の曲を書いただけだった。オペラ作 品では / くセビリヤの理髪師 > カヾ 19 世紀前半のイタリア・オペラを代表 する傑作として知られる。〔植村〕 ロッセリー 1906 ~ lini Roberto RosseI- イタリアの映画監 督。ローマに生まれ , 1934 年記録映 画の製作所ルーチェに入所。 41 年劇 映画の監督になりく白い船 > を発表 , しろうとばかりを出演させる記録映 画的手法で注目された。第二次大戦 後く無防備都市〉 ( 1945 ) , く戦火の かなた〉 ( 1946 ) , くドイツ零年 > ( 19 47 ) を製作 , ドキュメンタリー手法で イタリアのネオ・リアリズムとよば れる新しい映画運動の中心に立ち , 世界的に注目された。その後く愛 > ( 1948 ) , くフランチェスコ・神の道 化師 > ( 1950 ) , くョーロッパ 1951 年〉 ( 1952 ) などしだいに宗教的な主題を 追って大衆性を失ったがく口べレ将 軍〉 ( 1959 ) ではふたたびリアルな作 風に戻った。 〔登川〕 ロッテ′レ . ダム Rotterdam オラ ンダ西部の都市。人口 731525 ( 1964 ) 。 ライン川デルタの北側分流に面し , 新運河によって北海に通している。 オランダ最大の貿易港 ( 貨物扱量 83 ( ) ( ) 万トン , 196 ( ) ) で , ライン川を通る全 貨物の約 % はこの港を経由する。市 とその郊外は工業が発達し , 造船所 , 自動車工場 , 石油精製工場などがあ り , 機械 , 化学の工業も盛んである。 人文主義者ェラスムスの生地として 知られ , またコレクションの多いの で有名なポイマン博物館 , 商科大学 など多くの文化施設がある。市は 12 99 年に創建され , 1328 年に自治都市 となり , 17 世紀ごろから興隆した。 1866 ~ 72 年に新水路 ( 30 ) が開かれ , 水門なしに海と通しるようになってか ら飛躍的な発展を遂げた。 〔島村〕 ろつべんちょう / ウミカ・ラス ロデオ rodeo 米国西部のカウ ポーイたちの腕くらべから発生した 競技会。ふつう , 野生馬にくらを置 いて乗りこなすこと , 裸馬に乗るこ と , 子牛に投げなわをかけること , 牛に乗ること , 牛と格闘することの 五つが標準種目で , はかにその時々 によってさまざまな種目が付け加え られる。会場には競技者のほか女王 と道化役がいて , 道化役は牛が競技 者に危害を加えようとするとき注意 をそらせる役を果たす。発生の当初 から多額の金額がかけられることが 多かったが , 1887 年にはコロラド州 のデンバーで最初の入場料をとるロ デオがあり , その後プロが生まれ , 1936 年にはロデオ・カウポーイ協会 という組織がロデオの規則を定めた ロ・デオはこうしてカウポーイたちの 手から , 金もうけ目あての興行者と 全米から来る屈強な若者たちの手に 移った。しかし一方では , ことに第 二次大戦後 , ロデオは大学生 , 高校 6 1 1 生の間にもひろか・り , カナダやオー ストラリアなどの米国以外の国でも 愛好されるようになった 〔佐藤〕 ローテ・シア Rhodesia アフリ カ南部の地域名。 1889 年南アフリカ ( 特許 ) 会社をおこして , マタベレエ 国から権益を得たセシル・ローズの 名に由来する。 91 年英国保護領とな り , 95 年ローデシアと名づけられた 英国の自治植民地南ローデシアと , 保護領の北ローデシアに分かれてい たが , 後者は 1964 年 / ザンビアとし て独立したので , 前者は単に / ローデ ・シアとよぶことになった 〔西野〕 ローテ・シア Rhodesia 南東ア フリカ中央部にあり , 以前は北ロー デシア ( / ザンビア ) , ニャサランド ( / マラウィ ) とともに中央アフリカ 連邦を構成し , 南ローデシアといっ ていた。面積 389362km2 , 人口 401 ( ) ( ) 0 ( ) ( 1963 ) で , うち白人約 22 万 , アフリ カ系約 370 万。首都はソールズベリ。 草原と森林におおわれた丘陵や山地 が入リ交ヒり , 東部は高さ約 15 ( ) ( ) m のゆるやかな高原 , 西部は 1 ( ) ( ) ( ) m 以 下のザンベジ川低地であり , 全上の % を占める標高 12 ( ) ( ) m 以上の高原は 温帯的気候である。主産業の農業は タバコが中心で ( 農業総生産の約 % ) , 綿花 , トウモロコシも産する。鉱業 はクロム鉱 , アスベストが中心、でソ ールズベリ付近には工業も発達して おり , / ザンベジ川のカリバ・ダム による大規模な水力発電もある。 18 55 年リビングストンの探検以後 , 欧 州人の侵略が始まり , 89 年英国はセ シル・ローズの南アフリカ会社によ って独占的支配権を得た。 1923 年自 治領となり , 現地の白人移民に大幅 な行政権が移譲され , 南アフリカ共 和国と同様に政経両面にわたる人種 差別政策がとられた。第二次大戦後 , 黒人の民族主義運動が高まったが , 国連総会の非難決議 ( 1962 ) にもかか わらす , 弾圧政策が強行された。 〔西野〕 ロードアイランド〔州〕 Rhode ニューイングランド I s n d 米国 , 地方の州。面積 3144km2 ( 50 州中最小 ) , 人口 859488 ( 1960 ) 。主都はプロビ・デ ンス。東部にナラガンセト湾が湾入 し , 湾内には三つの南北に長い島が 横たわり , 西部は一般に丘陵性の山 地である。 ーイングランドでは もっとも温和な気候で , 海岸には避 暑地も多い。工業が盛んで , 有業人 ロの約 40 % が従事し , とりわけ毛織 物をはしめとする繊維工業は大きく , 1790 年以来の歴史をもち , 宝石研摩 , 銀器具の歴史も古い。今日では , ェ ンジン , 機械 , 宝石 , 金属器具 , ゴ ム製品などを産する。農産物のおも なものは , 酪農製品 , 家禽 : ん ( ロード アイランド・レッド種は有名 ) , 温室 栽培産物 , 野菜類 , ジャガイモ , リ ンゴなどで , 林業 , 漁業も行なわれ る。山地では花コウ岩と石灰岩を産 する。 1636 年のロジャー・ウィリア ムズのプロビデンス建設をきっかけ として , ナラがンセト湾を中心に開 拓が進み , 豊富な水力と良港に恵ま れはやくから工業 , 貿易が発展した 米国の独立に大きな役割を果たした。 独立十三州の一つ。 〔石光〕 ロードス〔島〕 Rhodo s ェーゲ 海の南東部 , 小アジア岸に近いギリ シア領の島。ドデカネス諸島の最大 島。面積 14 ( ) 4km2 , 人口は約 620 ( ) ( ) 。 中心都市はロードス港。島は西部が アタビロス山 ( 1215 m ) を中心に高く , 東方にしだいに低く海岸におちてい る。気候は典型的な地中海気候で , 1 月の最寒時で 13 ℃ , 降水量は年 58 —600mm である。住民はブドウ , 穀 物 , オリープ , 柑橘類などを栽培 し , 山ろく地帯では牧畜 ( ヤギ , 羊 ) , 海岸では漁業も行なわれている。古 くエーゲ文明が栄え , 前 12 世紀ドー リア人が移住 , 前 5 世紀にはポリス が成立した。前 3 ~ 前 2 世紀ころ仲 介商業地として活躍したが , 紀元 1 世紀には口一マ帝国の属州アシアに 編入され , さらにビザンチン帝国に なお , 世界七不思議の一つ 属した。 ロードス島のアポロン巨像は , この 島の港の入口に建てられていた大 銅像のことである。 16 世紀にオスマ ン・トルコに征服され , 1912 年イタ リア領となり , 第二次大戦後 , 47 年 の平和条約でキ、リシアへの帰属が決 まった。保養地としても知られる。 〔相場〕 ろとせんそう露土戦争ロシア とトルコの戦争には 1736 ~ 39 , 1768 ~ 74 , 1787 ~ 92 , 18 開 ~ 12 , 1828 ~ 29 , 1877 ~ 78 年などの各戦争があるが , 日本ではこのうちの最後のものをさ す場合が多い。トルコはかねてから 領内のキリスト教徒を圧迫していた が , 民族解放運動が高揚し , ポスニ ア・ヘルツェゴビナ , プルがリアな どで反乱が起こると , ロシアは汎ス ラブ主義の立場からキリスト教徒の 救済を口実として十渉を試み , 1877 年 4 月トルコに対して開載。ロシア 軍はドナウ川を渡って進撃し年末に は要衝の地プレブナを落とし , 習年 初めにはアドリアノープルをも奪っ てコンスタンチノープルに迫った トノレコク ) オスー ~ ン・ノ、シャ ) ロンア のトートレーベン将軍が活躍したの はこのときであった。英国はロシア の勝利とバルカン進出に対して不安 を感し , トルコの要請に応して調停 しようとしたので , ロンアは機先を 制して 78 年 3 月トルコと廿ンステフ アノで講和条約を結んだ。しかし英 国はこの条約が自国の利益に反した のでその廃棄を求め , ドイツ , オー ストリアもこれに賛成した。かくて 1878 年ビスマノレクのあっせんで / べ ルリン会議が開かれ , ロシアはその ロトセンソ 定である。 工場群がっくられる子 石油化学を中心とする で , 近代的港湾施設と Europ い ort 港を建築中 河凵にユーロプルト った。さらに , マース 油精製 , 化学工業が興 油の積換港となり , 石 ポトレクは鉄鉱石と原 ディンゲン対岸の新港 であり , またフラ - ール の外洋船の係留が可能 港となり , 30 ( ) 隻以 E ロッパ大陸最大の貿易 ッテルダムは今やヨー ロッテルダム ( 補・ ) ロ カ史化の廃虚が少なく 大遺跡など占いアフリ ンバブエの石造囲璧の 15 襾紀に建設されたジ らアフリカ黒人が住み , ローーデシアは古くか も経済断交決議を採択 とリ , 国連安保理事会 だちに経済制我措置を を宣言した。英国はた 白人勢力は一方的独立 ミス首相に率いられた されると , 65 年 11 月ス 家樹立を要求して拒嗇 ア政府は英国に白人国 とになった。ローデシ ーデシアとよばれるこ ていたこの国は単にロ 来南口一デシアといっ して独立したので , 従 シアカ田 4 年・サ、ンビアと 連邦解体後 , 北口一デ デシア・ニャサランド ) 年中央アフリカ ( ロー ローデシア ( 補 ) 1963
