6 1 5 帝国として 1453 年まで存続した。ロ 民の身分の別とそれぞれの職能を定 に , 伝説的な王や英雄であるアイネ ーマの理念は帝国滅亡後も永続し , めた。アントニウスとの戦いで彼を アス , ・、ノレクレス , ロム ) レスとレム ス ( ローマ市の建設者 ) , カストルと 支持したローマ市民団の意義を重視 西方では神聖ローマ帝国に , 東方で は「第 3 のローマ」モスクワにまで し , ローマ市民権の賦与にさいして ポルクスなどがある。 こうしてギリ は慎重な態度をとった。彼は属州統 受け継がれた。 シア神話はヘレニズム世界とローマ 治を改善し , 対外的には守りを固め においてその畯厳んさを失いロマ 社会経済の上では , 元首制期には ンス的性質を帯び , 中世をへて近世 る方針をとった。彼の死後 , チベリ 奴隸制が袞退して小作制が普及した ウス , カリグラ , クラウジウス , ネ が , 専制君主制期には土地に束縛さ 初めから古典主義時代においてつい れた小作農 ( コロヌス ) が主要な直接 に文芸の装飾となり終わったが , し ロと , 彼の一門ュリウスゞクラウジ かしこのいわゆる「ギリシア・ローマ ウス氏族のものが元首の地位を継い 生産者となり , 自然経済の色彩が濃 くなった。官僚と軍隊を維持するた 神話」はその日常生活に深く浸透し だ。ネ口が倒されて内乱のあとに登 め税が重くなり , そのため都市の中 場するのカ { ウェスノヾシアヌスであり , て常識とさえなっていった。〔高津〕 彼とチッスとドミチアヌスの 3 代は 流市民が没落していき , 彼らは文化 ローマの文学 の維持者であったから , 帝政末期に 前 240 年ごろから後 524 年まで約 フラウイウス氏族の皇帝が立った。 750 年余の間にラテン語で書かれた は古典文化も袞退の道をたどった。 次のネルウア , トラヤヌス , ノ、ドリ ローマは法律や公共建築を別とすれ 文学がローマ文学である。ローマ文 アヌス , アントニヌス・ピウス , マ ば文化的にはギリシアの亜流である 学は前 3 世紀後半にリウイウス・ア ルクス・アウレリウスの五賢帝の が , 大帝国を建設し , すぐれた文化 ンドロニクスによってギリシアの詩 時代に , 帝国は最盛期を迎える。ト を継受して欧州に普及させ , 欧州文 や劇が翻訳されてから始まった。詩 ラヤヌスのときに帝国の領域は最大 人ホラチウスが「完ぺきの手本を求 となり , このころまでに「ローマの 化の形成に大きな役割を果たしたこ 〔高橋 ) める者は夜も昼もたゆみなくギリシ 平和」の下で , 国内には都市が発達 とは特筆にあたいする。 アの作品を読め」といっているよう ローマの神話 し , 経済も文化も活況を呈した。マ に , 彼らはギリシアに傾倒し模倣し ローマの神々はもとは , 戦争 , 農 ルクス・アウレリウスの子コンモド 耕 , 門 , 結婚 , 出産 , 天空現象 , か て文学を発達させたのであり , 最後 ウスの失政のあとの内乱を通してセ まど , 泉 , 地所の境界などのこまか プチミウス・セウェノレスカ { 帝位につ までその影響からのがれられなかっ た。元来ローマ人は実用的 , 政治的 , い職能をもち , ギリシアの神々のよ き , セウェルス家の統治を始める。 軍事的 , 組織的な民族で , 文学的創 うに人格化されていなかった。しか その子力ラカラはアントニヌス勅令 造力が乏しく , 芸術的資質に欠け , ( 212 ) で帝国内のすべての自由民に し古くはエトルリア人の , 前 3 世紀 ホメロスよりもローマ法の源流とな 以後は南イタリアのギリシア都市か ローマ市民権を与えたが , これは往 ったく十二表法 > を規範とした民族 時のローマ市民団が有名無実になっ らの影響でギリシアの神々との同一 であった。しかし彼らはギリシア的 たことを示すものであり , 共和制の 視が行なわれるようになった。 理念を実生活に応用し全世界に伝え 伝統や元老院の権威が失われるとと から神々のギリシアとローマとの 2 重の名が生したのである ( ギリシア たのである。ローマ文学の歴史はだ もに元首制の特質も希薄になる。 235 の項の神話の章参照のこと ) 。そし いたい 7 期に分けられる。 1 ) ドラマ 年にセウェルス・アレクサンデル帝 が殺され , いわゆる「軍人皇帝」時 の時代 ( 前 3 世紀末 ~ 前 2 世紀前半 ) て神格の同一視によってギリシア 代が始まる。帝国各地の軍隊がかっ 第 2 次ポエニ戦争を中心とした時代 の神々の物語はそのままローマの神 てに皇帝を廃立し , 外からはベルシ 神に引き継がれ , ローマ固有の物語 で , 初期にはプラウッス , テレンチ ウスらの偉大な喜劇作家が出た。ま もまたギリシアと関係づけられるに アやゲルマン人の侵入に悩まされ , いたった。なお , ローマ神話固有の たローマ詩の父といわれるエンニウ 内外の困難を通して国家と社会とに 名高い神格をあげると , 門と戦争の ス , サトウラといわれる詩体を創始 動揺がもたらされた。 したルキリウス , ストア哲学者パナ 〔専制君主制〕ディオクレチアヌス 神ヤヌス , 春の開花の女神フロラ , 死者の霊マネス , 本来は豊作と多産 ェチウスが活躍した。 2 ) 後期共和制 帝 ( 在位 284 ~ 305 ) は動乱に終止符を 時代またはキケロの時代 ( 前 1 世紀 の女神だが , 運命の女神としてのち 打って秩序の再建に努めた。帝は東 方風の儀札を採用し , 帝権の神聖を にギリシアのテイケと同一視された 前半 ) 次期とともにローマ文学の黄 フォルツナなどがある。また本来人 強調し , 経済生活にも統制をはどこ 金時代である。弁論や演説が盛んに 間であるが神として崇拝されたもの し , 古典古代的な自由からは遠く隔 なり / キケロによって古典文体にま たる国家体制を築いた。次いでコン スタンチヌス帝 ( 在位 306 ~ 337 ) は都 プ - 第一次ポエニ戦争のはじめ ( 前 264 年 ) をコンスタンチノープルに移し , 文 第 2 次ポエニ戦争ののち ( 前 2 田年 ) タロ、イニウム トイト 0 ( ロンドン ) 前ロ 3 年まで 武官制を一新して東洋風の官僚制を 4 年まで ベルギヌト、 確立し , 職業や身分の固定によって , ルテチアいり ) スゲル、一マ ニア そののち 帝国の維持をはかった。 , うして口 ルグ・ネンシスカタラウメム、イ サルマチア ーマは , 共和制と元首制との展開の ノリクム ポスポロス王国、カウカソス ラエチア ダキア アキタニア あとで , 東洋諸国にみられるような 海はフカズ ) 山脈 アル 専制君主制に到達した。