ャスガワ 3 0 6 やすかわ野洲川滋賀県南東部 年に第三国立銀行 , 79 年に安田銀行 の鈴鹿山脈中に発し , 江剌米の大 を設立 ( 安田商会を改組 ) したが , 東 ◆ 産地湖東平野を北西流し , 下流に 北地方を中心とする地方金融に進出 角州を形成して琵琶 % 湖に注ぐ川。 するという特色ある経営方針をとり , 各地で地方銀行を吸収合併 , 多くの 長さ 55km 。土砂の運搬と堆積作用が 著しいので下流では天井川となり , 子銀行をもった。 1912 年に支配持株 はんらんしやすく , 平常は水が少な 会社として安田保善社が設立され , 23 年に安田系 11 行が大合同を行ない くしばしば水争いを起こした。しか し 1951 年土山町鮎河に巨大な農業 日本最大の普通銀行安田銀行 ( 資本 水利用の野洲川ダム ( 貯水量 720 万 金 1.5 億円 ) となった。安田財閥は浅 m3 ) が完成して水量調節を行ない , 農 野財閥系の製造業にも進出したが , 業用水問題が解決した。 〔谷口〕 善次郎の方針で銀行 , 信託 , 保険な やすぎ安来〔市〕島根県東端 , どを中心に金融財閥として終始。善 中海南岸を占める市。 1954 年市制。 次郎は 21 年国粋主義者に刺殺された。 人口 3 ( ) 778 ( 1965 ) 。市街は港町 , 山陰 財閥解体時 , 会社数 85 , 総払込資本 石目 複目 単目 道に沿う宿場町として発達し , 国鉄 金約 1() 億円。戦後は安田銀行の後身 山陰線開通後は出雲砂鉄を原料とす 富士銀行を中心に金融界に大きなカ やすり・鑢金属などの工作物の る製鋼業が興った。特殊鋼生産のほ をもっている。財閥〔進藤〕 手加工に使用される仕上工具の一種。 か製材 , 木工 , 紡織も行なわれ , やすで〔馬陸〕倍脚類に属する 棒状の炭素工具鋼の表面に無数の鋭 十世紀ナシ , たけのこを特産し , 水 節足動物で , / ムカデとともに多足 い突起 ( やすり目 ) を作って焼入れし 産業も営まれる。清水寺 , 十神山 , 類とされたことがある。体が円筒形 たもので , 工作物の表面を削って平 桜の名所社日がある。安来節の発祥 なこと , ーっの体節 ( 二つの環節がゆ 滑にしたり所要の形状を与えるのに 地としても有名である。 合したもの ) から 2 対すつの脚が出て 〔野本〕 使用される。断面の形によって , 角 , やすぎぶし安来節民謡の曲名。 いる点でムカデと区別される。体長 平 , 三角 , 丸 , 半丸やすりなどとよ 島根県安来市からうたい出されたの は 3 mm から 28 cm ぐらいまで , 種類が び , やすり目の切り方により , 単目 , 多く , 世界に 65 ( ) o 種 , 日本にも 180 複目 , 石目に区別し , また目のあら でこの名がある。 19 世紀の初めから 種はどいる。落葉や石の下などの湿 出雲海岸にひろくうたわれていた船 さによって大荒目 , 荒目 , 中目 , 細 頭歌が安来の港で発達したが , 渡辺 った暗い場所にすむ。ムカデが肉食 目 , 油目の 5 種に分かれる。家庭工 ャスデ 2 種。左上 , タ であるのに反して , ャスデは腐った 作用などには , 小形の各種やすりを 佐兵衛とその娘のお糸がこれに改良 マヤスデの体を丸めた 形。右下 , アカヤスデ 植物質を主として食べる。ときに作 数本組み合わせた組やすりが便利で を加え , お糸は大正の初年に東京へ ある。 物を害することがあるようであるが , 出て紹介した。以後安来節はひろく 〔田中〕 やせいのよびごえ野性の呼び声 人間との利害関係は薄い。毒をもっ 天下に知られるようになり , 1921 年 ごろには浅草興行街に安来節の専門 ていないが , 体から臭い液を出す。 The Call of the Wild J. ロンドン 集団的な移動を行なうことがあり , の長編小説。 1903 年刊行。ゴールド 館ができて他の映画や歌舞伎 , オペ ラッシュでアラスカにおもむいた作 ラなどを圧倒するにいたった。日本 鉄道線路上に多数現われて列車の進 民謡中もっとも人気のある歌の一つ 者の体験が自然描写にいきいきと再 行を妨害するのは , 多くはババヤス 現された動物小説で , 1 匹の大を主 になっている。 〔町田〕 デの類であった このほか驚くと体 人公に動物の生態が活写され , 作者 やすくにじんじゃ靖国神社東 をまるめるタマヤスデなどはよく知 の出世作となった。 〔八木沼〕 京都九段にあり , もと別格官幣社。 られている。 明治維新前夜からの , 殉国の英霊を 〔あら筋〕カリフォルニア州の広大な屋敷 ャス′、一ス Karl Jaspers 18 に飼われている・バックは , 賢くたくましい 祭ったもので , 日清戦争から第二次 83 ~ ドイツの哲学者。オルデン 大であった。アラスカに砂金が発見され , 大戦にかけて戦死した軍人軍属の霊 プルクに生まれる。 、イデルベルク そりを引く大の需要が高まったために , 園 ( 約 240 万柱 ) を中心に祭られ , 内殿に 大学教授をへて , バーゼル大学教授。 丁の手で売りとばされる。アラスカのそり 姓名を列記した祭神帳が安置される。 はしめ精神病理学を専攻してく精神 大の世界にはいったノヾックは , 生存競争に 御霊璽まは神剣と神鏡。創建は 18 病理学総論〉をまとめ , 次いで了解 勝ち先導大になる。次々に人手を渡るうち 69 年 , 最初は東京招魂社とよばれた 心理学に基づく一種の世界観の類型 に親切な主人にめぐりあい , 金鉱を求めて が , 79 年から現名となった。例祭は を求め , く世界観の心理学 > を公にし 奥地にわけ入るが , 主人が死ぬと野性に帰 4 月 22 日 , 1() 月 18 日。 り , オオカミの群れを率いるに至る。 〔坊城〕 た。のちキルケゴーノレ , ーチェら 〔宮本〕 の影響下に体系的な / 実存主義の哲 やすたざいばっ安田財閥銀行 学を樹立した。 3 部作の大著く哲学〉 やそう野草山野に自生する草 資本を中心とした財閥で , その基盤 によれば , 彼の体系は次の 3 部門か は安田善次郎 ( 1838 ~ 1921 ) の時代に 本をいう。園芸植物や農業上の栽培 らなる。第 1 は哲学的世界定位であ 築かれた。彼は 1864 年に両替商安田 植物に対するものであるが , 自生も る。科学は世界定位としての真理性 するが栽培もされる草もある。 / 雑 商店を開き , 明治維新後は官金を取 を越えて自己の立場を唯一絶対とす り扱って巨富を蓄積した。安田は 76 草と同しように , あまり明確なこと ばではない。雑草がどちらかという る世界像を提示するが , 哲学的世界 定位は諸科学の限界を示し , これを と益よりも害のある草 , 栽培上しゃ 超越して体系づけるので絶対的世界 まになる草をさすのに対し , 野草は , とくに趣味的採集の場合は , やや珍 像を提示しない。第 2 は実存開明で しく観賞に耐えるもの , 民間薬や料 ある。限界状況においてわれわれの 思考と意欲が中断することによって , 理の材料になるものを多く含むこと がある。 / ( 別刷 ) 野草〔瀬川〕 実存の深い意味 , 実存の自由と歴史 性との交わりが開明される。第 3 は やそうきよく夜想曲 / ノクタ 暗号読みなど超越への道を開明する 形而上 ; 学である。なお日本では やちまた八街〔町〕千葉県印 1951 年ャスパース協会が創立 , のち 旛郡 , 下総台地中央部の町。人 実存主義協会と改称した。 ロ 25173 ( 1965 ) 。 〔小松〕 1870 年 , 下総牧野 やすりの形とやすりの目 角やすり 平やすり 三角やすり 丸やすり 半丸やすり ャスノヾーース 靖国神社の青銅大鳥居 ースを
ルーマニア ( 補 ) 元 は 1965 手に山・選された キプ・ストイカ幹部会 議 lk である。また 65 年 8 月新憲法を採択し , 国号をルーマニア社会 主義共和国と改称した 最近のルーマニアで 注目されるのは対ソ関 係で , 62 年ごろからし だいにルーマニア独自 の道を歩む傾向がみえ はじめ , 中ソ対立の激 化の中でこの傾向は強 まった。そしてソ連の 政策を全面的には支持 しなくなったが , かと いって中国派にも組し てはいない。 65 年 7 月 の党大会でも , う自主的な路線が確認 された。 であるが , 転して文学の一ジャンル として報告文学などと訳され , 同し 意味でルポルタージュ文学ともいう。 文学としてのルポルタージュは , 広 義では古くからあったと考えられる が , 現代的な意味でのルポルタージ ュは , 20 世紀になって発達した新聞 報道の側から起こり , もうーっはソ 連 , ドイツ , 米国の左翼文学運動の これらは相互に交 側から起こった。 流し合ってルポルタージュの流れを 形成しているとみられる。 こうした 歴史からルポルタージュはなまなま しい事件や歴史の激動期を報告 , 表 現する責務を当然負うことになるが , それをみごとに果たした古典的ルポ ルタージュは , 米国の新聞記者ジョ ード ( 1887 ~ 192 ( ) ) が十月革命 のロシアの鼓動を伝えたく世界をゆ るがした十日間 > ( 1919 ) である。米 国ではこの伝統が受け継がれ , 日華 事変にさいして中国紅軍の姿をいき いきととらえた E. スノー ( 1905 ~ のく中国の赤い星 > ( 1937 ) , A. スメ ー ( 1894 ~ 19 5 ( ) ) のく中国の戦い の歌 > ( 194 3 ) などの傑作を生んだ。 ソ連ではオーチェルク ( 記録文学 ) の 伝統の上に , エレンプルグ , ショ ロホフ , K. M . シーーモノフ ( 1915 ~ らの作家が第二次大戦の現地を探訪 し , 多くのルポルターージュを書いた ドイツではカロッサのくルーマニア 日言己〉 , L. レン ( 1889 ~ ) のく戦争 > ( 1928 ) , Th. プリビエ ( 1892 ~ 1955 ) のくスターリングラード〉 ( 1945 ) な 5 3 6 ト , イスラム教などがある 言五は 0 「 1 ロロ ロマンス語系のルーマニア語力 { 全国 的に通用している。 〔政治〕社会主義型の人民共和国で , 現行憲法は 1965 年に採択された。国 家権力の最高機関として一院制の大 国民議会がある。