6 ( ) 2 作品がみられる。壁画 , 浮彫り , 中心、にポロジン , ムソルグスキー る。全人口の 55 % が都市人口である。 とに / イ . コンの領域にも , 同様にビ リムスキー・コルサコフ , キュイら 産業はだいたい全ソ連の生産の % ザンチン的類型から純ロシア的表現 の一団 ) と民族性と西欧音楽の伝統 がこの地方に集まっている。部門別 への独立の歩みがたどられるカ { , 15 形式の結合に成功したチャイコフス では , 鋼の 57 % , 石炭の 58 % , 石油 世紀の天才聖像画家 A. ルプリョフの キーの活動はすぐれた成果をもたら の 78 % , 発電の 67 % , 金属加工の % 芸術でその頂点に達する。 し , ロシア音楽の世界的地位を確立 以上 , 自動車の 92 % , 農耕地の 55 % , 近代ロシア美術は , ピョートル大 するにいたった。以後モスクワとべ 主穀生産の 61 % , 森林蓄積の 92 % , 帝の新首都建設とともに始まる。ま テルプルグ音楽院を中心に , グラズ 牛乳生産の 56 % などである。石炭と ずバロック , つづいて新古典主義の 電力の単価は著しく安く , ヨーロッ ノフ , スクリャービン , ラフマニノ 作風が導入され , それらのロシア的 フらが国際的活動を示す。一方 , ロ / ヾ・ロシアのそれの % ~ % といわれ 消化の軌道のうえで , 18 世紀半ばか シア出身で主として国外で活動した る。石油と天然がス生産は 1952 年こ ら 19 世紀初めにかけて巨匠 V. V. ラ 音楽家にストラビンスキー , プロコ ろから急増し , / ポルが・ウラル油 ストレリほか多くの作者により , べ フィエフらがおり , また演奏面では 田地帯からはモスクワ , イノレクーツ テルプルグ市の内外に , ツアノレスコ 歌のシャリアピン , ピアノのノレビン クなどへ油送管が設けられた。おも 工の宮殿 , ヾテノレゴフの宮殿 , 冬宮 , な農産物では冬小麦がヨーロッパ・ シュティン , ノヾイオリンのアウェル スモリヌイ修道院 , ガチーナ館 , タ ロシア , 春小麦がシベリア南部で作 らが国際的に名声を博した。〔秋山〕 ウリス宮 , 工ルミタージ宮 , カサン ロシア〔連邦共和国〕 Rossiskaya 付され , サトウダイコンとトウモロ スコイ聖母聖堂 , 海軍省 , 元老院な コシの栽培は畜産と結ばれて各地で Sovetskaya Federativnaya Sotsi- どのすぐれた建築作品が生まれた。 alisticheskaya RespubIika 略称 増加した。亜麻はレニングラード地 絵画では , K. プリュロフ , A. イワノ 方に多く , また漁獲の大部分はオホ RSFSR0 正しくはロシア・ソビエト フ , P. フェドートフなど 19 世紀前半 連邦社会主義共和国。ソ連邦を構成 ック海沿岸であげている。鉄道網 の諸大家の先駆的な業績のあと , / レ する最大の共和国。面積 1707540 ( ) 2 , はモスクワを中心として四方に放射 ピン , V. スリコフ , V. べローフ し , 東へはシベリア鉄道か、ウラジボ 人口 1248 ( ) ( ) ( ) ( ) ( ) ( 1964 ) 。 面村 ( で全ソ I. レビタン , V. セローフなど「移動 連の 76 % , 人口で約 56 % を占める。 ストクまでのびている。自動車路も 派」画家群の活躍によってロシア・ 15 自治共和国。 5 自治州 , 6 地方 , 最近整備されつつあり , 長距離バス リアリズム芸術の黄金時代がもたら 49 州 , 10 民族管区 , 873 市 ( 1959 ) が も連行されるようになった。河川交 さ、れた。 19 世紀の終わり近くから , 含まれる。 16 自治共和国は , ウドム 通量の大半はポルが川が受けもって ロシア美術は印象主義より構成主義 ノレト , カ / ヾノレジノ・ノヾノレカノレ , カノレ いるか、 , シベリアのオビ川 , ェニセ にわたるあらゆる新興諸流派の潮流 ムイク , カレリア , 北オセチア , コ イ川などの中流部の利用は最近著し に洗われるが , そのこんとんとした ダゲスタン , タタール , チェチ く進んでいる。なお , 歴史について 活況のなかでソビエト時代に移り進 はロシアおよびソビエト連邦の項を ェノ・イングーシ , チュワシ , ツー 〔松谷〕 んでいく。 参照されたい。 〔渡辺一〕 ワ , ノヾシキール , プリャート , マリ 〔音楽〕ロシアは民謡の宝庫といわ モリドワ , ヤクート。主者にはモスクワ。 ロシアえんせいロシア遠征 18 れるほど , 民俗音楽の数と種類が多 西は白ロシア , 南はウクライナ , 12 年にナポレオン 1 世が行なったも く , またその歴史も古いが , これに カザフ共和国など , 東は海を隔てて の。大陸体制の完成をめざしていた 比べて芸術音楽の発展はおそかった。 日本に対する。西端にカリーニング ナポレオンは , / 大陸封鎖令に非協 これは地域的に西欧文化の中心地に ラード地方カ { 飛地となってポーラン 力的なロシアと戦う決意を固め , 18 遠く , その移植がおくれたことによ ドに接する。北極海岸のツンドラ地 10 年ごろから準備を重ねていたが る。すなわち , 18 世紀ピョートル大 帯からタイガ , 黒土地帯 , ステップ 12 年 6 月 , 約 60 万の「大陸軍」をも 帝の改革期における西欧音楽の輸入 などの諸地帯を含んでいる。国土の ってロシアに進撃を開始 , 9 月 14 日 が直接の出発点であり , それまでは 西部はロシア平原で , 低地と丘陵地 モスクワにはいった。しかしロシア わすかに教会音楽を中心に , 多声合 からなる。ウラル山脈の東は西シベ 側の焦土戦術にあい , 糧食の欠乏に 唱曲にみるべきものがあったにすぎ リア平原で , その東部は標高 1000 ~ 悩まされて , ついに 10 月 19 日退却を ートル大帝以後 , 外国人 ない。ピョ 2000m 級の山岳地帯となり , 日本海 命令 , 以後軍隊は厳冬とコサック兵 音楽家による西欧音楽の移植が盛ん とオホーック海に終わる。気候は一 の襲撃やロシア民衆のゲリラに苦し になり , 1776 年にはモスクワ大劇場 般に大陸性で , / シベリアがもっと みながら敗走 , 大陸軍が 12 月末ケー の設立をみるなど , 急速な発展を示 もきびしく , 東部ではモンスーンの ニヒスペルクにたどりついたときに す。しかし , 19 世紀にグリンカが現 影響で雨が多くなるが , 年降水量 は 40 万以上を失っていた。この遠征 700 ~ 1000mm 程度である。住民はロ の失敗でナポレオンの没落は決定的 われて , ロシア国民音楽の指導的役 割を果たすまでは , ほとんど西欧音 シア人がもっとも多く ( 83 % ) , 次い 〔木村〕 になった 楽模倣の域を出なかった。 19 世紀後 でタタール人 ( 3.5 % ) , ウクライナ ロシアかくめいロシア革命十 人 ( 2.9 % ) , チュワシ人 ( 1.2 % ) など 半 , とくにロシアの民族的要素を高 月社会主義大革命ともいう。 / レー く評価した「五人組」 ( バラキレフを で , 人口 10 万以上の民族は 25 に達す ニンを指導者とするポルシェビキ党 ロシアの美術。左はキ 工フの聖ソフィア聖堂。 中はネルリ河畔の聖母 代願聖堂。右はレニン グラードのタウリス宮 で , I. E. スタロフ ( 17 44 ~ 1808 ) の設計
ロシアゴ 6 0 4 ア語に分化していった この一大口シ 致を提唱し実践した歴史学者 , 作家 まっていったことなどの理由による。 ア語が今日ふつうにいわれるロシア N. M . カラムジン ( 1766 ~ 1826 ) の功 ロシア文章語の発展と密接なつな 語である。ロシア語はモスクワ大公 績が大きい。 18 世紀のロシア語の歴 がりをもつのは辞典の編さんである。 国の興隆に伴い , 教会スラブ語を基 史を要約すれば , 1 ) 文章語がしだい 19 世紀の大辞典だけを時代順にあげ 礎として , これにモスクワで実際に ると , ますく口シア・アカデミー辞 に民衆の会話体に接近していった 舌されていたロ語の要素を多分にと と , 2 ) 前記の三つの文体の間の壁が 典 > ( 1789 ~ 94 ) , 次いでアルファベ りいれた形で新しい文章語として登 とりのぞかれ , 単一な民族語として ット順に編さんされた同しく口シア・ 場し , ついには北東ロシア全体の標 のノルマカ { できていったこと , 3 ) 標 アカデミー辞典 > ( 1806 ~ 22 ) , 次に 準語となっていった。 17 世紀以降に 準ロ語のノルマが確立されつつ文章 4 巻からなるく教会スラブ語・ロシ なると , 教会スラブ語と , 官庁の文 語のノルマに近つ・いていったことで ア語辞典 > ( 1847 ) , 最後に V. I . ダー 書や世俗的文学作品に用いられてい ある。次いで 19 世紀にはロシア文学 リ編さんの 4 巻のく詳解辞典〉 ( 186 3 たもうーっの文章語との統一が進み , の父といわれるプーシキンが , 教会 ~ 66 ) にはすでに約 20 万語が収録さ スラブ語の単語やいいまわしを民衆 18 世紀には民族語としての単一な口 れていた。ダーリの辞典は 19 世紀の シア語が形成されはしめる。この過 の単純で自然でいきいきとしたロ語 ロシア人民の生活百科辞典ともいう 程は印刷術の発達や中世の国際学術 と結合させ , 文字どおり単一な民族 べきもので , 今日でも利用価値が大 語たるラテン語の影響によって促進 語としてのロシア語を確立するうえ きく , 195 5 年にはソ連で複刻版が出 され , さらにピョートル大帝の文字 に画期的な役割を果たした。ロシア 版されたはどである。 改革 ( 1708 ~ 10 ) によっていっそう早 文章語が西欧の発達した諸言語に対 1917 年の社会主義革命はロシア語 められた。ピョートルは従来のキリ 等な一員として仲間入りしたのは , の語彙に大きな変化をもたらした。 ル文字をラテン文字にならって単純 前述したようにその文法的形態論 , プーシキン以後であったといえる。 化し , 現在もほとんどそのまま用い 19 世紀のロシア語史でとくに注目を 文章論はすでに確立されており , 大 られているロシア文字を制定した ひくのは文法構造の変わり方と語彙 した変化はみられなかったが , しか しかし依然として , 格調の高い文章 の変わり方の速度が不均衡だった し帝政時代の階級社会を反映した単 語 ( 教会用 ) と民衆の俗語とその中間 とであろう。文法構造のはうは基本 語がすたれ , 代わって新しい人間関 にあるもうーっの文章語とが併存し 係や社会機構を反映する単語がひろ 的にはすでにプーシキン時代の 1810 た。これらを体系づけ , 相互の音韻 く用いられるようになった。日本で 年代までに確立され , それは今日ま 形態 , 文法形態を組織化したのが , も知られているタワーリシチ ( 同志 ) , で根本的には変化なく存続している 大学者で詩人であったロモノソフの のであって , その後の時期に変化が コルホーズ ( 集団農場 ) などはその一 く口シア文法 > ( 1755 ) である。