに学び , 沈南蘋 間に綿を入れた防寒用の衣類である のものは心境小説ともよばれる。 風の山水花鳥画を描いたが , 洋画を が , 狭義には / 袷や / 単とに対し 研究してその遠近法や彩色法の技術 の二つの背景に共通して , 文学を精 て綿入れのきもの , すなわち綿入れ 神修行の場とする日本特有の考え方 をとり入れ , 写実的な独自の作風を 長着をさす。とくに寒い時期に着用 がみられ , これがひいては小説と実 うちたてた。初期のく一掃百態図〉 されたもので , 武家の更衣の定めと 生活の間に奇妙な演技 , 混入の関係 く四州真景図〉や中期のく鷹見泉石 しては旧暦の 9 月 9 日 ~ 3 月末日ま を作っていった。私小説 , 心境小説 像 > く市河米施像 > , 晩年のく虫魚帖〉 でを綿入れとし , その期間がいちば ということばは大正末期の論争で , く千山万水図 > などが代表作として 本格小説に対立するものとして中村 ん長かったので , 江戸時代では一般 〔春川〕 あげられる。 こ小袖といえば綿入れを意味して 武羅夫い , 久米ー正雄らによって使 わたらせがわ渡良瀬川 / 利根え いたようである。江戸時代末期にな われたのか、初めとされるが , こ 川の一大支流で栃木県西部の庚申 ると絹物の綿入れを小袖とよび , も とばによって表わされた文学的問題 山に発する。長さ 109 , 流域面積 めん物の綿入れを布子のと称するよ は , その後も日本文学の主流または 2745 : 足尾町で諸支流を合わせ , うになった。庶民の更衣も武家のし 底流となって続き , それが第二次大 大間々に至って山地を離れて扇状地 きたりにならったが , 12 ~ 3 月まで 戦後の私小説批判につながっている。 を形成し , 埼玉県栗橋北方で利根川 着るのがふつうであった。綿入れき に合流する。交通 , かんがい ( 新田用 いわゆる / 風俗小説も私小説の変形 もののはかには , それぞれ綿入れの と考えられる。私小説の代表的な作 水 , 矢場用水など ) , 発電 , 上水道な 羽織 , はんてん , 丹前 , 胴着 , そで ど多目的に利用されている反面 , し 家としては , 自己と生活をしいたげ なし羽織などがあり , いすれも防寒 た破滅型の葛西気、善蔵 ( 1887 ~ 1928 ) ばしばはんらんして洪水の害も大き 着である。最近は暖房設備の発達や , い。また明治中期以後 , 足尾鉱山の や嘉村礒多 ( 1897 ~ 1933 ) , 心境小 鉱毒が流入して , いわゆる足尾鉱毒 毛織物など新しい衣料が用いられる 説では新傾向句の俳人でもある滝井 事件が起こった。 / 足尾〔谷口〕 ため , 綿入れきものの使用ははとん 孝作 ( 1894 ~ ) があげられるが , 島 わたり亘理〔町〕宮城県南東部 , どないが , くつろぎ着の / 丹前やは 崎藤村 , 徳田秋声 , 耽美まん的な傾向 んてんなどに愛用されている。また 亘理郡の町。人口 26 ( ) 19 ( 1965 ) 。国 を持っ近松秋江 ( 1876 ~ 1944 ) らの作 洋服でもへや着やスカート , とくに 鉄常磐線が通しる。西は阿武隈高 品にも私小説 , 心境小説的色彩の強 防寒を必要とするアノラックやジャ 地の北端にあたり , 東は砂丘地帯で , いものがある。現代では , いわゆる ーに綿入れがみられる。この場 「病妻もの」で地位を築いた上林暁 宮城県でもっとも温暖な気候をもち , 合は全体を刺縫いして綿をおさえる 野菜 , イチゴ , ブドウの産が多い。 ( 19 ( ) 2 ~ ) , 人生観照の姿勢にユー / キルチングの手法が使われている。 市街地は亘理駅西側の街村的な旧城 モアをましえた尾崎一雄 ( 1899 ~ らが私小説作家とされる。〔遠藤〕 綿入れの方法としては , きもので 下町と阿武隈河口の荒浜に分かれる。 和田峠 ( 補 ) 日本有数 荒浜は古くからの河口港であるが , は絎仕立てとよばれる方法が一般 わだとうげ和田峠長野県中央 の黒曜石の産地で , 関 現在は小漁港にすぎない。 