なおコンス ル ネ % 、山 タンチヌスはキリスト教を公認して モェシ ム ド マ ポ , トスプル ァ トラキア、つン ア . キリスト教ョーロッ / ヾ形成の基礎を シカ ビチニア ケ・、弌・ベルカ午ン すえた。 375 年ごろからはゲルマン ネアポリス カッパドキアソ . 、工、アシア ( ナポリ ) 民族大移動の波が帝国に押し寄せた。 サルジ 、一工工、 / ス 395 年にテオドシウス 1 世カ { 死んで , カルタゴ コリントスアテネ海 . 4 その 2 子がそれぞれ帝国の東部と西 、ン ダマスクス キプロス ミジア 部との統治者となると , 以後両者が クレタ 海パレスチナ 0 ア 統合されることはなかった。 / 西口 工ルサレム アレクサンドリア ア ーマ帝国はゲルマン諸民族の侵入を ア ラ 受けて解体過程をたどり 476 年に滅 エジプ ビ 古代ローマの発展 ア びたが東ローマ帝国は / ビザンチン カ フ、 タ ラ イスパニアン ルシタニ / ノ ' ース ムンダ ( カジス ) レ シラクザ パルチア シチリア キレネ キレナイカ リ カ
で完成された。ギリシア的教養は支 配階級にひろがり , ルクレチウス , カツルスらの詩人が輩出した。 3 ) ア ウグスッス時代 ( 前 1 世紀後半 ~ 1 世紀初頭 ) この時代に芸術的 , 技 巧的な表現の美しさが完成された。 歴史家リウイウス , 詩人 / ホラチウ ス , / ウェルギリウス , ややおくれ て / オウィジウスらがぞくぞくと現 われた。 4 ) アウグスッス以後の時代 ( 1 世紀 ) 前時代に続いて「銀の時 代」にはいる。弁論とストア哲学が 一般化し , 文体は簡潔明快 , 人工的 表現がもてはやされた。哲人 / セネ カ , 弁論家大ブリニウス , 小プリ ウス ( / プリニウス ) , 教育学者クイ ンチリアヌスなどが出た。 5 ) 「銀の 時代」の最盛期 ( 2 世紀前半 ) 偉大 なる歴史家 / タキッス , 独自の風刺 詩ュウエナリス , 小説家ベトロニ ウスらが活躍した。 6 ) 新しいことば の時代 ( 2 世紀後半 ~ 3 世紀 ) キケ ロの古典的ラテン語と植民語 , 俗語 , 方言を結合して新しい言語が生まれ た。小説家 / アプレイウスはこれを 駆使してく黄金のロバ > を書いた はかにキリスト教作家ミヌキウス・ フェリックス , テルツリアヌスか、新 しいことばを用いて書いた。 7 ) 教父 時代 ( 4 ~ 5 世紀 ) キリスト教が公 認され , 文学上も教父たちが活躍し た。聖 / アウグスチヌス , 詩人プル デンチウス , 哲学者で歴史家のポエ チウスらが輩出した。 〔久保〕 ローマの美術 ローマの美術は , 建築遺構も彫刻 遺品もアウグスッスのころより前に さかのは、れす , 共和制時代までは明 ただ / ポンべイの遺跡な 白でない。 どから , 紀元前後 , ひいて共和制末 期の美術は / ヘレニズムのそれであ ったことカ { 推察される。たとえば当 時のローマ絵画はヘレニズム絵画と 切り放すことはできない。帝政期以 後においても , ギリシア美術の影響 は圧倒的であり , ギリシアの模倣が しばしばローマ美術の中核をなした が , 他方 , 現世的 , 写実的傾向の強 い / ェトルリアの美術やイタリア土 着の伝統をも受け継ぎ , ローマ特有 の精力的な創造活動を行なったこと も忘れてはならない。そしてローマ 人は , 芸術的天分では劣るが , ギリ シアの理想主義的美術とは別個の , 実証的 , 現実的 , 描写的な美術をう ちたてたといえる。 彼らは , しばしば神殿や邸宅に壁 画を用いたが , その主題には公的に せよ , 私的にせよ , 歴史的事件や日 常生活を記録することを好んだ。神 話を扱う場合でもこれを彼らの日常 生活の中に具体化した。さらに独立 した風俗画が現われ , 花鳥 , 風景が 描かれる。またローマ人は彫刻にお いて , 肖像彫刻を愛した。キ、リシア 美術におけるような神像彫刻の理想 6 1 6 性に対する肖像描写の現実性 , ある いはその背後の精神である偉大な個 人への礼賛は , ヘレニスチック期以 上に著しい。ローマ人の残した大建 築をみても , ギリシアの神殿建築の 形式を採用しつつ , これにアーチ , ドームなどを複合せしめ , あるいは 精力的な装飾性を与えたり前面柱列 の奧行を増すなど , 各種の手段によ って , キ、リシア神殿の古典的な優雅 さとはまったく異質の , 重量感にみ ちた建築を生みだした。これには石 材 ( 大理石 ) のほかに , レンガや , セ メントを使用したこともあすかって いる。これらの材料を駆使したロー マ人の技術的才能 , 上木建築におけ る活動力は , フォルムやノヾジリカ , 各種のテルメ ( 大浴場 ) , 円形劇場 , 水道橋などとなって現われている。 なお , ' ローマ帝国の美術はきわめて 広範囲に及は、された。彼らの軍事的 , 政治的勢力圏の内部で , いたるとこ ろに彼らの創造活動が行なわれ , 各 地の土着の芸術の要素と混在しつつ ローマ化を推進していった。 アウグスッス時代はギリシア化が 頂点に達したときだが , ネロ帝から トラヤヌス帝時代に至る間は , ギリ シア化の精神とローマ土着の精神の 融合の時期であった。建築と絵画が この時期の主要な部門であり , フラ ウイウスの円形劇場 , トラヤヌス帝 の記念柱や大浴場など , ギリシア建 築に対立する独自なローマ建築の構 想が成立する。絵画においては , の時期になると前期の冷たい彫刻的 な輪郭線をはなれ , 手早い筆 , 印象 派風の筆致 , 幻想的な情景などによ って , 豊かな生命にあふれる世界が 描かれる。こでは , 個々の人物の 端正さ , 優雅さよりも , 全体的情景 の生命感が尊重されるのであって , これは / 凱旋門や記念柱などの浮 彫りにおいても , 同様な印象主義的 様式を完成せしめている。ハドリア ヌス帝以後のローマ美術は , 帝国の 弱体化 , とくに首都ローマの勢力が しだいに袞え , むしろ各地方での文 化交流が高まる。一方ではギリシア 化がふたたび行なわれ , 同時に東方 的なものの流入がしだいに盛んとな り , 古代文化の没落と中世の発端と がみちびかれる。しかし , ローマの / / ヾンテオン , ハドリアヌス帝の廟よ など多くの主要なモニュメントが建 築されている。また , ガリア , ある いは東方において , 彫刻 , 壁画など 多くの遺品が残るのもこの時期であ る。ディオクレチアヌス帝以後 , い わゆる古代末期は , 急速に成長しっ つある中世的感覚 , とくに東方的影 響と古代の相克と折衷のもとに展開 する。同しコンスタンチヌス帝の肖 像のなかにも古典的形式の残存する ものと , 新しい精神によって作られ たものとを指摘することができる。 