彼は みられたのは主として動詞の完了体 例である。また科学技術の急速な進 教会スラブ語とロシア語をはしめて と不完了体の形態上の対応関係と , 歩に伴い , 新語が続々生まれたこと , 明確に区別し , 「高 , 中 , 低」の三つ シンタクシス ( 文章論 ) の発達面に限 文化を大衆化するため話しことばや の文体を定め , 用いる目的によって これに対し語彙のほうは急 られる。 出版物の用語にも平易化 , 大衆化が 速に豊かになっていった。それはプ これらを使い分けるべきだと唱えた 進んだ。主として農村で用いられて この中間的文体が民族語としてのロ きた数多い地域的方言も , 農民階級 ーシキン , ゴーゴリにはじまる 19 世 シア文章語の基礎にしだいに定着し 紀ロシア文学の数多い大作家たちに が言語の面で都市に対立する要因が ていくが , その発達にあすかってカ よって , 素朴で力強く自由な民衆の ひしように少なくなったことと教育 ロ語が文章語にひろくとり入れられ 文化の普及浸透によって , しだいに があったのは 18 世紀 30 ~ 40 年代以降 文章語に統一されていきつつある。 のロシア文学であり , 中でも言文一 たこと , 西欧との関係が日ましに深 このほか最近のロシア語の発達傾向 としては , 生活テンボのスピード化 ロシア語のア ) レファベット ーは硬音祥 , 2 は軟自 : 符でイと発音 に伴い意思疎通手段としての言語も 活字体 筆記体ローマ字読み方 活字体 筆記体ローマ字読み方 ダイナミックになり , テンポが速く ⅡⅡれ なってきたことがあげられる ( これは Aa レイ ア 世界的傾向でもある ) 。たとえば , 略 工ノレ 語の増加 , 母音で終わる女性名詞を Cc 子音で終わる男性名詞にかえること 工ス ヴェ によって , 音節を一つ節約する傾向 ノ / 乙 その他がそれである。辞典の編さん ウ では新しい時代の要請に一たえて , デ D. N. ウンヤコフのく口シア語詳解辞 中中 0 尸 Ee ど宅 f 工フ 典〉 ( 4 巻 , 1935 ~ 4 ( ) ) が出版され , Xx kh 近年ではアカデミー版のく口シア言吾 イヨ YO 辞典 > ( 4 巻 , 1957 ~ 61 ) があり , また t s zh 同しくアカデミー版でく現代ロンア 33 ch 文章語辞典〉 ( 17 巻 , 1950 ~ 65 ) が刊 ⅢⅢ 行された。 sh イ ロシア語には北部 , 中部 , 南部の 田Ⅲ 24 イ 4 shch Ⅱⅱ 3 方言がある。これはだいたい 12 ~ トコェ 15 世紀ごろ生まれたもので , 現在で ( ノん k カ blbl も存続している。北部方言はレニン グラードからポルガ流域以北で用い 工リ 0 られ , 力点のない。 ( ・オー ) もそのま MM エム ま。と発音するのが大きな特徴であ HH エヌ る。これに対しスモレンスク , リャ Oo ザン , ポルゴグラード ( 旧スターリン オ グラード ) 以南の南部方言は , 力点 一三ロ シチャ トヴェルディ ミヤフキー てナーク ヤ E 0
( ロシアの共産・茫 ) に導かれたロシア の労慟者階級が , 農民と同盟して行 なった 1917 年 1 1 月 7 日 ( ロシア暦 1 ( ) 月 25 日 ) の単命。広義には , 1905 ~ ( ) 7 年の第 1 次ロシア革命や , またとく に 17 年・ 3 月 ( ロシア暦 2 月 ) のいわゆ る二月単命も含まれる。 186 1 年の農収解放以来 , とくに 9 ( ) 年代ごろから , ロシアの資本主義は 急速な発達をみせ , 帝国主義時代の プルジョア民主主義単命としての第 1 次ロシア革命をへて , 国全体か政 治上 , 経済 E の大変単をせまられて いたが , 専制政治と農取制的遺制が 依然強固で , 人民の政治参なをこと ごとに妨げ , 先進階級としてのプル ジョアジーーの経済的実力も , ともす れ ( よ外国資本におされ , ツアーリズ ムと互いに補い合って保守的反動的 に動きがちであった。他方 / デカプ リストの決起 ( 182 5 ) を起こした開明 的軍人貴族 , / ナロードニキ運動 ( 18 70 ~ 80 頃 ) の推進者となった学生 , インテリゲンチアなどすぐれた先駆 者をもっロシアの革命運動は , 20 世 紀初めの工業の発展に伴って , 革命 の新しいにない手である労働者階級 を生みだすにいたった。彼らは , 農 業の資本主義的傾向の増大によって ますます土地への欲求をたかめた農 民各層とあい呼応して強力な反体制 運動を展開する。 1898 年に創立され たロシア社会民主労働党 ( ポルシェ ビキ党の前身 ) は , まもなく , プロレ タリア革命をめざす / ポルシェビキ と , プルジョア革命をめざす / メン シェビキに分裂し , 弾圧に抗しなが ら , 社会革命党 ( 1901 年結成 , ナロー ドニキ諸派の後身 , 工ス・エルと略 称 ) や立憲民主党 ( 1905 年結成 , 自由 主義進歩派 , カデットと略称 ) など とは異なったマルクス主義の理論と 実践によって , しだいに民心をとら えていった。 第 1 次ロシア革命は国外的には日 露戦争とも関連したもので , 1905 年 1 月のいわゆる / 血の日曜日 , 6 月 黒海のオデッサで起こった戦艦ポチ ョムキンの反乱 , 10 月におけるドゥ ーマ ( 国会 ) の開設 , モスクワの武装 決起 ( 12 月 ) などによって革命運動は 高揚した。しかし 06 年からはストル イピンによる反動時代がはしまった。 この第 1 次ロシア革命は敗北に終わ ったが , 17 年の革命の貴重な教訓と その後 , ツアーリ政府は , なった。 レナ金鉱の労働者虐殺事件をはしめ とする 1912 ~ 14 年のストライキ , 暴 動あいつぐ革命情勢に直面し , 活路 を求めて第一次大戦にすすんで参加 したが , 亡命中のレーニンは帝国主 義戦争に反対し , メンシェビキを含 む諸政党の「祖国防衛」論を鋭く批 判した。 17 年になると軍事的危機と 国内政治の混乱がつのり , 決起した 労働者が第 1 次革命にならってソヒ・ 6 () 3 明示した点できわめて大きな世界史 主義権力を生みだす力をもっことを 、はなく , 現実に社会主義国家 , 社会 思想運動や経済闘争のスローがンで た。ー ーの革命は , 社会主義が単なる の凱旋行進」をおしすすめていっ る流血もなく全国に「ソビエト権力 権を握り , 習 18 年 2 月まで , さした ェビキや社会革命党をおさえて主導 臨時政府との交渉を主張するメンシ 中 390 名を占めるポルシェビキは , シア・ソビエト大会が開かれ , 650 名 動と並行して 25 ~ 27 日に第 2 回全ロ に突入してこれを占領した。軍事行 権の樹並が宣言され , 26 日には冬宮 止 , 労働者の生産管理 , ソビエト政 議の即時開催 , 地主的 t•. 地所有の廃 には軍事革命委員会の名で , 講和会 には , 行動を起こし , 翌 7 日午前 1 ( ) 時 ルシェビキを中心として , 11 月 6 日 ンの武装決起の提案を受け入れたポ 司単命委員会を創設して ソビエトは , った。ベトログラード 的コースが民心をとらえるようにな 登場もあって , 臨時政府打倒の革命 ったポルシェビキ指導ドの赤衛軍の 反革命 ( コルニロフの反乱 ) に打ち勝 は一変し , まもなく起こった軍部の これをきびしく弾圧したために局面 の平和的移譲の意志なく , かえって に具体化したが , 臨時政府には権力 ードの労働者 , 軍隊の武装示威運動 ) トへ」という七月事件 ( ベトログラ ーゼ ) は「いっさいの権力をソビエ 国したレーニンの呼びかけ ( 四月テ 倒していった。亡命地スイスから帰 の再建をめざす臨時政府を完全に圧 ビエトの力は , 戦争継続と軍事経済 して , 平和と土地とパンを求めるソ いわゆる「二重政権」の抗争期を通 にとどめておこうとする臨時政府の , してこれをプルジョア政権の管理下 民のソビエトと , 革命の成果を独占 革命の原動力であった労働者 , 農 支配は終わりをつげた ( 二月革命 ) 。 2 日 ) , 300 年にわたるロマノフ朝の 退位し ( 新暦 3 月 15 日 , ロシア暦 3 月 の臨時政府に事態の収拾をまかせて き A. F. ケレンスキー ( 1881 ~ ) ら ルジョアジーの代表機関ともいうべ ツアーのニコライ 2 世はついに , プ が国会内の進歩派議員に圧力をかけ , 十 ( 軍服を着た農民 ) の合同ソビエト 工ト ( 協議会 ) をつくり , 労働者と兵 的意義をもっている。 ーの革 また , , ロシアゴ ドに到着したレー で帰国 , ベトログラー 17 年 4 月「封印列車」 ングラード ) , 右は 19 ログラード ( 現名レコ 左は二月革命期のベト 命は , 労働者階級の指導下の労農同 盟というプロレタリア独裁の具体例 をつくりだし , ロシアを世界帝国主 義のくびきから解放したばかりでな く , 帝国主義下の植民地 , 従属国 , および被搾取階級一般にも深刻な影 響をおよは、した。 / ソビエト連邦 〔田中〕 ロシアごロシア語インド・ヨ ーロッパ語族中のスラブ語派に属す る三五 スラブ語は , おそらく 8 世 ーコロロ 0 紀ごろまでだいたい統一された形で 存在していたものと考えられるが , 9 世紀以後しだいに分化していき , 次の三つの語群に分かれた。 1 ) 西ス ラブ語群ーーポーランド語 , チェク スロバク語など , 2 ) 南スラブ語 語 , 群ーーープルがリア・マケドニア語 , セルボ・クロアート語など , 3 ) 東ス ラブ語群 - ーー大口シア語 , 小口シア ( ウクライナ ) 語 , べロロシア ( 白ロ シア ) 語がそれである。元来 , 古代ロ シア民族である東スラブ人 ( / スラ ブ人 ) には東スラブ語という共通言 語が存在していたが , 彼らに文字が 生まれたのは 10 世紀末ごろと推定さ れる。これはギリシア人宣教師キリ ロスが福音書などの宗教文献をスラ プ語に翻訳するためにギリシア字母 ( 大文字 ) をもとにして作ったもので , キリル文字とよばれる。そして 10 世 紀末ロシアにギリシア正教が伝来し たときから , こんどはロシア人自身 がキリル文字を用いて教会スラブ語 の宗教文献を作りはしめた。プルガ リアで用いられていた教会スラブ語 も , 当時はまだロシア人にはそのま ま理解できる言語だったのである。 こうして , これがロシア教会の言語 となり , やがてロシアの文章語とも なっていくのであるが , それまでに はいくつもの変遷を重ねた。すなわ ち , 東スラブ ( ロシア ) の共通語は , 13 世紀前半から 15 世紀後半まで約 2 世紀半に及ぶモンゴルのロシア支配 によるキエフ・ロシアの崩壊 , リト アニアやポーランドによる南西部支 配などの影響により , 14 世紀ごろか ら北方のモスクワが強大になり , 16 世紀初頭には強力な中央集権国家モ スクワ大公国が宗教的 , 文化的中心 になっていくにつれ , 大口シア語 , 小口シア ( ウクライナ ) 語 , ペロロシ