的で , 縫い方はだいたい , 袷同様に 部 , 諏訪第湖の北方にあり , 標高 1531 〔田辺〕 東 , 中部 , 北陸の先史 m で旧中仙道最高の峠。南の宿場町 わたりがに / ガサミ すそ合せまで縫っておいて綿を入れ , 遺跡から出土した黒曜 下諏訪から和田峠を越えて長久保 背やわきの表裏の縫いしろを綿とと わたりどり渡り鳥季節に応し 石製の石器の多くは , ( 現在の小県さ郡長門町 ) までの 30 もに中とししてから , えり下 , そで て広い範囲を移動往復する習性をも 和田峠産の黒曜石を利 口をくけ , えりを付けて仕上げる。 km に及ぶ街道の難所であった。国鉄 っ鳥。日本に周年いる鳥でも , つねに 用したものといわれる。 中央線の開通によって一時さびれた 1 カ所にいるというのは少なく , 中入れの綿は青梅まう綿 ( 小袖綿とも た が , 峠の茶店である東餅屋が現存 布子綿ともいう ) と称する優良なも いていは夏は涼しい山奧に , 冬はし めん綿を薄く平らにのばしたものが し , ノヾスが通している。峠の東には のぎよい人里近くに , あるいは春夏 用いられ , おとなのきものでは 3 枚 霧ガ峰 , 西には美ガ原高原があり , は畑地に , 冬は暖かい海岸地方に ( 約 18 ( ) g ) を標準とする。そのはか絹 というように季節によって移動する。 峠を中心に上級向き山スキーコース 綿や真綿も用いられ , 真綿をきもの がある。黒曜石を産する。〔勝俣〕 この程度では渡り鳥といわす漂鳥と の大きさに作り , 表面を薄くのり付 わたなべかざん渡辺崋山 1793 よび , 年中だいたい 1 カ所でくらす けして , 綿入れに便利なようにした ~ 1841 江戸時代末期の画家 , 洋学 鳥を留鳥という。スズメ , カラス , 吹止め綿もある。また , 真綿は青梅 者。いみ名は定静 , 通称は登 , あざ オナが , カワセミ , キツッキ , キジ , なを伯登 , 子安といい , 号は華山 , 綿を入れるさい , 両面に薄く引き伸 ヤマドリ , コジュケイ , ライチョウ ばして入れ , 綿と布との密着をよく のち崋山 , 寓絵堂 , 全楽堂などと称 などは留鳥で , ムクドリ , シジュウカ するのにも用いる。 三河の田原藩十の家に生まれ , ラ , モズ , ヒョドリ , メジロ , ウグ 〔大塚〕 わたくししようせつ私小説作 貧窮のうちに儒学に志すかたわら絵 イス , ヒバリ , キセキレイなどが漂 者自身を主人公とし , その直接経験 画を習得した。藩政改革 , 殖産興業 鳥である。ところで , すべての鳥を 渡辺崋山 椿山筆 0

7. 国民百科事典7

リョコウ を払うだけで宿泊できる木賃ん宿は , いまもそのおもかげをとどめている。 そして第 4 の旅行者 , すなわち楽し みのために旅行する人たちがあらわ れたのは江戸時代からである。それ には乗り物や宿屋の設備が整えられ , 道は平たんとなり , 道標や並木が道 行く旅人に憩いと安心を与える条件 がつくられたからである。街道に関 所があり , 川留があり , 雲助や「ご まのはい」などの待伏せやいやがら せがあっても , 旅の快適さは昔日の 比ではなかった。京阪や江戸などの 都会見物 , 伊勢 , 本願寺 , 善光寺な どの神社仏闍参拝は , 土地にしばら れ , くぎづけにされた封建時代には , なくてはならぬ修養と楽しみであっ た。名所案内や名所図会などの案内 書がおびただしく作られ , また道中 の見聞を丹念に書き残す学者文人も 江戸時代の後半に続出した。彼らの 旅行記は文人趣味でめつきしたもの でなければ , 単なるメモ風の地誌的 なものであったにちがいないカヾ , や がて各地の世態人情を紹介するまで にかわり , 当時の生活を後世に伝え る機縁をつくった。それと同時に街 道のありふれた旅にあきたらす , 未 知の辺境に心を動かす菅江真澄や , 松浦武四郎のような旅行家も現われ いったいに前近代の旅行は陸路 よりも舟運の便にたよることが多か った。