議員は 4 万人に 1 人の割合で選出され , 任期 4 年であ る。この大国民議会か国家評議会を 選出し , これが議会閉会中の職務を 代行する。したがって国家評議会議 長が元首。大国民議会は , 行政の執 行機関として閣僚会議も選出する。 国家評議会議長は閣僚会議を直接指 導する権限はもたない。政党は・共産 党 ( 書記長チャウシェスク ) だけで , 1921 年に結成され , 48 年に社会民主 党と合同して労働者党となっていた が , 65 年ルーマニア共産党となった 〔経済〕まだ遅れた農業国で , 人口 の 7 ( ) % が農民である。主要農産物は 小麦 , 大麦 , ライムギ , トウモロコ シ , タノヾコ , 亜麻などで , 牧畜も盛 んである。農業経営は集団農場方式 で , 1962 年 3 月に全耕地の集団化が 完了した。第二次大戦後工業の発展 も急速で , 6 ( ) 年の工業総生産高は 19 38 年の 5 倍となり , さらに 60 ~ 65 年 の六ヵ年計画では , 1959 年の 2 倍以 上に達した。 66 年から新五カ年計画 とエネルキ、一開発十ヵ年計画にとり くんでいる。貿易相手国はおおよそ ( 約 7 ( ) % まで ) がソ連をはじめとする 社会主義諸国で , 主要輸出品は , 穀 物 , 石油 , 木材 , 紙 , 農業機械 , 化 学製品などで , 輸入品のおもなもの としては , 金属類 , 食料品 , 繊維材 料 , 油脂 , 機械などがある。国内鉄 道の総延長は 1 川 0 ( ) km 。このほか国 内総延長 1 ( ) 75km のドナウ川は , 石汕 , 木材 , 金属 , 穀物などの運搬に重要 な役割を果たしている。黒海沿岸の コンスタンツア港は海運の中心、であ る。最近は航空路も発達し , プカレ スト空港からは , モスクワ , ワルシ ャワ , プラノ、 , プダベスト , ソフィア , ベルリンなどへ空路か・のびている。 〔社会・文化〕国民の生活様式は , 民族がラテン系にもかかわらす , 古 代からギリシア正教の影響を受け , スラブ的な色彩が濃い。なおルーマ ニアにおけるキ、リシア正教は , 1885 年ルーマニア正教としてコンスタン チノープル総大主教から独立した 教育は普及していて , 4 年 ( 地方 ) と 7 年 ( 都市 ) の義務教育があり , その 上に 4 年制の中等学校 , さらにその E に 4 ~ 6 年の大学 , 高等専門学校 がある。マスコミ機関も完全に党な いし国家の管轄下にあり , 新聞は労 働党機関紙のくスキンチャ〉が主要 紙である。通信社はアジェル・プレ スが唯一。ラジオは F M 放送や対外 放送も行なわれており , 1957 年から はテレビ放送も開始された。観光事 業も国営のカルバツィが一手に行な っている。旧王族の離宮の跡シナイ アや黒海沿岸の避暑地 , ワラキア地 方の中世セルビア建築の遺跡などは 観光客を誘致している。美術ではむ しろ中世の遺品にみるべきものが多 い。とくにトランシルバニア地方は , 他民族の侵入を受けた関係で , 13 世 紀から 17 , 18 世紀ころに建てられた ビサンチン様式と上俗様式の結合し た独特の木造家屋や小寺院が , 多数 散在する。なかでもプラショフの黒聖 堂は壮大なゴシック会堂で有名であ る。 19 世紀末の画家グリゴレスクは ノヾルビゾン派の流れをくみ , ルーマ ニア農村の風景を美しく表現した。 音楽ではスラブ系の色彩が強い。民 謡ではドイナス ( 哀歌 ) が代表的であ る。踊りではゆっくりした合唱の踊 りホラが有名。 〔相場・稲葉〕 どがあげられる。 〔遠藤〕 アレーマニア R u ma n i a 正称は lRepublica Socialistä R い minäo 東 欧のバルカン半島の北東部に位置す る社会主義共和国。面積 2375 ( ) ( ) km2 , 人口 18813 ( ) ( ) ( ) ( 196 は ) 。首者にはプカレ スト ( プクレシュチ ) 。黒海西岸にあ り , 北はソ連のウクライナ , 北西か ら南部にかけてハンガリー , ューゴ , プルガリアと国境を接する。カルバ ート山脈が北部地方を南北に走り ( 国上の % を占める ) , これら山脈の 北部 , 西部 , 東部にかけてトランシ ルバニア , ワラキアの両平原が開け , 南部国境をドナウ川が流れている。 気候は北東部のモルダビア地方 , 南 東部のワラキア地方は大陸性で寒暑 がきびしいが , 中央部のトランシル ノヾニア地方は比較的温暖である。天 然資源の埋蔵は多く , 石油 , 天然力、、 ス , マンがン , ポーキサイト , 石炭 , 岩塩 , ー鉄などを産する。とくに石油 の埋蔵量は世界で 11 位 , 欧州ではソ 連に次いで 2 位である。 〔住民〕大部分がラテン系のルーマ ニア人 ( 85. 7 % ) で , 他にマジャール 人 ( 9. 08 % ) をはしめ , ドイツ人 , プ ルガリア人 , チェク人 , ユダヤ人 , セ ルビア人などか・いる。宗教は . ルーマ ニア正教が 80 % を占め , ほかにギリ シア正教 , カトリック , プロテスタン 〔歴史〕古くはダキアとよばれロー マ帝国の支配下にあったが , 古来ゴ ト , フン , アノヾール , スラブなど 多くの異民族の影響をうけてきた。 13 ( ) 0 年ごろあいついでワラキア , モ ルダビア両侯国がこの地に創設され , それぞれ別の発展をたどった。 14 世 紀後半からこの地方はトルコ民族の 侵略に対する欧州の防波堤として役 だったが , 15 ~ 16 世紀に両イ応国は侯 位の保証とキリスト教徒としての信 仰の自由などを条件としてトルコの 宗主権下にはいり , 以来侯位継承制 度や複雑な国際紛争に巻きこまれた。 とくに 18 世紀後半から国内で民族意 識が高揚する反面 , ロシアがギリシ ア正教擁護の名目で南下をはかり , 国内紛争はしばしばロシアとトルコ 間の係争に発展した。 1848 年政治的 自由を要求して革命運動が国内各地 に起こったカゞ , ロシアとトノレコの共 同のカで鎮圧された。クリミア戦争 のあと始末のために開かれた / ヾリ会 議で , 南下するロシア勢力に備える ため両侯国の統合案が出されたが , これに基つ、、て 1859 年 A. J . クーサを 大侯とするルーマニア侯国が発足し た。その後露土戦争を利用して 77 年 カロル 1 ・世はルーマニアの完全イ虫立 ベルリン会議で列国の承 を宣言し , 認をうけ , 81 年ルーマニア侯国は王 国になった。このころ農地問題やそ れと関連するユダヤ人問題などをめ ぐって内政はしばしば動揺するが , 経済的には金本位制の採用 , 外資の 導入などを通して近代産業の振興が はかられ , 学芸も発展した。第一次 大戦にさいしてはルーヤニアははし め中立を守っていたが , 1916 年連合 国側について参戦したのでドイツ , オーストリア , プノレがリア軍のため にほとんど全国を占領されたが , 戦 争は連合国側の勝利に終わったので , ルーマニアはノ、リ平和会議でトラン シルノヾニア , ノヾナト , プコビナ , ド プルジャ , べッサラビア -. 領有を認 められて大王国として再建された。
1 ホン p h on 感覚的な / 音の大き りあとに残したりするもので , ふつ さの単位。感覚的な音の強さ , すなわ う数枚以上の紙をとし合わせた形を ち耳が受ける刺激の大小は , 音の強 いう。本の定義には内容と形式とを さによるはか振動数によっても変化 合わせ含み , その点で新聞雑誌や小 する。そこで , 基準に 1 () ()() サイクルの 冊子類と区別される , 人間の永続的 音をとり , ある振動数の音と 1000 サ で重要な伝達手段の一つである。本 イクルの。デシベルの音が同し大き という語は , 元来物事の基本にあた さに聞こえれは・ , その音は 0 ホンと る意味から転して , 書物をさすよう いう ( / デシベル ) 。人の耳でやっと になったが , 古くは文気別に書籍 , 聞こえる音の大きさは約 ( ) ホン , 人 典籍 , 図書の語もある。英語のブッ が耐えられる最大の音は約 120 ホン ク b 0 ( ) k , ドイツ語のプーフ Bu ch は , である。日本では計量法で / 騒音の 古代ゲルマン族のブナの木をさすこ 単位としてきめられている。 とばから出 , フランス語のリープ . ル 〔斎藤馨〕 libre, スペイン語のリプロ libro は , グリス川とユーフラテス川の下流は , 左はロータリー式 5 弁 ホーン h 0 r n 文字どおりには角 もとラテン語の木の内皮を表わすリ のホーン。 - 右ーまノヾッノ、 粘上質であったので , 両河地方の人 時代の無弁のホーンで , 笛のことで種類が多い。狭義には欧 ベル libe r からきており , それぞれ本 人はその上を厚く板状にし , 大は 33 現在は , 狩猟トランべ 州の狩猟用角笛から進化した金管楽 の原形をとどめている。 cmX16.3cm, / トは 2.5cm 四方のその ットの名で用いられて 〔本の誕生〕文字のない時代の日本 器の一種で , ドイツ語のホノレン H 。 rn 板に とがった棒やアシの先端で楔 いる の名でよばれることが多い。フレン では語部や唱手がロ伝えに知識 形び文字を刻んでから , 日にかわ チ・ホーンともいい管弦楽や吹奏楽 を後代に伝えたものであるが , イリ かしたり火で焼いたリして , 粘上板 で重要な役割を果たす。長い末広が ーンがく書物の歴史 > で「人間の本」 文書 c lay ta b t を作った。本占上板 りの円すい管を丸巻きにし , 先端は とよんでいるように , 古代では人間 文書は火災に損ぜす , こわれても復 大きな朝顔で , 他端に深い漏斗形の という生きた本が , 部族の歴史など 元できるために , 両河地方の数多い 歌口をつけている。左手で変音用ノ を伝えた。しかし人間社会が発達す 遺跡からおびただしく出上し , その ルプ ( 3 ~ 5 個 ) を使い , 右手はラッパ るにつれて , 限られた個人の記憶だ 文明を明らかにすることができた ロの中に入れて音を調節する。幅広 けではすまされなくなり , 種々な記 ニネべの遺跡からでも 2 万をこす粘 くて柔らかく , つやのある音で , 強 録補助の手段が登場する。