また , コンスタンチヌス凱碇門は , しだいに倍加する東方性を証明して いる。左右相称的な , 奧行をしだい に排除するこの傾向は , やがて中世 が勝利をしめることを示すものであ ろう。 / ( 別刷 ) 口一マ〔中山〕 ローマ Roma 英語では R ( ) me 。 イタリアの首都。イタリア半島中部 , チレニア海岸から 24km のところに位 置する。人口 2278882 ( 1962 ) 。 ローマは古代ローマおよびキリス ト教の中心として長い歴史をもった め , 「永遠の都」とよばれている。 市の北西隅の / バチカン市国には , 全世界カトリック教徒の精神的元首 であるローマ法工カ { いる。気候は温 和で日光に恵まれ , 日中と夜間の寒 暖の差は激しい。冬は暖かい ( 1 月の 平均気温 7. ( ) ℃ , 降雪はきわめてまれ ) が , 夏はひしように暑く ( 7 月 24.6 ℃ ) , 乾燥する。市街はテべレ川の両岸に またがり , 中心は左 ( 東 ) 岸にある。 右岸はノヾチカン市国と , 住宅地区 , 工場地区になっている。最初に定住 が行なわれた「七つの丘」は左岸に あって , は : ま中央にノヾラチノの - 丘 , その北西にカピトリノの丘 , 他の五 つがそのまわりに半円形をなす。古 代ローマの首都を守るために築かれ たかっての城壁か、今も約 16km にわた って残っており , その外に発展した新 市街とは城門で連絡している。道はべ ネチア広場 , ポポロ広場 , レププリカ 広場などの広場を中心に放射状に走 り , 広場にはしばしば彫刻を配した 噴水がある。政治の中心、はキリナレ の丘で , 大統領官邸 ( 旧宮殿 ) があり 近くには国会議事堂がある。市長官 邸はカピトリノの丘にあり , この丘 の下にムソリ ニが政治をとったべ ネチア宮殿がある。ローマにおける 文化活動の中心は 1935 年完全に再建 されたローマ大学 ( 1303 創立 ) で , ほ かに各国のアカデミーをはしめ多く の科学 , 芸術関係研究機関がある。 ローマでとくに目だつのは宗教大学 で , 全世界からカトリック聖職者が 留学する。もっとも有名なのはグレ ゴリアナ大学である。図書館や博物 館には , 写本の収集があり , すぐれ た美術品が保存されている。バチカ ン図書館はもっとも有名である。 チカン美術館 , ポルゲーゼ美術館な ど美術館も多い。市の内外にみられ る古代ローマ時代の遺跡や , 各所に 収蔵されている美術品は観光客の目 をひくに十分であり , 事実観光は市 の財政の大きな部分を占めている。 しかし 1920 年代以後ローマは商工業 の中心としても大きく発展した。織 物 , 薬品 , 食品などの軽工業のほか , 特記すべきものは印刷と映画産業で , ローマ郊外にある映画都市チネチッ タは有名である。また , 鉄道と道路 が集中し , ローマ終着駅 ( テルミ 駅 ) は , 北イタリアと南イタリアを結
ぶ重要な駅。南東にチアンピーノ空 港 , 西方にレオナルド・ダ・ビンチ 空 : 巷がある。 〔歴史〕ローマの最初の住民はアル ノヾ・ロンがからきたラテン人の一派 だったようで前約 9 ( ) 0 年ごろ / ヾラチ ノの丘に住みつき , その後まもなく , サビニ人がキリナレとエスキリノの 丘に住むようになったらしい。伝説 によると市は前 753 年に建設され , 前 509 年まで王政が続き , 最初の王ロム ルス以降王位は 7 代を数えたという。 宗教的 , 芸術的影響からみて , 王政 末期ころのローマは , 工トルリア人 の王をいただいていたらしい。 この 時期にギリシア文字とギリシア芸術 カ { はいってきている。前 6 ・世紀末に ェトルリア人から独立して共和制を 開き , ラテン諸市の盟主となり , ガ リア人の侵入に耐えたすえ ( 前 390 ) , 前 272 年にははばイタリア全土を征服 した。以後 , 共和制 , 帝政時代を通して ローマの首都として発展し , 人口も帝 政時代には 1()() 万 ~ 120 万に達した。 の時代までの建造物で特記すべきも のは , ます力・リア人のイ受入後に造られ たセノレウイウスの城壁がある。また王 政 , 共和制の時代の遺物として , 死刑 囚を突き落としたタルべイウスの岩や ウェスタの神殿 ( フォルムすなわち市 場の中にある ) があげられる。もっと も古い建造物がエトルリア人の影響 を物語っているのに , 共和制最後の 200 年間に建てられたものには , ひし ようにすぐれたギリシアのデザイン がみられる。しかし , 「レンガ造」の ローマが大理石の都市に変わったの は , アウグスッスの時代であり , コ ロセウムをはじめ重要な記念物や建 築は帝政期のものである。 4 世紀にはいって帝国が東西に分 裂し , ・西帝国の首都もミラノやラベ ンナに移されると , ローマはしだい にさびれ , 西帝国の崩壊 ( 476 ) ののち , あらゆる方面から押し寄せるゲルマ ン諸民族によって荒略され , 6 世紀 ゴート人の侵入後 , ローマは人口も 2 , 3 万に減少 , ー小村になってしま しかしこの間にローマ司教は った。 法王としての精神的権威を帯びるよ うになり , 8 世紀にはフランク王ピ ピンから中部イタリアに法王領の寄 進を受け , 800 年には法王レオ 3 世 はカール大帝に帝冠を授けた。 つ してローマは西欧における聖界の首 都としての地位を確立するに至った。 ローマにおける法王の俗権に対して は貴族をも含めた反法王派が敵対し たが , 法王インノケンチウス 3 世 ( 在 位 1198 ~ 1216 ) のとき , 市の行政も法 王の監督下におかれた。 14 世紀に法 王がアビニョンに移されたとき , 護 民官コラ・ディ・リエンチが一時市 を統治した ( 1347 ) が , 1377 年法王の ローマ復帰後その支配が回復され , 15 世紀にはイタリア・ルネサンスの 6 2 1 ー中心となり , 新しい教会や記念碑 が多く建設された。 16 世紀前半のイ タリア戦争にさいし , カール 5 世の 軍隊によって「ローマの荒略」とし て知られる略奪を受けた ( 1527 ) が , 16 世紀には巨大なバロックの宮殿や 教会が建てられている。 18 世紀末 , ナポレオンのフランス軍の圧力のも とにローマ共和国が形成されたが , ナポレオンの没落後 , 法王の支配が 復活 , 1848 年のイタリア独立戦争の結 果 , 翌 49 年マッチーニを精神的指導 者に新しいローマ共和国が樹立され 70 たがフランスの干渉で崩壊した 年イタリア統一の完成後ついにロー マはイタリアの首都となった。