江戸末まで「大八車」や「べ か車」しか発達しなかづた日本で , 旅行や荷物輸送におびただしい河川 の舟便を利用したことは当然である。 それが明治初年になるとます汽船や 馬車にとってかわられ , 次いで汽車 や飛行機の時代となって今日に至る。 こうした旅行が文化史の上で果たし てきた役割は大きい。他国の珍しい 商品はみやげ物として旅人によって 運ばれ , また見知らぬ土地で得た見 聞や知識が生活の上に役だてられた。 たとえば明治の文明開化の一つのシ ンポルであるランプ , 牛肉 , 自由民 権論などがまたたくうちに地方にひ ろまったのも , 東京の開国文化の空 気を満喫して帰ってきた旅行者に負 うところが大きかった。 〔観光旅行と設備〕明治以後 , 国内 の移動がまったく自由になり , また 鉄道交通の発達によって , 旅行者は しだいに増大した。とくに 20 世紀初 めころからは日本特有の校外教育で ある修学旅行がおこり , また農閑期 を利用して神社仏閣へ参拝する団体 旅行が盛んになり , 大正期にはいる と登山やスキーなどの旅行 , 欧米の 習慣をまねた新婚旅行が流行し , さ らに職場や団体の慰安旅行が行なわ れるようになった。一方 , 団体旅行 とは別に , 旅の不安の減少は , 個人 あるいは家族 , 少数の友人といった 小さなグループによる旅行をますま す容易にしつつある。旅人たちが道 5 0 6 連れを求めあい , 群れのカで旅の不 安や危険をさけようとした近世の旅 行とは大きな違いである。 観光旅行は交通機関 , 宿泊施設の整 備改善 , 交通業者や宿泊業者による 観光地の開発と宣伝 , 旅行あっせん 業の発生によってますます盛んにな った。さらに近年はレジャープーム と俗称される風潮が興リ , 旅行者の 数は激増し , 季節によっては交通機 関や宿泊施設の収容能力を大幅に超 過することさえ生するようになった 運輸省観光局の調べでは , 国内観光 客の宿泊総数は年間延 2 億人 ( 1964 ) に達するという。 こうした旅客の増 大と季節的な集中などに対して , 交 通業者 , 宿泊業者 , 旅行あっせん業 者などは相互に連絡をとりながら , 旅客のための種々の便宜をはかり , 一方では旅客獲得のための宣伝をつ づけている。交通機関は鉄道がもっ はらその主体で , 国鉄 , 私鉄ともサ ービスの向上 , スピード化を競い , 年間 500 万人といわれる修学旅行の ためには国鉄の専用列車も作られ , 団体旅行 , 登山 , スキーなどのシー ズンには臨時列車がしたてられる。 また近年は道路の整備 , 有料観光道 路の建設 , 海峡を結ぶ自動車渡船が できたりして , 貸切バスによる団体 旅行 , 家族やグループのドライプ旅 行が増加し , 長距離特急バスも生ま れた。国内線航空路の利用は 1964 年 度の旅客輸送実績約 27 ( ) 万からみて , 観光旅行における役割はまだ小さい。 おもな観光地には定期観光ノヾス , 市 内遊覧バス , 遊覧船 , ケープルカー や口一プウェーなどの設備があり , 手怪に周遊するための便宜をはかっ ている。宿泊設備としては昔の本陣 , 脇本陣 , 旅籠屋 , 商人宿 , 温泉宿 などから発達した旅館がもっともふ つうの施設で , 全国で約 7 万に達し , このうちには政府が施設や料金を監 督する国際観光旅館 , 日本ホテル協 会加盟のホテルのように外国人向け を兼ねるものも含まれる。また寺社 の参拝客を迎えた宿坊がいまなお門 前に残るところも少なくない。一般 旅館よりも料金の安い簡易宿泊施設 として / ュースホステルと国民宿舎 がある。ュースホステルは , 1966 年 7 月現在各都道府県に 47 の支部協会 と , 482 のホステルをもち宿泊の便 をはかっている。国民宿舎は 1965 年 現在 , 厚生省の援助で , 各市町村が 管理する公営 140 , 国立公園協会が契 約を結んだ民間施設 91 がある。また 近年は会社や団体 , 学校 , 健康保険 組合などが厚生施設として観光地に 宿泊所を設けることも多くなった。 