ロス のない。を a ( アー ) に近く発音する。 中部方言はプスコフ , モスクワ , べ ンザを結ぶ東西に細長い地域で用い られている。ロシア文章語 ( 標準語 ) は , このうち発音上北部と南部の特 徴をそれぞれ合わせもった中部方言 をもとにしたものである。文字は現 在 33 文字あり , 英語 , ドイツ語 , フ イタリア語などのゲルマ フンスロロ , ン語派 , ラテン語派に比べ , 文字の 上でも文法構造の上でもかなり違っ た趣を呈している。ソ連全体からみ ると , ソ連を構成する 15 共和国中 , 大口シア人を主体とするロシア連邦 共和国以外では , ロシア語はそれぞ れの固有の共通語に次ぐ第 2 共通語 として用いられ , 小学校から学んで 〔久野〕 ロシアりようり口シア料理帝 政時代のロシアで発達した料理をい い , 日本ではおもに民衆の料理が親 しまれている。また現在のソ連人の 食生活とはかなり趣を異にしている ようである。ロシア料理には二つの 要素があるといわれる。その一つは アジアからもたらされた食習慣であ り , 他の一つは東欧から伝えられた 食習慣である。そして , この二つの ものの混合のうえにロシア料理が成 り立ったとされている。しかし , ロ シア風とよはれる独特な前菜 / ザク スカのような洗練された料理が発達 したのは , ロシアで帝政が確立した 18 世紀以後と考えられている。欧州 の後進国といわれたロシアは 18 世紀 になると欧州の文物を急速に吸収し はしめ , フランスからも多くの調理 の技術者たちがロシア宮廷に招かれ , それまでかなりアジア的色彩の濃か ったロシア宮廷のテープルマナー メニューのうえに大きな改善をもた らしたといわれる。しかし , それま でにロシアに調理技術がなかったわ けではなく , すでに 16 世紀にはテー プルマナー , 酒類 , 食品の調理法を しるした著書があったといわれる。 ロシアは土地が広大で , 産物も多 様であるが , 北方に位置し , 冬季が 長いので , 食物の貯蔵にくふうを要 し , カビア , イクラ , ニシン , 野菜 の塩蔵法やサケ , ニシンなどのくん 製法が発達し , ザクスカのような前 菜に欠くことのできない備品となら た。また寒冷地の常としてスープ類 が愛用され , / ポルシチなどロシア の国民的調理ともよぶべき栄養価の 高いスープ類の数は 20 種以上にも及 んでいる。また , ロシアでは練り粉 料理 ( バイ風の料理 ) が発達し・てい て , 小麦粉で作った皮に野菜 , 獣肉 , 魚肉などの中身を包んだピロシキー は日本でもよく知られている。調理 法も揚げたもの , てんびで焼いたも の , 蒸したものなどいろいろあり , 形も大きさもさまざまである。また ザクスカをつまみながら飲む強烈な 6 () 5 / ウォトカや , / サモワールの湯で , ちょうどよい濃さにして飲む紅茶 ; ライムギの粉で作った黒パンなどは ロシア料理特有の風味をもっている。 〔関〕 ろじさいばい露地栽培野菜な どの不時栽培のうち , 温床を用いた り , ビニルおおいをしたり , または 温室などの特別な保温設備を用いた りしないで行なう栽培法。野菜類を 不時栽培して市場に不時出荷する目 的は , 新珍なることによって高値を よぶにある。露地栽培もこれを目的 とするので , そのやりかたは促成栽 培や抑制栽培などの方法をとってい る。実際には , どこでも行なえるわ けではなく , 主として , 温暖地では 一成栽培を , 寒冷地 , 高冷地では抑 制栽培を行なっている。露地栽培さ れるものにはトマト , キュウリ , 工 ンドウ , インゲン , チシャ , カンラ ン , ダイコン , ハクサイなどがある。 〔武田〕 ろしゆっけい露出計写真撮影 のさいに被写体が受ける光量の度合 いを計って露出時間を測定する計器。 露出時間は場所 , 日時 , 天候 , 被写 体の明暗 , 感光材料の感光度 , 絞り , フィルタなどによって決定されるが , これを簡単に求めるものである。露 出表 , 露出計算尺 , 化学式露出計 , 光学式露出計 , 電気式露出計がある が , 現在ではおもに電気式露出計が 用いられている。電気露出計は受光 部のセレン光電池に光を受けると , 光の強弱に応して弱い電流を発生し この電流が電流計の指針に働いて光 量目盛を示し露出が測定される。電 気露出計には反射光式のものと , 入 射光式のものがあるが , 一般には反 射光式だけのものあるいは入射光と 反射光式に兼用できるものが使用さ れている。反射光式は被写体から反 射する光の強さを測定するもので , カメラに内蔵された露出計ははとん どこのタイプである。入射光式は被 写体の位置からカメラに向けて測定 このタイプ専用 するものであるが , のものは少ない。最近セレン光電池 より , 高性能をもつ硫化カドミウム CdS を受光体とした電気露出計が発 表された。このタイプの露出計はセ レンタイプのものに比べひしように 大きな電流をうることができるので , 光線の弱いところでも測定できる。 CdS 受光体はセレン受光体のものと 異なりみすからは起電力がないので , 1.3 ポルトの水銀電池が使用されて いる。この水銀電池は電圧変動率が 少ないので , つねに正確な露出が測 定できる特徴をもっている。〔池上〕 ろしゆっしよう露出症性行為 に関する性欲異常の一つ。異性に対 し , 自己の性器を露出 , ときには手 淫をしてみせることによって , 性的 な快感を覚えるものをいう。男子い・ 多いが , とくに精神薄弱者やてんか んその他の精神病者にみられる場合 カ { 多い ローション lotion 洗い : 青める , ふりかけるという意味のラテン語か らきたことばで , 広義には化粧料の 性質上の分類における液状のものの 総称である。 / アストリンゼントロ ション , / 、ンドローーションなどの 化粧水の類 , / オー・デ・コロンな どのような液体芳香品などが含まれ るが , とくに頭髪用としてのヘアロ ションをさすことが多い この中 には / べーラム , / ヘアト セットローションなどがある。ヘア ローションは頭髪に芳香を加えると ともに付着している汚物を除き , ふ けやかゆみをなおす。ふつう 70 % 程 度のアノレコーノレにレゾノレシン , カン タリスチンキなどの薬品を加え , 香 料を入れたものであるが , さらに発 毛や殺菌の効果を増すために薬品を ックである。ま カ日えたのカ { ヘアト た水を用いすアルコールにツバキ油 , ヒマシ油などを加えた油性のものも あり , 整髪料ともなる。またセット ローションはカラヤゴム ( インド産 のゴム状樹液 ) , マルメロ溶液など の固着剤を加えたものでパーマネン トウェープをかけた毛髪を形づける のに使用する。 〔高見沢〕 ろじん魯迅 ( ルーシュン ) 1881 ~ 1936 中国の作家 , 思想家。本名 は周樹人。あざなは豫オ。魯迅は筆 名である ( 筆名はこのはか数十にの は、る ) 。浙江省紹興の読書人の家に 生まれたが幼時に没落 , 貧困のうち に社会の冷酷さを味わいながら成長 1902 年日本 した。 1892 年に南京に に遊学 , 南京では当時の改革派の主 張にふれ , 日本では革命思想の影響 を受けた。とくにこのころ章太炎な どの影響もあって , 単純な進歩主義 を否定 , 社会 , 人間の根本的変革を 志向する思考方法の基礎が形成され た。日本では 04 年仙台医専で医学を 学んだが , やがて文学に転し , 五・ 四文学革命期にく狂人日記〉 ( 1918 ) を発表 , その後 / く阿 Q 正伝〉 ( 1921 ) , く故郷〉 ( 1921 ) , く祝福〉 ( 1924 ) , く孤 独者〉 ( 1925 ) などの小説 , 散文詩く野 草〉 ( 1926 ) , 多くの雑感などで中国 近代文学の中心になった。とくに雑 感は旧勢力に対する徹底した非妥協 性と , 現実に対する冷徹なリアリズ ムに貫かれ , 文学 , 思想史上独自の 地位を占める。日本文学 , ロシア・ ソビエト文学 , 東欧の被圧迫諸民族 の文学などの翻訳も多く , 学者とし ても一流で , 中国小説史研究の基礎 を確立した。中国近代文学の父とし て尊敬され , その葬儀は中国最初の 民衆葬として営まれた。 〔丸山〕 ロス James Clark Ross 1800 ~ 62 英国の極地探検家。北探検 家である叔父の John Ross ( 1777 ~
期資本主義的な経済関係を背景に / プがチョフの反乱 ( 1773 ~ 75 ) が起 こり , 先進的貴族インテリゲンチア の A. N. ラジシチェフカ { くべテノレプノレ グからモスクワへの旅 > ( 179 ので農 奴制を痛烈に批判したころから , ア レクサンドル 1 世治下のいわゆる「ス べランスキーの国家改造案」 ( 1 9 ) にいたるまで , 社会改革の動きはよ うやく心ある人々の関心の的になっ てきた。ナポレオン載争にさいして は , 1812 年にナポレオンの侵略を受 けたが民族的抵抗をもってこれを撃 退した ( / ロシア遠征 ) 。戦後の 1825 年末 , 専制と農奴制の廃止を求める / デカプリスト ( 十二月党 ) の反乱が 起きたが , 人民へのよびかけを欠き , 新帝ニコライ 1 世の強権で鎮圧され た。 40 年代になると , 貴族革命家に 代わって , 雑階級 ( ラズノチンツイ ) 出身の啓蒙家が盛んな社会批判を行 なうようになる。クリミア戦争の敗 北後 , 内外の情勢におされて上から の農収解放が断行され ( 1861 ) , 農奴 制はなしくすしの解体過程をたどり はしめ , 資本主義の急速な育成をめ ざすツアーリ政府と , 人民への積 的働きかけと直接行動を主張する学 生 , インテリゲンチアの / ナロード ニキ運動との闘争が激化した。 , っ したなかで非ュークリッド幾何学の ロバチェフスキー , 周期律を発見し たメンデレーフ , 生理学のノヾプロフ など多くの学者が現われている。 