以来 , 市の人口は 71 年に 244484 人であった のカ { , 1901 年 424943 人 , さらに 21 年 663848 人と著しく増加している。イ タリア政府と法王との対立は , 29 年 の政教条約でバチカン市国が設けら れることによって解決し , 第二次大 戦では戦災を受けたが微少ですんだ ローマを近代化し改造しようとす る最初の計画は , 法王ュリウス 2 世 によるテべレ川両岸低地の拡張であ った。またシクスッス 5 世は , とく にシスチナ通りをつくって市の高台 を発展させ , さらに最近になっては , ピウス 9 世のとき , メロデ猊下いに よって市の改造計画がたてられたが , ローマを大きく変容させたのは , 新 しく首都になってからの人口増加で ある。まず水害を防ぐため , テべレ 川に堤防ができ , 次にナチョナレ通 り , カプール通りなど , 多くの新し い道がしかれた。その結果 , ローマ は新旧二つの部分にはっきりと分か れている。 1911 年にはビラ・ポノレゲ ーゼに動物園ができ , その東にはポ ルゲーゼ美術館 , 西には近代美術館 が開かれた。 1888 年ころ始まった近 代建築で重要なのは , ビットリオ・ エマヌエレ 2 世記念碑 , 裁判所 , 総 合病院などで , この病院は欧州でも もっとも美しいものの一つである。 テべレ川に沿った道や , 中心部の古 くて狭い街路はことわざになってい るくらいで , 自動車その他の交通は かなり困難をきたしている。ファシ ズムの時代 1931 年 , 郊外へ約 90km2 も拡張し , 同時に市の中心を整備す る新しい計画がたてられた。またフ ォロ・ムソリ ニ ( 現在のフォロ・イ タリコ ) , 大学街などのような , 多く の重要な建造物ができ , 古いローマ では多くの発掘が行なわれて , 古代 の神殿や記念物が日の目をみるよう になった。フォロ・ロマノを整備し たのも , ムソリーニのときである。 戦後はヒめて , ローマ終着駅とサン・ / ヾオロ・フォリ・レ・ムラを結地 下鉄が通し , またオリンピックを機 会に新しい道や区が誕生した。 / ( 別 刷 ) ローマ / 別欄「ローマめぐり」 ( 622 ~ 623 べージ ) 〔 G. K. ヒ。オペサナ〕 ローマカトリック / カトリック ローマじローマ字ふつう現代 英語のアルファベット 26 字をさす。 ローマ時代に JUW 以外の大文字 23 字がそろったのでローマ字とよばれ る。中世以後 , 西欧諸民族の手で現 行の形に完成された。ラテン字 , 英 字 , 洋字 , A B C ともいう。また の文字による日本語表記をさすこと も多い。原理的には 1 字が 1 音素を 示す表音 ( 単音 ) 文字であるが , 音声 記号とは異なり , つねにある程度の 発音との不一致 , 意味による使分け を伴ってかならすしも表音一点ばり ではない。またラテン語と音韻組織 の異なる多くの言語にひろまるにつ れて読みかえ ( 同字別音 ) , 組文字 ( th, s c h など ) , 変音符 ( ・ ~ など ) , 合字 ( 田 , ßなど ) , 新字 ( 0 など ) が生まれ , 国際的にはかなり複雑な 用法をもつが , もっとも洗練された 合理性を備え , 近代文明の主流をな した諸国で用いられたためにはとん ど全世界に普及し , すでに国際的共 通文字の地位を占めている。 / 文字 〔ローマ字化〕ソ連領内の諸民族が いちどローマ字を採用しながらまも なく口シア文字に切り換えたのを除 けば , 大多数の国の文字改良はロー マ字の全面的または部分的採用を目 標としている。トルコでは 1928 年ケ マル大統領の強力な指導によってわ すか半年の間に 1000 年の歴史をもつ アラビア文字からローマ字への切換 えに成功した。国家の近代化 , とく に信教の自由化政策の一環として行 なわれたこと , 国民の 9 ( ) % カ { 文盲で しかも重要な古典が少なく , 切換え による混乱が小範囲にとどまったこ となどが成功のおもな理由と考えら れる。中国では清朝末期以来の表音 化運動 , とくに 1929 年からのラテン 化新文字を土台として 58 年に国定ロ ーマ字 ( 漢語表音法 ) が制定され急速 ただし当面の目標はこ に普及した。 れをふりがなとして用い , 大幅な略 字の採用とあいまって北京語の普及 と文盲退治に役だたせることにあり , ローマ字化の大目標は既定のことで はあるが , その時期と方法は将来の 問題として保留されている。このた め小学校でも最初の 26 時間をローマ 字にあてて以後の漢字教育の能率化 を助け , 成人教育や辞書にもローマ 字注音方式が用いられる。なおロー マ字電報もすでに実用化されるに至 った。 / 漢字 〔日本ローマ字史〕 1 ) 第 1 期最初 にローマ字を日本に伝えたのは 16 世 紀末渡来したポルトガルの宣教師で , 1591 年のく聖徒伝〉をはしめ天草本 く平家物語 > ( 1592 ) などのローマ字 本が彼らの手で出版された。ただし これがどの程度日本人に読まれたか は明らかでなく , またやがて鎖国と なったため後に影響を残さなかった。
ローマめぐり 前 244 年までに半島南半部に達した。写真にはその石畳と両側に墓が見える がのびた。アッピア街道は前 3 12 年ローマからカプアまでつくられ , その後 , ローマ郊外のアッピア街道。ローマ勢力の四方への進出とともに軍用道路網 ローマ北西郊にあるオリンピック・スタジアム。 1960 年の第 17 回オリンヒ。ッ ク大会のためにつくられた。 A. ビテロッチの設計で , 10 万人の観客を収容で きる。 こでオリンヒ。ック開会式 , 閉会式が行なわれ , 陸上競技が競われた ローマはふつう古代の遺跡でもって代表され る。しかしそれはローマのすべてを物語ってい るわけではない。事実ローマには , 古代のほか に中世が , 近世が , そして現代が , あたかも厚 いしゅうたんをあやどる糸のように密集し重な り合っている。したがって , はしめてそこを訪 れる人にはあまりに目まぐるしく語りかけてき て , シエナゃべネチアの町で経験するような落 ち着いたふんい気にひたることはむすかしい。 しかしゆっくりと腰をすえて滞在するならば , 1 大理 . 石スタジアム。 2 オリンヒ。ック・スタジアム。 これほど見るものの豊富で味わいのある町は世 界に類がない。ゴンツクの時代を除くならば , その他の時代の遺物はすべてそろっている。 こにこそローマが「永遠の都」「世界の都」と よびならわされ , 各国が , あたかも泉のはとり に集まるように きそってこの地にアカデミ を設け . 日本もおくればせながらその仲間入り をしたゆえんがある。 