一般旅館は観光地 , とくに温泉場で は旅館街をなし , 大規模なものには スポーツ施設や展望台 , 博物館や植 物園などを併設して , 一種の総合歓 楽地の観を呈するものも現われてい る。また近年はドライプ旅行の流行 によってドライプインやモーーテルな どの施設ができはしめ , その発達が 望まれている。旅行あっせん業は旅 行案内 , 乗車船券の代売 , 旅館の予 約などを行なうもので , 日本では 19 12 年に創設された / 日本交通公社が 最大であり , このはかに交通業と宿 泊業を兼ねるものが多い。旅行者か らは手数料を取らないが , 交通機関 や旅館から取る 5 ~ 1 ( ) % の手数料に よって成立し , 各地に営業所 , 案内 所を置いて旅客の便宜をはかり , ま た交通業者や宿泊業者と組んで各種 の周遊券 , 各種のクーーポン券 , 旅行 小切手などを発行している。周遊券 は旅行日程すべての乗車船券を 1 冊 にまとめたクーーポンのつづりで , 周 遊指定地を 2 カ所以上回って発地に 帰る普通周遊券 , 国鉄で定めた地域 内なら幾度でも自由に乗車船できる 定期券のような均一周遊券 , 新婚旅 行専用の寿周遊券の 3 種があり , ともに 10 ~ 2 ( ) % 割引になっている。 旅館の予約のためには旅館クーポン 券があり , 予約と同時に宿泊料を払 い込み , クーポン券として持ってい ける . また , 列車舩 , ロ , ノヾスなどク ) 切符 , 旅館の宿泊券 , 入園料 , 入館 料などの観咒券を一冊につづったク ーポン券も発行されている。 〔海外旅行の手続〕一般に外国へ行 くときに必要な書類は / 旅券 , ビザ ( 査証 ) , 予防注射証明書の三つであ る。ほとんどの場合がこの三つを携 行しなければ他国へはいることがで きないが , このうちビザは , 国家間の 免除協定によって不要な場合も少な くない。また日本のように為替管 理を行なっている国では , 上記の二 つを取る前に外貨の許可を取らなけ ればならない。ビサは相手国の入国 許可を証明するもので , 必要な場合 には , 日本にある相手国大使館 , 領 事館などで出発前にそれを取りつけ ねばならない。ビザは旅券面にスタ ンプを押してくれるのがふつうであ る。予防注射は国連の世界保健機構 で決められた規定により , 国ごとに 必要とする予防接種の種目が規定さ れ , その接種を済ませたことを証明 する正規の証明書を持たなければ入 国できないことになっている。種痘 は全世界どの国へいくにも要求され るか・ , このほかアフリカ , アジア方面 の国では , コレラ , 黄熱などの予防接 種も必要とすることが多い。渡航手 続と並行して , 旅程を立て , 乗り物 , ホテルの予約をしなければならない。 6 ~ 8 月の最盛期には飛行機 , 船 , ホテルともひじように混雑するので , かなり前からの予約が望ましい。国 際線の航空路は , 世界各国の主要航 空会社が連絡運輸を行なっているの で , 世界一周旅行の場合でも , 東京 で全コースの予約はもちろん , 通し

8. 国民百科事典7

メイショズ 2 1 1 后の 2 柱。 1915 年 4 月神宮奉建の議 あわせて膨大な皇室財産を与えられ , 地租改正で農民の土地所有権を確認 みすからもかなり積極的に政治にも し , あわせて財政収入を安定させ , か、起こり , 10 月地鎮祭 , 20 年 11 月完 殖産興業を行なって資本主義的生産 成した。本殿は三間社流造りで , 第 携わった。天皇のそうした態度と , 二次大戦中他の建物とともに戦災に 様式を急速に移植しようとし , 他方 在位期間における国権の著しい伸張 あったが , 58 年再建。表 ( 南 ) 参道は とあいまって , 英明の君主の名をう 73 年の徴兵令 , 76 年の廃刀令および 原宿駅からはしまり , 裏 ( 北 ) 参道は たわれ , 「大帝」とたたえられ , 国民 それらに前後する秩禄震処分によっ 代々木駅に通し , 社殿は全国から寄 て旧武士階級の特権を奪い , それを の多くの尊敬をかちえた。