古代イン 上板が現われたが , 一続きの文書に 弱の差が大きい。右手をラッパの奧 カ帝国のキープという結縄ぅ ( / な は同一の初句とノンプルをもち , 天 深く入れると音が半音はど下がり , わ ) もその一つであり , インディアン 文暦数から神話伝説 , 個人的な記録 同時に暗い無気味な音色になる ( ス はまた彩色した員や棒の刻み目や組 まで , さまざまなものにわたってい トップ奏法 ) 。バロック時代に使われ 合せによって , かなり複雑な記録を た。なかには円筒形の , 図書館管理 だしたが , 変音弁はなく , ーっの調 残すことができた。しかし絵文字か 者の印まで見ることができた。図書 しか吹けなかった。古典派時代には 上左は前 118 年ごろの らしだいに単純イヒされて , いわゆる 館では粘上板をたなに置いたり床に アッシリア王チグラト ストップ奏法の発明で出せる音がふ / 文字を生むまでの間に , 文明化し 不責んだりしたらしい ピレセル 1 世の八角柱 え , また管の一部をさしかえて曲の た世界各地でさまざまな書写材料が 古代エジプトでは , ナイル河畔に 粘上右は 11 世紀 調子にあわせるようになり , 楽譜は 試みられた。古代中国で亀甲や獣 生育する / パピルスという植物を家 の羊皮紙本で , プラト 全部ハ調に移調された。どの調でも にも船にも使ったが , その髄からは 骨に文字を刻み , 金石に彫ったのも ンのくノヾイドン〉を写 即座に自由に吹けるようになったの 紙状の材料が作られ , 本は簡便な形 その一つであり , インドそのはかで したもの。下は最古の ノヾピルスでエジプト古 に作られるようになった は 19 世紀末である。今では音のよい 木の葉に記したのもその一つである。 ノヾピノレス 工朝のプタポテプ文書 は英語 , フランス言吾 , へ調 , 演奏に安定性のある変口調 , またメソボタミアで粘土板に削りつ ドイツ語など を中 E 朝に写したもの その両方を複合したダブル・ホーン けたのもその一つである。しかし多 などがあるが , 音域はどれもだいた くは , 木の皮をはいでそれに文字を い同しで楽譜の上ではヘ調の移調楽 写すことが容易であったから , ゲル : を蛋第を 器とする ( 実音より 5 度高く楽譜に マン系やラテン系のことばにうかが 書く ) ことが多い。演奏がむすかし えるように , 木の皮の本が本の祖形 いが , 表現能力が大きいので , オー となった。中国では細長い竹札 ( 簡 ) ケストラには欠かせない楽器である。 をつくり , 5()cm 前後に 1 行 10 ~ 2() 字 〔関根〕 を記して , なめし皮のひも ( 韋い ) で編 ほん本書物ともいう。文字や み連ね , その形を冊または策といっ 絵画を書写または印刷して , あるま た。孔子が「韋編三たび絶っ」と述 とまった考えを表わし , 他に伝えた この形の本の装丁がきれ べたのは , るまで言売んだという意味である。は かに木の方形の板 ( 版または牘 ) に多 前 1 世紀ごろの漢代の木簡。居延出上 く書くこともあった。現在知られる 最古の竹札や木板の本は , 20 世紀初 めの中央アジア探検の結果発見され たものである。本について 1 篇 , 1 冊と数えるのは , ・当時のなごリであ る。中国では紙の発明までこの形が 続き , 日本でも東北地方の辺地に カバ ( 樺 ) 皮や桜皮を紙の代わりに使 0 っていたこともあり , 加工されない 樹皮そのままが , 古くはひろく本の 原材にあてられていたことがわかる。 〔粘土板文書とパピルス本〕早く文 明を生んだメソボタミアを流れるチ & を 0 を 0 ー 0 ・
マサーグー 3 1 ア , ューゴスラビア , プルカ、、リアの まごたろうむし〔孫太郎虫〕 3 国にまたがっている。住民は現在 ビトンボの幼虫の俗称。浅い流れの はスラブ系が多数を占めるが , 占く 小石の下にすみ , 他のこん虫の幼虫 はペラスゴイとよばれる原住民と , を捕食する。くしに数匹刺して黒焼 きにし , 子どもの「かん」の薬とし ドーリアノ、 , イリリスノ、 , トラキア て市販されていたが , 近年ははとん 人などの侵入民族とが混血 , マケド ど見かけなくなった。ヘビトンポは ニア人を形成した。占くからアイガ 脈し目ヘビトンポ科のこん虫の一種 イを首都に E 政がしかれ , 前 5 世紀 で , 体長 40mm 内外 , はねを開けば 1 ( ) 0 未からはペラが首都になった。ベル マゴタロウムシ ( 右 ) と mm 内外。体は暗黄色 , はねは暗灰色 , シア戦争ではベルシア 1 則に加担した て , 門下に伊藤左千夫 , 長塚節ら 成虫のヘビトンポ ( 左 ) が , アルケラオス王 ( 在位前 413 ~ 月リ 半透明で , 円形の数個の不明確な黄 をだした。これは後年 / くアララギ〉 399 ) のときギリンア文化を受けいれ , 紋がある。日本全国 , 朝鮮 , 中国お の源流となった。また彼は俳句 , 短 国力を養った。 前 4 世紀半ば / フィ よび台湾に分布する。この科は種類 歌の主張を散文に応用して / 写生 リッポス 2 世 ( 在位前 359 ~ 前 336 ) か・ が少なく , 世界に約 80 種 , 日本には 文を提唱 , 文章革新にも寄与した 出て軍制を改革 , 貲族の騎兵隊と農 他にクロスジへビトンポなど 3 種を く墨汁一滴 > ( 19 ( ) 1 ) , く病牀六尺 > ( 19 民の歩兵隊とを組織し , 上権を強固 産する。 / ( 別刷 ) こん虫〔黒沢〕 02 ) などはその代表作である。 / 俳旬 にした。王は金山を得て財政を安定 まごめとうげ馬籠峠長野県南 「糸瓜咲て痰のつまリし仏かな」〔広未〕 西部 , 木曽谷の南門にあたる中仙道 させ , ポリスの紛争に乗してギリシ まさかど将門常磐津。歌舞伎 の峠。標高 8 ( ) lm 。北の妻籠 , , 南 しのびよるこ > アに進出 , 前 338 年カイロネイアの 舞踊劇。本名題く忍夜恋曲者いは 戦いに勝ち , 翌年諸ポリスを集めて 5 世岸沢式佐作曲。 1836 年初演。 / 平 の落合 ( 岐阜県側 ) の 2 宿にはさまれ , コリントス同盟 ( ヘラス連盟 ) を結成 , 峠の上に馬籠の宿があった。西部に 将門が戦死したのち , 娘の滝夜叉ゃ マケドニア王権はポリス世界の盟主 木曽川沿いの新道ができ , この新中 姫が如月という遊女になりすまし となり , キ、リシア史の転換がもたら 仙道に並行して国鉄中央線が通して て , 残党を捜査にきた敵将の大毛ゃ を亠・おお された。王はベルシア遠征の指揮官 太郎光国を誘惑しようとするが , 見 からは , 交通路としてはさびれた。 にあげられたが , 暗殺されて果たさ 破られて両仄の立回りが行なわれる 島崎藤村の出生地として知られ , ま という筋。曲中一嵯峨やお室」の詠 す , その仕いはむすこ / アレクサン た妻寵との間の雄滝 , 雌滝などの景 嘆的な部分は常磐津の入門曲となっ ダー大王 ( 在位前 336 ~ 前 323 ) によっ 勝峠からの雄大な展望にも恵まれ , ていて , 有名である。 て実現された。大王の死後 , 後継者 来訪者が多い 〔駒井〕 まさき〔柾〕日本の太平洋沿岸 たちが争ったがギリシア総督アン まこも沼地や川岸などに自生す 各地に自生するニシキギ科の常緑低 るイネ科の大形多年草。大きな群落 チノヾトロスの子力ッサンドロスが政 木。朝鮮 , 中国にも分布する。高さ 権を握リ , その死後アンチゴノス 1 をつくる。地下に太くて短い根茎が 7 月に小花をつけ , あり , 多くのほふく枝をだす。茎は 世 ( 独眼王 ) の子デメトリオス ( 攻城 3 m くらい。 6 秋にさく果が熟し割れて赤い皮をつ 者 ) が王となった。彼の支配は長続 高さ 2 m ぐらい。葉は長さ 1 m , 幅 けた種子が現われて美しい。一般種 ~ 3 cm ばかり。夏から秋に , 大形 きしなかったが , 彼の子アンチゴノ 2 の葉は濃緑色であるが , 園芸種には , ス 2 世 ( 在位前 277 ~ 前 239 ) に至り , の円すい花序をだし , 上方に雌性の , 白色覆輪のキ・ンマサキ , 黄色ふ入リ マケドニアにおけるアンチゴノス家 下方に雄性の小穂をつける。ともに のべッコウマサキ , 黄色覆輪のキン の統治が確立した。その後デメトリ ひじように落ちやすい。若い茎に黒 マサキなどがあり , 6 月下旬のさし オス 2 世 ( 在位前 239 ~ 前 229 ) , アン 穂菌が寄生すると軟化して , たけの 木で繁殖され , 庭木 , いけがき用と チゴノス 3 世 ( 在位前 229 ~ 前 222 ) , このようにふくれるが , これは台湾 して全国的に栽培されている。海岸 フィリッポス 5 世 ( 在位前 222 ~ 前 〔佐竹〕 や中国で食用とされる。 地方にはつる性のツルマサキが自生 179 ) , べノレセウス ( 在位前 179 ~ 前 168 ) まさおかしき正岡子規 1867 ~ 〔浅山〕 の統治をへて , 前 168 年ピドナの戦 する。 1902 俳人 , 歌人。本名常規。歌 まさき松前〔町〕愛援県中部 , いでローマの支酉己下にはいリ , 前 146 号竹の里人。伊予松山藩士の子に生 年にはローマの属州に編入された。 重信川河口左岸にある伊予郡の町。 まれ , 松山中学時代自由民権思想の ローマ帝国の東西分裂後はビザンチ 人口 22698 ( 1965 ) 。伊予鉄道が通し 影響を受けた。 1883 年上京して大学 る。市街は加藤嘉明が松山に築城す ン帝国領となリ , 14 世紀にはトルコ 予備門にはいり東京大学国文科に進 が支配権をにぎった。 19 世紀以降 , るまでの城下町で , 松山平野 ( 道後平 んだが , 92 年中退して日本新聞社に / ヾルカン問題の一環としての「マケ 野 ) の中心地であった。耕地がよく 入社 , 以後ここを根拠として俳句 , 開け , 水産業も盛んであり , 煮干し ドニア問題」が複堆化し , ノヾノレカン 短歌の革新運動をおこした。 91 年か 戦争をへてトルコの支配を脱した イワシを特産する。男による陶器行 ら一生の仕事となったく俳句分類全 商 , 「おたた」とよばれる女の生魚行 〔高橋〕 集 > の編さんに着手 , 蕪村を発見し 商は有名である。 