ナロードニキの失敗のあと , 一時 ふるわなかった革命運動は , 90 年代 以降の工場労働者の増大と社会主義 思想の普及につれて新たな高まりを みせ , 農業の資本主義化に伴う農民 の上地問題ともからんで , 日露戦争 の敗北をきっかけとする 1905 ~ 07 年 の第 1 次ロシア革命をひき起こした。 その結果 , まがりなりにも国会 ( ド ゥーマ ) が開設され , 各種の政党活 動も盛んになったが , ツアーリ権力 はこれを弾圧し , 首相ストルイピン の自作農創設案など上からの改革に 依然望みをかけていた。 1914 年 , 第 一次大戦が始まると , ロシアは英国 , フランスとともに , 総力をあげてド イツと戦ったが , 腐朽したツアーリ ズムは , 消粍の多い現代戦の経済的 重圧にたえきれす , 軍事的失敗と国 内の革命運動におされて 1917 年 3 月 ( ロシア暦 2 月 ) ニコライ 2 世が退位 し , ロマノフ朝は 38 年の歴史の幕 を閉し , 十月社会主義革命によって ソビエト政権への道が開かれた / ロシア革命 〔田中〕 〔文学〕ロシア文学における古代お よび中世は , ロ碑文学と記録文学で , その多くはビザンチン文化の伝統を ひいた宗教文学 , 翻訳文学 , 戦記物 語の類である。なかでも最古の叙事 詩くイーゴリ軍物語〉 ( 1185 ~ 88 と推 定 ) はロシアのくオデュッセイア〉と 6 () 1 して著名であるが , こうした少数の 例外を除いて , ロシア文学の独自性 や民族性が表現されるようになった トル大帝のあと , 18 世 のは , ピョ 紀中葉の古典主義文学からである。 V. K. トレジャコフスキー ( 1703 ~ 69 ) , ロモノソフ , A. D. カンテミル ( 17 ( ) 8 ~ 44 ) らがこの時代の先駆的文学者 , 思想家であった。工カチェリーナ 2 世の治世では女帝の保護下に , フラ ンス文化の影響を強くうけ , 詩人 G. R. デルジャービン ( 1743 ~ 1816 ) , ・劇 作家 D. T. フォンビージン ( 1745 ~ 92 ) を輩出 , 古典主義文学は一時に開花 した。しかし 18 世紀末にいたって古 典主義はしだいに魅力を失い , 代わ って N. M. カラムジン ( 1766 ~ 1826 ) の / ト説く哀れなリーザ〉 ( 1792 ) に代 表されるセンチメンタリズムカよっ 興 , 19 世紀にはいり , その後継者 V. A. ジュコフスキー ( 1783 ~ 1852 ) によ ってロマン主義が流入され , ノヾイロ ンがロシア文学青年の支柱となった ナポレオンのロシア侵入 ( 1812 ) とそ れにつづくデカプリスト運動は , ロ シア民族主義の高揚と専制政治への 批判を生み , 革新的ロマン主義とリ アリズムの結合をうながして寓豸・話 詩人 I. A. クルイロフ ( 1768 ~ 1844 ) , 劇作家 A. S. グリポエードフ ( 1795 ~ 1829 ) らを生み , その集大成である プーシキンとゴーゴリにより国民文 学の基礎が確立された。 ニコライ 1 世の圧政下にあってはドイツ観念論 哲学とフランス社会主義の影響をう けた N. B. スタンケビチ ( 1813 ~ 40 ) , ヘルツェンらに代表されるインテリ ゲンチアは農奴制廃止運動を起こし , そうした現実変革の希求のなかから レールモントフの作品やべリンスキ ーのリアリズム文学理論が生まれた 後者の影響下にネクラーソフ , ツル ゲーネフ , ゴンチャロフ , ドスト工 フスキーら多くの詩人 , 作家と社会 的 , 哲学的傾向の強い作品群を生み だす一方 , 西欧派 ( ロシアが西欧諸 国と同し道 , 資本主義の道を歩むと 考えた ) とスラブ派 ( 一種の国粋派で , ロシアには独自の発展の道があると した ) の確執が始まった。 40 ~ 70 年 代の雑階級人の台頭 , 農奴解放 ( 18 61 ) に伴う社会構造の変革などを通 して , N. G. チェルヌイシェフスキー ( 1828 ~ 89 ) , N. A. ドプロリューポフ ( 1836 ~ 61 ) らの批評家たち ( 革命的 民主主義者と称される ) , シチェドリ ン , A. N. オストロフスキー ( 1823 ~ 86 ) らの作家 , 劇作家が現われた。 70 年代には「人民の中へ」をスロー がンとするナロードニキ運動が起こ り , ドストエフスキー , トルストイ が盛んな創作活動を示したが , 80 年 代の反動期を迎えた知識人の幻滅は 大きく , チェーホフ , V. M. ガルシン ( 1855 ~ 88 ) , V. G. コロレンコ ( 1853 ~ 1921 ) らに代表される絶望と憂愁 にみちた作品群が現われた。これら の流れは , 90 年代にはいって批判的 リアリズムとシンポリズムに分かれ , トルストイ , チェーホフ , A. I. クー プリン ( 1870 ~ 1938 ) , I. A. プーニン ( 1870 ~ 1953 ) , L. N. アンドレーエフ ( 1871 ~ 1919 ) らは前者 , メレジコフ スキー , K. D. / ヾリモント ( 1867 ~ 19 42 ) , V. Y. プリューソフ ( 1873 ~ 19 24 ) , F. K. ソログプ ( 1863 ~ 1927 ) らは後者に属していた。 20 世紀初頭 の政治的混乱期におけるゴーリキー の出現は , ロシア文学史にとって , ーっの転機であった。高潮する革命 運動と極端な反動政治が激しく衝突 し , 文学的には A. A. プローク ( 1880 ~ 1921 ) らのシンポリズム , マヤコ フスキーらの未来派 , M. P. アルツィ ノヾーシェフ ( 1878 ~ 1927 ) らの近代主 義が競ったが , 1917 年の革命を迎え , ゴーリキーを中心、とする A. セラフィ モビッチ ( 1863 ~ 1949 ) , F. V. グラト ) らに代表されるリア コフ ( 1883 ~ リズム文学が主流を占め , マヤコフ スキーらもこれに加わった。以後ソ ビエト文学の時代にはいるが , これ については「ソビエト連邦」の項の 「文学」を参照されたい。 〔美術〕キエフ国家のキリスト教採 用 ( 988 ) に伴って , ロシア美術発達 の原点となったのはビザンチン様式 ( / ビザンチン帝国 ) であった。教会 堂建築にかんしていえば , この様式 の基本は , 集中式円蓋バジリカ構 造ということに帰着しよう。しかし ロシア美術は , 自国の風上的 , 歴史 的条件にしたがい急速にビザンチン 的原型の模倣から脱し , 独自の民族 的様式を生みだしていった。球帽状 クーボラ ( 円蓋 ) は豊かなふくらみを もっ球根状クーボラへと変わり , そ の根もとのタンプール ( 鼓胴 ) も高く 伸びて , いっそう全体の垂直感を強 こうして建築頂部は , 燃え 調する。 あがる大口ウソクの炎のような幻想 的景観を呈し , しばしば特異な祝祭 的歓喜の感情をさえ表現する。細長 く狭い窓とその隅切の手法もロシ ア的であり , また「天幕」とよばれ る角すい屋根の形式が , ときにはク ーボラと結合し , ときには鐘塔の頂 部として単独に現われる。 様式展開のあとを示す著名な遺構と しては , 11 世紀にキエフとノブゴロ ドの聖ソフィア聖堂 , 12 世紀にネル リの聖母代願聖堂 , ウラジミルの聖 母被昇天聖堂および聖ドミトリー聖 堂 , さらに 14 ~ 16 世紀 , モンゴルへ の反撃と集権的なモスクワ公国の完 成の時代にクレムリン内の諸聖堂 , コロメンスコェのキリスト昇天聖堂 などがあり , ワシリー・プラジョン ヌイ聖堂にいたって民族的諸形式の もっとも輝かしい総合が実現されて いる。近代への過渡期 17 世紀にもフ ィリの聖母代願聖堂その他の美しい
( 国際オリンピック委員会 ) 本部 , 大学 ( 1891 創立 ) などや , 市役所 , 聖 堂 , 古城など 13 ~ 15 世紀の古建築が 多い。外港のウーシーとケープルカ ーで連絡する。アルプス連山筆と市の 全景のながめは絶佳といわれる。な お史上ローザンヌ会議として知られ るものに , I) トルコと英国 , フラン スなど 7 カ国の講和会議 ( 1922 ~ 23 ) , 2 ) 第一次大戦後のドイツ賠償額の減 額に関するもの ( 1932 ) , などが有名 である。 〔岩淵〕 ろし濾紙液体と固体をこし分 けるのに使う多孔性で吸収性のよい 紙。精製したもめん繊維 , またはさ らし化学パルプを原料とする。 こま かい沈殿を完全に捕え , 液体をすみ やかに通過させ , ぬれた状態で相当 に強く , 水その他の液体に溶け出す 成分を含ます , 灰分の少ないことが 必要とされる。しかし , これらのすべ てを同時にそなえることはむすかし い。そこで , 使用目的にもっとも必 要な性質を , 他の性質の犠牲によっ て発揮させるように作られているの で , 目的に応して使い分けることが たいせつである。化学分析用のろ紙 には定性用と定量用とがあり , それ ぞれこし分けられる沈殿の大きさに 応して、目のあらいものからこまか いものまである。 / 抽出に使う円筒形 のものや , ペー / ヾークロマトグラフ ィー ( / クロマトグラフィー ) に適し た各種の製品もある。 〔阪ロ〕 ロシア Russia 1917 年の革命以 前のロシア帝国およびその領土を表 わす歴史的地理的呼称。現代のソビ 工ト連邦の俗称として使用される場 合もある。 〔歴史〕ロシアの南部から中部にか けて , 旧石器時代の住居跡がいぐっ か発見されているが , 新石器時代に はいると , 北方森林地帯の狩猟 , 漁 労とならび , 南方草原地帯で農業 , 牧畜が始まり , キエフ近くで発見さ れたトリポリエ文化に代表されるよ うな , 竪穴住居をもった原始文化 が発生する。前 1 千年紀の初めにか けて , カフカズ , アルタイ , ウラル 方面の山地で青銅器文化が栄え , 鉄 器も生まれた。前 8 世紀末アッシリ アに滅ーまされた南カフカズのウラル トゥ国家をへて , アゼルバイジャン , グルジャ , アルメニアに奴隷制文化 が生まれる一方 , 黒海北岸には前 8 ~ 前 3 世紀ごろまで , / スキタイ人 が牧畜と農業を営みながら , ギリシ ア人植民市と交渉をもっていた。そ の後ローマやゲルマン諸民族による 支配が交替するなかで , スラブ人は , これらスキタイ人 , ゲルマン人 , フ ィノ・ウゴル系諸民族などと接触し ながら , 欧州東部 , 中部に広く居住 し , 牧畜 , 漁労 , 狩猟 , 焼畑農業に 従事していた。とくにドニエストル , ドニエプル両川間の流域では , 今日 のロシア人の祖先とされている東ス ラブ人力 - でに耕作農業を営み , 木 さくに囲まれた小集落をつくってい た 8 ~ 9 世紀になると , 諸族の分 裂 , 統合が進むなかで , 軍事的指導 者としての公 ( クニャージ ) が権力を にぎり , 都市を中心に軍事的経済的 活動を強めていった。 