京都の伏 不満とする十族反乱 ( 西南の役など ) 進された樹木で囲まれ , その中には 〔鹿野〕 見桃山陵に葬られた。 加藤清正か・掘ったといわれる清正井 , めいじようすい明治用水愛知 を鎮圧した。政府の最大の指導者は 大久保利通であった。思想界は活況 昭憲皇太后が在世中しばしば行啓し 県安城 , 西尾の 2 市 , 碧海靆、郡を中 た御茶屋 , 菖蒲田など , ゆいしょ 心とする矢作川流域 ( 岡崎平野 ) に を呈し , 福沢諭吉らが啓蒙思想を唱 深い旧跡もある。境内は , 内苑えと つくられたかんか、い用水路。矢作川 えて国民を刺激し , 出版も盛んとな 外苑に分かれ , 内苑は江戸時代の井 西部の台地はもと安城が原とよばれ , った。それとともにいわゆる文明開 伊家の下屋敷跡でその後皇室の御料 用水不足のため未開の原野であった 化の世となり , 風俗は急激に欧米化 文化年間 ( 1804 ~ 18 ) 代官の都築弥 地であったところ。外苑には聖徳記 した。そのころから自由民権運動が 厚ス -?-ßo が , 地もと民や寺院の反対に 念絵画館 , もと外国使節の謁見所で , 1880 年代には大衆的な規模 あった明治記念館 , 秩父 : ち宮ラグビ も屈せす私費を投して用水路の計画 をもっプルジョア民主主義革命運動 ー・一場 , 野球場 , 屋内水泳場 , 都体育 をたて , 10 カ年もかかって測量した としての形態をそなえるにいたった 館など各種スポーツ施設があり , 国 が目的を果たさす病没した。その遺 政府は伊藤博文を指導者としてこれ 立競技場は第 18 回オリンヒ。ック大会 志を継いだ岡本兵松 , 伊予田与八郎 に対抗し , 84 年華族制度を創設 , 85 の主会場となった。 が愛知県庁の支援を受けて 1879 年着 年内閣制度を樹立 , 89 年大日本帝国 〔坊城〕 工 , 翌 80 年完成した。豊田市内で矢 憲法を発布 , 9 ( ) 年教育勅語を公布し めいじてんのう明治天皇 1852 作川から水を取り入れ , 幹線水路 52 て , 天皇制国家を確立させた。その ~ 1912 第 122 代の天皇 ( 在位 1867 ~ ころ二葉亭四迷 , 北村透谷らによっ 1912 ) 。名は睦仁。嘉永 5 年 9 月 22 km, かんか・い面積 1()()km2 に及」ぐ。用 水路の完成後台地は水田化され , さ て近代文学が生まれ , 思想界では西 日 ( 太陽暦 11 月 3 日 ) 孝明天皇の第 2 らに日本のデンマークとよばれる農 欧思想への独自の対応様式としての 皇子として京都に誕生した。生母は 中山忠能の娘慶子。幼名を祐宮の 業地域に発展した。 平民主義 , 国粋主義が起こり , 公認さ めいしよずえ名所図会江戸時 といった。万延 1 年 ( 186 の 7 月儲君 れたキリスト教も有力な地位を占め , 美術界でも西洋芸術の移植と , それ となり , 次いで 9 月親王宣下。慶応 代の中期から後期にかけて刊行され に刺激された伝統芸術の革新が著し 2 年 12 月孝明天皇急逝うのあとを た名所案内記で , 諸国の名所旧跡の 風景や沿革を多くのさし絵入りで書 うけ , 慶応 3 年 ( 1867 ) 1 月 9 日践祚 い。 90 年帝国議会が開かれ , 94 年治外 した。同年 12 月王政復古が宣せられ , いたもの。その源流は幕府の地誌編 法権の撤廃に成功 , 94 ~ 95 年 / 日清 戦争を遂行してはしめて植民地を獲 翌慶応 4 年 1 月元服し , 3 月 / 五箇 さんに刺激されて生まれた江戸初期 条の誓文を神に誓い , 戊辰どん戦争の のく名所記 > に求められるが , 1780 得し , 同時に経済界では第 1 次産業 年に京都の町人吉野屋為八が刊行し 革命が行なわれ , 農村では寄生地主 ため大阪へ親征し , 8 月にいたって た秋里籬島編 , 春朝斎画のく都名所 制が確立した。そのなかで日本の膨 9 月 8 日明治と 即位礼を行なった 張はますます進み , 1900 年の北清事 改元して一世一元の制を定め , 12 月 図会 > 6 巻が最初のものである。