1938 年海浜に誘致 マケドニア Makedonija ユー てその「積極的美」に傾倒した ゴスラビア連邦を構成する 6 共和国 方当時の西洋画論に学んで「写生」 された東洋レーヨンの繊維工場があ の一つ ( 1945 以降 ) 。面積 25713km : 人 を主張 , 卑俗化した旧派俳諧を月 る。 1732 年麦種をまくらに餓死した 義農作兵衛の墓があり , 4 月 23 日は 並みとして攻撃し , また連句を非文 ロ 1406 ( ) 03 ( 1961 ) 。住民の % はマケド ニア人 , 残りはトルコ人 , アルノヾニ 〔石丸〕 義農祭が催される。 学だと排して発句を俳句と改め , ア人 , セルビア人など。主都はスコ 近代俳句の再生に尽力した。門下に マサ、一グース Mother Goose 河東碧梧桐響 , 高浜虚子らが出 ピエ。マケドニア地方の北西部を占 英国の伝承童唄べの代表名。マサー て以降俳壇の主流を形成した ( / ホ め , 中央部をバルダル川が貰流し , グースの名は / くべロー童話集 > の副 トトギス ) 。俳論にはく獺祭書屋俳 題に使われ , また世界最初の児童書 この地域を東部 ( 止陵 ) と西部 ( 山地 ) 話諟 : よ〉 ( 1893 ) , く俳諧大要〉 ( 1895 ) , ユーーーくリーー ( ション・ とに 2 分する。農業が主で , 国上の 出版社ニ く俳人蕪村〉 ( 1897 ) などがある。 95 年 べリーの創立 ) の発行した伝承童唄 約髫が耕作に利用される。主産物は 集にくマサーグース童謡集 > ( 176 ( ) ~ 小麦 , トウモロコシ , タバコ , 米 , 日清戦争に従軍してかっ血 , 以後闘 65 ) の名を冠したことから , 童唄集 ケシ , 綿花 , ヒマワリなど。はかにク 病生活を続けたが , 彼はさらに短歌 がマザーグースとよばれるようにな の革新を志し , 98 年く歌よみに与ふ ロム , スズ , マンガンなどの鉱産があ った。マザーグースの童唄は呪術ヒ粤っ る書〉を発表 , 「根岸派」の一派を立 る。工業は未開発である。〔島野〕 マコモ 花 さく果 マサキ 正岡子規
例がない。日本で特筆すべきことは 製紙法の改良によって , コウゾ , ツマタなどですいたすぐれた紙の本 が生まれたことである。また 8 世紀 になると現存するものでは世界最古 の印刷物であるく百万塔陀羅尼 > が 発行されたが , その後は長く跡を絶 って , 平安時代にはいると経文や文 学作品を上質の和紙の上に美しい筆 づかいで書き写すようになった。藤 原秀衡や平清盛などの美しい写経 , 平安末期からの絵巻物などは , 欧屮日 中世のさし絵本と並んで日本の本の 芸術といえる。書物の形態は , 奈良 時代まではもつはら巻子本であった が , 平安時代初期から , このほ力、に 横に長くつないだ紙を折りたたんで 作った としのない折り本 , 折り本 の前後の表紙を連続させた旋風葉 , 紙を 1 葉すつ中央から縦に二つ折り して折り目を表紙にのリ付けした粘 葉もまたは胡蝶装などの冊子ジ 本が行なわれるようになった。平安 時代の末から鎌倉時代になると , 中 国の影響で木版印刷がひろく行なわ れるようになり , おもに仏教関係の 書籍が寺院から刊行された。また慶 長 ( 1596 ~ 1615 ) 年間には勅命によっ て日本最初の木製活字本が現われ , く古文孝経 > く日本書紀神代巻 > など の , いわゆる慶長勅版本が刊行され た。一方 1590 年には耶蘇 : 会士のワ ーによって , グーテンべノレ クの活版印刷術がもたらされて , 「キ リシタン版」数種が誕生したが , キ リシタン禁止のため後続がなかった。 江戸時代には木版のみが全盛をきわ め , とくに京都 , 大阪 , 江戸の業者 が浮世絵師を使って発行したさし絵 本は , 木版印刷のすぐれた技術をみ せている。江戸時代の末になると , 西洋の活字印刷術がはいってきて洋 学書の印届リも一音るでは行なわれたが 現在の日本の活字印刷の基礎を築い たのは本木昌造の努力による。彼は 幕末の 1852 年に鉛活字を用いてく蘭 和通弁 > を刷り , 明治になって今日 の号数活字の制定など活字印刷の緒 をつけたのである。 和書の種類はさまざまだが , その 料紙の大きさによって , 大本 ( 美濃 紙以上の大きさの料紙半折の形 ) , 美濃本 , 半紙本 , 中本 ( 美濃本半截 ) , 小本 , 豆本などがある。また懐中用 として横としの・小形のものが作られ た。そのはか筆者 , 校正者 , 出版者 の名を冠して「定家本十佐日記」な どの名があり , 編集や校正や出版の 年時によって「元永本古今集」「正 平版論語」など , その装丁や形状や 料紙から「青表紙本」など , その伝来 や所在などから「金沢文庫本」「足 利象本」など , その書写の様式や版 式などから「仮名書論語」「十行本」 などがある。また本のとし方にも独 得の和綴の方法がくふうされ , 大和 : 3 綴 , 四つ目 , 康熙綴 , 亀甲綴、麻 の葉綴 , 唐本などがあった。 〔本の種類〕現在日本の本の形は紙 の規格によって決まる。 1929 年から 紙の寸法は A 判 B 判などの標準規格 が定められている ( / 紙 ) 。一方内容 は千差万別であるが , / 図書館の利 用する / 十進分類法によって一応分 類することができる。ただし用途や 目的によって , たとえば児童書と一 般書 , あるいは単行本と全集本 , 新 本と古本 , 文庫本やシリーズ本など という名称もあるし , 特殊なものと して点字本 , 限定本 , 稀覯 ! う本など もある。本の世界は , その著者であ る人間の世界と同しく深い。 20 世紀 後半 , 第二次大戦後に本は新しい変 容を示しつつある。ーっはマイクロ フィルムやマイクロカーードが考案さ れ , 在来の本のペーージを板度に縮写 できたために , 巨大な蔵書施設を要 しないようになったことで , また つは , 録音テープの発達によって , とばを音で収めうるようになった ことである。本は長い間の紙による 王座を去って , まったく異なった材 質による , 大きな飛躍をとげるかも しれないのである。 〔本を扱う心得〕英国の愛書家プレ イズは本には 10 個の敵がいると指摘 している。それによると , 1 ) 火 , 2 ) 水 , 3 ) ガスと熱 , 4 ) ちりとそまつな 扱い , 5 ) 無知とがんこ , 6 ) シ・ミ , 7 ) そ のはかの害虫 , 8 ) 製本師 , 9 ) 収集家 , 10 ) 中と子どもである。製本師と いうのは西洋では自家製本が多いの で , 略装の紙表紙の本 ( ペーパー ック ) を自分で製本しなおすときに その職人か本をだいなしにしてしま うことをいったものである。また収 集家というのは本を手に入れたくて 盗んだり , 入手した本を隠しこんだ りする人々のことで , この意味では 本を借りて返さない人もやはり本の 敵に数えられるであろう。本を日光 にあてたリ , 火は、ちの上にかざしで はこリを放置し , 湿気の 言冗んだリ 多いところに置いていれば , 本がい たみやすいことはプレイズのいうと おりである。 / 印刷 / 出版 / 製本 〔瀬田〕 ポン B onn 西ドイツ西部 , ノル トライン・ウェストファーレン月ヨ , ライン川左岸の都市。ドイツ連邦共 和国の首都。人口 142986 ( いい 3 ) 。中 心街の南方約 2.5 のライン河岸に 連邦議会議事堂が新築され , そこに いたる間のコプレンツ街には大統領 官邸 ( ビラ・ノ、ンマーシュ 首相官邸 ( シャウムプルク宮 ) などの 政府官庁 , 各国の大使館などがある。 産業としてはアルミニウムなど軽金 属製品 , 製粉 , 文房具などの工場が ある。市内には、参事会聖堂 ( 11 ~ 13 世紀 ) , 大学 ( 1818 建 ) , ポッペルスド ルフの水城 ( 1715 ~ 40 , 現在はポン 大学の自然科学研究所 ) , べ ンの生家 , 1959 年建設のべートーベ ン・ホールなどがある。ポン博物館 にはネアンデルタール人の頭骨が所 蔵され , 旧墓地にはシューマン夫妻 , ーヾンの母 , W. シュレーゲ ルらの墓がある。ポンははしめケノレ ト人の集落であったが , ローマ時代 にはその城さいとなった 1273 ~ 17 94 年までポンは選挙侯であるケルン 大司教の居住地となった。近世以後 , ルイ 14 世の侵略戦争 , スペイン継承 戦争 , ナポレオン戦争などで荒らさ れた。 1949 年この地でドイツ連邦共 和国の憲法が採択され , ポンはその 首都として一躍国際都市となった。 〔生野〕 ポーン Böne アルジェリア東音に , 地中海に面する港市。ポーヌともい う。チュニジアとの国境近くに位置 し , 人口 135150 ( 196 ( ) ) 。住民はフラ ンス人 , イタリア人 , マルタ島人な 洋書の製本は , 本製 , 南京製 , 仮製に大別される。本製 は糸としした中身を仕上断裁して表装した。紙でくるん だもので高い技術を要する。左図はすべて本製で , ホロ ーバックは開きよく読みやすいが開閉の力が背にかかる ので背が離れやすい。タイトバックは形がくすれないが 開きが悪い。フレキシプルバックは本が平らに開くが , 背が曲がるため背文字がくすれやすい。南京製は針金と しで本製と同し体裁の表紙にしたもので ( 右図中央 ) , のはか , がんだれ , たれ皮表紙などがある。仮製は糸と しや針金としの本を表紙と中身とを同時に断裁したもの で , 製本工程が簡単であるため , 教科書や雑誌など安価 で大量に生産される本に用いられることが多い 第、背のつき方 背の形 ホロ ーー / ヾック タイトパック フレキシプルバック 丸背 , 総くるみ , みぞっき 角背 , 継ぎ表紙 , みぞっき 角背つきつけ のりとじ 針金とし ( 平とじ ) 針金とじ ( 中とし