ドニエプル中 流域の先進地帯には , ルーシ ( ロシ アの語源となる ) という名でよばれ る有力な種族同盟が生まれ , 9 世紀 後半にはキエフ大公の下に南北ロシ アを統治するようになるが , このキ ェフ国家の形成にあたっては , ノル マン人 ( ワリャーグ ) 戦士のロシア侵 入が一つの刺激となった。彼らはス カンジナビアからコンスタンチノー プル ( イスタンプール ) への軍事的商 業ルートを確保していくなかで , 時的にスラブ人を支配したが , その 支配者 ( 伝説上の建国者 / ルーリッ ク ) の子孫たちは , 11 世紀までには , 土着スラブ諸公と混交して固有の性 格を失った 9 世紀末以降のキエフ国家の時代 に , キエフ大公をはしめ諸公 , 貴族 らは定期的な巡回徴貢者からしだい に封建的土地所有者に成長しつつあ った。国制もしだいに整い , 10 世紀 末ウラジミル聖公のときキリスト教 ( 東方教会 ) を受け入れ , 11 世紀のキ ェフ国家の最盛期には , ャロスラフ 大公の名で法典 ( いわゆるくルスカ ヤ・プラウダ〉の最古の部分 ) が編ま れ , ついで 12 世紀初めには修道僧ネ ストルの手でく原始年代記〉が編ま れ , 公権の系譜と正当性が明示され この間 , 農工分離が進み , 11 世 た。 紀から 12 世紀にかけて都市数は倍加 し , 60 種以上の手工業職種が生まれ るなかで地方領主の力が強化され , お同体農民の反抗もそれに応して高 まり , キエフの大公権はしだいに衰 えていった。さらに 13 世紀前半にお けるモンゴル軍の破壊的な侵入は , 都市の大半を壊滅させ , 手工業生産 を大きく後退させたほか , きびしい 貢税が商品貨幣流通の順調な発展を 妨げ , 地方分権的な傾向に拍車をか けた。 この時期にかろうして侵入をまぬ かれた北のノブゴロドは , スエーデ ン軍やドイツ騎士団の侵攻を撃退し ( 1240 , 1242 ) , しだいに貴族的都市 共和国に成長したが , , こでは民会 の活動が長期にわたって持続し , 古 代民主制のなごりをとどめていた 14 世紀になると , 北東部にはキプチ ャク汗国の間接支套己のもとにノブゴ ロド , スズダリ , リャサンなど諸公 国がウラジミル大公国を形成 , 南西 部にはリトアニアやポーランドの支 配下にあって貴族権力の優勢なガリ ーチその他の諸公国がおもな政治中 心地となり , 15 世紀には , 北東部に ロシア人 ( 大口シア人 ) , 南西部に白 ロシア人 , 南部にウクライナ人 ( 小 ロシア人 ) といった固有の言語をもつ 三つの主要な民族が形成されてきた このような諸公国分立のなかから , 14 世紀以降モスクワが台頭してくる。 ウラジミル大公国の辺境にあったモ スクワは , 13 世紀の植民 , 移民の多 くを吸収し , 東西河川路の交点に位 置する有利な地理的状況に加えて主 教座誘致の成功などもあって , キプ チャク汗国より大公の位を公認され , 汗国への徴税請負をも引き受けて競 争者を倒しながら着々その領上を広 1453 年ビザンチン帝国 げていった の滅亡後 , その最後の皇帝のめいを めとったモスクワ大公国のイワン 3 世はノブゴロドを滅ばし , 1497 年に は法典 ( スジェープニク ) を発布する など , しだいに正教の正統的継承者 , 「第 3 のローマ」の君主 , 全ロシア の大公としての性格を強化した。っ いでイワン 4 世 ( 雷帝 ) は , ツアーリ ( / ツアー ) の呼称を公式に名のり , 皇帝直属の家臣およびその封地から なるオプリチニナ体制をつくって帝 権の強化に努め , 対内 , 対外的に専 制君主としての特色を発揮した。 しかしながら , 16 世紀後半以降の あいつぐ農民抑圧の諸立法に抗して 逃亡や暴動をくリかえしていた農民 は , おりからの王朝断絶 ( 1598 ) にか らむ支配層内部の抗争と偽ジミトリ ーの出現をきっかけにポロトニコフ の乱を起こした。この情勢に乗して ポーランド干渉軍がロシアに侵入し たため , モスクワ政府軍とのあいだ に 17 世紀初頭三つどもえの動乱時代 が展開 , 結局は無能な政府軍をおさ えて首都モスクワをポーランド占領 軍の手から奪回した国民義勇軍のお か ( ナで , 1613 年ミノ、イノレ・ロマノフ が新王朝を開くに至った ( / ロマノ フ朝 ) 。 17 世紀半ばには , 農収制の法 制化にとって大きな画期となる法典 ( ウロジェニエ ) が発布され , ポーラ ンド支配下のウクライナを併合する とともに , 教権の代表者総主教ニコ ンとの争いに勝利し , / ステンカ・ ラージンの乱を鎮圧したロマノフ朝 は , ツアーリズムと農収制をいっそ う強化していった。 18 世紀初めの英 主ピョートル 1 世 ( 大帝 ) は , / 北方 戦争 ( 1700 ~ 21 ) 中に , 軍政両面にわ たるロシアの近代化をはかり , 啓蒙 専制君主としての功業を打ち立てた。 その後農奴主 , 貴族地主は , ツアー リズムの支配機構を不断に更新し , 18 世紀後半のェカチェリーナ 2 世 ( 女帝 ) の時代に強固な農奴主国家体 この時期には , 科学 制を樹立した。 モスクワ大学 , 芸術ア アカデミ カデミーが創設され , 万能の天オロ モノソフの学問的活動など , ロシア の文化的水準を示すできごとが多か った 他方 , すでに発達しつつあった初
レノノレズ 5 6 1 すが , しだいに川幅をまして平たん 創立され , 壊滅したロシア社会民主 労働党の再建をはかった。資本主義 な丘陵地を緩流する。ヤクーックか らは川幅 7 km の大河となり , アルダ 的発展の遅れたロシアでプロレタリ ン川の合流点から下流は湿地帯を流 アートが指導勢力となって , プルジ 河口までの下流部は川幅約 l()km ョア民主主義革命を組織し , これを プロレタリア革命に発展転化させる で対岸が見えないようになる。上流 という画期的な戦略方針を確立し 部では 1 ( ) ~ 5 月 , 下流部では 9 ( く民主主義革命における社会民主党 月の間凍結するが , 夏は上流部のウ スチクートから河口まで航行ができ の二つの戦術〉 1905 ) , 第一次革命 ( 19 05 ~ 07 ) には帰国 , 先頭に立ったか る。沿岸にはヤクーック , オリョク ミンスク , キレンスクなどの河港が 敗北 , スイスにのがれた。第一次大 戦には帝国主義戦争を内乱に転化さ ある。 〔西村〕 18 せるために努力した。 17 年の二月革 レナ′レト Philipp Lenard 命直後に帰国 , これを社会主義革侖 62 ~ 1947 ドイツの物理学者。プレ タコマ富士ともよばれ に発展させ、 11 月 7 日 ( ロシア歴 10 月 スプルク ( 現名はプラチスラバ ) の生 た。港は国際貿易港で東欧をはしめ るレーニア山。数世紀 25 日 ) 武装決起を成功させ , 人類の歴 まれ。プダベスト , ウィーンの大学 各国との貿易が多く , また , 河川交 前までは盛んに火山活 史上最初の社会主義国家を創設し , 通では , 白海 , ポルガ川などへの内 に学び , ポン大学で H. へノレツに助手 動を行ない , 標高も現 同年 11 月第 2 回ソビエト大会で人民 として師事した。 陸水運の起点となっている。港は 11 在より 68m も高かった 1894 年以来プレス 委員会議議長 ( 首相にあたる ) に選出 月下旬から 4 月まで結氷する。 ラウ , アーヘン , ハイデルベルク , された。その著書く帝国主義論 > ( 19 キールの各大学教授を歴任 , 19 ( ) 7 年 市は 1703 年ピョートル大帝によっ 17 ) , く国家と革命〉 ( 1918 ) , く共産主義 て創立され , 以後 1914 年までサンク ふたたびハイデルベルク大学教授と における「左翼」小児病〉 ( 1920 ) など なった。ヘルツのあとをついで陰極 ト・べテルプルグ , 14 年 8 月以後べ はいまなお全世界共産主義運動の指 線の研究を始め , 1894 年巧妙な装置 トログラード , レーニンの死の直後 導力となっている。 / マルクス・レ 24 年 1 月 26 日彼にちなんで現名に改 を用い陰極線を外部に取り出すこと 〔石堂〕 ニン主義 められた。 1712 年ピョートノレ大帝カ { に成功し ( この線をレナルト線とい モスクワから遷都してのち , 18 年 3 う ) , また光電効果の実験的研究を レニングラード Leningrad ソ 月までロシアの首都であり , ロシア 連西部 , モスクワに次ぐ大都市。人 行なうなど , 20 世紀の原子物理学の 革命をはしめ , ロシア史上有名な多 発展を実験の面で準備したひとりと 凵 36 ( ) 7 ( ) ( ) ( ) ( 1964 ) 。市域はネワ川下流 くのできごとの舞台となった。また して 1905 年ノーベル物理学賞を受け デルタの大小 1 ( ) 0 以上の島々にひろか、 ロシアの「西欧への窓」として , ロシ た。極端な国家主義者で , ナチスに り , 標高 1 ~ 2 m , 市中を大小無数 の運河 ( 延長 320km ) が貰き , 「北のべ アにおけるもっとも西欧的な都会と 共鳴し , アインシュタインやポーア して栄え , 世界史的にも重要な役割 らのユダヤ人科学者の追放や相対性 ネチア」といわれる。年平均気温 4. 3 ℃ , 理論 , 量子論などの「ユダヤ物理学」 を果たした。 / ( 別刷 ) ソビエト連邦 2 月でも一 8 ℃で緯度のわりに暖か 〔渡辺〕 の排撃を唱えた。 ートル大帝が建設 〔後藤〕 い。 17 ()3 年 , ピョ ンビーク〔山〕 Lenin したベトロノヾプロフスク要さいと レーニア〔山〕 Ra i n i e r イン レ この対岸の冬宮を中心に市街が発展 Pea k ソ連 , 中央アジア , タジク共 ディアン名はタコマ山。米国 , ワシ 和国とキルギス共和国の境にある高 した。繁華街のネフスキー通り ( モ ントン州西部の休火山。標高 4392m 。 峰。標高 7134 m 。パミール山系のト スクワへの街道となり , 劇場 , 百貨 カスケード山脈の最高峰であり , 山 店 , 聖堂が集まる ) , ジェルジンスキ ランス・アライ山脈の主峰で , 山腹 頂部は万年雪におおわれ , みごとな ー通り , マヨローワ通りが冬宮 , 工ル に氷河がかかっている。もとカウフ 氷河や氷食地形がみられる。また山 ミタージ宮 , プーンキン博物館から マン山といわれ , スターリン・ピ ろくには針葉樹の原始林 , 大小の湖 , ク ( 現名フムニズム山 ) が発見される 放射状に発している。