い 変 ( / 義和団事件 ) に出兵し , 02 年日 わゆる娯楽性と実用性を兼ねた本書 一条忠香の 3 女美子 ( 昭憲皇太后 ) を は , 詩歌俳句の類を多くのせて読み 英同盟を締結 , 04 ~ 05 年 / 日露戦争 この間いちど東京へ 皇后にたてた を遂行し , その結果 1() 年に韓国を併 やすく , とくに写実的なさし絵にカ 行幸し , 明治 2 年 ( 1869 ) 3 月再幸し をいれて特色を出したため , ひろく 合し , 満屮 l•l にも利権を獲得し , 日本 て , 以後東京は首都となった。明治 天皇は , 封建時代の天皇が政治的に 世に歓迎された。その結果 , 同じ編 は帝国主義列強の一員として植民地 者 , 画家によって各地の名所図会が 無力に近かったのと異なり , 統帥権 の穫得と再分割に狂奔した。そのこ をもち , また 1889 年の「大日本帝国 次々に刊行されたばかりでなく , 流 ろには第 2 次産業革命も行なわれて 行の波にのって類書が続出し , いっ 独占資本が成立し , 政界では藩閥官 憲法」で日本を統治する存在と規定 か名所図会として分類されるような されるなど強大な政治権限をもち . 僚がようやく政党にその席を譲りつ っ , 両者の妥協による支配体制が確 立していった。資本主義の発達とと もに労働運動が活発化し , 片山潜 , 幸徳秋水らを指導者とする社会主義 運動も起こった。その間 , 文学界で は浪漫主義をへて自然主義文学の時 代となり , そのはか夏目漱石 , 森鵰 外の二大家が出現した。思想界はい よいよ複堆化しつつも , 国民一般に は忠孝を本とする大皇制思想が浸透 こうして明治時代は大日本帝 国の確立をもって終わりを告げるが , その末年には無政府主義思想 , 女性 ト第豆第ミ→の 自身の手による女性解放をめざす青 鞜讐社の運動 , 理想主義的な白樺 派の連動などが起こり , 次の / 大正 トいゞ 時代へ連なるのであった 〔鹿野〕 めいじしんぐう明治神宮東京 都代々木にあり , もと官幣大社。祭 神は明治天皇とその皇后の昭憲皇太 明治天皇 く江戸名所図会〉 のうち日本橋魚市

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く片輪車蒔絵螺鈿手箱〉 に世紀 東京 東京国立博物館 平安時代後期において優しい美しさに純日本的な趣を発揮した蒔絵は , と くに責族たちの好みにあい寝殿造りの室内を飾る調度類あるいは経箱など の法具に応用された。東京国立博物館のく片輪車蒔絵螺鈿手箱〉や金剛峰 寺のく沢千島蒔絵小唐櫃〉はもっとも代表的な遺品である。それらは螺錮 の手法も加わって優婉 ( ゆうえん ) な装飾効果をあけている。 このきわめて 貴族的な芸術として発達した蒔絵は , 鎌倉時代にはいっても引き続き京都 でつくられ , 前代の様式がそのままうけつがれたが , 伝統的な表現の上に時 代の風潮を反映しての一種の力強さがあらわれており , 鎌倉初期の鸛岡八 嗜宮のく籬菊蒔絵螺錮硯箱 > の張りのある器形 , 金一色の手法などにはその 特色がみられる。室町時代をすぎて桃山時代になると幸阿弥家の人たちに よっていわゆる高台寺蒔絵なる清新な様式が打ちたてられ , 一種のゆきづ まりをきたしていた蒔絵界に新風を吹き込んた。高台寺蒔絵の出所となっ た京都高台寺には豊臣秀吉とその夫人高台院所用と伝える調度類がかなり あり , 薬味箱はその一つ。江戸初期は東京国立博物館のく葡萄栗鼠蒔絵食 籠 > のようにさらに洗練された蒔絵か現われたが , 元以後は類型イヒした