4 2 3 ラジウム 港はキ、ニア湾岸でもっとも近代的な 漢書〉地理志によると , 楽浪郡は現 在の平壌付近を中心として , 戸数約 施設をもち , 奧地の中心力ノなどへ 6 わ・ , 人口約 40 万 , 属県 25 をもって 鉄道が通しる。連邦議会があり , ビ ール , 製氷 , くだものジュース , タ いた。 3 世紀の初めごろ , 楽浪郡の 南部が分かれて帯な邯がおかれた。 ノヾコなどの工業か・盛んである。港は 滅亡直前と思われるが , く普書 > 地 ナイジェリア貿易の 70 % を扱う。 15 世紀にヨルバ族が建設 , べニン族が 理志には , 楽浪邯 37 ( ) ( ) 戸 6 県 , 帯方 邯 49 ( ) ( ) 戸 7 県とみえ , えていた 商業地とした町で , ポルトカ、、ル人が ラゴス ( 入江の意 ) と名づけた。 155 3 とがわかる。高句麗の国力が強くな 年英国船がはしめて来航し , 以来 25 ( ) ると楽浪郡は滅は、され , 次いで帯方 年奴隸貿易の中心であった。 1862 年 郡も馬韓の諸国の乞配ドにはいり , 英国の植民地となり , 西アフリカの 4 世紀中ごろにはⅱ済がその地に建 経済的中心として発達した。〔西野〕 国された。楽浪郡の大守は中国から 赴任し , そのもとに丞 , 掾 , 長史が ラコ′レ . ニヤ La Coruna ス -7 イ あり , 東部 , 南部の両尉は武備を ン北西端のガリシア地方 , ラ・コル ニャ州の主都。人口 195519 ( 1964 ) 。 その職とした。県の長官である令ま スペイン第 2 の漁港として栄え , 農 たは長のもとには , 丞 , 尉 , 嗇夫な 産物 , 魚類などを輸出し , また欧州 どがあった。平壌の大同江対岸 f•. 城 各国や中南罘を結ぶ定期航路の国際 里には , 圄囲に上璧をめぐらした内 的な寄航地である。魚類かん詰工場 , こば衙ヵ : ん , 倉庫などの跡があり その周辺には漢代につくられた数 T ・ 造髜 } 所 , タ . バコ , マッチなどの工場 基の占墳群が散在している。 1910 年 がある。町の家々はがラスでできた から 45 年・にいたるまで , 日本人学者 ーをもち , その美しさで知 / ヾノレコ や朝鮮総督府によって , 発掘や調査 られている。中世はムーア人とノル が行なわれ , 工芸品や日用器具が多 マン人の支配下にあったが , のち綿 これらは朝鮮半島最 の中心、地となリ , アメリカとの貿 数発見された 上は楽浪わ城の博室墳 初のすぐれた文化であるばかリでな 1588 年無敵艦 易港として発展した。 ( せんしつふん ) の一部。 究所で J. J. トムソンに学び , 当時の く , 中国占代文化の正確な年代と技 隊アルマタ、、の出航地であり , またド 平壌 E 城里所在。下は 最先端の間題であった放射能と取リ 術を知るためのな学術資料であ レークの略奪をも受けた 楽浪彩篋塚出 E の孝子 ラサ拉薩 Lhasa 中国 , チベ 組んだ。 98 年カナダのモントリオー る。銅器 , 金銀装飾 , 第器 , 漆器 , 伝図のある彩篋 ットの i;. 都。ラサとは「神の地」の ルにあるマッギル大学に移リ , 19 ( ) 7 絹布 , 装身具 , 史房具 , 翁石文 , 絵 年帰英してマンチェスター大学教授 意。 . / 、凵約 8 な , ラマ僧がその半分 画 , 建築などの出 E 品や遺物には , となリ , 19 年キャベンジシュ研究戸斤 を占めている。ツアンポ川の支流ラ 漢代文化を代裵するすぐれたものが 所長となった。その間 , マッギル大 サ川にのぞみ , 高山に囲まれ風景が 多い。 4 ( ) ( ) 余年・にわたる漢族の支配 美しく , 「日光城ーと称される高原都 学で F. ソディ ( 1877 ~ 1956 ) とともに放 を通じて移入された高度の生活文化 射能による元素の転換を発見 ( 19 ( ) 2 ) , 市をなしている ( 標高 363 ( ) m ) 。すで は , 総称して楽浪史化とよばれる。 この業 線などの本性をきわめた に唐代に太宗の娘文成公主がとつい それは漢代文化研究の一指針とされ , 績により 08 年・ノーベル化学賞を受賞。 世界的に有名であるが , だ吐審 E ソンツェン・ガンポがこの この文化は 12 年。線を原子にあてる実験によっ 地に都を定めておリ , 清代には駐蔵 周辺の満州 , 朝鮮 , 日本の諸民族に て原子構造を明らかにして原子核の 大臣が派遣されていた。清末に英軍 強い影響をえ , 民族的自覚をひき 存在を確認 , 同時に原子核の人工転 が一時占領し ( 19 ( ) 3 ) , 武装使節が常 起こした。それら諸民族の自立自覚 換をはしめて実現した。一方 , キャ 駐してこの地の地方政府と接触を保 と , のちの国家形成とは , 楽浪文化 べンジシュ研究所では世界各国の研 っていた。チベットでもっとも肥え の直接的影響の最大のものであった 究生からなる大きな研究グループを た河谷の中央にあり , 行政 , 経済 , といえよう 〔宮原〕 組織 , 指導し , 原核物理学の初期 ラーケ、′レレープ selma Lager- 宗教文化の中心地であり , 自治区準 の重要な研究を進めた。 〔後藤〕 備委員会が置かれていた。地勢の関 1858 ~ 1940 スエーデンの女 f 係からむしろインドとの交通が容易 ラシアン / 弧度 流作家。美しい風光で伝説に富むべ であったが , 解放後は青蔵公路 ( 青 ラジウム r a d i um 元素言己号 Ra , ルムランドの地主の家に生まれた 原子番号 88 , 原了・ 226. ( ) 5 。周期律 海 ~ ラサ , 2116 km ) , 康蔵公路 ( 四川 ラサのボタラ宮。高さ 女子高等師範をへて教師を勤めるう 1 20 m の丘のにたっ 13 表第Ⅱ族 a のアルカリ上類金属に属 ~ ラサ , 2255 km ) が前後して開通し ち , 郷里の伝説に基づいたくイエス 層の大建築で , 第 5 代 する / 放射性虍素。ウランが放射線 中国内地との交通が密接に タ・ベルリング物語〉 ( 1891 ) を懸賞 ( 1954 ) , ライ・ラマが 1 7 世紀 を出して崩壊した結果できる虍素で , に投して当選 , たちまち名声をえて なっている。祭日には定期市が開か 中ごろに建造したもの 以後も盛んに名作を出し , 1909 年女 れ隊商が往来する。歴代 / ダライ・ ラマの住居としてボタラ宮が丘上に 性として最初のノーベル文学賞を得 そびえ立ち , 大昭寺 ( ジョカン大聖 た。彼女の小説は愛と善意にあふれ , 深く郷上に根ざした特異な幻想力を 殿 ) には長慶結盟碑があって , 漢と もっている。はかにく地主の家の物 チベットの古い関係を示しておリ , 小昭寺 ( ラモチェ聖主殿 ) などの寺院 語 > ( 189 9 ) , くエノレサレム〉 ( 1901 ~ が多く , 巡ネしが絶えない。発電所 , ( ) 2 ) , く御者 > ( 1912 ) などの小説が知 農業試験場 , 病院も設けられ , 開発 られる。またスエーーデン教育界の求 めで書いた長編童話 / くニルスの不 が進められている。 〔徳増〕 思議な旅 > は世界中の子どもの愛読 ラサ、フォード E r n e s t R u t h e r ・ 〔山室〕 ford 1871 ~ 1937 英国の物理学者。 書となっている。 ラゴス Lagos ナイジェリア連 ュージーランド生まれ。 邦の首都。国の西部 , ギニア湾に面 ーランド大学に学び , 1895 年渡英し する港市で , 人口 37900 ( ) ( 196 ( ) 推 ) 。 てケンプリッジのキャベンジシュ石斤
2 2 0 ( 2 編の 2 ) に基づき , 大司祭 , 王の り支店網を確立するなど , 同家 300 メセタ Me set a イベリア半島 のかなりの部分 , すなわちスペイン 王として神に油を注がれた者として 年の基を固めた。彼ののち 1 代をへ の約 % , ポルトガルの東部を占める 期待された救世主をさす名称となっ て大口レンツォ Lorenzo ( 1449 ~ 92 ) 台地地方の総称で , スペイン語でテ た。メシア思想は旧約時代に種々の が出て , パッチ家を中心とする反対 ープル状の土地を意味する。主要部 曲折をへて発展したが , 人祖の原罪 派を掃滅し , 市の独裁者となった。 は標高 6()0 m 前後の台地で , 中央を ののち , 神が太祖や預言者に示した しかし彼の晩年からメジチ家は衰運 シェラ・デ・グアダラマからシェラ・ に向かい , たびたび市を追われたり 約束に基づき , 時満ちるに及んで , デ・グレドスにのびる山脈が東西に ダビデの子孫としてのメシアが現わ した 1559 年分家のコシモ 1 世 ( 15 走り , メセタを 2 分している。気候 れ , この人類救済の業を全うすると 19 ~ 74 ) がトスカナ大公を称したが , この観点からすれ は大陸的で気温差が大きく , 年降水 考えられていた その 7 代後のジャン・ガストネ G ian 量 58E 以下で乾燥する。農産物に ば , 旧約時代はひたすらこのメシア Gast 。 ne ( 1671 ~ 1737 ) をもって家系 は北部の小麦 , 南部のオリープがあ の来臨を期待するための長い準備期 は絶えた。メジチ家はフィレンツェ 間であり , く旧約聖書 > の記述もす るが生産力は低い。マドリ の支配を通して 15 世紀イタリアの政 リャドリドなどの都市を別にすれば 界に重きをなし , また歴代の学芸の べてこのメシアの期待に向けられ 人口密度も低い。 〔細野〕 ているということができる。 保護奨励によって , 同市をルネサン 0 ス文化の一大中心地とした。同家か 預言書 , とくにくイサヤ〉くエレミ メソジスト Methodists 英国 らは法王レオ 1 け世 , クレメンス 7 世 ア > くエゼキエノレ > くダニエル > の 4 国教会から分かれたプロテスタント 書には , イエス・キリストにおいて が出ており , フランス王アンリ 2 世 の一派。この派は 17 38 年ジョンとチ ことごとく成就さるべき救世主に関 の妃となったカトリーヌ・ド・メジ ャーノレズのウェスリー We s 1 ey 兄弟 , シス ( 1519 ~ 89 ) にみられるように する預言がもっとも多くしるされて G. ホワイトフィールドらがオクスフ フランスやオーストリアの宮廷とも ォード大学で創始した宗教運動には いる 〔小林〕 婚姻関係を有していた しまり , 84 年メソジスト教会として メシアン Olivier Messiaen 〔森田〕 へ フランスの作曲家。