古代ローマの遺跡としては , ます町の中央に フォロ・ロマノ ( フォノレム・ロマヌム ) がある。 3 水上競技場。 4 テニス場。 5 国立競技場。 6 近代美 術館。 7 ポルゲーゼ美術館。 8 トリニタ・ディ・モンティ聖堂。 9 アウグスッス ( オクタウィアヌス ) 帝廟。 1 0 サンタンジェロ城。 1 1 , 1 2 博物館 , 図書館。 1 3 サン・ヒ。工トロ聖堂。バチカン政庁。 1 5 パンテオン。ト . レビの噴水。 1 7 テルメ国立博物館。サンタ・マリア・マジョーレ聖堂。 1 9 ローマ終着駅。 20 サン・ロレン ツオ・フォリ・レ・ムラ聖堂。 2 1 ビットリオ・エマヌエレ 2 世記念碑 , カピトリノ博物館。 22 ノヾラツツォ ファルネーゼ。 23 サンタ・マリア・イン・トラステーくレ聖堂。 24 コロセウム。 25 コンス・タンチヌス剴し旋門。 ・イン・ラテラノ聖堂。 27 カラカラ帝浴場 . 。 28 フォロ・ロマノ 26 サン・ジョ′ヾン 、ブオ・ロノタリコイ りン它↓ク村、 い三一ビ・グロリ ・・第。 : をビラ・サポイア / ま舅いモンテい マリオ 亠■ ~ ーバカ冫市国 コ : 、ノ、ンフィリしイ - ビラ・ドリア・ : 了ッ午トニ広場 動物園ら ビラ・ポルゲーゼ 03 ア ポポロ広場・ : : ゞ :. ナポナ広場 ま、エネキリ - / の年 00 を「 / : 。アベンチ / 「の丘・ 、ツヾラチノ : : 25 つ理 8 . 、 : 至アッピア街道 20 プ ( ! 学 チッス帝 ( 在位 79 ~ 81 ) とセプチミウス・セウェル ス帝 ( 在位 193 ~ 211 ) との二つの門をそれぞれ両 翼に控えたこの一画は , 古代ローマの政治的中 心としてにぎわいをみせたところである。歴代 皇帝がみずからの権力と栄光を誇示して思い思 いに飾りたてたので , さまざまの時代の神殿 , バジリカ , 記念碑などがきびすを接して重なり 合うこととなった。その建物のはとんどは今は 廃虚と化しているが , それでも当時の繁栄の様 を十分にしのばせてくれる。 フォロ・ロマノから小道をたどると , 広大な ノヾラチノの丘の上に出るが , ここはローマ発祥 の地として知られるところである。その後 , 帝 政時代には代々の皇帝の住居となり , その丘の 全面が広壮な邸宅でおおわれることとなった。 その大部分は失われたが , それでも累々と積み 重なるレンが構築は , 現代の米国文明をしのば せるほどの巨大なスケールと機能性を示している。 フォロ・ロマノが手狭になると , 各皇帝はそ の近くに別個のフォルムを築いて要求を満たし たが , それらの遺跡でとくに注目されるのはト ラヤヌス帝 ( 在位 98 ~ 117 ) の記念柱である。ト ラヤヌス帝の戦勝を表わす表面の浮彫りはロー マ彫刻の傑作に数えられるものである。有名な コロセウム ( コロセオ ) やコンスタンチヌス帝 ( 在 位 306 ~ 337 ) の門もここからほど近い。 この凱 旋門は , マクセンチウスとの戦いにおけるコン スタンチヌス帝の勝利を記念して , 元老院と市 民が皇帝に献したもので , 古代の終局と中世の 到来を示す雄大で華麗な記念碑である。コロセ ウムは , ウェスノヾシアヌス帝 ( 在位 67 ~ 79 ) によ って起工され , チッス帝のときに完成されたも ので , 外壁の高さ約 50 m , だ円形のプランの長 径は 188 m で , 約 5 万人を収容した。内部に立 っと , エジプトのピラミッドから受けるのとは また異質な巨大感に襲われる。空間を実体とし てとり入れるこのローマ建築の特質は , / ヾンテ オンにおいて一段とみごとに結品している。円 巨大さによって目をみはらせる。 タンジェロ城などはいずれもその古代的規模の ドリアヌス帝 ( 在位 117 ~ 138 ) の窮であったサン その他カラカラ帝 ( 在位 211 ~ 217 ) の浴場や , の精神的持質を遺憾なく発揮したものである。 るといった単純で雄大な構想は , 古代ローマ人 をのせ , その中央にただーっ円形の天窓をつけ 形の建物で , 堂の内径と同し高さの半球ドーム
. きとー 4 3 民を ローマの栄光ど改宗 トラヤヌス記念柱の浮彫り・部分 け 6 頃 上左工トルリア彫刻の特徴に通 しるものをもっているが , 一方、 ローマ共和政治の典型的性格 , 悲 劇的で哲学的な風貌をうかがわせ る顔である。写実の力強さは , マ ルクス・アウレリウス像に劣らな い , 上右凱旋門と記念円柱は、 ローマの勝利と栄光の記念である したがって一面に記録的浮彫りで 埋められた。この円柱もダキア遠 征の諸情景をらせん環状式に図巻 として彫りこんでいる。 記念浮彫りはその性質上 . ともす れは物語の類型におちいりやすい このトラヤヌス帝記念柱 , チ ッス門のそれなどは力強い動感に あふれる群像をよくとらえている 下巻毛のかつば頭とひけによっ て、一見してローマ人と知られる 顔をもつキリストが , 中央に現わ されているこコンスタンチヌスー 世のミラノ勅令 ( 3 1 3 ) 以前 , カタコ ンべの中でキリストはすでにロー マ人のものになっていたのである カリスッスのカタコンべにある浮彫り 2 ~ 3 世紀
ビットリオ・エマヌエレ幻世言己念碑は 1885 ~ 19 1 1 年に G. サ ニによってつくられた。イタリア統・・を完成したビッ コ トリオ・エマヌエレ 2 世を記念する建造物で , ベネチア広 場を圧してそびえている。半円形の回廊を背景に、勝利の 拠神や群臣の像を配した台の上に立つ騎馬像が同工である 「すべての道はローマに通する」といわれる 現在のローマ市街は多くこの時代に骨格が形成 シヨノヾン - ・イン・ラテラノ , ・サンティ・コス とおり , 道路建設は世界征服を . ますローマに マ・エ・ダミアノ , サンタ・プラッセデなどの されたもので , とくにノヾンテオンやナポナ広場 とっては必須の事業であったが , ローマから南 諸聖堂が中世初めの遺構としていすれも重要な のあるカンボ・マルチオの一帯はこの時代の濃 およそ 7 krn の間に , そのもっとも重要な道路の 存在である。 いおもかげを伝えている。市街の各所にみられ ーっであったアッピア街道が当時のおもかげを 中世半ば以後のものでは , サン・クレメンテ , る噴水にもこのころのものが多く , ローマ市街 残している。 部には昔のままの石畳も残リ , に欠くことのできない景物となっている。アン サンタ・チェチリア・イン・トラステべレ , サ 両側には並木が続き , その間におびただしい墓 デルセンのく即興詩人〉で有名なトリトーネの ンタ・マリア・イン・トラステべレそのほか 石が立ち並んでいる。