市は第二次大 滝があり高山植物が多い。山頂を含 戦中の 1941 年 8 月から 44 年 1 月に至 までソ連の最高峰とされていた む周辺一帯 ( 977 2 ) はレーニア山国 立公園 ( 1899 指定 ) になっている。富 る約 900 日の包囲を受け 1 万以上の建 34 年 , アノヾラコフらのソ連隊によっ 物が破壊されたが陥落せす , 「英雄都 て初登頂された。 士山に似た山容はシアトルからなが 〔渡辺〕 められ , 在留日本人間では「タコマ レノ′レス・ Joshua Reynolds 17 市」の称号をうけた。戦後完全に復 23 ~ 92 英国の画家。肖像画家 Th. 富士」とよばれている。 〔石光〕 興された。ロシア皇帝の居城だった ハドソンの教えを受け , 1749 ~ 52 年 冬宮は現在博物館となり , 十月革命 ン Vladimir llich Lenin イタリアに遊学。バン・タ・イク以来 の史跡となっている。市はソ連第 1 1870 ~ 1924 本名ウリャーノフ Ulya ・ ニンは筆名 , のちには公式 の工業都市でもある。精密機械 , 電 レ - 気機器 , 造船などの部門で名高く , . ニコライ・レーー ンとし、 にも用いた う筆名も使っている。ロシア革命運 革命で名高いキーロフ工場 ( 当時プ 動の指導者。シンビルスク ( 現在のウ チロフ ) , エレクトロシーラ発電機タ リヤノフスク ) の視学官の家に生ま ービン工場 , スベトラナ受信機工場 , スペルドロフ工作機工場をはじめ多 れた。アレクサンドル 3 世暗殺陰謀 くの工場が設立され , 1940 ~ 58 年間 事件で処刑された兄アレクサンドル に工業生産は 4. 2 倍となった。市には の影響で社会改革に関心をもち , マ 総合大学 ( 1819 創立 ) をはしめ多数の ルクス主義を学んだ。 1887 年カサン 大学で学生運動のため検挙。 95 年労 大学 , 科学アカデミー ( 1725 創立 ) な 働者階級解放闘争同盟を組織したが , どの研究機関が置かれているはか , モスクワとならぶ芸術の都で , プー 97 年シベリアへ流刑 , / クルプスカ ャと結婚 , く口シアにおける資本主義 シキン劇場をはしめ多くの劇場 , レ の発達 > ( 1899 ) を書いた。 190 ( ) 年刑期 ン・フィルム撮影所 , 交響楽団など を終え , スイスに亡命 , 02 年く何をな がある。鉄道は , ムルマンスク , モ バルト地方 すべきか > を執筆 , またプレハノフ スクワ , フィンランド , らとくイスクラ〉紙を発刊 , 流刑中に などに四通し , 戦後地下鉄も開通し レ 19 レノルズ作くネリ オプライエン〉 1763 頃
力も新興の / 契月えに圧せられて遼 東を保てす , 高句麗の故地には遺民 がって / 渤海韆国を建設した 渤海は 7 世紀末に建国し , 満州の 大部分と北鮮の一部を領有した。今 の東京城 ( 上京 ) を主都に五京 , 15 府 62 州あり , 中国文化を受け入れて 「海東の盛国」と称された。唐や新羅 はもとよリ , 奈良時代 , 平安時代の 日本にもしばしば使節して通貢して いる。渤海の盛時は 9 世紀まで続き , 満 'J•I•I は奥地まで開発されていった 1 ( ) 世紀初め , モンゴ、ル高原を統一し た契母 ( 遼 ) は , 満州に侵入して渤海 を滅は、し ( 927 ) , その故地に東丹国 を建てたが , やがて東母国の本拠を 遼河の下流域に移し , 渤海の遺民を もことごとく移住させてしまった。 かくて満州の奧地はふたたび未開の 野に逆転する。こののち奥地で活躍 を始めるのは , それまで高旬麗や渤 海人 ( 満州系だがモンゴルと混血 ) に おさえられていた純ツングース族 , すなわち / な・真である。 12 世紀初め , 女真は今のハルビン付近から興って 民族の統一をなしとげ , 国号を / 金 と称した ( 1 115 ) 。やがて中国の宋と 結んで遼を滅ばし , 次いで華北を征 服 , 宋室を南に追った。しかし攵真 人はなお人口か・少なく , ために満羽ヨ の人凵を尽くしてまで華北の経営に っとめねばならす , 満州の本上は空 虚に等しい状態であった。したがっ てモンゴル帝国の勢力が華北に及ぶ や , 金は本に引き上げることもで きす , 華北の地で滅亡した ( 12 34 ) 。 満り・日はモンゴル人の手中に帰し , モ ンゴル帝国 ( 元 ) は満州を越えて , 朝 鮓半島の高麗まで完全な属国とした。 元にかわった明も満州の支配を続け たが , やがて女真人の勢力が伸びは しめ , 明の支配は南満に圧縮されて いった。かくて明の袞亡に伴い , 真人はふたたび興り , 17 世紀初め , 東 満の地に建国して後金と称し ( 16 16 ) , 次いで南満の平野に進出して瀋陽い に都した。さらに内モンゴルを征服 して国号を / 清と改め , さらに中国 の内乱に乗して北京に兵を進め , 明 のあとを受けて中国全 I•. に君臨する に至った ( 164 4 ) 。清朝は , 満州の同 族をあげて中国に移住させ , これを 旗人と称して優遇した。政治の中枢 にすわったのも満州人であった。か くて満州の地はふたたび空虚に近い 状態となったが , 清朝は中国人の満 州への入植を許さす ( 封禁の令 ) , い わゆる東三省 ( 盛京 , 吉林 , 黒竜江 ) を置いて中国本 E と区別し , 満州の 確保につとめた。ンべリアを東進し たロシアに対しても , / ネルチンス ク条約を結んで , 満州への入をく いとめた ( 1689 ) 。やがて中国人は禁 令を犯して満り。 l•l に進出し , ことに 19 世紀以後 , 清朝が外圧に苦しみ , ロ シアに備えて満州への移民を奨励す 9 1 ると , 中国人は肥よく地を求めて満 り、 l'l に殺到した。すでに満州には満州 人なく , 名実ともに中国の一部と化 していったが , 日清戦争に敗れてか らは ( 1895 ) , ロシアの進出がめざま しく , 旅順 , 大連に基地を構え , シ べリア鉄道の支線を満州に敷設し ( 東清鉄道 ) , 沿線に近代都市を建設 した。しかしロシアの満州占領は日 本や英米の好まぬところであり , 日 本は英国と同盟したうえ , ロシアと 戦い ( 19 ( ) 4 ~ 05 ) , ロシアの勢力を北 満に退け , 南満に勢力をはった。日 本は / 関東州と / 南満州鉄道株式会 社を根拠にして , 満州支配の足場を 固め , ことにロシア革命ののちは﨑 州全を独占しようとし , 中華民国 の政情が不安定なのに乘して , 着々 と植民地化の準備を進めた。その帰 結が / 満州事変 ( 1931 ~ 32 ) であり , 満州国の建国であった 満州国は 1932 年 3 月 , 清朝の廃帝 溥儀さきの宣統帝 ) を執政とし , 祈京 ( 長春 ) を都として成立した。や がて全熱河省を含む領域も定まり , 34 年からは帝政が施行されたが , れはいわば日本の傀儡国家で , 軍 政各般にわたり日本が , とくに関東 軍が実権を握っていた。かくして「王 道楽 f-- 」の名のもとに全体主義的な 政治が行なわれ , 日本の軍需基地 , 前進基地とするための重工業建設が 進められ , 日本資本も導入され , ま た日本からの移民が奨励された。し かし , このかげで , 中国人 , 朝鮮人 による東北人民武装隊などが抗日闘 争を続けていた 日本の敗戦とともに満州国は崩壊 し , 満り、 l'l はソ連軍に占領され , 中共 軍に引き渡された。国共内戦の余波 は満り・ l'l にも及んだが , 解放軍はしだ いに優勢となり , 48 年 11 月には東北 人民政府が成立 , 中華人民共和国の 成立とともに , 満り・ l'l は完全に中国の 一部となり , 中国の「東北」部とし て経済建設が進められている。した がって今日 , 正式には「満州」とい う呼称はない。 〔山冂〕 まんじゅう饅頭蒸菓子の一種。 起原は中国三国時代の諸葛孔明呂 が遠征中 , 河川の風波を静めるため 犠牲の代わりに羊 , 豚の肉を小麦粉 に包んで水神に供したことにあると いう。したがって本来は肉まんしゅ うだが , あんいりのものは 14 世紀に 京胤の建仁寺の屯山神師が中国から 連れかえった宋人林浄因が , 奈良に 住んで塩瀬姓を名のりまんしゅうを 製したときはじめてつくった。その 後桃山 , 江戸時代初期茶道の隆盛期 をむかえて , 現行の形態を完成した まんしゅうを大別すると 2 種あり , ーは塩瀬の用いた薬 : まんしゅうで , 焼ミョウバン , 重ソウなどを原料と するイスパタで皮を製する方法であ り , 他は京都虎屋に発する酒まんし マン、ンユウ ゅうで , 甘酒の素に小麦粉を加え てわかせ , 皮をふくらす方法である。 江戸時代に至ってまんしゅうは諸国 に普及したが , 砂糖は高価な調味料 であったから , 貴人大名の間には用 いられていても , 一般庶民の間では もつばら塩あんが用いられ , いなか では明治時代までその風習はのこっ ていたと考えられる。加賀前田藩に は毎年旧暦 6 月 1 日 , 氷室を開き , 江戸幕府に天然氷を献上する行事が あったが , その日には藩士一同に氷 室まんしゅうを供した。それが塩あ んだったので , 金沢では現在でも 7 月 1 日に菓子屋が塩まんしゅうを製 して販売している。江戸末期以後 , 表皮にもあんにも種々のくふうか らされ , 皮にソバ粉を用いた「そば まんしゅう」 , 同しく皮にヤマノイ モをすりおろして加えた「薯蕷鬟よま んしゅう」があり , あんにもアズキ , 白アズキを用い こしあん , つぶし あん , 大納→ 新んのみつつ、けをカ日え た小倉れあんなどがある。〔富永〕 まんしゅうじへん満州事変 19 31 ~ 32 年にわたる日本の満州 ( 中国東 北地方 ) 侵略戦争。日本の満州経略は , 日露戦争以後南満州鉄道を中心とし て行なわれてきたが , 1928 年の張作 霖 3 ん爆死事変以後急速に高まった 中国の民族主義運動 , 排日連動によ って重大な脅威を受けるに至った。 おりから日本国内は世界大恐慌のた め窮乏と破たんにひんし , それを救 うためにも満蒙の危機が強調されて いた。そうした情勢にあせる / 関東 軍の将校たちは , 満州の政治的支配 を企て , それによって日本の権益を 安全ならしめるとともに , 満州をソ 連に対する軍事基地 , 中国革命抑圧 の拠点としようとした。 31 年 9 月 18 日 , 関東軍は奉天 ( 潘陽 ) 郊外の柳条 溝で満鉄線路の小爆破事件を起こし , これを中国の張学良軍の行為である として , ただちに全面的な軍事行動 を開始し , 現地に近い北大営兵営を 占領 , また満鉄沿線の中国軍兵営を 19 日はやくも奉天を占領 , 攻撃した。 また満鉄沿線を制圧した。 21 日在朝 鮮軍の 1 個旅団が軍司令官林銑十郎 の独断で満州に派遣され , 戦闘はた ちまち全満州にひろがった。ときの 若槻 ( 礼次郎 ) 内閣はとりあえす事 件の不拡大を声明したが , 現地の軍 部になんらの権威をももたなかった。 同時に事変は世界に衝撃を与え , 9 月 30 日国際連盟は事件の不拡大決議 を日本を含む全会一致で採択した しかし 1 ( ) 月 8 日 , 日本の錦州爆撃で 連盟の空気は硬化し , 11 月期限っき の日本軍撤退要求を採択し , 12 月英 人リットンを長とする調査団の派遣 を決議し , 32 年 1 月米国も , 日本軍 の満州における行動に対する不承認 の原則を宣言した。その間も日本軍 は軍事行動を進め , 31 年中に奉天 ,