ノヾリ 独立 , 方法的 ( メソジカル ) な規則と メジナ M ed ina サウジアラビア 1908 ~ 音楽院で作曲とオルガンを学び , 19 謹厳な生活を行なったので「メソジ の西部 , メッカの北約 350km にあるヘ 31 年からノヾリの聖トリニテ教会でオ ジャズの都市。人口 7.2 万 ( 1963 ) 。 スト」とよばれ , それが通称となっ ルガン奏者をつとめている。 36 年ジ た。日本には 1873 年伝道され , 1907 メッカに次ぐイスラム教の聖地で , ョリべら数人とともにグループ「若 年各派合同して日本メソジスト教会 標高約 700 m の高原オアシスにあり , きフランス」を結成 , 新古典主義に 城壁をめぐらす旧市内には , マホメ を結成 , 41 年の教団整備以来日本基 対して , 人間性への復帰を主張した。 ット , フアチマ , アプ・ノヾクルおよ 督教団に属している。そのほか日本 カトリック的な世界観と音楽観に立 びウマルの墓 , 予言者のモスクなど 自由メソジスト教会 , 日本ナサレン 礼拝の的となる遺跡が多い。メッカ 教会 , 日本ホーリネス教会などがメ 脚した特異な作風で知られ , 40 年代 末からは先端的な作風に移行し , 前 が隊商都市であるのに対し , この町 ソジスト系教団として独立している。 衛的な諸流派に強く影響を与えた はオアシスの農業地帯の中心、である。 〔木山〕 く主の降誕 > ( 1935 ) , く時の終わりの 古代にはヤスリプといわれたが , 当 メソボタミア Mesopotamia ギ 四重奏曲〉 ( 1941 ) , くアーメンの幻影 > 時はユダヤ人の町であった。マホメ リシア語で「二つの川の間にある土 ( 1943 ) , く幼児イエズスへの二十の ットが 622 年にヘジラ ( 聖遷 ) を行な 地」を意味し , / チグリス川と / ュ まなざし〉 ( 1944 ) , くトウランガ、リラ って以来 , 「予言者の町」その他の名 ーフラテス川の間の地域をさす。「両 交響曲 > ( 1948 ) , くオルガンの本 > ( 19 でよばれたが , メジナとはその「町」 河地方」とよぶこともある。今日の 51 ) などが有名。 の意味である ( イスラム世界にはい 〔関根〕 イラク共和国を中心に , シリア北東 部およびイラン西部を含む地域で , メシェド Me shed マシュハド たるところにメジナの地名がある ) 。 ( アラビア語で殉教の地の意 ) ともい 1908 年巡礼鉄道が開通して繁栄した。 東方にはイランのザグロス山脈がそ 〔西野〕 う。イラン北東部の都市。人口 312186 びえ , 西方にはイラク ( 断がい ) の地 ( 1964 ) 。標高約 1000m の高原にある 名の起原となるような , 標高約 1000 めじろ〔目白〕燕雀く目メジ が , 約 60() km 西方のテヘランとは鉄 m の急斜面もみられるが , ロ科の鳥。スズメより小さい。目のま 一般にな 道で結ばれている。肥よくな農業地 わりに白いくま取りがあり , 背面は だらかにシリア , ヨルタ、ン , サウジ 帯の中心で , 商工業も発達し , 古く ウグイスより明るい緑色 , 腹面はの アラビアの方向に高くなる高原が続 から隊商路の要衝として , アフガニ どのところが黄白色 , 以下は淡かっ く。二つの川はともにトルコの山中 色。雄は黄色のすしがのどから胸 , スタン , ロシアなどとの交通も開け に源を発し , 北部はアル・ジャジラ ていた。 9 世紀の建造になるイマム・ 腹を通り尾にまで達している。小群 ーといわれる台地 , 南部はイラク・ レサの廟 ( これが地名の起原 ) があ をなして広葉樹林の中を飛びまわり , アラビといわれる平野を流れてシャ る。 14 世紀以来その廟を中心に発達 果実や種子 , こん虫の卵 , クモなど ット・エル・アラブ川に合流 , ベル し , シーア派のイスラム教徒の聖地 をついばむが , 花のみつを吸うのも シア湾に注ぐ。トルコの山々に雪解 となった。その戦略的地位のために 好きで , ビワ , チャ , ッパキ , ウメ けがはしまると , 川の水量が増し 第二次大戦中はソ連の占領下におか の花にくる。その舌は特別で , 両縁 ( 4 ~ 5 月 ) , 両川はしばしば洪水を 〔西野〕 れた。 がいくらか筒のように内側に曲がり 起こす。アノレ・ジャジラーのミレ・ メジチけメジチ家ルネサンス こむので , みつなどの液体を吸うの タルタルのようなくは、地 , イラク南 に便利で , また舌の先が分岐してい 東部のハンマール湖その他の沼沢群 期イタリアの富豪。フィレンツェ近 るので , / トさい虫などを食べるのに は , そうした洪水で生まれたものと 郊の出で , 12 ~ 13 世紀ごろ同市に移 役だっ。チューイ , チューイと鳴き , 考えられる。また古代からの運河や 住。 1378 年のチオンピの乱のころサ 挙動は敏活。枝に何羽かとまるとき , かんがい水路が , いっそう川筋を変 ノレベストロ・デ・メジチ S alve s tro すきまなく密接し , 1 羽が飛び立っ 化させる原因である。米歴史家工 H. de'Medici が政界で活躍 , 別家系の プレステッドの命名した「肥えた とすかさす両方から詰める。すなわ ジョノヾンニ Giovanni ( 1360 ~ 1429 ) 日月地帯」もこうした水の猛威で湿 がメジチ銀行の基礎をおき , 次代の ち目白押しである。日本各地に多く , 秋冬には人里に移る。ウグイスとと 古コシモ Cosimo ( 1389 ~ 1464 ) は法 地化したり , 半砂漠地化したところ が多い。しかし , 今日でもかんがい 王庁にとりいって巨富を積み , 陰か もに昔からもっともふつうな飼い鳥 水路の整った地域では , 米 , 小麦 , ら市政をも掌握しつつ , 東西にわた である。 〔高島〕 メシアン メジチ家上はロレン ツォ , 下はコシモい世 メジロ なイ
マリヨルカ 。・マノレクス がある。また青森県下北郡左京沼に ヒメマリモ , 富士五湖の山中湖およ び河口湖にフジマリモなどがあり , いすれも径 2 cm ぐらいの小形の塊状 〔小林〕 マリヨルカ〔島〕 M a llo r c a ス ペイン , バレアレス諸島中の最大の 島。面積 3650km2 , 人口 355000 。同島 の / / ヾノレマ・デ・マリョノレカ市はノヾ レアレス州の主都でスペインおよび 他の欧州各都市より航空の便がある。 またバルセロナなどから定期船の便 がある。四季を通しこの良好な気候 と風光明美をもって世界的に有名な 観光地として繁栄している。海岸線 は変化に富み , 北西部に山脈がある。 またドラック , アルタなど数々の巨 大な鐘乳洄与があり大理石など石材 を産する。ブドウ , オリープ , アー モンドの産地で , 数百年から千年に 及ぶオリープの樹木が異様な姿をみ せている。産業としてはくつをはし めとする皮製品 , ブドウ酒 , 織物 , 刺しゅう , 模造真珠などがある。フ ェニキア , カルタゴ , ローマ , ノヾン ダル , ムーア人などの侵入をうけ , 1229 年アラゴン王ハイメ 1 世に征服 され , その後自治的地位を有したが 1715 年完全にスペインに統合された マリンノヾ marimba シロフォン に類する打楽器。硬質の木片を調律 ーっーっに共 して音階的にならべ , 鳴器をつけて音を豊かにしたもの。 両手に桴を持って打つ。アフリカ原 住民の楽器が中南米へ渡って土着し たもの。同類は東南アジアにも分布 している。木片の代わりに金属片を ならべたマリンノヾ・ゴングズという 全国生産の 8() % を占める。丸亀城は 亀山公園として開放されている。国 鉄予讃線のほか , 坂出 , 観音寺など へノヾスカ { 通している。 〔高重〕 楽器もある。 〔関根〕 まるおか丸岡〔町〕福井県北部 , 坂井郡の町。人口 23 ( ) 67 ( 1965 ) 。福 井平野の東部とその東の竹田川が流 れる山地を占める。京福電鉄線に沿 う旧城下町で , 1576 年に柴田勝豊が 築いた丸岡城 ( 霞が城 ) の望楼式 3 層 の天守閣は , 現存の天守閣ではとく に時代の古いものとして貴重である。 市街は福井機業地帯の一中心として 人絹織物の生産が多く , 山地では木 炭を産する。 / ( 別刷 ) 城〔千葉〕 まるがめ丸亀〔市〕香川県北西 部 , 丸亀平野の主部を占める市。 18 99 年市制。人口 58826 ( 1965 ) 。 1597 年 生駒親政が亀山城を築城 , のち 1641 年山崎宗治が入城して , 整備された 城下町となった。また近世中期以降 は金毘羅参りが盛んになるにつれ , 主として岡山以東の参拝客の船着場 として繁栄した。現在は通町 , 富屋 町などの大きな中心商店街が , 丸亀 平野の商業の中心機能を果たしてい る。製塩業のほか , 化学 , 紡績工業 、が行なわれる。また家内工業に , 金 毘羅参りのみやげものとして始めら れたうちわがあり , 年産 80()() 万本 , マアレクス Karl Heinrich Marx 1818 ~ 83 ドイツの経済学者 , 哲学 者。科学的社会主義の創始者。ユダ ヤ人弁護士の子としてトリールの裕 福で教養ある家庭に生まれた。ポン , ベルリンの両大学で法律学を , なか この んすく歴史と哲学を研究した。 時代のマルクスはまだヘーゲル主義 者で , 観念論者であった。卒業後 , 教授の職をめざしてポンに移ったが , プロイセン政府の反動政策を前に学 究生活を断念 , ライン地方の急進的 プルジョアジーによって刊行されて いた反政府的民主主義的なくライン 新聞 > の主筆となった。 この時期に 近代市民社会の研究のかぎは経済学 にあることを , ラインラントにおけ る山林盗伐や土地所有の零細化や自 由貿易と保護関税に関する討論を契 機として悟った。そして資本主義社 会を動かしているものは , 究極にお いて物質的な利害あるいは物質的な 生活関係であることに気づくにした がって , ヘーゲルの弁証法に唯物論 を吹き込んでいった。くライン新聞 > の発禁後 , マルクスは長い亡命生活 1843 年秋パリに移り , にはいった 急進的な雑誌く独仏年誌 > を発行 , それに掲載した論文くへーゲル法哲 学批判序説 > ( 1844 ) で , 彼の歴史理 論 , 階級闘争論および革命の性格に ついての理論に関する重要な論述を 展開した。 