半日がかりの最適の放歩 うそっきの手は抜けなくなるという「真実のロ」 噴水やトレビの噴水など , おおよそ 30 近くもある。 コースである。静かな情景の中で , 堅い石畳の ローマ終着駅前のレププリカ ( ェセドラ ) 広場 で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン Y. をコッコッと歩くとき , くつの裏に直接感す の噴水は 19 世紀末の作品であるが , この広場に などがいすれもロマネスク風のめばしい聖堂で る抵抗感に , たれしも深い感慨を誘われすには 接してディオクレチアヌス帝 ( 在位 2 ~ 305 ) の ある。ルネサンスのものでは , ジャニコロの丘 おれないであろう。アッピア街道沿いには , ま 大浴場の遺跡が残り , のサン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂にあ 一音にはミケランジェロの た貴重なカタコンべの遺跡が豊富に残っている。 設計でサンタ・マリア・デリ・アンジェリとよ る小神殿 ( テンピエット ) がプラマンテの作とし 狭い坑道の両側に幾段にも墓室をしつらえ , そ ばれる聖堂になっており , 他の一部はテルメ国 て重要である。またバチカン宮殿のンスチナネし の坑道が網の目のように交錯し , また幾層にも 立博物館になっている。この博物館は , ギリシ 拝堂は , ミケランジェロのく最後の審判〉その 重なり合っている。所々に残るフレスコは初期 他のフレスコて飾られているカ , ミケランジ・エ ア , ローマの美術品の収集で世界的なものであ キリスト教の図像を示す貴重な遺品である。信 る。古代美術の収では , 口一マの源流とも ロの彫刻家としての造形力が , ここでは絵画に 仰のカの根強さには , これまたたれもが感銘を 姿をかりて圧倒的な魂のドラマを現出している。 なったエトルリアの遺をもつばら集めたビ 受けるであろう。 ノヾ . チカン宮殿には , そのほかラファ工ロの代表 ラ・ジュリア美術館 , カヒ。トリノの丘にあるカ 313 年コンスタンチヌス帝によって公認され 作である数々の壁画や , フラ・アンジェリコの ピトリノとコンセルノヾトリの両美術館 , ラテラ ると , キリスト教は地上に現われて一斉に花を 傑作などもみられる。ローマの思い出の中にい ネンセ美術館 , バチカン宮殿の美術館などがあ 咲かせることとなる。サンタ・マリア・マジョ つも美しいシルエ「 / トとなって浮かび上がるサ る。バチカン美術館は占代 ~ 中世 ~ 近代にわた ーレ聖堂は今も創建当初のバジリカ形式を残し ン・ヒ。工トロ聖堂の大ドームも , ミケランジェ る美術の収集で世界第 1 級の規模を誇っている。 ており , 「絵の聖書」といわれる壁面を飾るモ ロの構想になる大芸術であり , 同聖堂の他の大 ビラ・ポノレゲーゼの木立ちの中にあるポルゲー ザイクが美しい。その他 , サン・ノヾオロ・フォ 部分はバロック時代の造営であるが , なかでも ゼ美術館もとくに絵画に重要な作品を収集して リ・レ・ムラ , サン・ロレンツオ・フォリ・レ・ その前にひろがる柱廊で囲まれた大広場は , 設 いる。とにかく口一マには総数 2 ( ) にあまる美術 ムラ , サンタ・サビナ , サンタ・コスタンツア , 計者ベルニ ニの名を不朽にしている。そのほ 館があり , 全部について独れることなど , サンタニエーゼ , サンタ・プデンチアナ , サン・ か , ローマにはバロックの聖堂や建物が数多い。 ではとうていできない。 1 上左はサン・ジョノヾン ・イン・ラテラノ聖堂。 4 世紀に 建てられた , ローマ最古の聖堂の一つである。 1309 年まで ローマ法下がここに居住してカトリック世界に君臨した その後たびたび再建され今の建物は 17 世紀半ばのもの。屋 上の装飾は 1732 ~ 36 年にアレッサンドロ・ガリレイによっ てつくられた。上右はサンタンジェロ城。ノ、ドリアヌス帝 , マルクス・アウレリウスら諸帝が葬られている。なおオペ ラくトスカ > の終幕はサンタンジェロ勗甓で , 恋人力バラド ッシが処刑されたのち , トスカはこの城壁から身を投げる
写真のいちはん手前チッス門を東端とし , 遠景やや右手のセプチミウス・セウルス門を西端として「フ ォロ・ロマノがのぞまる。ローマ最古の集会広場で政治や裁判や商取引はこういうフォルムで行なわ れたセウ , ルス門の前面方りに境跡がある写真中央左の 3 本柱はカストルとポルックスの神殿跡 煙ド心朝ⅵを ・ロマノを中心 フォロ にしたローマの展望
ロポトミ 6 1 4 軍隊に対し , 軍役を一つの職とし つまり各種電子計算機 , 電子翻訳機 , によって , ほばイタリア全上を支配 司令官と私的に結びつく新しい軍隊 本を読む機械 , 声のタイプライタ , 下においた。ローマは征服した諸勢 を出現させたことになリ , その後の 数値制御工作機械といったいわば思 力と個別的に同盟条約を結び , 植民 歴史の展開に大きな影響を及は、した。 考する機械がロポットという概念の 市を要所に建設して , 巧妙なイタリ 前 90 ~ 前 88 年の同盟市戦争は , イタ 中核となるであろう。ロポットの語 ア支配の組織を作りあげた。征服が リアの同盟市がローマ市民権を与・え 源は , ポヘミアの劇作家カレル・チ 進展する間に , 平民は貴族に身分闘 られないことに対する不満から起き ャベクが 1923 年に書いた . 風刺劇 <R 争をいどみ , しだいに地位を向上さ たもので , ローマはこの危機を切り U R(Rossum's Universal Robots せた。前 5 世紀前半に平民の権利を ロッサムの万能ロポット ) 〉の中にロ 抜けると , ローマ市民権を一挙にイ 守る護民官が設けられ , 半ばごろに ポットという人造労働者が登場した は最初の成文法であるく十二表法〉 タリア半島の全自由民に与・え , ー , に都市国家から領上国家への発展を が公布された。まもなく貴族と平民 のにはじまる。チェクの古語 rob it 踏み出す。その後閥族派 ( オプチマ ( 働く ) をもじったものであり , robota との通婚の禁止が解除され , 前 367 ( 農収制下の「労役」 ) とも関連がある。 年のリキニウス・セクスチウス法で テス ) のスラが政権を握り , マリウス 〔奧田〕 らの民衆派 ( ポプラレス ) との党争に コンスルのうちの 1 名は平民から出 lobotomy 精神障害 ロポトミ ることになり , また公有地占有額を 勝ち , きびしく反対派を処断した。 に対する脳外科治療の一つ。 1936 年 制限して有力者の独占を防いだ。