ルーマニア ( 補 ) 元 は 1965 手に山・選された キプ・ストイカ幹部会 議 lk である。また 65 年 8 月新憲法を採択し , 国号をルーマニア社会 主義共和国と改称した 最近のルーマニアで 注目されるのは対ソ関 係で , 62 年ごろからし だいにルーマニア独自 の道を歩む傾向がみえ はじめ , 中ソ対立の激 化の中でこの傾向は強 まった。そしてソ連の 政策を全面的には支持 しなくなったが , かと いって中国派にも組し てはいない。 65 年 7 月 の党大会でも , う自主的な路線が確認 された。 であるが , 転して文学の一ジャンル として報告文学などと訳され , 同し 意味でルポルタージュ文学ともいう。 文学としてのルポルタージュは , 広 義では古くからあったと考えられる が , 現代的な意味でのルポルタージ ュは , 20 世紀になって発達した新聞 報道の側から起こり , もうーっはソ 連 , ドイツ , 米国の左翼文学運動の これらは相互に交 側から起こった。 流し合ってルポルタージュの流れを 形成しているとみられる。 こうした 歴史からルポルタージュはなまなま しい事件や歴史の激動期を報告 , 表 現する責務を当然負うことになるが , それをみごとに果たした古典的ルポ ルタージュは , 米国の新聞記者ジョ ード ( 1887 ~ 192 ( ) ) が十月革命 のロシアの鼓動を伝えたく世界をゆ るがした十日間 > ( 1919 ) である。米 国ではこの伝統が受け継がれ , 日華 事変にさいして中国紅軍の姿をいき いきととらえた E. スノー ( 1905 ~ のく中国の赤い星 > ( 1937 ) , A. スメ ー ( 1894 ~ 19 5 ( ) ) のく中国の戦い の歌 > ( 194 3 ) などの傑作を生んだ。 ソ連ではオーチェルク ( 記録文学 ) の 伝統の上に , エレンプルグ , ショ ロホフ , K. M . シーーモノフ ( 1915 ~ らの作家が第二次大戦の現地を探訪 し , 多くのルポルターージュを書いた ドイツではカロッサのくルーマニア 日言己〉 , L. レン ( 1889 ~ ) のく戦争 > ( 1928 ) , Th. プリビエ ( 1892 ~ 1955 ) のくスターリングラード〉 ( 1945 ) な 5 3 6 ト , イスラム教などがある 言五は 0 「 1 ロロ ロマンス語系のルーマニア語力 { 全国 的に通用している。 〔政治〕社会主義型の人民共和国で , 現行憲法は 1965 年に採択された。国 家権力の最高機関として一院制の大 国民議会がある。議員は 4 万人に 1 人の割合で選出され , 任期 4 年であ る。この大国民議会か国家評議会を 選出し , これが議会閉会中の職務を 代行する。したがって国家評議会議 長が元首。大国民議会は , 行政の執 行機関として閣僚会議も選出する。 国家評議会議長は閣僚会議を直接指 導する権限はもたない。政党は・共産 党 ( 書記長チャウシェスク ) だけで , 1921 年に結成され , 48 年に社会民主 党と合同して労働者党となっていた が , 65 年ルーマニア共産党となった 〔経済〕まだ遅れた農業国で , 人口 の 7 ( ) % が農民である。主要農産物は 小麦 , 大麦 , ライムギ , トウモロコ シ , タノヾコ , 亜麻などで , 牧畜も盛 んである。農業経営は集団農場方式 で , 1962 年 3 月に全耕地の集団化が 完了した。第二次大戦後工業の発展 も急速で , 6 ( ) 年の工業総生産高は 19 38 年の 5 倍となり , さらに 60 ~ 65 年 の六ヵ年計画では , 1959 年の 2 倍以 上に達した。 66 年から新五カ年計画 とエネルキ、一開発十ヵ年計画にとり くんでいる。貿易相手国はおおよそ ( 約 7 ( ) % まで ) がソ連をはじめとする 社会主義諸国で , 主要輸出品は , 穀 物 , 石油 , 木材 , 紙 , 農業機械 , 化 学製品などで , 輸入品のおもなもの としては , 金属類 , 食料品 , 繊維材 料 , 油脂 , 機械などがある。国内鉄 道の総延長は 1 川 0 ( ) km 。このほか国 内総延長 1 ( ) 75km のドナウ川は , 石汕 , 木材 , 金属 , 穀物などの運搬に重要 な役割を果たしている。黒海沿岸の コンスタンツア港は海運の中心、であ る。最近は航空路も発達し , プカレ スト空港からは , モスクワ , ワルシ ャワ , プラノ、 , プダベスト , ソフィア , ベルリンなどへ空路か・のびている。 〔社会・文化〕国民の生活様式は , 民族がラテン系にもかかわらす , 古 代からギリシア正教の影響を受け , スラブ的な色彩が濃い。なおルーマ ニアにおけるキ、リシア正教は , 1885 年ルーマニア正教としてコンスタン チノープル総大主教から独立した 教育は普及していて , 4 年 ( 地方 ) と 7 年 ( 都市 ) の義務教育があり , その 上に 4 年制の中等学校 , さらにその E に 4 ~ 6 年の大学 , 高等専門学校 がある。マスコミ機関も完全に党な いし国家の管轄下にあり , 新聞は労 働党機関紙のくスキンチャ〉が主要 紙である。通信社はアジェル・プレ スが唯一。ラジオは F M 放送や対外 放送も行なわれており , 1957 年から はテレビ放送も開始された。観光事 業も国営のカルバツィが一手に行な っている。旧王族の離宮の跡シナイ アや黒海沿岸の避暑地 , ワラキア地 方の中世セルビア建築の遺跡などは 観光客を誘致している。美術ではむ しろ中世の遺品にみるべきものが多 い。とくにトランシルバニア地方は , 他民族の侵入を受けた関係で , 13 世 紀から 17 , 18 世紀ころに建てられた ビサンチン様式と上俗様式の結合し た独特の木造家屋や小寺院が , 多数 散在する。なかでもプラショフの黒聖 堂は壮大なゴシック会堂で有名であ る。 19 世紀末の画家グリゴレスクは ノヾルビゾン派の流れをくみ , ルーマ ニア農村の風景を美しく表現した。 音楽ではスラブ系の色彩が強い。民 謡ではドイナス ( 哀歌 ) が代表的であ る。踊りではゆっくりした合唱の踊 りホラが有名。 〔相場・稲葉〕 どがあげられる。 〔遠藤〕 アレーマニア R u ma n i a 正称は lRepublica Socialistä R い minäo 東 欧のバルカン半島の北東部に位置す る社会主義共和国。面積 2375 ( ) ( ) km2 , 人口 18813 ( ) ( ) ( ) ( 196 は ) 。首者にはプカレ スト ( プクレシュチ ) 。黒海西岸にあ り , 北はソ連のウクライナ , 北西か ら南部にかけてハンガリー , ューゴ , プルガリアと国境を接する。カルバ ート山脈が北部地方を南北に走り ( 国上の % を占める ) , これら山脈の 北部 , 西部 , 東部にかけてトランシ ルバニア , ワラキアの両平原が開け , 南部国境をドナウ川が流れている。 気候は北東部のモルダビア地方 , 南 東部のワラキア地方は大陸性で寒暑 がきびしいが , 中央部のトランシル ノヾニア地方は比較的温暖である。天 然資源の埋蔵は多く , 石油 , 天然力、、 ス , マンがン , ポーキサイト , 石炭 , 岩塩 , ー鉄などを産する。とくに石油 の埋蔵量は世界で 11 位 , 欧州ではソ 連に次いで 2 位である。 〔住民〕大部分がラテン系のルーマ ニア人 ( 85. 7 % ) で , 他にマジャール 人 ( 9. 08 % ) をはしめ , ドイツ人 , プ ルガリア人 , チェク人 , ユダヤ人 , セ ルビア人などか・いる。宗教は . ルーマ ニア正教が 80 % を占め , ほかにギリ シア正教 , カトリック , プロテスタン 〔歴史〕古くはダキアとよばれロー マ帝国の支配下にあったが , 古来ゴ ト , フン , アノヾール , スラブなど 多くの異民族の影響をうけてきた。 13 ( ) 0 年ごろあいついでワラキア , モ ルダビア両侯国がこの地に創設され , それぞれ別の発展をたどった。 14 世 紀後半からこの地方はトルコ民族の 侵略に対する欧州の防波堤として役 だったが , 15 ~ 16 世紀に両イ応国は侯 位の保証とキリスト教徒としての信 仰の自由などを条件としてトルコの 宗主権下にはいり , 以来侯位継承制 度や複雑な国際紛争に巻きこまれた。 とくに 18 世紀後半から国内で民族意 識が高揚する反面 , ロシアがギリシ ア正教擁護の名目で南下をはかり , 国内紛争はしばしばロシアとトルコ 間の係争に発展した。 1848 年政治的 自由を要求して革命運動が国内各地 に起こったカゞ , ロシアとトノレコの共 同のカで鎮圧された。クリミア戦争 のあと始末のために開かれた / ヾリ会 議で , 南下するロシア勢力に備える ため両侯国の統合案が出されたが , これに基つ、、て 1859 年 A. J . クーサを 大侯とするルーマニア侯国が発足し た。その後露土戦争を利用して 77 年 カロル 1 ・世はルーマニアの完全イ虫立 ベルリン会議で列国の承 を宣言し , 認をうけ , 81 年ルーマニア侯国は王 国になった。このころ農地問題やそ れと関連するユダヤ人問題などをめ ぐって内政はしばしば動揺するが , 経済的には金本位制の採用 , 外資の 導入などを通して近代産業の振興が はかられ , 学芸も発展した。第一次 大戦にさいしてはルーヤニアははし め中立を守っていたが , 1916 年連合 国側について参戦したのでドイツ , オーストリア , プノレがリア軍のため にほとんど全国を占領されたが , 戦 争は連合国側の勝利に終わったので , ルーマニアはノ、リ平和会議でトラン シルノヾニア , ノヾナト , プコビナ , ド プルジャ , べッサラビア -. 領有を認 められて大王国として再建された。