44 年の秋 , 生涯の親友 / ェ ンゲルスと知り , 共同研究を始めた。 そのおもな成果の一つが , ドイツ哲 学に対する批判としてのくドイツ・ イデオロキ、一 > ( 1845 ~ 46 執筆 , 完全 な刊行は 19 32 ) で , これによって彼 らはヘーゲルの観念論と終局的に決 別した。マルクスは 4 5 年にノヾリを追 われてプリュッセルに移り , 4 8 年革 命のドイツに帰ったが , ふたたび亡 命を余儀なくされ , 50 年ロンドンへ 向かった。以後終生この地で生活の 困難とたたかいながら研究に沈潜す ると同時に , 第一インターナショナ ル ( / インターナショナル ) の結成を はしめとして , 国際労働運動の中心 にあって実践活動を続けた。マルク スの経済学上のおもな著作は , プル ードンを批判したく哲学の貧困〉 ( 18 47 ) に始まる。 1848 年の二月革命の 直前 , ェンゲルスと共同執筆で / く共 産党宣言 > を発表 , 59 年には経済学 研究の成果がく経済学批判 > として この書はのちのく資本 刊行された。 論〉の芽ばえであるが , とくに商品 と貨幣の分析にあてられたもので , その序文の中に , 唯物史観の原則の 古典的叙述がなされている。主著は / く資本論 > 3 巻 ( 1867 , 1885 , 1894 ) である。マルクスは , ドイツの古典 哲学 , 英国の古典派経済学およびフ ランスの社会主義理論という , 19 世 紀の主要な三つの思想的潮流を受け ン的段階といわれるマルクス主義の の経済学説を発展させたが , レー ちに資本主義の死相をみ , マルクス 対立の先鋭化 , 植民地収奪などのう 帝国主義を分析して , そこでの階級 して , 資本主義の最高の段階である レーー ニンは , 以上の学説をもとに て社会主義は空想から科学となった 示した。以上の総合的な学説によっ す階級闘争の具体的な戦略戦術を明 済学を確立 , さらに社会主義をめざ って代わられざるをえないという経 ち破って , 資本主義は社会主義にと 発展が資本主義社会の生産関係を打 本の所有関係とは矛盾し , 生産力の 則を明らかにし , 生産力の発展と資 済 ) を分析して剰余価値の生産の法 史的唯物論 , 資本主義社会の生産 ( 経 争が社会発展の起動力であるという の所有階級と非所有階級との階級闘 社会の土台は生産であり , 生産手段 法的唯物論の哲学を社会に適用して , マノレクスとエンゲノレスは , / 弁証 スの学説を発展させた 明らかにして , マルクスとエンゲル してこの段階での革命の戦略戦術を この段階を帝国主義と特徴づけ , そ 民地間の対立の激化する資本主義の 労働 , 侵略的大国間および大国と植 生まれてきた。レーニンは , 資本と という資本主義のより高度な段階が 市場獲得のために対外侵略をはかる 内労働者に対する搾取の強化 , 世界 み , 巨大資本が独占体を形成して国 紀にかけて , 生産と資本の集中が進 あった。しかし , 19 世紀末から 2 ( ) 世 がしだいに展開されつつある時期で 階級の闘争によって , 革命の諸条件 競争のもとに上向期にあり , 労働者 時 , 19 世紀後半は , 資本主義は自由 じめて科学的に立証したが , その当 る共産主義社会建設の必然性を , は 資本主義社会の没落 , 勤労大衆によ 社会主義の批判的分析をもとにして , 学と英国の経済学およびフランスの クスとエンゲルスはドイツの古典哲 よって発展させられた世界観。マル ルスによって確立され , レー 会建設の理論で , マノレクスとエンゲ 労働者階級による革命と共産主義社 展法則にもとづいて世界を変革する ス・レーー ニン主義自然と社会の発 マルクスレーニンしゅぎマルク 〔横山〕 くマルクス・エンゲルス全集 > に収録。 本論〉である。その他多くの著述は 史〉 3 巻 ( 1 9() 5 , 1910 ) をも含めたく資 その第 4 巻にあたるく剰余価値学説 中的 , 体系的に展開されているのが , あるが , この経済学説がもっとも集 主要な内容はマルクスの経済学説で ルクス主義の体系を確立した。その 継ぎ , それを完成して , いわゆるマ
4 3 4 は標高 38 m にみたぬ低地と丘陵か ロバより大きく , 力も強くしようぶ カ { , 1912 年にフランス領モロッコの総 らなり , 3000 以上の湖 , 松とモミの で , 人にも柔順であるが , 一代限り 督リヨーテが主都と定めた。〔西野〕 森林 ( 総面積の 10 % ) がこの地方の自 で子を産まない。また雌ロバと雄ウ ラファイエット Mar ie J oseph , 然の特色となっている。国土の中央 マとをかけ合わせて作出したものを Marquis de La Fayette 1757 ~ 18 を西ドビナ川が貫き , リガ湾に注ぐ。 ケッティ ( 鴃驪 ) というが , このはう 34 フランスの軍人 , 政治家。オーベ 年間降水量は 600 ~ 700 mm , 1 月の平 ルニュ地方の古い家がらの出で , アメ は体が小さく , 力が弱く , 役用に適 ー 7 ℃ ( 最低気温ー 20 均気温ー リカ独立戦争に参加して名声をえ , さない。ラバはおもに南欧 , アフリ ℃ ) , 夏も 7 月が 16 ~ 18 ℃で涼しい。 帰国後 , 1787 年の名十会 , 89 ・年の全 カ , 西アジア , 中国および米国で役 総人口の 62 % はラトビア人 , 27 % が 国三部会に入り , 自由主義族とし 用として使われている。〔黒田礼〕 ロシア人で , 次いで白ロシア人 , ポ ラ′ヾウル RabauI 太平洋西部 , てフランス革命初期の指導者の 1 人 ーランド人がそれぞれ 3 % すつであ ビスマーク諸島の主島ニュープリテ となった。しかし革命の主導権が中 る。工業は機械製作 , 金属加工 , 製 ン島の北東端にある港市。人口 8400 産市民層に移るとともに保守化し , 紙 , ノヾルプ , などが盛んで , リガは ( 1958 推 ) 。プランシュ湾の内部 , シ 一時亡命 , 逮捕などの生活を送った。 共和国工業生産の % をあげ , 電車 , ンプソン港にのぞみ , 周囲は活火山 のち 1830 年の七月革命にさいし国民 電話設備 , 木工機械などの生産で知 に囲まれる。 1910 年ドイツ領ニ 軍司令官として活躍した。 〔木村〕 られ , リエノヾヤにはラジオ工場があ ラファイエットふじんラファイ ギニアの主都として建設された。以 る。農業は牛 , 豚の飼養と亜麻 , サ 後オーストラリア統治時代にも政庁 工ット夫人 Comtesse de La Fa- トウダイコンなどの作付が多い。絹 , が置かれたが , 37 年の火山噴火で町 yette 1634 ~ 93 フランスの女流角ミ ははとんど壊滅した。太平洋戦争中 綿 , 亜麻布工場は各地にある。主都 家。小貴族の娘としてパリに生まれた のリガはソ連有数の貿易港となって は日本軍が占領し , 海空軍の基地と 1655 年ラファイエット伯に嫁し王弟 いる。リが西方 40km のケメリは保養 妃に仕えるかたわらセビニエ夫人 , して使用された。 〔小野〕 地として知られる。ラトビア人はバ ラ′ヾス La Pa z ポリビアの首 ラ・ロシュフコーらの文人と交わり ルト語族に属し , 10 世紀ころこの地 とくに後者の熱烈な助力をうけた 都。チチカカ湖の東約 80 , 西部の に定住した。その後ドイツ , ポーラ くモンパンシ工大公夫人 > ( 1662 ) , 高原上 , 標高約 3700m にあり , 世界 くザイード > ( 167 の , / くクレープの ンド , スエーデンなどに次々に征服 でもっとも高い首都。近くにアンデ 奧方 > などの小説を書いたが , 最後 されたが , 18 世紀以後工ストニア , スの高峰ィーマニ山 ( 6882 m ) がある。 の作品は恋愛心理のち密な解剖とコ リトアニアとともにロシア帝国領と 人口 352912 ( 1962 ) 。政治 , 経済 , 文 1918 年 2 月リガにソビエト ルネイユ風の格調の高さでフランス なった 化の甲心地で , また国内およびチリ , 古典主義小説の傑作とされ , フラン 政権が樹立され , 22 年独立の共和国 アルゼンチン方面への鉄道の起点で となった。第二次大戦中の 40 年 8 月 , もある。製革 , 醸造 , 製粉 , 繊維 , ス心理小説の最初の記念碑となった 〔成瀬〕 製薬などの工業が行なわれ , コカ , ソ連軍の進駐下にソ連邦に加えられ た。 41 年ドイツ軍の侵入を受けたが ノヾナナ , オレンジ , コーヒーなどを ラファ工ルせ、ん一よラファ工ル前 産出するユンガス渓谷 , ジャガイモ , 〔渡辺一〕 派 Pre- Raphaelite Brotherhood 44 年解放された。 羊毛を産する . 高原地帯の取引の中心 ラドン radon 元素記号 Rn , 原 の訳。 19 世紀半ばごろの英国に起こ 地である。市街は丘に囲まれた盆地 子番号 , 原子量 222 , 周期律表第 0 った芸術革新運動の一派。最初 / D. にあり , 街路は不規則で起伏が多い 族 / 希ガスに属する元素。エマネー G. ロセッチ , ジョン・エ / ヾレット が , よく舗装され , 近代的なビルと レー ( 18 29 ~ 96 ) , ホノレマン・ノ、ン ションともいう。希ガス元素中唯一の 並んて , 植民地時代の建物も多く残 / 放射性元素で同位元素は 220 ( トロ ト ( 1827 ~ 191 ( ) ) ら 3 人の青年画家の っている。 1548 年 , スペイン人メン ン Tn ) , 219 ( アクチノン An ) など 12 友情的結合と思想的共鳴から出発し ドサが創建した都市で , 人口の半分 種ある。 Rn 222 はラジウムの。崩壊 1848 年 , 7 人の同人によって機関誌 はインディオである。 で生し , 半減期 3.823 日 , 190 ( ) 年 F. E. く芽ばえ The Germ> を刊行した。英 「町野〕 ラ′ヾト Ra ba t モロッコ王国の 国アカデミズムの因襲的な古典主義 ドーンにより発見された。