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4 0 6 排水路を整備している。養蚕は袞退 よばい婚 , 嫁 , 聘 , 結婚などの 字を古くは「よばふ」「よばひ」とよ の一途をたどり , かわって扇状地上 んだ。、「呼ぶ」の再活用形で , 「つま の野菜栽培が盛んになった。また赤 湯町のブドウ , 高畠町のセイヨウナ どい」「つままぎ」などの語とともに シなどの栽培が多く , 高畠付近では 求婚のために男が女のもとに通うこ 酪農もみられる。盆地の中心都市は とを意味した。昔の婚姻は結婚後も 男が女のもとに通うのがふつうであ 米沢市である。 〔谷口〕 よねしろがわ米代川岩手県北 このことも「よばい」とい ったカ { われた。しかし近年ではこれに「夜 西部に発し , 奧羽山脈を先行谷で横 這」の字をあてて , 親や相手の承認 切り , 秋田県北部を西流して能代 2 ろ 市で日本海に注ぐ川。長さ 136 km , なしに異性の寝所にしのびこむ行為 をさすようになり , 不道徳なことと 流域面積 4099 2 で , 能代川ともいわ して排撃されるに至った。なお地方 れる。流域に花輪 , 大館 , 鷹巣す によっては , 男が娘宿へ通う , 「よば の断層盆地があり , 下流に能代平野 い」 , 女が男の家に通う「よばい」も もち , 美保飛行場にも近く , 商工業 が開ける。豊富な杉材の運搬によっ 都市として発展している。食品加工 , て大館 , 早ロ ( 田代町 ) , 鷹巣 , 二ッ みられた。 〔鈴木〕 金属 , 機械 , 紡織 , パルプエ業が行 井 , 能代は江戸時代に河港として栄 ヨ′、ネ Johannes キリストの先 なわれ , 港は鮮魚の活発な集荷場で 駆者。司祭サカリアとエリサベトの え , 現在も製材業が盛んであるが , ある。スイカ , 二十世紀ナシの産も 川沿いに国鉄奧羽線 , 花輪線が通し , 子。洗者 ( ノヾプテスマのヨノ、ネ Johan ・ 多い。 / 夜見が浜や / 皆生晉、温泉 , 杉材のいかだ流し以外の舟運は衰え nes B aptista ) とよばれる。ェリア ( イ・スラエル初期の預言者 ) の精神と 米子城跡 ( 湊山公園 ) があり , / 大山 た。本流 , 支流の流域には古くから 隠岐国立公園にも近い。 〔野本〕 小坂 , 尾去沢り , 阿仁などの鉱山が 能力をもち , 青年時代荒野で祈りと ょにんしまい四人姉妹 Little 開発され , 近年は総合開発による発 苦行につとめ , 神の国が近づいたこ 電も進んでいる。 〔谷口〕 Women オノレコットの / ト説。 2 部か とによって , 回心の洗札を述べ伝え , ら成り 1868 ~ 69 年刊行。南北戦争に よねやま米山新潟県柏崎市と きたるべきメシア ( 救世主 ) の証人と さいし一時看護婦になった作者の体 中頸城び郡柿崎町にまたがる標高 なった。ヨルダン川でイエスに授洗 , のち / ヘロデ・アンチノヾスの結婚の 験をもとに , 彼女とその姉妺をモデ 993 m の山。海岸近くにある成層火 ルとして書かれた少女小説の名作で , 不道徳を責め , そのために死海の東 山で , 日本海側は断がいが続き , っ のマケルス城の獄につながれ斬首黔 ベストセラーとなった。日本でも明 づら折りの観光道路がついている。 治以後く小婦人 > く若草物語 > などの された。 山頂に日本三薬師の一つで雨ごいに 〔小林〕 名で親しまれた。 霊験があるとされる米山薬師がある。 ヨ′、ネ Johannes キリストの十 〔あら筋〕南北戦争時代のニューイングラ 二使徒の 1 人。福音史家。漁夫ゼべ 8 月 1 日の山開きには , 登山者が郷 ンドの町に住むマーチ家にメグ , ジョー 土民謡のく米山甚句〉を一日中歌っ ダイの子で大ヤコプの弟。主に愛さ ベス , 工イミーの四人姉妹がいた。ジョ て暮らすといい , 数種の歌詞が知ら れた弟子 ( ヨハネ 13 の 23 ) として , 十 は男児のような性格をもつ 15 歳の少女で , れている。また「米山さんから雲が 字架上のイエスから聖母を託された 作家を志している。メグはジョーよりも一 ( 同 19 の 26 ) 。聖霊降臨後ベトロとと 出た」で知られる / 三階節は , もと っ年上で , 将来しとやかな令嬢になろうと もにエルサレムとサマリアで布教。 柏崎付近の盆踊歌の変化したもので 思っている。ベスはピアノや人形の好きな 迫害によってパトモス島に流され , おとなしい 13 歳の少女。