前 前 73 年南イタリアに剣収 ( グラジア E. モニツツ ( 1874 ~ 1955 ) により始め 287 年のホノレテンシウス法で平民会 トル ) の反乱が起こり , スノヾルタクス を通過した法案は元老院の承認の有 られた。標準的な術式は , 両側前頭 の指導下に一時は 9 万に達する勢力 部に穿芫孔し , 切離刀を脳実質内にさ 無にかかわらす全市民を拘束するも となり , 軍団に抵抗した。この反乱 し込み , 前頭葉と視床との繊維連絡 の鎮定に功を立てたクラッススとポ のとされた。こうして重装歩兵市民 を断っ方法であるが , 切離部位や切 団の間での民主化が達成された。 ンべイウスが政界に進出し , ポンペ 離法には多くの変法もある。ロポト 〔共和制中期〕イタリアを支配した イウスは前 67 年に異例の強大な権能 ローマは , 地中海世界の征服に乗り を与えられて海賊を討伐し , さらに ーの効果は , 手術によりひき起こ 東方に遠征してミトラダテスを滅ば される脱落症状としての人格変化 , 出した。西地中海に活躍していたカ すなわち周囲に対する関心の減少 , ノレタゴと戦って , 前 264 ~ 前 146 年の し , シリア王国を征服してこれを口 感情の単純平板化 , 欲動の減退など ーマの支配下においた。その後カエ 3 次にわたる / ポエニ戦争に勝利を サルが台頭し , 前 58 ~ 前 51 年知事と が , 原疾患の激しい症状と相殺する 収め , 東方ではイリリス人を討ち , してがリアに支配権を確立し , また ことにある。適応症としては , 刺激 マケドニアと 3 回戦ってこれを滅 : よ 的 , 攻撃的傾向をもってんかん , 爆 自己の財力と武力を養った。ポンペ し , シリアをたたいた 前 146 年に 発性の精神病質 , パラフレニーなど イウスは元老院の勢力と結んでカエ は東のコリントスと西のカルタゴを があげられるが , ときには術後効果 サルに対抗し , 両者は前 49 年武力抗 破壊し , 地中海上の対立者を一掃し のみられない例もある。近年の精神 争に突入した。勝利を収めたカエサ た。前 133 年ベルガモン王は国上を 病薬物治療の進歩に伴って , 過去の ローマに遺贈した。地中海世界の征 ルはさらに各地に転戦して天下を平 治療法となりつつある。 服が進展する間に , ローマ社会の様 定 , 前 44 年終身の独裁官となったが , 〔上出〕 相が変化してくる。重装歩兵市民団 共和制の伝統を守ろうとする元老院 ローマ Roma 月リ 8 一世紀ごろロ ーマ市から起こリ , 王政 , 共和制期 の中核をなす農民出身の兵士は , 多 派のプルーッスらのために暗殺され をへて , 地中海周辺に一大帝国を築 年の従軍のために離農するものが多 た。カエサルの音に下のアントニウス く , また征服によって多数の奴隸が いた古代国家。 とカエサルの養子のオクタウィアヌ 獲得され , 富裕なものが奴隸労働に スは初め敵対したが , やがて和解し , ローマの歴史 〔起原〕ローマの起原は前 8 世紀こ よる農牧を大規模に行なったので , レピドウスとともに「国家再建三人 委員」となり , 前 42 年プルーッスら 土地を兼併されるものが出て , 市民 ろにさかの 0 よる。インド・ヨーロッ パ語族に属するイタリア人の一派ラ を滅は、した。のちにレピドウスは失 団内の経済的不平等が進行した。海 テン人の , またその一派がテべレ河 外の領上は属州となり , そこから穀 脚し , オクタウィアヌスとアントニ 畔のローマの「七つの丘」に集落を作 物などが輸入され , イタリアでは主 ウスも決裂したが , 前 31 年アクチウ ムの海戦で勝敗は決し , 翌年アント ったことに始まる。初め原始的な王 として牧畜や果樹栽培を行なう大土 ニウスとエジプト女王クレオノヾトラ 地所有制 ( ラチフンジウム ) が発達し , 政が行なわれ , 伝説では前 753 年の 建国以来 7 代の王名が知られ , 初代 離農した市民は首都に集まり , は自殺し , エジプトはオクタウィア ノヾン・ ヌスの手に帰した。 100 年にわたる と見せ物を求める遊民と化した。ー のロムノレスや 6 代めのセルウイウス・ 内乱が終わるとともに , 地中海の周 トリウスが有名である。王名のなか うしてローマは征服の結果 , 広大な 辺は , すべてローマの支配下におか にはエトルリア系のものがみられ , 領地をいかにして統治するか , また 共和制の基礎をなしていた市民団の 末期の王はエトルリア人だったらし れた。 分解という事態の上でいかなる政治 〔元首制〕内乱の最後の勝利者とな い。前 6 世紀末 , 伝説では前 509 年 を展開すべきか , という課題に直面 ったオクタウィアヌスは , 前 27 年に に王政が倒れて共和制になる。 元老院からアウグスッス ( 尊厳者 , することになった。 〔共和制初期〕王政に代わって貴族 〔共和制末期〕前 133 年チベリウス・ 皇帝 ) の称号を受けた。彼はカエサ ヾトリキ ) が国政を運営し , 最高の グラックスが護民官となり , 有力者 ルの失敗にかんがみ , 元老院と共治 政務官として任期 1 年のコンスル 2 の占有する公有地の一部を没収して の形式をとったが , プロコンスル命 名が任命された。高官についたもの 自作農を創設し , 軍事力を再建しよ 令権や護民官職権によづて事実上は が元老院の終身議員となり , この機 うとしたが , 元老院の勢力に妨げら 帝王に異ならない権力をもち , 強固 関が政治の実権を握っていた。古く れて殺され , この改革の推進に努め な統治を行なった。君主制の実質を から民会の組織はあったが , 平民 た弟のカ・イウス・グラックスも同し ( プレプス ) の地位は低かった。ロー もちながら共和制の形式を重んした 前 107 年コンス . ル 彼の統治は元首制 ( プリンキパッス ) 運命をたどった。 マは近隣諸族と戦って中部イタリア となったマリウスは , 志願兵を募っ で頭角を現わし , さらに北部のエト とよばれており , このような形で帝 て外敵にあたったが , これは , 一定 ルリア人 , 中部のラテン人 , サムニ 政が始まったところにローマ史の特 の財産を有し自力で武装できる市民 ウム人 , 南部のギリシア人を次々に 色がある。彼は行政 , 財政 , 軍制を が義務として参集した在来のローマ 破り , タレンツム市の攻略 ( 前 272 ) 整備し , また元老院議員 , 騎士 , 平