ウラン鉱 首都。カサプランカの北東約 90km , の伝統を攻撃し , 自然への愛情と画 物に吸蔵されており , 鉱泉や温泉に 大西洋岸にある美しい古都で , 人口 面の装飾性によって , ラファェロ以 も溶解している。 lg のラジウムと平 前の単純だが敬虔な表現に帰るこ 衡にある量は約 O. 6mm3, ラドンの量 227445 ( 196 の。正しくはラノヾト・エ ル・フアチフ ( 美を集める場所 ) とい とを主張した。周辺には , マドック の測定からラジウムの定量ができる・。 う。王宮 , 諸官庁 , 大公使館 , 大学 重さは空気の 7. 7 倍 , 融点ー 7 1 ℃ , 沸 ス・フ。ラウン , ノヾー - ン・ジョーーンズ , クリスチナ・ロセッチ , スインノヾー などの近代建築がアラブ風の市街と 点 - 61.8 ℃。ラジウムから採集し , ン , / モリス , / ラスキンたちを集 ともに静かなふんい気をつくってい 夜線やア線源として物理実験用 , 医 めた。集団活動としてはきわめて短 療用とする。 る。プー・レグレグ川を隔てて対岸 〔落合〕 らば〔騾馬〕雌ウマと雄の / ロ 期間であり , 思想的にも未熟で種々 にあるサレとともに , カルタゴ時代 以後の史跡に富む。アラブ人の建て ヾとをかけ合わせて作出した雑種の の要素が混合していたか , それらの た町は 12 世紀以来廃虚となっていた 要素がロマン主義 , または自然主義 家畜。英語でミュール mu いという。 へと発展し , あるいはモリスらの工 芸運動に結合するなど , 19 世紀後半 の英国芸術に広範な影響を与えた 〔中山〕 ラファ工ロ Raffaello Sanzio 1483 ~ 1520 イタリア・ルネサンス の画家 , 建築家。ウルビノに生まれ , 画家の父親から絵の手ほどきを受け た。 14 95 年ごろー、ルージアに出てペ ノレジーノに学」 : 。 15 ( ) 4 年フィレンツ ェに移り , レオナルド・ダ・ビンチ , フラ・ノヾノレトロメオ , ミケランジェ ロらの影響を受け , 写実的な明暗法 , ラファ工ノレ前派ク ) イ乍品。 左はノヾーン・ジョーン ズ作くコフェチュア工 と女こしき〉 , 1884 。 右はホノレマン・ノ、ント 作く羊飼い〉 , 18 5 2 第 ゞ : 第物
5 3 5 の中央部から南東部にかけて広がる ラン法を発明 , 翌 91 年特許をとり , 広大な砂漠地帯をいう。東西 12 ( ) ( ) km , 同年オルレアン公の援助でパリに近 南北 5 ( ) ( ) km に及び , 裸岩におおわれ いサンドニに工場を作った これは ソーダ工業のみならす近代工業発展 た部分と砂丘地帯とがあり , 生物の の基盤となった。しかし , フランス 生活にもっとも不適当な不毛地であ 革命のさい , 9 3 年オルレアン公カ { 死 る。周辺の国々の国境も明確でない ため , 東部で石油が発見されたとき , 刑にされるとともに彼の財産と工場 は没収され , 失意のため自殺した 紛争が生して問題となった。 1931 年 / ソーダ にベルトラム・トーマスが徒歩で横 〔山下〕 ルプリン LubI i n ポーランド南 断したのが , 欧州人の旅行としては 最初といわれる。 東部の都市。人口 18 ( ) 700 ( 1960 ) 。ビ 〔西野〕 ストシッァ川 ( ウイスラ川の支流 ) に アレーゞフィン : グ、 roofing papern 田各。 面し , トラック , 農業機械 , 皮革 , フェルトまたは布類にアスファルト タバコ , 食料品などの工場の多い工 を浸透させまたはさらに被覆して防 業都市で , マリー・キュリ 水性を与えたものをいう。加熱した ・スク ロドフスカ大学 , 医学アカデミ アスファルトを接着層としてこれを 数枚張り合わせ , 屋根 , 地下室 , 液体 劇場 , 博物館などがある。市の起原 工業カ臂予なわれる。サトウタ、、イコン , 貯蔵タンクの防水層などに使用する。 は 1 () 世紀にさかのは、り , 中世には商 ハッカの産も多く , また町域西部に 単独で屋根ふき材料 , 屋根または地 業都市として栄えた。 1795 年オーース は全国の 70 % 以上の水銀を産出する 下室の防水 , 防湿用に , あるいは防 トリア領 , 1815 年ロンア領となり , 19 世紀に鉄道が開通してから工業が 湿を目的とする包装用に用いられる イトムカ鉱山 , 温根湯温泉 ( 単純 イオウ泉 , 泉温 42 ~ 52 ℃ ) , 温泉付 こともある。巻物状で市販されてお 発展した。 〔島野〕 ループアレきゅうループル宮 り , 1 巻は 3 ~ 12 坪 ( 1 坪は約 3.3m2 ) 近にはェゾムラサキツッジ群落があ PaIais du Louvre ノヾリ中央音阯 る。町名はアイヌ語のルペシュペ ( 越 である。アスファルトルーフィング セーヌ川右岸にあるルネサンス様式 類と特殊ルーフィング類に大別され えて下っていく道 ) に由来する。 を主体にした壮麗な宮殿で現在はそ るか、 , 前者にはアスファルトフェル の大半がループル美術館となってい ルーベンス Peter Paul Rubens ト , アスファルトルーフィング , 砂 付ノレーフィングカヾある。アスファル る。古ループル宮と新ループノレ宮と 1577 ~ 1640 17 世紀フランドルの大 トフェルトは動植物質繊維を原料と あり , 前者は方形広場を囲む長方形 画家。バロック芸術の巨匠。ウェス してすいた原紙に , ストレートアス の建物 , 後者はその西方につづきカ トファーレンのジーゲンに生まれた ルゼル広場をはさむ建物 ( 以前はこ ファルトを浸透させたもので , 厚い 21 歳でアントワープ画家組合に登録 され , 160 ( ) 年からイタリアのマント の二つの西端をチュイルリー宮が結 ほど防水性に富み , 防水層の張合せ 合していたが 1871 年火災で焼失 ) 。 用 , 屋根または地下壁の防湿用に用 バ宮廷に貴族兼画家として迎えられ 東西約 600m , 南北約 300m 。 13 世紀 いられる。アスフアノレトノレーフィン る一方 , レオナルド・ダ・ビンチや グはアスファルトを浸透したフェル に国王フィリップ 2 世がパリ防備の チチアーノの作品から多くを学んだ。 ための城として築いたのが始まりで , トの両面にさらにプローンアスファ 08 年帰国 , 富と名声と多くの門弟 ( ハ 16 世紀にフランソア 1 世がこれをル ルトを被覆し , 表面に雲母や滑石粉 ン・ダイク , ヨルダーンスら ) を得て を散布したもので防水性が大きく , ネサンス風の王宮に改築 , ついでア 数々の名作を描く。またその幅広い ンリ 2 世 , ルイ 13 世と増改築を進め , 教養と円満な人格によって , 外交官 屋根または地下室の防水層 , 屋根ふ、 としても各国で活躍した。 き , 屋根下地に用いられる ( / アス 19 世紀にはいり , ナポレオン 3 世の ことに 2 ファルト ) 。砂付ルーフィングは厚 時代にほは、完成をみた この間に活 度めの結婚以後はいっそう芸術的発 躍した建築家は P. レスコ , J. ノレメル いアスファルトルーフィングの表面 展を遂げ , 2000 点を越える作品を残 に鉱物粒を密着させたもので防水層 シェ , ノレイ・ルポー , C. べローらで している。作品は生命力とダイナミ の最上層に使われる。特殊ルーフィ また J. グージョンはしめ多くの彫刻 ックな運動感にあふれ , 宗教 , 神話 , ループル宮の南西翼。 宮殿の大半を占めてい ング類にはもめん製品 , 麻製品から 家 , 画家も参加している。〔石川〕 歴史 , 肖像 , 風景などあらゆる題材 るループル美術館は , ′レプ′レック GuilIaume de Rub ・ を華麗な色彩と力強い描線で描いた。 なる網状ルーフィングと , 石綿製品 , フランソアい世 , ルイ ロマン派のドラクロアに多大な影響 ガラス製品 , アルミニウム製品 , 金 rouck(Rubruquis) 13 世紀にモン 14 世 , ナポレオン 1 世 属網製品からなる鉱物質ルーフィン を与えた。 / ( 別刷 ) バロック ゴルに旅行したフランシスコ会の僧。 らの収集した美術品を グとがある。 〔川上〕 生没年不詳。プラバントに生まれた 〔坂崎〕 中心に とくに古代ェ ルプラン Maurice Leblanc ジプト , オリエント , アレポ′レ - ターシユ reportage 孑架 モンゴルの内情偵察と布教のため , ギリシア・ローマ、ノレ 1 4 ~ 1941 フランスの作家。ルー 1252 年当時キプロスで十字軍を準備 訪を意味するフランス語で , 新聞の ネサンス , ノヾロック期 アン生まれ。造船会社の仕事や新聞 中のフランス王ルイ 9 世の命でモン 現地報告記事や社会探訪放送のこと のコレクンヨンが著名 己者をしながら , はしめ心理小説を ゴルに派遣された。クリミアよりサ 書いていたが , 1907 年く紳士強盗ア ライに至ってノヾツに謁し , 中央アジ ルセーヌ・ルバン〉で一躍探偵作家 アを横断してモンゴル帝国第 4 代の として名声を得た。く水品の栓わく奇 皇帝ムンゲ ( モンケ ) のもとに至り , 巌城〉く八点鐘 > などのルノヾンものカ { 数カ月滞在 , 55 年キプロスに帰った あり , 探偵小説の古典として現在で 彼の復命書から東方の事情が欧州に 知られるようになった もひろく愛読されている。 / アルセ 〔青木〕 るべしべ留辺蘂〔町〕北海道北 ヌ・ノレノヾン 〔粟津〕 ′レプ、ラン Nicolas Leblanc 17 東部 , 網走支庁管内の町。人口 42 ~ 1806 フランスの化学者。パリ 18734 ( 1965 ) 。北見市に隣接する山 で医学と化学を学んだ。 178 ( ) 年以来 地を占め , 無加象川に沿って国鉄石 オルレアン公の主治医。 90 年 , 当時 北線の通しる市街がある。無加川流 工業界の中心、問題であった食塩から 域は大森林地帯で , 町には大規模な 製材工場があり , はかに農薬 , 製麻 炭酸ナトリウム ( ソーダ ) をうるルプ ノレポノレター ルーベンスく三美神 > 16 38 ~ 4 ( ) 頃 . ルヒ。ナス ( キバナルヒ。ナス ) 一三ロ 1