ーっ年下のェイミ ある。国鉄信越線柿崎駅からバスで ーは絵を描くのが好きで , 肩にはきれいな 20 分。 のち工ペソに戻って , 1()0 年ごろ 90 〔伊崎〕 金髪の巻毛をたらしている。この家族にお 歳で没。福音書 ( ヨハネ伝 ) と三書簡 , よねりゆう米琉米沢琉球つむ こるささやかな少女らしい冒険 , 家族の少 ならびに黙示録の著者として知ら ぎの略称で , 山形県米沢市を中心、に ない収入をますための努力 , 隣家ロレンス れる。 して織り出される。米沢つむぎ , 長 〔小林〕 家の人たちとの交友 , 後半にはいってから 井つむぎ , 置賜つむぎなどの名称 ヨ′、ネス〔 23 世〕 Johannes XXIII は , 成人した娘たちの恋愛と結婚とが物語 〔宮本〕 がある。江戸時代中期に藩主上杉鷹 をいろどる。 1881 ~ 1963 前ローマ法工。 1904 年 よねざわ米沢〔市〕山形県の南 山の奨励によって起こったもので , 司祭叙階 , 24 年司教にあげられ , の つむぎ糸 , 玉糸で織った絹のかすり 東部 , 米沢盆地と南部の山地を占め ちプルガリア法王使節 , メセンプリ 織物で , 琉球つむぎに類するので米 る市。 1889 年市制。人口 944 35 ( 19 ア大司教 , フランス駐在法王庁大使 琉と称し和服地とされている。これ 65 ) 。国鉄臾・羽線に沿い , 坂線が分 などをへて , 53 年枢機卿およびベネ らの絹織物に模した絹綿交織のもの , かれる。市街は置賜地方の中心地 チアの総大司教に叙せられ , ヒ。ウス で , 室町時代以降 , 伊達蒲生 , 綿織物のものなどのかすリ織物も , 12 世の没後 58 年 10 月 28 日法工に選出 米琉と総称されている。 直江の諸氏が治め , 江戸時代は上杉 され , ヨハネス 23 世となった。 63 年 よの与野〔市〕埼玉県南部の市。 氏の城下町であった。有名な米沢織 死去し , / ヾウロ 6 世が選出された 大宮台地が侵食谷によって東西に 2 なお , 1410 ~ 15 年の対立法王にヨハ ( / 米琉 ) は中級十族の内職を起原と 分されるところにあり , 国電京浜東北 ネス 23 世 ( 1360 ? ~ 1419 ) があり , ド し , 現在は年間生産額約 70 億円に達 線が通しる。 1958 年市制。人口 51746 イツ皇帝ジグムントと結んでコンス するが , 工場の多くは家内工業的で ( 1965 ) 。西側台地上の街村は江戸時 タンツ宗教会議 ( 1414 ) を召集したが , ある。農機具 , 工具 , 本工製品 , 酒 代浦和 ~ 川越間の脇曾往還の宿場で 〔小林〕 失敗し 18 年まで入獄した。 も産する。多雪地でスキー場もある。 ヨ′、ネスプ、′レグ、 Johannesburg あった。 1912 年東の台地上に与野駅 市域南部の吾妻 % 火山は / 磐梯朝 南アフリカ共和国北東部の都市。ト が設けられると , 駅前および新国道 日国立公園に属し , 中腹にイオウ鉱 沿線が発展し , 第二次大戦以来 , 紙 , ランスパール州の南部にある共和国 山や多くの温泉がある。 〔米地〕 よねざわばんち米沢盆地山形 綿織物 , コンクリート , 自動車部品 最大の都市で , 人口 1152525 ( 196 の。 などの大小工場と住宅が激増して東 近接してプレトリア , ジャーミスト 県の南部にある盆地で , 置賜盆地と ン , スプリングズなどの諸都市があ もいう。周辺から最上川に注ぐ多く 京の衛星都市となった。天然記念物 る。世界の金の大半を産する地帯の の川がゆるやかな扇状地を形成して の大カヤがあり , また台地間の水田 大鉱工業都市 , 共和国の経済的中心 流入する。盆地の大半は水田単作地 地帯は見沼とともに 1718 年に干拓さ 都市である。市街は標高 180 ( ) m の高 帯で , 泥炭地の不利を克服し , 用水 , れた鴻沼の跡である。 〔尾留川〕 ン、ンマ ヨ 米山の頂上付近。谷根 部落経由で青海川沿い の登山路からのぞむ 〔小川〕