コンスタンチヌス門より右手 / くラチヌスの丘をのぞむ 上コンスタンチヌスー世がミルウイウス橋にマクセンチウス を破った記念門。ローマ帝国がキリスト教世界の一員にはいる 預言の門でもあるかのように立っている。下左前ページてカ ストルとホルックスの神殿後方右寄りに 2 本柱の側面が見える のがこれである。ーこにローマの国庫があった。下右現存す る古代唯一の騎馬像である。ルネサンスの騎馬像が勇者のそれ であるとすれば , これは民衆に呼びかける哲学者のそれである サトウルヌス神殿 , 土台は前 42 年 , 柱は 4 世紀 カンビドリオ広場に立つマルクス・アウレリウス騎馬像、 2 世紀 2 ローマ
ミンゾクプ ー東ゴート 西ゴート / 、ンダノレ ー班盟プルグント “・・・・・ロンノくノレジア アングル , サクソン , ー・フランク 1 8 4 ーマ人やローマ教会と親密な関係を 民族大移動の経路 維持し , しだいに拡大して , 8 世紀 末のカール大帝のときには西欧の大 部分を統一し , 民族大移動の混乱は いちおう , こにおさまった。民族大 移動は西洋の古典古代と中世を画す る大事件である。しかしこれを野蛮 なゲルマン人がローマ帝国を滅は、し , その高い文化を破壊し去り , 中世の 暗黒時代が始まったと考えてはなら ない。すでに民族大移動のはしまる 以前から , ローマ帝国は内部的原因 から没落しつつあり , その文化も変 質しつつあった。侵入したゲルマン 人もいたすらに破壊だけを事とした わけではなかった。ローマ的なもの を尊重し , その保持につとめた場合 も多かった。民族大移動は , むしろ , ' スハ すでにその歴史的使命を終わって没 主要なゲルマン諸民族の 王国 落しつつあったローマに代わって , ゲルマン人が新しい歴史のにない手 移動の経路と建国地 の 後の経 そ として登場し , ローマ文化の伝統を 受け継ぎ , それにみずからの若々し はしめフンに服属し , 次い い生命 , 要素をつぎ込み「ローマ風 , ビサンチン皇帝ュスチニアヌス でビサンチンに服してドナ ゲルマン風文化」として発展させた ウ中流に移り , テオドリッ の軍に滅は、される 事件と考えるべきであろう。〔青山〕 クエの下でイタリアに建国 みんぞくぶよう民族舞踊民衆 ビサンチンに移ったのち , の生活の中から伝承されてきた踊り。 イタリアにはいってローマ 各民族の習慣 , 労働 , 儀式などによ 市を荒らし , 次いでイベリ って , さまざまな形がある。各地に ア半島にはいって建国 固有の踊りが残るほか , 失われてし ドナウ中流域よりガリア , まったもの , 普遍化とともに変質し イベリア半島をへて北アフ ビサンチン皇帝ュスチニアヌス て / 社交ダンス化されたものもある リカに渡り , カルタゴの故 の軍に滅は、される ( ワルツやルンバなど ) 。舞台芸術と 地を中心に建国 しての踊りと異なるところは , その 多くが郷上性とのつながりをもって ライン中流域に建国したの 東ドイツ地方 フランクのために滅は、される プルグント 記録の方法ももたす , だれが おり , ちガリア中東部に移リ建国 振り付けたかということは問題にな フランクのカール大帝の軍に滅 パンノニア地方に移ったの オーデル川上 らない , 特定の人によって常時踊ら ち北イタリアに侵入し建国 流地方 は、される れるものではない , 見る人を対象と 9 世紀に統一王国ができるが , 工ルべ川下流 , しない , 民族衣装をつけることなど プリタニアに渡って七王国 1066 年ノルマンジー公ウィリア 6 世紀 ~ 1 ( ) 66 ュトランド半 をあげることができる。踊りの型は , を建国 島地方 ムに征服される 地方や踊りの種類によリ , 輪舞 , 方 しだいに拡大して 8 世紀に西欧 形舞 , 列舞などや , これらの混合した ライン川中ド 原住地を保ちながら北がリ アに拡大して建国 を統一し 9 世紀に 3 分 流の東岸地方 もの , 対舞 , 独舞などさまざまであ る。技法は , 集団性が強いから単純 マ帝国の国境付近はしだいにゲルマ であるが , マイムや只卩興劇のはいる かしその進撃は 451 年 / カタラウヌ ン化した。 4 世紀後半 , アジアの遊 ムの戦いでくいとめられ , まもなく ものも多く , しばしば民族楽器や歌 牧民族フンが , 黒海の北岸から西進 の伴奏が加わる。メヌエットのよう 彼も死んだのでその帝国は崩壊した してくると , ゲルマン民族の中でい こうした混乱の中にローマ帝国は東 に本来は農民の踊りであったものが , ちばん東部にいた / 東ゴート族はこ 西に分裂し , 西口一マ帝国は 4 76 年 宮廷文化にとリ入れられて , 社交化 れに服属したが , / 西ゴート族はフ 滅亡した。ゲルマン諸族は西口一マ したものは民族舞踊とはいえぬが , ンを避けてドナウ川を渡ってローマ 帝国の各地に移動をくりかえした。 反対にナポリのタランテラや同しイ 帝国内に移動した。 37 5 年のことで , この移動は単なる戦士団の武力的侵 タリアのフリウリのフルラーナのよ 入ではなく , 家族 , 家畜 , 奴隷など これが民族大移動の発端となった。 うに本来宮廷ダンスであったものが , を伴う家族ぐるみ , 部族ぐるみの移 西ゴートは帝国の東部を荒らしたの 民衆の習俗に化したものは , 民族舞 で , 西方ライン川の国境を守ってい 動であった。その結果 , 彼らは部族 踊の分野に含まれる。 たローマの守備隊は東方に移った ごとに王国を建設したが , そのおも 1 ) 宗教と踊り祭りの日に行なわれ そのため西方の防備が手薄になり , なものを簡単に表示すると上の表の る儀式的踊りは民族舞踊の中でもも この方面のゲルマン諸族もあいつい っとも大きな要素を占めている。自 とおりである。これらのゲルマン諸 然民族の間では , 祭壇または火のま でライン川を越えて侵入し , 2 世紀 王国は , フランクを除いてはいずれ わりをめぐって踊ることが多い。動 間にわたる混乱と動揺の時代がはし も短命で , 2()0 ~ 30() 年の生命を保っ ただけで滅びるものが多かった。 / フ 物の踊りや労働の踊りなども , 宗教 まった。 5 世紀にはいり , フン族の 的儀礼と結びつく場合が多い。欧州 首長アッチラは , フン族および服属 ランク王国はいちはやくキリスト教 したゲルマン諸族をあわせてさらに 各地に残る五月祭 ( 5 月 1 日 ) の踊り , の正統派であるアタナシウス派に改 西進を続け , 大帝国をつくった。し 宗したという事情もあったため , ロ メーポール・タ、、ンスといわれるもの 2 Ⅳ 0 ソフ 、ン ルグント / い ヾ、つか マ」 王国の 存続期間 王国名 ( 部族名 ) 原 住 地 黒海北岸 ト 493 ~ 555 サラセン軍のために滅は、される 419 ~ 711 ト ドナウ北岸 コ。 ポヘミア地方 ン ダル 429 ~ 534 443 ~ 534 568 ~ 774 ロンノヾノレ ) フ ' アングノレ , サ 481 ~ ン ク フ